蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

今日もツラツラどうでもいい独り言

2023-11-30 | わたし
電車内で咳が止まらない。
苦しい。辛い。早く降りたい。
同じ顔ぶれの人がずっと一緒に居ない、閉ざされていない空間に移りたい。
ゴホゴホゴホゴホ、鼻水も大量、涙も洪水。
水と飴を緊急対策に持ち歩いているが、なかなか状況によっては、チャックできっちり閉じているバッグから取り出せない。
ゴホゴホゴホゴホ、鎮まれ、咳。
咳を堪えると、胸が上下して嗚咽しているようなかんじになる。
涙もぼろぼろ止めどもなく、、、ドラマを抱えた、ちょっと近寄ってはいけない人のようなテイになっている。
この咳、もう1カ月近くなるが、かなりしぶとい。

さて。
しつこく、家の中ですることがないことについて。
アマチュア無線とか、プラモデルとか、細かい作業を要するものとか、昔の映画を観るとか、ありそうなものだ。
(アマチュア無線は、機械が必要にしても)
なければゼロから見つけるのも良い。
父はそもそも生涯現役だったため時間がなかった。
舅は、庭や畑に入ると、昼ごはんの時にしか戻って来なかった。
雨の日は、何をしていた?
記憶にない。

女性は、刺繍や編み物、縫い物、手作業的な趣味の人は、一心不乱に手を動かしている。
また、器具が要らない、作ったものが溜まらない、モノに形を変えない、無形のものもある。
音楽とか、コンピュータ絵画とか。
(キャンバスや紙に描く絵は、作品が溜まってくるので、ちょっと困る)
将棋、麻雀、ゲームなどならモノが溜まらない。
モノは消費せず、時間だけの消費となる。

ちなみに、依存症の中には、ゲーム依存症というものもある。
ギャンブルとセットになると、切り離せなくて厄介だが。
さして課金しなければ、他人に迷惑をかけず健康を害さない限り、悪くないとは思うが。
意欲を掻き立て、お金をかけたくなる、巧妙に仕組まれているものもある。

人はなんらかの趣味があり、時として熱中し過ぎて、軌道を逸することがある。
それほど熱くなれるのは、結構ではあるが。
気づくと周りに誰もいなくなる場合と、周りは趣味仲間、マニアだらけ、ということもある。
趣味がない人は、いったいどうしているのだろう?
毎日、ルーティンをこなしているだけ?
それはそれで、虚しい、味気ないと感じる人もいるが、ささやかな平穏な時間を地味に楽しんでいると感じることもあるだろう。
深い考えなどなく、全く何も感じていないと思われる人もいる。
それはそれで平和。

じっとしているのが苦手で、何もすることがなくテレビを見るのは苦痛というAさん。
毎日、動き回っているから、それはそれで結構なことだ。
人には人の道。

今、大のお気に入りは、NHK夜ドラマ。
特定の映画俳優の熱烈ファンであるヒロインを演じる女優さんが、演技が上手くてめちゃくちゃ可愛い。
「ミワさんなりすます」
毎晩22:45まで待たないといけないのが疲れるが。
録画して観るとわたしの感性の体感温度が下がるため、あえて、いつも放映時間に振り回されている。
わたしの周りでも、このドラマにハマっている人が2人もいる。
人気がある。(※データ:限定エリア・層で、わたしを含めて3人)
今までで1番面白いのではなかろうか。
なので、21時ぐらいにはもう寝たくても我慢して疲れながら起きている。
わたしはTV好きな、平凡すぎるほど平凡な人間であるが、楽しみのハードルが低くて、大変満足している。





衝撃的記事は非公開にする理由

2023-11-29 | ブログ
裕さんの「ふがふがハナシ」はブログで何度か拝読して知っている。
歯無しにインスパイアされ、歯に関する衝撃的実話を書いたが公開するのはやめた。
閲覧数稼ぎに他人を巻き込む自分のエピソードを切り売りしたくないし、自分だけの胸におさめたいこともある。
かなりその記事はインパクトがある面白い出来だったと自負しているが、やはり公開を躊躇する何かがある。
生乾きのものが乾いた(干からびた)頃にアップするかも。
わたしのブログは実話エピソードや本音から成っているため、こんなブログでも、作り事がない分、けっこう、自分にはマジメに向き合っている。

嘘は書かない。
が、書かないだけのこともたくさんある。
わざと書かない。
それを「嘘」という捉え方も出来る。
とは言え、真実を曲げてまで書かない。
だが、意図して真実は書かない場合がある。
とかなんとか、そんなたいしたものではない。
ではあるが、「それを言っちゃあオシマイ」というようなことは、身近にも世の中にも結構ある。
真実は必ずしも正しいこととは限らない。
人によって真実の捉え方が違う。
真実は一つだ!!と声高に叫ぶ人がいるが、その人にとっての真実だったりして、確信するあまり聞く耳持たない場合は、わたしはあえて触れず、触らぬ神に祟りなしで行く。
核心を突くと、途端にキレることがあるので、近寄らない。
誰にもこころの奥に大切にしたいことがあるようだ。

「あ、そうなんですか〜、ところで食べ物は何が好き?」
と、話題を変える。頭のスイッチ、切り替え。
何かしら食べないと毎日が進まない。
現実が大事。
信念を貫いて生き仏になるならいざ知らず、自分が出来もしない現実離れした中途半端な理想なら無い方が潔い。
と、これはいつも自分に対して思うこと。
あれやこれやモンクばっかり言って、理想ばっかり追求するくせに、自分は何にも出来ない、していない。
そういう自分を恥じることがある。

自分以外のことを誇りに思い自慢したがるくせに、自分自身、自分本人は、なんの自慢出来ることもない。
むしろ、他の皆さんのようにちゃんと出来ない。
この矛盾を無くしたいと日々思っている。

一昨日放映のNHK TV番組、超多様性トークショー「なれそめ」の出演者が、「普通」という枠を外すと、ぱーっと目の前が明るくなり視野が広くなったと話していた。
これでなければいけない、と自分で決めつけていた考えを取り除くと、とらわれていたものから解放された、と。
納得。その通り。
自分は自分。
価値観や基準も、自分で決めて、自分で変える。
それでいいんじゃないかと。
今更ですが。




なぜ、家の中では何もすることがないのか

2023-11-27 | 暮らし
裕さん!
ブログ開設50周年記念、ぜひ、やりましょう。
その中にはブーツさんあたりも入っていて。
みんな、(歯が無くて)ふがふが、車椅子か、寝たり起きたり。
わたしはほとんどブーツさんとは、やり取りをしたことがないけれど。
別のブロガーさん、、、ブログ村・年代別「60代」カテゴリーで一時期ご一緒した、赤いアイコンの方とは、とても長い。
わたしは当時50代だったが、気持ちとしては60代だったので「60代」カテゴリーに登録していた。
年齢詐称、サバ読み(ただし、若いほうにではなく、歳を取っているほうに)。
そのブロガーさんは「60代」カテゴリーにおられたが、やがて「70代」カテゴリーへと移られた。
もうじき「80代」カテゴリーに移行されると予想する。
裕さんより長いかも??
わたしは、ずーっと同じブログタイトルで愚直にブログを続けているが、10年ひと昔、いや、10年も1年もそう変わらない。
ブログの内容はほぼほぼ一緒で変わらない。
よくまあ飽きもせず。たいしたネタもなく。
変化がないということは、成長も退化もないということにしておこう。


さて。
話は相変わらずころっと変わる。
わたしが娘家族とのイベント行動を軸として、生活が回っているというのに対し、
子供が独立した今では、家族がらみイベントはなく、何もすることがないというAさん。
(男親と息子家庭。女親と娘家庭。この関係性にも大きな違いがあるが)
女性は家族やご近所さんと密接に関わることがあるけれど、男性はそういうわけにはいかない、とAさんが言う。
仕事一本槍で、(ただし、仕事関係の人や地でアフター・ワークも過ごす)、家に居る時間が短い分、子供との関わりや、地縁を活かすほど、地域での活動経験がないと思われる。
子供はやがて独立するが、家庭のつながりは主に「食」「子育て」を担当していた母親との距離が近い。

仕事で家庭にいない、昔の父親は、影が薄い。
更にもっともっと昔の父親は、頑固親父、カミナリ親父で手に負えない。
今のシニアは、男女役割、ジェンダー意識の移行期、時代の移り変わり、狭間にある。
というか、意識は昔のまんまで、時代の推移には全く付いていけない。
女性は、喜んで時代の波を受け入れるが、男性は、嫌がる。
男性は仕事、女性は家庭。
この動かない絶対的固定役割を手放さない。
ではあるものの、家庭外で働いた経験のない女性の中には、女性が稼いで家庭経済を担うことを期待されると困る人もいるだろう。
しかしもうリタイアしたら、男性も女性も収入は年金などで、夫も妻も一緒くた合算になっている。

男性の意識は、昔のまま。オトコは家の外、オンナは家の中。
だが、介護、看護が必要になると、オトコだオンナだ、と、そんなことは言えなくなって来る。
元気な側と、サポートする側。
でも、老老介護。大変。

わたしは、今は、その老老介護の時期の一つ手前である。
男性も女性も身体が動く間に、そして相方の介護をしなくていい間に、好きなことをしておかねば、、、
焦る人もいるが。
その介護されない、介護しない、黄金の時期をAさんは、スポーツ三昧。
家の中では何もすることがないと言う。
Aさんの奥さんはインドア派だから、夫が外出好きであれば喜ばしいと思われる。
2人別々に外出もオッケー。
2人がそれぞれ同時に家に居る時が重苦しい空気になることがある。
夫殿は、家庭関係やご近所関係の人付き合いがないから余計に自宅やその周辺ではすることがない。
インドア派ではないから尚更。
奥さんは、家庭がらみの関係で色々することがある。
さらに、インドア派なら家の中は最高の寛ぎ自由時間。
趣味の時間でもある。
家では何もすることがないのは、たまたまAさんが、スポーツ好きだったからか?
そうとも言えない。
家事を嫌い、家の用事も好きではないか、家庭内を牛耳っている奥さんに、煙たがられているのかも。
家といっても色々あり、一概に言えない。
なんか、結論がスッキリしない。

あ、今、頭に浮かんだことがある。
Aさんは、身体を動かすのは好きだが、脳を動かすのはあまり好きではない。
家の中ではスポーツ出来ないし、さらに脳内では何も考えないので、何もすることがなく退屈なのだ。
Aさんは、実践面ではよくご存知だが、思考面は真っ白で、驚くほど何も知らない。
いつも同じ疑問を投げかけてきて、自分で調べたり考えたりする気がない。
解決の糸口を見つけようとしない。
そういう傾向があるため、身体を動かすこと以外は何も考えつかない。

家庭やご近所、家事がどうのこうの、ではない。
身体と脳の構造、性格から来る、心理、行動傾向である。
家に居るとなぜAさんは何もすることがないのだろう?と疑問に思っていたが、今、新たに(勝手な憶測で)導かれた結論に、納得し、頷き、わたしはちょっとスッキリした。

どうでもいいことでも、わたしは疑問を覚えると、なぜなのか、理由を解明したくなる傾向がある。


身体も資源。無限ではない

2023-11-26 | 老い
一昨日、七五三詣の帰りに、高齢男性が転倒して頭から血を流している現場を車で通り過ぎた。
警官が両側に2人ほどいた。
7段ぐらい?の階段から落ちたと思われる。
頭が地面側、下になって、下半身は、階段上部で止まり、足の向きは頭と逆さになっていた。
階段も地面もコンクリート(またはアスファルト?)で、土ではない。
見かける直前に救急車が走っていたので、その後すぐ病院に搬送されることだろう。
衝撃的なシーンだった。
大丈夫だろうか?
出血しなくても危ない状態のことはあるが、出血していると、周りはショックを受け呆然とする。
他人事とは思えない。
あの人がわたしであっても、なんの違和感もない。
階段を踏み外して頭を打ったのか、ふらっとして階段から転げ落ちたのか、、、
わたしも気を付けなければいけない。
(あの人が、不注意だったわけでもないと思うが)

どこに何が潜んでいるか、わからない。
良いことも悪いことも、普通の日常も、一瞬一瞬は、大事にしたい。

さて。
蝶ブログに優しいコメントをいただき、ほっこりしている。
ありがとうございます。

それはさておき。
ある趣味仲間の人、Aさん。70代男性。
「家ですることが全くない」んだそうだ。
スポーツマンで、体を動かすのが好き。
毎朝、ウォーキングは日課で、1週間に9日、(そのうち2日は、1日に午前、午後と2箇所、移動してダブルヘッダー掛け持ちあり)スポーツに出ている。
あちこち出掛けたり、歩き回ったりするのも大好き。
オペ入院中も、暇を持て余し、病室を抜け出し病院周囲の地域を歩いていたそうだ。
近大マグロのような、泳ぎ続けないと死ぬタイプ。

Aさんに40キロ・ウォーキングを誘われているが、お断りしている。
わたしの膝を曲げる度にポキポキ鳴る症状について、医師に相談したところ、あまり良いとは言えないとのこと。
膝曲げトレーニング、スクワット、長距離ウォーキングは避けた方がよいと言われた。
歩くなら水中か自転車がオススメだそうだ。
その診断結果(単なるアドバイス)をAさんに突きつけ、堂々とお断りすることが出来て、ほっとしている。

人生の半歩先行く、わたしが行動見本にしているのは、2歳上の実姉。
彼女は卓球歴56年だが、ウォーキングは全くしないそうだ。
旅行で歩くのは何の支障もないが、ウォーキングは、夫殿と共にNG。
足か腰か、どこやらが悪いらしい(具体的には忘れた)。
でも卓球はまだアマチュア第一線。
歩ける持ち歩数を全て卓球に使っているのだろう。

姑も晩年はよくそう言っていた。
一日の持ち歩数が決まっているから(ある一定量を過ぎると足が痛くなる)、制限された貴重な歩数を考えながら使っていた。
と言っても、1日の前半は何も考えずに好きなだけ使い、使い過ぎたと感じたら、後半はセーブする、といったような大まかなもの。

支障をきたしてから、痛くなってからでは、修復に時間がかかる。
一歩手前でやめておく。
食欲なら腹八分目、歩行なら足八分目。
にもかかわらず、動き回る制御装置の壊れたAさんには、全く理解を超えている。
Aさんのバロメーターや感覚で判断されては困る。
責任は取ってくれないので、自己責任としてお断りしている。
なんでも、基準は自分。
人に振り回されて身体を壊しても、泣くのは自分。
だが、悪くなる一歩手前でやめる、その頃合いを見極めるのが難しい。
バブルは弾けなければ、バブルだとわからなかった。
バブル崩壊の直前で切り抜けた人はすごい嗅覚。
大抵は、行くところまで行かなければ止まらない。
身体もこころも、欲も、八分目を良しとするようになったのは、わたしはつい最近だ。
追い求める頂点の手前で引き下がるほうが、身を守ることを今までの長い?ドジ人生で学んだ。
身を引く引け際に、自分なりの美学がある。





秋晴れが続く

2023-11-24 | 日々のこと
さて、秋晴れ。
揉みくちゃ京都の翌日、昨日は七五三。
近くの神社に孫の健康を祈願してお詣りした。
素晴らしいお天気に恵まれたにもかかわらず、参拝者はちらほら数組。
あまり多くなかった。
うちのチームは、7人編成。
今回の主役は4番目、末っ子孫、3歳女児。
じいちゃんは、ゴルフで(初めての)欠席だったが、宮司さん(たぶん、わたしの長男の同級生のお父さん)に祝詞をあげてもらった後、お祝膳の席を設けた。
豆腐を中心にした懐石料理だったが、上から3番目孫(女児)は、スパゲッティが良かったと、不満顔。
毎週毎週、習い事の後に欠かさず行っているという、鎌◯パスタが大のお気に入り。
だが、懐石膳は結構、値が張り、お財布に全然優しくなかった。
(鎌◯パスタだったら、お財布に優しかったけれど)
子供全員と両親、祖母(わたし)、皆んなでお祝いできて(気温上昇で暑かったが)賑やかな時間を過ごした。

ところで。
話はごろりと大転換。
ブログ記事下のポチっとする「いいね」を閉じた。
(「ブログ村エッセイ」ポチっとは継続中)
いつもお越しいただいていたことを励みにしていたのだが。
そのうちのお一人はブログ開設当時から??長年の暗黙のお付き合い。
いつも赤いアイコンを目にすると、ほっとする。
これは暗黙中の暗黙。
コメントはほとんどやり取りしないが、こころ丈夫である。
とは言え、別の他ブログでそのブロガーさんのアイコンを見かけると、少しだけ胸がキュンとする。
そりゃあそうだろう、あちこちブログ散歩はわたしもする。
当たり前だと思うのだが、何なんだろう?
煩悩の現れ?

しかし、いいね拍手欄を閉じて、いつも拍手してくださった方が来られなくなった時には、やはり覚悟していたが寂しい気持ちになる。
「無常」。同じ時間は存在しない。
時が推移すると必ず変化するのは理解、納得しているものの、現実に直面するとまた失望したり落胆したりする。

元気の源になっていたのだが。
目に見えるかたちで、認識するとガッカリする。
お手入れに余念がない、美しい髪をバッサリ切った女性の気持ちに通じるものがある?
と、また大袈裟な。
ではあるが、気持ちとしては、一つ手に入れたら、その代わりに失うものがあるということ。
ご愛読、ありがとうございました。

と、それはいいとして。
またまた、閲覧数がジェットコースターになっている。
もう〜。
機械(コンピュータ)が壊れているのか。
AIの設定基準を変更したのか?
はたまた断末魔の叫びか?
わたしは、まだまだブログをひっそり細々続けるつもりなので、コンピュータのブレには巻き込まれないつもりだ。
振り回されずに、平常心を保ちたい。
(と、またまた大袈裟な、、、)
繁盛店ではない、静かな個人店(ブログ)が落ち着く。



オーバーツーリズム

2023-11-23 | 
紅葉のベストシーズン。
京都で揉みくちゃになった。
特に、清水寺。
ものすごい人。
ぎゅうぎゅう。
一瞬、韓国でのハロウィン事故が頭をよぎった。
ある程度の年齢になると、過密人混みは避けたほうが賢明。
どこかから西洋人ガイジン団体さんの一人が、「ゲイシャ・タウン!?」と歓声を上げていた。
その固定概念の古さに、びっくりした。
わたしが帰りに迷子になった時、偶然、そこにいた、パリから来たという、人の良さそうな西洋人オジサンと一言だけ話した。

街中、バス停には、乗れないバス待ちの人々が長蛇の列。
バスが来ても既に満員のため、ドアは開かず行き過ぎる。
乗れない乗客は延々とバスを待つ異様な光景。
待っている人全員を一度に、仮に車内が空だったとしても乗せ切れないだろう。
溢れかえる人、人、人。
暗くなっても長蛇のバス待ち人を見て、なんだか恐ろしくなった。
インバウンドもあるのだろうけれど、京都、どうにかならないものか。
嬉しい悲鳴を超えている。
住民の皆さんは生活に支障をきたしているのを目の当たりにした。
11月下旬から新たな公共交通緩和システム(バスと地下鉄、共通切符で途中から相互乗り換え出来るとか)が、行われるらしいが。


行ったのがたまたま昨日、平日だったから、まだしも、今日、祝日(勤労感謝の日)だったら、どえらいことになっていたことだろう。
秋の快晴。

しかし、まあ、
京都の秋。圧巻でした。




認知症散歩

2023-11-21 | 老い
認知症の人が散歩の途中に行方不明になる件数が増加しているらしい。
重症ではなく、軽症の人に多く見られるとか。
足腰達者で体力もあり、元気なだけに、どんどん遠くまで行ってしまうとのこと。
また、徘徊も、意味もなく徘徊しているのではなく、本人なりの理由があるそうだ。

なので、外に出たがるご老人を家に閉じ込めるのは良くないそうな。
迷子になって居なくなったらすぐ警察に連絡すべし、と勧められるが、これだけ案件が多発すると、警察も手が回らなくなってくる。
何度でも警察に声をかけて下さい、と言われても、なかなか何度もになると、恐縮するし、こころ苦しくなりそうだ。

わたしは、団体での散歩はするが、一人となると、、、どうだろう。
かえって一人のほうが、気楽だ。
行方不明になる人は、家族がいて、行方不明になったことに気づいてもらえた場合。
独居なら、ふらり、どこへ行っても、待つ人もないので、わからない。
認知症で行方不明になり身元がわからないまま、施設に入居して10年のお年寄りもいる。
身寄りがないのかも知れない。
日本は手厚く保護してくれ、社会が整備されたと感じる。
時代が時代なら、全く様相が違う。
人権問題然り。 
豊かな国になったものだ。
が、その一方で、豊かになったらなったで、メンタル問題などが生じてくる。

話を戻す。
12年前と10年前に、海外一人旅に出ていて本当によかった。
今なら、絶対、迷いに迷っていることだろう。
あと10年ぐらいは、持って欲しい、わたしの脳みそ。
今しかできないことをしたい、としみじみ思う。



ブルーより明るめライトブルー

2023-11-21 | わたし
最近のわたしの蝶ブログはパワーがない。
悩みがないからだろう。 
脳みそツルツル。
とは言え、少し考えたり、決断したり、実行しなければならないことがある。
その中身はあまりにも制限がなく自由なため、かえって決断を鈍らせる。

会社に例えると、会長と社長と社員、事務員と掃除係、株主を一人でやっているため、クレームがつかない。
トップダウン、同一人物、同時処理。
現場と経営、同一。個人事業者みたいなものか。
今期までにぜひこれを処理しなければならない、、、状況であっても、案件がずれ込んでも被害を被るのは誰?
会長は引退同様のご隠居さんなので、恐くはないが、役にも立たない。
社長は信条は素晴らしいのだが、決断力がない。
事務員は、人柄は良いのだが、大らか過ぎて物忘れが著しい。
清掃員は、目が悪く、気分屋で、詰めが甘い。
会社存続の危機はもう何十年とあるが、会社所有の倉庫があり、その中の物品を処理できないのがネック。
無計画なため、子会社から持ち込まれた物品まで、そのままにしている。
社員旅行はよくあり、プランは外注に丸投げし、嬉々として出かける。

それは良いのだが、世界情勢や日本経済、円安の影響も受け、穏やかではない。
はやく、火事の火元を消さなければ、丸焼けになってしまう。
が、会長以下、ボソボソ言うだけで、だれも行動に移さない。
「このままでは、良くありませんよ、どうにかしないと」と進言してくれる外部ブレーンもおらず、TVニュースを見ながら居眠りばかりしている。

この会社、なぜこう誰も口出ししないのだ?
廃業、閉鎖されてから、あらまあ、と、周りに呆れられたりしそうだ。
そういう予兆はあった、予感はした、という人も少なくないかも知れない。
周りは、負債を背負わされない限り、自分に飛び火しない限り、無干渉だろう。
独立採算制のグループ会社である。

で、そういう、自由な束縛のない状況で物事を決断するのは、結構たいへん。
やはりプレッシャーや負荷が必要だ。
なんだか、やる気がなく、ライトブルーだ。
(ブルーより少し明るい)

やるべきことを抱え、寝かせている。
その心境を会社に例えて書いて、遊んでいる。(すみません、読む側のことを全く考えていないです)
今月末まで、あと1週間ぐらいは、グズグズ引き延ばしても良さそうだ。


嬉しいけれど切ない

2023-11-17 | 日々のこと
先々週末、一族旅行では、三ノ宮〜有馬に行った。
有馬温泉は、とても親近感を覚える。
自転車で行けるスパ健康ランドぐらいの、精神的近さ。
まるで庭感覚。
物理的、地理的には、結構遠いが、精神的にはほんのすぐそこ、小さい時から慣れ親しんだ、わたしの故郷の市にある。

ちなみに、なぜか、中学生の時のワタシのギャグが、「アリマ〜、おんせん」だった。
全く誰にもウケないのに、スルーなんかなんのその。強靭、タフ、鈍感。
いつも、驚きの感嘆時に、「アリマ〜、おんせん!」と言っていた。
中学生というものは、恥を知らない年頃である。
わたしはお笑い系キャラ実践を中学卒業までやっていた。
ちょっとだけ、「新しい学校のリーダーズ」ティストかも知れない。
※ご存知ない方は年末のNHK紅白歌合戦で確認してください。
というか、彼女たちは、昭和のノリを表現しているらしいが。

と、トップ写真の説明をまず。
あとは、いつものように、ダラダラと。

ところで、どなたかがまたもや、蝶ブログ記事を何やらに引用してくださったのか、まるで謎だが、閲覧数に乱れがある。
もう慣れたかというと、慣れない。
静かにブログ生活を送っているわたしとしては、自分の力でもない閲覧数の上下に振り回されるのは望んでおらず、どなたかは存じないが、あまり奇抜なことはなさらないでいただきたい。
いたいけない年寄りをからかってはイケナイ。
と、書いていても、閲覧数は明日にもまた元に戻り落ち着くのは目に見えている。
それはそれで、所詮、遊びの世界。
アップダウンも遊びのメリハリの一つ。
何年か周期のバイオリズム。
まあそれは良いとして。

さて。
昨夜、3番目孫I(6歳女児)に、「はい、ばあちゃんにお手紙!」と封書のお手紙を手渡された。
大きなディズニーのプリンセスキャラ・シールで、ペタっと封がしてある。
中には3枚の便箋。
各々違う絵柄の便箋で、1枚1枚、折り畳んである。
それぞれに文章と絵。
1枚は、「ばあちゃんへ トランプとかしようね。日本語で遊ぼうね(→諺カルタ)」
の文字と、テーブルの両端に椅子を向かい合わせに並べて、Iとわたしがにこやかに座っている絵。
髪型が、Iと、わたし。2人とも特徴がある。
また1枚は、「ばあちゃんへ ごはんつくってくれてありがとう」の文章と、大きなハートマークが2つ。
さらに1枚には、「ばあちゃんへ だいすき ありがとう」の文字に、ハートの中に「だいすき」と書かれていた。
じわ〜、じ〜ん、、、と来た。

保育所の先生にもお友達にも、パパやママにも同じような手紙を大量に書いているのは知っているが、、、。
(いつも、レターセットとシールをせがまれ、親は買わされている。
旅のお土産もレターセット)

あまり文章の意味もよくわかっていないだろうけれど、嬉しいものだ。
国や協会からの公の感謝状より(もらったことないが)、恋人からのラブレターより(もらったことないが)、じーんと来る。
男の子の孫たちは、全くそういうことはしないが、Iの個性なのだろう。
お絵描きや文章作り、最近は絵付き物語を用済みの紙を利用して、製本の形にして遊んでいる。
さすが、女の子!(と、ジェンダー意識は根強く消えず)
男の子がストーリーに興味なく、たまたまだったのかも知れないが。

パパ(娘婿)が前に作った「鳥さんのお話」絵本が、ものすごく秀作で面白かった。
Iと何度も読み直して、ゲラゲラ笑っていた。
愛嬌のある、とぼけた良い味を出す鳥のお話。
セリフのない、絵だけのシンプルなストーリーだった。
パパはなかなかセンスがある。
(と、身内をべた褒め)

と、話は脱線。
子供の成長には色んな伏線的なものがある。
後には、スポーツに熱中して、お絵描きやお手紙など、全く興味を持たなくなるかも知れない。
一過性の一時期の、通り過ぎるあれこれを身近に感じられて楽しい。
嬉しいことばかりではなく、悩みや困難も必ず出て来るだろうけれど、役には立てないにしても、そっと見守りたい。

というか、第一線を退いている祖父母の立場は実に気楽だ。
良いとこ取り。
口も手も出さず、そっと楽しませてもらう。
期待しない時に突然、お手紙をもらったり。
お得な役割をさせてもらっている。

姑とその孫たちを見てもよくわかる。
祖母たちや孫たちの姿を見て、やがて、時は過ぎ変化するのは、よくよく知っている。
孫と祖母の甘い関係は時と共に形を変えるのは、当たり前のこと。
時は待ってくれない。
それだけに今が愛おしい。
涙がじんわり。
じつに切ないものだ。

と、またまた天然の涙で目の洗浄。
セルフセラピーになっている。




目の前にある日常

2023-11-16 | 日々のこと
画像は、昨夕撮った、チョコレートコスモス。
ちょっと電車に乗って行った公園に咲いていた
鼻を近づけて、くんくん匂いを嗅いでみたが、チョコレートの匂いはしなかった。
花言葉は「恋の思い出」だそうだ。

公園には樹々がキレイに配置され、水辺も美しい。
ほぼ無料に等しい(入場料200円)こんな空間を楽しまない手はない。
足の運動にもなる。目の保養にもなる。
心身ともに健康的な時間。
何もすることがない人は、ヒマも潰せる。

問題は、行く気になるかどうか、だ。
わざわざ電車に乗ってまで、入場料200円の公園に行くかどうか。
せめて1000円ぐらいはする、いかにもお金を出す価値が詰まっている、手の込んだ、技巧を凝らしたものなら、行くかも知れない。
さあどうぞ、誰でもいらっしゃ〜い、と、間口が広すぎると、かえってやる気がなくなる、人間の不思議な「逆エネルギーの法則※」がある。
※命名=わたし
動機、モチベーションがキー。
自然発生的には湧いて来ない。
そこのところが、要、とても大事だ。
信条と意思、偶然と、流れ、成り行き、日頃の行い、、、などなど。

昨日、時間が余り、退屈で書きしたためた蝶ブログ記事があるが、お蔵入りにした。
ヒマを埋めるための行為は、偶然、楽しめることもあるが、つまらないと感じることもある。
あまりにもくだらない内容をグダグダ書いていたため、ボツにした。


さて。件の公園。
平日の昼下がり。
暗くなるのが早い。
公園を出た大きな広場が遊び場になっていて、幼児や、下校した学童など、子供達が遊んでいる。
近所には大型マンションも点在し、子供達の遊びの交流場となっている。
若い人々の日常を目にして、活力をいただく。

かつて、わたしも幼子を連れて、公園デビューしたことがあった。
当時1歳になったばかりの長女を連れて、坂を下った公園に行ってみると、誰もいなかった。
いつ行っても、誰もいない。
夫の転勤赴任先は関東の田舎で、知り合いも1人もおらず、まわりは農家のお宅や牛舎もあった。
ベビーカーに娘を乗せて、とぼとぼ最寄り駅までよく行った。
途中に牛の鳴く声がBGM。
東京都内から引っ越したばかり。
その赴任地には1年いた。
年末にはもう長男が産まれていた。
時が経つのは、速いなあ、、、

暗くなる前に公園を後にした。