蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

平凡そのもの。毎日が楽しい、今を楽しむ

2020-01-30 | 老い
毎日、素晴らしい写真と共に、凛とした文章を届けてくれるブログと出会い、感激している。
しかも毎日、無料で、安定した高品質のものに触れられる。
どうか、ずっと続けていただけることを願うばかり。

わたしの大好きなテイストである。
内容も、表現も。
わたしには真似しようにも真似できない。
憧れか、、、というと、また違い、現実の一部として感情移入している。
写真の感性も、もしわたしがそこにいたら、こういうアングルで、こう撮りたいだろうなあと、リアル感が迫る。
実際には、シャッターチャンスの捉え方が、いまひとつ遅れたり、ボケたりする。
わたしの脳裏に残る風景が色鮮やかに蘇る。
脳内疑似体験。 
今朝も、ほろりと涙を流した。
ステキな電子の贈りものをありがとう。
そして、ブログ村さま、ありがとう。

良いものに、ぞっこん、こころを奪われた後に、自分のブログを書くのはいささかエネルギーがいる。
まあ、わたしはわたしで別もんなので、それもありかなあと。
でなきゃ、生きていけない。


で、話は、個人的な将来へと想像を巡らせる。
高齢になったら、どういう生活を送りたいかなあと。

1)自分の生家に住むのはどうか?
無理。
例え、メンテを完璧にして、最新の設備を整えたとしても、ハード面は快適でオッケーだが、ソフト面がよろしくない。
買い物は不便だし、ふらりと外出にもイマイチ、近隣住民ともお付き合いなし、知り合いもなし。
(あ、父方の叔母が、ま隣に住んでいた。が、隣でも田舎だから遠い)
一日中、家の中に居るのなら、なにも遠い生家に住む必要はない。
あの生家を利用して、何かするのであれば、訪れる人やスタッフとも交流があるだろうが、わたしはもう関与したくない。
毎日、がやがやと人と接するのは、しんどい。
やる気なし。

2)駅前至便マンションに住む。
これは、あり。
どの駅か?
やはり知った顔が近くに居る、そういう駅か。
でも誰かと同居、シェアするのは嫌かも。
生活スタイル、スタンスの違いで摩擦が起きそう。
しかし、一人で、頑丈な鉄の扉を閉めて一切遮断し、引きこもるのも孤独すぎる。

3)老人ホーム
これは、ありかも。
元気なうちに自立棟に入居し、介護が必要になれば介護棟に移る。
自立棟の時は万が一の時しかスタッフは顔を見せないから、自室のプライバシーは確保できる。
万が一の、緊急時にも、お一人さまでも不安はないので、両方の良いとこ取り。

4)自宅
好きなように過ごす。
今のパターン。
定期的にヘルパーさんに来てもらう。
ただし、ゲリラ豪雨や台風、自然災害の時はただただ恐ろしい。
日頃の家屋メンテや備えが必要。

以上。
旅先で季節滞在、なんていうのもありかも知れないが、具体的に計画するほど、精神的にエネルギーや情熱が満ち溢れていない。

ダンスは自分でもうやめたほうがいい、と、セルフストップをかけるまで、踊る。
有終の美を目指し、美意識からも健康面からも、引退時はある。

あるいは、、、
季節の良い時に、夫の実家で、ちまちま骨董品探し。
今は、本でいうなら目次をざっと見て内容を知っているる程度。
一章一章、目を通してじっくり向き合うのも趣きがあるだろう。
だが、今はそんな気にならない。
歳がいって、老境に達したらそうしよう、、、と代々の人たちも、そう思いつつも、誰もせずに、この世を去っている。
口頭のみの、言い伝え。
わたしも、そうなる可能性は大いにある。
足腰が動かなくなっても出来そうな趣味だが、実際に動けなくなると気力もなくなるだろう。

それを見越して(かどうか意識はないが)、目についたお気に入り骨董品は、ちゃっかり自宅に持ち帰って、時々、手に取ったり、愛おしく見ている。
それは、骨董品に限らないが。

体が動かなくなったら、精神もダウンするだろう。
体が動いている今、体が動かなくなった時のシュミレーションをしてみても、精神的にも元気な今の想像では、お門違い、見当はずれの予想になるだろう。

趣味や余暇は、きっちり細かく予想できないとしても、住まいは大まかに枠として決めておきたい。
器が決まると、入る中身も決まる。
しかし、海の見える場所がいい、とか、そんな希望は特にない。
自然に囲まれて育ったから、のびやかな、おおらかに過ごせるところがいいけれど。

逆の場合もある。
中身に応じて、器を決める。
しかし、この歳になると、中身は減少する一方。
濃度が高まり、カサが減る。
だとすると、器は大きくなくてもいい。
だが、小さな器は狭苦しい。
余裕がほしい。
自分を放牧したい。
認知症が進むと、放牧もままならず、外から鍵をかけられるのだろうが。

あれこれ、半歩先の自分を想像して、進路を選びたい。
ヨレヨレの自立出来ない自分を想像して進路を選ぶとしたら、介護付き老人ホームに決まっている。
それは、楽しくない想像だが、まあ、避けて通れないので、行き先コースの通過点の1つである。

結局、楽しい想像としては、どうしたいの?
やりたい事をしようと思えば出来る今を存分に楽しみたい。
そして、老境に差し掛かってからしたいと思っていることも、少しだけ具体的に前倒しでスライドして、取り掛かってもいいかなあ、、、と、うすぼんやり、アタマの隅っこで思っている。
老いと共に歩く、落ち着いた時期。
安らぎの満ち足りた時を過ごしたい。
でも、今はまだ机上の空論である。
なぜかというと、健康な今、十分満ち足りている。
これ以上の幸せはないと思っている。
健康でなくなったとき、同じようには思えないだろう。
が、少しずつ老化が進み、健康を害してきたら、気持ちも変わり、対応していくと予想している。
(かと言って、事態はどう急変するかは、神のみぞ知る、、、である)

必ずそういう時は来るということを知りつつ、実際にその時になれば、その時、考えよう。









冷水を浴びると目が覚める

2020-01-29 | 趣味
あちこちブログ散歩をすると、痛みや辛さを堪える我慢大会みたいな雰囲気。
忍耐力は、一朝一夕に培われるものではなく、長い経験から身に付くもののようだ。

ちなみに、義姉。
骨折しても平気。痛くない様子。
我慢しているようには見えない。
これは、神経が通常人とは異なるのだろうか?
真似したくても真似できないし、真似する気がないし、真似する必要がない。

痛みは心身への警報であり、シグナル。
放置しているのは良くない。
ほんの些細な痛みで、ガーガー、ガチャガチャ、ピーピーいうのは、どうかと思うが、アラームが鳴ると点検したほうがいい。
とてもそんなことができる状態ではない、としても、心身は自分で守りきれる限界値を越すほど耐えなくてもいいと思う。
あくまでも自分のため。
自己チューは、自分を守る。
その我慢限度の頃合いは、人に依るのだろうけれど。
各人、いろんな自己経験を通して、自分の頃合いを知る。

わたしも我慢強いほうかも知れない。
基準は生死にかかわるか否か。
学生時代、同級生がピーピーわめいていたが、何が一体そんなに騒ぐようなことなのか、さっぱりわからなかった。
でも、年を重ねて、基準が甘くなった。
健康の質を維持できるか否かになった。

例えば転倒しても、打ちどころによっては生死にかかわる。
しかし、生きていても、車椅子だったり、歩くのが不自由だったりすると、健康生活の質が下がる。
それを考えると、ホームとホームを飛び越えるUチューブなどを観ると、全然、笑えない。
ほんの数センチの段差で転んでも、その瞬間には、とてつもない不安が一気に襲う。
わたしはもう若くないから、どうにかなるさ、と思わない。
自分の心身は自分で守らないと、自分の余生の質が落ちる。
人任せには出来ない。

かといって、健康オタクになって、常に不安が付きまとい、現状を楽しめないのは、本末転倒。
なんでもほどほどが、よい。

なので、わたしは我慢しなくなった。
が、あまりにも無茶は言わない、しないが、幼児のように、こころの赴くままに自然にしている。


ちなみに、、、
全然関係ないが、、、
昨夜から今朝のどこかの時間に、夢を見た。
飛行機の出発時間に合わせた集合時間に、間に合わない夢。
小学校からずっと一緒の幼馴染のYちゃんが登場。
早くホテルに帰って荷造りをしないと間に合わない、もう絶対に間に合わない状況。
こんなに時間がないのに、ホテルの部屋がわからなくなり、探している。
絶体絶命。
場所は、濃い色合いの天然木をたっぶり使った歴史的趣のある重厚などっしりした高級ホテル。
教会や貴族の邸宅のような、広い豪華な部屋がいくつもいくつもあり、どこからどこまでが自分の部屋だかわからない。

部屋も特定できない、こんな状態ではパッキングなど到底無理。
Yちゃんは、先に準備していて、わたしを急かす。
目が覚めるまで、延々とYちゃんを交え、時間に追い立てられるストーリー。

夢は無意識の気になっていることを意識下に現すらしいので、夢分析をしてみると、、、

夢の直前のその日の行動を振り返る。
その日は、ダンスで、ある人にフラれた。
ごく最近、出会ったお気に入りの人で、毎週、踊るのを楽しみにしていた。
前に、つんのめるカタチで、わたしばかりが先を焦っていた。
この人とのダンス活動が安定したらいいと願っていた。
一度、わたしの日時の都合がつけられないせいで、その人とはもう踊れないだろうと諦めていた。
が、たまたま偶然、別件の状況変化のため、その日、都合がつけられ踊ることが出来た。
がっかりしていたところが、一転して、ぱーっと明るく光りが射した。
で、次のダンス日にこぎつけようとした段階で、相手にシャッターを下ろされた。
フラれた。
それが夢を見た直前の出来事。

完璧にフラれたわけではないが、一応、冷水をパシャーっとかけられた。
頭を冷やすには良い。
冷やした後、また出会えるかも知れないし、出会えないかも知れない。
深追いはしない。
でも、がっかり、、、少し残念を通り越して落ち込んだ。
だが、それは一瞬で、これで良かったんだ、と思った。
無理やり諦めるのではなく、自然の導きのままに。
そもそも、都合が付けられない日だったのに、運良く(わたしにとっては)、都合が付けられたのだから、神様からのプレゼントだ。
一度あきらめていたのが、復活した。
ゲームオーバーだったのに、もう一度、プレイ出来るチャンスを与えてくれた。
そのプレゼントは、最後に未練が残る状態で終了するのではなく、すっきり、あっさり、ことの成り行きを受け止められるような、そんな流れを作ってくれた。
断られた、フラれたんだけど、それで良かった。
悔いはないなあ、、、と。

そんな当日の現実があった後の夢だったわけだが、、、
なんで焦る内容なんだろう。
それも、しつこく延々と。

贅沢な迷いの森に入っている、わたしへの戒めかも知れない。
足るを知るべし。
現状維持に努力し、深追いはすることなかれ。
そう自分が納得するまでの、こころの調整、葛藤の過程かなあと。

時間はないでしょう?
そんな状態で何やってるの?
あれもこれも、欲に溺れてはいけない、現実を見よ、現実をクリアするための努力をせよ、ということかなあ、、、

よくわからないけれど、あっさりフラれて、1日経って、すっきりしたような、、、と、自分に言い聞かせているだけだろうけれど。

人間は欲深い。
ひとつ高めに登っても、また不満が出る。
足るを知らなきゃあね。



受け容れられない価値観とは向き合わない

2020-01-24 | 人生
価値観って、様々だとつくづく思う。
「大切な時間、お金、労力を何に使うか」で価値観がわかる。
心身かけて注ぐもの。

わたしは、自分の外側、見かけ、ルックスにはさほど重きを置かないし、他人の外側にもたいして重要視しない。
容姿はスペックのひとつではあり、否定はしないが、特別には崇めたてない。
外見ばかりに囚われている人は、こころにコンプレックスを抱えているように、勝手に私脳が思う。

ほっておいても、中身は外側に出る。
滲み出たり、醸し出る場合もある。

先ずは、外から、と頑張るのもよい。
器、入れ物から。
西洋貴族御用達の王室ブランドのバッグを持つのも、色柄、デザインが好きで、使い勝手が良いなら問題はない。
ブランドイメージに憧れて、現実逃避をするのも、問題ない。
(会社のお金をくすねて、なんていうのは良くないが。
横領事件の犯人は、豪遊や、ブランド品の買い漁りが多いが、何故なんだろう?)
似合っていようが、似合っていなかろうが、本人が汗水流して手に入れたお金で、ブランド品で身を固めるのはその人の流儀。
ああ、あの人、ほんとにブランド品が好きやなあ〜、、、
とわたしは思うだけだ。
否定も肯定もしないが、わたしの流儀ではない。
ブランドの力に頼りたい気持ちはわからないでもないが。

そんなお金があれば、(この発想法はちょっと二流らしいが)、わたしなら好きなアート!!!を買う。
ただし、有名で高額な作品ではなく、わたしだけに想いをかけられ、温められる品。

随分前に中欧に行った時、名もない、商業絵描きさんの絵を買った。
それ以来、旅行すると、値段は安いが、手描き、手作りのものを買い求める。
コーヒー好きの舅は、いつも各地でコーヒーカップを買ってきた。
毎日、本格的サイフォンコーヒーを自分で淹れ、どのカップで飲もうかと楽しんでいた。
お年寄りの飾り棚に、旅先で手に入れたコケシやら、夫婦岩やらの観光地風景が表された、テカテカ光るミニオブジェ(わかりにくい説明)などが、ズラリと並べてあるのをテレビで見たことがある。
飾り棚に並べてあるモノで、その人の人生がわかる。
しかし、今のミニマリストたちは、飾り棚自体を持たないのではないだろうか。

お年寄りたちのお土産品は買ったのはいったい、いつ?というような、脂っぽい埃をかぶっている。
でもそれで満足だと思う。
記憶や思い出は、埃まみれになっていても、絶対的なものなので、脳に沈澱している。
掻き回したりする必要はない。
べつに無理やり刺激などは与えず、そっと沈澱させるのがいいと思う。

もちろん、毎日、愛おしい目で見ながら磨いたり、大切に使ったりすると、モノたちも喜ぶことだろう。
だが、わたしは、過去のある日、繊細な漆塗りの美しい、江戸時代のお盆に、舅が、ごっつい盆栽の鉢をドカンと載せているのを見て、なんてかわいそうなお盆、と感じた。
いくら家にゴロゴロあって、自分が買ったものでもないからって、舅、荒っぽすぎる。
表面の漆塗りや施された細工が傷つくではないか、と思い、強制的に鉢を引き離した。
今はわたしの、大事なクロゼットの引き出しに仕舞われているが、それは、使われてはいない。
大切に保護しただけに過ぎない。
どっちも、どっちか。

話を戻す。
値段がやたら高い美術品は、たんなるコレクション、または投資目的、あるいはステイタスの自己顕示または、自己満足である場合が多いように思う。
本当にその絵が好きなのか、有名だから所有したいのか。
ブランドバッグと同じ。
本当にそのバッグが好きなのか、そのバッグを持っている自分が好きなのか。


ちなみに、話はまたまた戻るが、、、
外見の美しさを否定する気はないが、それは要素の一つに過ぎない。
外側、皮膚の下は単なる肉と骨と内臓。
美容整形外科医が、ビジュアル重視で老化や劣化したルックスの欠点をあげ、どこをどうすれば良いか、しれっと解説する。
それは、プロの目、施術者の意見。エンジニアのようなもの。
人様のルックスにあれこれケチをつけないでほしいが、彼らもそれで生計を立てているから、わからなくもない。 
メスを入れて変える。
が、所詮、外見。
それがわかっていても外見に振り回される人は多い。
わたしは、愚かで気の毒だと思って見ている。
しかし、外側コンプレックスを克服して、こころが救われるケースもある。
まあそれも、わかるが。

若い時ならいざ知らず、ある程度の年齢になれば、考えも変わるだろうに、いつまでも外見に囚われている人は、本末転倒の人生を送ってきているのではないだろうか。
「自分は、どう見えるか」に振り回されるなんて、ゴメンだ。
カッコイイ自分が好き。ダサい自分は嫌い。
まあそれもありで、それに向かって努力するのも一つのスタンス。
ただ、「カッコイイ」は、顔や見かけであるとは限らない。
ルックスなどの見かけではなく、カッコイイ生き方!
それなら、わかる。
中身がカッコイイのであって、外側ではない。
外側ばかりを整えようとする人は、順序が逆だと感じる。
人に見せるためのカッコよさは、偽物の匂いがする。
あくまでも否定はしないが、好まない。

人の種類には水と油がある。
ぱかっと分かれる。
どちらが良いとか悪いの問題ではなく、両者は絶対に相容れない。
棲み分け。
ケンカする必要もないし、へんに妥協する必要もない。
お互い、相容れないということを知って、一定の距離を持って存在していればよい。
価値観が違うから、接点もなく、接触することもないだろう。
お互いの存在を知って、交わらないように気をつけて生きて行かねば。

ああ、眠くなってきた。
どうでもいい、と、勝手脳が勝手に言っている。
哲学脳にはなれない、わたし。

今日の記事、船酔い気味だ。
どうもキチンとしていない。
記事、最後あたりは、Eテレの「人生レシピ」という番組で、崇高な神の愛を説く、立派な人が、人生の苦痛を幸せに変える導きを紹介しているのを見ながら、記事を書いている。
だから、気が散っているのだろうか。
せっかくの、人生に真摯に向き合う素晴らしい内容の番組なのに、不謹慎?
どっちつかずになってしまった。

何がしたいのか、何が言いたいのか、よくわからない、、、けれど、
2つの別々のエッセイ・ランキングブログ記事を読んで、一方には共鳴、もう一方は、相容れないと感じた。
自分はどう感じたのか、書いてみたくなった。
ただそれだけ。


走らない馬を走らせる、走らない馬

2020-01-22 | 子育て
わたしの息子。
遠い日が、今の孫の年齢と重なる。
あんなこと、こんなこと、あったなあと。

わたしはサボりなので、一歩間違えると放任主義を通り越してネグレクトになるのかも知れない。
なにしろ、節だけ、ポイントだけ押さえて、あとは、ほったらかしにしていた。
これは、他の子供たちも同じ。
遊んでやった記憶などあまりなく、子供同士、きょうだい仲良く遊んでいた。
年が近いし、同じ家に住んでいるし、なにしろ親が同じだから便利。
長子である長女が、誰に似たのかさっぱりわからないほど、しっかり者だったので、安心のお任せ丸投げだった。
(が、しっかり者は、なにかと、うるさい)
当時、長女が下の子供たちの手を引いて幼稚園に通う姿を見て、お母さんの姿を見たことがないけれど、いったいどんな人なんだろうと、ご近所ママたちの間で噂されていたそうだ。
(わたし、透明人間ですから)

この息子。
小さい時は、多少の癇癪は持っていたが、まあ手のかからない大人しい子供だった。
これも、他の子供もそうだったが。

今、思えば、手をかける余裕がなく、隅々まで目が行き届かなかったのではなかろうか。
イクメン不在の時代、ワンオペで3人年子は、わたしのキャパを超えていた。

大人しくて従順で、なんでも親の言うことを聞いていた。
と書けばどんなに大人しいのだろう、と思われるが、よくよく考えてみると、わたしは、ほとんど規制やルールを設けず、本当に本当にダメなことしか、ダメ!と言わなかったのではなかろうか。
生命の危険を冒すようなこと、などの。
放牧場は、とてつもなく広く、柵がなかったように思う。
でも、鼻歌混じりで境界線あたりを駆けていると、無線の電流柵があったかも知れない。

まあそれはいいとして。
電流は、一度も流れなかったんだからよしとしよう。
しかし、子供は見抜いていて、電流の下、隙間を上手に出入りしていたのかも知れないが。

その息子。
幼い頃から小学生の頃、勉強はやらせると、やる。
やらせないと、やらない。
ずっと前にも蝶ブログに書いた覚えがある。
問題集の練習問題、横にわたしがついていると、スラスラこなす。(わたしは口は出さない)
横についていないと、やらない。前のところで止まっている。
わたしも忙しかったので、自分ひとりでやりなさい、と促しても、ひとりではやらない。 
が、横にいると、なにしろ、スイスイすらすら。
勉強は苦痛ではないようだが、決して好きではない。
自動的に自主的に勉強は望みすぎ。
わたしの導きひとつで、すごく勉強をする子になるのに、せっかくの持って生まれた能力を引き出してやれない、、、それはもったいないと思った。
塾の先生にバトンタッチするまでの半年間、わたしは頑張った。
息子は別に頑張ってない。わたしが頑張ったのだ。
息子にしてみると、勉強するのも、しないのも、あまり変わらないようだった。たいした負荷はかかっていなかったように思う。
わたしが、しんどいだけ。
荷物を背中に乗せた馬の手綱を引いて、砂漠をとぼとぼ。
砂漠ならラクダが良いが。
馬なら草原が良いが。
走れば走る馬。荷物をたくさん乗せたら乗せられる馬。
走りたいとも、止まりたいとも、嫌だとも、なんにもさして要望はなさそうだった。
ただし、自分では走らない。
馬の能力を引き出す方も、けっこう疲れる。
先生に渡すまでの辛抱だと思って、自分こそ走らない馬そのものであったわたしは、自分を走らせて、息子を走らせた。
あ〜、疲れた。

彼はその後も、たいして自分の要望も持たず、親の言いなりになった。
大人しく親の敷いたレールを走り、社会人になった。
親のレールといっても、別に特別なことはなにもせず、自然体だったが。
大学時代は、実家を出て、大学のある地に住むことになった。
彼が出て行った、ガランとした部屋で、午後の柔らかな陽射しを浴びながら、わたしは、しばし、ぼーっとした。
わたしは、これでお役目終了!戦争は終わった。
肩の荷が一気にすーっと降りた。
大事な預り物を無事、無傷で目的地へのフライトにとりあえず乗せた。
あとは知らん。
とは言っても、まだ翌年も次の子供の受験が続いていたが。

息子は社会人になったら、あっさり親の元を離れた。
バイバイ。
それ以来、戻って来ない。

一年に一度、はるか遠方から帰省し、顔を見せてくれる。
それで十分だ。十分すぎてお釣りがくる。
ただし、母親の家事に文句を言う、うるさい姑みたいになっているが。

悪人ではないが善人でもない

2020-01-21 | わたし
生まれ育った生活環境のインパクトとDNAが、脳の深くに沈殿しているというJazzブロガー氏の表現に、痺れた。
わたしも、まさに、その通り。

では、郊外のほどよく便利な文化的地域の住宅街で、サラリーマンの父親を持つ、穏やかな家庭で育った人は?
静かな郊外で起こる、凄惨な事件もある。
外からは見えない因子が家庭には隠れている。

幸せそのものの家庭、生活環境なのに、、、なぜ?
はい。わたしの、独断と偏見に満ち満ちた答えは、こうです。

素晴らしい純粋なものだけに囲まれて育った人は、脆弱である。
逆境に耐えられない。打たれ弱い。
やはり、雑菌と共存、共生しなければ。共存共栄とは言わないが。

その点、わたしは、一見、何事もない、なんの特徴もアピールポイントも自己主張もオーラもない、人畜無害、平凡を絵に描いたような人物。
いても、いなくてもわからないのだから、たとえ、「はい、この人、日本からやってきた友人です!」と外国に住む知人に紹介され、一緒に食事をし、談笑したとしても、何の記憶にも残らないと思う。
はるばる、わざわざ遠くからやって来て、、、。
インパクト、ゼロ。
それが悲しいとか、悔しいとか、惨めとか、全く思わない。
自分は、その場で自分を出さなかった。
しかし、自分を無理に押し殺し閉じ込めたわけではない。
透明人間である自分が、普通のリアルな現場にいる人には見えるわけがない。

かといって、わたしは、何も感じないかというと、、、
全身が吸収力のあるスポンジのように、見えるもの聴こえるもの、すべて周りから五感を通して感じるものを全力で感じている。
自分のフィルターを通して。
ただ、その時は、自分でもあまりよくわかってない。
放射能を浴びても、その場ではピンと来ないかの如く。

じわりじわりと、後からきいてくる。
日が経つにつれ、スポンジに吸収したものは、やがて膨れてきたり、色や温度を変えたり、質感を変えたりして蘇る。
強くなっり弱くなっり、破れたり、補強されたり、時には別素材で継いだり。

あの時、あの人は、わたしのことを透明人間だと感じて、いない人のように接していたなあ、、、別に恨むわけでもなし、当然のことだ。
まあ、それはそれだけのことである。
お互い、共通の知人がいなければ、まるで接点がなかったから、あんなものだ。
だが、その日のことは、くっきり鮮明に覚えている。
不思議、、、。

いつ、どんな形でわたしに蘇ってくるのだろう、、、?
赤の他人である人は、袖摺りあっても、赤の他人のままなんだろう。
電車で隣にたまたま座っていた人のようなものだ。
もう一生、会うことはない、思い出のワンシーンに、たまたま知人の知人役で登場した人。
だが、知人の配偶者ともなると、記憶の質は全く違う。
笑った顔や、真面目な顔、、、その人は、わりと自然体で接していてくれたように思う。

と、ある日のシーンを回顧しながら、、、


脱線している、、、。
話を元に戻す。
雑菌まみれなわたしなのだが、外見は、そうでもない。
これは、おっとりしているからだろう。
天然系のおっとりさん。
出来の良い、気の回るキピキピさんからすると、神経にビンビン痛く刺さる、天敵のようだ。
わたしは何の努力も意識もしないのに、多少ネジが緩んでいるせいで、悪人に見えない。
自己評価も、悪人とは見なしてはいないが、明らかに善人ではない。
アホはアホなりに、自分を守る知恵をつける。
わたしの育った環境とDNAは、わたしのきょうだいたちも、同じである。
が、それぞれに違う。
長子、二番目、三番目、と、順番によってや、性別によっても違うし。
DNAの混ざり具合も微妙に違うし。
そして、誰しも一長一短がある。

イギリスのプリンスみたいに、生まれた時からすでに出来上がっているものは、大変だろう。
「王子と乞食」というお話がある。
はめ込まれたものから解放された時が、真の解放だが、同時に特権も失う。当たり前のこと。
自分を形成している基となるベースを失う。自分って?
一から、核からリセットし直す自分探しが、これから始まるのだろう。
両方を望むのは虫が良すぎる。
手放すにはそうとうの覚悟が必要だ。
土台ごと壊した後で、無から築いていく作業は大変だ。

さて、わたしは、、、。
常に欲張り。
欲しいものを両手で持ちきれない。バッグに入れても入りきらない。
しかし、持ち歩く場合は、入れ物を持たなければ、欲しいものを透明にして、いくらでも入る。
だが、持ち歩かず、家やロッカールームにキープしておきたい、モノ・フェチなので、ミニマリストの子供たちとは水と油。
わたしの脳が破壊されたら、全部捨ててね、と、口約束している。
(子供に迷惑をかけないために自分で処理、始末するのが賢者らしいが、別にわたしは賢者には憧れていない)
ただし、換金性のあるものは、モノではなく換金を余儀なくされる。
お金だけモノと別枠にしておくのが鉄則、お互いのため。

と、話がまたまた逸れている。
逸れついでに、、、

最愛の人を配偶者に持つと、失くした時に立ち上がれない。
なので、気に入らない点がいっぱいある及第点すれすれぐらいの人が良い。
リスクヘッジで、自己防御する。

大好きなものは、そのプラスの分だけ、マイナスをはらんでいる。
楽あれば苦あり。苦は楽の種。
セットになっているから切り離せない。
まったくもう、、、かなわん、、、です。
天国と地獄。天井と底。
行ったり来たりすると心身が持たないから、あまり高いところは求めなくなった。
及第点あたりで定飛行(低飛行ではない)が理想。
でも、わたしはいつも低飛行が快適で気持ち良い。
自分自身が省エネモードになっている。
生きるにもさほどエネルギーがいらないから楽ちんである。


負の記憶が蘇った

2020-01-20 | 趣味
今日は、別SNSで日記をアップした。
その日記は何日も非公開にしたまま、抱え込んでいたものだった。
手を加えては放置し、非公開のまま、しかし、わたしの中では、くすぶっていた。

今日は大きく訂正し、思い切って公開した。
自分の悩み、迷いを、第三者的立場であるかのような客観的な書き方をした。
なんだか、重い、つっかえていたものが取れたようなかんじ。
ではあったが、、、わたしとリアルに関わりのあったリアル人、Aさんがコメントをしてきた。
「第三者であるあなたに、なんの関係があるのですか?」

わたしのそれに対する返信コメントは、一言だけ。
「なんの関係もありません」。

このAさんは、わたしのブログに何度も出てくる人物。
過去に、わたしにダメージを与え続けてきた人。
今更ではあるが、この人には文章の読解力は皆無だと確信した。
行間を読む、なんて、Aさんにはあり得ないことだ。
わたしは悩んでいて、自分に関係あることだから書いているのに、よくまあ、あんな、すっとぼけたコメントが書けるものだ。
わたしの返信コメントに、さらにつけ加えたい言葉がある。
「で、それがどうかしましたか?」と。
もう、今更追加できないから、ちょっと残念でもあるが。

鈍感とか、そんな生易しいものではない。
なにか、こころの中心にある重大な理解力や、想像力が欠如している。
日本語が通じると、そこそこ会話は表面的には出来るが、一見普通で、わからないが、どこか中身がおかしい人はいる。
道理でわたしとは全く噛み合わないわけだ。
ああ、3年前の悪夢が蘇ってきた。
思い出したくないから、感情と記憶に蓋をする。
ひょんなことから嫌な感情が湧き上がった。
そんなことは、リセットしよう。忘れよう。

※この記事こそ、非公開にしたほうが良かったんじゃないかと思った。
公開、非公開の基準は自分の気分次第なのか、はたまた深層心理に理由、原因があるのか、、、


※※後日談。
翌日(今日、今さきほど)、ご本人さんから追加コメントが寄せられた。

「あの日記はあなた自身の悩みなのでは、、、?
気がつかないですみません。
なんたらかんたら、、、」

再コメントに、わたしは再返信コメントを付けた。
が、核心には触れず当たり障りのない一般論を思い入れを入れずに書いた。
ホンネをやり取りする気は、全くないので、最後に仲直り風な体裁で収まればそれでよし。

毒舌で自滅

2020-01-19 | 無題
蝶ブログに誰一人として親しみを覚えないような、毒舌を吐く。
感性や考えは、人それぞれだし、表現方法も人それぞれなのは、よくわかる。
なので、一方的な言いがかりに過ぎない。
と、ジャブをかわそうと前置きをしても、免罪符にはならないだろうなあ、、、

ある人の日記。(別SNS)
老人ホームの入居費、月々の費用が高い現状を書いておられた。
年老いた親を抱える、自らも年配の皆さんには、ずしりと重い話。
現状だから、事実としてのレポートみたいなもの。
最後に筆者の包括的コメントが付く。

それに対して皆さんからコメントが寄せられていた。
さらに詳しく突っ込んだものや、実際の親御さんの場合はどうだったか、とか、国の政策を斬ったものやら、興味深く読ませていただいた。

ひとり、「ピンピンころりが、いいです」というコメントがあった。
このコメントに、わたしはコケた。

わざと?
それとも天然?

わたしは天然系ぼけキャラなので、こういうコメントには過敏に反応してしまう。

議論が白熱している中、知らないことや考えさせられるコメントを読んで、うんうん、、、と頷いていたが、、、

なに、これ?
わかって、言ってるの?
あたりまえやんか。
そうなりたくてもなれないから、みんな困ったり、悩んだりしているわけで。
近所の井戸端会議のオバちゃんなら、ガハハと笑っておしまい、大いに結構だが、あまりにも、この日記の傾向、テイストで、このタイミングでのこのコメントは、ノーテンキで浅はかだと感じた。

厳粛に行われているお葬式で不謹慎なダジャレをかましているようなものか。
深刻な国際会議でギャグを言っているようなものか。

少子高齢化の日本の将来について議論している時、「女性がもっと子供をたくさん産めばいい」と、しゃあしゃあと言っているようなもの。
女性がなぜ子供を産まなくなったか、社会背景、原因を知り、どうすれば女性が子供をもっと産むようになるのか対策を練る、という手順をすっ飛ばし、ただただ単純に女性に子供を産め、とは、、、。
女性の子供対策だけでなくても、外国人労働者の受け入れ体制を整えるやら、なんやらかんやら、そのためには、、、など、他にも課題は山積しているのだろうけれど、、、

話は戻るが、酔っ払って、軽いノリで、あるいは悪ノリしてコメントしているのかも知れない。
そんなに目をむいて噛みつかれるような、非常識なコメントではない。
ただ、この人、絶対に出世しないタイプだろうと確信した。
別に出世なんかしなくていいのだが。
世の中には、ハズす人って必ずいる。それだけだ。
だから、何なの?
わたしのボケ感性からすると、許せないボケなのだ。
わかりきったことを、なんの悪びれもなく、堂々と言う。
(深い意図があって狙って言っているならともかく)
そう理想通りに理屈通りにならないから、皆んなで対策を練っているにもかかわらず。
老いた親の世話をしたり、病気の家族とかで苦労したことはないのか?
わたしも苦労していない部類だが、そんな、わかりきったノーテンキなことは、恥ずかしくて口に出せない。

ただただ明るければよい、とは思わない。
空気を読まない浅はかな考えの人は、わたしはどうしてもカンに障る。
わたしも空気を読まないタイプではあるが。
自分と似たような感性は、微妙すぎて、自己嫌悪に近いものを感じて嫌悪するのだろうか。

ここまで、非難するような内容ではないのに、なぜか、へんなわたし。
どこか、神経を刺激する痛点を押されたようだ。
床が腐っていて、ずぼっと足を突っ込んでしまったのごとく。
自分のボケが最近、許せなくなってきた。
ついでに人のボケも、許せない。
ボケは、ボケに厳しい。
もっと寛大にならなければ、優秀なボケとは言い難い。

男性の浮気、女性の浮気

2020-01-18 | オトコとオンナ
男性は、いつでも戻れる巣から、ちょいちょい出て、つまみ食いして、また戻ってくる。
いつも、いつまでも、巣を守ってくれているから安心して浮気できると思っている。
軸足は、片足。
浮気のつもりが、本命と浮気相手の両方とも失うことがある。


女性は、浮気性のパートナーの帰りなど待ってない。
浮気するような不誠実な相手は切り捨てる。
見切りをつけ、新しい巣を探しながら、巣からちょいちょい出る。
良い人がいたら、巣を交換しようと考える。
元の巣には戻らない。
両足移動で、乗り換える。
浮気ではなく、本気。

みんな子供から大人になる

2020-01-17 | 日々のこと
孫Bの生活発表会に行った。
ジジババ専用デー。リハーサルを兼ねている。
今年で連続3年目、来年もあるから連続4年になる。
孫Aは初孫だったので、なんでも初めて。
生活発表会の観覧にも気合いが入る。
孫Bは、初めての生活発表会。
お兄ちゃんは、ああだったが、弟は?
期待と不安が入り混じり、、、靴下が片方変だったり、姿勢がおかしかったり、ああ、あの子は手をかけてもらってないからなあ、かわいそうだけど、しかたない、、、なんて、けしからんことを脳が勝手に思う。
うちの孫たちは、絶対、俳優やミュージシャンには向いてないなあと。
マラソン大会の時には、絶対にスポーツ選手にはならないだろうなあと、、、確信する。
でも、小さい頃から頭角を現すのもありだが、小さい時は小さい時。
あちゃー。
期待は、瞬時に粉々に。
あれで良い。十分である。

孫Bの演技の後、関係ない学年の子供たちの合唱を聴いて、涙がはらはらこぼれた。
自分の孫でもないのに。
この大勢の子供たちは、やがて大きくなり、大人になり、、、
こんな、かわいい時代もあったんだと、信じられないだろうが、必ず、かわいい頃を通って、大人になる。
感無量。
人の子も、自分の子も、道がある。
哲学だなあ。

小さい頃から、その人物のほぼ全容のベースは見えている。
基礎、骨格部は出来ている。
あとは、どう育つか、どう育てるか。

孫Aは、去年の春は、「おばあちゃん、遊ぼう」と、うるさいほどまとわりついてきたのに、今はどう?
ケーブルテレビに張り付いて、彼はピシャリ扉を閉め、遮断。
サツマイモの追加や、サンドイッチなど、、、欲しいものをオーダーする時だけ呼ばれる、駅前の店のおばちゃん扱い。
まあそんなもんだとは思っていたが、実際にそうなってみると、答え合わせをするようである。
現実とはそんなものだ。

孫Aは、こんな大人、いるいる、みたいな、あかんやろ、それ、の典型。
昨夜も、トランプの種目を決めるにあたって、弟とジャンケンして負けると、涙を流して声を殺して泣いていた。
娘婿に、「泣かんでもいい、泣くようなことか」と叱られていたが。
理解できない不思議にナイーブな面がある。
成長期の子供は、晴れ、後、曇り、後、土砂降り、後、晴天、、、
感情の起伏が激しいし、まだまだこれから。
子供はある日突然、大人になるわけではない。
観察するには面白い動物である。

※「動物」はかわいそうかな。
子供は興味深い生き物である。

不毛から解放してくれるもの

2020-01-16 | 日々のこと
「私以外はみんなバカ」そういうタイトルだったか、スマホで電子コミックを無料立ち読みした。
有料になるところまで、いつも読む。セコい。
しかしながら、お笑いのネタがギッシリ詰まっているが、ネタには著作権はあるのだろうか。
ストーリーをパクるわけではない、短いパーツだと、たまたま同じ発想というのがあるかも知れない。

他にも、すごく面白いコミックがあるが、ギャグの宝庫。
絵はとてつもなく変だが、セリフが痛烈で面白い。
しかしまあ、よく考えたものだ。
わたしは、大ウケしている。
無料でしっかり楽しんだ。

他にもちょっとだけ面白いものもある。
漫画家さんにしてみれば、ちょっとだけ、なんて、失礼な話だけど。

ブログで掘り下げる前に、眠くなってきた。
やはり安易な方法で得たものは、リスクが少ない分、脳にも響ききらないのだろうか。
別SNSで、多分非公開にするだろうなあと思いながら、今日、ホンネをズバズバ書いた日記、やはり、非公開にした。
何なんだろう、、、。
書いた段階でモヤモヤの霧が晴れている。
アップなどしようものなら、かえって心が救われない。
広告チラシの裏に綴ったまま、捨てたほうがスッキリする。
一歩、また一歩、わたしは内向的になっている。自分を閉ざす。閉鎖。
でも、そのほうが自分が快適なんだから、仕方ない。
誰をも巻き込まない、鬱憤、憂さの晴らし方。

今日はあまり持ち時間がない。
さささと、書く。
ここ10年の自分の年表をまとめた。
特に3年ぐらい前。
真っ白な記憶に、次第に色が付いてきた。
家族の記憶が、一つ一つ蘇ってきた。
まるで、もう、あの世に行く寸前のよう、、、だが、まだまだ行かない。
それより、あと数十分で孫Aが帰ってくる、押し寄せる圧迫感。
まだ、このブログ、〆てないのに。

未来永劫に続く、何にもしない膨大な時間を抱える一方で、刻々と迫る現実の時間。
孫Aが好きなサツマイモ、早く、ふかさないと、、、
(といっても大層な蒸し器とかを引っ張り出してくるわけでもなし。耐熱容器に入れて電子レンジでワンプッシュするだけなんだけど。 
便利な世の中になった。
近々、声に出してオーダーするだけで、ふかされてくるのだろう、、、いや、思っただけで、声に出さなくても以心伝心で、ほかほかサツマイモがサーブされる日はかなり近い)

過ぎた時間、これから過ぎる時間、濃すぎて、凝縮され、かえって記憶にない。
脳のキャパが小さくなっているから、優先順位が低いものから消去されている。
この一年の過ぎるのが早かったこと。
残ったものは、、、?
考える暇もなく、矢継ぎ早に時間が進み、掻き乱されただけで、まだ、何が残ったのか、今、この瞬間には即答できない。

年表を作ると、面白い発見がある。
一方の分野が大変だと、もう一方の分野は安泰、波風が立たなくて平和。
自然にリスクヘッジされているようだ。
脳が無意識にバランスを取っていると思われる。

脳は大したものだ。
AIが脳の代わりになるから、子供たちに計算や暗記など、以前のように無理強いしないでおこう、と思う親がいる。
一理あるが、ちょっと違う。
AIには感性はあるのか?
過去や現在のデータから感性を読み込み、新しい感性を創造するとしたら、、、、、
限りなく人間に似ていても、生の人間と同じではない。
どの分野にも言えることだが。

戦闘も武器付きドローンにやらせたり、読み間違いも実際にあり、怖い。
人為ミス。

AIと人間の線引きは確実にあるのだから、子供たちへの教育のテイストや方向性が変わってくるにしても、生の脳で考えることは大事である。
と、書きながら、サツマイモが気になる。

サツマイモを理由に、今日も中途半端に、ブログ終了!
サツマイモは、不毛時間からわたしを解放してくれる??