ダラダラ長い、自分と向き合う蝶ブログ。
自分のブログとは長いお付き合いになった。
文章が脳からダダ漏れの時もあれば、固く固く捻った水道の蛇口のように、一滴も出ない時もある。珠玉の、、、とは正反対なので、出ても出なくても体制(大勢?)に全く影響はない。
路傍の石にもならない、、、けれど、路傍の花が、わたしを救う。
それはそうと、わたしは偶然性を重視するようになった。
目的に近寄ろうとして、寄り道、道草の枝葉から偶然、長い間、苦労して探していたものが見つかることがある。
だが、見つけた時は手遅れ、時遅しということもある。
それはそれで、そういう運命。
必死で探している時は見つからないものだ。
わたしは、かつて20代前半の頃、結婚相手を必死で探していた。
宇宙的な時の流れ、概念から、自分の生きる意義を模索した。
自分は生命を繋ぐことに意味があると結論付けた。
で、相手はいなかったが結婚しようと思った。(これ、唐突)
何人もの、いや、もっともっとの人々とお見合いをした。
で、最後のお見合い相手である夫と結婚した。
選考オーディション、最終3人は本腰を入れた。
一人一人、真剣に結婚の道を考え、進んだ。
それまでは、そんなに真剣ではなかった。
出来れば結婚したい、だとか、良い人がいたら結婚したい、という地に足が着いていないもの。
うすぼんやり、うっすら希望だけ。
だが、そんな甘いことではうまくいかないと悟り、最後の3人あたりでラストスパート。
何が何でも結婚する!と。
絶対、決める!と。
ラスト3人の1人目はギリギリアウト(詰めの段階で成立せず)、2人目もギリギリアウト(同じく不成立)、3人目はギリギリセーフだった。
3度目の正直。
2度あることは3度ある、ではなかったので、やれやれ。
どうにか24歳(クリスマスケーキ。イブを過ぎると暴落間際)で滑り込んだ。
今の世相なら考えられないかも知れない。
そのラストの人物(夫)は、ラストでなくても、1番最初のお見合いで出会って結婚していたかも知れない。
たまたま最後だった。
(今、思えばなぜ、最初ではなく最後に登場したのか、それとなく想像できる)
ということで、わたしの掲げた理想の結婚だったため、離婚しようなどとは一度も考えなかった。
仮に離婚すると仮定、シュミレーションして、何かを論じる時の、一つの手法としてはあったかも知れない。
が、現実性はゼロ。
日常生活については、多少不満や個人的嗜好の違いもあったが、それで離婚はしない。
別の(普通の)人と結婚しても、大なり小なり、たいして変わらない。
ラストの3人であれ、最初の3人であれ、中盤の数人であれ、
どんな人と結婚しても、それなりに幸せになれただろうし、それなりに不満ばかり言っていただろう。
たまたま当時の自分の等身大の身丈に合った人物だったと思われる。
完璧なものはない。
理想を追い求めるなら、自分も目いっぱい努力しなければならない。
努力を相手にだけ求めるのは不公平である。
わたしが結婚相手を選んだ時の条件は、自分とほぼ同じ環境にいる人、似たような背景であること。
おそらくそれまで無自覚で気づくことなく無意識下で眠っていても、根っこの価値観が同じだろうと想像した。
上でも下でもなく、横滑りを狙った。
釣り合いを重視した。
ご両親を見ると、だいたい人物は大まかにわかる。
子供へのDNAも、お互い様。
トンビは鷹を産まないかわり、そう変種も産まないだろうと考えた。
総合トータル点は似たり寄ったり、のはずだ。
中には高得点の人もいたが、後でわたしが苦労したことだろう。
身の丈より少し上に伸びるには、大変だ。
下にダウンするのは簡単でイージーだが、わたしは自分より下は望まなかった。
わたしは上がっていくには苦労しても良いと考えたが、下がるのに苦労って、そんなことは苦労の意味がない。
向上はあっても、時として停滞はあっても、わざわざ意図的に下降を選ばない。
運が悪く、やむを得ず下降ということもあるだろうが、それはそれ。
とりあえず、まずスタートは、明るい未来がありそうな選択をした。
条件が同じなら、人物がキーとなる。
どっちにしても自分が選んだ道は自分で責任を取らなければならない。
泣きつく先はない。
幸い、泣きつくような事態は起こらなかったが。
どの人と結婚してもあまり変わらなかっただろうと後になって思うのだが、
何しろわたしは一生懸命、頑張ったのだ。
頑張りはすぐには結果が出ず、諦観の先、「果報は寝て待て」状態で、落ち着いた。
がむしゃらの時は、その最中には答えは出ないことを学んだ。
わたしが動いたのは、結婚する時ぐらいか?
学生の時も頑張ったが、学業はムラがあって、泣きを見た。
今、思うと、10代の頃が1番キツく辛かったかなあと。
さて、と。
偶然について、考えてみた。
偶然は、必然の導きの結果かも知れない。
力を抜いた時に、蓄えていたパワーが動き出す、そう感じる。
人事を尽くして天命を待つ。
たいした力もないわたしだが、それだけに、自分に向き合い、自分の幸せはどこにあるか、どうすれば手に入るか、目利きの目を研ぎ澄ませる。
どよ〜んと濁っていたり、あまりにも理性より感情に傾きすぎると、見えるものも見えない。
これは力が弱い、微力ゆえの自己防衛本能である。
こんな生き方は、令和の時代では理解できないだろう。