蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

今日も楽しく一日が終わった

2020-08-30 | 日々のこと
恒例の休日お出かけ。
出かける時間帯になると、ラインが飛び交う。
今日の予定、ファミリー内、擦り合わせ、調整。
各自、我が家に何時入り、とか、用意するものとか、伝えてくる。
思えばいつの間にか、システムが構築されている。
便利というか、スケジュールが定期化して恒例行事になると自然に整うようだ。

家族メンバー各人が思い悩むことなく、自分の予定をこなせる幸せ。
無理しないスケジュール、いや、多少無理しても、こなそうと思えばこなせるスケジュール。

しかし、面白いのは、グループラインのメンバー組み合わせ。
1対1(2人グループ)でもたくさんある。
1対1で存在しないラインは「長男&わたし」だけか。
疎遠ぶりが浮き彫りになる。
たぶん、「次女&長男」ラインも存在しないと推測する。

あとは、3人グループ。
4人グループ。

5人グループは、なし。
5人家族なのに、全員揃ったグループラインがないところが、なんともかんとも摩訶不思議。

夫と長男が微妙な参加具合。
ラインメンバーに長女の登場が多いところから、長女は我が家のリーダー的存在であることがうかがい知れる。

と、調査報告しても始まらないのだが、書き出してみたくなった。
というわけで、わたしの家族メンバーは微妙なラインネットワークで、連絡を取り合い、コミュニケーションを図っている。

仲間はずれだった夫と長男が今年?(だったか?)ラインに加わった。
ラインは男性はあまりマメではないと想像する。
なので、最低限の連絡のみであるが、中には共通の話題もある。
姑の介護、医療方針についての、各人、意見の交換も最近行われた。
リモート家族内会議のようなものだ。
結構、皆んな、真面目に向き合ってくれる。
日頃は連絡なしで離れていても、いざという時は結束していると感じる。

若い学生さんたちの友人ラインとはまた特徴が違う。

ちなみに、ラインは便利ではあるが、わたしはあまりたくさんの人々とはラインしない主義である。
姉&親戚とのラインもある。
あ、そう言えば、古くからの知人も最近一人加わった。
しかし、あまり増やさないことにしている。

使い方によっては効果的かも知れない。
が、少し面倒な時もあるようにも思う。

今日のブログ記事、なかなか終了しない、まとまらない。
で、無理矢理、〆。
ライン連絡を交え、今日は楽しく家族揃っての8人(うち一人は生後3週間)合同夕食を終えて、いたって満足している。

単なる日記になった。


熱いわたし

2020-08-29 | 日々のこと
ぼんやりしていて電車を乗り過ごした。
スマホも飽きて、スマホ画面は真っ黒。
ぼーっと、なんにもしていなかった。
そういう時は、脳のスイッチが完全に自動オフになってしまっているようだ。
省エネ節約モード。

禅では、何も考えない時間が修行になっているとか。
そうすると、わたしは、禅の無の境地においては、師匠になれるかも知れない。
ただし、その分野のみ。

逆に、何かを建設的に筋道立てて、計画立てて、ノウハウも用意して考えるのは苦手かも。
極楽に向かって楽しんでいるだけだから。
大した計画はない。

しかし、、、
自分を守るためには、本能的に自分で色々考えるようだ。
自己チューは自分を守る。


さて、
行きに書きかけたブログだったが、帰路、帰りのスマホいじり。
これまた、アタマ真っ白。
またまた禅。
しかし、家まで帰らなければならない。
しかも、今日と明日分、食材買い出しをしなければ。
ああ、しんど。疲れます。
でも、これがわたしの生きる道。
大げさ。
これがわたしのメリハリ。
そう、メリハリなのだ。

暑い暑い酷暑の真っ只中。
わたしは好きなことが出来る幸せを噛み締めている。
ちなみに、車内の冷房が気持ち良い。
これもメリハリ。

支離滅裂であるが、そんな日もある。
わたしは今、生きている実感を掴んでいる。

読んでくれた方へ。
すみません。
次はちゃんと書きます。

「糸」で涙する、、、

2020-08-28 | 日々のこと
ブーツ先生のレクチャーによる、パラノ型人間と、スキゾ型人間の分類。
わたしは、スキゾ型、自由精神の持ち主であり、分裂型のようだ。
そう言いつつ、自由精神の心底には、偏執、こだわりがある。
なので、MIXバランス型。
そういう人は多いのではないだろうか。

自分の身の安全を冒してまで、魂の叫びを重要視しない。
踏み絵とか、いともカンタンにしてしまいそうだ。
舌をべーっと出しながら、自分を守るためには、思いと行動は真逆だったりする。
だから、分裂型とも分類されるのだろうか。

自分が大事にしていることのためには、道化師になっても平気。
涙も流すが、たぶん、平気で自分を裏切る自分への涙だろう。

なんて人なの!と非難する人がいるとする。
パラノ型、偏執型の人かも知れない。
自分以外の考え方を否定する。
まあそうしないと、なんでもオッケーだと、グニャグニャで人生を歩めない。

わたしは、別に他者を否定はしない。
ただ、自分とは違うと考える。
しかながら、今の時流は、「皆、違っていい」だが、なんだか胡散臭い。
競争させないで、自然発生的に磨かれた良いものが生まれるか?
磨かれるためには、切磋琢磨が必要。
ぽっとアイデアだけ出しても、実現不可能のものなら、単なる独り言だ。
「実現への筋道や方法は、他人に任せて」なんていう、お気楽理想家がいるなら、わたしは痛いと感じる。
言うだけなら誰でも大統領になれる。
声の数が増えるとパワーや、うねりにはなるが。

抽象的なことを書いた。
何人かの人は寝てしまったかも。

さて。
半沢直樹、面白く見ている。
何が面白いかというと、あの大袈裟な表情、表現。
歌舞伎役者を多数起用しているのには、そういうところに、制作側の意図があるのだろう。
それにしても、表情筋、どうやって派手に動かすのだろう。
興味津々。

それはそうと、、、
映画「糸」を観た。
後ろの席の女の子が終演後に「めっちゃ泣いたわ。2回号泣したわ」と一緒に観ていた友人らしき人と話していた。

じつは、わたし、、、。
号泣どころか、マスクの下は、鼻水の洪水。
涙だけでは飽き足らず、鼻水、、、。ズルズル、、、。
号泣部分は、マスクをパカパカしながら、周りに気づかれないように誤魔化した。
いい歳したおば(あ)さんが、まあ、なんと、、、である。
女性はいくつになっても純愛物には弱いのだ。

ちょっと演出効果を狙いすぎたのか、見せ場、盛り上がりシーンが長すぎると感じる部分もあったが、まあ、それはそれ。
中島みゆきの曲が、全編に効果的に流れていた。

「糸」は、今、小2の一番上孫が保育所最後の年の生活発表会で皆んなで歌っていた。
5〜6歳の子供が、思いっきり大声を出して、がなりたてて歌っていたので、彼らには歌詞の意味なんてまるでわからないだろうと苦笑した。
担任の保育士さんの好みでチョイスしたのだろう。

それはまあそれとして。

菅田将暉。イマの人。勢いがある。
最近、映画館で観た菅田将暉、覚えているだけで3作。
「火花」「アルキメデスの大戦」そして今回の「糸」。
彼の先っちょがとんがった鼻がキュートでチャーミングなのだが、可愛すぎて整形疑惑も浮上しているとか。
わたしは彼の歌も大好き。
はっきりした発音でよく通る良い声、確かな歌唱力。

、、、と、小学生低学年日記になっている。

なにしろ、好きな俳優さんなのだ。
小松菜奈も映画館で女優デビュー作「渇き。」(2014年)を観たことがあるが、映画の役は嫌いだった。
が、作り込まれた役柄、ストーリーなのだろう。
「沈黙  サイレンス」(2016年)にも出ていたようだが、これまた映画館で観たけれど、その時は小松菜奈だとは知らなかった。
映画そのものは、なかなか暗く重いものだった。

と、話が長々、流れて、どこに行き着くのやら。
創作とわかりながらも映画の世界に涙におぼれながら、どっぷり、は、別次元に生きる時間。
人生を楽しめるひと時になる。。。

他のブロガーさんの映画評論の素晴らしいブログがアップされるだろうから、内容についてはそちらをご覧ください。

と、ボールをよその方に投げて、今日は終了します。
長々お付き合い、ありがとうございました。

凡人と非凡人の違い

2020-08-25 | 無題
人は一長一短、表裏一体。
ある人物。
素人の趣味の世界で活躍しておられる。
社交ダンスなのだが、踊りは努力で一歩一歩這い上がって、今はお上手になっておられる。
努力家。
人当たりも良い。
ダンスが上手くなるとステキな上級女性に相手をしてもらえる。
それをモチベーションにして、頑張っている人。

それはとても素晴らしいと評価しているのであるが、一つだけ、わたしが気に入らないことがある。
それは、自分で自己PRが激しいこと。
アピールしなくても、知る人は知るのに、ダンス動画をどんどんアップする。
見て見て見て見て!と。
嬉しい気持ちはよくわかるが、わたしの嗜好としては興醒めである。

アップしないと普通の人は知らないだろうから広報活動されているのだろう。
その人を現場でもリアルに目にすることはある。
自然な形で皆さんに知られるようにはできないものか。
それでは地域限定になるし、時間が足りないのか。

どんなに素晴らしくても、自己PRする時点でわたしは、NGとなり、拒絶反応を示してしまう。
あれさえなければ、高く評価するのに。
自分から示さなければ、周りからの自然な反応を待てないのだろうか。
どんなに優れた人でも、自分からそれを言うと、青い鳥は途端に黒くなる。

「わたしは人格者です」と言っているようなもの。
自分で言っている限り、人格者ではない。

「わたしは、とても上品です」と、自分で言っている限り、上品ではない。

たったその一点のために、オセロゲームの白が一瞬で一気に黒に変わるような気になる。

あと少しが待てない。
忍耐力がない。
その「あと少し」は、一生、クリア出来ないと思う。
いつもカツカツの精一杯背伸びした状態は、短時間、維持出来たとしても、さらにそれ以上の飛躍や活躍、発展は望めそうもない。
出来るか出来ないかわからないが、目標を公表し、目標達成を先に宣言して自分で追い込むタイプもいるだろうし、努力が昇華される場合は立派だと尊敬する。
だが、まだまだ、女性にモテたいという腹の中、魂胆が透けて見えるのがよろしくない。
素直な心情の発露なのだろうけれど。
わたしには、小さく、痛く映る。

あの、「見て見て見て! スゴイでしょう!」という性根は直ることはないと思う。
単なる好みの違いかも知れないが。
底の浅さが透けて見えるようなことをわざわざ何故するのか、わたしにはよくわからない。

ポテンシャルというものは限りなく底が深いものだと思っている。

ある、学生時代の元同級生が、いかに今の自分がスゴイかということをさらっと同学年の皆を前に壇上で説明した。
当時は何も知らないわたしは、どうってことを思わなかったが、いやはや、スゴかったのだ。
無知な人に、どうすればスゴさを知らせることが出来るか。
さらっとした口にした言葉を後でググッてみると、スゴかったわけだが、言わなければわからないことと、言ったら値打ちが下がることがある。
分野によるのだろうか、、、。

自分の動画をアップしている人の高まる気持ちに冷水をかける権利は誰にもないと思っている。
熱い想いをアウトプット出来て良かったね、と、暖かい応援の目で見るものの、ああ、惜しいなあ、と、かたや思ってしまう。
人間には器があり、誰しも完璧ではないし、出る杭は打たれる。
打たれない人はいないのでは?
いかに打たれ強く、自分を持ち、自分を表現していくかだと思う。
何ごとにもリスクはつきものだから。
それが嫌なら誰もいない家で寝ていたら良い。


蛇足です。
gooユーザー向けサービス「アピールチャンス」に、機会があればブログ記事を恥ずかしげもなくアップしている自分も、さほど変わらないかも、、、。
んーー、、、でも、少し微妙にニュアンスは違うのだけど、他人の目からすれば同類に映るかも知れない。


頑張れ!自分!

2020-08-24 | 日々のこと
暑さのせいか、ブログアップ意欲が低下している。
今朝、巡ってきたgooブログユーザー向けアピールチャンスは、トライしたものの、滑りに滑って、よく、「しばらくご無沙汰宣言」「休筆宣言」をしないものだと、自分の打たれ強さ、太々しさに少し驚いている。
非社交家のわたしは、あちこち、ブログ営業に出ることもなく、私生活と同じで独りぼっちでも何の問題もなく暮らしている。

拙い弊ブログ、アップする度に、いつも律儀にご訪問いただくユメ様、ありがとうございます。
肩がけミニバッグを斜め掛けしたユメ様の歩く姿や、コンビニで購入されたペットボトルのお茶を木陰のベンチに座って飲みながら、小休止されている姿を想像している。
顔や体格、全身イメージ像まで、なんとなく勝手にぼんやり思い描いている。
ブログとは不思議なものである。

多くの人と交流したいとは別に思わない。
先日は、ミュンヘンの(わたしの一方通行、勝手な妄想お友達の)知り合いが、ブログ村を後にしてお引越しし、遠いところに行ってしまった。
お引越し先に毎日訪れているが(ブログストーカー?)一向に更新されない。
ブログ村に在籍されている時は、定時に必ず毎日更新されていたのに、タコの糸が切れたように、日々、時計のように律儀な更新が、まるで無かったかのような幻覚、幻影だったような気にさえなる。
緊張の糸が切れると、人はそんなものだろう。
将来、ミュンヘンのギャラリーに行く自分を楽しみに想像していたのに、寂しくて残念だ。
点滴している血管が一つ、詰まってダメになってしまったようなかんじ。
行動を起こさないで、棚ぼた式にただただ、落ちて来る果報をこのあたりに落ちて来るかなと背中にカゴを背負ってぼーっと立っているだけのわたしだから、致し方ない。

最近は益々、大切に思っているものが両手からするする溢れ落ちるような気がする。
それは、わたしの怠慢のせいで、エネルギーや時間、労力を割かないからに過ぎないと思っている。
怠慢は、わたしの気力や原動力が低下しているからだろう。
ギラギラした欲求がない。
是非とも、という強い要望が湧き上がらない。
自然に天からの恵みを待つかのように、待ちの姿勢、受動態そのもの。

望むものがあまりなくなった分、失望することも少なくなる。
ピカピカしたものやドロドロしたものが、洗浄、浄化されてきているように思う。
生きる気力もついでに減少しているのかも知れない。
ある意味、こころのミニマリストである。

長女が、認知症になったら生きている意味がないと言う。
そんなことはないよ、と静かに反論した。
認知症といっても程度があり、100%すっかり認知症になるのはある日突然にはならない。
少し発症して、また揺り戻しがあり、また進み、まだらに正気部分があり、日や時間によって症状が違う。
びしっと決定的に断言して切ることはできないと思う。
わたしはまだ生きることに対して執着心があると感じた。
この執着心がなくなると、気力が失せ、老人性の鬱になるのだろう。

アンチ・アンチエイジング派なので、自然にまかせて、鬱になる日が来るやも知れない。
が、今は元気である。

ちなみに、
昨日もわたしのライバル女性とお会いした。
彼女は83歳だが、踊る姿や肉体美はとても年齢には見えない。
お腹も出ていないし、贅肉もなく、かといってガリガリではなく、ほどよい肉付きで、均整のとれた体つき。
ハリのある髪もふさふさ、いつも綺麗に優雅な女性らしいヘアスタイルを維持され、顔もツヤツヤ。
わたしは20年後はとてもあんな風になれる自信がない。

「踊ってないと、腐っちゃうからねえ」と、おっしゃる。
ハイヒールで踊るのは結構大変だし、ちょっと気を抜くと大事故につながる。
わたしはいつまで踊れるだろう、、、。

今、コロナ禍もあるが、社交ダンスを取り巻く環境が変化している。
男性余りとなっている。
女性余りで男性優位だった、かつては偉そうにしていた男性たちは、優秀な人以外は淘汰されそうになっている。
趣味の世界にも女性のパワーを感じる。
冷遇され悔し涙を飲んでいた女性たちが、自分たちが立ち上がり、試行錯誤し、構築した新しい波がやって来ている。
とても力強く、心強い。

そういう話を書いていると、なんだかまた元気が溢れてきた。
単純なわたし。
今から買い物に行かなければならないので、ブログをどう軟着陸させようかと焦っている。
ので、、、
〆は、いつまでも元気に頑張ろーーー!!!である。

失礼しました。


熱帯夜にもエアコンを使わないワガママ

2020-08-23 | 暮らし
暑い一週間が過ぎた。
屋外もさることながら、自宅の寝室で熱中症で亡くなっている人もいるようだ。

わたしが寝室として使っているのは二階の元、息子の部屋。
そこのエアコンが故障したまま何年にもなる。
が、窓は開け、扇風機が回っている。
ただし、扇風機から吹くのは熱風。

ニュースではエアコンをつけろ、と口うるさく言っている。
中には、エアコンが壊れている家も、エアコンがない家もあるだろう。
修理したくても出来ない事情もあると思われる。
自分の命を守れと散々、テレビでは言うが、言うだけ。
補助金なし。
一日何回もお風呂で水浴びしたりする苦肉の策の人もいると想像する。

わたしの知人で、エアコンが壊れていた人がいた。
もう四、五年前の趣味関係の知り合いで、今はどうされているのかは知らない。
かなりお金には困っていた。
10円単位でギリギリの生活を送っていたようにお見受けするが、生活費を削って趣味のお金は捻出されていた。

そもそも、その人にお金がない理由は、若い頃、貯金せずに遊んで全て使ってしまったせいである。
だが、人のお金をアテにしたり、憐れみやご慈悲を頂戴したり、そんなことはその人はプライドが許さないと考える。

万が一の時、病気などで、国の補助を受けるのは豊かな国でこそ。
活用できるものは、活用するのが良いと思う。

が、借金まみれの日本国も破綻しないとも限らない。
最後は国頼みと気楽には考えず、そうなないように出来る限りは自分でどうにかしたいものだ。

とりあえず、このまま、扇風機、転じて熱風機で、この夏を乗り越えるつもりだ。
万が一、熱中症で救急車で搬送されたりでもしたら、医療関係の方々や国やら、家族やらに多大な迷惑をかける。
なので、ちゃんと命の危険が迫る暑さなのかどうかは、自己責任で判断しなければならない。
しかしこれは、ある意味、体感温度が高すぎる、エアコン依存症の夫に対する抵抗、反逆、反骨精神でもある。
そして、なぜか娘たちも、大のエアコン・アレルギーになっている。
が、当然ながら、命の危険を視野に入れてエアコンを利用しているようだ。



悪口三昧

2020-08-22 | 人々の風景
喫茶店に入った。
周りのお客さんたちは、ペチャクチャとよく喋る。
別に聞くともなく、勝手に聞こえる。
じつに、しょうもないことを延々と、くっちゃべっている。
だれに迷惑をかけるでもなし、友達らしき人同士が、共通の知人をこき下ろしている。
悪口オンパレ。
ああやって憂さを晴らしストレス解消して、休み明けにはまた元気に出勤することだろう。

先日も別の喫茶店で友人同士?が、他人の悪口をぶちまけあっていた。
耳ざわりはかなり良くない。
まあ、人間のホンネだろう。
鬱病になるよりはマシ。

聞かなければいいわけで。
耳に栓をするか、注文したものをとっとと食べて店を出ていけばよい。

人の悪口は嫌なものだ。
そう思うと、うちの子供たちはそういう会話はしないなあ。
悪口を延々と喋るのではなく、スパッと斬るというかんじか。
世の中の人は、人に聴いてもらってストレスのはけ口にしているようだが、私は御免こうむりたい。
嫌な真っ黒なドロドロ、、、悪口を言っている人だって、本人もちゃんと出来てないんじゃないの?
自分の不出来を世の中に晒しているようなもの。
と言っても、特定の友人に向けてだが。

お近づきにはなりたくないので、その場限りの一期一会の喫茶店のご縁。
と言っても、縁はない。
アカの他人。

わたしもブログでは思いっきりそうなっていることだろう。
お読みになられた皆さん、すみません。

地味な道

2020-08-21 | 思い出
今朝、地区指定日のゴミ出しをした後、汗をかき、タオルで顔を拭いた時、顔が痒かった。
何かにかぶれたのかな、と、ふと鏡を見た。
痒い部分は少し赤くなっている。
触ると益々痒くなるので気になるものの、我慢した。
と、それはまあいい。
マジマジと顔を見た。
うーーー、、、ん、、、

絶句、、、

シミだらけ。
もし、わたしが女優なら有り得ない。
なんと醜い顔か。
こんなに素顔が汚いとは。

しかし、女性はメークで化けることができる。
ましてや、今は、マスク。
ほとんど顔がわからない。
わたしのようなシミや斑点だらけの顔の男性を身近に知っている。
男性は通常、お化粧しないので、そのまま現れる。
悲惨に見えるか?
わたしはその人を見ると、よく見るとシミはあるが、あまり気にはならない。
俳優ではないので。
誠実で柔和な良いお人柄が滲み出ている。

ただ、最近、その人は体調不良で入院したりしている。
顔色は良くない。
元気もない。

わたしの顔。
シミやら斑点やらは賑やかだが、血色は良い。
張りもある。
シワは歳相応にあるが、お化粧をしなかった中高生の頃も、こんな顔だったような、、、。
美的面では最低だが、健康面では最上。
まあいいかーー、、、と、なる。
見かけにも色々。
コンセプト、斬り方によって評価は全く違ってくる。

まだ子供が小さかった若い頃、夫の転勤で東日本に住んでいた。
証券会社の営業マンが、飛び込み営業で当時住んでいた家をアポなし訪問してきた。
今なら絶対に、玄関チャイムが鳴っても宅配便や郵便配達以外は、応答しない。
その頃はまだ30歳手前?
はーい、と、ドアを開けていた。

今思えばオレオレ詐欺まがいの強硬なやり方で、言われるままに、はいはいと定期預金をさせられたりしていた。
しかし、わたし自身には被害者意識ゼロだった。
当時の社会はバブル真っ只中、右肩上がりの経済の影響を受けていたのかも知れない。

飛び込み営業マンは、新卒新入社員で飛び込み営業は、初めての経験だったらしい。
いくらかの金融商品を買ったのだが、その後、彼は別支店(西日本)に転勤になった。
それがまた奇遇にも、わたしの実家の隣の隣。
実家に帰ったついでに、手続きでその支店に寄って彼と再会した。

その時、彼はえらく驚いた。
「まったく印象、見た目が違いますね。こんな方だったとは、、、」
子育て中の地味な女性は、意外に別の顔から発するオーラを持っていたことに、若い彼はびっくりしていた。
見かけだけなのだが、人は見かけで変わる。
見かけや住まいや環境に、先入観を持つ。

あれこれ想像力や創造力を駆使すると、いろんな展開があり得るが、実際にはわたしは地味な地道な平凡な生活を送った。

わたしって、結構、真面目なんだなあ、、、と振り返って思う。
目立たない地味が好き。
目立つと、小説や映画のようなストーリーになることもあり得る。
読者や観客として観るのは好きだが、自分が演じるのは好きではない。
そして、この、自分の地味な道、とても気に入っている。

働かざるもの

2020-08-19 | 人生
わたしはお嬢様ではない。
両親、親戚、周りの人々は労働者。
遊んで暮らしていた人はいない。
強いて言えば、晩年、病気になって伏せてからは祖父は仕事はしていなかった。
当たり前だ、それまではバリバリ働いていたが、病気になると寝込んでいるので。

皆んな、働き者。
なので、お殿様やお姫様のような人はいなかった。

中には親戚で、口のうまい怠け者の人はいたが、あまり働かずに果報だけを手にしたがったのではないだろうか。
父は、その人物に何度か支援していたようだ。
と言えば聞こえは良いが、お金の無心に来られて、別に弱みを握られていたわけでもないのに、親戚の縁ゆえに、お金をあげていたのだろう。
この人物のお孫さんも、一流大学を出て、一流企業に勤めていながら同じような行動をしていた。
血は争えないと感じた。
祖父であるこの人物と孫は一緒に暮らしたことがないのに、血は目に見えないものである。

わたしは幼い頃、この人物が父のところにやって来ると、少し嬉しかった。
なぜなら、子供にとっては大金(いくらか忘れたが)をぽーんと、いつも気前よくくれた。
当然だ。
その何十倍、何百、何千倍?ものお金を父からゲットしているのだから。

なにしろその人物は、いつもきちんとした良い身なりをしていた。
身なりや風態では人物はわからない、とわたしは思う。
ある程度、外見に中身は現れるとは思うが、役柄を演じる俳優や詐欺師は別である。
幼い頃から、わたしはなんとなく嗅ぎ分けていた。
外側には騙されないぞ、と人物判定基準や方法が今でも染み付いている。
口が上手い人は要注意。

夫側の親戚だかなんだか知人だかにも、そういう人物がいた。
大きな儲け話を持ちかける。山師?
時代も今とは違うから、大正、昭和、激動の時代とすると、色んな話はあったのだろう。
夢話にほいほい乗るのは、人の良いおぼっちゃま。
自分が汗水流して苦労してきた人は、そうマンマと出来すぎた話には乗らない。
そうやって家が傾くことはよくある。
が、次の代で、また持ち直すこともある。
わたしは、NHKの「ファミリー・ヒストリー」のファンだから、そういう話はたいそう興味がある。

しかし、ファミリー・ヒストリーもいろんな人が登場するにつれ、見る側はだんだん慣れてきて、もっとすごいヒストリーはないのか?と期待してしまう。
というか、番組サイドで制作にあたる時間やスタッフが不足している感が拭えない場合もある。
せっかくの良い取材ターゲットなのに、掘り下げが浅く、とても惜しい。
魚一匹丸焼きにして、真ん中の部分と左右をちょいちょいと突くだけ。
もっと端や頭の部分に面白いことが詰まっているのに、さささーっと駆け足で走り過ぎる。
一昨日観たのは、漫才コンビ「ナイツ」。
二人一度にルーツを紹介されたので、まあ仕方ないか。

何編ものファミリーヒストリーを見ていると、ある程度の法則のようなものがあって、面白い。
番組側としても、コンセプトを決めようとする意図が見え隠れする場合もあり、見る側の自然な感想を邪魔することもある。
作り手は、視聴者を意識しないわけにいかず、どうしても企画してしまうのだろうけれど。

でも、大好きな番組の1つである。
各地に歴史を実証する資料が残っているところが圧巻だ。

話を戻す。
お嬢様にはなれないわたしは、理想のお嬢様を見ると脱帽する。
お嬢様に限らず、どんな分野にも秀でた人は才能と努力が隠されていると感心する。
お人形さんのような、何も考えない、何もしない人は、たぶん、ちゃんとした生活を送れないのではないかと想像する。
働かざるもの、食うべからず。
今更ながらの感想である。


お嬢様

2020-08-17 | 無題
わたしのブログは、おそらく同じような背景を共有する方がお読みになると思っている。
あるいは、真逆の背景の方の、好奇心から。
共感される要素はレアだ。

さて、レアついでに。
姑は正真正銘のお嬢様認定を孫(わたしの次女)にされたわけだが、、、。
その他の人々は誰一人、お嬢様認定されていない。
その理由は、、、
ひとつには、社会背景。
時代と共に社会は移り変わり価値観も変わる。
その中で、頑固として旧式の価値観を持ち続け、維持しているところが、お嬢様殿堂入りの一番大きな理由だと推測する。
今の時代なら、もし未婚なら親に扶養してもっている「ニート」(ひと昔前なら、妙齢の場合は花嫁修行中、家事手伝い)、既婚なら「専業主婦」(ひとくくりにしすぎ)。

我々は、お嬢様認定を受けなかった理由の一つには、仕事を持っていたことがある。
お嬢様は仕事をしてはいけない。
もしするなら、慈善事業だとか、非営利のものでなければならない。
たとえ、お小遣い程度でも、お金を稼いではいけない。

ただし、ばんばん使うのはオッケー。
建設的ではないが、文化的なことなら尚更オッケー。
前にテレビで紹介されていた20歳ぐらいのお嬢様がいた。
ブランドで身を固めて一月のお小遣いは100万円ぐらい、親に貰っていた。
わたしの価値観とは全く相容れないと感じたが、世の中にはいろんな親がいるものだ。
アリとキリギリスのキリギリス。
若いうちの経験の一つなのだろうか。
身体に悪い飴を与えすぎの、一種の逆ネグレクトと感じた。
子供は被害者かも知れない。
ある意味、気の毒である。
テレビは視聴率さえ稼げればなんでもありなので、人々の好奇心を満たすためには、どんなことでもする。
(超個人的には、くだらなさすぎる番組が多く存在することにはヘキヘキするが、一瞬でも番組を観ている事実には変わりない)

と、老人的ボヤキはさておき。

その、次女が姑に対して認定した「生粋お嬢様」が嫌いではないと言う次女。
わたしが思うに、絶滅種への憧れなのではなかろうか。
次女はお嬢様どころか、アンチお嬢様である。
(実質的にお嬢様かどうかはさておき)
自分の背景は絶対に他人(特に会社の人)には知られたくないようだ。
なぜか、理由を聞きたかったのだが、口に出して質問するのもなんだし、うやむやに、そのままにしている。
まあ、わからないでもない。

姑のように、お嬢様色全面モードは、今時は、生きづらいのではないだろうか。
過去の残像と現在を比較する必要はないが、無意識にそうなることが多いと想像する。
というか、古き良き時代の思い出として、大切に胸にしまっておくのは悪くない。
時々、出してきてはニヤニヤニコニコ。
誰が非難できようか。

が、アタマの古い価値観に縛られて、しかもその価値観を息子に植え付け、それが今のわたしの夫だとすると。
ああ良かったですね、と、微笑んでいられない。

わたしの姉も散々、夫の母親(姑)の「息子洗脳」に悩まされていた。
優秀なマザコン夫。
ママの魂は幽霊のように、生きている人に取り憑いている。

なので、不可侵領域ということで、干渉しないのが宜しいかと。
マザコン夫たちが、自分のアタマで考える頃には、順調に老化が進み、脳内も楽園お花畑に近いことだろう。
それでいいんじゃないかと。
人の脳内までコントロール出来ない。
妻がいつも不機嫌で、無愛想で、夫に無関心なのは、そういう思いを克服できなかった副作用なのではないだろうか。
ママからのコントロールから目が覚めて、目の前にいる生きた妻と向き合わない限り、夫婦間の対話は無理である。

まだ、ママだからいい。
これが、死別した先妻だとか、生き別れた元恋人だとかだと、目も当てられない。
そんな人とは絶対に結婚したくない。

お嬢様ひとつ取っても、孫や息子、嫁ではこんなに捉え方が違う。
確執って恐ろしい、、、。