![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/68/c1cedaaa349fe0a0cfec1fe50dcfe608.jpg)
Jarmily Haldovéさん作
実家でも嫁ぎ先でも…気が休まりませんね
スピチフニェフ2世妃 イーダ・ヴェッティンスカー
1031〜不詳/在位 1055〜1061
ブジェチスラフ1世の後を継いだスピチフニェフ2世の妃は
下ラウジッツ辺境伯ディートリヒ2世の娘イーダです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/61/a5f07728e36ed9d89fe69a15928fd8eb.jpg)
イーダの父親は、母マティルダの兄マイセン辺境伯エッケハルト2世に殺されました。
たぶんイーダが幼い頃ではないかと思われます。
スピチフニェフ2世が1061年に亡くなると、すぐに子供二人とともに追放されました。
どこにかはわからないんだけど、たぶん実家に帰ったんじゃないかなぁ?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3d/9c/5d714d7b19660a24b8b03160a9f367b2.jpg)
Jarmily Haldovéさん作
完全に政略結婚でした
ヴラチスラフ2世妃 アデレージャ・ウヘルスカー
1040〜1062/在位 (公妃)1061〜1062
兄スピチフニェフ2世を継いだヴラチスラフは、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世のおかげで
初代ボヘミア王ですが、一代限りで世襲はしませんでした。
結婚は3回していて、ひとり目のマリアというお妃はさっぱりわかりません。
二人目の妃が、ハンガリー王アンドラーシュ1世とアナシュタシアの王女アデレージャです。
この結婚により、ハンガリーとの同盟を結ぶことができました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/4f/c4e57173cb7e6a5d83075ac6425671b4.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/e1/06cda8ee6e78d6a24d168abf22138b4e.jpg)
後継ぎがいても苦労は絶えず
ヴラチスラフ2世妃 スヴァタヴァ・ポルスカー
1046〜1126/在位 (公妃)1062〜1085 (王妃)1085〜1092
ヴラチスラフ2世の三人目の妃は。ポーランド公カジミェシュ1世と
妃マリアの娘スヴァタヴァです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/ff/0788124c36e5e7a75ad180bb2bbefbaf.jpg)
だんだん “ 中欧三つどもえ状態 ” が激しくなってまいりましたね。
ヴラチスラフ2世は、スヴァタヴァの兄ポーランド王ボレスワフ2世との
友好な関係を表していましたが、国境線ではもめてました。
1092年にヴラチスラフ2世が亡くなった時、成長していた王子は3人…もめそう…
後に三人ともボヘミア公になってますけどね。
スヴァタヴァは、下の二人の不和をやわらげようと苦労したみたいです。
この当時の王家の皆さん、家族(兄弟)力を合わせて!!っていう概念がなさそう。
親からでも兄弟からでも権力を奪おう! という発想はどこからでてくるんだろう?
母親も大変ですよね、ただの兄弟ゲンカじゃないんだもの。
末子ソビェスラフがボヘミア公になったのを見届け、1126年に亡くなりました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/88/b64166fa284db182f93bcee833e9cff1.jpg)
Jarmily Haldovéさん作スヴァタヴァ
(参考文献 Wikipedia英語版)
ひとことK-POPコーナー
少女時代が5人に… あぁスヨン… INFINITEは6人になっちゃったし、BEASTはHIGHLIGHTになっちゃったし
それ以外にもいろいろと気が休まらないKポ界
そう考えるとSHINHWA(神話)ってすごいわ! このままずーーーっとSHINHWAでいてほしい
実家でも嫁ぎ先でも…気が休まりませんね
スピチフニェフ2世妃 イーダ・ヴェッティンスカー
1031〜不詳/在位 1055〜1061
ブジェチスラフ1世の後を継いだスピチフニェフ2世の妃は
下ラウジッツ辺境伯ディートリヒ2世の娘イーダです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/61/a5f07728e36ed9d89fe69a15928fd8eb.jpg)
イーダの父親は、母マティルダの兄マイセン辺境伯エッケハルト2世に殺されました。
たぶんイーダが幼い頃ではないかと思われます。
スピチフニェフ2世が1061年に亡くなると、すぐに子供二人とともに追放されました。
どこにかはわからないんだけど、たぶん実家に帰ったんじゃないかなぁ?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3d/9c/5d714d7b19660a24b8b03160a9f367b2.jpg)
Jarmily Haldovéさん作
完全に政略結婚でした
ヴラチスラフ2世妃 アデレージャ・ウヘルスカー
1040〜1062/在位 (公妃)1061〜1062
兄スピチフニェフ2世を継いだヴラチスラフは、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世のおかげで
初代ボヘミア王ですが、一代限りで世襲はしませんでした。
結婚は3回していて、ひとり目のマリアというお妃はさっぱりわかりません。
二人目の妃が、ハンガリー王アンドラーシュ1世とアナシュタシアの王女アデレージャです。
この結婚により、ハンガリーとの同盟を結ぶことができました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/4f/c4e57173cb7e6a5d83075ac6425671b4.jpg)
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後継ぎがいても苦労は絶えず
ヴラチスラフ2世妃 スヴァタヴァ・ポルスカー
1046〜1126/在位 (公妃)1062〜1085 (王妃)1085〜1092
ヴラチスラフ2世の三人目の妃は。ポーランド公カジミェシュ1世と
妃マリアの娘スヴァタヴァです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/ff/0788124c36e5e7a75ad180bb2bbefbaf.jpg)
だんだん “ 中欧三つどもえ状態 ” が激しくなってまいりましたね。
ヴラチスラフ2世は、スヴァタヴァの兄ポーランド王ボレスワフ2世との
友好な関係を表していましたが、国境線ではもめてました。
1092年にヴラチスラフ2世が亡くなった時、成長していた王子は3人…もめそう…
後に三人ともボヘミア公になってますけどね。
スヴァタヴァは、下の二人の不和をやわらげようと苦労したみたいです。
この当時の王家の皆さん、家族(兄弟)力を合わせて!!っていう概念がなさそう。
親からでも兄弟からでも権力を奪おう! という発想はどこからでてくるんだろう?
母親も大変ですよね、ただの兄弟ゲンカじゃないんだもの。
末子ソビェスラフがボヘミア公になったのを見届け、1126年に亡くなりました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/88/b64166fa284db182f93bcee833e9cff1.jpg)
Jarmily Haldovéさん作スヴァタヴァ
(参考文献 Wikipedia英語版)
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少女時代が5人に… あぁスヨン… INFINITEは6人になっちゃったし、BEASTはHIGHLIGHTになっちゃったし
それ以外にもいろいろと気が休まらないKポ界
そう考えるとSHINHWA(神話)ってすごいわ! このままずーーーっとSHINHWAでいてほしい