蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

修行が足りない

2020-10-31 | 日々のこと
夫の姉、いわゆる小姑。
とても良い人である。
ただし、世界中のどんな人にも言えるが、一定の距離は必要。
話の途中までしかホンネは話せないので、もどかしい。
先方もそうだとしたら、正しい距離の取り方である。

義姉は姑とは一卵性母娘と言われている人物なので、わたしにとってはある意味めんどくさい部分がある。
触らぬ神に祟りなし。

あんた(姑)がそんなのだから、夫はこんな風になったんだ!!
とは、姑が生きている間にもちろん言うわけもなく。
仮にぽろっと漏らしたとしたら、わたしのほうが、随分、後悔すること間違いなし。
ああよかった、と安堵する。

みなさん、ご自分の生きてきた軌跡を自分のモノサシで測って正しいと信じて今日まで来ている。
それを誰が否定など出来ようものか。
宇宙中の誰もが否定できない。
(どこのだれがどう見ても客観的に「悪」は、ダメ)

だが、判定が難しい事もある。
見方、立場によって考えは中立にはならない。


昨日は義姉と長女が仏事で同席していたが、待ち時間に3人でおしゃべりしていた。
わたしと義姉の考え方は一部、水と油であるが、立場が違う。
わたしは一歩引く。
鬱憤は溜まるが、まあその場が終わればあとは各人、自分の家に帰る。
帰りの車の中で長女に愚痴ったところ、長女は実に素晴らしいコメントをしてくれた。

「同じ出来事があっても、各人のフィルターがかかっている。
その場にいて見聞きした場合と、延々と聞かされていた場合では、受け取り方も違う」
確かに。その通り。
長女にカウンセラー料を支払いたいぐらいだ。

そして結論。
一家に主婦は2人いらない。
主婦はエライので、1人で十分。

主婦といっても色々。
世の中に出たこともない、出る必要もない、能力と環境のせいで出られなかった、逆に、出たくなかったのに出された、、、
なんでもいい、むしろ、どうでもいい。
自分の考え方を色んな角度から検証する必要がない人は、ある意味、羨ましい。
ただただ恨む、とか、ただただねじ伏せられる、とか、ただただ言うことを無理やりきく、とか、その逆で、強制的に人を自分の思い通りにさせる、だとか、それはそれでひとつの行動である。
だが、そういう人は、自分にも人にも、その二択しかないんだろうなあと感じる。
それはそれで、その人と、その人の周りが幸せに暮らしていたら、何の問題もないし、口を出す必要は全くない。

だが、一歩、その自分のテリトリー(家庭?)から出た時には通用しない。
実家なら通用するのかも知れないが。

人は人。
違っていて当然。
だが、当たり前だが、自分とは考えが一致しない他人に対して否定的ニュアンスを感じる義姉を見て、自分もそうなんだろうと思う。
人のふり見て我がふり直せ、となればいいが、人のふり見て非難する、なんてことはしたくないなあ、、、と。
自分も完璧ではないのだから、人にとやかく言えない。
だが、人も同様に完璧でないと思うのに、自分自身は完璧だ、なにがなんでも自分は正しいと思っている人に接するとムカつく。

ムカついているようでは、まだまだ修行が足りない。


弱い

2020-10-28 | 映画
先日、またまた封切られて間も無い映画「きみの瞳が問いかけている」を観た。
横浜流星という俳優、なんと取ってつけた、いかにも風の芸名だと思っていたら、本名らしい。
かっこよすぎる彼、いかにものストーリー展開に、わかっていながら涙ポロポロ。
泣くには丁度ぴったり。
ただし、とって付けたような漫画チックなお話の運び、流れに、漫画を見ているような、わかっていながらあえて騙されたい読者になった。
昔、韓流ドラマのヨン様を熱く観ていた感覚が、今、これを書いていて蘇った。

この流星くん、24歳ながら芸歴は結構長いようだ。
空手?で鍛えた肉体は眩しすぎ、出来過ぎ。
漫画を見る乙女のキラキラ目になって、涙を流した。

話にならない、ぬるい浅い感想文ですみません。
取ってつけたようなラブストーリーに気持ちよく騙されるのも洗浄効果があると思うのだが、、、。

それはよいのだが、
映画館の2つ空けて隣に座った女の子2人組の行儀が悪くて悪くて嫌悪感で胸が悪くなった。
2人とも、両足を上げて前の人の座席の背中、裏側に乗せている。
お化粧をしていたものの、多分15〜18才ぐらいか。
「はしたない」などという範疇には収まらない。
日本人ではあったが、素行の悪さ、育ちの悪さがアリアリで、同じ空気を吸うだけで気分が悪くなった。

しかしながら、のこのこ映画館に出かけて映画を観るということは、一般の人、しかもどんな人がいるかも知れないリスクも承知の上でなければならない。
無菌室なんて無いし。
もし、わたしが青少年育成に関わっているとしたら、指導すべきなんだろうけれど、ただ気分を害して目を背けるのみ。
わたしはとても警察官にも補導係にも教育者にもなれない。
自分が前回、書いたブログ内容と相反している。
理想は理想として、現実は現実。
わたしの、行儀の悪い非常識な言動毛嫌いは、歳を重ねて益々著しく激しくなっていることを自覚し、ちょっと憂鬱になった。
たとえあまり年嵩はいかなくても、こんな大嫌いな性質の人たちと一緒に居たくないと強く思った。

映画館入口のところでも、尋常ではない家族らしき集団の怒号や怒鳴り声が聞こえ、たいへん引いた。
行儀の悪い少女2人は、あの家族の一員ではないかと思ったりした。
家での常識しか子供たちは知らない。
あのような親のもとで育ったなら、ああなるのは仕方ないにしても、、、
嫌悪を伴う恐怖を覚えた。
なんと弱っちいわたし。
荒くれ無法地帯には暮らせない。
映画も観れず、電車にも乗れない?
戦時中のように家の中で息を殺して引っ込んで、ひっそり暮らしていなければならない?

世の中には色々、様々な人がいる。
お互い距離を保って刺激し合わないようにいきたいものだ。

憂鬱な気分も、その場を離れたらそれで終わるのだが、平和って有難い、と、(いきなり飛んで)つくづく思った。
て、根本的解決、根治にもなんにもなっていない、とても、くだらない内容になった。

しかし、あの素行の悪そうな少女たちでも、この映画のイケメン俳優には可愛い女の子みたいな気持ちにもなるのだろうか、、、?

目を逸らさない

2020-10-26 | 日々のこと
人は少しずつ変わるものなんだなあ、と最近しみじみ思う。
これは、わたしにとっては良い意味で。

何かに向けて一生懸命していると、それなりの結果が出る。
この手応えというものを、かなり
長期スパンでわたしは感じている。

ある人に言われた。
わたしという人物は、大きな歯車。
小さい歯車の人とは噛み合わない、と。

のろまで行動が遅い。
が、わたしから言わせると、なんであんなに早急に結果を出そうとするのだろうと思う。
次から次から吟味もせず、じっくり味わいもせず。
スピーディな処理能力だけが目立つ。
肝心の内容には表面しか触れない。

合理主義、効率主義の時代は終わったと感じるが、現実問題として、テキパキできないくせに、理想ばかりを掲げるのは、無能の証拠をわざわざ声を大にして周りに知らしめているようなもの。

やるべききとは、やる。
しかし、この、「やるべきこと」の定義、選択は誰が決めるのか。
職場では目的は仕事であり、趣味でもお友達づくりでもない。
やるべきことの内容は見えるだろう。

仕事の理想論を振りかざすのは不毛だと感じるが、あまりにも良くないことは改善すべきだ。

まあそれはそれとして。
一昨日、土曜日の夜に観た、NHKドキュメント番組に胸が痛んだ。
追い詰められるシリア難民のコロナ事情。
安易な感想が書けない。
ただただ暗い気持ちになった。

目を逸らすのはまだマシ。
全く興味がない人もいるだろうと思うと、やりきれない。
自分のことで精一杯なのに、人のことまで考えられない人もいるだろう。
世の中には、悲惨なことが現実としてある。
何も出来なくても、目を逸らさずに知ることは大事なことだと感じた。

最近観た映画「青くて痛くて脆い」が頭にリンクした。
社会に役に立とうという理想を実践行動で目指す大学生の話。
クラスでは周りから浮いて、煙たがられていた。
だが、徐々に賛同する学生が増え、サークルとしての活動は大きくなるのだが、、、。

わたしには、やはり実践は無理。
しかし、自分とは関係ないからと無視するのではなく、事実を知る、向き合うことぐらいか。
日本に生きている限り、あんな悲劇はまるで他人事だろう。
豊かな社会はまたそれはそれで、深刻な問題点も抱えている。

一人一人の自覚かなあと。
やたら耳元で騒ぎ立てるのも迷惑だろうけれど、自己チューの社会は生きづらい。
そんな自己チューばかりでもないような、ほのぼの暖かい助け合いの行動をニュースで紹介されることもある。
まだまだ見捨てたものではない。

社会ネタを書くと、おそらくウケが良くない。
皆さんは、娯楽や楽しみ、あるいは暇つぶしに、他人のブログを覗くと推測する。
それがわかっていながら、不人気を承知で思ったこと、感じたことを書いている。
サービス精神ゼロ。

幸運にも事故や災害や見舞われない、戦争や紛争のない社会にいかに安心し安堵して暮らせるか、しみじみ幸せを感じる。

ちょっとだけの夢

2020-10-24 | 暮らし
わたしの理想は、、、
しようと思えば出来る、、、でも、しない。
そういうのがいいなあ、、、と。

ある人物が言っていた。
「誘われたが、行かなかった。
これは、行ったのと同じ」

わたしはそれを聞いた当時、その人は行かないのではなく、行けないのだと感じた。
その人に失礼だから、そんなことは口には出さなかったが。

その人は、いつでも出来ると思って、結婚もしなかった。
で、婚期を逃して、独身。
気ままな独身生活に見えるかというと、見えないこともないが、いつもギリギリ、カツカツのラインで生活しておられる。
まさに、エコライフ。
なのではあるが、究極の無駄がない、イコール、余裕がない。
江戸っ子は宵越しの金を持たない主義。
それはそれで素晴らしいのだが、病気になったらどうするのか。

ある日、その人は病気になった。
いずれこんな生活を続けていると、病気になるのではないかと危惧していた。
だが、入院するようなものではない。
受診もしていないかも知れない。
そんな時こそ、手を差し伸べて助けるのが人間愛だと思う。
のではあるが、借金を申し出られて対応に迷い悩んだ。
さしあげるなら可能だ。
が、、、。


もしもの時、万が一の時に例え少額でも蓄えるべき、とわたしは常々思っている。
その人は不幸な悲しい背景があるわけではなく、若い頃から時間とお金を自分だけに全て使い切っている。
家族がいないから自由の身。
一流企業の技師として現役時代に稼いだ分の、ほんの少しでも、1万円でも2万円でも別のサイフに保管していたらよいと思われる。
全財産で4万円もない(と思われる)、全てまるまる全部、使ってしまう、その生き方は潔いのか。

こう書くと、わたしは鬼のような無慈悲な人間のように受けとられるだろう。
最悪の場合に人に頼るのには、過去から現在、毎日の積み重ねがものを言う。
蟻とキリギリス。
わたしは蟻タイプなので、キリギリスには厳しい。

その人はピンチを切り抜け、復活しておられる。
当時も今も顔を合わせると会釈したり、ちょっとした立ち話もする。
2人の間に悪い雰囲気はない。


やろうと思えば出来る、、、には、思い上がりや、過大自己評価もあると思う。
やらなければ、なかったことと同じ。
頭で思い描いているだけで楽しむのも良いが、実際に行動するのとはまた違った副産物が付く。
今のわたしはただただ想像しているだけだが、どんどんフィルターの目が詰まり、その中から本当にやりたいことが見つかるか?
何でもいいから、とりあえず行動しなければ物事は動かない。
その関連から次の事態へと発展することがある。
かといって、手当たり次第は、効率が悪い。
資源もお金も、肉体や精神、そして時間は永遠にはない。

でもわたしは、一生、うだうだしているのが楽しい。
このまま夢を見続けられるのなら、こんな幸せなことはない。




イジケた

2020-10-23 | 日々のこと
さて、今日も懲りずにブログを書く。
何に対して懲りないか。
ブログに対する世の中の反応が薄かろうが、無反応だろうが、良いのだ。
かなり負け惜しみも入っているとは思うが、わたしのブログを気に入っておられる方は、ほとんど心友に近いと思う。
というか、そんな存在自体がレアなのではあるが。
(いつもありがとうございます)

何度も書くが、負け犬根性だと、わかっているにもかかわらず、、、
リアクションが何百もあるブログは、短文。
長々、書かない。
すっきり、的を得ている。
しかし、、、書いてあることは、日頃、わたしが感じていることと同じで、別に新しい発見はない。
なあんだ、おんなじ。
でも、やっぱり、短くしないとダメみたい。
わたしは、自分との対話だから、どうしても長くなる。
そりゃあ読んでいる人はつまらない。うんざり。
わかりきっていることだ。

さて、気を取り直して、、、と。

今日も夫の実家へ。
朝5時に自宅を出た。
あれやこれや、やることが次々とあり、コーヒーを持って行くのを忘れたことを忘れるぐらい。
コーヒーではなく、気に入らない緑茶を飲んだが、なんでもいい。
お茶を飲みに来たわけではないので。

いつも帰る時間はバタバタ。
なぜ、もっと余裕を持たないのだろう。
いやになる。自分。
大きな荷物を両手に持って、ドタドタ駅まで早足。

この荷物がまたくだらない。
荷物の中身は、、、。
電車の時刻表を見て、家を出発するまでの待ち時間にちょっとだけ何かをしようとすると、いつも時間オーバーとなり、駅まで心臓破りの坂が厳しい。

台所の食器棚をチェックした。
姑はあまり食器には関心がない。
カビくさい食器棚を期待せず、ギシギシ開ける。
別のところに収納されているものは、わたしの興味を引くものがあるが、台所には無い。
それをわかっていながら、掘り出し物はないかと、残り時間を有効に使おうとする。
わたしの実家からのギフトもある。
見覚えがあるが、姑が使っているのを一度も見たことがない。
そりゃあそうだろう。
重厚な光を放つ銀製のお皿だから使い道がない。
あるのは夢だけ。

閉ざされたところから出たことのない田舎の人は、良いものを見極める目利き力、ものを見る目が無いと、よく姑は言っていた。
人も少なく、モノも少ないし、見る機会もない。
しかし、たくさん見る機会があっても、興味がなければ、まったく記憶にも印象にも残らない。
趣味と興味と感性の問題。

が、ちょっとだけ面白いかも、というものを発見した。

それを持ち帰っている。
パリの蚤の市のノリ。
高級だとか、名があるとか、そんなことは全くない。
伊達や酔狂の部類だろう。

他人からの賛同は要らない。
自分がよければいい。

しかしなんだなあ、、、
やっぱり、こんなブログは面白くない。
まだ学校の運動会のことを書くほうがマシか。
いったい、なんのためにブログを書いているのだろう。
今日はなぜかこころが荒んでいる。
きっとブログの閲覧数に遠因があるに違いない。

ああああ、なんと、ちっぽけなわたし。
・・・
今、電車内で少しだけ居眠りをしたらなんだか、気持ちが明るくなった。
もうすぐ家に着くし、気持ちはもう自宅一歩前。
なんて単純なのだろう。
明日、明後日は楽しみの日。
ある本によると、生きているだけで儲けものらしい。

わたしは今日もちゃんと生きた。



ピンとキリ

2020-10-22 | 日々のこと
ウィズコロナ時代では運動会も形式が少し変わる。
小学校、保育所と、秋空のもと、孫たちの運動会が続くが、いつもと様子が違う。
2学年ごとに分けての競技、保護者観戦、消毒、検温、マスク、観戦者氏名記入、大声での応援禁止、、、。
名称も「運動会」ではなく「体育参観会」。

はじめ、わたしは、体育参観会だとのことで、珍しいなあ、体育にも参観日があるのか、、、と思っていた。
行ってみると、実際は、運動会だった。
ウィズコロナ、各教育機関も四苦八苦、手探りで推し進めているのを実感した。

と、それはまあよいとして、、、
無事、四十九日法要も終え、あとは、満中陰志のお品を返すことと、あと二回、逮夜が残っている。
本来は毎週行われる逮夜が、最後の逮夜で四十九日終了なのだが。
法要の日時はお坊さん事情などがあり、前倒しになった。

まあそれはいいとして。

忙しなく日々を過ごしている。
わたしは、何も予定がないのが大好きなのだが。
平日、何もない時は14時になると、ナカジマヒロトのFMラジオを聴きながら、だらだら過ごして夕方になる。
18時には彼の番組が終わるのでラジオを消す。
この4時間が大好き。
まさにインドア派には黄金タイム。
アウトドアでウォーキングでもしながらリスニングというのも有りだが、面倒くさい。
一度に二つのことをするのは、電車内のブログで十分。
ブログ中にもラインが突入して対応に追われるが。

なんて、ほのぼのした、わたしタイムの時間の流れだろう。

あ、そう言えば、「鬼滅の刃」を観た。
映画館は満員。
事前に予約するのにも、予約開始時間に即、しないと、あっという間に席が埋まる。
今回は涙、鼻水で、マスク内がビチョビチョになった。
世界的にヒットするだろう。
やはり、劇中に母親が出てくると、条件反射的に涙が出る。
自分の母親に対するこんな想いは全然ないし、子供がわたしに抱く母親への想いもないだろうけれど。
永遠の琴線なのだろう。

セリフが卓越。
と、最後の一対一の闘いシーンが、わたしの中ではスピルバーグ監督の映画「プライベート・ライアン」を彷彿させた。
それと、「生身の人間 」 対  「AI  」のような、対比、対照。
「絶対」対「否・絶対」のような。
面白かった。

と、さらさら報告。(誰に?)

さらに、、、
関係ないが、、、
と、おしゃべりが止まらない。

2、3日前に、突然、気づいた。
わたしは、能力にムラがある。
良い時と、悪い時。
誰にでも言えることだが。

飛び抜けて良い時が突然、現れる。
だが、定着せず、元に戻る。
それを練習や努力の継続で普通はギャップを埋め、高めていくのだろう。
向上へのプロセス。
だが、わたしはサボりなので、ほったらかす。
自然に任せている、と本人は思っているが、深く考えると、ギャップを埋める能力がない。
ある人に言わせると、それは努力してないからだ、とのこと。
なんでもいい。

ピンとキリを自分に同時に抱えているため、両極端で、真ん中がない。
どうも若い頃からその傾向があり、人ともうまく付き合えないように思う。
ジキルとハイド的な要素も抱えている。
人間誰しもそうだと思うが、自覚するかしないかだろう。
母親の胎内にいた時の記憶を喋り出す幼児もいるが、だいたい、皆んなは忘れて、無かったことのようになる。

明確に自覚し過ぎる人は鋭利な刃物を自分に持っているため、人も自分も傷つけることがある。
わたしは、刃物は、さやに納めている。切れたら危ないし。

それはそれとして。
ピンキリ両極端のわたしは、自分がキリのくせに、ピンの時もある。
ピンに行くと、あまりにも場違いで一秒も持たない。
普段は真ん中なら問題がないが、普段はキリ。
洞穴で眠っている。
ピンの時は、何の役にも立たず、ただただ、俯瞰的な位置から下界を見下ろし、上から目線。
蟻になって地面を這ったり、グーグルアースで宇宙から蟻をズームアップしたり。
嫌われたくないという、ささやかな生臭い人間らしさも持っている。
それは社会性となって現れる。

ピコンとピンになってしまう瞬間があること、これは幸せなのか、不幸なのか。
次女は流れから中学受験をしたが、彼女もわたしの不幸なDNAを受け継いだかも知れない。
瞬間的にピコンとなったせいで、彼女の人生に苦労をもたらした。
だが、その苦労は彼女自身の身を助けているのだが。
今でも、少しこころが痛むが、本人はあまり苦にしていないようだから、まあいいかと、、、。

あれこれ、思い浮かぶことを文字にしている。

それはそうと、ブログ村エッセイで、精神的に深刻な記事を目にした。
交際3カ月で子連れ再婚した女性の話。
アルファベットで表記されている特殊な精神的病名が付いていた。
覚えられない、、、。
が、まあその特徴を抱えておられる。
夫のモラハラ、、、あの程度のものはモラハラにはわたしは感じないが、精神が敏感な人には耐えられないことだろう。
皮膚が敏感な人には、カットバン絆創膏でもかぶれるように。

わたしの場合、自然な流れ的癒し時空があるから、もっているのかも知れない。
それと、ピンとキリ特徴。
ピンとキリが行ったり来たりするものの、通常はキリ、底辺、洞穴なので、超大型台風がやってきても持ち堪えられるようだ。

だが、真ん中あたりの常識人には理解されない。
ピン部分は(出そうと思っても)出せないので、底辺部分といつも接することになる。
なんてアホなトロい人なんだろう、と思われる。
ある意味、真ん中あたりの人とは接点がない。
しかたないので、だいたい底辺ラインで接している。
ピンのあたりで接したとしても、瞬間的なのでこれまた持続不可能。
底辺なら大丈夫。
洞穴で寝ていると、本人も結構楽しいし。

と、だらだら駄文独り言。
さて、今日は、3つの予定があり、だらだらできない。
嬉しいやら、悲しいやら。
そうやってメリハリをつけて、きょうも生きている。




宝石が大好き!

2020-10-19 | 暮らし
わたしは、宝石が大好き。
母も姉も、宝石が大好き。

わたしの場合、自分の身に付ける装飾よりも、見て楽しむもの。
例えばイコンや王冠、マント、ドレスにあしらわれているような、博物館や展示館で、ほほ〜とため息をつきながらその美しさに魅入られる。

娘たちは、全く宝石には興味を示さない。
無感動、無関心、無興味。
ホンモノではありえない特大サイズのオモチャを平気で身に付ける。
古今東西世界一の権力者でもあんな宝石は手に入れられないのではないかと思われるようなサイズなので、宝石の真価を逆説的に表現している。
と、わたしは見なしていて、それはそれで楽しい。

博物館などでは、宝石がはめられていた箇所にはすでに宝石はない、かつてはそこに宝石がはめられていた物を見るが、次の権力者の手に渡ったり、盗賊に盗まれたり、奪い合いの歴史が繰り広げられているのだろう。
王冠は大きくて重いが、宝石だけを引っ剥がして持ち帰るなら、軽く小さく運びやすい。
周りを海に囲まれた日本とは違い、広々と陸続きのヨーロッパでは、激動の時代は支配者が変わる度に、身を守るため、移動を余儀なくされる。
宝石は、着の身着のまま、身一つに近い持ち物だろう。
家財道具を荷車に載せて延々移動するシーンを映画などで見る。
布団や衣類はその日、その日に欠かせないが、宝石は、いざという時の、アラジンのランプになるだろう。
ある程度の生活は保障される。
が、身ぐるみ剥がされると、そこでお終い。
怖い人々に取り囲まれたりすると、ジ・エンド。

アフリカを舞台にした映画で、デカプリオ演じる主人公がダイヤ?を差し歯に埋め込んでいた。
あれなら大丈夫?
いえ、恐ろしい図である。
ストーリーでは、金品や権力を手に入れるためには、ありとあらゆることをする。

そもそも、金品から権力を得て、権力から利権を得て、さらに金品や次の利権を得る。
雪だるま式に増えていく。
その元になるものだろう。

だが、その場で使ってしまう人もいる。
いわゆる浪費。
半分使い、半分はとっておく人もいる。
ほとんどとっておき、全然使わず、一生を終える人もいる。
はじめから最後まで、ほとんど無い人もいる。
資本主義社会では、いろいろ。
共産主義社会でも、長くなるといろいろ。

一番良いのが、こころに宝石を持つこと。
盗まれる心配もないし、強盗や盗賊に怯える心配もない。
だが、頭の中身を変えろ、と強制されたりする時代もあり、そんな時代なら頭の中の宝石も隠さなければならない。
あるいは鍵をかける。

社会が物質的に豊かになっても、こころを病む人が絶えない。
こころの宝石などあり得ない。
こころの宝石は、ある程度の現実がないと輝かない。
現実は満たされなくても、希望があれば輝く。
何もないのに、ピカピカこころの中で宝石が輝き続けるって、ある意味、ちょっとアタマがへんな人と思われるかも知れない。

でも、宝石は宝石。
といっても、宝石にまったく価値も意味も見出さない人にとっては、はあ?こころの宝石がどうした?!となる。

宝石でもなんでもいい。
流通性や換金性がなくても、自分だけのこころの楽園を描けたらいいなあ、と。
ちょっと気持ち悪い、不気味な人だろうか、、、。
人に迷惑さえかけなければ、こころの中で何を思ってもいい。
自分が嬉しくなるようなことを想像していると、とても楽しい、、、
そんなわたしは、ちょっと変わり者なのだろうか?


NHK教育テレビ、シニア番組「明日も晴れ!人生レシピ」で先週、金曜日(10月16日)では、「ゆるく生きる」をテーマに特集されていた。
SNS発信し、それが著書になっている、好きなことをだらだらして引きこもる男性が紹介されていた。
書いていることや、していることが、わたしとまるで同じ。
スタンスが同じ。
ただ、彼はまだ40歳ぐらいなので、まだまだこれから活躍の道も拓ける、ポテンシャルのある人物。

その番組のコメンテイターとして出ていた東大の先生がとても納得できることを言っていた。
その人は、「無駄学」を研究しているそうだが、無駄か有益かは、目的と期間によって異なってくるそうだ。
同じことをしても、捉え方によって評価は180度、変わる。
例えば受験勉強。
短時間に無駄とも言える丸暗記、詰め込みを無理やりやらされる。
その時は無意味だが、人生の長い目で見ると、頭に入っていた知識が溶解され、良い味となって自分の味方をしてくれる。

結果を短時間に求めるか、長時間で判断するか。
例えば、財務状況の良い会社なら先を見ての投資や研究が出来るが、明日をも知れぬ自転車操業ではそんなゆとりはない。

スパン。長期展望と短期展望。
中期というものもある。

わたしの場合、この「ゆるく生きる」にドンピシャあてはまる。
じつに、ゆるく生きている。
結果を明日や来月、来年に求めない。
むしろ無期限に近い。
結果がなくてもよい。
目的に向かっているプロセスで十分。
目的は人生の最終幕。
この世を去るまでにべつに大きな目標はなく、唯一、大きな目標があるとすると、気持ち安らかにグッバイすること。
といっても、自分で命を絶つとかではなく自然な流れで、である。
禅の精神に共通するものがあるかも知れない。
自分はどうしたいのか、身体とこころに聞く。
そのためには、どうすればよいか。
計画を立てる。
それこそ、中長期スパンで。

結局、健康と生きがいのため、最低限度の運動と食事、ストレスを溜めない、なんていう平凡極まりないあたりに落ちついたりする。
90歳の元気なお年寄りが言ってそうな内容だ。
しかし、毎日つつがなく過ごせて楽しいのは幸せだ。
そして、基本には「自由」、ベースにあるのは、こころの解放。

長くなった。
やはり電車内より自宅で思い切り好きなように時間を使えるのは幸せだなあ、とまたまた実感した。
これを無駄と捉えるか、有益と捉えるか、、、まさに個人の目的とスパンによる。



上がったり、下がったり

2020-10-17 | 日々のこと
夫の実家で四十九日法要に来るお客さんにお出しする座布団。
亡くなった時は9月だったので、夏座布団を急遽、前任のサポートしてくれる人、Aさんが、バタバタ用意してくれていた。
しかし、10月になり、今日などは雨ということもあり、ダウンベストを着込む冷え込み。

で、夏用から、合いの座布団に替えることにした。
肉厚ふかふか、誰も一度も使ってない超美品を、扇風機を収納しようとごそごそしていたら、先日、ふと見かけた。
その美品に替えよう!
そう思いついたのだが、あれ?その座布団、どこで見かけたっけ?と、うろうろおろおろ。
前任のサポートしてくれる人、Aさんは、長年、姑のもとで働いてくれていたため、古い備品の調達はお手のもの。
座布団は、夏、冬と各20枚、古い棟の押入れに入れてあるのを昨日、発見した。
Aさんは、ここから引っ張り出してきた模様。
しかし、わたしが目にしたのはこの、分厚くシミもないが、いかにも年代ものの座布団ではない。

で、ごそごそ別棟を探したところ、無事見つかった。
弾けるように、ぱちぱちに膨らんだ光沢のある座布団が布団ダンスの上段にあった。(布団ダンスはわたしの嫁入り道具の一つ)
他にも夏座布団やら、冬座布団やら、お坊さん用ビッグサイズ、夏、冬バージョン座布団が揃えてあった。
どうやら布団ダンスに入っていたものは、季節を問わず、来客用のようだ。

20年ほど前に、自分の嫁入り道具の中から赤い花柄の座布団を自宅に持ち帰った。
そのふんわり度と、製造年代、品質に共通点を見出した。
ということは、、、わたしの嫁入り道具の一つということが推測される。

こんにちわ!
はじめまして!
40年近く経って、自分の嫁入り道具とご対面。
母が用意してくれ、姑が保管してくれていたのだろう。
そんなものがあったなんて、、、。
まさに、親のこころ、子知らず。
しみじみ感謝、反省、感動。
ありがとう。
昔の家の女性たちの目に見えない働きを見たような思いがした。

と、ここで、ふと。
姑は舅が退職した時に退職お祝いとして50万円、舅にもらったと言っていた。
自分のために好きなように使えばいいのに、それをこともあろうに、布団一式に使ってしまった、と、かつてわたしに笑いながら言っていたことがある。
ひょっとして座布団も布団のうち?
座布団も新調?
だとすると、わたしの嫁入り道具より少しだけ新しいことになる。
姑自身の自分の仏事のために使うなら、良い弔いになるだろう。
さすが、姑。
そこまで考えていた?
今更でもないが、(昔から準備の行き届いた完璧主義の人だったが)頭が下がる。

まあ、どちらの座布団でもよいのだが、お日様に当て、さらにふんわりさせて仏間に並べて用意していたら、夫がその座布団に座った。

何をする!!!
なぜ、あんたが座る???

あ〜あ、と、いつものボルテージに一気に盛り下がった。

ああ、あと少し、、、

2020-10-16 | 日々のこと
昨日は往復3時間を棒に振った。
朝、7時に家を出た。
学生さんとお勤め人の人々で電車は満員。
7時台の電車に乗ったのは久しぶりだった。
ちなみに電車、ソーシャルディスタンス、大丈夫?
若い子に囲まれ、シニアはひやひや。
感染のリスクを冒してまで頑張ったのに、空振り、無駄になった。
時間と労力、往復交通費、返してもらえます?

お金はありえるが、時間を返してもらうことは不可能なので、まあ諦めることにした。

内容を説明すると、、、
墓石に石材屋さんが命日を刻字するため、墓地での立会いを夫から依頼された。
墓地まで自宅から片道2時間。
葬式がらみ、宗教関係と儀式とお付き合い、あと少しで終わる、必ず終わるので、それを目標にして、ひたすら務めた。
朝の早くから頑張ったが、墓場に着いたら誰もいない。
石材業者は早く作業が終わったらしく引きあげた後だった。
で、ぽっかーんと口を開けたまま、またまた来た道をまるで馬鹿みたいに、そのまま引き返した。

田舎なので、次の電車は50分も待たなければ来ない。
旅人になったつもりで、駅舎周辺をうろうろ見学した。
観光案内パンフレットやリーフレットが置かれていた。
歴史地区なので、近年、観光に力を入れている。
写真を撮ったり、まるで気分は観光客。
とはいうものの、半分は無駄な動きへの気分転換、発想の切り替え、自分だまし。

車なら片道1時間弱だが、電車は乗り継ぎがうまくいかないと、やはり2時間はかかる。
車は頑なに運転を辞めたので、精神的免許証返上。

電車は時間はかかるが、たっぷりスマホタイムである。
服装に少し気を使うことと、荷物が重いことが難点ではあるが。
とりあえず、電車とバスと徒歩で頑張っている。
田舎 TO 田舎。
アクセスが悪い。
けれど、車での移動にしないことにしたので、それはそれで自分で納得している。
暑い時期と寒い時期は、こたえるが。
ある意味、わざわざ感、大変感を醸し出して、恩を売っている。
こんなにしんどいことを頑張ってしている感。
よくある、いかにも頑張ってる、という、あれ。
実は頑張ってないのだけど、頑張っている自分を半分楽しんでいるのかも知れない。
というか、だらだら単なる日記になっている。
それを書くのは好きなのだ。

だが、書いたり眠ったり、電車の中はリビングルーム状態で、まったりしていると、一度目は降りる駅の乗り過ごし、二度目は乗り過ごし寸前ギリギリセーフ。
夢中になると、周りが見えなくなるのでいけません。
注意力、散漫。
一度に二つのことが出来ない、鈍臭いパターンを繰り返す。

と、昨日のことを書いたところで、最寄り駅に着いた。
今日も明け方5時から自宅を出発し、宗教行事、、、。
ブログ日記は時間切れ。

で、あわや乗り過ごし危機を回避し、バスに乗り自宅へ。
あと少し、ほんとに、あと少し。
それが終わると今度は、満中陰志品の送り先リストアップと品物を選定し、大量の発注が待っている。
ああ、あと少し。
大きな山を超えたら、あと少しだ、、、。
今夜も爆睡。

女性に生まれて

2020-10-15 | 映画
「82年生まれ、キム・ジヨン」

この作品は、息子が原作を強烈に推薦してきたもの。
滅多に人にプッシュしない息子なので、「ぜひ読むことを薦める」と、推しが強くて驚いたぐらい。
内容的にも興味もあったし、何かの機会にぜひ読むか、観るかしようと思っていた。

静かな映画で、後半は涙がはらはら、ポロポロ。
愛犬家でもないのに、子犬が可愛く回るだけでも涙が出るわたしなので、涙は感動のバロメーターにはならないが。

わたしのおぼろげな韓国に対する知識(思い込み?)では、韓国は儒教の精神が強く、縦のつながり、家族のつながりを重んじる、そういうお国。
日本より上下意識は強いのではないかと想像する。
大陸の端に位置する地理的条件や、その歴史を紐解くと哀しみが蓄積されているように推測する。
独特の恨。
ニュースを見る限り、受験戦争が激しく、企業トップ、政治家の入れ替わりが極端なように思える。
また、芸能界や美容整形では定評があるようだ。
ほとんど調べていない、たんなる、わたしがニュースの断片をつなぎ合わせて抱いたイメージである。
根強い儒教の教えから、家族や女性に対する意識は少し日本より遅れているかも知れないと想像する。

で、82年生まれ。
わたしの娘たちとほぼ同時代の年齢である。

かなり興味深く観た。
彼女の両親、特に母親こそ、わたしの世代である。
きょうだいの中でも男子を優遇、大切にし、女子は学業よりも結婚が生きる道。
自分らしさを結婚の中で見い出すのが幸せだとされる。
やりたいことは後回し、先ずは結婚、子育て。
弟の学費を捻出するため、教師になりたかった夢をあきらめて、進学ではなく就職、結婚後は家で子育て。
そういう母を持つ82年生まれのキム・ジヨン。

進学、そして希望する職種の会社に就職し、結婚、出産後は育児のため一旦、休職。
自分のやりたいことを犠牲にして、子供と送る毎日。
社会の受け皿がまだ充分整っていないことと、家族の意識が旧態然のまま。
その狭間で苦しむ。

世界中の女性たちには大いに共感されたことだろう。
自分のことのように。
男性には絶対にわからない。
なぜ、女性が悩んでいるのか、悩んでいることさえ気づかない。
真横で悔し涙をはらはらと流しているのに、まるで意識にない。
そのことに腹立たしさを通り越して絶望感を覚える。
女性にしかわからない苦悩である。

しかし、一方で、男性も大変だ。
手枷足枷なく頑張らなければならないところに、さらにまた加えて子育てで頑張らさせられる。
ではあるが、痛み分けかなあと。

女性にも優秀な人もそうでない人もいる。
男性も然り。
別に職業に貴賎はないが、向き不向きの適正はあるだろう。
選んだ職業なのか、したかなくの職業なのか。
仕事の中身にもまた色々ある。
収入にも色々ある。

社会において、女性の役割、男性の役割、と決めつけられていることは、まだまだ根強く残っている。
国会議員や政治家の男女比を見るとよくわかる。
生物としてみた一般的な身体的特徴から男性に向いている仕事、女性に向いている仕事はある。
筋肉や骨格、背筋力など。
スポーツの場では男女ダブルスはあるが、男女が同じコースでタイムを競わない。
ちなみに、保育所のマラソン大会は男女同時同一スタートだけど。
男女の差よりも、生まれた月の差。
4月生まれと3月生まれでは同学年でも雲泥の差。
と、脱線。

だが、区別と差別は違う。

女性であるが故に差別を受け、悔し涙を流した女性は多いと思う。
だが、逆に「得しちゃいましたっ」という女性もいるはず。
立場の弱い人を救済しようとすると、同じように弱い人(男性)からブーイング、バッシングを受ける。
不公平だと。
困っているのは女性だけではない、と。
男性を優位に立たせようとすると、落ちこぼれる男性もいる。
「男らしく」という呪縛に苦しむ男性。
社会での男女役割はものすごいスピードで変化した。
が、スピードについていけない人々もいる。

長くなるが、わたしの婚家は昔から男尊女卑の家風。
夫も、舅も、舅の父親も、そのまた父親も、男尊女卑を当たり前のように空気を吸うように息をするように、身体や脳やこころに長年刻み続け体の一部となっている。
それを急に、自分の立場が不利になるような価値観や体制を受け入れるわけがない。
時代の流れを読まず、昔のままで行こうとする。

そこでどうなるのか?
女性は「やってられん!」と謀反を起こし、出て行く。
さて、残された最後の皇帝は、、、?
(いつの間にか王族に?)

わたしは、完全にこころをシャットアウトし、閉ざした。
壊れるよりはマシである。
溺愛された跡取りは、そんな様子に気づくこともなく、「僕は古風な考えの人間です」と、しゃーしゃーと言う。
が、次世代にバトンタッチ出来ずにいる。
親戚などがうまく子供が結婚し後継を産み、継承しているのを見て、羨ましがる。
嫁が古い慣習スタンスに協力しないから、ということもある。
というか、次世代の子供たちに真逆のこと(アンチ継承)を言い続けていたと思う。
しかし、彼らはわたしに洗脳されず、自分たちで新たな価値観を築いたと推測する。
このまま夫に象徴される男尊女卑の精神の溝は埋まることなく、益々深くなり、終焉を迎えることだろう。
車の両輪のうち、片方の輪と、もう片方の輪は、逆回転をしている。
そういう、夢があふれないが変に甘っちょろくない未来図を描いていた。

と、それとは別に、息子が突然、この82年生まれの本に、感動したようす。
多分、目から鱗なんだろう。
女性の真の自立を扱ったテーマに、啓蒙啓発されたのではなかろうか。
頭カチカチの夫はもう意識を変えたり理解することは無理。
女性たちがうるさいから顔色を伺って、こちらの機嫌を損ねないように、行動に注意しているだけ。
表面、うわべ、かたちだけのものであり、深く理解していない、できない。
内側からの気づきや意識改革はない。
元々、わたしは期待もしていない。

息子はどこでどう接点があったのかは知らないが、多分、主人公と年齢が近いこともあり、まだ解るところもあるのだろう。
息子の嫁さんは、ラッキーだ、、、が、あいにく、いや、予想通り、息子は独身だ。

夫は、自分より劣る女性を妻にして優位を保っているが、息子はおそらくそんな女性は選ばないのではないだろうか。
というより、かなり変わり者なので女性に選んでもらえない、と想像する。
まあ彼は彼。
自分の道を歩んでいただこう。

夫より劣る妻。
何が?
社会的地位、収入、実務能力、、、客観的な目に見えるものではそういったところか。
その捉え方、やめよう。
しかし、そこからスタートしている。
嫌なら壊せばよい。

だが、わたしは離婚しない。
旧式人間だからだろう。
決して世間体からではない。
自分軸で考えている。
壊す方法はなにも離婚とは限らない。

かつては、迷い、傷つき、思い悩んだが、今はスッキリしている。
壊れそうになった時、自分で自分を守った。
自分の道を切り開いた。

どうしたいか、したいと思う時に出来る、後半の人生を手に入れた。
その時はわからなかったし、意図して作為的に行動したわけではないが、結果的にそうなった。
思うようにならないこともあるだろうけれど、そもそも、そう現実離れしたことを想い描かない。
完全にではなくても、だいたい大まかに行きたい方向に行っていたらそれでいい。
理想枠を柔軟に。

セミリタイア暮らしのようなもの。
手に入れたいのは、地位や名誉やお金ではない。
頑張るのは要の一時期。
あとは、解放。
やりたいと思うことが出来る自分。
ブーツさんの記事にもあったが、、、
健康、人、お金、趣味。
最後の「趣味」は無くても死にはしないが、結構大事かも。

趣味も静と動、インドアとアウトドア、2方向あると鬼に金棒。
ブログは、インドア、静のわたしの趣味であるが、外で弾けた内容を書いたり写真をアップしたりすると、メリハリ効果を生む。

ところで、、、男尊女卑はどうなった?
どうでもよくなった。
わたしは、わたし。
自分の道を行くのは清々しくて、とても楽しい。

さて、この超長々文、、、どうまとめる?
今があるのは、過去があるから。
未来は作れるが、過去は変えられない。
過去は過去で、新しい未来を作る礎となる。
気に入らない過去は塗り潰し、自分色の下地にする。
それでいいんじゃないかと思う。