蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

ひとっ走り

2022-04-29 | 
GW。
びゅーんと、なぜかいきなりくまモンと出会っている。
熊本に来ている。
阿蘇の山々や、広々した水田は、美しい。
自然に触れると心洗われる。
雨があがって良かった。

ともだち

2022-04-28 | 人生
わたしは友達は全員、なぜか男性。
女性の友達がいないのが不思議なところ。
何故なのか、考えてみた。

女性で気が合う人があまりいない。
男性でも別に気が合うわけではないが、男女差があるから違って当たり前、とはじめから覚悟しているため、障害を減らしている。
逆に男女差が面白味を加えている。
女性でも気が合う人はいるのだろうけれど、多少違う面がある場合、頑張って合わせる努力をしない。
男性に対しては、諦めている分、努力ではなく、違いの部分は切り捨てている。

「女性」「男性」と、はじめから決めつけるのは良くない。
性差によるものではない個性差がある。
だが、長い年月のジェンダー意識で植え付けられたものもある。

わたしは典型的な昔タイプの女性である。
ほぼ絶滅種に違いが、昔タイプの人から見ると、古き良き時代の見本みたいなもの。
だが、今の人から見ると、やってられない時代遅れの価値観、感性、考え方。
となると、古い価値観の人とつるむしかないのか。
だが、まだ更に古い価値観の人がいて、価値観は時代と共にスライド、移行していく。

「女性とは合わない」と、勝手に思い込んでいるフシがある。
自分と同じ体温は気持ち悪い場合がある。
同性として、手の内バレバレの面がある。
ちなみに、わたしは性的マイノリティではないストレート(異性愛)である。
少し前まではそれが当たり前で、それ以外が当人も親も肩身が狭い思いをしていたが、時代は移り変わる。
閉ざされた地域の人々は特に古い価値観を持ち続ける。
これは当たり前だ。
新しいものが流入してこないから。

と、話が逸れている。
わたしは昔タイプの人間であるが、今も昔タイプの人々はウヨウヨしている。
(家庭の中にさえ)

わたしが女性が苦手なのは、単なる偏見と、昔の価値観を引きずっているからだ。
わたしと同世代の女性は、ほぼわたしと同じタイプの人もいるし、違う人もいる。
わたしが苦手とする、偏見に基づく女性像は、ペチャクチャどうでもいいことを延々と話す人。
(あ、これ、わたしだ)
話す内容はどうでもいいから、話すこと自体がストレス解消になっている人。
(あ、これ、わたしのブログだ)

自分が勝手に作り上げた、苦手な昔タイプの女性像を、目の前にいる女性の皆さんに押し付けている。
なので、近寄らない。
これはコミュニケーション能力がないというのか?
少し違う。
自分から敬遠している。
なぜ敬遠しているか。
それは、自分が昔タイプの女性だから。
こう書いても客観的にはおわかりいただけないだろう。
(すみません、あえて書きません)

というわけで、わたしは自己開示を自らの意思でしない。
しかし、ブログを長年やっていると自己開示していると同じ。
わたしが超有名人なら分析研究されることもあり得るが、無名人なので、安心して好きなことを書ける。

わたしが一番心地良いと感じるのは、無名な自由人。
誰の束縛も受けず好きなことが出来る。
マークされない気楽さはこの上ない。
(もちろん犯罪や迷惑行為は論外)
まして、リタイアした立場では、肩に載る重いものもない。

そういえば、最近お知り合いになった、あるリタイアした人が暇を持て余していた。
毎日スケジュールを積極的に詰め込んでも、
泊まりがけでもない限り、実質1日3時間だけの拘束?で、あとの時間がフリータイムになって何にもすることがないと言っていた。
その人には拘束時間スパンが長い農業や野菜作りなどを提案したが、きっとオーバーワークになり、隙間時間を埋めるニーズにはマッチしないと思われる。
ちなみに釣りは、全然釣れないからダメなんだそうだ。
明るい人だ。

その人の、積極的余生の過ごし方ノウハウをお聞きした。
うんうん、と頷くことばかり。

そう言えば、話は変わるが、、、
自慢について。
聞かれもしないのに自分から自慢するのはケシカランかどうか。
わたしはブログというSNSで長年ケシカランことをし続けている。
しかし、それは自分のブログ内でやっている。
人の日記に乗り込んで、それまでお付き合いもやり取りも全然ないのにいきなり自分の自慢をされると、引く。
何年も前から長い時間のコミュニケーション経過があるのとないのとでは全く違う。
それに、自慢と感じるか感じないかは、人による。
アタマごなしに「自慢するな!」と思っても、よくよく聞いてみると、自慢だと感じている自分側に原因がある場合もある。
自慢ではないのに自慢だと感じるのは、何?
話す相手を間違えると、自慢に聞こえる。
相手によっては共鳴や共感、絶賛、応援なんてことにもなる。
発信者と受信者の関係性にもよる。

不安のないマイニチサンデーはわたしは限りなく幸せを感じている。
が、人によっては暇を持て余したり、生きがいを感じられなかったりする。
人それぞれの価値観、感性。
わたしは生産性を求めない。
若い人々の役に立たなくてもよい。(役に立てるならそれに越したことはない)
足を引っ張らなければよい。
その中で自分がしたいことをして楽しむ。
したいことがないというのは、それ(なにもしないこと)がしたいことなわけだから、幸せ。
自分の幸せは自分で作らなければならない。
自分の足で立つことが基本。
幸せを維持したければ、自分で立てる足を維持することが、幸せの原点かなと思う。
自分で立てなくなった時は、何も考えず、美しいものでも見て、好きな音楽でも聴いて、静かに暮らしたい。
美味しいアイスクリームでも時たま食べられたらそれでよい。
見えなく聴こえなくなった時は、違う幸せにまた一歩づつ近づいているのかも知れない。

今、出来ることを今することが幸せだと感じる。


淋しいおじいさま

2022-04-27 | 日々のこと
空が夕暮れのように灰色。
すごいゲリラ豪雨が降りそうで怖い。
雨曇と競争。
わたしが向かう方向と逆方向に雨曇も向かってくれたらいいのに。

蝶ブログは低迷の一途だが、一方で趣味のSNSの自分の日記は、割と活気がある。
活況なのは良いが、ある日記記事に、1人のおじいさまが、延々とコメントを返してくださり、ラリーの応酬となっている。
わたしは、1記事に対して1人1コメントにしている。
コメント数はコメントしてくれた数の半分。
もう半分は、わたしからのお返事コメント。
つけられたコメント数でだいたい、その記事の反響みたいなものが想像できる。
が、今回、そのおじいさまだけで一体何コメントある?
おしゃべり広場、チャットコーナーのように捉えておられるようだ。
そもそも私の日記は、コメントしづらいものが多い。
にもかかわらず、読み物感覚で読んでくださる人が少なくない。
それはそれで良いのだが、、、

わたしが、おじいさまのコメントに対して律儀にことごとくコメント返しをするものだから、コメント数ばかり多くなって、一向に終わらない。
しかも、日記の内容からはもう大きく外れて、おじいさまオンステージ。
わたしが、いちいち返事を書くからこんなことになった。
半分はわたしのせい。

とは言うものの、このおじいさま、こちらから聞いていないのに、所有財産の内訳やら娘さんの学歴やらお孫さんの進学先やら、クローズではない場なのに、ご自分からペラペラ。
皮肉も入ったわたしのコメント返しには皮肉部分を全く理解も気づきもされない。
自慢か?淋しいご老人か?
とは思ったが、根気良くコメント返しのお付き合いをした。

「それは素晴らしいですね」と一行、返したところで今のところはそれが最後コメントになっているが、もうそろそろ、更に引き続きコメントは付けられないで終わったかな、と踏んでいる。

誰かお相手してさしあげてくださいよ。
ちなみに、ダンスパーティーにもこういうおじいさまがいる。
優しくお相手していると、キリがない。
でも、淋しいんだろうなあ。
こうならないには、、、というか、これは個人的な性格、性質だと思うので、他人がとやかく言う筋合いはない。
が、、、自慢話は哀しい。憐れ。
本人は自慢だと思っておらず、自分が話したいことを話しているだけだろうけれど。
私だけに打ち明けているならいざ知らず、SNSのその後ろの不特定多数の人に聞いて欲しい思い、、、これは無自覚だとしても、自慢を発信していることになる。
そう感じるわたしは、ひねくれているのだろうか。
もっと、あたたかい目で見ないといけない。
修行が足りない。

モチベーション消滅

2022-04-26 | ブログ
蝶ブログ、低迷中。
わたし自身がこんなに楽しいのに、文章にすると、全然面白くない。

(※いつもお越しいただく方へ
ほんとうに励みになっています。
ありがとうございます)

ブログにも時代の移り変わりがあるのだろう。
わたしはわたしで、ひっそり密やかに自分時間を楽しむことにしよう。

さて、と。
今日は帰りに図書館に寄って予約した本を持ち帰る。
楽しみではあるが、駅近で食品を買って帰るために荷物が重そう。

と、どうでもいい話しをついでに。

今朝の行動をつらつら長々書いたが、限りなく、くだらない内容になってしまったため、消した。
つまらないことを書いては消し、書いては消し、、、が、最近続く。
どうなっているのだろう。
自分が変わりつつある?
季節の変わり目のようなものか。

ブログに求めるものも変化していると思われる。
自分が満足できることが、変わってきているようだ。
こってりしたものや、味の濃いものが好きだったのが、薄味に好みが変わった?
あるいは、書くことによって、諸々を発散できなくなった?
というか、書いたものが満足いくものではなくなった?

自己満足できなくなった。






ワクワク自分ブーム

2022-04-23 | 趣味
のんびり電車内。
人身事故で、いつもとは違う線に乗り換えた。
LINEのやり取りと、趣味がらみ(自分の)日記を読む。
最近、自分ブーム。
一人で盛り上がっている。

昨日、図書館に行って貸し出しカードを作った。
前に作ったのは大昔。
紛失もしているし、失効もしている。
前もって事前登録を自宅でスマホでして、事前貸し出し予約をしようとすると、、、出来なかった。
で、図書館で作ったばかりの貸し出しカードの番号を使って予約しようとしたが、あるところ(途中)で止まり、進まない。
図書館窓口の若い女性に解決方法を尋ねたところ、彼女はこれまた若い先輩女性にSOSを出した。 
すると先輩女性は、上司?に相談した。
質問丸投げ、玉突き衝突みたいに、問題点がどんどん上に上がっていった。
で、もう一度、インターネット用に違う番号をもらって、一からやり直し、入り直したら、入ることができた。
図書館のお姉さん2人の手を止めてお付き合いいただいた。
平日夕方、わりと空いている時間帯だったから問題なかったが、混んでいたら傍迷惑かも?
しかし、わたしが悪いわけではない。
インターネット登録の不具合である。
(モタモタすると、前に、スマホを新しく買った時の、携帯電話店の若い女性スタッフさんが怖すぎてトラウマになっている。ビクビク)

無事、3人の手を借りて登録することが出来て、やれやれ。
2冊の本を貸し出し予約した。
最寄りの図書館に予約した本が届くのが楽しみだ。
・・・小学生日記になった。

ちなみに、、、
図書館勤務、良さそうだ。
勤務時間ローテーションや、勤務の長さ、給料との兼ね合いがあるが。
すごいクレーマーとか滅多にいなさそうだし、業務内容は、緊急事態と背中合わせで命に関わることもないし、、、
と、外から見た印象。
中はそうでもないのかも知れないが。
意外に人間関係がややこしかったり、パワハラがあったりする可能性は全くゼロではない。
が、どんな仕事であれ、仕事をするのは、外からは目には見えない、なんらかのしんどい面があるかも知れないと想像する。

小学生日記は、ちょっとだけ小学校高学年日記になった。

ほんとに言いたいことは、、、
実はその予約した本に、こころ弾むお楽しみがあり、ワクワクがぎゅっと詰まっているのだが、また今度。

難産の末に

2022-04-21 | 趣味
氷の中に閉じ込められていた時期が長く続いていた。
が、ここに来て春が頭から降ってきているような心境になっている。
つまり、楽しい!!ってことである。
人間、生きていると良いこともある、という見本、実感。

だが、全てのことは無常なので、状態は動き続ける。
ぬか喜びはわかっているが、嬉しい時は存分に喜ぼう。
この嬉しさは勘違いから来るものであったとしても、いいんじゃないの。
でないと、いつ喜ぶ?
喜びにもタイミングがある。
早く喜んでおかないと、次の事態に移ると喜んでばかりはいられなくなる。

それにしても、、、
氷詰め期間は長かった。
ああ、やっと春!!
(しつこく何度も書く)

この氷は自分の煩悩、欲によるものだと分析している。
自分が作った氷。
溶かすのも自分。
春が来て自然に溶けた?
それもある。
良い解決法を見つけられず、時が解決してくれた?
待てば海路の日和あり。

それにしても長く苦しかった。
難産。
周りからのアドバイスや励まし、応援も、ありがたく効き目があった。
ご本人は励ましてくれている気はなくても、わたしには叱咤激励は力になった。
自分が良いと思える道を信じていけばいずれは道は拓けるのかも知れない。
まだ、道を拓いたわけではなく、ようやく入り口にたどり着いた。
総合診療科の先生に最初に診てもらうべきだった。(医療に例えると)
最短距離で目的地に行ける人は素晴らしい。
わたしは、亀さんだ。
亀のくせしてウサギだから、ちょっとややこしい。
努力の方向性が少しズレているせいで、苦労する。

まあよい。
なにしろ、難産は終わった。
だが、何が生まれたのかは、今から、これから。
これから、亀ウサギの自分を育てなければならない。
亀ウサギは誕生したものの、今からスタートである。

つまると、つまらない

2022-04-20 | ブログ
暇な時は、ブログ更新しまくる、、、が、最近、なんだか活気づいている。
なので、更新数が、がくっと落ちた。
(自分で言うのも気持ち悪いが)イキイキしている時は、文字に頼ることはない。
自分と向き合う必要がない。

なぜ、わたしはこんなにイキイキしているのだろう、、、などと掘り下げて追求しない。
目一杯、短い春を満喫する。
落ち込んだり、マイナスの時だけ、なぜ?どうして?どうすればいい?と、ブログアドバイザー(わたし担当の、わたし)に泣きつく。
今は陽気な鼻歌、春爛漫。
なのでブログに書くことがない。
思いっきり発散している。
なんの〆にもまとめにもならないが。
アップしない日が続くと不安な貧乏性。

と、ここで眠気、睡魔、、、
幸せは眠気と共にやってくる。

電車内。
眠気に襲われて、間違って一つ前の駅で降りてしまった。
さすがに目がシャキッと醒めた。

とは言え、心配事もアレコレある。
アレとコレを失くした。
アレはブログに書けるが、コレは書けない。
深刻だ、、、。
帰宅してから落ち着いて探そうと思うが、期待、薄。
とことん脳を甘やかしているので、根性が足りない。
なければまた新しいのを使おう、また申請しよう、、、いずれ出てくるまで待とう、、、
はぁ、、、ため息。

しかし、私生活は限りなく充実しているのに、なんでこんなに脳がゆるゆるなのか。
私生活と脳は関係ないのかも知れない。

明日も目一杯忙しい。
午前、午後、夕方と三部作スケジュール。
忙しいうちが、華。
予定がつまって充実している時のブログは、限りなくつまらない。

新しい自分との向き合い方

2022-04-15 | 老い
前回の記事。
時計が急に早回りした話。
本人(わたし)は楽しくて息急き切って書いているのではない。
なぜこんなに延々とムキになって書くのか。
読み手の気持ちや疲労、倦怠感、退屈感、うんざり・めんどうくさ・じゃまくさ・どうでもいい感などの感想は全く眼中になく、ひたすら自分の勘違いの原因を書く作業を通して、直近の記憶を紐解き、脳内を整理しながら追及している。
自分の脳を解明する(ポンコツぶりを詳しく知る)ための作業である。

「バスの時間を1時間勘違いしたため、待ち合わせ場所に1時間早く着いた」
と、たった一行で済む内容。
よくまああんなに長々書いたものだ。
どのタイミングで勘違いしたのかを正確にチェック、考証したかった。
今後また何度も何度もあるであろう間違い。
その間違いのプロセスや性質を知り、攻略法を考える。
今後も正しく脳が働かない可能性は大なので、あんちょこ、失敗リカバリー手引きカンニングペーパーを作る。
こうなった時は、ここを再確認、あれを点検、一から戻る、一旦冷静になり、よくある事例を引っ張り出して思い出す。
その、よくある失敗事例は、ちゃんとチェックして原因を突き詰めておかないと、機械や器具の修理をするにもピントがボケたりズレたりする。

ケース1.ケース2.ケース3....と、いろんな事例集マニュアルがあると、なんだか安心。
未然には防げないだろうけれど、災害時持ち出し袋を備えるように、脳が緊急事態の黄色アラーム点滅した時に、とりあえずは落ち着く役には立つ。
とは言うものの、事例集と、新しく起こる失敗は、いたちごっこで、事例集に収録されていない、膨大な数の失敗事例が日々更新され、失敗事例集はもはや役に立たないかも知れない。
マニュアル作成が追い付かない。
新しい対処法を考えておかねば。

いちいち事例集を見てチェックしなくてもよい方法を編み出さねば。(事例集には載っていないから)
「失敗の数を減らす」なんていう当たり前すぎる、優等生すぎる、机上の空論的、絵に描いた餅的な答えは要らない。
かえって腹立たしいだけ。
では、、、どんな、、、?

とりあえず、時間はかかってもいいから、やはり一つ一つ検証してみることかなあと。
火を吹いて壊れかかっている脳に、水をかけて冷やす。
そんなあほな、、、!?を、まずは、まあまあまあ、、、と、気を取り直させる。
冷却装置が必要だ。
冷却装置を自分で編み出すにはまたまた膨大なエネルギーが要り、その間に続々と新たな失敗が生み出されることだろう。
焼石に水。

でもよいのだ。
どんどん忘れて失敗していくのは、こころの断捨離。
余計なものを削ぎ落とすついでに、大事なことも巻き込んで削ぎ落としてしまっているだけだ。
明るく元気な自浄作業。
涙で目薬要らず、みたいなものか。
(少し違うか)

とかなんとか、精神論で自分を奮い立ち勇気を持たせようとしている、わたし。
脳がダメならハート(マインド)があるさ。
ハートがダメなら、心臓(内臓)があるさ。

しかし、脳は内臓の動きすら司る大事な要。
大事にしなくっちゃ、、、。
(いつしか、話が逸れている、、、)
わたしの年齢なら、とりあえず生きていれば良いことがある(に違いない)。

突然、時計が早回り

2022-04-13 | 日々のこと
どこでどう間違ったのか、きっかり1時間前に待ち合わせ場所に来てしまった。
あんなに慌てて急いで息を切らしたのに。

自宅→徒歩→バス停→最寄り電車駅→待ち合わせ駅
このルートで最寄り駅まで出る。
いつもは余裕を持って行動するため、時刻表通り来るとは限らないバスの運行乗車時間を早めに設定する。
電車に乗る発車時間から逆算し、バスは時刻表を見たが、ギリギリのようなので、電車に乗り遅れないように、次のバスを待つよりも徒歩を選んだ。
だが、バスにしても徒歩にしても、予定の電車に間に合わないのは確定。
さらに次の電車にも間に合わないかも知れない、バスにするか徒歩にするかは賭けだった。

めちゃくちゃ急ぎモード、早歩き。
途中、マスクも剥ぎ取り、早足、競歩、ゼイゼイハアハア、赤い筋肉ではなく、白い筋肉を駆使する運動。
負荷がかかる。
汗は、たらたら、冷や汗も、たらたら。
ふしぎと鼻水は出なかった。(関係ないけど)
こんなに無理して頑張ったのに、勘違いして1時間早かった。

いったいどこで、こんがらがってしまったのだろう?
1時間の、この間違いの原因を探るため、脳内時計を逆回ししてみる。
余裕をもった計画だったのに、いきなりお尻に火がつくように、ジェット噴射のように(昭和のひとです、わたし)、ある瞬間に時計を見て急に慌てた。
あれ??
あっ!時間がない!遅刻!!パニック!!
気を取り直して次善策を取ったとしても、あと数分しかない!!

この瞬間は、待ち合わせ相手の娘たちからのLINEで混線した。
「12:45の電車に乗る」と長女。
「わたしも!」と、わたし。
「12:39の電車に乗る」と次女。
12:45に乗るには、、、バスの時間を見ると12:40!(その時はそうだと思った)
そんなバスだと絶対に間に合わない。

が、これはすでに1時間遅い時間。
バスの時刻表を11時台と12時台で見間違えたようだ。
11:20にバス時刻表を見た瞬間に、脳内で1時間、時間が消え、代わりに1時間を取り戻すドタバタがスタートした。
そのまま家で予定通りのんびり余裕でゆっくり準備するつもりだったのに、急遽、バス時間を12:32のところが、見間違いで11:40に入れ替わり、そこから1時間短縮モードに切り替わった。

まあ早足で疲れて汗だくで行き、集合場所で1時間待つことになった、、、。
ああしんど。

駅では待つ場所は座るところがなく、しばらくあちこちでぼーっと立っていたが、もう疲れてきたのでファーストフード店に入った。
ランチの前なのに、ストロベリーソフトクリームを食べた。
そのせいかどうかはわからないが、その後、ランチのあとにお腹が痛くなり、調子悪いことったら。
長女に、「ソフトクリームなんか食べるからや!」と気遣いどころか、お叱りの言葉。
(そう言えば、昔、姑は皆んなで外食するその直前にスイーツを注文して食べているのを見て、わたしは歳が行くと堪え性がなくなるものだと溜息混じりに思っていた)

いつまで経ってもこの人(長女)、怖い人。
老いては子に従え、と、明治の人は言っていたが。
子に従うにしても、もう少し優しい言葉をかけていただきたいものだ。
本格的にわたしが弱ったら、そうキツいことは言わないとは思うけれど。(あくまでも希望)

というわけで、行きも帰りも徒歩、ああ、お疲れ様でした、、、と自分に労いの言葉がけ。
お日様かんかんの暑い日だった。



時代遅れ

2022-04-11 | 人生
ダラダラ長い、自分と向き合う蝶ブログ。
自分のブログとは長いお付き合いになった。

文章が脳からダダ漏れの時もあれば、固く固く捻った水道の蛇口のように、一滴も出ない時もある。
珠玉の、、、とは正反対なので、出ても出なくても体制(大勢?)に全く影響はない。
路傍の石にもならない、、、けれど、路傍の花が、わたしを救う。

それはそうと、わたしは偶然性を重視するようになった。
目的に近寄ろうとして、寄り道、道草の枝葉から偶然、長い間、苦労して探していたものが見つかることがある。
だが、見つけた時は手遅れ、時遅しということもある。
それはそれで、そういう運命。
必死で探している時は見つからないものだ。


わたしは、かつて20代前半の頃、結婚相手を必死で探していた。
宇宙的な時の流れ、概念から、自分の生きる意義を模索した。
自分は生命を繋ぐことに意味があると結論付けた。
で、相手はいなかったが結婚しようと思った。(これ、唐突)
何人もの、いや、もっともっとの人々とお見合いをした。
で、最後のお見合い相手である夫と結婚した。
選考オーディション、最終3人は本腰を入れた。
一人一人、真剣に結婚の道を考え、進んだ。
それまでは、そんなに真剣ではなかった。
出来れば結婚したい、だとか、良い人がいたら結婚したい、という地に足が着いていないもの。
うすぼんやり、うっすら希望だけ。
だが、そんな甘いことではうまくいかないと悟り、最後の3人あたりでラストスパート。
何が何でも結婚する!と。
絶対、決める!と。

ラスト3人の1人目はギリギリアウト(詰めの段階で成立せず)、2人目もギリギリアウト(同じく不成立)、3人目はギリギリセーフだった。
3度目の正直。
2度あることは3度ある、ではなかったので、やれやれ。
どうにか24歳(クリスマスケーキ。イブを過ぎると暴落間際)で滑り込んだ。
今の世相なら考えられないかも知れない。

そのラストの人物(夫)は、ラストでなくても、1番最初のお見合いで出会って結婚していたかも知れない。
たまたま最後だった。
(今、思えばなぜ、最初ではなく最後に登場したのか、それとなく想像できる)

ということで、わたしの掲げた理想の結婚だったため、離婚しようなどとは一度も考えなかった。
仮に離婚すると仮定、シュミレーションして、何かを論じる時の、一つの手法としてはあったかも知れない。
が、現実性はゼロ。 
日常生活については、多少不満や個人的嗜好の違いもあったが、それで離婚はしない。
別の(普通の)人と結婚しても、大なり小なり、たいして変わらない。
ラストの3人であれ、最初の3人であれ、中盤の数人であれ、
どんな人と結婚しても、それなりに幸せになれただろうし、それなりに不満ばかり言っていただろう。 
たまたま当時の自分の等身大の身丈に合った人物だったと思われる。

完璧なものはない。
理想を追い求めるなら、自分も目いっぱい努力しなければならない。 
努力を相手にだけ求めるのは不公平である。

わたしが結婚相手を選んだ時の条件は、自分とほぼ同じ環境にいる人、似たような背景であること。
おそらくそれまで無自覚で気づくことなく無意識下で眠っていても、根っこの価値観が同じだろうと想像した。
上でも下でもなく、横滑りを狙った。
釣り合いを重視した。
ご両親を見ると、だいたい人物は大まかにわかる。
子供へのDNAも、お互い様。
トンビは鷹を産まないかわり、そう変種も産まないだろうと考えた。
総合トータル点は似たり寄ったり、のはずだ。

中には高得点の人もいたが、後でわたしが苦労したことだろう。
身の丈より少し上に伸びるには、大変だ。
下にダウンするのは簡単でイージーだが、わたしは自分より下は望まなかった。
わたしは上がっていくには苦労しても良いと考えたが、下がるのに苦労って、そんなことは苦労の意味がない。
向上はあっても、時として停滞はあっても、わざわざ意図的に下降を選ばない。
運が悪く、やむを得ず下降ということもあるだろうが、それはそれ。
とりあえず、まずスタートは、明るい未来がありそうな選択をした。
条件が同じなら、人物がキーとなる。

どっちにしても自分が選んだ道は自分で責任を取らなければならない。
泣きつく先はない。
幸い、泣きつくような事態は起こらなかったが。


どの人と結婚してもあまり変わらなかっただろうと後になって思うのだが、
何しろわたしは一生懸命、頑張ったのだ。
頑張りはすぐには結果が出ず、諦観の先、「果報は寝て待て」状態で、落ち着いた。
がむしゃらの時は、その最中には答えは出ないことを学んだ。

わたしが動いたのは、結婚する時ぐらいか?
学生の時も頑張ったが、学業はムラがあって、泣きを見た。
今、思うと、10代の頃が1番キツく辛かったかなあと。

さて、と。
偶然について、考えてみた。
偶然は、必然の導きの結果かも知れない。
力を抜いた時に、蓄えていたパワーが動き出す、そう感じる。
人事を尽くして天命を待つ。
たいした力もないわたしだが、それだけに、自分に向き合い、自分の幸せはどこにあるか、どうすれば手に入るか、目利きの目を研ぎ澄ませる。
どよ〜んと濁っていたり、あまりにも理性より感情に傾きすぎると、見えるものも見えない。

これは力が弱い、微力ゆえの自己防衛本能である。
こんな生き方は、令和の時代では理解できないだろう。