モーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」 新国立劇場 2018/2019シーズン

新国立劇場 2018/2019シーズン
モーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」
2019/5/19



新国立劇場でモーツアルトの「ドン・ジョヴァンニ」を聞いてきました。

今シーズンの「ドン・ジョヴァンニ」は、2008年にグリシャ・アサガロフによって演出されたプロダクションで、4度目の上演を迎えました。原作はスペインのセヴィリアに設定されているものの、アサガロフはドン・ジョヴァンニの存在を、18世紀に生きたカサノヴァに置き換えたため、イタリアのヴェネツィアが舞台とされていました。

演出は基本的にオーソドックスなスタイルで、歌手が特に忙しなく動くこともなく、歌をじっくり聴かせるものでしたが、ラストのシーンで印象に残ったのが、エルヴィーラの振る舞いでした。とするのも、例の地獄落ちの場面のあとの6重唱において、エルヴィーラが、ステージ上に残されていたドン・ジョヴァンニの遺品を身につけて去ったからでした。ここにエルヴィーラのドン・ジョヴァンニへの複雑な感情が示されていたのかもしれません。

歌手陣は総じて充実していました。中でもドン・オッターヴィオのフアン・フランシスコ・ガテルは、後半のアンナを慰めるアリアを、ニュアンスのある美しい歌声で見事に歌いきっていました。そして既にイタリアの各歌劇場で人気を博し、新国立劇場初登場で話題となったエルヴィーラの脇園も、尻上がりに調子を上げていました。特に2幕の「あの恩知らずは私を裏切り」では、エルヴィーラの変化する心境を、声量豊かな声と演技の両面で巧みを表現していて、役になりきった様子が客席までひしひしと伝わってきました。また常に安定した歌を披露したドンナ・アンナのマリゴーナ・ケルケジと、演技を含め芸達者だったマゼットの久保和範とツェルリーナの九嶋香奈枝のコンビも印象に残りました。



劇を支える音楽も充実していました。とりわけオーケストラを引っ張った、カーステン・ヤヌシュケの緩急のついた指揮が良かったのではないでしょうか。聴かせどころのアリアなどではテンポを落とし、腰を据えて歌手に寄り添う一方、重唱や劇が動くシーンでは、ギアを上げて、歯切れ良く、なおかつドラマティックな音楽を作り上げていました。また美しい音色を響かせていた木管を中心とする東フィルも、ヤヌシュケのタクトに良く反応して、モーツァルトの優美な音色を小気味良く奏でていました。若々しく、また瑞々しいモーツアルトの音楽だったと言えるかもしれません。


カーテンコールではエルヴィーラの脇園をはじめ、ドン・オッターヴィオのフランシスコ・ガテルを中心に、総じてどのキャストにも惜しみない拍手が送られていました。また脇園がプロンプターボックスの中へも手を差し伸べていたのも心にとまりました。



ルイジ・ペーレゴの美しい舞台装置も忘れられません。歌手、オーケストラ、そして舞台演出が良くまとまった好演でした。

新国立劇場@nntt_opera) 2018/2019シーズン 「ドン・ジョヴァンニ」
作曲:ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
台本:ロレンツォ・ダ・ポンテ

指揮:カーステン・ヤヌシュケ
演出:グリシャ・アサガロフ
美術・衣裳:ルイジ・ペーレゴ
照明:マーティン・ゲプハルト
再演演出:三浦安浩
舞台監督:斉藤美穂

キャスト
ドン・ジョヴァンニ:ニコラ・ウリヴィエーリ、騎士長:妻屋秀和、レポレッロ:ジョヴァンニ・フルラネット、ドンナ・アンナ:マリゴーナ・ケルケジ、ドン・オッターヴィオ:フアン・フランシスコ・ガテル、ドンナ・エルヴィーラ:脇園彩、マゼット:久保和範、ツェルリーナ:九嶋香奈枝

合唱指揮:三澤洋史
合唱:新国立劇場合唱団
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
芸術監督:大野和士

2019年5月19日(日)14時 新国立劇場オペラ劇場
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モーツァルト「魔笛」 新国立劇場 2018/2019シーズン

新国立劇場 2018/2019シーズン
モーツァルト「魔笛」
2018/10/14



新国立劇場で「魔笛」を聞いてきました。

大野和士芸術監督第1シーズンに当たり、2018/2019シーズンの開幕公演を飾ったのは、モーツァルトの「魔笛」でした。

上演されたのは、南アフリカ共和国に生まれ、いわゆる「動くドローイング」を制作する現代美術家のウィリアム・ケントリッジのプロダクションでした。そして「魔笛」は、2005年にモネ劇場で初演された過去のプロジェクションであるものの、今回の上演に際して、最先端の技術に見合うに組み立てられたため、映像に大きく手が加えられ、全て撮り直されました。なおケントリッジは、「魔笛」ののちに、ショスタコーヴィッチの「鼻」やベルクの「ルル」のオペラの演出を手がけたことでも知られています。

冒頭から、「動くドローイング」が舞台上で躍動しました。劇の進行に合わせて、光の線が弧を描くように進み、月に太陽、そして天体望遠鏡や鳥かご、さらにメトロノームに図形的な模様、はたまたフリーメイソンの象徴でもあるプロビデンスの目が現れては消えて行きました。ドローイングによる場面転換がダイナミックで、森林が左右に展開し、神殿の扉が奥へと開く様子は、さも実際の舞台が前後左右に動いているかのように見えました。ケントリッジによれば、「闇と光が反転し得る関係が決定的になった」19世紀を舞台としていて、単に善悪、夜の女王とザラストロを対峙させてはいませんでした。

特に印象的だったのは、動物のサイの扱いでした。タミーノが笛を吹く場面では、サイは楽しそうに踊り、手懐けられていた一方、ザラストロのアリア「この聖なる神殿では」では、高らかに博愛を歌い上げる背景に、植民者におけるサイ狩りの映像が映されてました。ザラストロは啓蒙の時代の象徴ではあったものの、それと表裏一体の関係にもあった支配や暴力の問題が示されていたのかもしれません。



とはいえ、全体として大胆な劇の読みかえはなく、人の心情を示したり、舞台の場面を表現するなど、「動くドローイング」は、終始、モーツァルトの音楽に逆らうことなく、スムーズに展開していました。またレチタティーボが、ピアノによる即興的な音楽で補完されていたのも特徴的で、アリアや重唱への繋ぎ渡しをしていて、中にはピアノ協奏曲から引用したフレーズもありました。

歌手陣では、日本人キャストが健闘していました。特にタミーノを半ば導き、自身も成長を遂げていくパミーナの林正子と、劇の進行にとって欠かすことの出来ない童子を歌った前川依子、野田千恵子、花房英里子の3人が安定していました。また夜の女王の安井陽子も、2つのアクロバットなアリアを一気に歌い上げていました。さらにモノスタトスの升島唯博も芸達者でした。一方で外国人キャストは、ザラストロのサヴァ・ヴェミッチが声量こそあったものの、音程が不安定だったように聞こえました。

ローラント・ベーアは、以前、ミラノ・スカラ座で公演された、ケントリッジの「魔笛」の指揮を務めた人物でした。やや緩急をつけながら、ピリオド奏法を思わせる小気味良いリズムが印象的で、東フィルを巧みに操っていただけなく、歌手陣にも寄り添っては、うまく音楽をまとめ上げていたのではないでしょうか。東京フィルハーモニー交響楽団も、特に後半はベーアの指揮によく応えていました。



私自身、オペラを生で鑑賞するのは、実に9年ぶりだけあり、久々に「魔笛」、そして何よりも晩年のモーツァルトに特有の清明な音楽をじっくり味わうことが出来ました。カーテンコールは落ち着いたものでしたが、いつもながらに力強い美声を響かせていた新国立劇場合唱団を含め、どのキャストにも惜しみなく拍手が送られていました。


新国立劇場@nntt_opera) 2018/2019シーズン 「魔笛」
作曲:ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
台本:エマヌエル・シカネーダー

指揮:ローラント・ベーア
演出:ウィリアム・ケントリッジ
演出補:リュック・ド・ヴィット
美術:ウィリアム・ケントリッジ、ザビーネ・トイニッセン
衣裳:グレタ・ゴアリス
照明:ジェニファー・ティプトン
プロジェクション:キャサリン・メイバーグ
映像オペレーター:キム・ガニング
照明監修:スコット・ボルマン
舞台監督:髙橋尚史

キャスト
ザラストロ:サヴァ・ヴェミッチ、タミーノ:スティーヴ・ダヴィスリム、夜の女王:安井陽子、パミーナ:林正子、パパゲーノ:アンドレ・シュエン、パパゲーナ:九嶋香奈枝、モノスタトス:升島唯博、弁者・僧侶I・武士II:成田眞、僧侶II・武士I:秋谷直之、侍女I:増田のり子、侍女II:小泉詠子、侍女III:山下牧子、童子I:前川依子、童子II:野田千恵子、童子III:花房英里子

合唱指揮:三澤洋史
合唱:新国立劇場合唱団
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
芸術監督:大野和士

2018年10月14日(日)14時 新国立劇場オペラ劇場
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新日本フィル定期 「ベートーヴェン:ミサ・ソレムニス」 メッツマッハー

新日本フィルハーモニー交響楽団 第531回定期演奏会(トリフォニー・シリーズ)

ツィンマーマン 管弦楽のスケッチ「静寂と反転」
ベートヴェン 「ミサ・ソレムニス」ニ長調

ソプラノ スザンネ・ベルンハルト
メゾ・ソプラノ マリー=クロード・シャピュイ
テノール マクシミリアン・シュミット
バス トーマス・タッツル
合唱 栗友会合唱団
管弦楽 新日本フィルハーモニー交響楽団
指揮 インゴ・メッツマッハー

2014/10/4 14:00~ すみだトリフォニーホール



インゴ・メッツマッハー指揮、新日本フィル定期のベートーヴェン「ミサ・ソレムニス」を聞いて来ました。

2013年に同フィルの「Conductor in Residence」に就任したインゴ・メッツマッハー。新シーズン開幕となる定期演奏会です。

さて曲はツィンマーマンの「静寂と反転」にベートヴェンの「ミサ・ソレムニス」。入口で解説の冊子をいただいた際、中に以下のような文章を記した一枚の紙が差し込まれていました。

「本公演では、指揮者の強い希望により、1曲目と2曲目の間には、途中休憩がございません。1曲目と2曲目は続けて演奏いたします。予めご了承ください。」

「静寂と反転」はおおよそ10分程度、しかしながらメインのミサソレが80分強の演奏時間であることを考えると、休憩があってもおかしくはない。そこを「指揮者の強い希望」により通して演奏する。もちろん希望とは何らかの演奏効果を意図してのことなのでしょう。一体どのような演奏になるのかと期待しながらともかくは耳を傾けてみることにしました。

結論から言えば、確かに1曲目と2曲目には切れ目がなかった。しかもほぼアタッカ、「静寂と反転」から間髪入れずにミサソレへと移行したのです。

「静寂と反転」は作曲家の最晩年の音楽です。「反転」とあるように、音の断片的なモチーフが現れては消えてゆく。解説に「幻聴」とありましたが、確かに細やかに変化する音楽の表情はどこか虚ろで、「静寂」というよりも「沈黙」が支配するような音楽でもあります。

そのラスト、張り詰めた緊張感の中でのピアニッシモ、ホールに溶けていくかのように静まった瞬間、今度はベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」が始まりました。どうでしょうか。キリエの静かながらも豊潤な響き、まるで「静寂と反転」が彼岸か宇宙の音楽とすれば、ミサソレはまさに地上、人間のための音楽です。曲は次第に力強くなり、鎮魂のためというよりも、生命賛歌を思わせるように高らかに鳴り響きます。

解説によれば両者に通底するのは「D」の音。確かに全く異なる音楽でありながらも、その連続に違和感はありません。天から地へと降りた音楽が、聞く者を優しく包み込む。かつてないほどにミサソレの冒頭が美しく聴こえてきました。

メッツマッハーに率いられた新日フィル、好演と言えるのではないでしょうか。ドライブ感があるからか、グローリアやクレドでのリズムも見事。それでいて単に力押し過ぎることはなく、先にも触れたピアニッシモ方向にも繊細な意識が払われている。合唱は男声に特に美しさを感じました。

実のところミサソレ、これまでなかなか馴染めない曲でしたが、今日ほど表情豊かに思えたことはなかったかもしれません。

メッツマッハーと新日フィル、これからもプログラミングを含めて期待出来るのではないかと思います。
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都響スペシャル 「マーラー交響曲第10番」 インバル

東京都交響楽団 都響スペシャル

マーラー 交響曲第10番嬰へ長調(クック補完版)

管弦楽 東京都交響楽団
指揮 エリアフ・インバル

2014/7/20 14:00~ サントリーホール



エリアフ・インバル指揮、都響スペシャルの「マーラーの交響曲第10番」を聞いてきました。

2012年秋よりインバルとのコンビでマーラチクルスを展開して来た東京都交響楽団。かつてはベルティーニとのチクルスも行われた。このところコンサートから遠ざかっている私ですが、やはり国内でのマーラー演奏といば都響というイメージは依然として強くあります。

そしてマーラーは私も好きな作曲家の一人。振り返っても順に9番、5番、7番に1番、3番、そして2番等々、これまでにもいくつかのオーケストラのコンサートに出かけたものでした。

ただし10番を実演で聞くのは今回が初めて。CD演奏では確かラトル盤を何度か耳にしたことがある程度に過ぎません。そして正直なところ他の交響曲に比べてあまり強い印象を持ちませんでした。言うまでもなくマーラが没した段階では10番は完成していなかった作品。当時、演奏可能の状態にあったのは第1楽章と第3楽章の冒頭のみだったそうです。

「マーラー:交響曲第10番(D.クック復元版)/インバル/フランクフルト放送交響楽団」

さてほぼ前提知識なしでのコンサート。結論から言えば素晴らしかった。曲はクック補完版。そもそもインバルは若き頃クックが補完版を作る段階で本人と議論したこともあったとのこと。まさにスペシャリストによる演奏とも言えるわけです。

第1楽章は第9番の雰囲気を思わせる静謐でかつ時に抒情的なアダージェット。この日の都響はどちらかと言うと尻上がりに調子をあげていった感もありますが、それでも重なり合う弦の響きは美しい。第2、第3楽章のスケルツォとプルガトリオ、細かい部分ではやや難もあったかもしれません。ただそれでも錯綜する主題を巧みに表現する。そもそも10番、全体的に感動的云々よりもアイロニカル、どこか物事を斜めに捉えたかのような視点があります。

作曲時のマーラーの複雑な心境や精神状態を反映してゆえのことでしょうか。都響はそれを包み隠さずに示します。マーラー的なうねりはお手の物。特有のリズム感はいささかも損なわれることがありません。それでいて堅牢に音楽は構築されています。ここはインバルのタクトの為せる技なのでしょう。万華鏡のように変化するリズムに酔いしれました。

第4楽章から第5楽章にかけての大太鼓、かのハンマーを超えるほどに衝撃的な一撃です。何という乾ききった響きなのでしょうか。頭を何度も殴るかのように響く大太鼓。痛烈の極みである。葬列を意味したとも言われる表現。しかしながらあまりにも執拗、何度も繰り返されることでまた別の意味を持ち得るのかもしれません。繰り返される太鼓の不気味なまでの響きに思わず背筋が寒くなりました。

フィナーレ、ここで殆ど唐突なまでに第1楽章の主題が帰ってきます。まるで各地を彷徨い、旅した者が、さも安息の地へと舞い戻ったかのような調べ。インバルは「死後の世界で書かれた」ともいう第10番。9番がこの世との告別であれば、確かにそうとも言えるかもしれません。ただラストのラスト、再度上昇しては叶わずに果てて消えてゆく旋律を聞くと、ひょっとするとマーラーは何も9番で死を迎えたわけではない。第10番こそ臨終の前に夢見た自らの一生を回顧した時の音楽ではないか。漠然とながらもそのような気がしました。

「マーラーー没後100年総特集/文藝別冊/河出書房新社」

クック補完版。驚くほどの説得力をもって演奏した都響とインバルです。終演後は大きな拍手の渦に包まれたのは言うまでもありません。チクルスのフィナーレを飾るのにも相応しい名演です。インバルはオーケストラが下がった後も再度ステージに拍手で呼ばれました。私にとっても久々に一期一会のコンサートとなりました。
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「ロシア音楽でたどるレーピン展」 Bunkamuraザ・ミュージアム

Bunkamuraザ・ミュージアム
「ロシア音楽でたどるレーピン展」
9月23日(日) 19:30~



Bunkamuraザ・ミュージアムでの「ロシア音楽でたどるレーピン展」に参加してきました。

あえて「魂の肖像画家」と申し上げたい、迫力ある肖像画を数多く残したロシアの画家、イリヤ・レーピン(1844~1930)。


「レーピン展」展示室風景

そのレーピンの画業を辿る展覧会が今、Bunkamuraザ・ミュージアムで開催中ですが、彼の生きた19世紀末から20世紀前半のロシアは、音楽においても錚々たる作曲家を輩出した黄金時代であったことをご存知でしょうか。

この「ロシア音楽でたどるレーピン展」は、まさにレーピンと同時代の音楽を生の弦楽四重奏で楽しめるというイベント。

出演は主にN響の他、ソリストでもご活躍中の4名の演奏家。

斎藤真知亜(ヴァイオリン)
森田昌弘(ヴァイオリン)
村松龍(ヴィオラ)
村井将(チェロ)


レーピンも肖像を描いたムソルグスキーの「展覧会の絵」(プロムナード)をオープニングに、以下のプログラムが演奏されました。

ボロディン「スペイン風セレナード」
ボロディン「弦楽四重奏曲第2番より夜想曲」
チャイコフスキー「弦楽四重奏曲第1番よりアンダンテ・カンタービレ」
ショスタコーヴィチ「弦楽四重奏のための2つの小品よりエレジー」
ショスタコーヴィチ「弦楽四重奏曲第2番第4楽章」


さて絵画を前にしての息のあった演奏はもちろんのこと、もう一つ充実していたのがヴァイオリンの斎藤さんのトーク。

ご自身のロシアでの体験を交え、ロシア音楽とは何かといった内容などについてを分かりやすく語って下さいました。


「レーピン展」展示室風景(ちょうどこのスペースでコンサートが行われました。)

その中で印象深かったのが、冬はすこぶる寒く、雪に閉ざされたロシアにおいて、南方、つまり暖かい地方に対する憧憬もあるのではないかということ。それは今回のプログラムのチャイコフスキーの音楽から感じられるとのお話でした。

またロシア音楽にはある意味での二面性、つまり土着的でかつ誰もが共感し得るような民謡の要素と、もう一つ、全体主義体制下におけるどこか抑圧された苦悩のようなものが平行してあるのではないかという鋭いご指摘も。

そしてその二面性こそが、ショスタコーヴィチの音楽に顕著ではないでしょうか。

どちらかと言うと彼の活躍した時代はレーピンより後ですが、例えば演奏された比較的初期の「弦楽四重奏曲第2番」における明と暗、また美しい旋律の中に潜む暗鬱で重々しい表情には、確かにそうした面があるのかもしれません。


左:イリヤ・レーピン「作曲家モデスト・ムソルグスキーの肖像」1881年 国立トレチャコフ美術館

さてレーピン展もいよいよ佳境。会期も10月8日までと残り2週間ほどです。

「レーピン展」 Bunkamura ザ・ミュージアム(拙ブログ・プレビュー記事)

幸いにして鑑賞環境は抜群、土日でもゆったりと見ることが出来ます。

ザ・ミュージアム「国立トレチャコフ美術館所蔵 レーピン展」館内紹介


ロシアの雄大な自然とドラマテックな人間模様を描いたレーピンの一大回顧展、是非ともお見逃しなきようおすすめします。

「国立トレチャコフ美術館所蔵 レーピン展」 Bunkamura ザ・ミュージアム
会期:8月4日(火)~10月8日(月・祝)
休館:会期中無休
時間:10:00~19:00。毎週金・土は21:00まで開館。
料金:一般1400(1200)円、大学・高校生1000(800)円、中学・小学生700(500)円。
 *( )内は20名以上の団体料金。
住所:渋谷区道玄坂2-24-1
交通:JR線渋谷駅ハチ公口より徒歩7分。東急東横線・東京メトロ銀座線・京王井の頭線渋谷駅より徒歩7分。東急田園都市線・東京メトロ半蔵門線・東京メトロ副都心線渋谷駅3a出口より徒歩5分。

注)写真は報道内覧会時に主催者の許可を得て撮影したものです。
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「Concerto Museo/絵と音の対話:抽象芸術の相即」  東京国立近代美術館

東京国立近代美術館
「Concerto Museo/絵と音の対話:抽象芸術の相即」
8/12 15:00~



東京国立近代美術館で開催された「Concerto Museo/絵と音の対話:抽象芸術の相即」へ行ってきました。

大規模リニューアル中の東京国立近代美術館、秋までの改修期間中は通常の常設展もクローズされていますが、その間、様々なイベントが行われているのをご存知でしょうか。

夏のスペシャルプログラム カレンダー@東京国立近代美術館

そうした夏の東近美のスペシャルイベントの第一弾が、今回の「Concerto Museo/絵と音の対話」です。

テーマは絵画と音楽、3日間限定です。会場はもちろん東近美の館内。このイベントのために選定された所蔵作品を背景に、クラシック演奏家によるミニコンサートが行われました。



というわけで私が聞きに行ったのは最終日の回、タイトルは「抽象芸術の相即」です。

リヒターの「抽象絵画(赤)」や大観の「或る日の太平洋」を前にして、東フィル首席チェリストの渡邉辰紀が以下の演目を演奏しました。

ヨハン・セバスチャン・バッハ:無伴奏チェロ組曲第6番
スティーヴ・ライヒ:チェロ・カウンターポイント
黛敏郎:BUNRAKU
カール・ヴァイン:インナーワールド


1曲目はチェリストの聖典とまでにうたわれるバッハの無伴奏チェロ組曲から6番。当然ながら通常のコンサートホールとは異なる異空間、いつもと違う雰囲気で大変ではなかったかとも推測されましたが、そこは渡邉も落ち着いてチェロ、そしてバッハと対峙します。

ともかく印象に深かったのは、非常に情熱的な演奏であったということです。時に嘆き悲しむような感情豊かなフレーズで、切々と、また高らかにバッハの旋律を歌い上げます。

そして2曲目は私も大好きなライヒから「チェロ・カウンターポイント」でした。

かの原初的でかつ力強いリズムがチェロから激しく刻まれます。また注目は会場内に設置された7つのパートの多重録音です。

スピーカーを効果的に用い、広がる音場、そしてそこへ脳を覚醒させるような覚醒的なリズムは、まさにライヒの真骨頂ではないでしょうか。見事な演奏でした。

3曲目の黛は今、何かと話題の文楽から、その音を西洋音楽へと転化させようと試みた作品です。

ここでも渡邉はチェロを時に叩くなどをして音を出し、確かに黛の意図したBUNRAKUの響きを引き出します。

最後のカール・ヴァインでもライヒと同様、スピーカーが引用され、コンピューター処理されたチェロの分断的な音と、渡邉自身のチェロの音が複層的にも合わさり、創造性に富んだ音楽的空間を作り上げていました。



開演前には本展を担当した学芸の方と、プログラム構成を行った浅岡洋平氏との間でトークが行われました。

そこではタイトルの「相即」とは仏教用語で二つの相反するものが溶け合っていく様を指すこと、またそれは絵画と音楽を繋ぐ際にも有用なキーワードではないかと語られ、さらには演奏プログラムと展示作品(絵画)の関係等についてのレクチャーへと続きました。

その中で一つ具体的な例として面白かったのは、例えば大観の墨絵なり絵画平面と接するのは筆、つまり動物の毛であるのが、チェロという弦楽器の弦と弓(弓は馬の毛で出来ている。)の関係に似ているという話です。そしてともに両者をこすり合わせることで、一つの表現を行っているという共通点もあるのではないかとの指摘もなされました。

また黛は西洋楽器で文楽の音を表した一方、横山は日本画の素材でNYの景色を描いた、その双方にも類似点がある、というような話もありました。

それにキャンバス平面は音楽の楽譜であり、それに向き合う鑑賞者は、音楽で言えば楽譜を解釈する演奏者にあたるのではないかという話も示唆に富んでいるかもしれません。



もちろん絵画と音楽、その親和性については様々な議論があります。

しかしながら例えばライヒの沸き立つリズムが李の「線より」のリズムと呼応し、またバッハの旋律がリヒターの絵画層へと沈み込んでいくような感覚は、通常の美術展、もしくはコンサートではまず味わえません。

音楽的と美術的な感動、それを同時に味わうような体験は、確かに新鮮でした。

それにしても会場は200ほど用意された椅子席も埋まり、立ち見が出るほどの盛況でした。この意欲的な企画を無料で行った東近美、素直に拍手を送りたいと思います。

「Concerto Museo/絵と音の対話:抽象芸術の相即」 東京国立近代美術館@MOMAT60th
日程:8月12日(日)15:00~16:00
時間:15:00~16:00
場所:千代田区北の丸公園3-1
交通:東京メトロ東西線竹橋駅1b出口徒歩3分。
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N響定期 「ブラームス:交響曲第4番」 アシュケナージ

NHK交響楽団 第1703回定期公演 Aプログラム2日目

R. シュトラウス 「変容」
ブラームス 交響曲第4番ホ短調 作品98

管弦楽 NHK交響楽団
指揮 ウラディーミル・アシュケナージ

2011/5/29 15:00~ NHKホール



2007年までN響の音楽監督をつとめ、現在は桂冠指揮者の地位にあるアシュケナージが名曲を披露します。N響定期を聴いてきました。

冒頭の「変容」を簡潔に表せば実直な演奏と言えるかもしれません。ゲーテの「植物変容論」に由来するというこの作品は、弦楽合奏で紡がれる瞑想的な響きが印象に深い音楽ですが、アシュケナージは各モチーフを丁寧に積み上げ、破綻のないように手堅くまとめていきます。

途中、ワーグナーのトリスタンやエロイカの第2楽章など、言わばどこか英雄や死を連想させるモチーフも登場しますが、アシュケナージのアプローチは決して絶望のどん底まで踏み込むことはありません。N響の比較的ソフトタッチな弦の響きは、あくまでもホールを優し気に満たしていました。

一転してのメインのブラ4は大迫力の演奏です。テンポを幾分遅めにとり、一つ一つのフレーズを丁寧に歌い上げつつも、時折耳をつんざかんとばかりに金管を咆哮させ、ともかく音という音を前に出してこの曲の持つ力強さを表現していきます。

まさに重厚長大路線のブラームスです。たとえばバロック時代の音楽との関連も指摘される第4楽章の「知的な運動」(解説冊子より引用)はもっとアクロバットな音の乱舞となり、あくまでも横の線を重視した、極めて没入的な演奏が繰り広げられていました。

なお余談ですが、開演前の室内楽は震災の影響により取りやめとなっていました。予定では6月いっぱいまで中止されるそうです。ご注意下さい。
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読響名曲シリーズ 「ドヴォルザーク:交響曲第8番」他 ヴロンスキー

読売日本交響楽団 第2回オペラシティ名曲シリーズ

オール・ドヴォルザーク・プログラム
 ドヴォルザーク「序曲 謝肉祭」作品92
 ドヴォルザーク「ヴァイオリン協奏曲 イ短調」作品53
 ドヴォルザーク「交響曲第8番 ト長調」作品88

管弦楽 読売日本交響楽団
ヴァイオリン アラベラ・美歩・シュタインバッハー
指揮 ペトル・ヴロンスキー

2011/5/14 18:00~ 東京オペラシティコンサートホール

読響オペラシティ名曲シリーズより、ヴロンスキーの「オール・ドヴォルザーク・プログラム」を聴いてきました。

当初予定のマーツァルに代わり、急遽指揮台に立ったヴロンスキーですが、その務めを十分に果たしたのはもちろん、思いがけないほどの名演を聴かせてくれたと言っても過言ではありません。

1946年にプラハで生まれ、その後世界各地でキャリアを築いてきたヴロンスキーは、いわゆるご当地もののドヴォルザークの音楽から、驚くほど生気に溢れたリズムと華やかな響きを引き出してきます。

冒頭の「謝肉祭」から、「何かが違う。」と感じられた方も多かったかもしれません。ボヘミアの街のお祭りを表したこの曲を指揮するヴロンスキーはまさにノリノリで、それこそ人々の集った宴から発する独特のカタルシスまでを示してきます。まさに熱狂の謝肉祭でした。

そしてそのような指揮に半ばあおられたかのように演奏する読響も好調です。スラブ音楽の持つ独特なリズム感を全身で表現し、色彩感にも豊かな響きをホールいっぱいに満たしていました。

そのスラブ色の濃い演奏でより名演となったのはメインのドヴォ8です。かつてN響でエリシュカが振った際も非常に感心しましたが、それが細部に見通しのよい、音楽の全体の構造を提示してくるような演奏だったのに対し、ヴロンスキーはさながら音楽の持つ原初的なエネルギーを解放するかのようなアプローチで攻めてきます。

交響曲というよりも交響詩的な演奏と言えるかもしれません。ボヘミアの魂は一つの大きなうねりをもって音楽に取り憑きます。それは良い意味で泥臭いドヴォルザークです。曲を覆う音楽的な構造云々は一端取り払われ、その核心、まさに剥き出しとなった音楽の心だけがひたすら真摯に、また実直に表されていました。

この曲がまさかこれほど民族色の濃いものだったとは思いもよりません。スラブの大地と空の情景が思い浮かぶような見事な演奏でした。

なお同楽団のWEBサイトにヴロンスキーのメッセージが掲載されています。

「ペトル・ヴロンスキー氏が来日。読響と24年振りの共演へ!」@読売日本交響楽団

ヴロンスキーは24年ぶりに読響を振ったそうですが、さらなる共演を願ってやみません。これほどドヴォルザークの音楽に心揺さぶられたのは初めてでした。
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N響定期 「ベルリオーズ:幻想交響曲」 ミョンフン

NHK交響楽団 第1694回定期公演 Aプログラム2日目

ベートーヴェン ヴァイオリン協奏曲ニ長調 作品61
ベルリオーズ 幻想交響曲 作品14

管弦楽 NHK交響楽団
ヴァイオリン ジュリアン・ラクリン
指揮 チョン・ミョンフン

2011/2/6 15:00~ NHKホール



ミョンフンがN響と共演するのは2008年以来、3年ぶりのことです。N響の第1694回定期公演を聞いてきました。

前半のベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲からして歌心満載です。音楽を大きな視点から捉え、なおかつ個々のフレーズではオーケストラから繊細な響きを引き出すミョンフンの指揮に対し、ソロのラクリンはそれに全く逆らうことなく朗々としたヴァイオリンの響きをホールいっぱいに広げていきます。

その様子はまさにオペラの伴奏に乗って歌う歌手に例えられるかもしれません。ミョンフンの個性もあるのか音楽は緩急自在で、時にためとうねりを伴うからか、あたかもヴェルディのオペラのようにドラマチックな表情を持っていました。

こうなるとミョンフンとラクリンの独擅場です。シンフォニックなベートーヴェンの音楽はあたかもイタリアの情熱を帯びるかのように歌い始めました。私はもっとインテンポで小気味よいベートーヴェンが好きだったりするわけですが、彼らの強い個性を前にするとそうした好み云々もどうでも良くなってしまいます。ここは素直に堪能しました。

後半の「幻想交響曲」は名演と言って差し支えないかもしれません。作曲者ベルリオーズ自身の失恋経験を元にしたというこの長大な全5楽章の夢物語を、ミョンフンはまさに「音色画家」(解説冊子から引用。)に相応しい力量でもって、それこそ画家がキャンバスに色をつけるかの如く音楽に豊かな彩りと情景を与えていました。

ミョンフンの最大の魅力はこうした巧みな情景描写にあるのかもしれません。私の中ではどこか取っ付きにくかったこの曲のオーケストレーションが親しみやすく聞こえて来たのには驚かされました。

「ベルリオーズ:幻想交響曲/チョン・ミュンフン/ユニバーサル」

N響もミョンフンの渾身のタクトに力いっぱいこたえます。この曲において重要な木管楽器をはじめ、とりわけコントラバスなどの低音部の弦楽器群、そしてティンパニと、充実した演奏を聞かせていました。

ミョンフンは明日、明後日のCプロではマーラーの第三交響曲を指揮します。(チケットはほぼ完売状態ですが、明日11日に限ってはC席などが若干残っています。)

第1695回定期公演 Cプログラム マーラー:交響曲第3番 指揮:チョン・ミョンフン
2月11日(金) 開演19:00
2月12日(土) 開演15:00


この音楽も一時、マーラーが標題をつけたほど物語的要素が強いだけに、ミョンフンのドラマテックな語り口でまた名演となるやもしれません。
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N響定期 「ガーシュイン:ピアノ協奏曲」 プレヴィン

NHK交響楽団 第1685回定期公演 Aプログラム2日目

武満徹 「グリーン」
ガーシュウィン ピアノ協奏曲 ヘ調
プロコフィエフ 交響曲第5番変ロ長調 作品100

管弦楽 NHK交響楽団
指揮/ピアノ アンドレ・プレヴィン

2010/11/14 15:00~ NHKホール



既に3回の録音があるアンドレ・プレヴィンが、ガーシュインの「ピアノ協奏曲」を弾き振りで披露します。N響第1685回定期公演を聴いてきました。

冒頭の武満からして色彩感に溢れたプレヴィン・サウンドが全開です。武満自身が「ドビュッシーの模写」とも呼んだ同曲の繊細なオーケストレーションも彼の手にかかると一層際立ちます。この日のN響の弦は二人のソロコンマス、堀と篠崎が同時にステージにのるという豪華なものでしたが、透明感のある響きで巧みにプレヴィンをサポートしていました。

弾き振りのガーシュインは実に軽快です。プレヴィンのピアノはさすがに力強さこそ皆無でしたが、実に流麗で全くの躊躇いも淀みもありません。また息のあったアンサンブルを聴かせるオーケストラも好調で、第1楽章の華やかなリズム、そして第2楽章のとろけるように甘美なメロディーには思わず目頭が熱くなってしまうほどでした。

ガーシュインのいう「アメリカの生活から溢れ出る熱く若々しい精神」を望むのは難しかったかもしれませんが、例えばジャズなどを連想させるアメリカの響きを感じたのは私だけではなかったかもしれません。

さて休憩を挟んでのプロコフィエフこそ、よく言われる「完成度の高い演奏」ではなかったでしょうか。実のところ私自身、曲に殆ど馴染みがなく、最後まで集中力を持って聴き通せなかったのは事実でしたが、それでも変幻自在なスケルツォ、また翳りがありながらも甘いアダージョ、そして華々しいフィナーレと、曲の聴き所を十分に堪能することが出来ました。

ちなみにこの曲と一曲目の武満は来年3月、アメリカで行われるN響のツアーの演目だそうですが、この日の出来ならきっと成功をおさめるのではないでしょうか。木管や金管同士の響きのバランス、そして何よりも弦の絶妙なニュアンスにも感心させられました。全てにおいて見通しの良い演奏です。

なお今回のAプロのガーシュイン(1日目)は、12月5日のN響アワーで録画放送があるそうです。そちらでも再度楽しみたいと思います。
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N響定期 「マーラー:交響曲第9番」 ブロムシュテット

NHK交響楽団 第1670回定期公演 Aプログラム2日目

マーラー 交響曲第9番

管弦楽 NHK交響楽団
指揮 ヘルベルト・ブロムシュテット

2010/4/11 15:00~ NHKホール



N響定期からブロムシュテットのマーラー「交響曲第9番」を聴いてきました。

例えばうねり云々を要求する、いわゆるマーラーとしては正統派の演奏ではなかったかもしれませんが、ブロムシュテットらしい端正な、それでいて細部にスコアを抉るような緻密さをも兼ね備えた、非常に格調の高いマーラーであったのではないでしょうか。第1楽章から始まるどこか諦念的なフレーズも、決してお涙頂戴風に情緒一辺倒に流すのではなく、時に縦の線を意識させるように音楽を構築していきます。また第2楽章の舞曲や第3楽章の特にスケルツォ部分も楷書体です。各パートを相互に浮き上がらせる透明感に満ちた響きで、澱みなく、また颯爽と曲を進めていました。良く語られる「悲痛な告白」(解説冊子)を聞くというよりも、音の伽藍の美しさそのもので勝負する演奏であったと言えるかもしれません。

長大なアダージョがこの世との別れを告げる第4楽章はそれまでと一転、音を紡いで一つの大きな渦へとまとめていくような、横のラインへ大きく振幅するスケールの大きな演奏へと変化しました。寄せては返すさざ波や大波は、心の襞に染み入るように伝わってきます。そのドラマというよりも、純化された響きの儚さには涙もこぼれるほどでした。

私自身、偏愛している曲なのでどうしても感興が強くなってしまいますが、この日は久々に音楽が終わって欲しくないという気持ちにさせられました。最後のピアニッシモはいつしか消え行く魂のようにホールで彷徨っていきました。

G MAHLER Symphony Nr 9 Last Movement Adagio Abbado GMJO 1 3


終演後は盛大なカーテンコールが続き、最後にはブロムシュテットだけがステージに呼ばれるいわゆる一般参賀が行われました。力を出し切ったN響にも大きな拍手が贈られていたのは言うまでもありません。
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N響定期 「ストラヴィンスキー:春の祭典」他 ビシュコフ

NHK交響楽団 第1667回定期公演 Aプログラム2日目

ショスタコーヴィチ 交響曲第1番 作品10
ストラヴィンスキー バレエ音楽「春の祭典」

管弦楽 NHK交響楽団
指揮 セミョーン・ビシュコフ

2010/2/6 15:00~ NHKホール

ケルンWDR交響楽団の首席指揮者を務めるビシュコフがN響に初共演しました。N響定期を聴いてきました。

ショスタコーヴィチでは第4番の他、7、8、10番などの録音もあるというビシュコフですが、どちらかと言うとその混みいったオーケストレーションのテクスチャを巧みに表現するとするよりも、もっとザックリと全体を大まかに切り取って提示するような演奏だったかもしれません。各主題を一つずつ丁寧になぞることで、音楽の流れを分かりやすく聴かせていましたが、例えばショスタコーヴィチらしい暗鬱さや諧謔性を示すような箇所では、いささか突っ込みが物足りなく感じたのも事実でした。ただその点、叙情的にも流れる第三楽章の息の長いフレーズなどは素直に美しく響いていたかもしれません。所々聴こえる細かな『ため』と『うねり』は、この指揮者のマーラーへの適性に期待を持たせるものとなっていました。Cプロの5番はむしろ興味深い演奏となりそうです。

春の祭典は、その内に秘められた荒々しいリズムを抉りとるような野性的な部分は影を潜めた、半ば都会的でシンフォニックな、しかし逆に言えばやや安全運転気味な演奏に終始していたように感じられました。しかしながら縦の線を意識し、オーケストラの四隅をしっかりと揃え、また各パートの音を無理せずにストレートに積み上げた響きは、確かにこの音楽の持つ「洗練された内部構造」を提示することに繋がっていたのではないでしょうか。初共演ということもあってか、やや硬めなオーケストラの表情も、むしろこのアプローチであるならうまくマッチしていたとは思いました。

The Rite of Spring (1/4) - Dutoit

こちらは同じN響、デュトワによる「春の祭典」

終演後は退団される団員の方へのあたたかい拍手が長時間にわたって送られていました。この日の主役はおそらくは彼らであったに違いありません。

出来れば今週末のCプロも聴きたいと思います。
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N響定期 「メンデルスゾーン:交響曲第3番(スコットランド)」他 ホグウッド

NHK交響楽団 第1653回定期公演 Aプログラム2日目

オール・メンデルスゾーン・プログラム
 序曲「フィンガルの洞窟」(ローマ版)
 ヴァイオリン協奏曲(初稿)
 交響曲第3番「スコットランド」

ヴァイオリン ダニエル・ホープ
管弦楽 NHK交響楽団
指揮 クリストファー・ホグウッド

2009/9/20 15:00 NHKホール



メンデルスゾーンの生誕200年を記念して、その楽譜の校訂にも取り組んでいるというホグウッドが定番の名曲を披露します。N響定期を聴いてきました。

コンサートの一般的な流れとしては大概、ラストに置かれたメインの大曲にこそ、完成度の高い演奏となるものですが、今回の公演で私が一番良いと感じたのは、言わば殆ど前座的な扱いなはずの「フィンガルの洞窟」でした。ここでのホグウッドは一般的な彼へのイメージ通りに、半ば古楽器演奏的なアプローチにて颯爽と音楽を処理していきましたが、インテンポでリズム感にも長けた横の軸と、一方での各パートのバランスにも配慮した縦の軸がうまく呼応したからなのか、響きに立体感と音楽そのものに力強さを感じる、非常にドラマテックなフィンガル像を生み出すことに成功していました。こうなると元々、情景の描写に豊かなフィンガルは実に生き生きと、またそれこそロマン派の風景絵画の如く雄弁と語りだすものです。管楽器の透明感に満ちたささやきが風となり、また弦のざわめきが波となって、まさに自然の景色を眼前に引き出していました。これは見事です。

さて一方でのソリストにホープを迎えたメンコン、さらには休憩を挟んでのスコッチは、そうしたフィンガルの出来からすると、それこそ尻下がりにテンションが下がる演奏に思えてなりませんでした。アンコールのラヴィ・シャンカールにこそしなやかな響きを聴かせたホープは、このメンデルスゾーン、いやむしろこのホグウッドとの呼吸が今ひとつあわなかったのかもしれません。楽章後半、特にピアニッシモの箇所こそ、ピンと緊張の糸が張りつめるような怜悧な響きを奏でてはいたものの、やや崩れ気味の入った冒頭楽章の他、カデンツァの箇所は、とても本調子とは思えない内容で拍子抜けするほどでした。またホグウッドによる、全体に抑制的な伴奏と合わせようとする意識が強く出過ぎたのかもしれません。突き抜けることなく、奇妙なほどこじんまりとした表現に終始してしまいました。

スコットランドについては、おそらく私の嗜好があまりにも偏っているからだと思います。押しの一辺倒にも思える、非常に前へ前へと早いスピードで進むテンポに、曲の細かい箇所を味わうまでもなく、いつの間にやら演奏が終わってしまいました。偉そうなことを申せば、もう少しじっくり構えていただきたかったというのが率直な印象です。

Mendelssohn: Symphony No. 3 「Scottish」 in A Minor, op. 56 (part 1)


非常に学究的なアプローチということもあるのか、フィンガルを除けば、やや無味乾燥なメンデルスゾーンであったかもしれません。ハイドンのロンドンにプロコを合わせた意欲的なCプロの方が、その持ち味は良い方向に出るような気もします。

連休ということもあってか、会場にはやや余裕がありました。とは言え、私の印象とは異なり、終演後は比較的温かい拍手がステージに送られていたことも付け加えておきたいと思います。
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東京シティ・フィル定期 「ムソルグスキー:展覧会の絵」他 パスカル・ヴェロ

東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団 第230回定期演奏会

ドビュッシー 牧神の午後への前奏曲
ラヴェル 亡き王女のためのパヴァーヌ
ラヴェル 組曲「マ・メール・ロワ」
リャードフ バーバ・ヤーガ 作品56
ムソルグスキー(ラヴェル編) 組曲「展覧会の絵」

管弦楽 東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
指揮 パスカル・ヴェロ

2009/7/16 19:00 東京オペラシティコンサートホール



かつて新星日響の首席指揮者をつとめ、現在では仙台フィルの常任指揮者をつとめるパスカル・ヴェロが、東京シティ・フィルの指揮台に立ちます。いわゆるご当地もののプログラムです。第230回定期演奏会へ行ってきました。

フランス人によるフランスものというと、先入観のみで言えば往年のフルネのような軽妙でかつ清涼な響きを引き出すものと、一転してカンブルランのようなエネルギッシュな演奏をイメージしますが、ヴェロはその両者の特性をいささか中途半端に合わせ重ねたものと言えるかもしれません。冒頭、フルートのソロから幻想的な調べが紡ぎだされる「牧神の午後への前奏曲」こそ、各パートの音のバランスにも配慮されつつ、透明感の溢れる演奏で楽しませてくれましたが、休憩を挟んでの後半部、とりわけメインの「展覧会の絵」はやや力押しに過ぎる嫌いがあるように感じられてなりませんでした。よって私の印象では、前述の「牧神」、そしてホルンに難があったものの「亡き王女」、そして音楽の中の物語を快活に表現した「マ・メール・ロワ」へと至る前半部にこそ軍配をあげたいと思います。シティの瑞々しい弦のサポートはもちろん、フルートをはじめとした手堅い木管群、そしてホールの豊かな残響にも支えられて、茫洋たる大河の中にも繊細な美意識が随所に光る美しい調べに浸ることが出来ました。これでもう一歩、曲の構造を浮き彫りにもする各パート毎のクリアな響きがあればとは思いましたが、それは無い物ねだりと言うべきものなのでしょう。

Pictures at an Exhibition: Esa-Pekka Salonen (1 of 4)


何度聴いても、これがおおよそ展覧会会場でインスピレーションを得たとは思えない、半ば大仰な「展覧会の絵」は、各プロムナードを挟んで、例えばある冒険家が大自然でも彷徨う一種の紀行物語を見るかのような激しい演奏で幕を閉じました。とは言え、音から開けるイメージを連想するのは、例えば第二曲の「古城」においてもそう難しいものではないかもしれません。その切々と流れる曲想を聴くと、クールベの描いた「シヨン城」を思い出すのは私だけでしょうか。また「キエフの大門」ではぐっとテンポを落とし、それこそブルックナーのラストでも聞くような大伽藍にてホールを震わせていました。

演奏後は指揮者、もしくはオーケストラのメンバーに対して惜しみない拍手が送られていました。余談ながらも、シティの演奏会へ行くと、いつもカーテンコールの拍手に温かみを感じます。気持ち良く会場を後にすることが出来ました。
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東京フィル定期 「プロコフィエフ:組曲シンデレラより」他 渡邊一正

東京フィルハーモニー交響楽団 第774回オーチャード定期演奏会

三善晃 管弦楽のための交響詩「連富士」
モーツァルト ピアノ協奏曲第20番
プロコフィエフ 組曲「シンデレラ」より(コンサートスタイル・バレエ)

シンデレラ 下村由理恵
王子 佐々木大
ダンサー 下村由理恵バレエアンサンブル(奥田花純 金子優 大長亜希子)
指揮・ピアノ 渡邊一正

2009/7/5 Bunkamura オーチャードホール



バレエ音楽にも造詣の深い渡邊一正が、プロコフィエフの「シンデレラ」をコンサートスタイルで演奏します。東フィルオーチャード定期を聴いてきました。

私自身、バレエ音楽を生のステージを見るのが初めてなので、その出来云々については良く分かりませんが、ともかくもオーケストラを舞台中央に配し、その前後で繰り広げられるダンサーの流麗な踊りには終始目を奪われました。それぞれ劇に即した衣装を身を纏い、情景に合わせて演技を変化させるシンデレラ役の下村と王子の佐々木は、その卓越した身体性にも由来してか、スリリングでかつ研ぎすまされた舞台を見事に演出していたのではなかったでしょうか。伸びる指先と足先から役にこめられた心情を汲み取り、また飛び跳ねて動くその所作の全てから劇のダイナミックなストーリー性を感じることは、何かと雄弁で過剰なオペラ観劇(もちろんそれがまたオペラの醍醐味でもあります。)とは全く異なった体験を与えてくれます。ガラスの靴を寄り添い、二人がようやく結ばれるお馴染みの大円団では、思わずぐっと熱いものがこみあげてくるものを感じました。今回の上演はあくまでもコンサートスタイル形式とのことで、曲の短縮、また組み替えなど、通常とは大きく形態が違っていましたが、全50分、バレエ初心者の私も全く飽きないで楽しめたことを付け加えておかなくてはなりません。またあえて音楽の四隅を細かく揃えず、むしろシンデレラの音楽にこめられた幻想的な雰囲気を大切にした渡邊の指揮も見事であったと言うべきでしょう。やや締まりのなかった東フィルから柔らかな響きを引き出すことに成功していました。

さてこうしてメインのシンデレラに感心しておきながら言うのも失礼かもしれませんが、休憩前、つまりは三善の「連富士」と渡邊自身の指揮振りによるモーツァルトのピアノ協奏曲は、演奏の精度はもちろんのこと、そのプログラミングからして、私には全く感じ入るものがありませんでした。そもそも三善のエネルギッシュな連冨士の後に、切々と繊細な情感を歌う第20番を持ってくることからして、一体何を伝えたいのかが良く分かりませんでしたが、指揮振りの20番の渡邊のソロに関しては、演奏終了後の観客の冷たい反応が全てを物語っていたと言えるのではないでしょうか。音色に輝きのないピアノ、まとまりのないレガートを多用した緊張感のない伴奏など、聴いていてこの傑作に一体何をしたいのかと戸惑ってしまうほどでした。

Cinderella: Adagio by Ekaterina Osmolkina & Andrei Merkuriev


これなら抜粋などをせず、むしろ全曲通してバレエ音楽を演奏した方が良かったかもしれません。バレエをダンサー付きのコンサート形式で、しかも定期演奏会で演奏すること自体が極めて稀ですが、渡邊のメッセージ「時間を許す限り、バレエを振ってゆこうと思います。」(解説冊子より)を信じて、またのバレエ公演の開催に期待したいものです。
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