2005年 私が観た美術展 ベスト10

昨日のコンサート編に続いて、美術展のベスト10です。いつもの如く、かなり迷いましたが、これをやると、今年あった展覧会をもう一度思い返すことができます。(昨年はこちらへ。

「2005年 私が観た美術展 ベスト10」

1 「北斎展」
   東京国立博物館 10/25~12/4
2 「杉本博司展 時間の終わり」
   森美術館 9/17~2006/1/9
3 「イサム・ノグチ展」
   東京都現代美術館 9/16~11/27
4 「小林古径展」
   東京国立近代美術館 6/7~7/18
5 「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール展」
   国立西洋美術館 3/8~5/29
6 「ベルナール・ビュフェ展」
   損保ジャパン東郷青児美術館 7/23~8/28
7 「難波田龍起展」
   東京オペラシティアートギャラリー 7/15~9/25
8 「タピエス展 熱き絵画の挑戦」
   原美術館 3/30~5/29
9 「フィリップス・コレクション展」
   森アーツセンターギャラリー 6/17~9/4 
10 「李禹煥展 余白の芸術」
   横浜美術館 9/17~12/23

第1位は文句なしに東博の「北斎展」です。浮世絵から肉筆画まで、壮絶なその画業を、圧倒的なボリュームにて見せてくれました。特に晩年の、空恐ろしいまでの作品群!まだ頭から離れません。混雑ぶりもまた第一級ではありましたが、それを鑑みても、もう二度とないような、史上最強の北斎展でした。

そして2位は、たった今、今日見て来たばかりの杉本博司展です。作品自体は当然のこと、その見せ方の細部に至るまで、ともかく抜群の完成度を誇ります。今年見た、いわゆる現代美術の展覧会では堂々の1番です。ともかく素晴らしい!会期中、もう一度行きたいくらいです。

続いては、会場構成にやや批判もあった、木場の現代美術館での「イサム・ノグチ」展です。恥ずかしながら、この展覧会を見るまで、彼の作品にあまり感銘を受けたことがなかったのですが、「エナジー・ヴォイド」を初めとする、力感漲るその彫刻芸術に、ただひたすらに圧倒…。札幌のモエレ沼公園や、香川のイサム・ノグチ庭園美術館へ、是非とも足を運ばなければと思わせた展覧会です。

4番目は、近代日本画の巨匠、小林古径の大回顧展を挙げてみました。幸いにも前期と後期展示の両方を見ることが出来て、日本画を見る喜びを大いに味わえた展覧会です。また日本画と言えば、今年は山種美術館へも足繁く通いましたが、上村松園の個展や「百花繚乱展」などはかなり印象に残っています。それに、三越ギャラリーでの、大観や小倉遊亀の展覧会も、思わぬ充実度で見応え満点でした。こう振り返ってみると、日本画の深みにどっぷりはまった一年でもありました。

西洋美術館の底力を見せつけたような、ラ・トゥールの展覧会が第5位です。日本ではかなり知名度が低いと思われるこの画家を、大変に充実した形で見せたこと自体、とても素晴らしいと思いますが、一点一点の作品の質もこれまたピカイチで、闇の中でぽっかりと光る一瞬間の輝きの美しさを、存分に楽しむことが出来ました。ちなみに、西洋美術館では、来年、ロダンとカリエールの展覧会が予定されています。こちらも今から期待大です。

6位は損保ジャパン美術館での、ビュフェの展覧会です。これを見て、三島の「クレマチスの丘」にある、「ビュフェ美術館」へも出向くことになったのですが、被写体の存在感の強烈さという点で、ビュフェ以上に凄みを見せる画家もそういないのではないかと思わせたほどでした。これは予想以上に感銘させられた展覧会でした。

7番目はオペラシティーでの難波田龍起の回顧展です。難波田については、昨年、東京ステーションギャラリーで開催された、子の史男の展覧会が、拙ブログのランキングの5位に収まっているわけですが、今年の父龍起のランクインと合わせ、二年連続での栄誉に輝きました。(と偉そうに言っております…。)史男の作品が、脆さや儚さを連想させるとすれば、龍起のそれは、豪胆さと生命への意思。半ば対極にあるような親子の作品の連なりを、この二年間でゆっくりと味わうことができました。

8位は原美術館のタピエスでしょうか。同じく原でのやなぎみわ展も相当に楽しめたのですが、タピエスの作品に見る強い余韻感は、未だ体に染み付いています。アニミズム的な、素材の泥臭さをそのままに打ち出した作品たち。あまり日本では紹介されなかったこの作家の不思議な創作世界は、作品の美的解釈云々以前に、ただあるものとの対話を迫られる内容でもありました。

9番目には、いわゆる「名画展」の中で、驚異的な充実度を誇った森美術館のフィリップス・コレクション展を挙げたいと思います。極上のルノワールにシスレー、そしてマティス。既視感のある画家たちと言ってしまうのは失礼なほどに、一点一点が強く訴えかけてきます。特にマティスの「エジプトのカーテンがある室内」。これには心底驚きました。昨年、西洋美術館でのマティス展を見たのにも関わらず、この一作品で初めて彼のスゴさが分かったと言っても良いほどです。参りました。

そして最後は、このブログでも何度と取り上げた、横浜美術館の李禹煥展です。回顧展なら1位(?)だったかとは思うものの、それでも近作に見る、静謐な作品の雰囲気とは裏腹の過激さを、ヒシヒシと感じとることの出来た展覧会でした。レクチャー等で、李本人のたのしいお話をたくさん聞けたのも良い思い出です。今後の方向性は如何なるものになるのか。次の個展も、何時かは分かりませんが、非常に楽しみです。また追っかけます!

さて、今年は、このベスト10以外にも「番外編」として、強く印象に残った展覧会をいくつか挙げてみることにします。(これは、私が好きか、そして感銘したかはさておき、問題意識をストレートにぶつけられた、頭を殴られたような衝撃を味わった展覧会です。順不同。)

 「ゴッホ展」 東京国立近代美術館 
 「榎倉康二展」 東京都現代美術館 
 「マルセル・デュシャンと20世紀美術」 横浜美術館 
 「痕跡展」 東京国立近代美術館

ゴッホは、未だに好きになれない画家なのですが、この展覧会以来、彼の作品に出会う度に、その恐ろしい心象風景にタジタジとなります。デュシャンと痕跡展については、ずばり「芸術と何ぞや。」ということを、今更ながらに突き詰められた展覧会です。また、榎倉展は、会場構成等にも優れた企画で、かなり興味深く見ることが出来、感想にも色々とゴチャゴチャ書いてしまったのですが、今振り返ると、自分の作品に対する受容の度合いがまだ足りないようにも感じるので、「番外編」にてのピックアップです。

それにしても今年は、ともかく怒濤のように美術館へと繰り出しました。ランキングや番外編に挙げなかったものでも、まだここに記しておきたい展覧会がいくつかあります。それは、何故か首都圏各地の美術館で多く取り上げられた、通称(?)「ベルギー・シリーズ」の展覧会から「ジェームス・アンソール展」、また、写真美術館でのシリーズ企画「ものの見方~」展や、同じく写真展であるオペラシティでの「森山新宿荒木展」、さらには、東京ステーションギャラリーの「国芳 暁斎展」と、鑑賞会シリーズから千葉市美術館の「ミラノ展」などです。一昨年と昨年のベスト10と比べてみると、いわゆる現代美術がやや少ないようにも思うのですが、新年早々は、まず川村のリヒター展を予定しています。これは非常に楽しみです。

それでは、来年も美しく、また刺激的なアートに出会えることを祈って、今年最後のエントリにすることに致します。最後になりましたが、今年一年、この「はろるど・わーど」にお付き合い下さり、どうもありがとうございました。あと数時間で年が明けますが、みなさん、どうぞ良いお年をお迎え下さい!
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「収蔵品展019 相笠昌義」 東京オペラシティアートギャラリー 12/25

東京オペラシティアートギャラリー(新宿区西新宿)
「収蔵品展019 相笠昌義 日常生活展」
10/15~12/25(会期終了)

バルケンホール展と同時に開催されていた、収蔵品展の相笠昌義の展覧会です。タイトルの「日常生活」の通り、何気ない日常が、相笠の強烈な心象風景にて、半ばデフォルメされた形で描かれています。あまり後味の良くない、しかしながら見応えのあることを思わせる展覧会です。

ともかく、前半部分にて展示されている、都会の一風景を切り取って描いた作品が圧巻です。灰色がかった、くすんだ色。そこに見慣れたビル街や、花見の様子などが、気怠く、そして強烈な疲労感を思わせながら描かれています。前屈みになって、猫背を見せながら、覇気なく歩く、後ろ姿のスーツ姿のサラリーマン。「銀座風景」(2004年)では、そんなくたびれた人たちが、社会の重圧に押し潰されるかのように、とぼとぼと歩く様がおさめられています。また、本来なら、華やかな光景であるはずのお花見の景色も、相笠の手にかかると、実に重苦しい気配を漂わせます。「お花見」(2004年)では、「銀座風景」と同じようなくたびれた人々が、全く花を見ることなく、ござの上に車座となって、ビール片手に酒を飲む姿が印象的に描かれます。ワイシャツやネクタイを、ダラッと緩めたオジサンたち。上司の悪口なのか、仕事の愚痴なのか、はたまたヨメサンの悪口なのか。ともかく、大凡、前向きなことが語られていないだろうと思わせる光景です。この強い厭世観。画面からじわじわと伝わってきます。

後半に展示されていた人物画には、いくつか美しいものが見受けられました。「バラをもつ女」(2004年)では、端正な横顔を見せる一人の女性が、手に一輪のバラをもって佇む姿が描かれています。右上からは、彼女を祝福するかのような柔らかな光が差し込み、その顔に生気をもたらしていく。初めに見られたような、くすんだ作品とは味わいが大きく異なります。

一部を除けば、平べったく、奇妙に曲がった人物描写と、相笠の目を通して見た、光の失われた風景。強い余韻を残す展覧会でした。
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2005年 私が聴いたコンサート ベスト5

昨日からいきなり体調を崩してしまって、年末だというのに今日は散々だったのですが(少し回復しましたが。)、これを書かなくては年が明けません。(?)ということで、恒例の企画、まずはコンサートから始めてみたいと思います。(昨年は「ベスト3」でしたが、今年は5つ挙げてみます。)

「2005年 私が聴いたコンサート ベスト5」

1 「フィラデルフィア管弦楽団 2005来日公演/東京」 5/23
   マーラー「交響曲第9番」 クリストフ・エッシェンバッハ指揮
2 「ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団 2005来日公演/東京」 2/21
   ベートーヴェン「交響曲第3番」他 ヘルベルト・ブロムシュテット指揮
3 「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン音楽祭2005/東京」 5/1
   ベートーヴェン「ミサ・ソレムニス」 ダニエル・ロイス指揮
4 「新国立劇場2004/2005シーズン」 1/20
   ヴェルディ「マクベス」 リッカルド・フリッツァ指揮
5 「伶楽舎第7回雅楽演奏会」 10/2
   武満徹「秋庭歌一具」他 伶楽舎演奏

「何を聴いているんだ!」と思いっきり怒られそうな上(世評は芳しくありません。)、自分でも「一体この日の演奏が、私にとって良かったのか、そうでなかったのかは、今をもっても分かりません。」と書いているのに、ここで1位にしたのは、フィラデルフィアとエッシェンバッハのマーラーです。確かにオーケストラは荒く、エッシェンバッハの指揮ぶりも非常に謎めいていたかと思いますが、ともかく今年最も印象の残った、また心を揺さぶられたコンサートには違いありません。今後エッシェンバッハの演奏を追っかけてみようとは思いませんが、聴衆へ挑戦(もしくは無視。)するかのような彼の表現は、あまり他ではないような、予定調和的でない、演奏会の一期一会の緊張感を感じさせてくれたコンサートだったと思います。

2位はゲヴァントハウスとブロムシュテットのベートーヴェンです。長い歴史が生み出したオーケストラの風格と、ブロムシュテットの明晰で安定感のある指揮。それが非常に上手く合わさり、まさにエッシェンバッハとフィラデルフィアの対極にあるような、音楽を聴くことの幸福感をたっぷりと味わえた演奏だったと思います。今年はこの他に、ナガノとベルリン・ドイツ響や、ヤンソンスとバイエルン放送響などの、外来のメジャーなオーケストラの公演を聴きましたが、その中では最も安心して音楽の大きな波に浸ることが出来た、美しいコンサートでした。

3位は「熱狂の日」のコンチェルト・ケルンです。私の苦手なこの「ミサ・ソレムニス」を、透明感のある瑞々しい響きで、この上なく軽快に楽しませてくれた演奏でした。ホールの難を差し引いても十分にお釣りが来るような、コスト・パフォーマンス的にも最高の公演でした。(来年の「熱狂の日」での来日がないのは残念です…。)

4番目は新国立劇場の公演から、フリッツァ指揮の「マクベス」を挙げます。新国立劇場の公演は、他にもアルローの演出が見事な「ホフマン」や、長丁場を手堅く聴かせてくれたレックの「マイスタージンガー」などが印象に残りましたが、ともかく音楽面、特にオーケストラと指揮の面で最も素晴らしかったのがこの公演です。「新国立劇場で初めて生き生きしたイタリアオペラのリズムを聴いた。」(また怒られそうですが。)そう言っても良いほどに、抜群のリズム感にてヴェルディを聴かせたフリッツァ。賛否両論のある野田の演出を吹き飛ばすほどに、小気味良くキレの鋭い音楽を楽しませてくれました。是非、もう一度、新国立劇場に登場していただきたいものです。(ロッシーニやドニゼッティでも大歓迎!?)

最後は、私に雅楽の面白さを教えてくれた、雅楽演奏団体「伶楽舎」のコンサートです。武満徹の「秋庭歌一具」を生で接することが出来た自体、とても貴重な機会だったかと思いますが、伶楽舎は、この自然讃歌を実に優れた演奏技術にて聴かせてくれます。サントリーホールがまるで神社の杜へと変化したような、とても静謐で、穏やかな場が生まれていました。

今年は全部で25回、コンサートに行きました。(前年比+9)不思議と昨年に比べて「当たり」(?)が多く、その分、とても印象に残ったものが多かったように思います。上に挙げたコンサート以外では、新日本フィルから驚くべき「古楽器の響き」を引き出すことに成功した、ブリュッヘン登場の定期演奏会、または、大好きなライヒを初めて生で聴くことが出来た「IEMA」のコンサート、さらには、BCJの格の違いを見せつけた二期会の「ジュリアス・シーザー」などが印象に残りました。

最後になりましたが、今年もまた素晴らしい音楽を聴かせて下さった演奏家の皆様、本当にどうもありがとうございました。また来年も素敵な音楽に出会えることを祈って…。
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「シュテファン・バルケンホール」 東京オペラシティアートギャラリー 12/25

東京オペラシティアートギャラリー(新宿区西新宿)
「シュテファン・バルケンホール -木と彫刻のレリーフ- 」
10/15~12/25(会期終了)

「日本におけるドイツ年 2005/2006」の一企画でもある、現代ドイツの彫刻家、シュテファン・バルケンホール(1957-)の大個展です。昨日記事をアップしたICCの展覧会と同様に、最終日の駆け込みにて見てきました。

ザクッザクッと、豪快に削られたノミの跡。台座から一本の木で掘り出されたという人形の彫刻は、まさに荒削りの質感をそのままにして、無表情に、ただひたすらに立っています。木彫と言うと、大概は、木そのものの柔らかな質感を上手く生かしたような、温もりを感じさせるものが多いのですが、バルケンホールの作品はあえてそれを否定しているような表現です。顔や手に残るノミの跡は、まるで獣にでもかまれたような傷跡で生々しく、近づいて見れば見るほど痛々しい。ただ、だからと言って、作品に近寄り難い雰囲気があるわけでなく、むしろ、幾つもの人形を見ていると、既視感を覚えるような、奇妙な安堵感も芽生えてくる。この絶妙なバランス感覚は、バルケンホールの大きな魅力かと思います。

彼の生み出す人形は半ば類型的です。黒いズボンに白いシャツの男性。大きくとも、少しうつろな目を前に向けて、ポケットに手を入れてダラッとしたように立つ人々。何をしているわけでもない。シンプル極まりない、淡い色を基調とした洋服を身に纏って、オペラシティの大きな展示室のあちこちをボンヤリと見ている。鑑賞者の方がむしろバラエティーに富んで、逆に人形に鑑賞されていた。そんな気にもさせられます。

いわゆる木彫を制作の基盤としたアーティストの中でも、バルケンホールがとりわけ興味深いのは、人形の木彫だけの表現に留まらない、とても幅広い創作を続けていることです。遠目から見ると、殆ど絵画のように見えてくる大きな木のレリーフ画。もちろん、近づいて見ると、凹凸のハッキリと出た、荒々しいノミの跡が残る画面ですが、少し離れただけでそれが限りなく平面的になって見えてくるという、どこかトリックを思わせる作品に仕上がっています。ビュフェを思わせるような太い直線にて、厳格な構成感を見せながら描かれ、また彫られた、テレビ塔や宮廷教会などの半ば古典的な「風景画」。また、それとは一変して、抽象的な、デザイン画を思わせる作品も多く見受けられます。まるでレリーフにて、印象派から抽象絵画までの絵画史を追うような構成です。とても器用に、多様な表現をいくつも生み出してくれます。(レリーフでは概ね、人形の木彫で見せたノミの荒い跡は薄らいで、いくつかはかなり丁寧にヤスリが施されています。その辺の、質感を分けた見せ方も見事です。)

具象と抽象の境界を超えた、むしろそのような線引きをあざ笑うようなバルケンホールの彫刻は、今後一体どこへ向かうのでしょう。頑に表情を読み取らせない木の人形たち。そして、何ら動きのない堅牢な風景と、コンポジション的なレリーフ。それが木を介した独特のノミの痕跡によって、ひたすらに創作されて行く。彼の木へぶつかる、執拗ともとれるような、逞しい創作意欲を感じた、特異で、また面白い展覧会でした。
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「アート&テクノロジーの過去と未来」 ICC 12/25

NTTインターコミュニケーションセンター(新宿区西新宿)
「アート&テクノロジーの過去と未来」
10/21~12/25

初台のICCにて開催されていた、「アート&テクノロジーの過去と未来」展へ行ってきました。会期終了日の駆け込みです。

日本の戦後60年間の、「テクノロジー」を使った実験的なアートを概観し、さらに未来へとつなげるこの展覧会。ビデオ・アートやライト、サウンド・アートなど、ともかく多種多様なメディア・アートを、適度な作品数で見せてくれます。

会場に入った途端、「ジリリリ~!」とけたたましく鳴り響くベルの音が耳へ飛び込んできますが、これは田中敦子の、ズバリ「ベル」(1955/2005年)という作品です。作品のスイッチを入れると、エントランスから展示室へ至る階段に置かれたたくさんのベルが、時間差で鳴り渡ると言う仕掛け。見所はベルそのものよりも、ベルを時間差で鳴らさせる仕掛けの機械(スイッチ部分)の方かもしれません。ともかく来場者の方の殆どが、このベルを鳴らします。常に「ジリジリ…、ジリリリ…。」少し煩く感じてしまうほどです。

さて、この展覧会にて真っ先に興味の惹かれた作品は、佐藤慶次郎の「岐阜ススキ群'99」(1999年)でした。高さ2メートルほどの細い長い金属の棒。それがまるで林のようにたくさん並んで、常に振動し続けています。そして、それぞれの棒にくっ付いているのは、小さな金属製のボールです。それが、棒の振動に合わせてひたすら上下に動く。このボールの単純な上下動が、湧き上がる生命の息吹とも言えるような、とても不思議な美的な印象を与えてくれます。また、振動によって、付随する物体を動かすという仕組みは、「オテダマ」(1974年)も同様です。ちょうど、「岐阜ススキ群」のミニチュア版と言っても良いでしょう。20センチ前後の金属の小さな無数の棒を、それこそお手玉のように上下し続ける小さな小さな玉。ポンポンと気持ち良さそうに跳ねています。振動と磁気を利用した佐藤の作品。この躍動感のある動きは魅力です。

三上晴子+市川創太の大規模なインスタレーション、「グラヴィセルズ-重力と抵抗」(2004年)もかなり楽しめます。まさに、「重力の視覚化」と呼んでも良い作品でしょうか。展示室の丸一室分、全て使われた広い空間において、鑑賞者一人一人の重みが、ダイレクトに、目に見える形で映像化されます。前方のスクリーンに映るのは、重量の曲線グラフです。ドンと床を跳ねてみると、その分、大きく反応してくれるスクリーン状のグラフ。それが青や白の無機質な映像によって、美しく表現されます。自らの重さを、バーチャルな形で見せる試み。悪くありません。

最後に、この展覧会で最も興味深かった作品は、岩井俊雄の「時間層2」(1985年)でした。小さな箱庭のような装置の中にいるのは、10センチほどの、ペラペラの人形の模型です。この人形たち、皆高速にて回転する円盤に載せられて、上からはモニターならぬストロボが、目まぐるしく色を変えながら照射されます。また、音楽に合わせながら表情を変えて行く人形は、数えきれないほど多く、まさに群衆のようにうごめいています。それに、ストロボによって巧みに変化させられる人形の影は、まるで影絵のようです。そして、それが非常に優れた形で映像的な効果をもたらす。装置そのものは、おそらくそう凝ったものではないと思いますが、人形と回転盤、それにストロボ照射にて、これほど立体的な映像を見せてくれるとは驚きでした。

「アート&テクノロジーの過去と未来」というタイトルではありますが、どちらかと言えば、初めにも書いたように、戦後日本の技術的、または実験的アートの概観、つまりベクトルが過去へと向いた展覧会だったと思います。小難しい説明云々以前に、ともかくまずは見て触って楽しめる作品が目立ちます。コンパクトにまとめられた、肩肘の張らない好企画でした。
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「牛島達治展」 APS 12/22

a piece of space APS(中央区銀座)
「APS 企画展シリーズ a piece of work #6 牛島達治展」
12/7~12/24(会期終了)

銀座の裏路地に建つ古いビル内にある、僅か10平米ほどのアート・スペース、「A
PS」。その極小の空間にて展開されているのは、「a piece of work」と名付けられた、作品一点展示のみの企画展シリーズです。第6回目の今回は、先月に開催されていた横浜の「BankART life」にて、一際ただならぬ気配を見せていた牛島達治氏の個展でした。

横浜の展覧会では、古い倉庫の巨大な空間(110坪)を大胆に使って、壮大なインスタレーションを見せてくれましたが、今回はそれとは打って変わって、4人も入れば満員になってしまうほどの狭い苦しい空間にて作品が展開されています。お馴染みの「装置」。ただし今回は非常にミクロなものですが、それでまた楽しませてくれました。

狭い部屋の中央に置かれた、高さ1メートルほどの回転盤の付きの機械。透明な二層の板の回転盤の中には、親指の先ほどのサイズの、とても小さな粘土が挟まれます。そしてスイッチ・オン!。「ウィンウィン、ウィーン、ウィ…。」と、まるで音楽を演奏するかのように音をたてて、左へ右へ、さらにはまた左へと、実に忙しそうにクルクルと回転し続けます。そして、次第にそのスピードがどんどん早くなり、音もさらにテンポアップしていって、「これはどうなるのか!」と思わせた瞬間、突然回転盤がストップし、それと同時に粘土がポロッと床へ落ちる。この間、僅か2~3分。たったこれだけ(?)の仕掛けです。

小さくて、とても単純な仕掛けながらも、思わぬほど小気味良く回転し、またリズミカルに音を奏でる機械は、どこか可愛気です。前の横浜での展覧会で見せた作品の圧倒感を、全く逆転させたような、ある意味で滑稽な面白さでしょうか。床には、これまでの回転によって落ちた粘土の骸が、たくさんそのままの姿で残っていました。粘土は人間の手によって機械へ入れられるので、その点は、前回のオートメーション的な作品とは趣向が異なります。小さな空間を逆手に取った、なかなかコミカルな作品でした。
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「life/art part1 今村源」 資生堂ギャラリー 12/22

資生堂ギャラリー(中央区銀座)
「life/art'05 part1 今村源」
12/8~25(会期終了)

今年で最後を迎えるという、資生堂ギャラリーの企画展シリーズ「life/art」。今月から5名のアーティストによる「リレー個展」が始まりました。その第一番目は、今村源氏の個展です。

「日用品に手を加え、彫刻と置物の間に位置する」(HPより。)造形を追求するという、今村源のインスタレーション「受動性 2005-12」。まさに「life/art」の理念である、「従来の美術でも工芸でもないジャンル」(HPより。)に合致するのでしょうか。真っ白く、また細いアルミパイプが、細胞増殖とも、シャボン玉状の泡の広がりとも、はたまた原子模型とも、毛細血管の広がりともとれるような形を見せて、会場中を覆い尽くします。所々にあるのは、これまた真っ白な一輪の造花や、色のついたシダの葉などです。無数のパイプを跨いだり潜っていると、まるでここが、鬱蒼とした熱帯のジャングルのような気さえしてきます。

泡状のオブジェは、一面が4角形から6角形によって作られ、それがすべてキューブ状に連なっています。天井まで高く持ち上げられたり、地面に這うように置かれていたりと、見る側は常に、足元や頭上に注意を払わなくてはいけません。

アルミパイプの自体によるものなのか、それともそこへ塗られた白い塗料によるものなのか、張り巡らされたパイプの質感はどこか不気味です。あまり居心地は良くありません。知らない間に泡の化け物に食べられてしまう…。そんな妙な恐怖感すら覚えました。

資生堂ギャラリーでは、3月26日までに、前述の通り、5名の作家の個展を連続的に開催するようです。これはしばらく追っかけてみようかと思いました。

part2はこちらへ。
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「クレマチスの丘 2005」その2 『ヴァンジ彫刻庭園美術館』

クレマチスの丘(静岡県駿東郡長泉町)
「ヴァンジ彫刻庭園美術館」

「クレマチスの丘」その2ということで、ビュフェ美術館から少し離れた「ヴァンジ彫刻庭園美術館」です。(その1はこちらへ。

イタリアの現代彫刻家ジュリアーノ・ヴァンジ。その世界唯一の個人美術館と言う「ヴァンジ彫刻庭園美術館」は、敷地内に「クレマチス・ホワイト・ガーデン」を取り込んで、実に広々としたスペースで展開されています。屋外展示されている彫刻も多数。この日はほぼ快晴ということで、澄み切った空に、ヴァンジの人懐っこい彫像が生き生きとしながら、美しく映えていました。


美術館のエントランス。ビュフェ美術館ではなく、ヴァンジ美術館の区域の方が「クレマチスの丘」の中核です。レストラン等も整備されています。


芝生に映える彫像。(「竹林の中の男」1994年)顔を手で覆っているように見えますが、近寄ると…?ヴァンジの作品は非常にコミカルです。


広々とした園内に、点々と置かれた作品たち。どれも愉し気な表情を見せています。


雲とのツーショット。カワイイ顔です!


懸命に壁によじ登っています。(作品名もズバリ、「壁をよじ登る男」。思わず「おい!」と呼びかけられそうなほど生き生きとしています。)


館内へ進むと、また屋外とは異なった暗がりのスペースにて、彫像が出迎えてくれます。その中で一番素晴らしかった作品は、この「紫の服の男」(1989年)でした。



高さ170センチほどの、鮮やかな紫色の服をまとまった一人の男。館内の最も目立つ位置にある、真っ黒なひな壇に載せられて、スポットライトが美しく当てられます。木彫の温もり感よりも、むしろシャープな造形のカッコ良さが際立つ。少し反り返った背中から足にかけてのライン、そして横に構えた目鼻の整った顔。どれもがこの男性の強さを表現します。格調の高い、まるで古代エジプト王のような姿。太い手にて権力をがっちりと握りしめている、そんな気もします。どちらかと言うと、滑稽な表情を見せるヴァンジの作品の中では、かなり異色な存在感です。

美術館の前に広がるスペースは「クレマチス・ホワイト・ガーデン」です。こちらには、ガーデナーズハウスや蓮池などが整備されています。もちろんここでもヴァンジの作品がちらほらと並んでいました。残念ながら、最大の名物であるクレマチスの花はまだ咲いていないようでしたが、それでも可愛らしい小さな花に出会えました。所々に置かれたベンチに座ってゆっくりとしたり…。ともかくのんびりとした空間です。



蓮池と美術館の建物。コンクリート打ちっぱなしの外装が、不思議と芝生の緑に溶け込みます。


円形の蓮池。


休憩スペースのアーチから。


園内にあるレストランは非常に人気あるとのことで、休日は予約がとりにくいとのことですが、この日は安上がりに、カフェ「チャオチャオ」にて軽くピザをいただきました。コーヒーはカフェ・イリーのもの。手軽に美味しく楽しめます。

帰りもバスで三島駅へ。そこからは新幹線で東京に向かいました。もちろん時間をかけてじっくりと見ることをおすすめしますが、車なら東名裾野インターからも近く、少し時間のある際に、「途中下車的」な感覚で寄っても良いかもしれません。
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「クレマチスの丘 2005」その1 『ビュフェ美術館』

クレマチスの丘(静岡県駿東郡長泉町)
「ビュフェ美術館」

大分前に出かけて来た美術館なので、今更の記事になってしまいますが、先月、静岡県駿東郡にある「クレマチスの丘」へ行ってきました。この「クレマチスの丘」とは、イタリアの現代彫刻家ジュリアーノ・ヴァンジのコレクションを集めた「ヴァンジ彫刻美術館」と、世界最大のビュフェ・コレクションを誇る「ビュフェ美術館」、それにこの地にアトリエを構える木村圭吾氏の「木村圭吾さくら美術館」などが一体として並ぶ、さながらアートのテーマパークです。また、専門的なレストランや、「クレマチス・ガーデン」なども整備されています。半日以上は十分に楽しむことの出来る施設です。

三島駅北口から無料シャトルバスが出ていますが、本数はとても少ないので注意が必要です。ちなみに駅北口は、今再整備工事の真っ最中で、あちこちが掘り返されています。そのせいか、バス乗り場が非常に分かりにくい…。駅であらかじめ聞いておいた方が確実です。

ようやく見つけたバス乗り場でしばらく待っていると、「クレマチスの丘」と大きく書かれた、白い、かなり旧式のマイクロバスが到着しました。乗り込んだのは、私と連れを含めて10名ほど。駅からクレマチスの丘へは、約30分ほどの道のりです。

クネクネとした細い道ばかりが目立つ三島市街を抜けて、東名高速を跨ぐと、富士山麓の広い裾野を上がって行く、傾斜のある道へと入ります。少し赤茶けた土を剥き出しにした畑の数々。視界が一気に広がってきます。(残念ながら富士山は見えませんでした。)途中、静岡がんセンターを通り越すと、突如、区画が大きくとられた閑静な住宅街へと進みます。クレマチスの丘はもう間もなくです。

目的のビュフェとヴァンジの美術館は、少し離れていて、バス停も異なります。まずは先にビュフェ美術館を目指しました。鬱蒼とした森の中でバスは停まります。



中央に見えるのが、菊竹清訓氏設計のビュフェ美術館。右手に見えるのはカフェで、左のテラス席も気持ち良さそうです。


入口前に立つ彫刻作品。この幾何学的な線と面。まさにビュフェです。


館内の人影はまばらです。贅沢にたっぷりと、ビュフェの静謐さを味わうことが出来ました。円形の展示室の並ぶ「本館」(1973年)と、自然光が柔らかく差し込む「アネックス」(1988年)。さらには「版画館」(1996年)と「ビュフェこども美術館」(1999年)。ビュフェ美術館はこの4つによって構成されています。作品数はそう多くはありませんが、じっくり見れば数時間はかかるでしょう。

当然ながら、今年の夏に、新宿の損保ジャパン東郷青児美術館で開催された「ビュフェ展」(リンクは私の拙い感想です。)の作品も多く並んでいます。ただ、その展覧会がなければ、ここへ足を運ぶこともなかったと思います。全く違う空間で、静かに、あくまでも穏やかに佇むビュフェの作品。ビュフェには、夏の展覧会にてかなり惹かれていたので、再会出来た喜びもひとしおでした。

一押しの作品は、何と言っても「受難」シリーズです。この作品は、ビュフェが1952年に公開した三点の連作ですが、ここではその内の二つ、「笞刑」(1951年)と「復活」(1951年)が展示されています。縦2メートル80センチ、横5メートルの巨大なキャンバスに描かれたキリストの受難。白く渇いた場面には、ビュフェ特有の直線的な輪郭線によって人物が描き出され、無慈悲な受難の場面を、半ば感情を排すかのように、淡々と、しかし圧倒的に見せてきます。ともに中央に存在するイエス。「笞刑」でのイエスは傷だらけです。もはや死んでしまったのか、首をがっくりと落としながら、笞を受け続ける。その周囲で、もうなす術もないかのように祈る女性たちの姿は、このシーンの緊張感を高めます。一方の「復活」はかなり異様な作品です。イエスが大きく両手を伸ばして、まるで十字架のような姿となって、棺の上に浮遊するかの如く描かれています。それにしても、このイエスは痛々しい。足にはまだ釘が刺さり、体には傷も残っています。むしろ、「笞刑」のイエスよりも、その苦しみが伝わるとも言えるでしょう。復活により救済が始まったはずのこの構図。これほど絶望感に満ちた様子で描かれているとは驚きです。棺の前に転がる骸骨と、復活を喜ばないばかりか、むしろ苦痛に満ちた表情でイエスを見る人々。復活が悲劇の始まりとなった。リンゴを食べてしまった人間が、楽園を追放されたように、イエスの復活がさらなる哀しみをもたす。今この現実が、まさに受難であることを言っているのかもしれません。

興味深いビュフェの版画などもゆっくりと見た後は、再び表へ出て、今度は「ヴァンジ彫刻庭園美術館」の方へと向かいます。ここはもちろん徒歩です。森の中には簡単な遊歩道が整備されています。



かなり長い吊り橋です。


てくてくとのんびり森林浴です。


遊歩道の後は、一部、一般の道路を歩くことになりますが、歩道もしっかり整えられており、何ら問題はありません。15分程度でヴァンジ彫刻庭園美術館に到着です。(その2へ続く。
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ジャン・フルネさん、ありがとう!

「都響定期 フルネ引退コンサート」(ぶらあぼ国内ニュース)

残念ながら私は立ち会うことが出来なかったのですが、先日、都響名誉指揮者であるジャン・フルネ氏の引退コンサートが開催されました。既にネット上では、実際にお聴きになられた方の感想が多く掲載されていますが、私も、僭越ながら、まずは心からお疲れさまでしたと申し上げたいです。フルネさん、ありがとうございました。

フルネは言うまでもなく、戦後日本のクラシック演奏史に大きな影響を及ぼした指揮者の一人です。彼自身の初来日は、1958年の、伝説的コンサートとして語られることもある「ペレアスとメレザンド」の日本初演。その後もN響初登場(63年)や、日本で最も関係の深いオーケストラとなった都響と共演(78年以降)を通して、すこぶる実直で控えめな「フルネサウンド」をたくさん楽しませてくれました。コンサートキャリアの浅い私にとっては、最近の都響を振ったコンサートだけにしかフルネに接することがなかったのですが、彼のタクトにかかると、何かと豪胆な都響の響きが、いつも柔らかくて繊細になるのに驚かされ、また、腰の軽いとも言える、独特のフワッとした心地良いリズム感がたまらなく魅力的でした。

数少ない私のフルネコンサートの中で最も印象に残ったのは、2002年4月の都響定期公演です。曲は、ラヴェルの「道化師の朝の歌」やワーグナーの「ジークフリート牧歌」、それにルーセルの交響曲第3番だったのですが、特に最後のルーセルで聴かせた明朗で柔らかい響きは、都響の他の演奏では聴いたことがないほど美しく、大変に感銘させられました。デリケートなピアニッシモへの配慮。あれほど心地良く、楽しみながら聴けたコンサートもなかなかありません。

1913年生まれのフルネ。年齢のことはあまり申し上げたくありませんが、ともかくもゆっくりとご休養なさり、いつまでも元気でいらして欲しいです。
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「スコットランド国立美術館展」 Bunkamura ザ・ミュージアム 12/17

Bunkamura ザ・ミュージアム(渋谷区道玄坂)
「スコットランド国立美術館展 -コロー、モネ、シスレー、そしてキャメロン- 」
11/5~12/25

「Bukamura ザ・ミュージアム」でクリスマスまで開催している、「スコットランド国立美術館展」です。エディンバラにあるこの美術館より出品された、スコットランド美術に強い影響を与えたフランス印象派と、19世紀スコットランド画家の作品によって構成されています。今回も、恵泉女学園大学の池上英洋さんご引率の鑑賞会に参加して見てきました。(以下、レクチャーのメモを参照しながらの感想です。)

スコットランドの歴史は、紀元前1000年頃に住み着いたと言うピクト人(ケルト系民族。ラテン語で「絵を描いている」の意味。体の入れ墨が特徴。)の、伝説的な「七王国」によって始まります。イングランドの北という、古代ローマの勢力すら及ばなかったこの地は、まさに「欧州の辺境」として位置付けられ、独自の文化を形成していきます。846年、ケネス一世(ダルリアダ王国)の手により、初めて統一王朝が打ち立てられた後は、ノルマン人の進攻やキリスト教化など、通り一遍の欧化の波が押し寄せます。美術史的な観点から言えば、中世期のスコットランドには見る物が少ないとのことですが、12世紀のグラスゴー大聖堂などは重要な建築として知られているそうです。

スコットランド美術の特徴は、「仇敵」イングランドのさらに敵であるフランスの影響を受けています。「英国美術の英国性」という、イギリス美術の特性を指摘した書によれば、「垂直様式」(高さと長さを重視する。グラスゴー大聖堂、マッキントッシュなど。)、「人間観察」(オランダ美術の流れとして。)、「絵画的」(ターナーなどの風景画。その風景がまた、英国式庭園を生み出すことにもなる。)、「周縁性とデタッチメント」(「欧州の辺境」だからこそ、外国の影響を受けにくい独自文化を形成。)の4点が、この地域の主な美術のあり方として挙げられるそうです。近代以降のスコットランドの美術については、なかなかその市場が成立せず、かなり厳しい状態が続きますが、18世紀中程に誕生した「トラスティーズ・アカデミー」の設立以降、ようやく美術コレクションが、特にイタリアなどから集められます。(このスコットランド国立美術館の美術品も、そのようにして収集された。)そして、その過程において、スコットランド美術の地位も徐々に確立し始めるのです。

展示は、スコットランド初の国民画家と言われる、ヘンリー・レイバーンの「マルガリータ・マクドナルドの肖像」(1814年頃)から始まります。大きな瞳とふくよかな体つきが印象的な女性。レイバーンは、全くの独学として絵を描き続けたとのことですが、(下書きをしない。)確かに細部の処理はやや大味で、特に衣服における、まるで紙のような質感や、頭皮から浮き上がったような髪の毛の描写は、半ば新鮮に見えるほどです。(仕上げが甘く、ひび割れも目立つ。)そしてその隣に並べられているのは、レイバーンと同時代の、同じくスコットランドで最も古い世代の画家にあたる、アレキサンダー・ネイスミスの風景画「エディンバラ城とノール湖」(1824年)です。青みがかった色彩に浮かび上がる、堅牢な山城、エディンバラ城。左上の青空から右下の湖へ向かって光が燦々と降り注ぎます。前景にチラホラ見える人々の描写のせいか、どこか歴史画的な印象を与えて、まるで古代世界の光景が今眼前に現れたかような気にさせられます。ネイスミスのロマンティズム的な作品は、後に、スコットランドの民族主義的絵画へと結びついていくのですが、そこにはどこかロランの理想風景を思わせる要素もあると感じました。

ヴィクトリア朝のアカデミックな美術様式に反発し、初期ルネサンスへの回帰を目指したラファエル前派。その中心的人物であるミレイの「優しき目は常に変わらず」(1881年)はなかなか面白い作品です。まるで妊婦のようにお腹が出た女の子。元々、「スミレを持っている少女」というタイトルが予定されていたそうですが、確かにその通り、カゴいっぱいに積められたスミレを持つ少女が描かれています。まもなく枯れるであろうスミレの美しさ。それが、少女の若さへの脆さとも重なりあって来ます。ミレイは、1853年、批評家ラスキンとともに、彼の妻の故郷スコットランドへ向かいますが、後にその妻と結婚し、パースに定住します。もちろん、その地でラファエル前派の普及活動に務めるわけですが、その過程において、この展覧会にも出品されているスコットランド人画家、ウィリアム・マクタガートやヒュー・キャメロン(パンフレット表紙の「キンポウゲとヒナギク」。ミレイの「優しき~」と同じ主題が扱われている。)に、大きな影響を与えたそうです。

19世紀のフランスではあまり価値が置かれなかった静物画の中では、異例とも言える才能を発揮したアンリ・ファンタン=ラ・トゥール。彼が花や果物を描いた三点は、どれも見応え十分です。特に、暗がりの、幾分抽象的な背景に配されたバラが、強い光に反射するかのように輝いている「薔薇」(1895年)。一枚一枚、実に細かく丁寧に、バラの花びらの厚みと、その香りが伝わるかのように描かれています。また、バラの差されたガラス瓶が、背景に溶け込むかのように表現されている様子も見事。この作品は一押しです。

横長の画面にて、前景の果樹を点描的に描いたドービニーの「花咲く果樹園」(1874年)や、その一方で、縦長の構図にて、険しい山深くの渓谷を描いたクールベの「峡谷の川」(1864年頃)などを見終えた後は、いよいよイギリスの絵画の中核を成す水彩画の登場です。19世紀後半、キューブ状の水彩絵具が開発され、油彩画と同じように屋外へと出かけて行った水彩画の画家たち。まずは、ロバート・ハードマンの「コーリの海岸、アラン島」(1866年)に目を惹かれます。ゴロゴロと岩が転がる波穏やかな海辺。黒みを帯びた水彩表現が、水の立体感と重みを生み出し、どこかメタリックに仕上げる。水彩特有のペン画のような繊細なタッチと重なって、静かな海岸の景色を、奥行き感を見せながら巧みに表現しています。また、もう一点、ジョージ・マンソン「早朝のカウゲート、エディンバラ」(年代不詳)は、非常に淡く配された水彩絵具によって、朝靄にかすむエディンバラの街角が、幻想的に描き出されています。くたびれた家々。奥へ向かうに従って薄くぼかされ、より消え行く町並み。朝起きて、まだ目の覚めきっていない時に見た、どこか夢うつつの光景のようにも感じました。

水彩画のコーナーを抜けた後は、フランス印象派のビックネームが揃います。中でも、特に素晴らしい「光と影」を見せるのは、モネの有名な「積藁、雪の効果」(1891年)です。光が淡くあたって、薄いピンク色になった雪原にある二つの積藁。それぞれの影は、爽やかなブルーによって前方へと伸び、雪のピンクと交錯します。タッチは少し荒々しく、雪原はまるで藁を包み込むかのように、大きくうねり出します。藁も雪も極めて抽象的。光の陰影という色彩効果と、繰り返されたこの構図。実験的でありながらも、やはり魅せる力のあるモネの素晴らしさが分かるような作品です。

私が好きなシスレーは二点ありましたが、「モールジーのダム、ハンプトンコート」(1874年)にはともかく驚かされました。「これは本当にシスレーなのだろうか。」そう思うほどに、良く言えば躍動感に満ちた、悪く言えばタッチの煩雑さが目立つ、何とも異色な作品です。エメラルドグリーンに配された川の轟々とした流れ。繊細なシスレーの筆が殆ど見られない、それこそクールベの風景画のような豪胆さを持ち得ています。その隣にあるもう一方の、静的で構図感に優れた「シュレヌのセーヌ河」(1880年)とはあまりにも対比的です。

ドガの「開演前」(1894-98年頃)も興味深い作品です。屋内の舞台なのかどうかすぐに見分けのつかない、妙に赤茶けた場の配色。踊り子のオレンジと黄色のスカートが画面を彩ります。彼女らは開演前に練習をしているのでしょうか。少し跳ねたりしているようにも見えますが、後景が、まるで火山の山肌のようにゴツゴツと、そして泥臭い色や構図で仕上げられていて、何やら不思議な気配が漂います。全く毛色は異なりますが、モネの「積藁」の抽象性を思わせました。

展覧会の最後を飾るのは、もう一度スコットランドに立ち返った、「グラスゴー・ボーイズ」と呼ばれるグループの作品群です。このグループは、1880年頃、文字通りグラスゴーに現れた「急進的画家」の集まりとのことで、この展覧会でも、そのメンバーであるウォルトンやメルヴィルらの作品が並べられています。ただ、グループと言っても、その結束は緩やかです。フランス写実主義、特に農村風景を多く描くことに力を入れていく傾向。ギョロッとした目つきが、やや悪ぶっているようにも見える貧しい少年が描かれた「お手上げだ」(1882年)の画家、ジュール・バスティアン=ルパージュの強い影響を受けています。前述のガスリーの「野で働く女たち」(1888年頃)や、メルヴィルの「東方の情景」(年代不詳)など、確かにどれも素朴に、ただしルパージュほどの社会性を見せないで、長閑な田園を描いた作品たち。自然へのひたむきな愛情を感じさせます。

このグループの中では、やや異質で、ジャポニスム的な要素を強く思わせた、ヘンリーの「東と西」(1904年以降)に興味を覚えました。日本人形と器をテーブルに載せて、うっとりとした表情で椅子に座る、まるでルノワールの手にでもかかったような女性。人形と器は、陶器を思わせるようなスベスベとした質感を見せていますが、女性までも、それと同じような、どこか人形のような存在感で、近づいて見るとやや不気味にも思えてくる作品です。

特にフランス印象派とスコットランド人画家の関係が浮かび上がってくる、地味ではありながらも、滅多に他では紹介されない良い企画だと思いました。タイトルはさておき、しっかりとした切り口を持てば、半ば既視感のある印象派も実に面白く見えてきます。もう少し水彩画の展示があればとも思いましたが、なかなか優れた展覧会でした。
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「アウグスト・サンダー展」 東京国立近代美術館 12/17

東京国立近代美術館(千代田区北の丸公園)
「アウグスト・サンダー展」
10/25~12/18(会期終了)

「ドイツ写真の現在」と同時に開催されていた、写真家アウグスト・サンダー(1876-1964)の展覧会です。ありとあらゆる職業や社会的地位の人間を、半ば博物学的に、そして肖像的に捉えた写真群。未完に終った「20世紀の人間」の一部として知られる写真集「時代の顔」(1929年)から、約60点ほど出品された展覧会です。

ともかくズラリと並ぶ、多種多様な人々の肖像写真。それらをぐるっと見渡すだけでも壮観でしょう。そしてこれらの写真で興味深い点は、被写体の人物を、サンダー自身が適当に選択したわけではないということです。「社会的分類をもとに7グループに分割されおよそ45のポートフォリオで構成された写真による文化作品」(解説冊子より。)という「20世紀の人間」の構想の元に、職人や女性、芸術家などが選別されていく。全ての被写体は、職業と地位というフィルターを通してのみ語られて、強い社会性によって結びつけられます。もちろん、これらの人物は、あくまでサンダーの意思によって統括されることにもなるのです。

各人物の顔だけではなく、その背景や衣服なども、全て細部まで鮮明に写し出されていました。全体を通して見ると、人がどこかミニマル的な、均質化されたものとして浮かび上がってくるのですが、各作品一つ一つの前に立つと、職業などを通り越した、その人物の人となりが強く伝わってきます。「学生」や「実業家」など、タイトルをまず認識した上で作品を見るのか、それとも作品を見てタイトルに目を移すのか。それぞれの見方によって、作品から受けるイメージがかなり異なってくるかもしれません。人から完全に社会性を剥ぎ取ることは出来るのか。サンダーの作品は、なかなかシビアな問いも投げかけているようです。

「ドイツ写真展」に負けずと劣らない、実に見応えのある企画でした。最後に登場したサンダーの「セルフポートレイト」。彼もまた、自身のフィルターによってのみ、見られ得る存在だったのでしょうか。その視線に強く惹かれました。
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「ドイツ写真の現在」 東京国立近代美術館 12/17

東京国立近代美術館(千代田区北の丸公園)
「ドイツ写真の現在 -かわりゆく現実とむかいあうために- 」
10/25~12/18(会期終了)

東京国立近代美術館にて先日まで開催されていた、ドイツ写真の今を概観する展覧会です。近代美術館で企画される写真展は、いつもどれも水準が高くて興味深いのですが、今回もまた期待を裏切りませんでした。ボリュームこそそんなに大きくはないものの、なかなか魅力的な内容です。

ドイツで活躍中の10名の写真家。展示作品の殆どは90年代後半以降のもの(一部60年代から80年代のものもあり。)で、かなりタイムリーにドイツの写真を追うことが出来ます。「ドイツ的な写真」。もちろんそのような定義とは、殆どが単なる決めつけに陥ってしまい、安易には語ることが出来ません。しかししそれが許されるのであれば、この展覧会で見られる写真には、何となしにある一定の「枠」が与えられるような気もします。「ハッキリしたコンセプトに基づいた、表現主義的な傾向」、「渇いた、意図的に仕組まれた空疎な画面」、「冷徹な眼差しに基づいた、細部への執拗なこだわり」。もちろん美術館による「ドイツ的なもの」への定義は何もありません。あくまでも「多彩な展開を見せるドイツ写真の現在」ということで、半ば曖昧に見せている。いつもの如くそこから何を見出すのかは、鑑賞者一人一人に委ねられています。

私として一番面白かったのは、以前、オペラシティでの個展ではあまり感心しなかったヴォルフガング・ティルマンス(1968-)です。場所を変えて久々に見たことで、こうも印象が変わるのでしょうか。彼の作品は、そのプライベートな雰囲気に面白みがあるのかと思うのですが、今回も奇妙に美しい人の営みが若干エロス的にも写っていて、とても魅力ある写真に仕上がっていました。相変わらず、自分の部屋にお気に入りの写真を貼ったような展示方法で、鑑賞行為の重みを剥ぎ取らせ、カジュアルな感覚で迫ってくるティルマンス。「ミュンヘン・インスタレーション」の「黒い百合」(1999年)など、静物的な主題の作品も、明るい画面に映えてとても美しく、思いがけないほど惹かれました。各写真における、半ば人工的とも言えるドギツイ発色の鮮やかさと、被写体から匂いすら伝わってくるような生々しさ。その辺もまた魅力の一つかもしれません。

一口に写真表現と言っても、例えば合成写真のような、視覚トリックをも生み出す、多様な技法が加えられた作品も目立ちます。その中で最も興味深かったのは、アンドレアス・グルスキー(1955-)です。彼の作品には、もちろんデジタルによって手が入っていますが、閉じられた場所での人間でも動物でも構わない「群れ」を捉えた作品は、そのハッキリとしたコンセプトが痛快です。ダイナミックで鳥瞰的な、大きな画面におさまる群れる人々。群衆になった時の人とは個が喪失して、まさに種としてのそれになるのですが、証券取引所や駅などでうごめく人々は「グリーリー」(2003年)で見るような、牛の群れと何ら変わりません。限りなく広がりながらも空間は閉じられている。グルスキーによる場の生み出し方には、ドイツに限らないこの社会の縮図を垣間見せます。

いわゆる社会派の作品として見応えがあったは、ハンス=クリスティアン・シンク(1961-)でした。ドイツの統一の後、旧東側に大量に整備された橋や道路。その姿を無機質ながらも、実に美しく捉えています。「トラフィック・プロジェクトより(A20号線ペーネ川の橋)」(1998年)。水辺の伸びやかな田園風景をぶった切るかのように伸びる高速道路。まるで人気がなく、トマソンのように寂しく佇む太い橋脚。水面に一羽、ポツンと浮かぶ水鳥が、どことなく健気です。解説にもあるように、彼の作品は「安易」な開発批判をしているわけではありません。写真表現として、変わる行く旧東側をどう見せるのか。あくまでもそこには、彼自身のシャープな美的感覚が投影されています。

この展覧会は来年に、京都国立近代美術館と、丸亀市猪熊弦一郎現代美術館へ巡回するそうです。そちら方面の方には、是非おすすめしたいです。
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「年に一度の特別公開 横山大観『生々流転』後半」 東京国立近代美術館 12/17

東京国立近代美術館(千代田区北の丸公園)
「年に一度の特別公開 横山大観『生々流転』後半部分」
11/15~12/18(会期終了)

年に一度の、横山大観の「生々流転」の特別公開です。10月に出向いた前半部に引き続き、後半部分の展示を先日拝見してきました。

前半部分では、渓流から川へ至る「水の旅」の原初が、大観の精緻な筆によって巧みに描かれていましたが、今回の後半部分では、河から海へと流れ込んだ雄大なその旅路が、最後に現れる神話的な世界を伴って、実に圧倒的に表現されています。

始まりは一つの大河です。広い大地を濡らすように、大きく伸びやかに進む水のうねり。波は穏やかに表現され、空には一羽の白鷺が美しく舞います。長閑な田園とどっしり構えた河の道。いつしかそれは、波打ち際で一生懸命に漁をする人間に別れを告げて、全てを飲み込む巨大な海へと注ぎ込みました。徐々に暗くなって行く空。雲は黒みを帯びて、少しずつ渦を巻いていきます。もちろん波は高くなって、これまでに決して見せることがなかった、凶暴な姿を露出し始めました。あれ狂う大波と、地上へ襲いかかる空。海と空は激しくぶつかりあい、一つになろうとします。そしてついに龍の登場です。水の果てしない旅はここでひとまず地上から離れ、龍によって天へと駆けて行きました。その後に残ったのは「無」の世界でしょうか。真っ白で平穏な、そしてこれまでに描かれたものを、全て打ち消すかのような白。この描写は、前半部分の一番初めに見られた、山々の白い雲霞と重なってきます。「生々流転」。この作品にやはり終わりはないようです。

自然の美しい様を丹念に捉えた前半部分とは異なって、龍による天昇と言うような、自然と人知を超えた、この作品の主題を思わせる「物語」的描写が特に見所です。雲とも海ともつかない、クライマックスの真っ黒な巨大な渦。その鬼気迫る描写は、思わず背筋が寒くなるほどでした。年の瀬を飾るのに相応しいような大作です。おすすめしたいと思います。

*関連エントリ
「年に一度の特別公開 横山大観『生々流転』前半」 東京国立近代美術館 10/30
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「キアロスクーロ展」 国立西洋美術館 12/10

国立西洋美術館(台東区上野公園)
「キアロスクーロ -ルネサンスとバロックの多色木版画- 」
10/8~12/11(会期終了)

上野の西洋美術館で、先日まで開催していた「キアロスクーロ」展です。イタリア語で「明暗」を意味し、16世紀のドイツで生まれ、ルネサンス期のイタリアで発展したキアロスクーロ木版画、その約110点にて構成された展覧会です。比較的地味な印象は受けましたが、版画の技法なども詳細に解説され、歴史も概観することが出来ます。なかなか見応えのある内容に仕上がっていました。

さて、このキアロスクーロの興味深い点は、会場でも述べられていたように、日本の浮世絵の技法と極めて類似していることです。もちろん、出来上がった作品の印象は、浮世絵とキアロスクーロで、全くと言って良いほど異なりますが、洋の東西、または時代を超えて、このような技法による作品がそれぞれにあったことに、俄然、関心が湧いてきます。ただ、残念ながらこの展覧会では、それぞれの技法の類似点や相違点についての、詳細な比較展示がありません。一つのコーナーにでもそのような展示があれば、さらに面白くなってくるのではないでしょうか。

作品の中で最も魅力的だったのは、16世紀後期のイタリアのキアロスクーロ版画として紹介されていた、アンドレア・アンドレアーニによる、「カエサルの凱旋」の連作です。ローマの英雄、ユリウス・カエサルの凱旋。捕虜や戦利品をたくさん抱えたローマ市民が、華々しくローマ市内を行進していきます。メインはもちろん、「戦車に乗って凱旋するユリウス・カエサル」(1593-99)。勇壮さよりも、むしろ気品に満ちたカエサルの姿は、木版画の温もりにも包まれて、目を釘付けにさせます。その場の雰囲気が伝わってくるような、当時のローマの賑わいすら感じられる作品でした。

キアロスクーロ木版画の味わいは、各版の色の差異によって大きく変わってくるようです。茶色や黄色系を組み合わせた作品には柔らかな温もりが、また、褐色系が浮き上がってくるものには、そのメタリックな光沢が、どこか石の質感をも思わせて、少し冷たい感触をイメージさせる。明暗や陰影に関しては、色の違いよりも、各画家の違いによるものが大きいかと思いましたが、版の色の違いと作品の味わいが、これほど直に結びついてくるとは、少々意外に感じました。

東京で数多く企画される美術展の中でも、西洋版画のみに焦点を当てたものは少ないかと思いますが、今回のように企画に優れた、日本ではまだニッチ的とも言える芸術を紹介する試みは大歓迎です。版画をしっかりと定期的に見せてくれる、国立西洋美術館ならではの展覧会でした。
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