蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

シニア群団に周りもびっくり

2024-03-30 | 健康
昨日のウォーキング、参加者129人とか。
すごい。
奈良駅はシニア群団で大賑わい。
朝は強い雨が降り続き、参加するのをやめようかと思ったが。
風が吹き、寒い。
午後は、見事に晴れ、暑い。 
服装を3段階(レベル1→寒い、レベル2→やや寒い、レベル3→寒くない)に準備していたものの、お昼間、太陽さんさん、レベル4の「暑い」には対応出来ず、汗だらだらで困った。

奈良。
13キロ。
よく歩いた。
24669歩。
桜はまだ全然開花せず。
見事な桜並木は、ずらずら延々と木のみで、花なし。
来週ぐらいは素晴らしい光景が繰り広げられるだろう。

それにしても、シニア群団は、お元気。
ぞろぞろぞろ、大群のため、どこに行っても、その場に居合わせた人々の口から、イナゴの大群のようなシニアの大群に驚かれる。
「わあ、(すごい)シニア(が、いっぱい)や」と若い人たちからの言葉も聞こえる。
「はい、そうです、それが何か?」と、わたしはこころの中で、反論も否定もせず、100%正確な感想を受け止めた。
シニア以外の何ものでもないのだが、大群になると、やはり奇異に映るのかも知れない。

シニアといっても60代の人はほとんどいないだろう。
70代を中心に、80代も存在感を示す。

お元気なのは良いが、なぜこんなにたくさんのシニアが一堂に集うのか。
そこが、謎であったり、現象を紐解くには興味深いところであったりする。

週に3回以上は参加しているという、ある女性(推定70代後半??)と話す機会があった。
ほどよく疲れた身体で、帰宅後、家でお酒を飲むと、とても気持ちいいそうだ。
だけど、疲れすぎても良くなく、頃合いがあるとか。
前は(身体的理由で?→憶測)参加できなかったが、参加できるようになると、本当に有難い、充実している、とのこと。
ダラダラ歩くとかえって疲れるらしく、気合いを入れて歩くほうが、ウォーキング後が爽快なんだそうだ。
京都から電車を乗り継ぎ参加されたようで、長距離ウォーキングに予想をはるか上回る参加回数に驚いた。
周りの人のペースによって速度に影響を受けるため、快適ウォーキングの時も、疲れるウォーキングの時もあるそうだ。
いやはや、ウォーキングの先輩、達人。
たかだかウォーキング、されどウォーキング。

高齢の人々は、「家にいても何もすることがないから」という皆さんの口々の会話から、ネガティブなマイナスの動機だと想像していたが、中には、ポジティブな積極的な人もいることに新鮮な驚きを感じた。
見た目は、灰色お年寄り群団。
しかしよく見てみると、登山服、用品メーカーのmont-bellをかなりの頻度で目にする。
じつはわたし、暑い寒い、服装の調整と、季節や丈など見た目ファッションを考え、服を選ぶのが苦痛になっている。
街着をウォーキングに着ても全然悪くはないのだが、やはり、雨風にさらされ、くたびれてくると、ちゃんとした場には、みすぼらしくなり、おしゃれ度が下がる。
ファッションセンスがどうこうではなく、自分で情けなさが漂い、惨めで自信が持てなくなり、居心地が悪くなる。
その点、登山やウォーキング専門メーカーは、目的や状況をとことん考えて作られているので、さすがに良さげ。
専門店は何店舗も営業しているので、店を覗いてみようかと(けっこう本気で)思っている。

わたしが、崇拝しているあるFIREブロガーさんの信条は、服装選びに時間と労力をかけたくなく、UNIQLO一本だそうだ。
ただ、シンプルなUNIQLOを爽やかに着る体型を維持するには鍛錬が必要で、運動は、毎日しているとのこと。
外側にではなく、中身に対して努力を重ねる。
高級ブランドにこだわるのではなく、自分こそがブランド。
これも、仏蘭西・裕さんのモットー。
わたしも余計な労力は削ぎ落とし、自分軸で動きたくなってきている。
(元々、手抜き、サボり、省エネではあるが)

老後早取り・生きがい喪失感

2024-03-28 | 趣味
映画「四月になったら彼女は」を観た。
佐藤健、長澤まさみ、森七菜、実力派揃い。
森七菜は、キラキラしていた。
涙がまたまたツツツーと流れた。
佐藤健と長澤まさみのラブシーンは、ちょっと熱量が足りないと感じた。
長澤まさみはどうも、ラブシーンに向いていないのではなかろうか。
なぜかわたしは緊張して、ハラハラ、手に汗、握ってしまった。
見ている側が、ぎこちない気分になった。

ちょっと進行が遅く感じた。
なぜ?
テンポがゆっくり過ぎて、この調子だと時間がかかりそうだと思った。
演技派の俳優が揃っているのに。
純粋な恋愛ストーリーが、人生後半のわたしの体内時計の早さに合わないのか。

映画には相性があるようだ。
わあ面白い!と感激するものもある。
が、鑑賞中、居眠りしなければ及第点である。
採点基準が甘い。
とは言え、映画は面白い。
ここのところ、邦画ばかり観ているが。

さて。
4月から新年度。
この2年間、熱心に時間を費やしていた事を卒業する。
だが、4月からの予定は真っ白。白紙。
時間の空白を埋められるだろうか。

普通は、卒業の後は入学だったり、入社だったり、新しいフェイズに移行する。
終わってしまったら、静かに力も消滅して止まればよいが、まだ勢いがある分、足は着地したまま、前のめりに引っ張られる。
次に行く慣性の法則の力が働く。
急ブレーキ状態。

もう2週間前ぐらいに方向性は決めたのに、まだ精神的に執着している。
後ろ向きにぐずぐずしている。
決めた後も優柔不断。
なぜ、ぐちぐちしているかというと、仕方なくではなく、選択肢があるのに、自主的に能動的に決めたから。
選択肢が多いと幸福感度が低くなるという説を体感している。
次に進むための卒業なのに、次を用意していない、予定を組んでいないので、空白となる。
真っ白いスケジュール表に、対応出来るか?

ずーーっと前、本当にずっと前、35年近く前に、予定を入れない日がいかに退屈か、という経験をして、(日頃、よほど忙しくして休養が必要な場合は別)前々から予定を作らなければいけないことを思い知った。
空っぽの自分にとことん向き合い、仕事をし始めたので、時間もこころも空白は埋まった。

さて、この度はどうしよう?
いつも、次の予定が決まった上で卒業するから、バトンタッチ、引き継ぎ期間は前と後が重複するのだが。
仕事の場合でも、転職して次に行くところが決まって退職するならともかく、何も決まっていない状態で仕事を辞めることはあまりないだろう。
とても不安だ、、、。

時間を持て余すとなると、虚しい時を過ごすことになる。
なんでもいいから、時間を潰すことを見つけなければ。
何も準備しないで(本来の意味で)卒業してしまうのは、学生時代以来だ。
あの時は半年間、行く道を見失い、生ける屍になっていた。

2回目の卒業にあたる、35年前は子育てに一区切りした時。
末子が幼稚園に行き始め、それまでゼロだった自分の時間が、少し持てるようになった。
ぽかっと開く空白時間は、2回目となる。
卒業と入学の間。
これまで、1回目は学業終了から結婚まで、2回目は子育て一段落から就業まで、
今回は3回目となるわけだが、人生ステップから行くと、次は終活までの間か。
が、終活に手を付ける気がない。
腰が重すぎて一歩も終活方向に足も気も向かない。
もともと、小学生の時から宿題はギリギリまで溜めるタイプ。

普通は、ここで黄金の老後突入となるのだろうけれど、わたしは老後を20年前から先取りしてしまったため、老後が間延びしている。
そして健康で順調なため、心労なくエネルギーが減らず、溢れ余っているにもかかわらず、出口が渋滞している。

黄金の老後、第2弾。
だが、第1弾と第2弾の間の、休憩ではなく、不安な待ち時間の到来となる。
まだ第1弾は終了していないのにこの度、突然の休止となり、強制卒業となった。
たまたま時期が3月だったので、わたしは卒業にしたが、内情的には留年である。
単位が足りず本来なら卒業できない。資格、免状がない中途半端な状態。
でも、学校は卒業。さあ、どうする?
わずかな灯油しか残っていないのに、降りしきる雪の日々をじっと過ごすかんじ?

もうすぐ4月。
快活な明るい季節に、時間と身を持て余すだろうことが予測できる。
どうにかなるか?
いや、どうにもならない。

健康寿命はまだまだ大丈夫な黄金の老後なのに、退職した直後の、何もすることのない人のようになってしまいそう。
季節が背中を押してくれるか?
外因に依存しようなんて、甘い。

空の巣症候群ならず、老後早取り・生きがい喪失症候群。
実に贅沢なことを言っている。
この機会に、母に会いに行ったり、日頃のルーティンからは想定できない、何か全く違うことをしようか。








プライド②

2024-03-27 | 無題
ブログ村エッセイカテゴリーの何人かのブロガーさんのブログ記事を読んだ。
一つは、自慢たれのご近所の女性の話。
もう一つは、仕事関係のお客さん(利用者さん)。

人は皆んな、プライドで生きていると思う。
プライドがなくなったら生きる屍。
と思ったが、わたしは少数派なのか?

多かれ少なかれ、どんな人にもプライドはあるはず。
それを内に秘めるか、外に出すか、出るか、だ。
行動に現れる場合もある。
無意識に外にダダ漏れの人もいるし、きつくニオウこともある。
プライドは、自慢になったりすると、嫌わられる。
出すつもりはなくても出てしまうため、必要以上に出ることを抑えて、実像とは違う、素ではない様子になっている人もいる。
自慢しないプライドは、どんなもの?
謙虚なプライドって?

プライドを昇華できれば素晴らしい。
が、困難。
プライドだけで生きている人もいる。
立派なのか、頭が下がるのか、はたまた好感を持たれないのか、賛同されないのか。
人との関わりの中で、プライドが顔を出す。
人と関わらないことも、プライドの一種だったりする。
自分を生きにくくすることもある。
特に歳を取ると、老化により、益々、意識と現実にギャップが生まれ、努力では埋まらない。
プライドの塊りのようなお年寄りをあちこちで見かける。
プライドは自分が生きて来た証、芯のようなものだから、今更、取り除けない。
現実に向き合い、柔軟に対応すると生きやすくなるが、それがまた難しい。

思うに、、、同じ価値観、同じ感性、目線の人に素直な気持ちを自然体で吐露できるのが理想。
カチンと来られたり、自慢と受け取れたりする人には、当たり障りのない会話を選ぶ。
受け取り手も、(部分的に)カチンと来ても、さらっとかわす。
だが、深く一歩進んだからといって、分かり合えるわけではない。
どんな人とも自分と同一は不可能。あり得ない。
やはり距離感は必要だ。



プライベートな会話

2024-03-27 | 人々の風景
ちょっとだけ都会の、大阪市内にある大型総合ビル、テナント内の、とあるお好み焼き屋さん。
4人の女性たちが、ぎゅーっと1つのテーブルに集まって昼食。
わたしは、その前のテーブル席。
横を向くと、2人の背中が見えるが、4人とも姿形はわからない。
彼女たちの、よく通る声が否応なく聞こえる。
顔は見えないので、話の内容から、てっきり70代真ん中から後半ぐらいの、仕事はしていない女性たちだろうと想像していた。

4人のうち、主に1人が喋りまくる。
もう1人が次に喋る。
あとの人の声は聞こえなかった。

なぜ、わたしが70代だと感じたかというと、、、。
自分の家庭のこと、家族のこと、家庭背景、そういう超プライベートな話だったからだ。
あんな話はおそらく、ある程度の年齢になったらする話題だろうと、わたしは勝手に偏見で思っていた。
連子だった夫は、継父にうとんじられ、、、子供によって、おかずの皿が多い少ない差別を受け、、、いじけて育った夫は、、、のような昭和の匂い。
すごく遠い時代のように感じた。

が、彼女たちが席を立って帰る姿を見ると、、、
あらら、、、わたしと同じぐらいの年齢?
ひょっとすると、わたしより少し若いかも?
しかも、きちんとビジネススーツやジャケットを着ておられる。
生命保険の外交員さんだろうか?と、想像した。

しかしまあ職場の同僚に、超プライベートな家庭の話を延々とするって、なんだか不思議な気がした。
暇な、お年寄りの集団かと思いきや、ビジネスウーマンの集まりだったことは、大変、意外だった。
ビジネスウーマンでも、キャリア系ではないと、なんとなく思った。
わたしの持つ、職種に対するステレオタイプの勝手な思い込みだろうけれど。

わたしは、家族のことは人には話さない。
話す相手は姉だけ。
あとは、亡くなった姑や、娘たち。 
というか、自分たち家族のことを家族内で話しているだけ。
なので、外の人には話さない。
人それぞれ、いろいろだろう。
わたしには彼女たちは不思議な人たちとして映ったが、向こうの皆さんから見ると、わたしが不思議な人に映るのだろう。
しかしながら、彼女たちのお喋りは現実的で興味深い会話だったので、ブログネタとして、おいしい。





WEBの向こう

2024-03-25 | ブログ
わたしが自分のブログに何度も同じことを書くのは、自覚している。
既に購入済みのものが家にあるのに、自覚せずに、何個も同じ歯磨き粉を買って来るというパターンとは、似て非なるもの。
だから何?
内情は違っても、外から見える見かけは、同じ。
現象は同じ。

例えば、、、ギャンブル依存症だから、病気だから、ギャンブルが人に被害を与えたり、常識をはるか超える非合法範囲であっても、認められるというものではない。

自分のブログに何度も同じことを書いても、飽き飽きヘキヘキする人は、読みに来なくなるだけであり、わたしはブログの広告収入をあてにしているわけでもなんでもないので(第一、広告は設定していないし)
たんにアクセス数が減るだけである。

自分の蒔いた種、自業自得。確信犯。
ではあるものの、ウケを狙ってスベるよりは、苦痛が少ない。
ウケを狙わないでスベることを承知の上でスベっているのだから。

と、開き直り、相変わらずマイペース。
可愛げがない。

ちなみに。
ある趣味サイトの60代の女性が日記をあげている。
60代と70代の、合計3人で、スポーツジムの後、食事に行く話。
待ち合わせ時間、場所にうまく3人が揃わないという話を延々と経緯を書いておられる。
(延々という点では、わたしも人のことは言えないが)
LINEでお互い約束、待ち合わせしていたところ、途中に時間が微妙に変更になって、LINEで知らせても既読にならなかったり、携帯電話をロッカーに入れていたり。
なんやらかんやらで、無駄な労力、待ち時間を過ごしたことを書いておられる。
思わずわたしは、よせばいいのに、その日記にコメントを付けた。

「スゴイです、わたしならとても出来ません。
自分の時間が減るので」

わたしは、嫌な奴だろう。
一人単独行動をボッチだと思わない。
ジム仲間と雑談をするために、わざわざ労力と時間を割いて苦労する気になれない。
本当に人それぞれだろうけれど。
人の好みはマチマチ、千差万別。
どの行動も正解であり、間違いなどはない。

ジムが終了しても行き違いで、なかなか逢えない人たちと苦労して逢って、何が得られるのだろう?
雑談するらしいが、楽しいのだろうけれど。
その雑談をするために、同じ時間帯にジムに行っている人となかなか上手く(事前に約束をしていても)逢えない、その時間は、ロスではなく、雑談のための必然的努力?
が、何でも効率を考えるのは、ビジネスでもないのだから、意味がない。
タイパ(タイムパフォーマンス)が悪すぎると思うが、別に急ぐ用事もない、後に何が控えているわけでもない、そういう立場なら、まったくお構いなしだろう。
タイパがどうこう気になる人は、そもそもジム帰りの雑談の会には参加しないと思われる。
しかも、ささっと落ち合えないような段取りの悪い人々とは。
ではあるものの、逆に、いつも段取り悪くモタモタし合って、それを許し合っている、ユルいお付き合いが快適なのかも知れない。
四角四面のキッチリした無駄のないお付き合いは、かえって疲れるのかも知れない。


しかしなあ、、、
人のこと言ってないで、自分のことをもっと注意したら?と嫌な人だと思われそう。

ある趣味サイトの人に、「あなた、人のことばかり気にしないで(観察しないで)、自分のやるべきことをやったら?」と、わたしの趣味日記にコメントされたことがある。
しかも、度々。
わたしから見ると、「あなたこそ、自分が精一杯やるべきことをやっていたら、人のことなんか気にならないのでは?」と思ったが、
丁寧に失礼のないようにコメント返しをした。
マイナスの感想を本人に直接言うか、土に穴を掘って言うか、その違いがある。
皆さん、それぞれ、いろんな方がおられる。
が、この人のこの行動(度々のコメント)は、まだわたしの胸の奥底にわだかまりとなって残っている。

わたしが観察しているのはリサーチのためもある。
サンプルとして叩き台の見本や気づきになる。
何かを考える時は、わたしはフォーマット(土台)が必要で、それに手を加えたり改良したりする。
だが、何にも意識しないのに、どんどん目や耳に入って来ることもあり、アイマスク、耳栓が必要かも知れない。
嫌な奴にならないために。




快適な方向にスライド

2024-03-24 | 老い
認知症は、なにも致命的な病気ではない。
誰もが関わりのあることだろう。
認知症専門医が、認知症になることもある。
大国の元大統領や首相であっても同じこと。
多くの家族には経験がある。
問題は、他人のことだと捉えていて、対岸の火事であり、決して自分とは関係がないと思っていること。
65歳以上の5人に1人は認知症と言われる現実を、全く、どこか他所の国のことと見ていること。

夫婦で2人共に認知症だったとしても、家庭内での暮らしは社会に出ていないので外からは把握しにくい。
現に、ご近所のご夫婦が認知症だったが、夫さんは妻さんを認知症ではないと言っておられた。
元教師の夫さんのほうが妻さんより後から遅れて認知症になった。
ご夫婦ともに明るい快活な方々だった。

認知症にも、軽度と重度があると思う。
かく言うわたしも、認知機能の衰えを認知症の入り口と思っているフシがある。
認知機能も多岐にわたり、老化していない正常な人でも、注意力、集中力、理解力、決断力、段取り、など、認知機能レベルが高い人も低い人もいる。
それをなんでもかんでも「老化による認知機能の低下」を「認知症」と位置付けると、尊厳やプライドを傷つけられるだろう。
わたしは、若い時から相当な天然だったため、老化で追い討ちがかかって天然に磨きがかかっているものの、自分のミスには慣れている。
老化なのか、生まれつきなのか、境界がわかりにくい。ボーダーレスとなっている。
(反省を促すには良くないことだが)

だがしかし、自覚はある。
困るのは、自覚がない人である。
自分はちゃんとしている!!と、ミスを認めず否定するだけならまだしも、怒り出したりする。
それが老化のせいなのか、そういう性格なのかが、わかりにくい。
挨拶する程度のお付き合いや、ウォーキングやハイキングでご一緒するだけなら、問題ない。
(迷子になられては主催者には支障があるが)
少し高めの能力を必要とする場合は、困る。
しかも、仲間だったりペアだったりすると、チームワークを乱す。
特に一般的な日帰り登山のような、日が落ちる前までに帰還しなければならないと、一人の人のペースが遅くなると全員の足を引っ張り、引いては全員の生命の危機に及ぶ場合がある。
レベルを合わさなければならない。
ある人が病気で足を悪くされたのだが、「速度が遅くなり皆さんに迷惑をかけるかも知れませんがよろしく」と登山参加希望をされた。
が、冷徹と取られるかも知れないが参加を断られた。
1人の欲求のために、全員が命のリスクに晒されるのは回避したいところだ。

断られたことによってプライドは傷ついたことだろう。
が、仕方ない。しがみついて、周りに迷惑をかけることがある。

ある団体旅行。
旅の大ベテランのご夫婦が、集合場所に現れない。
添乗員さんが走り回ってことなきを得た。
そのご夫婦の妻さんが、場所によっては歩行に困難があり、別の参加者の人たちに抱えられてその場を回った。
添乗員さんは気を使って、他の参加者の皆さんにお礼の品を配っていた。
夫さんは全然知らん顔。
足の悪い人をみんなでサポートするのは美談ではあるが、決してお安くない旅行代金だった。
そこそこの費用を払っているので、自分が手厚くサポートしてもらえると思って参加した人もいるだろう。
自分のことばかり自己主義だと非難されると思うが。
一生懸命貯めたお金で時間をやりくりして参加できた有料ツアーに、自由参加の全くの他人のお世話まで引き受ける、素晴らしい人格が備わっている人は立派だ。

だが、思い遣りのこころが足りない場合もある。
自分もいっぱいいっぱい、苦しいアップアップの状況では、他人を思い遣る余裕がない。

日本人は、気を使い過ぎると言われる。
他人に迷惑にならないように我慢しすぎて悲劇を生むケースが見られる。
自分を追い込み過ぎず、適度に他人に甘えよ、他人に助けを求めよ、寄りかかれ、という声を最近耳にする。
ギリギリのところで我慢し過ぎると自分が壊れる。


話がまたまた脱線している。行ったり来たり。
生きて行く限界の話はさておき。 

避難先の団体行動とはまた違う、
(次元が違う)自由参加の団体旅行のケースに話は戻る。
団体行動になると、また別の感覚が生まれる。
わたしは団体旅行が苦手。
足並み揃えて集合場所、時間が気になって、ゆっくり観て回ることが出来ない。
特にトイレタイムは苦痛。
想定外に混んでいたりすると、自分ではどうしようもない。
なので、ゆっくり行程の少人数設定、または個人旅行にする。

いろんな経験をして、自分に適したものが快適だと感じる。
命をつないで行くギリギリのところで、自分が周りに迷惑をかけるのとは別の、
遊びの要素がある場合は、気を遣わなくてよいものを選びたい。

そうやって段々、自分の行動範囲を狭めて行っている。
あるいは、自分が快適な居場所を求めて、別の行動内容に徐々に移って行っているような気がする。






悪魔のハラワタ

2024-03-23 | 日々のこと
自分の首を締め、知り合い100人のうち100人の敵を作ることを覚悟で書く。
なら、書くなという話だ。
地中に穴を掘って、穴に向かって叫ぶ。
地球の日本の裏側、メキシコか、ブラジルあたりの地中から声が聞こえてくる、、、ことはまずない、いや、絶対にない。
それなら、ポスティング広告紙チラシの裏に書いて、シュレッダーで切り刻んで捨てたらよい。
て、そんなに大袈裟なこと?
国家の一大機密事項?

ではないので、まあ肩の力を抜いて、悪口、悪魔のハラワタを曝け出そう。
と、ここまで書いて、ハラワタの90%は消滅した。
微弱ハラワタ、ワロタラ、アカン。
が、書く効果、発散はすごい。

で、なんやねん?
その内容は?
すみません、、、じつにくだらない、世間にも身近にもよくあること、、、です。

さて。
趣味関係の知人、Aさん。
同じことを何度も言う。
表現方法を変える、とか、全くない。
録音再生のように、一字一句同じ。
その内容に、わたしが感想、意見、コメントを言う。
全く聞いていない。
相槌を打たないのは勿論のこと、否定もしない。
そして、また同じことを言う。
何百回、言う??

認知症が進んだ晩年の姑と同じ。
聞こえないのかと思い、家族が補聴器を調達したが、耳ではなく、脳が受け付けない。
聞きたくないことは、聞こえない。
何度言おうが、大きな声で言おうが、どんなに補聴器の性能がよかろうが、聞こえない。
脳の病気の一種だと、わたしは捉えている。
耳と脳は連動しているのだろうか。

Aさんは、それと同じかんじ。
家族なら暖かく見守る。
では、友人、知人は?
TVで認知症の人たちの活動の場や、社会参加の様子を紹介されている。
認知症だからといって、何もかもおしまいではない。
が、自治会の清掃には参加出来ても、上に立つ重要な役割を担う役員にはなれない。
周りに支障を来たす。
わたしの場合は、Aさんは、趣味の大勢の知人のうちの一人、、、なら、認知症気味でも問題ないが、行動を共にしたり、ペアレッスンを受けたり、一緒に練習したりする相手。
なので、ペアでの括りを外そうと考えている。
自治会の役員と同じ。
行動内容によって、出来ることと出来ないことがある。
それに、じっとしていられない、体力だけはやたらあるAさんの、ただただスポーツ系に付き合わされたら、わたしの足、膝、身体が持たない。
技量を磨くにも、情報を理解して受け入れる脳の柔軟性がない。
聞く耳を持たない。
単純に繰り返し歩くだけ、だとか、筋トレするだけ、だとか、そういうことには全く問題がない。
肉体労働には向いているが、頭脳労働には向いていない。
間違った知識であろうがなんであろうが情報を一切更新せず押し付けてくるし、こちらを否定して強制してくる。

大勢の中の、ほぼ関わりがない一人の知人ならともかく、わたしのライフスタイルに入り込んでこられては困る。
わたしは、Aさんの家族ではない。

だが、ひょっとしてAさんは、若い頃からこういう人なのかも知れない。
わたしは、若い頃のAさんを知らないので、なんとも言えないが。
少なくとも、わたしが他の人々を知っている限り、頭の中身、言動は、晩年の姑の次ぐらいの症状に位置する。
(ちなみに、わたしの実母も認知症だが、ニコニコかわいい)

もし、老化によるもので、よくあることで、認知症でもなんでもないなら、同じような人はたくさんいるだろう。
理解力、認知力の衰えという意味では、わたしも甚だしく著しい。
さっき置いた場所を1秒後に忘れる。
アタフタ探し回る。
これは軽度の認知症の入り口だと自覚している。
大概は10秒か1分後ぐらいに探し物は出てくるので、まだ周りの人を巻き込んではいない。
自分がやりそうなヘマ傾向を自分が把握しているため、モノがなくなると、ヘマ傾向を紐解いて、探し出す。
さっきまであったのに、今ないのは、イルージョンか?
自分がどこかに無意識に置いているが、自分が動いた動線を遡れば、発見できる。
動線が短いなら探す労力は軽度で済むが、なくなったことに気づいたのが何ヶ月も後だったりすると、迷宮入りになる。
コンタクトレンズ紛失と同じ。
探しても、まずは見つからない。

わたしは自覚がある。
なので、焦ると益々、頭に血が上って冷静さを欠くため、血が上っても冷却できるだけの時間を確保する。
前倒しで余裕をもって行動する。
ではあるが、旅支度など、何かを準備しようと行動すると、日々一刻一刻、自分の衰えに驚く。
何もしなければ良いようだ。
安泰。天国。

と、わたしは自覚があるが、自覚のない人とは身内でもない限り、距離を置きたい。
物忘れは、症状がわかりやすいが、同じ脳の傾向でも、石頭は、とてもわかりにくい。
家庭では家族はどう対応されているのだろう。
ではあるが、1人去り2人去り、、、段々お付き合いする交友関係が減ってくることが予想される。
(ではあるものの、表面上は露呈しないので、度々会話をしないとか、運動するだけなら認知能力低下は気づかれない)
わたしも、症状の悪化度合い、様子を見て、離れようとタイミングを伺っているうちの1人だ。
自覚のない脳が壊れかけの人に壊される前に去るのは、自己防衛。

これは、認知症の家族をみてきた経験から。
こちらが壊れる前に距離を置く、精神的に逃げるのは、卑怯なことではないと思っている。

・・・

と、夫が帰って来るまでの待ち時間に、ここまで、書いて、やっと夫が帰って来た。
今日は格式高い所に出向き一泊する予定なので、憂鬱ながら準備を終えて、なかなか帰って来ないと思いながら待っていた。
ああでもない、こうでもないと、服を選び、自分自身も出発スタンバイ、全て身支度を整えていたので、後は、靴を履いて出るのみ。
だったのだが、、、
まあなんと、日程を1週間、間違えた。勘違い。
来週の予定だった。

今年になってから、女児孫の保育園、卒園式のための着物準備、長襦袢(振袖着物)の身上げ(丈を上げること)が頭にずーーっと気がかりの日々だった。
やっと本日、卒園式を迎えるため、昨夜、孫の家に調整した着物一式を持って行った。
やれやれ、だったのは良いが、、、
アタマが完全に飛んでいる。
1週間、圧縮、抜け落ちている。
来週の行事を今週と間違えていた。
ああ。
20日からスケジュールが続き、そのまま間を置かず引っ張られたようだ。

他人の認知症よりも、自分の心配をせよ、という神様の御達しか。
バチが当たった。天罰が降った。
しかし、勘違い、1週間前倒しだからまだ良い。
過ぎて1週間遅く後と間違えるよりは。
ではあるものの、十分、旅をした気分。
一泊旅行に行ったエネルギーを使った。
自分ながらヘキヘキする。






理想を追い求めると疲れる

2024-03-22 | 日々のこと
趣味関係の人に、ウォーキングの会だけでなく、ハイキングの会にも誘われている。
わたしは、運動系はどうも気が重い。
映画やウォッチング、鑑賞など、インドア派。

ハイキングは、幼稚園の遠足みたいな平坦なものならまだ悪くないが、勧められている会は、急な坂や岩場など、足場が険しいコースが多いらしい。

ちなみに、今日、ウォーキングの会に参加したが、梅を愛でるコースだったのにもかかわらず、咲いておらず、小さな小さな蕾のみ。
あたり一帯ピンク色というコース名に惹かれて参加したのに。
まだ寒いから開花しないようだ。

結構、参加者は多かった。
平均年齢は、70代中半ぐらい?
男性のほうが俄然多い。
灰色一色。華やかさは全くない。
お目当ての梅はなかったし、自動車道路沿いの道を自動車に気をつけながら歩くことが多かったので、危なく快適ではなかった。
まさに、やることがないから強くプッシュされるままに参加したという、消極的参加。
アウトドアで運動になるから、まあいいか。

4月からポカっと暇になる。
で、あまりにも何もすることがなくなるため、気が進まないが、時間の無駄になりそうで、やめようと思った、趣味分野の行動を、ズルズル続行しそう。
消極的ひまつぶし。
理想とは異なる。
「無駄とわかっているのにトライするのは躊躇われるのですが、、、」と、趣味関係の知人に相談したら、「とかく人生には無駄が多いのが常です」という返答をもらった。
最低でなければ、よしとしよう。
しかたない。
理想を実現するだけの情熱が足りない。
そうやって少しずつ、やる気のないダラダラした時間を過ごす非活発生活にソフトランディングしていくのだろうか。
健康寿命があるうちは、限られた貴重な時間だというのに。

それはそうと、明日、京都の格式高いところに出向き一泊する。
適した服がない。
リラックスしたユルい手抜きの服装は、場の雰囲気にそぐわず、居心地が悪い思いをする可能性がある。
かと言って、ちゃんとした服装は、窮屈で疲れる。
またミニ・ブルーになっている。
わたしは、いつも、イベントや旅の前は気が重くなる。
憂鬱。
なぜなんだろう?
出不精。不活発症候群。慣性の法則。
これも下降ソフトランディングの一種か。

こんな日記、面白くもなんともない。
さえない、わたし。

※写真は今日のウォーキングコースの一部。



書いても書いても非公開

2024-03-21 | ブログ
非公開記事が3つ続く。
書いても書いても非公開に。
しょうもない個人的内面を綴っているだけなのだが、突き詰めて本音を書けば書くほど、公開できない。
ブログとは、、、だれかに読んでほしくて書くのではなかったのか。
自分の内面に向かい合い、直視し、自問し、ある程度の解析が出来た。
それは、自分だけの心情であり、他の人には共鳴されないことは、ハッキリわかっている。
人は怖いもの見たさに、自分とは違う考えや感性に触れたいこともある。
が、そんな痛い怖い、「番町皿屋敷」のサンプルのようなものをあえて公開したくない。
これまでのわたしは、自嘲、自虐趣味があるため、それである意味、ヒリヒリした快感を覚えていたのかも知れない。
が、歳のせいか(そうとも言えない)、自分のこころの深いところのものは人には見られたくなくなった。
かと言って、嘘やねつ造はしたくない。
(誇張、比喩表現や演出は、多々あっても)

自分のアイデンティティを探り見つめ、深掘りし、認識した結果、それは、自分の理想とは違うものだった。
今からアイデンティティを変えるわけにもいかない。
せいぜいマイナーチェンジ、部分的調整ぐらいだ。

時代が変わっている。
自分は時代のギリギリ最後尾にいると思っていたが、そうではない。
時代から隔離している。
落ちこぼれているわけではない。離脱している。
「置いてきぼり」だとは、へんな自尊心があり、思いたくない。認めたくない。
乖離というようなマイナスイメージではないものの、痛い老人の仲間入りをしている。
いつの世も、それが老人というものだが。

理想を追い求めていたら、どんどん理想ではない方向に行っている。
その複雑な本音は、表現しにくい。
過去の成功体験の上に築かれているものであり、
明らかに、古い感覚、考え方、価値観であり、
そうであるとわかっていながら、旧態然とした価値観や様式に固執している。
ノスタルジーと新生様式、感覚の間に横たわるものに、微妙な違和感を感じる。
調整出来ない。
もう手を離れ、自分ではどうにも出来ないのに、自分が自由に出来るものだと思い込み、こだわる。
過去の価値観を大切にし過ぎて、現実と融合できない。
ではあるが、おそらくあと少しで、生臭みのない、にこにこおばあちゃんになれると思う。
スッキリ爽やかな。
とは言え、そうなるには、過去を超えるには時間がかかる。

ところで。
「極端な例を出して、シラケられるとは思うが、、、
自分は世界史を彩った悲運の◯◯◯◯でなくて良かった」
などと最後に追記入力していたが、
◯◯をwikipediaで調べてみて、慌てて一文を削除した。
じつに恥ずかしい。
おぞましき、笑えない悪趣味。
明らかに自分のいる位置と距離感が取れていない。

次に向かう兆し

2024-03-18 | わたし
先ほど、蝶ブログ記事を途中まで書いたが、途中でやめた。
公開したくなくなっている。
他人様に取っては、実につまらないプライベートな出来事。

と言っても、今まで書いて来たのは、どれもこれもプライベートなつまらないことばかり。
書きたいか、書きたくないかは、自分が書いて楽しいかどうか。
この土日、別の場所でイレギュラーな過ごし方をしていて、ブログ時間が取れなかった。

今、わたしは変わり時。
人生のステージを一歩、進もうとしている。
新しい局面を迎えようとしている。
歳は行っても、生きている限り経験は積まれ、常に新しい展開になる。
時は進み、次のステップへ移行する。
が、まだ揺らぎ中。
行ったり来たり。揺り戻しがある。
が、前に進んでいるような気がする。
あたかも電車に乗って移動していて、途中、長い停車時間の後、次第に再出発の時間が近づいているような感じ。
ではあるものの、うっすらとしか、まだわからないのだ。
次のわたしが、どうなっているのか。
変化の兆し、前夜。
ただ、変化は良い変化なのか、悪い変化なのかわからない。
だが、変化であることには変わりない。
不安はないのだが、かたちが見えるまで、なんとなく落ち着かない。