蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

無駄口べらべら

2022-01-31 | 日々のこと
わたしは苦労したことがない。
大人になるまでは親に守られ、大人になってからも引き続き親やその他に守られていた。
が、よくよく考えると、そのせいで自立の道を阻まれていたかも。
自分なりに現状維持のための努力はしたが、それ以上になろうとは全然頑張らなかった。
維持するのが、やっと。

リセットされ一から出直すとしたら、、、
もうわたしは、桑田佳祐と同じ高齢者なので、その仮説を展開しても面白くない。
高齢者には高齢者のリセットがある。

高齢者になったわたしは、ユニクロのファン。
郊外店舗を展開したユニクロのフリース旋風が吹き荒れたずいぶん前から、今も昔もユニクロファンだが。
全国区に広がった初期の頃のユニクロ製品も子供やわたしは結構買っている。
UNIQLOとはタグには表示されていないで(株)ファーストリテイリングとなっている。
購入したのは20年以上前になる。
ブランドイメージは、上質で安い!で、最初、消費者は飛びついてブームを巻き起こしたものの、デザインが画一的、プレーン、シンプルすぎて痒いところに手が届いていなかった。
ブームは一旦静まったものの、一過性ではなかったようで、グローバル戦略、インターネットや物流体制、大胆なビジネスモデルは皆さんご存知の通り。

わたしの若い頃は、ファッションは高級品嗜好だった。
若いから、若さで見栄えする。
高齢者になると、草笛光子ぐらいにならないと見栄えしない。
服装は清潔感を保てたらそれでよし。
ダメージファッションは、NG。
本気で破れているとみなされる。
オシャレ心ゼロ、代わりに憐れで気の毒で痛い、、、同情心。
個人的には藍色のカスリみたいなのモンペ風や羽織りものは、あまり好きではない。
手作り自然派志向は賛同するが、わたしの嗜好としては労苦が苦手で敬遠する。
なんだか自給自足を促され、さらに自粛要請されているようで。
華美は好きではないが、厳しそうなのはどうも、、、
電気やガス、水道は、自分で生み出すより、節約するほうがエコ。

ちなみに、話はころっと変わるが、、、
近頃、メルカリ病に冒されている。
メルカリでダンス用ドレス購入が止まらない。
昨夜も出品された同じモノを欲しがる競合女性に打ち勝ち、ゲットしたばかり。
病気だ。
しかし、購入数を見ると、競合女性はわたしよりはるかに、かなり深刻な病気である。
わたしなんぞ、かわいらしいものだ。
出費は絶対に収入を上回らない。
レボ払いはしないし、ローンも手を出さない。 
借金はしない主義。
と同時に貸さない主義。
いつもニコニコ現金払い。
ただし、くれるというものは、どんどん遠慮せずいただく。
コレクターのせいで、断捨離しないと、えらいことになっている。

今日の記事は〆られない。
無駄口おしゃべりのみで、強制終了します。

写真は、ドラえもんのアイスケーキ。






隙間の家

2022-01-29 | 思い出
(※写真と記事は無関係です)

・・・
昔、子供の頃に過ごした家。
実家1(田舎)と実家2(街)の隙間にあるような家。
これもある意味、実家というのかも知れない。
実家1は、大正時代建築の田舎の古い家。
実家2は、父の仕事場。
実家3が、田舎と仕事場を繋ぐ家。
田舎⇄仕事場⇄その家⇄学校

3つの家を行ったり来たりしていた。
わたしのベースを作ったのは田舎の家。
自然に囲まれたのどかな風景。
父が生まれ育った田舎の家で、わたしたちきょうだいも生まれ(途中まで)育った。
1番多感な時を過ごしたのは、隙間の家。
わたしは小学生高学年から22歳まで。
姉は中学1年から23歳まで)
今もハッキリくっきりその空間を手に取るように覚えている。

両親は主に仕事場で仕事をしていて、ほとんどその家には寝に帰るだけ。
子供たちだけだった。
姉、兄、わたし。
姉とわたしは、二階の奥の和室の窓側(東)(床の間と反対側)に背中合わせに勉強机を置いていた。
兄は二階の手前の和室を独り占め。
窓側(北)に勉強机を置いていた。
兄は中学3年から18歳までそこで暮らした。

兄が出て行った前後に、姉が一階の勝手口近くに増築された洋室を、個室として確保。
わたしは、姉がいた時は畳に布団を並べていたが、姉が居なくなった和室に、ベッドを置いて、一人でいた。
兄が居なくなった和室はそのまま使われず、わたしの和室に行く、たんなる通り道となった。
兄がいた和室は6畳ぐらい?
わたしたち姉妹の和室は、8畳ぐらい?で、畳に続いて、腰から上に窓のある板の間(東側)があり、更に人が通れるぐらいの幅数十センチの木製ベランダ?付きの上から下まで窓一面(南側)に面していた。
そして、床の間(西)(続きに違い棚付き)があった。
木製ベランダは、雨戸を閉めるために作られていたと思われる。
周りには陽光を遮る高い建物はなく、明るい。
一階はガラリと格子戸を開けて玄関があり、3歩?ぐらい進んで玄関を上がると、2畳か3畳程の玄関前の畳敷小部屋?(待ち合い?)。
そこを通って、右手側に改装された洋室(田舎の家から搬入されたと見られるピアノと、応接セット、ステレオ。昭和色そのまんま)、左手南側に和室2室続き(道路南側和室前には小さな細長い庭、その前は道路から隔てるための塀)、北側、お風呂とトイレの前に小さな庭、台所、カー・パーキング・スペースがあった。
50坪ぐらいの敷地に建てられた、しっかりした戦前の街の家のようだった。
十分、レトロ感ありありだったが、機能性は良いものの、住み手は忙しく、ほったらかし風だった。
姉は途中から増築洋室に移ったから良いものの、わたしは、畳にベッドという、いかにも時代の継ぎ目の、生活優先、インテリア感覚を無理矢理押し殺したような部屋だった。
特に二階のわたしの部屋は、当時(60年以上??前)流行った、かなり暗い濃い色に、キンキラが散りばめられているような和室仕様の塗り壁で、エグかった。
そのエグい塗り壁の色違いが、夫の実家の別棟に施されていて、わたしはそのテイストが嫌いだった。

が、立地は抜群。
学校の生徒の中では、一二を争うほど学校から近かったのでは。(一二の成績を争うほどなら良いが)
とはいうものの、学校に隣接する、学校の真横に家がある生徒が二人いて、その子たちには近さでは負けたが。
電車通学の生徒が少なくなかったため、学校から駅までの、休憩場所にはぴったり。
駅も、電車やバス、色々。
駅を利用して、東西南北、あらゆる方向から生徒が通学していた。
その中で、駅に向かう道の、ど真ん中にある家だったので、クラスメートのほとんどは来たことがある。
親が不在なこともあり、気軽に皆んな寄ってきた。
ただし、悪の巣にはならなかった。
悪自体が存在しない学校だった。
わざわざ遠路遥々通う生徒、嫌なら通わない。
登校拒否生徒はいたのだろうか?
せっかく勉強して受かった学校だから、辞める生徒はあまりいなかった。
地元では優秀でも、地元を離れると優秀な生徒だらけ、、、という話はよくある。
緊張の糸が切れ虚無感に襲われたり、、、。

わたしは、そんなイバラの道を経ず、くじ引きで合格した。
運がいいのか、悪いのか。
(その後は、くじ引きはなくなったようだ)
うちぐらいだ、遠路でもなんでもない、すぐそこ、至近距離に家があるのは。
学年をまたぐと、数人、近くの子もいた。
ちなみに、学校というものは、近ければ近いほど便利だ。
というわけで、秀才の皆さんの中に混じって、家が近いわたしがいた。

家の構造よりも、学生生活と切り離せないのが、実家3・隙間の家。
実家1も実家2も(2は姿形は変わったものの)今も存在するが、実家3はもうない。
今は、知る人ぞ知る地元老舗店舗の駐車場になっている。

この隙間実家、、、昼と夜の顔がある。
これを書き始めるとまた長い。
まだ今の年齢では書く気がしない。
もっともっと歳を重ねたら書くかも知れないし、書かないかも知れない。

何もしない、動かない

2022-01-28 | 日々のこと
好きなことを書きたいのだが、、、
何度も何度も何度も蝶ブログで書いているが、、、蝶ブログは、かなり近いリアル人(家族含む)も知っているブログだから、滅多な嘘は書けない、とことん真実も書けない、いったい何を書くのか、、、
差し障りのないことを必死でギリギリまで書くって、けっこうしんどい。
書ききれないから欲求不満も溜まる。

だが、書いていると段々、自分の世界にどっぷり。
家族やら知り合いやら、吹っ飛んでしまう。
が、家族のことを書いている時はそういうわけにはいかない。

先日、電車の移動中に、別SNSで、思いっきり悪口三昧を書いて愚痴った直後に、待ち合わせ場所で当人と顔を合わせた瞬間、、、さすがにあんなにこき下ろして悪いなあ、、、と、気の毒になった。
ごめんごめん、言いすぎました、、、と、こころの中で謝罪し、優しい気持ちになれる。
本人は悪口も謝罪も全く知らないことだが。
マイナス感情を一気にガーーっと吐き出すと、空気抜きになる。
こころの空気清浄機。

なので、感情が溢れ出て、いったん走り出したら壁に激突するまでは、全力で走る。
といっても、理性のブレーキも使う。
長い下り坂、曲がり道ならエンジンブレーキのこともある。

ちなみに、わたしは、家族に対する愛は結構濃厚であるが、生まれつきサボりなため、あんまり頑張らない。
なので、家族はわたしが薄情な人間だと思っているかも知れない。
これもわたしの無意識の空気抜きなのかも。
血はあまり濃すぎるのはよくない。

わたしは家族について熱く語ることはない。
こころの中では愛を注ぎ大切にしているが、別に特に書きたいことはない。
わたしが書きたいのは、不満がもたらす疑問の追及。
喜びは書かなくても現実の世界で十分享受している。
プラスの感情や思いは発散され、何も残っていない。
いつまでも残るのは、マイナスの感情。
これは認知症の症状もそうらしい。
もういち早く、予習しているのか?
そんな予習は、やめよう。


話は変わるが、今週は、まるで軟禁されているか、はたまた入院しているかのような1週間だった。
快適な入院生活ではあった。
病気でもないのに、ご隠居さん。
ちょっとさすがにまだ早いかなあと感じた。
退屈というわけではないが、運動不足と食事内容が偏るかんじ。
自分の食べる物の栄養士、調理師は自分。
じっとしすぎて肩こりでも起こしたら困るが、少しだけ前兆はあったものの、何もしないのは、やはり身体が反乱を起こした。
どうやら、わたしはまだ若いようだ。

ブログもくだらないものをアップするぐらいならボツにするほうが、自分の満足がいく水準を維持できる。
が、2日も更新しないと、もぞもぞモヤモヤする。
で、つまらないものをアップする。
不本意だが、チープなわたし。

明日から3日間はまた忙しい。
忙しいのも嫌、暇も嫌、幼児のイヤイヤ期と同じか?
明日は、夫の実家に行く小学生孫たち(長女一家)に同伴出来ない。
平日は何もないのに、平日以外は用事が重なる。
スケジュール2部制。
うまくいかない。

ブログつらつら

2022-01-26 | ブログ
昨日、悪戦苦闘したスマホ決済のクレジットカード登録。
別のカードにしたところ、(24時間、30日)上限利用額が4000円から、いきなり25万円になり、なんだか落ち着かない。
で、上限額を(お勧め額ではなかったが)1万円にした。
5万円や10万円も推奨されていたが、1万円で結構。十分。
スマホ決済で支払う商品は1か月でこれぐらいの範囲で楽々収まる。
高価なものは、その場の持ち運び携帯モバイルであるところのスマホ決済にしない。
わたしは、まだスマホ決済に対して信頼を全面的にはしていない。
お財布小銭感覚で捉えている。

と、先ずは昨日した作業の微修正。
昨日は、国から付与されるグリーンポイントの申し込み期限がいよいよ来月に迫り、焦っていた。
これは、悩みに悩んでいた。
全部のポイントを使い切らないと、期限が来ると全てパー。
もう3回?、お知らせ催促ハガキが届いた。
今回の国の事務作業はかなり完璧だと感じた。
どこの省の管轄なんだろう?
(国土交通省のよう)
とりあえず、3つの商品を選び切り、残すところ100ポイントになったが、100ポイントの交換商品は見当たらず、諦めた。
(1ポイント=1円換算?)
3つ中、2つは、最短時間でスムーズに手続き&発送が行われた。
何重にもチェック体制が取られていたが、口コミ欄には、配達日時を変えてもらえなかったなどの苦情もあった。
各業者は、国と直結なので抜かりなく細心の注意を払っているように思う。
気持ち良いぐらいだ。
珍しい。(個人的感想)
国の仕事は、こうキレイに順調に進むことはないと今まで感じていたので見直した。
これは、管轄省(国土交通省?)の指導者か、はたまたその下の部署か、はたまた実践者か、それぞれの間での連結プレイが上手く行われていた。
あと1つ届いて全部見届けた後に、トータル感想を書くべきなんだろうけれど。
何しろ、10万?アイテム近い中から商品を選ぶのが相当難産だったので。
1つ1つチマチマ、スマホで目を通すのは至難の業。
同じ商品、同じ業者がいくつも重複して掲載されていて、個数をいたずらに増やしていた。
同じ商品が、違うポイント数で掲載されているのもあり、あれれ?うろうろ、、、となることも多い。
(さすがに全部、目は通せなかったが)
あー、スッキリ。やっと終わった。
(まだ到着してないものの、〆切期限内に申し込めた)

パソコンでやれば、ざーーっとスクロールすると作業が早いのだが、携帯をガラケーからスマホに替えた7年前からスマホ一本槍。
ちなみに、スマホいじりは、首に良くないそうだ。
首を直角に曲げるのは首の本来の姿勢に逆らうもので、身体のトラブルを生み出すらしい。
昨日それを知り(遅い!)、スマホを下に水平に置かず、目の前に垂直に立てて持つようにもしている。
首はまっすぐ立てたまま。
そんな努力するなら、自宅にいる時はパソコンにすれば良いものを、、、
明らかに努力の方向性を誤っている。


それはそうと。
筆トーク。
よくよく存じております。
ブログデビューその初日から、初々しいお姿、インターネットを通して海の向こうから知っております。
お互い長いブログ活動であるが、更に夢さんはもっとその前からの(静かな)お付き合い。
わたしは早めに50代の時からブログ村60代カテゴリーに登録していたため、60代カテゴリーでは夢さんとご近所さんだった。
やがて夢さんが60代カテゴリーから70代カテゴリーにお引越しされ、年代部門ではご近所さんにはならなくなった。
閲覧数の多い夢さんのブログとは違い、指の暇つぶしに更新数ばかりやたら重なっている、こじんまり蝶ブログ。
今も細々した超個人的、内なる蝶ブログを応援してくださって嬉しく思っている。
10年を越すと、ブログは日常の一つになり、読みに行くブログ(今は2ブログのみ)も遠くに住む兄弟か親戚みたいな感覚。
年月が長くなると精神的には近いものを感じる。
最近、お寄りいただいている方々も、こんなぐだぐだ長々蝶ブログをお読みいただき、わたしは元気をいただいている。
ありがとうございます。

インターネットを始めた33?年ぐらい前から、顔も存じない、ある方と、いまだに年賀状のやり取りが続いている。
1年に1度、年賀状だけなのでハガキのやり取りは33回ぐらいだが、年月は33年経っている。
いったい、どんな方なんだろう?
知っているのは、知り合った最初の頃の短文と、住所と名前だけ。
同じ住所にお互い住み続け、ハガキが届いているところを見ると、インターネットの世界だけではなく、リアル世界でも、地に足が着いた、定着した生活をお互い送っているように思う。

少なくともわたしは、同じ住所に平成元年から住んでいる。
その間、ご近所さんは同じ顔触れ。
だが、3軒は引越し転出され、新しい人が入居されている。
そのうちの2軒は取り壊され更地になり、更地のうちの1つには2分割され2住宅が建ち、もう1つの更地は今も更地のまま買い手が現れていない。
3家族(2老夫婦と単身高齢者)が去り、3家族(若い2家族と熟年単身者)が入った。
年齢は若返っている。
世代交代が行われている状況。
若い家族だった世帯が、子供が独立したり、孫と三世代同居したり、、、そういう家もある。
30年以上経つと、世代が変わるのは自然な流れだ。
今は、晩婚、非婚が普通になり、自然な流れも変化する。

大海インターネットで知り合った人も、ほんのひと握りの細い糸のような繋がりをもたらす。
頻繁にやり取りしていた人、時期があっても、通り過ぎた人であっても、良い思い出となる。
懐かしい。
まして、今も繋がりが消えないことは奇跡に近い。
ご縁というものだろう。
無理することなく自然体で、大切にしたい。



何してるんだか、、、

2022-01-25 | 日々のこと
今日は半日、スマホと睨めっこ。
目がチカチカ。
ネットサーフィンでもなく、ネット内をふらふら遊びに行くでもなく、、、
そのうち数時間は、クレジットカードのWEB本人確認サービスに登録しようと頑張った。
前々から何度も試みているのだが、なかなか出来なかった。
ああでもない、こうでもないと、色んな入り口から入ろうとしたが、撥ねのけられた。
わたしの使いたいクレジットカードを受け入れてくれない、登録させてくれない。

そもそもそんなにムキになってWEBサービスを受けなくてもよいのだが、スマホ(モバイル)決済にしているクレジットカードがあり、それを使いたい。
いろんなスマホ決済は数々あるのに。
その特定のスマホ決済にしないで、別会社のスマホ決済にする方法もあるが、その決済にこだわる。(わたしはPayPay)
わたしが使いたい登録しているクレジットカードでは1か月4000円が上限。(過去24時間と過去30日)
すぐ4000円になってしまい、「残高が足りません」と決済機械に拒否され、仕方なく現金で払う。
財布をごそごそ探すのが面倒で、荷物がやたら多いこともあり、なかなか探せない。
イライラ。(わたしもさることながら、お店の人は更に)

わたしは現金は極力使いたくないキャッシュレス主義。
そのわりに、やり方、準備、動作がモタモタとろい。

結局、わたしが登録したいクレジットカードは、上限を上げることができないカードのようだ。
しかたなく、別のクレジットカードを登録したが、将棋でいうと、「王将」と「歩」ぐらいパワーが違った。
いきなり、利用上限が25万円になった。
4000円から25万円に跳ね上がった。
そんなに高くなくてよいのに。
わたしは、1万円ぐらいでよいと思っているので、高額過ぎるのも不安で快適ではない。
このスーパーマンカードはいつでも削除できるから、とりあえずは、4000円を超えた時向けサポートスタンバイとして、まあいいか。
大きなバッグの中から、深く底に沈み込んだ小銭財布を探し出す手間暇、冷や汗を考えると。
しかし、1ヶ月利用額上限4000円のクレジットカードって、、、。
高校生でももう少し高いのでは?
わたしは、いつもスマホ決済は毎月4000円以内なのだが、ごくまれに4500円ぐらい使うようなことがあり、アウト!となる。
スマホ決済がダメならクレジットカードを使おうとすると、(普通のプラスチックの)クレジットカードが使えない小規模店が多いため、泣く泣く現金払いとなる。

やっぱり、利用料無料のクレジットカードはそれなりだ。
て、無料のクレジットカードに期待し過ぎるわたしは、大阪のガメツイおばちゃんそのもの。
やっぱり年間利用料が発生するカードはパワフルだ。
とはいうものの、年間利用料無料で賢く簡単に使いこなしている人は大勢いるだろう。
わたしが、へんにケチ根性を持って、どんくさいだけなんだけど。

PayPayとか、LINE Payとか、楽天ペイとか、d払いとか、色々ある。
クレジットカードやスマホ決済で、ストレスなくお支払いしたいものだ。
が、ストレスの元になっていることに気づいていないのかも??



二面性、二極性

2022-01-24 | 無題
閲覧数、上がったり下がったり、船酔い気分。
閲覧数は、目安にならず、なんの意味もないと強く強く強く思う。
どうせ、元々小さな数字、どうってことない。
ほんとにほんと。
自分に言い聞かせるのではなく、実感。

さて、上流階級について。
書けば書くほどまだまだ物足りない。
ずいぶん前に、「おぼっちゃまくん」という漫画があり、そのギャグが受けていた。
そのギャグを書こうと思ったが、へんに曲解してもらわれても心外なので、あえて書かない。
わたしは結構面白く愛読していた。

と、それはそうとして。
島国ニッポンにいると気づかないが、仕事のポジションなどには階級が存在するが、庶民は皆「一億総中流」という言葉がかつて流行った。
やがて、「下流老人」だとか、そういうのも出てきた。
わたしが今のところ上流階級とわかりやすく認識しているのは、天皇を頂点にとする皇族。 
(歴史途中で人物入れ替わり説もあり諸説様々)
だが、経済活動をしない身分な故、行動は制限され、お金の使い道も好き勝手に出来ない。
やんごとなき高貴で、尚、(わたし個人の感想としては)お気の毒な階級ではあるが、なりたい人がいなくなると、どうなるのか。
姑は、芸能人ゴシップのごとく、皇族ネタが大好きだった。
あとは、年金の話。
わたしは、当時、全く興味がなかった。
ふんふんと頷くだけで、全然聞いていなかった。

話は行ったり来たりする。
四方を海に囲まれていない、広い陸続きの国では、色々、ほんとうに色々大変だろう。
人やモノ、文化がそのまま地続きで流れて来る。
いまは、インターネット、SNSで瞬間的に情報を共有するが、フェイクニュースもあり、混乱を招く。
誤った情報の善意の拡散が一番怖い。

それぞれの国の特徴が見えるにつけ、わたしは、またまた島国に戻る。
ああ恐ろしや。やはり島国はなんだかんだ言っても気心が知れている。
日本語が通じる。
外国に憧れがあるとしたら、異国情緒という、自分の国には無いものに興味を示す。
歴史の違いは相当大きい。
そして、遠く離れた地であっても、悲惨な状況のニュースに触れると、こころが痛い。

富や権力の奪い合いで戦争が起き、体制が変わる。
革命が起こると、上下がひっくり返る。
(ちなみに、トランプで「大貧民」というゲームがあるが、革命が起きると、持っている札の強さ、効力がどんでん返しになる。
あれは心臓に悪い)

今の最大の困難をもたらす敵は、国ではなく、地球規模の自然災害。
こればかりは手の打ちようがない。
逃げる、備えることは出来ても、抑える、やっつけることは出来ない。
火山が噴火しないように、地震が起きないように、元から断つことは出来ない。
かつて見た映画のようなことが起きそうで、現実と想像、仮想がごちゃ混ぜになり、恐怖を覚える。
今を精一杯生きる、なんていう、どこにでもあるキャッチフレーズを書きたくないが、思いはそう。
今の幸せは当たり前ではない、と。
事故や災害に遭われた方々は口を揃えてそう仰る。
なってみないとわからないかも知れないが、想像すれば我が身のことのように感情移入できる自分がいる。
この年齢になって思うこと。
今までどうにか無事だっからといって、これからはわからない。
ではあるが、無意味にブルーになってはせっかくの健康寿命がもったいない。
これからは、これまでの延長上にあると前向きに予想しよう。


ちょっと、いや、かなりボケボケの内容になってきた。
訴求ポイントが定まらない。
電車内で、乗ったり降りたり、行ったり来たり、気の向くままに書くとこうなる。
移動せずに椅子にずっと座って書くと、もっと落ち着いた良いものが書けるかというと決してそんなことはない。 
かといって、人の出入りが激しいガチャガチャした環境で書いたら濃度が高いものが書けるかというと、これまた全然そんなことはない。
勉強と同じだ。
わたしは勉強が出来ない劣等生だったので、劣等生の気持ちは良くわかる。
というか、優等生の気持ちは全くわからない。
ただ、自分の力が及ばないとわかったら、あっさり諦めて代替えで補てんする。
純正でなくてもよい。少し劣っていてもよい。
ゼロよりは良い。
あちこちの力を集めてきて、自分の出来ないことを成し遂げようとする。
自分自身、本人がしなければならないことはなく、こだわらない。
代わりの人、ものでもよいと考える。
それに、、、事態は変わる。
良いことも悪いことも、いつまでも同じ状態ではない。
無常。

1番でなくても良い。
2番でも良い。代案オッケー。
1番でなければ気が済まない人もいるけれど、それはそれ。
人それぞれ。
自分が良い道を選べばよい。

だが、一つ、難点がある。
つい最近、ある人に言われた。
わたしはサボりだと。
もっとやれば、もっと出来るのに、やらない。
現状で満足してしまう。
言い得て妙、その人は、ぴたっと、わたしそのものを言い当てた。
わたしの人生そのもの。
努力しなくてもそこそこ備わっているため、努力しない。
自分を磨かない。
わたしは、まさにそれなのだ。
亀に抜かれるウサギではあるが、そもそもウサギではない。
白鳥かも知れないのに、アヒルの中にいるほうがずっと快適。
かといって、ある日、突然、白鳥にはなれない。
努力を放棄しているので、元白鳥で、ちょっと大きいアヒルだ。
アヒルでも白鳥でもない、化け物かも知れない。
アヒルの着ぐるみを着た白鳥?
アヒルの着ぐるみを着た白鳥だと思っているアヒル?
白鳥の着ぐるみは元々着ていない。
アヒル群に属する。
だが、アヒルの中では部外者、白鳥の中でも部外者。
アイデンティティは、アヒルでも白鳥でもなく、行ったり来たり彷徨い、バランスをとりながら二本線で歩んで行く。
逆に言うと、アヒルでもあり白鳥でもある。両方。
なので、両極端で真ん中がない。
振り子のようだ。


ジキルとハイドもそんな感じなんじゃなかろうか。
人を一面的に見ても、片手落ちだ。
表裏一体、短所は長所、光の当たり方で良くも悪くも見える。
これは特別でもなんでもなく、ごく普通によくあることで、皆さんの一般的な日常だと思う。
自覚しているか、していないか、だだそれだけの違いかと考える。
そんな自分が好きか嫌いか、にもよる。
嫌いな場合、認めたくない、認めない。
複雑に何面も何層もあるのが、人間。
そんなめんどくさいことは大嫌いだと無視する人もいる。
それはそれでよい。
色々だ。


書けば書くほど、つまらなくなってきた。
いま、突然、閲覧数の神様は、わたしのブログから後ろ姿を見せて消えて行ったと感じた。
べつにそんなことは、もういいのだ。






上流階級

2022-01-21 | 無題
いきなりだが、幻視・幻聴・記憶障害が症状として現れるレビー小体型認知症という病気があるそうだ。
わたし、それ?
文章を書きながら、頭の中で、色々空想している。
直にリアルな人間に対して絵空事を話してはいないが、「架空のこと」と前置きして文字にして遊んでいることもある。
小説家は、一歩間違えばその症状とニアミス状態?
実際に見たかのように、聴いたかのように写実的に身振り手振りを交えて表現する落語家は?
迫真の演技の俳優は?

レビー小体型認知症の記事を出かける時間調整のため、ミニコミ誌で、ぱらりと見てドキリとした。
認知症の一種なんかあ、、、
わたしはもう始まっているかも知れない、、、が、小さい頃から天然のため、周りにはあまり気付いてもらえない。
天然キャラが老化と混ざって曖昧もこキャラになっている。

まあそれはそれとして。
おとん、おかん。お父様、お母様。
この差はスゴイ。
おとん、おかんは、ちょっとした流行語になった時期もあったが、呼ばれた両親は眉をしかめるだろう。
おとうさん、おかあさんが、標準語?
神戸方面は、おとうちん、おかあちんというわけではなくて、わたしは、おとうちゃん、おかあちゃんだった。
だが、大人になるにつれ、その呼び名が恥ずかしくなり、かといって、パパママは両親もわたしもガラでもなく、しかたないからパパさん、ママさんと呼んでいた。
とうちゃん、かあちゃん、おとう、おかあ、おっとー、おっかー、とーちん、かーちん、とーたん、かーたん(幼児語)、おとっつぁん、おっかさん(時代劇風)、、、などなど各家庭で色々あるだろう。
歳を取ると、おやじ、おふくろ、なんていうのもある。

ちなみに、わたしはお父様、お母様は、ドラマや映画の中でしか聞いたことがなく、衝撃を受けた。
ものすごい上品で、おハイソな雰囲気に圧倒される。(皮肉ではありません)
少し長めの膝上丈の半ズボン(制服)をはき、制帽をかぶった、賢そうなおぼっちゃまを連想した。(からかっているのではありません)
わたしの周りの鼻垂れ小僧たちの親には、そのような重厚?荘厳な呼び名の人は一人もいなかった。
外ではオーソドックスな呼び方だが、家ではそう呼んでいたかも?という雰囲気の子もいなかったように思う。
うーむ、、、わたしの育成環境が、おハイソから程遠いと考えられる。
教育熱心家庭ではあったのだが、おハイソではなかったのだろう。
いわゆる中流。
階層を分断する厚い壁があったのかも知れない。
うーむ、、、おハイソってなんだろう?
(ちなみに、「ハイソ」に「お」をつけたがるわたしは、どういう趣味なんだろう?)

わたしの父は、兄が子供の頃、近所の悪ガキたちと遊ぶのを嫌がっていた。
一種の隔離政策。
学校も就学前から別。
でも、うちの前の家や、左斜め前の家に悪ガキの家があった。
そして、右斜め前の家には、わたしたち近所の子供は一歩も家の中に入れてもらえなかった。
高くそびえる本家の厚い壁、、、。
今思えば、祖母がその家が嫌いで、たんに、仲が悪かっただけかも知れない。
祖母は、毎日、橋を渡ったすぐ近くの実家に通っていた。
まあなんと近くから嫁に来ていること。
そういうのが多い、ワンマイル徒歩圏内ワールド。

見聞を広め、大きな視野を持て、といっても箱庭みたいな狭いコミュニティで婚姻。
外からの情報も入らず、ずーっと何も大きなことは起こらず平穏無事な日々を重ねてきた。
それがわたしの実家。
わたしの結婚は、その箱庭から、次の箱庭に移動しただけだった。
平穏無事な何事も起こらないことは幸せだと感じる様になったのは、わりと最近。
歳を重ねて、後ろを振り向き、残された行く道、前を見ての感想。
波瀾万丈が良いとは、わたしは個人的には思わない。
退屈と感じるか、幸せと感じるか。
わたしは退屈だと思わないし、幸せだと思う。
ひとそれぞれの価値観、感性によるのか、はたまたその人が歩んできた道によるのか。
たまたま運が良かった。

実家の田舎ぶりを延々と書いた。
ついでに嫁ぎ先も。
やはりわたしは、時代遅れの人間だとつくづく思う。
わたしは、パパママと呼ばなかった田舎もんであるが、卑屈でもなく、力むでもなく、自慢するのでもなく、いたって自然体でいられることを有り難く思う。
だが、嫁ぎ先については、微妙だ。
自分らしさを追求できる居場所かどうか、まだ答えは、はっきり掴んでいない。




一人称

2022-01-20 | 思い出
閲覧数の神様は、何ごともなかったかのように以前のままの佇まい(閲覧数)。
むしろ下降。
もうどうでもよい。

さて、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い話。
書いてどうなるものでもないが、書きたい時に書くのがわたし。

小姑は実家に来た時、自分のことを「○○」と名前を呼び捨てにする。
例えば、ルミ子だったら、「ルミ子、そう思う」「ルミ子の分も欲しい」という具合。
わたしは、あの一人称の呼び方が癇に障ってしかたなかった。
(「ルミちゃんねえ」「ルミたんが、ね)よりは、マシか)
誰も教えもしないのに、うちの3番目孫は3歳で自分のことを「わたし」と言うようになった。
ついでに、話は逸れる。
孫たちは親のことをパパママと呼ぶのだが、それは世間体を考えて。
ほんとうは、「おとうちん」「おかあちん」なのだが、皆んなと呼び方が違うのが恥ずかしいようで、親は決してお互いパパママと呼び合っていないのに、孫たちは世間の風に負けたようだ。
あっさり迎合している。
わたしは、おとうちん、おかあちんという呼び方が大好きなので、いまだにひとり、娘夫婦のことをおとうちん、おかあちんと呼んでいる。
家の中に世間の風は入って来ないから気楽。

それは脱線話であり、本筋に戻す。
孫が社会人にもなろうというのに、「ルミ子ねえ」は、なかろうとわたしは思う。
さすがに最近は言ってないかと思うが、30歳〜40歳の頃はそう呼んでいた。
ついでに、小姑は母親のことを「ママ」と呼んでいた。
ひ孫が出来ようが、これは今でもだろう。
各人、好きに呼べばよいと思う。
が、育成背景、環境を知っているわたしには、また違う響きを持つ。

国が違うと呼び名も違う。
だから、末端現象だけ捉えると、何の問題もない。
たんに、わたしが背景や方針が嫌いなだけだろう。
なぜこんなに、何十年経ってもブログにツラツラ書き連ねるほど嫌いなんだろう。
まあ、いろいろある。
過去の思いは、醸成され、違う質に変化している。
「美化」は、その反対語。
「思い込み」、あげくのはてには話を盛って無自覚捏造?

小姑自体はとても良い人、好人物。
意地悪されたわけでもなんでもなく、むしろ気遣いしていただく。
小姑自身を憎むことは全くない。
わたしに恨まれる筋合いは全然ない。
では何を?
おそらく、その背景、現象だろう。
誰も悪くない。
組織の力、全体責任、必要悪、愚衆、、のように、ピンポイントで人物を特定できない。
登場人物は皆、良い人。
時代の価値観やうねり、流れで、光の当たり方は変わる。
それだけのこと。

わたしはそれに気付いているが、小姑は気づいていない。
気付くのが良いかというと、決してそんなことはない。
気付かない方が、幸せなことは多い。
気付いたからといって、不貞腐れているだけで何もしないなら、気付かず明るく前向きに行くほうが、ずっとずっと楽しい。
気付いた側から気付かない側に何やら言ったところで、人の幸せを邪魔するようなことは、すべきではない。
対岸の火事、出来事。
「あなたのためだから」と一時CMで流行ったことがある。
全然、あなたのためでないことを皮肉る時によく使われたフレーズだ。
押し付けがましい主張の正当化。

気付いたり、憎んだりしても建設的でないなら、無意味だ。
改善に向けて努力、実践するならいざ知らず。
あ、そう、と軽く、人の人生には立ち入らないことが賢明かと思う。
自分には自分の人生。
人には人の人生。
お互いに楽しく時を重ねていけたらよい。

悪口を書いてスッキリする予定が、モヤモヤするだけになった。
他人を悪人にして、他人のせいにできると、モヤモヤしないのだが。
自分軸というものは、自分で落とし前をつけなければいけないので、厄介だ。

ジェンダー隙間世代

2022-01-19 | 無題
わたしと同世代(若い高齢者)の人は、ジェンダー意識の狭間にある。
リタイア後、家事をする男性もいるが、リタイアして間もなくまた復職する人もいる。
第一線ではなく、職種もシニア向け。
奥さんは働いていて、家事は奥さん任せには出来ない。
が、とりあえず、自分もとりあえず働いている男性。(経済的大黒柱ではない)
年金に影響がない範囲内の収入になるように調整して働く。

で、その男性。家事はしない。
だが、奥さんに全面的に頼るには、自分の家庭の状況的にも、世の中の流れ的にも気が引ける。
が、積極的に家事をするわけでもない。
どうするか?
極力、奥さんの手を煩わせないように気を使う。
食事も自分都合の時間帯を押し付けない。
が、度々の外食は(半分年金生活の)懐にこたえる。
消極的な協力体制シフトとなる。
皆さん、それぞれ軋轢が生じないよう頑張る。

ちなみに、、、
わたし世代でも家事をふつうに折半している夫婦もいる。
家事ゼロ(夫)対100(妻)の家庭もある。
ATMと呼ばれても仕方ない背景があったりする。
家政婦さんや執事がいて、家事ゼロ(夫)対ゼロ(妻)はあり得るかも知れないが、家事100(夫)対100(妻)は、あり得ない。
と、これは蛇足。

娘世代でも、まだ家事意識が半々になっていない夫婦もある。
(もちろん共働きの場合)
(育児も介護も看護も公的義務もない)心身共に健康な専業主婦で家事も時間も目いっぱい折半を主張する人はいるのだろうか?
いたとしてもわたしには何の縁もゆかりも利害関係もない。
娘夫婦たちは、たまたま2家族共に、食事作り担当は夫。ご苦労様。

夫の姉は専業主婦。
共稼ぎ息子夫婦をサポートして、孫育てに全面的に協力している。
上は社会人、下は高校生になった孫も、未だにおばあちゃんの家で(下の子は)食事。
それで皆さん一家円満、、、か?
一家円満である。今は。

だが、元々、夫婦の役割として夫がすべきことを母親がしてあげてしまっている。
妻は助かる。負担軽減。
「すみません、おばあちゃん」
同居していない、近くの親宅に通わせると楽勝である。
労力も経済的にも。
わたしが問題視しているのは、社会人にもなる大きな子供がいる息子!
自分の母親に任せて、妻は楽勝、自分は負担なし。
スポイルばあちゃんだと思う。
夫婦が喧嘩しながら疲労、疲弊しながらも、子育てや家事を二人、または子供も巻き込んでこなしていくのがわたしの個人的理想だ。
それを近くに住むエネルギーと時間を持て余した(一度も就労経験のない)母親と、相思相愛的互助会を結成。
夫や子供の家事自活、自立の道を阻むことにもなりかねない、母親のスポイル協力。
息子一家はたしかに助かるだろう。
孫たちは喜ぶだろう。
母親は疲れるにしても、当てにされ嬉しいだろう。
でこぼこ道路の石を綺麗に取り去ってあげる母親。
焼き魚の骨を一つ一つ抜き取って食べさせてあげるかのごとく。
この構図は、夫と姑の関係と同じ。
姑と、夫の姉もこんなかんじで、障害物を取り除き、平坦にし、滑らないように、その上にカーペットを敷くかのように。
内情を知る近い親戚からは「一卵性母娘」と呼ばれていた。
まあ仲良しは、毒親よりはずっとよい。
(※この全肯定的、逆転ネタの流れ、オチは、漫才コンビのぺこぱみたい。これ、わたしは好きなのだ)

姑のかわいい娘(わたしの義姉)は、やがてその夫の母親と同居することになるのだが、、、
姑は、自分の娘が親と同居していることを不憫がっていた。
同居は大変であることに違いはない。
義姉は同居の不満を倍返しにして自分の夫にぶちまけ、当たっていた。
偉そうにキツい口調で接していた。
旦那さん、お気の毒。
まあしかたない。
自分の親も嫁もキツイから、自分はあちこちからボコボコにされるサンドバッグにならないと収拾がつかない。
おつかれさまです。

で、義姉が放つ語録集があり、わたしは頭の中に保存されているのだが(そんなもの1日も早く消去したいが)、好きなことをおっしゃっていた。
立場的にわたしは実家の嫁だから、義姉は小姑であり、エライのだ。

自分の母親が自分たちにしてきたように、職場の全てである家庭で精一杯子供に尽くす。
やがて子供独立後は、子供が築く新しい家庭で全面お手伝いし、子供の配偶者のシェア義務を軽減させている。
これは、本人のためになっていない。
過保護親に育てられた子供は、自分も過保護親になるようだ。
虐待親に育てられて、自分も虐待親になるより、ずっとマシだが。(またもや、ぺこぱ)
適正な距離感が欲しい。
そういうわたしも偉そうなことは言えない。
放任主義親に育てられ、放任主義親になった。
一歩間違えると、ネグレクト。
何ごとも、微妙なさじ加減が要。

放任主義親のわたしから見ると、夫や小姑は、子供の今後備わる力を奪っているように見える。
なんでもかんでも親がやってあげると、身につかない。
試練の機会を奪う。
将来の配偶者が困る。
いつ目覚めるのかというと、一生目覚めないだろう。
わたしは、夫は気の毒だと思っている。
わたしは過保護ママみたいに何でもやってあげないから。
小姑の過保護甘やかしのせいで、小姑の息子夫婦は楽できたが、切磋琢磨の機会を失った。
小姑の息子夫婦はもうほぼ子育ては終了しているようなものだから、あとはどこかの分岐点でお世話する側とされる側が親と逆転に転じることだろう。
まだまだ時間はある。

人の家庭ばかり、辛口目線で見ても始まらない。
自分はどうなのよ。
自己擁護する気はないが、わたしは、娘一家を甘やかしているつもりはない。
最低限度のことしかしていない。
しかも要請を受けて出来そうなら受諾する。
ダメそうなら断る。
べったりではない。
ただ、子どもは親だけでなく、祖父母世代とも接することは悪くないと思う。
人は老いるもの。
少し離れた位置から見てではあるが、目の当たりに感じることだろう。
おじいちゃん、おばあちゃんも、父方、母方、いろんな家庭がある。
色々知ると自分の家庭のみが全て絶対ではなく、バリエーション、奥行きが出ると想像する。

長所と短所は表裏一体。
片方、一面だけということは決してない。

こんなに長々書いて、なにしてる?わたし?
実は今日、小学生孫たちの夕食、おばあちゃん食堂営業の前に、さぼっている。
サボりはツライ、、、。


ノイズ過敏症

2022-01-18 | 無題
閲覧数の神様は、すごい勢いで姿を消した。
記事を更新していない日にもかかわらず、いきなり3倍の閲覧数になり、翌日もどうにか持ち越し、2日後には3倍から2倍にダウンし、さらに1日経つと、いつもの低飛行に戻った。
次、楽しみ?なのは、さらに通常の半分ぐらいまで落ち込むかどうか。
閲覧数の神様は、美女に姿を変えたり、逃げ足の早い泥棒に変装したり、、、
まったくもう、わたしをおちょくり、からかっている。
わたしは、騙されないぞ!
今度はどんな姿に変装して、わたしのブログ編集画面、閲覧数に現れても、平気だ。
だが、やはり一度惚れた悪人のごとく、なかなか平然と冷静を保てないのが、惚れた弱み。
いったい、閲覧数は誰が操っているのだろう?
(ちなみに閲覧数は、PVページビューではなく、UU訪問者数)
ロボットが検索したがるような用語、ワードが仮に多く含まれていたとしても、新しく更新してないのに、、、不思議。

まあそれはそうと。
閲覧数の神様はいないものとして、頭から追い払って、今日も楽しくスマホに向かおう。
電車内では降りる駅を見過ごしそうになるのが難点だが。
地下鉄内、ボソボソ、ささやきウィスパーに近い話し声。
気になる。そういうの、めちゃくちゃ気になる。
悪い意味で。
ちょっとしたノイズが不快なのだ。
それならまだ普通の声で喋られるほうがマシ。
わたしが音に対して神経質なんだろう。
父もそうだった。
入れ歯がカチャカチャいう音が大嫌いで、憎悪の標的にされる伯母(母の姉)が気の毒だった。
わたしは、食べる時に、ぺちゃぺちゃいう音が大嫌いで、背筋が凍る。
夫はそれ。
夫の姉が、「○○ちゃん(夫)は、食べる時、音たてるよね」と若い頃、言っていた。
だが、一回、言ったきり。
一緒に食事する回数はわたしなんかより数段少ないし、わたしのような「ぺちゃぺちゃ音過敏症」ではなく、あまり気にならない性質かも知れない。
しかし、これには随分泣かされた。
一生のうち、毎回何度も訪れる、楽しいはずの食事タイムが、チクチク神経に刺さり、ストレスの山。
楽しみを共有、シェアどころか、一生自分のノイズ過敏なせいで、全て闇黒に。
一生続くのかと思うと逃げ場はなく、絶望的な気持ちになった。

耳を塞いだり、耳栓をしたり、色々試してみた。
が、効果はなかった。
唯一、効果があったのは、、、
一番上孫がぺちゃぺちゃ音をたてて食べる度に、母親や叔母(わたしの長女や次女)に厳しく躾けられていた。
「お行儀が悪い。口を閉めて噛みなさい」と。
その躾を真横で何年も聞いていた夫は、少しはマシになったような気がする。
ぺちゃぺちゃ音をたてたら、「口を閉めて噛む!」と、わたしは、聞こえるか聞こえない声で、つぶやいている。
しかし、35年間ぐらいは、わたしが最も苦手な音を辛抱していた。
まだ今もちょいちょい聞こえるが、以前のことを思ったら、ずっと小さな音になっている。

まだ他にもノイズがわたしを悩ませる。
蝶ブログに何年にもわたり、何十回?と愚痴り続けている、大音量のTV。
ごく最近では、飛び上がるほど音量ボリュームがアップされた、玄関チャイム。
何ごとかと思うほどの、MAX音量。
仕方ないと言えば仕方ないのだが、あまりにも大きな音。
わたしの周りでは補聴器を付けている人がぼちぼち出始めたが、補聴器は絶対に装着しないようだ。
(ちなみに、あれほど、相手の声が小さくて聞こえない!と文句を言っていた姉が、耳鼻科検査の結果、耳が悪いことがわかった。
それ以来、「聞こえない!!」と、相手に食ってかかることはなくなった。
補聴器も作ったようだ)

夫は、「耳が悪い」と自分では言っている。開き直っている。
周りが、自分の悪い耳に合わせるべきだと思っているようだ。
わたしもいずれ耳が悪くなると、夫の気持ちがわかるようになるのだろうか。
父は、わたしたちが実家に行くと、それまで父が観ていたのTVボリュームを下げていた。
父の自覚と配慮だろう。
姑は、晩年、聞こえないため補聴器を作ったが、耳だけに問題があるようでいて、実は聞こうとしない、脳にも問題があると思われる。
認知症の一種かも知れない。

自分の聞きたくない内容は聞こえない。
「勝手○○○」と呼ばれるものだ。
これにも、わたしは結構悩まされた。
ものすごい強烈なストレスを感じた。
認知症の一環だと理解していれば、ムキになることもなかっただろうけれど。
やはり、認知症の一環でも、例えば凶暴になり暴力を振われたら痛いものは痛い。
病気だからと、わかっていても、叩かれる側は痛い。
理解していれば、精神的痛さは軽減されても、肉体的には痛いものは痛い。
病気がなせるワザで本人には罪がないにしても、周りにとっては深刻な問題である。
解決の糸口は、、、止むのをじっと待つだけなのか??

「ぺちゃぺちゃ」から、深刻な問題へと進んでしまった。
例え家族であっても、自分以外の人と暮らすには最低限のルールや気遣いが必要だと感じる。
最近、次女が帰省すると、わたし自身が自分の家の家事の不行き届きや不備に、あれこれ気を使い、疲れる。
我々夫婦は、年を取ってきてルーズになっていると思われる。
こんな時は「ぺちゃぺちゃ」夫であっても、老人チームの貴重な戦力。
若い人々に対抗するには味方が必要だ。
昨日の敵は、今日の助っ人。

あなたたちも年取ったらわかる、、、
年齢によって、若い時のようにはいかないことはたくさんある。
若い人には、わからない、、、
自分がそうだったように。

だが、責めてはいけない。
自分の来た道。

・・・・・

外出の行き(駅、乗り換え前、乗り換え後)、帰路、帰宅してから、、、と3回に分断されて記事を書いていると、どうも繋がりが悪い。
さて、どうまとめるか?

閲覧数の神様は、シラケながら見守っているのだろうか。
見守っていないと思う。
だって閲覧数の神様なんかいないのだから。