蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

年の暮れ、目前

2022-12-30 | 日々のこと
夫方の実家に来ている。
12月30.31.1月1.2.3と、年末年始。
息子が12月31日の夜半から1月1日の昼まで実家に滞在できるので、帰省しようという方向性でいる、とLINEがあった。

海の向こうの(国内ではあるが)ほぼ、海外のようなところから、往復2日かけて、たった半日のために、無理して帰ってこなくていいよ、とLINE返信した。

息子にとっての姉妹、義兄弟、甥、姪たちがわんさか集まっている日時ならともかく、大晦日から元旦にかけては、我々(両親)のみ。
やんわり断り、また時間にもう少し余裕のある時に返って来たら?と返事しておいた。
1月2日3日は、仕事らしい。
またまた、家庭持ちの皆んなが引き受けたくない日時を引き受けたようだ。
いかにも息子らしい。
仕事優先の生活を送っているのがよくわかる。
正月には帰省しようと、気にかけてくれただけでも嬉しい。

いずれ、我々がヨタヨタヨレヨレになった頃、子供たちも定年を迎えて余裕が出来たら顔を見せてくれたらいい。
介護してほしい、とは全く望んでいない。

夫の実家で、夫と2人だけの静かな年末年始。
別々の部屋で別々のTVを観る予定。
娘たちは、自分の配偶者(=夫)の(遠く離れた)親元(嫁ぎ先)に年末から年始にかけて行く。
子供がまだ小さいから、わあわあガヤガヤして、あちらのご両親や親族たちとシラケる暇はないだろう。
娘婿のご両親は、日頃の静かな暮らしに、ドタバタ息子夫婦が大勢、孫連れで、やって来て万歳、帰って万歳だろう。
帰った後の万歳は、来た時の数倍、力一杯、ビッグスマイルでバンザ〜イ!!をしておられることだろう。

娘たちは娘婿の実家から今度は自分の実家(=父方の実家)に移り、集まる。
ドタバタドタバタ、年末年始の、恒例の民族大移動。
今は嵐の前の静けさ。
買い物は済ませてあるので、明日は代々伝わるお節料理(めちゃくちゃ粗食)や迎春設え準備にかかる。
今まで紅白歌合戦をゆっくり落ち着いて見たことがなかったが、今年は見られそうだ。
が、お正月が明けると、ドタバタが始まる。

これは、かなり濃厚な幸せの縮図である。

暗くなってきた。
寒いし、もう寝ようかと思っている。(まだ夕方!)
せめて、昨夜からの二夜連続NHKドラマ(松本清張)を見ようか?
田舎は寒いから21時まで待つのは苦行だ、、、。
と思っていたら、さすがに夫が手の先が凍えるような寒さに耐えられず、エアコンをつけた。
平和な我慢比べ。

あらま、よく見ると1部屋に2台もつけている、、、(南側と北側、空間を2方向から挟んでサンドイッチ状態)



「Dr.コトー診療所」を初めて観た

2022-12-29 | 映画
年末。
残すところ、あと少し。

映画「Dr.コトー診療所」を観た。
とても楽しみにしているというブログ記事(ブログ村エッセイ)を読んで、わたしも観てみたいとは思っていた。
映画は、観る人の置かれた位置や環境、状態、感性によって、感じ方はそれぞれ異なる。
感想とは、そういうものなので、真剣に観ている人にとっては、けしからん!と思われる可能性がある。
書かなければよい、読まなければよい、という話になるが、そうなると、何も書けない、何も読めない。


さて、本題へ。
TVドラマの続きらしいが、わたしはドラマは全く観ていなかった。
2003年からの長い間に培われたファンの想いはあるだろう。
2003.2004.2006とTV放映され16年後に再復帰。
当時の子役がそのまま(一旦、俳優を廃業しているにもかかわらず)特別に出演している。

美しい離島の自然に心洗われた。
涙はたっぷり。いっぱい溢れ出たのだが、、、。
どうも、作り込み過ぎの部分を感じる。
不自然なストーリー展開がある。
(※前編シリーズをいっさい観ていないし、内容を全然知らないから理解できないのは自然の成り行きだと感じる)
大筋の、訴えたいことは、よくわかるのだが。

離島に大学から研修?で来た、大病院の息子にキンプリ(アイドルグループ)の目がぱっちり大きい男性(高橋海人)が演じていた。
演技力、○(丸=good)。
堺雅人は、ちょっと演技を作り過ぎか?
なぜあんなに力む?
もう少し自然に演じられないのか?
監督希望が、ああいうキャラ設定?
(※前作からのあらすじからすると、ああいう演技になるようだ)

オペのシーンはやたら長くて、なんだか演出っぽく、かえってリアリティが無くて、苦笑した。
やたら長けば良いというものではない。
が、一生懸命、熱意、気合い、集中力、入魂ぶりを表現したかったんだろう。
(※前作からの流れからすると、ああなると推測できる)

他には、ほんのちょっとだけわずかに顔を出す有名俳優がいて、友情出演かしら?と思ったり。
(撮影時間はほんの短時間に思える。俳優個人として忙しくて撮影時間が取れないのかなと。
あるいは、今回作品トータル時間から配した時間配分バランス?
※これまた前作からすると、あれで十分のようだ)
久しぶりに見る懐かしい顔ぶれの俳優さんたちに、皆んな歳を取ったなあと感慨深い。
(※前作からすると、あの時間の経過も作品の味を重厚にしている効果があると推測)

美しい大自然に対して、はらはらと涙が流れたが、
他は何だか、これでもか!これで伝わらないはずがないよね!というぐらい、作り手側の意図が見えて見えて、そこまで表現しなくてもわかりますって、、、と尻込みしたくなるシーンが多かった。
さりげなくカメラを回す方法ではない。
圧苦しく感じた。
(※何度も何度も追加注釈を加えるのはヘキヘキだが、なんといっても一回もこの話、観たことも読んだこともない、予備知識ゼロ状態で初めて観るのだから、仕方ない)

自然の風景だけでも、十分満足した。
あとのガチャガチャしたものは、付録。
お祭り騒ぎ的な賑やかなのはメリハリとしても。(※総合最終回だから出演者全員が登場するのは、避けられない。
ミュージカルや演劇でも最後はキャスト全員が舞台に一堂に上がる)
僻地医療の抱える問題点は、よくよくわかる。
さらっと、キンプリイケメンがセリフで言っていた。
「これが現状、限界なんですよ」と。

わたしも自然の風景に感動する歳になった。
自然の中で生きることの素晴らしさ、大変さに、じーんと来る。

※しかし、せっかくの清らかな涙が、後から仕入れたインターネット情報のせいで、記事としてはぐちゃぐちゃになった。
解説は時として逆効果をもたらす。
思い入れたっぷりの最終回を観て感動されている方々、余韻を楽しんでるおられる方々を不快にさせるだろうし、書かなきゃよかった。
論点が同時に複数混在すると、ぼけぼけになる。

【追記】
実際の医療現場での諸問題や、医療を支え対応するには大変な尽力を必要としている。
尊敬と感謝と労い。頭が下がる思い。
が、個人の労力、精神力、、、その負担は個人枠では収まりきらない、、、奉仕を明らかに超えた、個人の犠牲の上に成り立つ医療。
描き方がどうとか、カメラアングルがああとか、そういった表現の世界とは別次元である。









明暗

2022-12-26 | 思い出
小学校高学年での担任Y先生。
義務教育なのに、スパルタ教育。
クラスで結果はハッキリ出た。
2組あるクラスのうち、わたしのクラス、Y先生組の難関私学合格率はもうひと組を遥かに上回っていた。
まるで私立の塾のようだった。
巻き添えになった一般生徒は、苦しかった。
なぜなら、モチベーションもないのに、無理やり一緒に引っ張られて行ったからだ。
トップクラスに照準を合わせて授業を進められると、普通の生徒はどうなるか?
落ちこぼれるか、バテる。
さらに、トップクラスの生徒は(後の想像だが)難関校向けの塾にも行っていたのではなかろうか。
ダブルワーク。
そんな生徒と同じトラックを走らされたのでは、かなわない。
無茶である。
ほのぼのしていた小学生が、いきなり勉強地獄に放り込まれた。
しかも、母親との個人面談では、「お母さん、ご家庭でもっと勉強させてください」とY先生に圧をかけられた。
家庭は父の病気で大変な時期だったこともあるし、わたしまで手が回らなく、母は、全然先生の言うことを馬耳東風で、わたしには手をかけなかったが。
定期的に出される大量の課題が迫ってくる中、家庭でのサポートなし、現場(学校)での圧力に押しつぶされそうになった、、、が、タフなのか鈍感なのか、なぜかこころは潰れなかった。

その時の級友やら、その後の級友やらは、わたしとは全く接点のない世界で活躍している。
とても誇らしい気持ちになり、応援している。
が、私事であるような、ないような、自分とは違う属性の他人なのに変に近い、不思議なものでも見るようだ。
距離感を掴みにくくなる。
自慢したとすると、自分のこと、偉業ではないので、みっともないだけだ。恥ずかしい。

たまたま一定期間、同じクラスにいただけのご縁。しかも小学生高学年。
とは言え、あの年齢で、ほぼほぼ人生のコースは決まりつつあった生徒が多かった。
小学校の同窓会は今まで一度たりとも行われなかった。
言い出しっぺ的存在がいなかったのだろう。
あのクラスではねえ、、、
女子も男子も飛び抜けて素晴らしい頭脳の持ち主が揃っていた。
が、明暗がはっきり別れ、中には、隙間に染み込み埋没する生徒もいたが、卒業以来、一度も顔を見たことがない。
嫌だったんだろなあ、きっと。





安泰は、買うもの?

2022-12-24 | 人生
何故、ワクワクを箇条書きにする気がしないのか。
過去にワクワクしても、今はワクワクしない。
過去に燃焼したと思われる。
もし燃焼できず、燻り続けているなら、その続きをすればよい。
続けられない理由があったなら、今も尚あるなら、執着せず断念するほうが幸せへの近道。
道を変更する。

もうワクワクする情熱が枯渇しているなら、仏門にでも入るとよい。
ただし、人に強制的に教義を押し付けることなく、静かに自分だけが実践するとよい。
価値観の押し付けほど、圧苦しくウザイものはない。
自分のこれから行く道への架け橋にもなるだろう。
こころは落ち着く。
ヒマも潰れる。
有り余るヒマは、黙想で潰すとよい?
黙想の定義を取り間違えている感があるが、自分で自分を幸せに導くならそれでもよい。
瞑想?迷想?迷走?

姑は、読経しながら、最後あたりは晩御飯のおかずを考えていたという。
ミックスナッツ、なんだってよいのだ。

お経を読むのは実に省エネである。
覚えていれば、経本も紙もペンもスマホも電力も照明も、何にも要らない。
できれば暑くも寒くも無い、快適な気温が望ましい。
声がでなくなれば、こころで唱えるのもよい。

しかし、それをするには、お経、覚えなければならない。
ちなみに、夫も舅も仏教行事を行うのに、お経を知らない。
お坊さんやお墓に大金を投じても、お経を自分で唱えない。知らないから仕方ない?
頭脳明晰な2人、覚えられないはずがない。
その気がない。
自分の仕事ではないと思っている?
分業システム?
代行、アウトソーシング?
こころの中で唱えているようにも思えない。
本人がそれでよければ何の問題もない。
食事作りをはじめとする家事を絶対しないのと同じ脳構造だと思う。
家にまつわることは、女性がするものだと思っている。決めつけている。
(舅は、掃除や整理整頓、片付け、庭掃除、DIYがらみ、冠婚葬祭の管理もしていたが。
助かるのではあるが、片付けや食事準備を急かされたり、やろうとしていることに口出しされたりするデメリットがある
家庭の中できちんと分業されていた。
もちろん経済も握っていた。
舅亡き後は、経済面では厳しい舅に変わって甘い息子にバトンタッチされ、姑はこの世の春を謳歌していた。

話が逸れている。
相も変わらず。

門前の小僧、お経を読む。
知らず知らずに身に付く、身に染みる。
宗教はこころを鎮めるには良い。
ただし、無理強いは許されない。
教義も、尋常じゃないものはNG。
しかし、信仰する宗教が個人間で異なると価値観が違ってきたりして、ややこしい。
信仰の自由は憲法でも保障されている?
離婚原因として、「宗教の違い」は認められる判例が多い。
昔から深く考えたこともなく、見直したこともなく、家で代々受け継がれてきた宗教。
保守、現状維持派としては突き詰めないものなのかも知れない。
歳を取って、何もすることがなくなった時、何も出来なくなった時には、良い暇つぶしになるだろう。
1日1分の御呪い(おまじない)(読経)でご利益があるなら。
あと、年数回の宗教行事と、何年かに一度の法要。
坊さんには、年会費と、都度払いのお金を払う。
これで維持できる、、、んだとか。
結構なことだ。
安泰をお金で買う。
誰も文句はない(はず)。
坊さんも信者も。
嫌なら辞めたら良い、抜けたら良い。
そう簡単に行かないところに落とし穴が潜んでいる。
社会は理屈では説明出来ない事柄が入り混じり込み、色々複雑に絡んでいる。

長々と記事を読んでくださった方、、、
で、結論は何?何が言いたい?と、なる。
はあ、、、すみません。
肯定したり否定したり。
答えは各自の胸の中にある。
自分の答えを見出せない人や、ころころ変わる人もいる。
矛盾で成り立っていることがある。

もやもやした場合は、各自、自問自答してください。
が、すきっと解決できたら、宗教と警察は要らない。

とりあえず、膨大な暇は潰せたはず。
シャカリキに闇雲にガムシャラに頑張っても、システマチックに合理的に頑張っても、近道でも遠回りでも、持ち時間の長さは同じ。

「人生は死ぬまでの時間潰し」。
わたしの小学4年〜6年までの担任のY先生が当時そう言っていた。





ワクワクを箇条書きに?

2022-12-23 | 人生
読んでいた本をやっと完読した。
わたしは読書も遅い、のろのろだ。
で、その中で、最後あたりに著者が言いたかったこと。

自分の生き方について。
やりたいことが出来る、毎日サンデーの特権を手に入れたなら、、、
膨大な時間を持て余すのはあまりにももったいない。
やりたいことをやるにも何をやるか定まらない場合は、、、
脳を萎縮させないためにも、子供心に戻って自分がかつてワクワクしたことを書き出してみよう、とのこと。

で、ふと思った。
子供の頃、ワクワクしたことなんかあったかな、と。
秘密基地だの虫取りだの、電車が大好き!だとか、別に無い。
うんと小さい時は、あったかも知れない。
強いて言えば、お花畑だとか、お花でおままごとだとか。
が、、、。
おかあさんごっこのお花を使ってお料理遊びなんか、実際に大人になったら食事作りは苦行。
ワクワクなんて程遠い。
ボルテージの低い、低温の可愛げのない子供だったようだ。

青春時代にワクワクしたことは、青春時代だからこそのスイタホレタ恋愛もどきだし。
女性的若さも情熱もエネルギーも魅力もなくなった今となれば、ないモノねだり。
(あくまでもピーク過去との比較)
渇望すればするほど満足や幸せから遠のく。
諦観あるのみ。
輝きのピークに子供を産み育て、今は空の巣症候群か?というわけでもない。
そんなに頑張らなかった。
毎日、生活に追われていただけだ。

時間がたっぷり出来たら、何がしたかったんだろう?
こじんまり日常の生活で満足を得ている今としては、別にやりたいことを箇条書きにするようなことはない。
マチュピチュにもあまり行きたくなくなった。(先日の現地ストで)

知人を見る限り、あんまり、あまりある時間を謳歌している人はいない。
時間がない時からそうだったが。
皆さん、何をするでもない、(わたしにとっては)じつにつまらない生活を送っている。
わたしは、限られた特殊な趣味の面だけで接しているため、その人のその他の面は面白いと感じない。
(例外もある)

しかし、いろんな経験をした上で、別にもういいか、となるならまだしも、経験そのものをしたことがない人が少なからず周りにいる。
なので話が合わないため、その分野の話はしないようにする。
それはお互い様かも知れないが。
興味があることが合わない。
面白みのある人は、実際に身近にいない。
(いたとしても、近寄るには熱くて敬遠する)
著書やブログで知るのみ。
ひょっとすると、実生活では積極的に青い鳥を探して活動してないのかも知れない。

まあ何しろ、自分がワクワクしたことを思い出して書き出す行為、、、頭の中で考えてみるが、思いつかない。
こんなことでは、わたしは幸せ指数が高いのだろうか?

無理やり思い出そうとしても、大人になってからの方が楽しかったかも?
やっぱりわたしは、子供時代はさほど楽しくなかったように思う。
物質的には恵まれた家庭環境ではあったが、どうも偏りがあったと感じる。
が、誰でも彼でも満足いく家庭環境など、望む方が厚かましいようにも思う。
何ごとも完璧はない。
自分が育った家庭は、子供である自分では親を替えるわけにもいかずどうしようもないので(例外的な親なら行政が手助けしてくれるだろうけれど)、家から出て独立してから自分の理想に向けて努力すればよい。
のではあるが、努力したかなあ、、、?
理想なんて追求できるほど余裕はなかった。
毎日が精一杯だった。

今は余裕が生まれたものの、子供たちは独立し、残されたのは年寄り二人のみ。
とは言え、まだ走り続けている。

立ち止まっても、箇条書きにするほどのワクワクしたことを大して何も思い出せない。
かといって、全力でフル稼働もしていない。
過去と未来の狭間にある、正に「今」がある。
凪状態?


挫折体験

2022-12-22 | わたし
成功体験、挫折体験、、、いろいろあるだろう。
成功体験を積んでいる人にも落とし穴があるらしい。
自分を信じすぎて、間違った方向に進んでいても軌道修正しない。
大きな失敗へと導かれることがある。

さて。
わたしは挫折体験だらけ。
根性なし。
苦しいのに無理やり頑張らされたのは小学校高学年の頃。
父が重い病気になり、家庭でも重苦しい雰囲気が満ちていたし、学校でも担任のY先生が(義務教育であるにも拘らず)クラスの生徒全員にスパルタ教育を強いていた。
パワハラもどき色合いもあり、今なら登校拒否だろうけれど、時代のせいもあり、わたしはタフだった。

無理やり羽交締めにされ(→誇張表現)、大の苦手の勉強をさせられ(→被害者意識)、苦しい自覚はあったものの成績が上昇した自覚もなかった。
が、結果的には成績は上がったようだ。
にもかかわらず、喜びはなかった。
自覚しないままの、周りからの評価に納得が行かなかった。
義務教育学生時代の苦難、これは乗り越えた経験の一つになるのだろうか?

首の皮一枚で繋がったギリギリセーフな苦い思いだけであり、もう二度としたくない、関わりたくないと思ってしまった。
やはり、人間の特性には向き不向きがある。
とはいえ、当時の鵜飼いの鵜のように無理やり詰め込まれた学業は、その後、一生、わたしを下支え(あくまでも義務教育範囲内で)してくれることになるなら、良しとしよう。

学業の次の苦難は、婚活。
その次は、仕事。
仕事で直面した苦しさに、ある日、突然、舞台を降りた。
挫折とは違う。
経年劣化のような、経年摩耗、金属疲労のような、大して負荷もかけないのに、ポキっと折れた。
風に吹かれて突如散って消滅してしまうような。
家庭も子供も自分のやりたい仕事のために後回しにした、当時、そのセルフィッシュな情熱の全てを捧げていたことなのに。
いっぱいいっぱいになったのか。
もういい、と見限ったのか。
決して燃焼し尽くしたというような納得のいく濃いものではない。
あっさりしていた。すっと手を離した。
憑き物が落ちるように。
やるだけやったから、もういい、というかんじか。いや、そんな風でもない。
やはり、モチベーションが無くなると動かなくなる。
苦しくても辛くても自分を鼓舞するものは何か?
崇めていた神、信仰していた確固なるものが、戦後の価値観崩壊のように、ガラガラと崩れて跡形もなく無くなった。
なんだろうね、あれ。
家族を養っているわけではないので、経済的義務感はない。
いっそ義務感があるほうが、負荷がかかり正当化しやすい。
自由なのに自分を追い込むのは、パワー、熱量が要る。

そう懐古すると、、、
リタイア後の余生は、、、
健康、経済、モチベーションか。
中でも「モチベーション」は実態として測れないし比べられないから掴みにくいかも知れない。
生き甲斐や満足度は、豊かな国より、そうでない国のほうが高いとされている。
書き始めると、膨大な内容になり、まとまりなくキリがない。
一生懸命書いて、ああ、いい汗かいて、いい調子、、、ということもない。

・・・・・

誰も楽しくならない内容になってしまった。




無理しない

2022-12-21 | わたし
知人の娘婿。
「僕、食べる人」なんだそうだ。
家事はしない様子。
夫婦でお互いが納得していれば、外野は全く出る幕はない。
その娘婿は、わたしの娘婿とほぼほぼ同年代。
娘さん(奥さん)も、働いていて夫婦共働き。
わたしの舅世代ならいざ知らず、若いにも関わらず、世の中には色んな夫婦がいるのだなあと驚く。
他人の家庭なので全く関与しないが、びっくりするのみ。
ひょっとして、家事の中で食事作りだけが妻の役割分担で、その他全てを夫がやっているのかも。
赤の他人、すこぶるどうでもいい話。
ただ、全くわたしとは何の関係もないが、なんとなく嫌な気持ちになった。

知人自体も、何かと、あまりよくわかっていないで話をする人なので、益々、深く話を進める気にならない。
話題はお天気の話で良いのかも。
最近、その知人の嫌な面ばかりが目につくようになった。
だが、わたしに原因があるのかも知れない。

嫌われる勇気がなかったとでもいうのか、嫌われることを避け、わたしは自分の気持ちそのままを出さなかった。
だが、最近、自分の意見や感想を言い、したいようにする傾向にある。
「何でも受け入れて聞いてくれ賛同する人」をやめた。
それで、嫌われて知人が去って行ってもよいと思った。
無理して頑張って仲良くする必要を感じない。
今まで嫌な面も我慢していたが、我慢するデメリットはあってもメリットがない。
わたしが変わったのだが、相手にしてみれば、わたしに今までと違う態度、行動を取られ面食らっていると思う。
相手に責任はなく、わたしが我慢するのをやめただけ。
気の毒だろうか。

昔から長らく知っている知人なのに、わたしにとって大事ではなくなったということか。
わたしの人生スタンスが変わってしまった。
悪いわねえ。
モノは断捨離できないくせに、人は抵抗なく断捨離できる。
これからはシンプルに。
無理してまで、合わさないことにした。
年賀状辞退のように、長年の慣習を継続するか辞めるか、自分に関わることを見直そうという時期なのだろうか。

姑が亡くなり、なんだか頭に載っていた人生の重圧がなくなったような気になった。
人の価値観に無理やり合わせていた。
が、合わせなくてよくなったら、目に見えるものが、ぐっと明るくなった。
自分の価値観を基準に、嫌なものは嫌!と拒否、拒絶することの気持ち良さに気づいた。
しかしなあ、、、人生のキーマンが姑であって、夫ではないところが、実に想定範囲内だ。
なぜなら、夫もやっとママ(姑)のマインドコントロールが解け始めたようなかんじなのだ。
姑という特定の人物に決め込むのではなく、古い価値観を擬人化してママ(姑)として表している。
二人共、古い価値観に囚われていた。
先に解放されたのは、わたし。
まだ夫は解放されてはいないが、ママ不在になり、やっとママにいちいちお伺いしなくても自分で考えるのでは?
(わたしにお伺いを立てているのは何故?)
二人共、順調に歳を取ったということだ。



馬耳東風

2022-12-20 | わたし
私信です。
NHK TVドラマ、見逃し配信のお知らせ、ありがとうございます。
(NHKプラスにもついでに仮登録しました)

さて。
いつも趣味関係で顔を合わせる人。
わたしが着ていく洋服を替える毎に、いつもマイナス反応。
その人の機嫌を取って、度々違う服を着ていかないように制限されるプレッシャーを感じて窮屈である。
わたし、なんか、あの人に服のことで迷惑かけた?
お金を出してもらったわけじゃなし、その人から貰った服を全く着ないわけじゃなし(貰ってないし)。
これがいくら、あれはいくら、どこどこで買ってねー、と自慢したわけじゃなし。
服やファッションの蘊蓄(うんちく)を語り出したら止まらないわけじゃなし。
人の服をけなすわけでもなし。
日頃、ワリカンにもせずセコくお金を出し惜しみしているわけでもなし。
 TPOに外れているわけではなし。

自分だけの世界で楽しんでいるのに、外に出ると皆さんから見える。
それを避けるには、家の中だけで色々な服を着れば良いのか。

マイナス反応は、色んな服に替えること、たくさん服を持っていることに限ってである。
似合う似合わない、良い悪い、快適そう窮屈そう、そんな質やデザインに関してではない。
菅田将暉がヘアスタイルをころころ替える度に、ああまた?というのと共通するものがある?
ヘアスタイルの良し悪しではなく、その変化の頻度。

しかし、、、
今までの人生の中で、必ずそういう人はいる。
赤の他人の見ず知らずの人にも言われたことがある。
よほど気に入らないのだろう。
しかし、口に出さずにはおれないのか。ほっといておけないか。
本人はさして何も思わず、思ったまま口に出るのだろうが、言われる側は、本当に鬱陶しい。不快、極まりない。
痰が喉に詰まって、吐き出さずにはいられない感じだとしても、道路に吐き出す人、よほど重病で一大事でもない限り、吐き出される側の気持ちを察する余裕はないのか。

そりゃあ、裸で出歩くのは風邪を引くし、犯罪だし、そんなアホなことをしたいとは全く思わない。

自分軸で行動したいので、馬耳東風で行く。
あなたのために生きているのではなく、わたしは自分のために生きている。



ダサい

2022-12-18 | わたし
わたしはプライドが高いそうだ。
褒められているとは思えない。
面と向かってそう言われるというのは、いかがなるものか?
ケンカしたり、気分を害して、捨て台詞で言われたわけではない。
ビールジョッキ片手に唐揚げなどを食べ、談笑しながら言われた。
しかも5年以上お付き合いが続いている友達である。
(今はコロナ禍でビール談義は休止中)

わたしはブログでは再三再四、友達はいないと書き続けてきた。
それには嘘はない。
それは、なんでもかんでも話せる親友がいない、ということ。
わたしを理解し全て受け入れてくれる人がいない。
というか、そんな人は肉親にも、この世にもあの世にもいない。
いるとしたら、「神」?
が、わたしは、無神論者なので具体的な神はいない。
話せるのは自分だけ。
孤高とはさすがに言えないが、それは孤独と引き換えに手に入れるものだ。

相手と「点」で繋がる友達なら複数いる。
友達ではなく、、、うーん、、、何だろう?
よくわからないけれど。
知人?知り合い?
どこかに部分的な接点があり、その部分だけで接している。
それ以外の部分は合わなくてよい、合わなくて当然。
合わそうという気もない。
(必要に応じては合わせる。社会人として社会に生きている限り)
人には色んな面があり、多面体だから。


わたしは、プライドが高い。
本当のこと、真実を言われているのに、分野によっては、プンプンと気分を害する。
失礼ね、と。
仮に「服装がダサい」なんて実の娘に言われるとすると、100倍返しする用意がある。
「ダサい」の定義を述べよ、と詰め寄る。
あなたに人の服装センスをとやかく言う権利、資格、実証されたセンスはあるのか、と。
センスは人それぞれなのに、自分の感性を基準にするのはわかるが、評価するのは明らかにおかしい。
価値観の押し付けに他ならない。
ユニクロユーザーのセンスをこき下ろす人が仮にいたとして、その人のセンスが絶対だという保証、証拠、論拠はない。
そもそも、流行を作る側に立てば、まんまとユーザーが流行に乗ってきたら、自分の手柄を満喫するだろう。
今年のトレンドは、コレ!
カラーは、アレ!
全く時代の波には馬耳東風の変人スタイルは、先駆者でカッコイイ人はカッコイイが、カッコ悪い人はとてつもなくカッコ悪い。
特にファッションは。

パリでファッション美術館のような所を訪れたことがある。
あまりにも普通で、面白かった。
物事を極めるにあたり、何周かグルグル廻ると、元に戻るのだろうか。
ひょっとして、わたしが行きたかった美術館を間違えて別の博物館に行ったのかも知れない。
わたしは、とんでもなく著しく間違えることがある。
ゼロと1しかなくて、真ん中がない疑いがある。

まあそれは良いとして。
わたしのゼロと、わたしの1に合わせてくれる人はほぼいない。


恋愛未満

2022-12-17 | 思い出
わたしは、努力してそうなったわけではないのだが、たまたま結果的に、ドロドロ沼にはまらない。

30代前半のある日。
語学研修という大義名分(笑ってしまう中身、実力)で、アメリカに単身、2週間滞在したことがある。
そこでは、日本語をシャットアウトするために日本人とは絶対に仲良しにはならないゾ!と固く決め、語学研修同級生との間にバリアを張っていた。
クラスでは誰とも話さず、ホームステイ先の女性と話していた。
授業は午前中に終わり、午後は周辺をうろうろ。日本人ではないようにも見えたようだ。
スーパーマーケットのコットン衣料などをちょこちょこ買ったりして、帰国時にはスーツケースの荷物は明らかに増えていた。

それは良いとして。
ホームステイ先の女性は独身キャリアウーマンだったため、どこかに連れて行ってもらうのは、週末だけ。
恋人の家や、家族で住むお友達の家でのパーティなどに、同行させてもらった。
それは良いとして。
研修クラスでは、後半になると、バリアに異変が起きた。
わたしが疲れてきたのか??

緊張の糸を張り続けられなくなったのか、よくわからないが、日本企業に在籍する、企業から研修に派遣されている日本人男性と言葉を交わすようになった。
アフターレッスンに、一緒に行動したりした。
急激な接近、展開ではなかった。
帰国後にも、グリーティングカードをもらった。
お互い、悪い印象は持っていなかった。
が、今思えば、明らかに行動や気持ちをセーブしていた。

わたしは、日本に残した家族のことを思って頑張って自制したわけではない。
自然体。
先方の男性もおそらく自然体だろう。
外国での一時のアバンチュールを楽しもうと思えば出来たのかも知れないが、そんなことは思いつかなかった。
相手も、企業から派遣された研修の身、日本での家族もある。
お互い、薄っすら、その先には何かがあったかも知れないが、二人の繋がりは淡い思い出として残った。
どちらかが、ほんの少しでも動くと何かが起こったとしても、その時のタイミングは、そういう時の縁ではなかった。
ああ、良かった。
ドロドロにならなくて。

情熱家の人や、日常を離れた異国での精神高揚から海外で知り合って結婚する人もいる。
お互い独身なら何の問題もない。
離婚して再婚したり、山あり谷ありの人もいる。
わたしには、自然体で、その道はない。
ドロドロは無意識に避けているのだろうか。
→ドロドロ回避本能。
が、偶然、ひょんなことでドロドロに、なんてこともない。

わたし自身に関する考察。
自分のエネルギーはプラスに向けて使う傾向にある。
仮にマイナス時期があったとしても、次のプラスに向けての逆噴射チャージ期。
飛び上がるために、身体を屈める(かがめる)、それと同じ。
あえてマイナスの海には飛び込まない。

ではブログは?
プラスでもないのに、延々とやっている。
これは駆け引きなしの、他からの見返りを求めない、たんなる趣味。
じつに、あっさりしている。