横浜美術館 「マルセル・デュシャンと20世紀美術」 2/19

横浜美術館(横浜市西区みなとみらい)
「マルセル・デュシャンと20世紀美術-芸術が裸になった、その後で」
1/5~3/21

すっかり感想を書くのを忘れていました…。先週の土曜日に観てきたデュシャン展です。

ところで、私が美術館へ行くようになったのは確かここ2~3年のことですが、今回の展覧会ほど「手ごわい」のは初めてでした。デュシャンの世界は、私にとってあまりに広すぎます。途方に暮れるしかないような理解不能の作品から、異様な美を感じる作品まで、始終頭の中をかき乱されっぱなし…。初めこそ、作品に自分なりの「定義」をしてみようかと思いましたが、それは私の力量を上回る作業のようです。ここは、見て思ったことを率直に書きます。ということで、いつも以上に思い込み色の強い感想となりましたが、その辺はどうかご容赦下さい。

まず初めに感じたことは、デュシャンの芸術は一体どこにあるのかということです。これについては先ほども書きましたが、彼の芸術世界があまりにも広すぎることとも関係しているようです。私の経験からすると、一人のアーティストからは、大体何か共通の土壌や感性を見出すことが多いのですが、デュシャンは殆どそれすら許しません。噛み砕いて言えば、あまりにもつまらなく感じる作品と、とても優れて見える作品が同居しているのです。しかも同じ「枠」の中にあるとされる作品がそう…。あまりにも極端でした。例えば有名な「泉」ですが、これを今、何故美術館に並べなくてはいけないのかと思うほど、「意義」でしか感じられない作品です。つまり、「便器」ではなく、デュシャンの「泉」としてしか価値を持たないということです。作品そのもので受け止められないようなものを、私はどう受容すれば良いのでしょう。美的関心を極限までに封じ込めたような「泉」。何らかの言説によってしか受容できないのなら、私はもう観たくありません。ところが、同じレディ・メイドとされる「自転車の車輪」は大変に美しく見えるのです…。デュシャンはこの作品の車輪部分を廻しながら思索に耽ることもあったそうですが、確かにいつまでも眺めていたくなるほど、繊細な美的なセンスとバランス感覚を感じることができます。「泉」とはあまりにもかけ離れた印象を受けるのに、実は同じレディ・メイドとして捉えられている。この辺からして頭が混乱してしまいました。

次に、同じ空間の中で、デュシャンと彼に向き合った芸術家の作品を並べる意味がわかりませんでした。ただ、このことは、デュシャン芸術の問題ではなく、展覧会自体の問題でもあると思います。例えばデュシャンの「排水栓」と、ゴーバーの「排水口」です。この二つの作品は美術館によるチェックシートでも、ある意味で対になった作品として紹介され、解説にはデュシャンから与えられた影響の意味が述べられていました。しかし、私はこの二つの作品を前にした時、それぞれの作品の持つ魅力(あるとすれば。)が、同じく空間を共有させることで相殺されたように思えるのです。どちらの作品がより魅力的かとか、より見るべきなのかという問題、つまり、比較対象としての観点ばかりに焦点が合わされて、デュシャンの芸術観を逆に損なうことになっているのではないかと感じます。それに、これらの作品は、空間的にも時間的にもかけ遠く離れた時に、初めて各々が作品そのものとして輝くのではないかとさえ思いました。デュシャン自身が自らの作品を、横尾さんや森村さんの作品と並べることにどれだけの意味を感じたかは不明ですが、私にはあまりにも勿体ないこととして感じられます。美術書の中ででも行なって欲しい企画、とするのは言過ぎでしょうか。

それに、デュシャンが「美術とは何か」(美術館HPより。)を問い続けていたとするなら、それこそ当時の彼が対峙していた美術界の作品を、展覧会に持ってくる方がよほど意義があると思います。つまりデュシャン以降の作品は、当然ながらデュシャン自身の問題提起や、複雑怪奇な感性が呼び起こされるわけではないのです。相互に相殺し合うような作品の比較、要するに、「デュシャンとその後」自体が、あまり観たい対象となりません。

初めのセクションにあった「階段を降りる裸体」などは、どれも素晴らしいものでした。ただ、そう思ったのも、私の感性が、この作品から何らかの美的意識を呼び起こしたからでしょう。もし、デュシャンがそれすらも否定し、それこそ「泉」のような、まさにそこにあるだけの作品を、規定の美意識への挑戦として、芸術の呪縛を解くことができると考えていたなら、私はその意義を見いだすか、もしくは理解もできずに途方に暮れるしかありません。もちろん、殆どの場合後者です…。これは非常に辛い芸術体験でもあります。

展示室の壁面の所々に、デュシャンの言葉が引用されていました。それらはどれも示唆に満ちていて大変に興味がそそられます。彼が芸術の呪縛を解くボールを投げているなら、観る側もそれをキャッチしなくてはいけません。しかし、残念ながら今の私には、ボールを受け止めるだけの感性が殆どないようです。だとしたら、彼の「言葉」も頼りにしなくてはいけないのでしょう。チェック・シートだけでは、あまりにもデュシャンが大きすぎました。

拒否感と嫌悪感と同時に、美意識と受容も感じる。一人の芸術家からこんなに複雑怪奇な印象を受けた展覧会は初めてでした。結局、デュシャンがどこに「ある」のかが分かりません。ただ、私が美術を観る際の視点の居所を、ある意味で粉々に打ち破いてくれたことは間違いないようです。その点では、面白かった展覧会と言えるのかもしれません…。
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どうなるわが町の美術館 NHKクローズアップ現代 2/22

どうなるわが町の美術館
NHKクローズアップ現代
2/22 19:30~

こんにちは。

先日の「クローズアップ現代」は美術館についての特集でした。厳しい美術館事情と、昨年オープンした金沢21世紀美術館の取り組みが取り上げられています。偶然、新聞のTV欄で発見して見ることが出来ましたので、今日はそれについて書いてみようと思います。

放送内容を、懐かしの講義ノート風にまとめてみました…。


美術館の冬の時代
 ・川崎市民ミュージアム
   入場者数の激減 S63/30万人→H5/10万人
   入場料収入減 運営コストの5%のみの入場料(適正水準は20%)
    ↓
   今度どのように運営するのか-市の危機感
    民間に調査依頼-慶大上山教授のグループ
     市民を惹き付けていない
     コンセプトが不明確
     川崎である必然性の欠如
     市民のための「物」という発想がない
  →調査提言を受け、市は一年以内に外部委託をするかどうか決断
 ・芦屋市立美術博物館
   現代美術を中心とした年十回の企画展開催
   専門筋からは高い評価も集客には結びつかず
    ↓
   経営危機→市の予算削減+冬期2ヶ月休館→民間委託計画発表→引受先なし 
  →来年度からの休館(売却、閉館の予定はない)を決定 
  存続運動も起こる
   経済性だけで美術館を閉鎖して良いのか?
   お金に換えられない価値こそ美術
   芸術のある街芦屋を維持すべき
  →市民NPOでの存続を模索

地域密着、参加型で好評の金沢21世紀美術館
  →入場者50万人突破(開館4ヶ月で平日3000人/休日5000人)
 ・人気の秘密
   体験型アート-訪れた人がアートとなる試み(巨大マフラーで美術館を巻くプロジェクト)
   アミューズメント的感覚
   無料展示スペースを大きく取り入れたスタイル
   →開放感(有料スペースの外側が無料/図書館やカフェスペース等々)
 ・力を入れた取り組み
   市内全95小中学校生徒を全員招待=ファンになってもらうきっかけ
    「もう一回券」と呼ばれる無料券も配布→後で大人と来てもらう狙い
   専門スタッフ(市民ボランティア)によるユニークな解説
 ・館長蓑豊氏によれば…
   「市民参加=体験型」を充実させる
   10年先を見通したアートとの向き合い-感性を育む金沢の子どもたち
   本物の楽しさに触れてもらう
   美術館が生活の一部となるよう今後も努力

美術館の問題
 ・そもそも入場料収入だけでは運営が不可能
   例-金沢21世紀美術館
     運営料4億7千万=入館料収入1億3千万+市の予算3億4千万
 ・「箱物」としての美術館
   莫大な初期投資→それに見合わない運営費(予算不足)
 ・「公」としてのマネジメント力の欠如
   リピーターがいない←もてなしの精神の欠如
   「美術館な何故必要か?」に答えていない運営側の姿勢
   それこそ「箱」を作って終わり=作ることが目標に

美術館の今後=指定管理者制度
 NPOや企業へ業務委託(外郭団体によらない運営)
  ↓
  経済性の観点からの運営
  企業市民としての公共性ももたせる
  サービス精神


こんな感じです。少し長くなりました。

番組は、金沢21世紀美術館から生中継されていて、随分と同館を持ち上げているような印象を受けましたが、まだ開館4ヶ月です。この美術館の取り組み例が、他に当てはまるかどうかはまだ判断できる段階にはないと思います。また、「指定管理者制度」という外部委託に関しても、枠組みとしてはそんなに目新しい方策ではありません。確かに厳しい状況です…。

ところで、番組を見ていて少し違和感を感じる部分がありました。それは、そもそも美術館というものは、入場料収入で成り立たない構造の上にあるのに、結局入場者数の増減が美術館の評価につながっているということです。もちろん、芸術性を確保しながら、多くの方に足を運んでもらうのは良いことなのかもしれません。例えば、木場の現美のようにジブリで榎倉をカバーする(どちらが芸術的かという議論はさて置き。)のは、極めて現実的で実効性のある方策なのでしょう。金沢21世紀のように、市内全ての小中学生を入場させても、彼らの何割がリピーターとなるのでしょうか。教育的効果こそある程度は期待できますが、入場者の維持を第一に考えるとすると、それこそ毎年のように招待しなくてはなりません。何だか本末転倒です…。

市場的に見た時は、やはり需給バランスが崩れていることが一番の原因だと思います。各地方自治体ごとに一つずつ美術館がある。それこそ「箱物」の目玉的存在として、あることだけに意義を持つような美術館です。芦屋の美術館でもそうですが、単に芦屋市の視点からだけで休館を考えています。兵庫県全体として、また関西全体としてはどうなのか。そのような視点が殆どありません。下手したら芦屋美術館の近くに、また芦屋のようになってしまう恐れのある「箱」ができる可能性もあるのです。横のつながりがないことが、際限なく美術館の悲劇を生みます。

NPOの利用や参加型のアートなど、既存の枠内でも出来ることはたくさんあります。それは番組でも取り上げられていました。しかし、芸術はどれも体験型であるわけでもなく、どれもエンターテイメント的であるわけでもありません。それに、根本的には、芸術はごく一部を除けばあまり商売にならないものです。誰も来ない上に予算もないと嘆くような美術館は、早急に閉鎖するべきとさえ思います。もちろん、誰も来なくても芸術を置きたいという気概のある美術館は大歓迎です。ただ、それは市町村レベルの自治体では厳しいことも事実でしょう。

開館景気に湧く金沢でさえ、入場料は運営費の3割に過ぎない。この事実を他の美術館も受け止めるべきだと思いました。長々と失礼しました…。
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ゲヴァントハウス管弦楽団 2005来日公演 「ベートーヴェン:交響曲第3番他」

ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団 2005来日公演/東京

バルトーク ヴァイオリン協奏曲第2番
ベートーヴェン 交響曲第3番「英雄」
(アンコール:ベートーヴェン/劇音楽「エグモント」序曲)

指揮 ヘルベルト・ブロムシュテット
ヴァイオリン フランク・ペーター・ツィンマーマン

2005/2/21 19:00 サントリーホール2階Pブロック

昨日はサントリーホールでゲヴァントハウス管の来日公演を聴いてきました。指揮にオーケストラに…、ともかく全身が酔いしれた素晴らしいコンサートでした。

一曲目はバルトークのヴァイオリン協奏曲です。ソリストは最近活躍中のツィンマーマン。確か以前、N響とも共演していたかと思います。彼のヴァイオリンはやや硬めに味付けられています。空間を引き裂くような音です。また、極限のピアニッシモから、ホール全体を圧倒してしまうほどのエネルギーを持ったフォルテッシモまで、恐ろしいほど幅広いレンジを持ち合わせます。サントリーのPブロックは、どうしてもソリストが入ると厳しくなってしまいますが、そんなことは殆ど意識させないような強烈な表現でした。特に聴かせどころである第一楽章のカデンツァは圧巻です。背筋がゾクゾクするような瞬間が連続しながら、彼の弦楽器から湧き上がってくる鮮烈な音に押しつぶされんばかり…。これは文句なしに素晴らしいと思います。一方、ブロムシュテットとゲヴァントハウス管は、バルトークの複層的な音楽をやや掴みきれていない印象も受けましたが、それでもツィンマーマンを包み込んでいくような響きはさすがです。私には十分すぎるほどでした。

メインは「英雄」です。このような名曲中の名曲を、説得力を持って演奏することはなかなか難しいと思いますが、ブロムシュテットとゲヴァントハウス管はそれを難なくこなします。この辺りが長い演奏史を持つ伝統の業によるものなのかもしれません。演奏のスタイルは実にオーソドックス。殆ど奇をてらわない正攻法で「英雄」に挑みます。少々荒々しくてザラッとした感触の弦は、リズムをぐいぐいと明確かつ躍動的に刻んでいきます。木管群は、弦と比べると少々弱く聴こえましたが、金管、特にホルンが巧すぎます…。ホルンってあんな柔らかくてふくらみのある音なのか…、唸らされるほどでした。

ブロムシュテットの指揮は実に簡素です。打点を明確にしながら、時折大きな気合いを織り交ぜてアタックを指示する。決して情熱的とは言えませんが、音楽を心から愛しているような豊かな表情でオーケストラを指揮していました。もちろん、オーケストラの反応も素晴らしいものです。ホールの床から天井まで、グワーっと音塊が上昇していくかのように、手だけではなく全身を動かして、楽器から豊かな音を奏でます。首席から一番後ろに座っている方まで、ベートーヴェンの音楽を心の底から掴みとっているのがひしひしと感じられました。基本的な技術はもちろんのこと、団員の方の暖かい一体感を感じることのできるオーケストラです。腰の据わった表現と緊張感を持ち合わせた、極めて堂々としたベートーヴェンでした。ベートーヴェンを少し苦手とする私も、これでは何の文句もつけようもありません。

今回の来日ツアーは、最終日にブルックナーの第七交響曲が予定されています。私は残念ながら聴きに行きませんが、こちらを予定されている方、きっと素晴らしい演奏が待っていること請け合いです。この日の感触だと、尻上がりにどんどん調子を上げていきそうな気配です。ブロムシュテットとゲヴァントハウスのコンビは、もう間もなく終了してしまいます。録音もあまりありません。このコンサートを聴く限りでは誠に残念な限りです…。しかし本当に素晴らしいコンサートでした。私は外国のオーケストラを聴き込んでるわけではありませんが、オケ物としてはここ数年では一番感銘したと思います。これは痺れました…。
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サリエリの復権?

読売新聞のサイトでこんな記事を見つけました。

「モーツァルト『敵役』サリエリ、汚名返上の動き」(YOMIURI ON-LINE)
【ウィーン=石黒穣】映画「アマデウス」(1984年)でモーツァルトの宿敵として悪役のイメージが定着したイタリア人作曲家アントニオ・サリエリ(1750-1825年)。その名誉を回復する動きがウィーンで出ている。

プーシキンの「モーツァルトとサリエーリ」と映画「アマデウス」の力は大きすぎたようです。と言っても、映画「アマデウス」がなければ、サリエリがここまでの知名度を獲得することもなかったでしょう。その点では、いくらその人物像が誤っているにしろ、彼は「アマデウス」に感謝しなくてはいけないのかもしれません。何たってあの作品のおかげ(?)で、こうして現代でも名前があがるのですから…。(と言う私も、映画「アマデウス」で初めてサリエリを知りました。ただ、「アマデウス」はあくまでもフィクションですから、目くじらを立てて批判するのも大人げないように思います。映画としてはとても良く出来た作品です。)

サリエリの音楽には、何年か前に、紀尾井ホールの公演で「ファルスタッフ」に接したことがあります。終始小気味良い音楽が続き、大変楽しく聴きました。彼は生涯で四十作以上ものオペラを作曲しています。音楽的に彼が見直されれば、今回のスカラ座での「見いだされたエウローパ」(確かNHKFMでも放送されたと思います。)をきっかけに、各地で彼の楽曲が演奏されるのでしょう。これには大いに期待したいところです。

しかし、サリエリに限らず、モーツァルト同時期の作曲家は、あまりにも不憫な境遇に置かれています。例えば、フランスバロックなどは最近になって復権し、ヨーロッパではかなりの人気を博しているというのに、何故かモーツァルトと同時代の作曲家に関しては、せいぜいパパハイドンかグルックばかりです。せめてコンサートプログラムの一部でもいいから、ミハエル・ハイドンやエマニュエル・バッハが上演されれば…。日本でもそんな時代が来ると良いと思います。

ところで、史実のサリエリは相当の大物です。たくさんの音楽を作曲しながら、宮廷音楽家としての地位を築き、後年はベートーヴェンやシューベルトの指導にもあたりました。「魔笛」を聴いてその音楽を絶賛したと言うのは有名なエピソードですが、その時彼は何を感じたのでしょう。まさか映画のような「嫉妬」ではないと思いますが…。
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情熱と煌めきのモーツァルト。 アルゲリッチのコンチェルトを聴く。

グルダ・メモリアル・コンサート NHK教育芸術劇場(2/20 22:00~)

曲 モーツァルト/ピアノ協奏曲第20番二短調K.466
  ベートーヴェン/ピアノ、ヴァイオリン、チェロのための三重協奏曲ハ長調第3楽章

指揮     クリスティアン・アルミンク
ピアノ    マルタ・アルゲリッチ
ヴァイオリン ルノー・カプソン
チェロ    ゴーティエ・カプソン
演奏     新日本フィルハーモニー交響楽団

こんにちは。

先ほどまでTVの前にて鑑賞していましたが、あまりにも強烈な演奏だったので、誉め言葉も見つかりません…。我が家の貧弱なTVスピーカーから、驚くほど生気に満ちたモーツァルトが流れてきました。(この番組に気がつくのが遅かったので、視聴したのはモーツァルトとアンコール曲のベートーヴェンです。)

vagabondさんが実際にこのコンサートをお聴きになられていて、詳細なレビューを残されておられますが、本当に素晴らしいコンサートだったのだろうと思います。TVを通してでも、ニ短調協奏曲が、信じられないまでに表情豊かな音楽となって演奏されているのが分かりました。この曲をあんなに情熱的に演奏するとは…。今まで何を聴いていたのだろうと自問したぐらいです。

アルゲリッチの手は、鍵盤の上を踊るように跳ねていました。もちろん、ただエネルギッシュに演奏していただけではありません。最も素晴らしいのは、音楽が崩壊してしまわないかと心配してしまう位、曲の流れを自在に操っていることです。まるで大波に揺られる小舟のよう…。アルミンクもインテンポでオケを統制し、筋肉質なモーツァルト像を描いていましたが、彼女はそれすらも一気に突き破るように進みます。力と力の激しいぶつかり合い。音楽が俄然面白くなっていました。

第2楽章では弱音の美しさを最大限に利用して、とても静謐な音楽を作り上げていました。あちこちに自然な「ゆらぎ」があり、一瞬たりとも同じ表情を見せることがありません。時間が瞬く間に過ぎていきます。第一と第三楽章のカデンツァも、情熱がほとばしります。TVの前でここまで心を揺さぶられたのは久しぶりでした。

これを生で聴いたら腰を抜かしたかもしれません…。技術的なミスなど、あまりにも些細なことに感じられます。芸術の凄まじさを実感させられたモーツァルトでした。
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横浜美術館 「コレクション展 第3期」 2/19

横浜美術館(横浜市西区みなとみらい)
「コレクション展 第3期」
2004/11/24~2005/3/23

こんにちは。

昨日はあいにくの天候でしたが、横浜美術館へ行ってきました。もちろん、話題(?)の展覧会である「マルセル・デュシャンと20世紀美術」を観るためです。そちらの感想もアップしたいと思いますが、展覧会と作品そのものに猛烈な違和感を感じてしまって、なかなかまとまりません…。ということで先に、デュシャン展の後に観たコレクション展について書いてみます。

横浜美術館のコレクション展(常設展)は、年度事に三回の展示替えをしています。現在はその第3期にあたり、以下のテーマ別に作品が並んでいました。

1.日本画における幻想的な風景
2.現代ガラスの不思議な形
3.変容するイメージ-シュルレアリスムの絵画と彫刻
4.版画のなかの幻想的な世界
5.シュルレアリスムと写真-実験的な技法と表現

もちろんどれも見応えたっぷりです。特に2、3、4には惹かれる作品がたくさんありました。

まず「2」のガラスです。そもそもこれだけまとまった形でガラス作品を観たのは初めてでして、それだけでも大変に興味深いものでした。1960年代以降に始まったというガラスの芸術表現は、ガラス素材の持つ透明感が最大限に生かされています。それに、ガラスは多様な形に加工できる特性もあります。薄く延ばしてグイッと曲げてみたり、膨らませたり丸めてみたり…。ガラスがゴムのように自由自在に変化しています。形として観ただけでも十分に楽しめますが、まるで生き物のような存在感です。思わず触りたくなります。

「3」はシュルレアリスムでした。展示室入口に、ダリの「幻想的風景-暁、英雄的昼、夕暮」(1942年)があります。私はどうもまだダリの良さが分かりません。今日こそ何か感じることはないかと、作品の前に置かれていた椅子から眺めること数分…。何だか絵が語りかけている気分になってきました。絵を一つの物語として捉えて、たくさんの神話やお伽話を空想します。もしかしてイメージを極限までに膨らませることが可能かもしれない…。少し苦手意識が吹き飛びました。同じく苦手なマグリットの作品と取っ替え引っ替え眺めながら、頭の中にたくさんのイメージを湧かせていきます。これぞまさに絵を観る際の醍醐味です。贅沢な時間を楽しみました。また、キリコのブロンズ像「ヘクトルとアンドロマケ」も美しいと思います。キリコは造形の逞しい構成感に惹かれます。こちらは好きなアーティストです。

「4」の版画では、HANGA展でもお目にかかった駒井哲郎の作品が多数並んでいました。不思議な浮遊感がある「束の間の幻影」はもちろんのこと、遊び心があるように感じた「海底の祭」にも惹かれます。駒井の作品はどれも繊細な意識が感じられます。観ている最中に、最近拝見させていただいているartshoreさんのブログの中で、駒井について書かれていた印象深い一節、「少年のようなしなやかさ」を思い出しました。少し危ういようなはかなさ。やはりここに惹かれます。一方、長谷川潔の作品はどれも静謐感が漂っていました。「小鳥と胡蝶」が一押しです。エッシャーの作品は、近くにいた子どもが一生懸命に観ていました。おそらく動線を辿っていたのでしょう。私も初めて観た時、何度も何度も作品の中を行ったり来たりしたように思います。久々に再会しましたが、やはり何度観ても楽しい作品です。

美術館へ行く際は、大概が企画展目当てなので、どうしても常設の方をおろそかにしてしまいます。(時には飛ばしてしまうことも…。)しかし今回は、デュシャン展で非常に疲れたせいもあってか、逆に枠の中の「美術」に触れたくなりました。ガラガラの常設展をゆっくりと歩きながら鑑賞するのは、美術館での大きな喜びの一つです。久々に満喫しました。

*デュシャン展についてはまた後ほど…。恐ろしく頭がごちゃごちゃになったので、それを整理するだけでも大変です。
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新日本フィル 第381回定期演奏会 「シューマン:交響曲第2番他」

新日本フィルハーモニー交響楽団 第381回定期演奏会/トリフォニーシリーズ第1夜

ラモー 歌劇「ナイス」から序曲、シャコンヌ
モーツァルト 交響曲第31番「パリ」
シューマン 交響曲第2番

指揮 フランス・ブリュッヘン
演奏 新日本フィルハーモニー交響楽団

2005/2/18 19:15 すみだトリフォニーホール1階27列

こんにちは。

今日は急遽、vagabondさんの記事を読んで気になっていた、ブリュッヘンと新日本フィルの演奏会を聴いてきました。ちなみに、ブリュッヘンが日本のオーケストラを振るのは今回が初めてだそうです。意外な感もしますが、その意味では大変に貴重な演奏会です。

さて、当たり前ですが、新日本フィルは古楽器のオーケストラではありません。ですから、18世紀オーケストラと同じ響きは無理なはず…、どうしてもそう思ってしまいます。しかしそれは良い意味で裏切られました。ブリュッヘンには「妥協」という言葉がないのでしょう。現段階の新日本フィルで、これ以上の古楽器的演奏法は不可能でないかと思うほど、彼の解釈は徹底していました。ヴィブラートを極力排して、シャープに音楽の構造を組み立てます。躍動感こそ本家に及ばない感もありましたが、響きの美しさは見事で、見通しの良い演奏がなされていました。

私が一番感銘したのはメインのシューマンです。金管をややきつめに吹かせて全体から浮き出させます。ティンパニはかなり硬めで、歯切れ良くリズムを支えていました。また、この曲では何かとゴチャゴチャしがちな弦も、各パートのバランスに配慮がなされていて、全体としての美しい響きを作ります。さらには、所々で聴かせるエネルギッシュでスリリングなテンポアップも、ゾクゾクするような小気味良さが感じられました。第三楽章の美しい音楽も、ブリュッヘンの手にかかると、過度に入れ込むことがありません。テンポこそやや遅めですが、丁寧な音の積み重ねが堅牢な構成感をもたらします。「中庸の美」を感じました。(もちろん悪い意味ではありません。)この曲で良く語られる病的な部分や、曲そのものの問題をあまり感じさせないシューマンです。聴き応え抜群でした。

休憩前のラモーとモーツァルトは、オーケストラがまだ若干リズムに乗り切れていなのか、ややキレに欠ける部分もあるように思いました。ただ、これは、今後日を重ねる毎に良くなっていくのでしょう。モーツァルトの「パリ」では、第二楽章で第一稿と第二稿を続けて演奏しました。この曲そのものもあまり取り上げられないのに、こうしたサービス(?)がなされるのは大歓迎です。私が元々この曲が好きなせいもありますが、終始、モーツァルトの柔らかな響きにうっとりさせられました。もちろん、ラモーのきらびやかな響きにも同様です。トランペットの眩しい響き。病み付きになりそうです…。

ブリュッヘンは、椅子に座りながら、腰を曲げた前傾姿勢で小刻みに両手を震わせていました。さすがにお年をめされている感はありましたが、音感は抜群に素晴らしいようです。響きの美しさという点で、これ以上の演奏が日本のオーケストラであるのだろうか。そこまで思わせる位、暖かく柔らかい響きがホールを満たしていました。私の体は、頭から足の先まで美しい響きに浸されたようです。幸福感漂う演奏会でした。
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国際交流基金フォーラム 「西ベイルート」 2/12

国際交流基金フォーラム(港区赤坂)
「西ベイルート」
(1998年/レバノン/ジアド・ドゥエイリ監督)
2/12(アラブ映画祭2005・プレイベント)

こんにちは。

先日の三連休の中日は、赤坂の交流基金フォーラムで映画を観てきました。「アラブ映画祭2005」のプレイベントとして上映された「西ベイルート」です。レバノン内戦下の日常を、子どもたちの生活を通して克明に描き出します。一般の映画館でも上映して欲しいと思うぐらい秀逸な作品でした。

ある日突然ベイルートが東西に分断されます。内戦の始まりです。少年たちは一つの街に国境線が引かれたという現実を突きつけられます。「西」在住の彼らは、「東」の学校へ行くことは叶いません。また、ひいきにしていたフィルムの現像店も「東」にある…。戦争は徐々に日常を蝕んでいきます。彼らの父や母はいつの間にか職を失い、生活のための物資も次第に欠乏してしまいます。一体どうなってしまうのでしょうか…。

少年たちは「戦争が日常」となっている毎日を、驚くほど逞しく生きていました。もちろん、学校へ通えないことや、自由に東西の往来ができないことを憂慮していないのではありません。一見、明るく行動する彼らの背後には、「死」が至近距離に迫っています。また、彼ら自身も敏感に「死の匂い」を嗅ぎ付けていたことでしょう。しかしながら、少年たちの好奇心は、危険極まりない分断線を超えて「東」の売春宿へ行ってしまうという驚くべき行動すら起こします。(これが信じられない方法でやり遂げます!)また、彼らの生活を取り巻く人々との人間味溢れる触れ合いや、大きな瞳が印象的な少女との甘い恋は、戦争が刻一刻と進む中でも、彼らの生活が決して止まらないことを印象づけます。

映画を通して見るベイルートの街はとても魅惑的です。少年たちがベイルートを自転車で駆け抜けるシーンには、暖かい日差しと柔らかい風を感じました。何故あんなに美しい街や大地を簡単に破壊してしまうのか。戯言以上の何ものでもありませんが、心の底からそう思いました。「日常としてある戦争」が、ある意味淡々と流れる日々。レバノンの少年の逞しい生活を見ると、逆説的に状況の厳しさが響いてきます。考えさせられました。

ところで、レバノンでは、つい先日、元首相が爆弾テロにて暗殺されるという痛ましい事件が起こりました。報道の完全な受け売りで申し訳ありませんが、今レバノンには、隣国のシリア軍が三万人以上(外務省HPから。)駐留しています。国連やアメリカによれば、それは「問題」であって、シリアは即時に撤退するべきだと主張しています。そして今回のテロは、そのシリアが関係しているとする見方があります…。真相は何処を探しても見つからないのかもしれません。ですが、決して「戦争のある日常」に戻って欲しくはない。惨劇が惨劇を生むことだけは避けて欲しい。この映画を観たことで、その思いが一層募りました。
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ビオッティ氏、急逝。

フェニーチェ歌劇場音楽監督のビオッティさん死去(asahi.com)
ANSA通信が伝えたところによると、イタリア・ベネチアのフェニーチェ歌劇場音楽監督で指揮者のマルチェッロ・ビオッティさんが16日、ドイツ・ミュンヘンで死去した。50歳。

二度もオペラハウスを消失したフェニーチェですが、ここで新たな悲劇が生まれてしまいました。急死…。あまりにも早すぎます。

ビオッティはフェニーチェの音楽監督ですが、日フィルの首席客演指揮者でもあります。2000年には新国立劇場で「トスカ」を振られたこともありました。また5月には、フェニーチェ歌劇場の来日公演も控えていたところです。本当にこれからという時でしたから、ご本人もさぞ無念だったと思います。ご冥福をお祈りしたいです…。
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ミュゼ浜口陽三 「銅版画の地平2 浜口陽三と銅版画の現在」 2/11

ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション(中央区日本橋蛎殻町)
「銅版画の地平2 浜口陽三と銅版画の現在」
2004/11/26~2005/2/27

こんにちは。

木場で「榎倉」と「アニュアル」を観た後は、のんびりと散歩しながら水天宮前のヤマサコレクションへ。lysanderさんイッセーさんDADA.さんの記事を読んで気になっていた浜口陽三の版画展を観てきました。

浜口さんの銅版画は、どれもうっとりするほど質感が豊かです。まず、スイカやレモンなどをかたどる美しい彩色に目が奪われますが、しばらく目を凝らすと、版画の表面に傷がたくさんついているのに気がつきます。これが、浜口独自の銅版画技法である「カラーメゾチント」の成果なのでしょうか。暗い画面にぼわっと浮かぶ深みのある色と、制作の過程を伺い知るような無数の傷。豊かな質感があるのも当然なのでしょう。

「パリの屋根」は、中央部分が柔らかくほのかに光っています。これは、生活の明かりなのか、それとも月明かりが当たっているからなのか。幾何学的な模様である屋根が、この明かりによってポッと優しい表情へ変化していきます。「HANGA展」でも気になった作品ですが、またひと味もふた味も魅力を増していました。本当に素晴らしい作品です。

私が一番気になったのは「びんとレモン」でした。暗闇の中にぽっかりと浮いているようなレモンが一つ。ビンは半分が闇に溶け込むような形で置かれています。ビンの向こう側には、慎重で丁寧に切られたような、美しい切り口を見せるレモンが横たわります。また、レモンの切り口の半分は、テーブル(?)に反射して影として見えています。まるで、びんとレモンがお互いを意識し合うかのようです。絶妙なバランス感覚が見受けられる配置です。もちろん、背後を覆うワイン色と、美味しそうなレモンの色も魅力的でした。こんな作品が部屋にあれば、と思わせるような作品です。

「西瓜」も心に染み入るような深い赤が印象的でした。ザックリと切られた横長の西瓜には、黒い種がポツポツと可愛らしく並んでいます。西瓜の赤色は、まるで西瓜の内部に光源があって、それが表面まで染み渡って浮き出したかのような美しい色です。味わい深い…。心に響く深い赤。他ではなかなか観られません。

赤と言えば「野(赤)」も素敵でした。赤茶けた大地が何層にもなってうねるように横たわります。私はこの作品を観た時、昨年庭園美術館で出会ったノルデの「北フリースラントの夕景」を思い出しました。夕焼けに覆われた大地とじっとりとした薄暗い雲。私には「野」が夕日を反映した作品かどうかは分かりません。ただ、「野」を観ていると、いつの間にか「夕景」が重なってきました。不思議です…。

ギャラリーの地下にも、浜口以外の銅版画がたくさん並んでいました。そちらもなかなか見応えがあります。私が一番好きなのは山口啓介さんの作品でしょうか。

入口付近にカフェスペースがありました。チケットを購入すると200円の金券が貰えるようです。今回は時間が遅かったのでお邪魔しませんでしたが、今度行った際にはご自慢のケーキを食べてみようかと思います。駅の近くにありながら、静かでこじんまりとしたギャラリーでした。(前に見苦しい首都高がなければ、尚更良かったかもしれませんが…。)何だかホッとするような温かい気持ちを貰いました。優しい展覧会です。

*ギャラリーのHPに100円引きの割引券がありました。
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東京都現代美術館 2/11 その2 「MOTアニュアル2005」

東京都現代美術館(江東区三好)
「MOTアニュアル2005 愛と孤独、そして笑い」
1/15~3/21

こんにちは。

榎倉展に引き続き、現代美術館の恒例企画となった「MOTアニュアル」を観てきました。今年のテーマは「愛・孤独・笑い」です。10名の女性のアーティストが自由奔放に芸術表現を繰り広げます。美術館による「暗雲の漂う現代日本→新しい表現の可能性」という思考は全く理解できませんが、彼女たちの表現はそんな境地をとっくに超越していたようです。観る者を、ある時は控えめに、そしてまたある時には激しく挑発してきます。ボヤボヤとしていられません。

ところで、この手の展覧会ですが、私はいつも好き嫌いが分かれてしまいます…。そんな中で特に面白いと感じた方は、澤田知子さんとオノデラユキさんでした。

澤田さんは、以前オペラシティで開催していた「ガール!ガール!ガール!」展でも大いに笑わせていただきました。もちろん今回も強烈です。(上にアップしたチラシにあるのは彼女の作品です。)一見、どこかの女子高の集合写真かと思ってしまいますが、よく見ると皆澤田さんご本人ではありませんか。当然ながら、教師役を除いて全て制服となるので、髪型や化粧などでそれぞれの「個」を出していかなくてはなりません。要するに、大方の人間が一生懸命に「個」を出そうとしてやっていることを、澤田さんはただ一人で全てこなされているわけなのです。皮肉も痛烈です…。何たってそんな行為をあざ笑うかのように、彼女はいとも簡単にそれぞれの「個」を生み出してしまうのですから…。こういう視点、私は好きです。

オノデラユキさんの作品は、美しいシルエットが印象的です。誰だか分からない匿名の人間が数名、立っていたり座っていたりしながら、影としてだけ写っています。そこにいる者は一体どういう人間なのか。そしてそれぞれに関係はあるのか。観る人それぞれが、シルエットに様々な物語を付与できます。感性を自由に働かさせる上に、シルエットの美しさも印象に残る。素晴らしい作品だと思います。是非、他の作品も観てみたいです。

その他の方は、理解出来ない部分も多くありました。それをいくつか取り上げて書いてみます…。

出光真子さんの「直前の過去」は、日本を取り巻く第二次大戦がテーマのビデオアートです。大きなメインの画面に戦争のシーンを延々と流し、手前のスクリーンに幼い子どもの映像を映します。二つの映像を重ねて観るというスタイルそのものは悪くないと思いました。しかし、戦争の殺戮と幼子の対比には興味が湧きません。政治的な話題を絡めながらアートを作り出すのは難しいことかもしれませんが、他の主題であればもっと良かったと思います。

イチハラヒロコさんの作品は、最近あちこちで見かけるように思います。売れっ子の方なのでしょうか。誰もが思い、叫びたくなることを簡潔な文章で表現します。「一生遊んで暮らしたい。」確かにそうかもしれません。ただ、ハッキリとした理由は分かりませんが、「ガール・ガール・ガール!」で観た時ほど面白くありませんでした。展示方法のせいもあったのでしょうか。どうなのでしょう。

岡田裕子さんはぶっ飛んでおられます。そしてそのぶっ飛び様は、私のアドレナリンを一気に放出させたようです。展示室入口にあった仏壇で、上手く丸め込まれそうになりましたが、主婦が暴発する大迫力映像の前では何やら頭に血が上ってくる感覚が…。表現としての面白さなどは分からなくもないのですが、どうしても好きになれません…。ファンの方、ごめんなさい…。

溝口彰子さんの「私の愛する男は私の中で~(長いので以下を省略させていただきます)」。う~ん、この作品は困りました。どのようにして観たら面白いかと、頑張って作品の周りを何回もぐるぐる歩いてみたのですが、どうも伝わってくるものがありません…。ただ、この作品を、美術館の入口か、隣の木場公園の広場にでも置けば面白いかもしれないとは、微かに思いました…。

去年の「アニュアル展」よりは、表現が幅広かったと思います。方向性も多様でした。その点では楽しめたと言えるのかもしれません。しかし、違和感と拒否感を感じてしまう作品も多くありました。Takさんのおっしゃる通り、この展覧会の後、すぐに榎倉展を鑑賞するのは危険な行為だと思います。ですが、さらに可能であるならば「アニュアル」の方を別の日に観た方が良かったかもしれません。その位、二つの展覧会の取り合わせは奇妙でした…。わざと「榎倉」と「アニュアル」をぶつけたのか、そうでないのか…。少し気になるところです。
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東京都現代美術館 2/11 その1 「榎倉康二展」

東京都現代美術館(江東区三好)
「榎倉康二展」
1/15~3/21

木場の現代美術館で開催中の「榎倉康二展」を観てきました。彼のキャリア初期から、材木とカンヴァス、それに「しみ」が静かに交わる後期の作品まで、創作の全貌に触れることができる、企画力と作品の魅力に優れた良い展覧会でした。

榎倉さんの作品は、私が先日観た、藝大美術館の「HANGA展」や近代美術館の「痕跡展」でも静かに存在感を示していました。しかし、今回の個展では、それがさらに大きなものとなって私を圧倒してきます。写真に「しみ」に材木…。様々な表現の組み合わせが、創作の多様な方向性を示していたからでしょうか。それとも、全体を感じることが個々の作品を理解するきっかけとなったのでしょうか。彼の創作の全体を俯瞰しながら回顧的に観ることが、あれほどまでに一つ一つの作品の魅力を高めることとなるとは思いませんでした。どの展示室も美しい魅力に溢れています…。

70年代に制作されたという一連の写真のシリーズからして、榎倉さんが大変に鋭い感性を持っていたことを予感させます。ゼラチン・シルバー・プリントに写されているアスファルトや大きなタイヤ、それにショベルカーが、どれだけの質感をもって美しく輝いてくることでしょう…。直線的な光が差し込んでいるような「窓」も、その中に物語性を全く感じさせないような極限の抽象美がありました。もし、彼が写真家として活動して、後期の「しみ」の作品がなかったとしても、私はこれらの写真だけで、十分に彼の世界へ惹き込まれたことと思います。

写真の次のセクションにあったのは「予兆」というシリーズです。この辺りから、彼独自の視点と感覚が現れ始めます。現美のHPにも載っている「予兆-床・手」(1974年)という作品は、先ほどの写真のシリーズで見せたような、繊細な感性を露にする「美」が感じられました。それぞれの作品はあまり大きくありませんが、こういう作品は、周囲の空気を一変させる力があるようです。

綿布と「しみ」を使った「Figure」は、残念ながら、その意味を感じとることはできませんでした。しかし、作品の配置から素晴らしく、全体の雰囲気とその大きな魅力をたっぷりと味わうことはできたと思います。ところで、彼の作品は、一瞥しただけで何かを得られるような、力強い主張を持つものではありません。その点でこの「Figure」と、次のセクションの、材木を使った「干渉」のシリーズは、それぞれの作品の関係性や存在感がゆっくりとゆっくりと伝わってくる、とても繊細でかつ静謐な作品です。これらの作品が配置されている展示室へ入ると、まず、いくつかの「しみ」や布、それに材木が目に飛び込んできます。そしてそれらを眺めながら別の角度を向くと、また異なった「しみ」が見えてきます。こうした作業を何回か繰り返しながら鑑賞すると、やがてある時、それぞれの作品が共鳴し合って一つとなるように、穏やかに主張し始めるようです。単に「しみ」や材木を、「もの」としてだけ捉えても良いのかもしれません。しかしじっと眺めていれば、それが「もの」だけではなく、背後にある作者の感覚や意図が、何となしに示唆してくるように感じるのです。会場にいた監視員の方に聞くと、これらの作品は、学芸員の方の独自の視点によって配置されたそうですが、もしそこに別の作品が入り込んで、今と異なった空間を構成していたらどうなったのか。そんなことも考えました。ともかく「Figure」と「干渉」は、一時間でも二時間でも前に立っていたい、そう思わせるような穏やかな雰囲気と不思議な魅力があったと思います。(「Figure」にある「無題」(1988年/国際美術館蔵)はあまりにも巨大すぎて、一回でその全貌に触れるのは不可能とさえ思いました。観れば観るほど魅力が増してくる。そんな凄まじい作品です。)

「エスキース」のコーナーでは、榎倉さんが、どのようにして一連の作品に対峙していたのかが、ある程度分かるように構成されています。短い言葉で示された作品への思考は、本人だけしか理解し得ないものかもしれません。しかし、「ただ即物的に。」とか「つなぎのない画面は非日常的である!」などの指示を読むと、彼がどれだけ細やかに、そしてある時には大胆に作品に向かっていたのかが、よく感じられるように思いました。

ところで、一階にあった「干渉」の一つの作品には驚かされました。何故なら、その作品の材木には青色が配され、それがまるでカンヴァスに打ち込んでいくような動きをしていたからです。大変に動的です。ただ色があるだけで、それまで観てきた「干渉」とは全く異なった雰囲気を醸し出しています。もしかしたら、色の変化だけでは語れない要素があるのかもしれません。しかし一体どういうことなのでしょうか。作品の存在感も大きく異なっています。これは意外です。

全ての作品に共感できたわけではありません。何かの強迫観念に迫られているように感じた初期の平面作品や、パフォーマンス・アートには少々首を傾げたくなるものもありました。しかし、写真と「しみ」はなかなかに素晴らしい。最近妙な路線へ走っている気もする現代美術館ですが、本当に味わい深い展覧会をしてくれたものです。祭日にも関わらず、とても空いていて残念でしたが、本当に良いものを観たときだけに感じられるような充足感を味わうことができました。万人受けするとは思えませんが、静謐な空間と穏やかな表情に触れたい方には、是非おすすめできる展覧会だと思います。
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Breakステーションギャラリー「東京芸大 ストリート!2005」展 Part1

JR上野駅Breakステーションギャラリー(台東区上野)
「東京芸大 ストリート!2005」展 Part1
1/29~2/28

今日は、feltmountainさんのブログを拝見させていただいて、少し気になっていた展覧会を覗いてきました。ところで、feltmountainさんによれば、芸大とJRの提携は今に始まったことではないそうです。しかし、私は、今回このような企画があることを初めて知りました。改札外とは言え、駅の中でしかも夜11時まで観覧が可能なのですから、帰宅途中にでも気軽に立ち寄ることができます。悪い企画ではありません。

今回のPart1で展示されていた作品は全部で六点でした。会場にあったパンフレットには、「イキのいい芸大生の作品をご覧下さい。」と紹介されていましたが、確かにそうとも感じられる作品が多かったように思います。ただ、大変失礼ながら、私には特段に面白いと思ったものはありませんでした。しかし、このような公共の空間で作品を提示していく行為が、彼らの表現意欲をさらに掻き立てることになれば、それはとても良いことなのかもしれません。

全身をセロテープで巻き、皮膚を転写した作品(山口実加さんの「SAY SHE」)や、展示スペースを抜け出し、布に隠れながら電車に乗るまでの過程を表した作品(谷上周史さんの「bust out scheme」)は、表現のスタイルとして面白い作品となるのでしょう。日本画専攻一年生の上野直美さんの「銀の野原」は、自然の景色を素直に彩色したような柔らかい表現に好感が持てました。

さて、最後に文句を言わせていただきますが、この手の企画は、実行するだけではなく、出来るだけ多くの方に観てもらうことも重要だと思います。しかしその点で、この展覧会はお話になりません…。展覧会を告知する宣伝は、駅構内で殆ど目につきませんし、展示会場も、前もって調べておかないと、まず分からないような場所です。偶然通りかかって観てくれる方もどれだけおられるか…。「学生なのだから、発表する機会があるだけ恵まれている。」とも言えるのでしょう。しかし、折角このような企画をしたのですから、もっと認知度を高める努力をして欲しいと思います。明らかに宣伝不足です。作品が、駅の喧噪に掻き消されてしまうかのように、寂しく置かれているのは、少々痛ましく感じました…。残念です。

3月にはPart2も開催されるそうです。そちらもまた観たいですね。
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ユーロスペース 「ベルリン・フィルとこどもたち」 2/6

ユーロスペース(渋谷区桜丘町)
「ベルリン・フィルとこどもたち」
(2004年/ドイツ/トマス・グルベ+エンリケ・サンチェス・ランチ監督)
2/11まで

先日、lysanderさんのブログを読んで気になっていた「ベルリン・フィルと子どもたち」を観てきました。美しい余韻に浸ることのできる、素敵なドキュメンタリー映画です。

世界最高のオーケストラと、ベルリン在住の250名の子どもたち。何の接点もないような両者が一つとなって、素晴らしい芸術を作り上げていく。そこには、純粋な音楽の世界を離れた、このプロジェクトに参加した全ての人間の情熱が結集された「春の祭典」があります。各々の多様な価値観と生き様。それが一瞬間だけでも一つになると、誰もが驚くほどの力を生み出すようです。本番を終えた子どもたちの表情には、その驚異的な力を感じた人間だけが表せるような歓喜と、達成感の後の美しい清々しさを見て取ることが出来ました。

邦題よりも、原題の「RHYTHM IS IT!」の方がこの映画を適切に示しているようです。芸術は思想だけの産物でなく、身体が元来持つ力からも生み出される。そんな至極当然なことを、私はベルリンの子どもたちから学びました。もちろん、殆どの子どもたちは、嫌々ながらこのプロジェクトに参加した、もしくはさせられたのでしょう。「春の祭典」など耳障りな雑音とでも言いたげな子どもたち。不貞腐れた面倒くさそうな表情。もちろん、映画では描ききれなかった、きれいごとではない事情もあったに違いありません。しかし、子どもたちが全身を使ってエネルギーを獲得し放出していく様子。このプロジェクトへ懸けるラトルの意気込みはもちろんのこと、振付師のロイストンの個性は強烈です。愛することに徹底して取り組んできた人間は目が違うのでしょうか。温かさと厳しさの両方を持つ眼差し。彼の前では子どもたちも真剣にならざるを得ません。

先ほども書きましたが、このプロジェクトには、映画では登場しなかったような困難な出来事もあったのでしょう。また、一体感を得た後の感動には、時折、盲目的でしかない喜びを生む危険性もあります。ベルリン・フィルは、このプロジェクトを終えた後でも、すぐに再び芸術の力を触ることが出来る。しかし子どもたちはどうなってしまうのか。もしかしたら、また倦怠感を生むような毎日を送ってしまうのかもしれない。しかし、「春の祭典」の驚異的なリズムに乗ったという経験と記憶は、きっと彼らの意識と身体を変革させていくきっかけとなる。少なくとも私はそう信じたいと思います。

ところで、この映画は「文部科学省指定」とされていましたが、子どもたちだけでなく、大人たちこそが観るべき内容だと思いました。日常とは概してつまらないものの連続かもしれません。しかし、「映画の中の子どもたちが置かれている日常とは全然違う。」と自信を持って言えるような、アグレッシブな自己を持った大人がどれほどいるのでしょう。(もちろん、私も含めてですが。)そして、ロイストンのように、人生を懸けて子どもたちと接することがどれだけあるでしょうか。ちょっと話が脱線してきました。

ベルリン・フィルの演奏やリハーサルのシーンもかなり登場します。クラシックファンとしては、その点でもかなり見応えがありました。また、「春の祭典」の演奏は、この映画に合わせてCDがリリースされたようです。抜群のリズム感を持つラトルのことですから、きっと素晴らしい演奏だと思いますが、CDを聴いてその世界を少しでも共有できたら良いとも思いました。
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うらわ美術館 「フルクサス展」 2/5

うらわ美術館(さいたま市浦和区仲町)
「フルクサス展-芸術から日常へ」
2004/11/20~2005/2/20

こんにちは。

先日のブログにも書きましたが、土曜日にうらわ美術館でフルクサス展を観てきました。何でも「開館五周年記念事業」とのことで、毎週土曜日は無料(!)なのだそうです。素晴らしい試みです。

さて、この展覧会、表題の「フルクサス」の意味を知らなくても大丈夫です。フルクサスの歴史的背景とその展開が丁寧に説明されているのはもちろんのこと、実際にフルクサス・アートを体験できるコーナーまであります。フルクサスが、パフォーマンスと出版を拠り所にしたことを考えると、この展覧会は「あらゆる手段を使って、至極真っ当なフルクサス像を提示していた。」とも言えるのでしょう。

と、ここまでフルクサスについて偉そうに書かせていただきましたが、私、この展覧会の存在を知るまで「フルクサス」の「フ」も知りませんでした…。ですから、ジョン・ゲージの「4分33秒」が、会場でフルクサス・アートとして紹介されていたのには驚かされましたし、いつ観てもその良さが分からないオノ・ヨーコの作品も、フルクサスの流れに位置付けられるのだとは思いもよりませんでした。とても勉強になります…。

ラケットに様々な細工がしてある卓球を、人の迷惑も省みずに何分もゲームに講じたり、「あなたもこれで『現代作曲家』!」と言わんばかりの、鍵盤に石が置かれた自由に音の出せるピアノを触ったり、壁のカンヴァスに釘をトントンと打ち付けたり…。たくさんのフルクサスな行為に参加しながら、その意義を感じようと努力はしました…。

ハッキリ申しまして、私は、少なくともこの展覧会に並べられていたフルクサス・アートに殆ど魅力を感じません。捻りの加えられた卓球台が美術館にあることがそんなに面白いのでしょうか。皆で一緒に釘を打ち付けて、それで?…。良くわかりませんが、ある種の虚しささえ感じてしまいました…。

フルクサスが反芸術的な意義を持っていた時代があったのでしょうか。当時のフルクサス・アートを映像で紹介するコーナーもあって、そのビデオからはフルクサスに力があった時代の雰囲気が良く伝わってきました。しかしそれも、私が今見る限りでは恐ろしいほど退屈なのです…。もちろん、私なんぞがフルクサスの価値を否定できません。しかし、そこに笑いやある種の皮肉が込められたとしても、それを全く捉えられないのです。もちろん、これは私の感受性が鈍いせいもあるかもしれません。それにもしかしたら、それぞれの作品を「フルクサス」という枠に組み込むと面白くなくなるのかもしれません。そしてその「つまらなさ」もフルクサスの持つ意味の一つなのかもしれません…。色々考えましたが、どうもはっきりしませんでした…。

展覧会の構成は実にしっかりしています。国内でこれだけまとまった形でフルクサスを紹介することも珍しいそうです。その点では、今回のうらわ美術館の企画は、称賛に値する素晴らしいものだったと思います。フルクサスの潮流は感じました。しかし作品の面白さを共有するのは難しい…。理解不能と言うより、妙な違和感さえ感じるものもありました。う~ん、どうなのでしょう…。
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