蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、花咲く時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

インターネット情報は正しいとは限らない

2017-10-21 | 無題
個人ブログは、間違いが平気で載っている。
旅モノで紹介されている、ある武家屋敷の名前を間違えて説明してあるものを2つも見かけた。
説明文が書かれている看板の写真を同時にアップしてあるので、記事に書かれている名前と、看板に書かれている名前が、明らかに違う。
アップしている人は、ちょっとだけインターネットで調べて、最初の名前の頭だけ同じだから勘違いし、全体によく似た名前なので、そのまま載せてしまっている。

わたしは、その歴史的に有名な人物をインターネットで調べていっている途中なので、間違いがあると、混乱する。
その地に、その人物の武家屋敷があっては、出自の確定に誤りがあることになる。
ハナから思い込んでいると、歴史上の別人の名前を平気で書き、しかも、添えられている説明まで自分で捏造したのか、勘違いしたのか、間違えている。

全国の名所を紹介する、個人の旅ブログなので、情報に誤りがあったところで、別に責任は追及されないだろう。
(営利目的ではないし、スポンサーがついているわけでもないので)

たくさん溢れかえっている情報は、全て正しいとは限らないという、典型的な見本を見た。
情報を選択し、真偽を判断するのは、自分であると肝に銘じるしかない。
文章だけのブログなど、文字の間違いや、言葉の使い間違いは、ゴロゴロ。
蝶ブログも、(たぶん)ゴロゴロ。

史実を調べて行く過程で、間違いに遭遇すると、翻弄されるが、いかにも間違いがはっきりわかる場合は、ほっとする。

もっともっと大きな間違い情報を確信犯的に、国民に刷り込まれていることもあるだろう。
大きすぎると、間違いに気づかず、チェックできない。

身近な間違い情報は、間違いに気づく鍛錬がいると思う。
まあ、さして深く考える人はあまりいないかも知れない。
間違い情報に塗れて生活するのも、神経質になりすぎずに、鍛えられて悪くないかも知れない。
食品にしても然り。
ばい菌にしても然り。
純粋培養されると、無菌室で生活するしかない。
少々のニセモノや、嘘、ごまかし、間違いは、身の回りにはゴロゴロある。
自分で調べたり、考えたりしないと、丸呑みは、だめだよ、という軽い戒めだろう。

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スローダウンする日々

2017-10-12 | 無題
わたし。
こころは、いつも売っている。
からだは、売ったことがない。

なぜなら、こころのほうが高く売れる。
値段があって無いようなもの。
からだは、相場並以下。
(力仕事は不得意、体育系肉体派ではない)

こころは、見えにくいが、行動に現れる。
こころと、ま逆の行動をする人もいて、ややこしい。

からだは、モノ。
生きた物体。売った後、生きてないこともある。
臓器売買、然り。
からだの切り売り、、、たとえば、肉体労働や単純作業。時間とセット。
どれだけこなしたか、精度と分量の成果で値段が決まる。

こころは、どうやって売る?
アタマとセットだろう。
成果報酬の値段が付けにくい。
企画書作りが上手くないと、提案が見えない。

からだを売らずに、こころを売る人物、、、
たんに、怠け者。
からだを動かさずに、アタマの中だけで考える。
人に指示したり頼んだり、有料や無料でやってもらう。
自分は依頼するだけ。
(自分ですることもある)
高度なアタマなら、高く売れる。
世の中、分業で成り立っている。

「こころを売る」の意味がわからなくなってきた。
こころを使う?利用する?役立てる?
「こころ」は「アタマ」と同義語?

こころは、精神。
アタマは、知力。
アタマにも右脳と左脳がある。
こころで感じて、アタマで考え、からだで行動する。

精神力はタフで、アタマ空っぽの人もいる。
アタマぎゅうぎゅうで、こころは脆く、か細い人もいる。


さて、わたし。
若いころに比べると、老いて足腰も弱り、病弱になり、からだで行動する絶対量が減少している。
認知症も順調に進み、知力も精神力も減退している。
からだ、こころは、仲良く足並みを揃えている。

昨日、ある人と話していて、自分の感性が鈍くなったと、感じた。
以前には興味のあったことが、興味が失せている自分を発見した。
少し愕然とした。
老い。諦め。
老いの訪れに対して、努力せず、あがかず、逆らわず、受け入れた結果だろう。
こころは、安らかになったが、自分に失望した。
やがて、失望した新しい自分も、痛みなくすんなり受け入れることだろう。
そして、人との感性の接点も、少しずつ減っていくことだろう。
やがて、すっぽり老いの境地に、ぬるく浸る。
これは、悲しい嘆かわしいことなんだろうか。
からだはもちろん衰えているが、
アタマも知力も並行して衰えるとすると、自分のレベルダウンを嘆かなくなるのでは。

それって、嘆かなくて良いといえば良いのだが、推奨すべきこと?
自然な流れを受け入れ、自然に枯れていくのだろうなあ。
その時その時の自分に合ったことを考え、取捨選択し、行動していくと思う。

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自分の人生、流れ流されるままに

2017-09-28 | 無題
マインドコントロールされた人がいる。
親に知らず知らずにコントロールされ、親も知らず知らずにコントロールしていた。

戦時中の軍国主義のようなもの。
自由な発想はない。
しかし、わたしは、ある日、価値観は、自分で作るもの、と気づいた。

親や周りのお仕着せではない。
流されたくない。
地域に根ざす価値観とは相入れなくなった。
そういう場合、どうするか。

子供にも自分の価値観を押し付けていたとする。
ころっとスタンスを変えては、まだ人格が固まっていない未成年なら、混乱をきたす。

自分で調整してね!と、無責任に背を向けるか。
戦争や革命で価値観がころっと変わることは、歴史上、よくある。
特権階級が入れ替わる。
そのドサクサで成り上がる人もいるし、没落する人もいる。

別に大きな出来事がなくても、価値観が変わることもある。
権力の新旧入れ替わりの時期。
年功序列は崩れ、合理主義。
努力する時間の長さではなく、成果で評価される。
あるいは、親の事業が失敗したり、なんらかの不幸な出来事が起こったり。
天と地ほどの差がある暮らしになる。

美徳の中味も変わる。
時代の移り変わり、流れである。

一方で変わらないものもある。
時流を取り入れ、自分流アレンジをして価値観を繋ぐ。

我が家の跡取り息子は、遠い地に赴任してしまい、ちょっとやそっとでは追いかけられない。
うまい具合に逃げられた。
彼の自立心、絶妙な自立の方法には拍手を送りたい。
親が最期の時ぐらいには、駆けつけてくれるだろう。
バトン渡しにかかる時間は短時間でも、それなりにバトンタッチできれば、それでよし。
バトンを受け取らない、という選択肢も残されている。

流されたくない時は、必死でしがみついているものへの力を抜いて、流されてみるのも、ひとつの方法だ。
それも結果的には、自分の進みたい道にたどり着いたりもする。
しかし、かなりの信念と忍耐力は必要。
すぐに結果を出したい人には不向き。
短気はいけません。
もちろん、たどり着かないこともある。
それはそれで、流れのままに身を委ねてジャッジは神に任せよう。
(わたし、無神論者ですが)

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眠気に襲われながら

2017-09-12 | 無題
一日の終わりにブログ更新する日は、なにもなかった日だ。
なんにもなくて平和すぎて、せめて日付が変わる前に、何か書き残しておこうとするようだ。

自分で今、老境なのか、なんなのか、わからなくなってきている。
立派なことは書けない。
実践もしていないのに、偉そうに書けるわけがない。

老境と認知症がボーダレスになっている。

昨夜、NHKテレビの「鶴瓶の家族に乾杯」を見た。
いつもは見ないのだが、近藤正臣が出ていて、関西弁に親しみを覚えて、つい見てしまった。
75歳の彼、いい味を出している。
地方の活性化に活躍してくれる、地元の跡継ぎたちを激励していた。
あの気持ち、とてもよくわかる。

しかし、日本は急激に尻すぼみに変わりすぎている。
九州に匹敵するぐらいの面積の持ち主不明の膨大な土地が全国にあるという。
高齢者があの世に行く傍らで、赤ん坊の出生率は少ない。少子化の波。
全国、空き家、空き地だらけ。
江戸時代の人口規模になったら、江戸時代のようなエコな暮らしに対応して暮らすのだろうか。
地方は元気になってほしい。
ぜひ、地域のお年寄りたちから、昔のことを聞きたい。
そういう近藤正臣だったが、聞いた相手の知っている栄えた時代は、昭和20年ぐらいから40年までのことだった。
古くない。

眠気が押し寄せてきた。
では、また。

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ブサイクも個性

2017-09-03 | 無題
2008年放映の和田アキ子が司会をする、美人のビフォーアフターのような番組をスマホ、ユーチューブで見た。
ひどい、、、の一言。
番組の意図は、いたって低俗。
まあ、視聴率稼ぎが目的なので、そういう意味では、9年も経っているのに、ユーチューブの上のあたりに出てくるところを見ると、話題性はあるのだろう。

で、一般から募集した、自分を美しく変身したい依頼者を、美のプロたちが美人に激変させる。
ヘアアーティスト、メークアップアーティスト、スタイリスト、エスティシャン、美容整形外科医らが、腕を振るう。

依頼者たちは、自分の醜い容姿のせいで、小さい時から凄惨なイジメを受け、今もトラウマから抜け出せず、根暗に生きている人々。(という設定)
出っ歯や目が小さい、なんていうのは、あっさり激変。
難易度が高かったのは、顔が左右ズレている人。
顎の骨を一旦外して、かなりの大手術。
交通事故にでも遭っての手術ならいざ知らず、健康な体に、ここまで大胆にメスを入れるのは、抵抗がある(わたしは、古い?)
しらす干しのような目は、上下左右を切り開き、面積は4倍にはなっている?
激変アフターの顔は、逃亡している犯罪者が整形して、別地で別人として別の人生を送っているような印象。


醜い顔のせいで、恋愛はもちろん、就職もままならないと嘆く依頼者たち。
真剣に悩んでいる依頼者(の顔)を見て、涙を流すゲスト出演者もいる。
和田アキ子は、憐れんで涙が出るのではなく、30歳近くにもなって真剣に悩んでいる純真さに心打たれたと言っていたが。
中には、ヘアアーティストの男性は、あまりにもブサイクすぎて泣けてきたという人もいた。

ヘアも、メークアップも、肌も、ファッションも激変には、さほど大した威力はなく、大改造には、美容整形がダントツと感じた。

心のトラウマを治すには、トラウマに陥った原因である容姿を直し、自信を持ちたい、とのことだろうけれど。
外見ばかりにこだわるのは、番組の意図として、視聴率稼ぎには一番手っ取り早いのはよくわかるが、、、。
(現にわたしも、惹きつけられて、ユーチューブを見ているし)

内面、中身の能力を高める方向は、アプローチされていない。
未成年などの、人としてまだ未完成の人が見て、勘違いしては教育上、良くないと感じる。
視聴率稼ぎの番組の意図をわかって見ているならともかく、まともに真に受けたら大変である。
(姥ごころか)
就職も顔で採用するような仕事、職種を選ばないこと、恋愛も外見ばかりにこだわる人を選ばないこと、そのためには、外見の努力もさることながら、内面を(精神力だけでなく、能力、実務も)磨くべき、というメッセージなんか、視聴率にはなんの足しにもならず、全く視聴者のこころに響かないことだろう。
志しの高い、頑張り屋さんはともかく、普通の人には当たり前過ぎて、皆んな、やろうとしても出来ないし、学校の先生の、耳が痛い、お堅いお話など聞き飽きている。
てっとり早い方法で楽しもうという一般視聴者の興味を引くように番組が出来ている。

そもそも人の容姿を見て涙ぐむなんて、失礼にも程がある。
美容整形外科の手術をした後の顔は、ひな形の整形顔になり、個性がなく、メイクすると15〜20歳は老けて見えた。
もともと若い人が志願者の場合は、整形すると、世の中を知り尽くした、得体の知れない熟女のような顔になる。
歳とった人が、アンチエイジングで整形した場合と逆。

そもそも、他人にとってはブサイクと思われようが、自分にとっては、世界に一つ、唯一無二の、愛着ある、誇りある顔を機械的に判断されメスを入れられるなんて、もっての他だ。
「これは、ひどいですねえ」なんて、よく言ったものだ。
「ひどい」の判断基準は何か?

誰もが憧れる、整形美女になったところで、今までの自分を消去し、上書き、更新してしまうのは、よほど自分を全面否定してきたからだろう。
というか、全面否定した後、リセットしてやり直したいという、過去のいきさつからすると、わからないでもないが、変身した後の性格が心配である。
傲慢、奢りなど、マイナス面が付随してきそうだ。

若い頃は外見にとらわれるのは、よくわかる。わたしもそうだった。
が、自分の顔は自分で責任を持つべきだ。
ブサイクでも、それは強烈な個性、いいと思うのだが、だめなのだろうか。

わたしの年齢になると、見かけ倒しの人がいて、がっかりする。
いくら見た目が良くても、なんの面白味もない人がいる。
見た目が良くて、中身が悪い人もいる。
(見た目が悪くて中身が悪い人は、中身が悪い時点でNG)
逆に、産まれつきの容姿は良くなくても、清潔にして、オシャレしたり、素敵な表情や、楽しい幅広い話題を提供してくれる人のほうが、ずっと魅力的である。

わたしの年齢にならないと、こういう境地にはならないのかも知れない。

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忘れた頃に、、、

2017-05-17 | 無題
ある遠縁の男性。
家庭の経済事情から、超難関大学の入試の時に白紙でテスト用紙を出した、と言われていた。
言ったのは、おそらく、本人か、あるいは、その人の親きょうだい、家族だろう。

わたしは、不信感ありありで、その話を伝え聞いていた。
もし、家庭の事情が、イケイケどんどん(※無意識に使ってしまう死語)で、家族一族全員が彼に期待し、鉛筆を握らせ、勉強以外のことは全て大目に見て、頑張らせたとしたら、、、。
そのほうが、ハードだ。
「もし、◯◯だったら、◯◯できたのに」
と嘆くことは多いが、「◯◯で全員協力し、全パワーを出したがダメだった」は?

しかし、ある意味、きっぱり潔く諦められてよいかも知れない。
敗北宣言のあと、空っぽのエネルギータンクに、少しずつ、またエネルギーをチャージして再出発か、あるいは、その道は諦めて、方向転換する。

前述の男性、リベンジとは言わないが、孫が、T大出身。
本人があの世に行く直前に、お孫さんはT大に受かったと記憶しているが、おじいちゃんは自分の無念を晴らしたことだろう。
わたしは、白紙疑惑を抱いていたが、やはり、賢い血筋だったのか、と、妙に納得した。
人物を知る場合、ある程度のDNAは、基本データの一つになると感じた次第だ。

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たとえ遠縁と言えど、この話、自慢話と受け取る人もいることだろう。
自慢と感じる人には、それなりの理由が存在する。
自慢と感じない人には、それなりの理由が存在する。
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お金の使い方、時間の使い方、人の使い方

2017-02-26 | 無題
自分の不得意分野をどう克服するか?

わたしの場合は、温度が低い。
あっさり。
人の手を借りる。
つまり、他人を利用する。

善意やボランティアで助けてくれるからと甘えると、気疲れする。
有償で、割り切る。

不得意分野が多すぎて、お金がいくらあっても足りない。
金融引き締め、出費を抑えるため、不得意でも嫌でも、出来ることは自分でする。

どうしても出来ないことや、やる気が起きない場合、苦痛な場合、最後の手段として、人の手を借りる。
ただし、不得意分野と、やりたくない分野を混同しているケースが多い。
(たとえば、家事、育児、介護、教育)

有償か、無償か。
手助け内容や人間関係、立場にもよる。
有償にすると、水くさいと、不快に感じる人もいる。
(わたしは、くれるというものは遠慮なく頂く主義)

人の時間は無料ではない。時間は無尽蔵ではない。
なので、無償でもやはり、人の時間を使うと、それなりに気を遣う。
自分の時間を生み出すため、時間をお金で買う場合もある。
(たとえば、公共交通機関に乗り遅れた時のタクシーや、調理済食材)

人が、喜んで、生き甲斐や、やり甲斐を感じて、行動してくれるなら別だが。
そんな行動内容は何だろう?
ちょっとしたことなら、普通の市民生活にはたくさん転がっていることだが。

大きな労力と、まとまった時間を割いてもらう場合、頭を悩ませる。
同士、同友、盟友、仲間、親友、恋人、家族なら、目的を同じとする場合は良いが、それ以外は?
どちらかというと個人主義のわたしは、人との関わり、オンブにダッコ、もたれかかり合い、相互依存については、距離の取り方がよくわからない。

気軽に頼んで、厚かましいと取られることを恐れる。

有償は高い。
無償は気が引ける。
じゃあ、フトコロ具合と相談して、任せることは任せ、出来ることは自分でするしかないか。
自分が快適で、負担なく、ストレスを溜めない方法を自分で見つけるしかない。

無償の人間関係が一番ナイーブで難しい。
思い遣り、相互フォローが要だろう。

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おしゃべり、べらべら

2017-02-23 | 無題
こんなことがあったのよ。
あの人ったら、ああ言ったのよ。
あれを食べたらこうで、これを買いに行ったらああで。

延々と続くおしゃべり。
ランチタイムや、カフェ。

あったこと、目についたことへの感想を思いつくまま、口にする。
ストレス解消になると思う。
幼児や子供が思いのままに話すように。

自分のことを知ってもらう。
自分の考えを誰かに話したい。
声を出す発声は、一種の声帯と口の運動。
内にこもるのではなく、相手のリアクションが欲しい。
相手の表情や声を楽しむ人もいるだろう。

ただただ話したいだけの人もいる。
自分を出したい。表現したい。
理解してほしい。同意してほしい。認めてほしい。誉めてほしい。
承認欲求を満たしたい人もいる。
慰めてほしい。同情してほしい。
そういう人もいるだろう。


さて、わたし。
べらべらしゃべらないほうだ。
日常の出来事、日記的なことは、なんのために話すのか、よくわからないぐらい。

今日の出来事を、家族や友人に、夕食時や休日に話す。
これは、団欒で、良い時間だと思う。
話自体の内容に別にたいした意味はなくても、コミュニケーションである。
相互理解を深めると共に、親しみが増し、距離感を縮める。
あたたかい時間を共有する。

とすると、大して近寄りたくもない、仲良くなりたいと思わない人と、しゃべっても意味がない。
が、話しているうちに、好感を持つかも知れない。
食わず嫌いは、良くない。

街で、ぺちゃくちゃお話をしている人たちの話を聞くともなく聞こえてくると、実にどうでもいいことをしゃべっている。
文字にしてまとめたら、数行のことを延々と何時間もしゃべっている。
明らかに、感情を発散して、自分の脳と心をリフレッシュさせている。
ヨガや瞑想のような効果がある。
人によって、精神バランスをキープする方法は、まちまちである。

わたしの発散先は、ブログやメール。
ブログは特定の人を対象にしていないし、コメントや、同意を強要しないから、迷惑はかけないが、メールは一対一なので相手に負担をかけるかも知れない。
LINEは、いちいち細かく反応するのは、煩わしいと思うので、家族としかしない。

ブログやメールやLINEも、日常のどうでもいい報告的なものはしない。
日常の目についたことや、重要報告事項、興味深かったこと、疑問に思ったことを伝える。
暇つぶしに、退屈しのぎには、決してしない。
と、偉そうに明言しているが、その割には頻繁にやっている。
退屈だからしているのではなく、やっていると退屈を感じるヒマがないだけで、実質的には、能動的か、受動的かの違いだけで、やっていることは同じである。

LINEの相手は家族の中でも、娘たちだけ。
彼らは、気がおけない人々(気を遣ってくれない人々)なので、無視されることもあるが、へんに無理して構ってもらうのも心苦しい。
いくら親娘だからといっても、もたれかかりすぎて、べったり重いのは避けたい。
「ごくたまに」重いのは、許容範囲内だと思っているが。

こんなことがあって、あんなことがあって、という、いつもの日常の出来事を話すのは、小学生ぐらいまで。
中学生にもなると、話さなくなると思うが
大人になっても、まだ、ぺちゃくちゃ話している人々を見かけると、ある意味、おもしろい。funny である。
が、愛すべき人々なのかも知れない。

しかし、時として、電車内だったり、店内、至近距離だったり、声が大きいか、よく通る場合、うるさい。

それはそれとして、
他愛ない話を思いつくままに、感情的に話せる相手がいて、自分を洗いざらいさらけ出してアウトプットできる人や場があるということは、素晴らしい。
ただし、そういう関係を築いたり、維持したり、努力が必要である。


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ふたつの人生見本

2016-12-09 | 無題
実母は、人の為に尽くしたり、耐えたり、そんなことはしない。
あるのは、自我のみ。劣等感もない。
勢いにまかせ、がむしゃらに倒れるまで頑張る。

それに比べると、一歳しか違わない、同じ時代を生きた姑は、正反対だ。
耐える、辛抱する、目標に向かい計画を立て頑張る。
計画は、作戦だったり、策略だったりする。理知的、策士。
あるのは、プライドと、優越感。高く承認されること。
自分の思い描く水準をキープできないことへの恐怖感。

社会的な人物像として見ると、姑の方が秀でていると、わたしは感じる。
二人とも、ずっぽり戦中派で、学生時代、青春は戦争一色。
学業よりも、国への奉仕。
戦後まもなく結婚しているので、職業として自立するための高等専門教育を受けることなく(教養や生活実践にとどまる程度の学業と思われるが)自立した職を持たず、配偶者や家長の収入で生活していた。

だが、夫の職業が違う分、妻の社会的な立場が微妙に違っている。
雇用されている人を夫に持つか、雇用している人を夫に持つか、で、社会での関わり方が違ってくる。
そこらあたりは、大きい。

夫たちが現役の時と、未亡人になり超高齢者になった今でも、過去の経歴は影響がある。

個性、性格、考え方、経済、など、それぞれ別個である。
長い目で見たり、距離を置いて見たり、見方によって、評価、感想は違ってくる。

どちらが良い悪いではなく、わたしより28年先行く、わたしの、わかりやすい人生見本になっている。

ただし、あくまでも見本。手本ではない。
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トロフィー妻

2016-11-09 | 無題
どこかの有名投資家だったか誰だったかが、言っていた。

若い美人を嫁にするのは、投資的にはリターンが少ない。
買った時が、最も高い買値で、あとは下がるのみ。
さほど美人ではない賢い人を妻にすると、買値よりも価値が上がる。
妻にした人の価値も、ついでに上がる。

若い美人は所有せず、高値買いの代わりに、常にリースが経済的らしい。
家は所有か賃貸か、車は?

買うお金が充分ある、同じ条件で比較しなければ、正確な比較ができない。
自分も若いなら、若くて美人もわかるが、(経済関係なく)、年がいっていても、若くて美人もわかるが(お金持ちなら)、
外見でなく中身に惚れた相手が、たまたま若くて美人だったとしたら?
おそらく、中身と外見は、同時併用は困難。
両方兼ね備えた人は稀有であるし、仮にそういった異性をゲット出来る人は、それに分相応な見合う、同じコンテンツを満たした人だろう。



トロフィー妻というのがある。
若く美しい妻を持つことが成功者へのご褒美、ステイタスだという価値観は、近年では時代遅れだとか?
ご褒美を自分に与えるわけだが、周囲に見せびらかしたくてトロフィー妻をもらったものの、周囲はもはやそんな価値観に見向きもしないとすれば、自己顕示欲が満たされない。
たとえ世間が冷たかろうが、自分さえ満足していればそれで良い。
が、トロフィー妻を持ちたいタイプは、周りへのアピールに重点を置いているので、人は人、自分は自分、という、自分を軸にした価値観を持っていないだろうから、おそらく、ひと目見て、誰にでもわかる自慢し甲斐のあるコンテンツを含んだ妻を持つことだろう。

ハングリー精神を持つ、劣勢にあった人が、あこがれ渇望していた優性の人を従える、妻にする、というのは、ひとつの征服欲が満たされ、ご褒美が自分に与えられるべきと感じるのだろう。

ご褒美が、羊3頭でも、馬5頭でもいいのだが。
羊や馬も尊いと思うので、たとえ羊や馬と同列にご褒美としてゲットされたとしても、トロフィー妻も、やはり、それぞれに尊い。
ご褒美に対して、わたしは否定しない。
もし自分が、若く美しいと仮定して(ありえないけれど、あくまでも仮定)、民の平和を祈願して大規模建築の人柱になるなら、自分の命は尊いので、生きて人柱に捧げられるより、トロフィーとして、成功者に捧げられたい。
(また、そういう、非現実的な、感情移入しにくい例え)

トロフィー妻にも選ばれていない分際で、トロフィー妻はけしからん、と吠えたところで、誰の目から見ても、どういうシチュエーションの人間が述べていることか、明確にわかるだろう。
この例えは、わかりやす過ぎるが、世の中には、ちょっとわかりにくい事例がゴロゴロ転がっている。

自分が出来ないから、出来る人の、別の側面のマイナス点を攻撃する。
悔しいから、素直に負けを認めない。

トロフィー妻になれるだけの、若くて美人なら、トロフィー妻を否定したり、非難したりできるだろう。
若い時でさえ美人ではなかったわたしが、トロフィー妻は流行遅れだ、と言っても、なんだか、痛い。
で、最初、言いたかったことを、少し変えて、
トロフィー妻は、羊や馬が尊いのと同様に、生き物として、尊い。
そうすると、わたしも、若くて美しくはないが、生き物として尊い。

みんな尊い。
でも、あんまり生き物括りで生きる価値を同列に捉えると、ビーフステーキを食べたり、とか、革のバッグや靴、使えなくなりそうだ。

論点は、思いっきりずれて、車内移動時間の、ただの暇つぶし独り言になってしまった。





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