「横浜トリエンナーレ2005」  横浜市山下ふ頭3号、4号上屋 11/26

横浜市山下ふ頭3号、4号上屋(横浜市中区山下町)
横浜トリエンナーレ2005 -アートサーカス 日常からの跳躍- 」
9/28~12/18

世界30ヶ国、全86名のアーティストによる、日本最大級の現代アートの祭典「横浜トリエンナーレ2005」。会期もそろそろ終盤に差し掛かって来た頃ですが、先日ようやく見に行くことができました。

みなとみらい線の元町・中華街駅を下車し、山下公園の方へとぼとぼと歩きます。前回、2001年のトリエンナーレの大混雑が記憶に残っていたので、今回もかなり混んでいるのかと思いきや、着いたのが午前中だったからか、エントランス付近は意外にも閑散としていました。入口から会場内のふ頭上屋へは、結構な距離があるとのことで、無料バスも運行されていましたが、やはり、紅白のストライプの旗が鮮やかな「ビュラン・プロムナード」を歩きたくなります。少し冷たい海風に吹かれながら、のんびりと10分ほどの散歩道。上屋内ではたくさんのアートが待ち構えていました。



まずは、infomationのある「3A」から、様々なイベントも開催される「ナカニワ」を経て、4号ふ頭の方へと向かいます。ここではやはり「4B」のビデオ・インスタレーションが見応え十分です。作品展示のため、かなり暗くなったスペースにて光を発するビデオ・アート。「4B」に足を踏み入れた途端、ベートーヴェンの通称「運命」の第二楽章が聴こえてきましたが、それは、ミゲル・カルデロンの「ベートーヴェン・リビジテッド」という作品でした。今は少なくなった音楽喫茶にて、ベートーヴェンに扮した一人の若者が、カラヤンとベルリンフィルの重厚な「運命」に合わせながら、一生懸命に、指揮者もどきとなって棒を振る。喫茶にいる人々は、眠っていたり、また何か書き物をしていたりするのですが、指揮者とのギャップが何とも奇妙。しばし見入らせる作品でした。

「4B」で心に残った作品は、松井智惠の「寓意の入れ物」です。先ほど歩いても来たプロムナードを歩く一人の女性。駐車中の大型トラックの陰に隠れては、また姿を見せてひたすらに歩く。素足にて、ペタペタと音をたてながら、前へ前へと取り憑かれたように進みます。映像の後ろから強いライトにて照らされているからか、ライトがまるで彼女を照らす太陽のような役割をして、その美しいシルエットを画面の前へと映しだします。彼女は結果、逃げるようにして倉庫のような人気のない場へと入りこみます。その鬼気迫る雰囲気に惹かれました。

小金沢健人の二作品、「スノーイング」と「RGBY」も魅せられる作品です。特に「RGBY」の素朴な美しさ。色鉛筆かクレヨンで描いたような2本の線。それがひたすら交差しながら縦へと伸びます。また、伸びると言えば、インゴ・ギュンターの「Land」も、その長さに驚かされる作品です。日付変更線から見た太平洋の姿を、ぐるっと一通り描く。それが「4B」の会場を囲むように、延々と伸びています。目線の高さに置かれて、薄明るく照らし出される。このスペースを控えめに盛り立てていた作品でもありました。

ムタズ・ナスルの「ジ・エコー」も、単純な仕掛けながら、なかなか鋭いメッセージを訴えかける良作です。1969年制作の映画のセリフを、全く異なる現代の場面にてそのまま使い、その双方を共鳴させるようにして、スクリーンに映しだします。映画の原作は、イギリス植民地下のエジプトにおける、民族の自立やその生き様をテーマにしたものですが、「政治と社会を変革させるために、立ち上がれ。」というセリフが、そのまま現代の状況においても有用に置き換えられます。時代を超えた普遍的なメッセージ。閉塞感の打破への共感は、いつの社会にも見られるような、半ば習慣化した意思なのかもしれません。

「4B」を一通り見終わった後は、そのまま海の方、つまり「センタン」へと歩き、「4C」へと入ります。ここでは、何と言ってもロビン・ロードの「アンタイトルド・シャワー」が一押しです。狭い縦長の空間の奥に、まるで血のシャワーを浴びているような全裸の男性が一人。スローモーションのような動きで、ゆっくりとシャワーを浴び続ける。男性の逞しい肉体と、シャワーの血のような飛沫。耽美的な雰囲気も漂わせながら、不気味な世界を構築した作品です。

ロビン・ロードの他の「4C」では、チェン・ゼン米田知子の作品が、一際高い完成度を見せていました。チェン・ゼンの「ピューリフィケーション・ルーム」。バイクやソファ、それにTVなどが、一見、生活感を持ったような空間に置かれています。また、そこにある物は、どれも壊れたもの、つまりゴミのような気配です。そして、それら全てを覆い尽くすようにかけられた、一面のくすんだピンク色の塗料。その塗料によって、それぞれの物は色と質感が均一となって、固有性が失われます。中へ入ることができなかったのが残念でしたが、「4C」の中では、一際凄みのある場を創造していたと思いました。

阪神大震災の際の状況と、その後の「復興」の姿を捉えた米田知子の作品も、総じてどこかエンターテイメント的な匂いの漂う今回のトリエンナーレに、一つの衝撃を与えるかのような強い存在感を見せていました。かつて遺体安置所として使われたという一つの部屋。黒光りする古びた床に、ポツンと置かれた時計。一見、ただの空疎な部屋の中に、「遺体安置所」という過去の記憶を持ち込むことで、その惨さを敢然と知らしめる。この鋭い問いかけは、相対化され消されつつある過去が、実は無くならない絶対的なものとして、今ある悲劇のように浮き上がってくることを示唆させます。

「4C」を終えたところで、ランチ・タイムとなりました。エスニック料理を中心にラインナップとした「コクサイヤタイムラ」にて、しばし腹ごしらえです。コクサイにヤタイムラと名乗る割には、随分と規模が小さいようにも思いましたが、幸いにもあまり人出がなく、ゆったりと食事をとることができました。そして、一番海側に面する「センタン」にて休憩した後は、3号上屋の方を廻ります。



4号上屋前にて。寝ているサメはもちろん作品です。


「センタン」からは横浜港が一望出来ます。

「3C」では、奈良美智+grafの展示が、ずば抜けた存在感を見せていました。自作を理想的な環境にて展示することについて、おそらく今回のトリエンナーレでは一番の出来でしょう。展示小屋の内部をぐるぐると歩きながら、奈良さんの作品と出会う喜び。恥ずかしながらこれまで、彼の作品をあまり好きだと思ったことはなかったのですが、今回の展示には完全に脱帽です。この展示だけでも、一つの大きな企画展のレベルに達しているとさえ思います。

何かと話題の「天使が通る」もじっくりと拝見しました。ジャコブ・ゴーテルとジャゾン・カラインドロスの「エンジェル・ディテクター」。10人ほどが入ることの出来る真白なスペースに、燭台のような小さなロウソク型のランプが一つだけ。全くの沈黙が生まれた時にだけ一瞬光るという仕掛けですが、ひっきりなし人が出たり入ったり、はたまたおしゃべりしたり物音を立てたりと、当然ながら沈黙な瞬間がなかなか訪れません。「どこかでカメラで監視して操作しているんだよ。」と、なかなか鋭いことを話す子供たち。「何分ぐらい静かになれば良いのかな。」と言い合うカップル。私は辛抱強くただひたすらに待ち続け、光るであろう「燭台」を見続けます。入れ替わり立ち代わりガヤガヤゴソゴソ。静寂を維持することとは、こんなに難しいのかと思った時、不思議にも私を除いて一人の観客もいなくなりました。さあいよいよです。待ちに待ったその瞬間。ジィーッと、ただジッーッと見つめ続ける。ここで誰かが来たら終わりだと、半ば自分勝手な雑念を思った時、ついに光りました。たった一瞬間だけ。パッと弱々しく、震えるように、そして悲し気に。「天使が通った。」妖精が一瞬だけ現れたとでも言えるのでしょうか、力強くピーンと張りつめた場の緊張感と、一瞬の安堵。静寂から恵みがもたらされました。

期待していたさらひらきのブースは「3B」です。タイトルは「trail」。洗面所にラクダのミニュチュアがトコトコ歩きます。ゆっくりとゆっくりと、心地よい遅さの歩み。ラクダは実体のない影のようですが、それが窓の枠や縁の影を沿うようにして歩きます。途中からはゾウも登場しますが、お馴染みの飛行機にかわって、鳥も気持ち良さそうに部屋を飛び回ります。空き瓶の底を、グルグルと列を作って歩くラクダの可愛いこと。ラクダの影は最後に、人のサイズ程度に巨大化しました。時間もゆったりと流れて、日常の中の幻想とも言える、この穏やかな場。やはり、とても魅せられるものがあります。

一通り見終わった時には、入場から約4時間ほどが経過していたでしょうか。全体的に見ると、前回のトリエンナーレと比べて、ややビックネーム不足とでも言うのか、パンチに欠けるようにも思えましたが、その分、会場は比較的ゆったりとした雰囲気に包まれ、のんびりとアート(のようなものも含めて?)を堪能することが出来ます。前回トリエンナーレは、混雑も含めて、私としてはあまり良い印象がなかったのですが、今回は適度な規模です。肩の力を抜いて楽しめる、エンターテイメント的な場が提供出来ていたのではないかと思いました。12月18日までの開催です。
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「山口晃展」 三越日本橋本店ギャラリー 11/27

三越日本橋本店新館7階ギャラリー
「山口晃展」
11/22~27(会期終了)

日本橋の三越で開催されていた、山口晃氏の個展です。三越のギャラリーで、いわゆる現代アートの展覧会が開かれるのは珍しいように思いますが、彼が昨年の「日本橋三越本店100周年」の広告を手がけたと聞けば、さもありなんと言えるでしょう。一度まとめて作品を拝見したかった方だったので、とても良い機会となりました。

まずは三越を題材とした三枚の作品です。日本橋が時空を超えて、江戸時代から現在までの全ての賑わいと、さらにその先にある空想世界へと飛び立ちます。精緻に表現された三越の全容。そして細部の細部までに描かき尽くされた人々の様子。さらには首都高を跨ぐダイナミックな日本橋の姿。三越の上には小さな市電が、まるで動く歩道のような軌道の上にのって走っています。ともかく飽きない。小さくなった自分を絵の中に放り込んで、あちこちへと歩き回ってみたくなる作品です。

「芝大塔建立圖」も圧巻でした。芝大塔(=東京タワー)の建設される様子が、大和絵風に描かれています。それにしても完成した東京タワーの滑稽な姿。東京のモニュメントではありながらも、大凡美しい建物とは思えないタワーですが、そこに純和風の屋根や建造物がくっ付くことで、その存在が半ば茶化されています。また大塔は信仰の対象として存在し、何と「開眼式」も開催されていました。僧侶たちに囲まれたタワーの姿。実に滑稽です。

「ダクト圖」を見た時、一瞬エッシャーの作品を思い出しました。ダクトが昭和風の家が立ち並ぶ住宅密集地を、くねくねと這うように設置されています。ゴチャゴチャとした家々と、あちこちに分岐するダクト。ダクトの上にて寝ている人が描かれていたり、はたまたダクトにて流しそうめんをしている人がいたりと、相変わらずの遊び心も満点です。

「東京圖-六本木」は、六本木ヒルズ森タワーが、まるで軍事要塞のような姿で描かれています。ヒルズの上に立つ二本のクレーンは、まるで刀と刀がぶつかり合っているかのようです。また、ヒルズを囲む市街地も、どこか武士の兜や刀を思わせるような造形にて象られています。このような日本の武士のイメージは、他の作品にも見られますが、先ほどの三越も含めた、建物がまるで要塞のように見えることと合わせて、画面にて「戦い」を連想させるのも、山口晃氏の作品の興味深いところです。

会場の一番最後にて展示されていた、「火河圖」と「水河圖」も見応えがあります。この二点では、特に「火河圖」の方が魅力的です。精密に描写されたメタリックなものと炎の動きの融合。そこから生み出される迫力には圧倒されました。

描くことへの強い執着心すら感じた展覧会です。是非今度も氏の作品を見続けていきたいと思いました。
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「フランス現代美術週間特別企画」 駐日フランス大使公邸一般公開 11/27

駐日フランス大使公邸(港区南麻布)
「フランス現代美術週間特別企画 駐日フランス大使公邸一般公開」
11/22~27(会期終了)

フランスの現代美術を、都内のいくつかのギャラリーや美術館で展示する「フランス現代美術週間」。そのプレイベントとして企画されたのが、フランス大使公邸の一般公開です。開放された大使公邸内のスペースに、この美術週間に参加した8名のアーティストの作品が展示されます。会期は6日間で、公開の時間が14時半から16時までと大変に短いのですが、最終日の昨日、散歩がてらにぶらっと見て来ました。

フランス大使館の中にある大使公邸は、南麻布の住宅街の中で静かに建っていました。日比谷線の広尾駅から地上へ出て、有栖川宮記念公園の方へ向かうことすぐ、一本目の脇道を右折し、雑多な住宅街の中をしばらく歩くと、左手に、フランス大使館と面したキツい坂道が見えてきます。その上が大使公邸の入口です。

重々しい緑色の扉。人気のない入口付近には、このイベントの開催を示す案内もなかったので、たまたまその場に居合わせた他の方と一緒に中へ入りました。白い石を玉砂利風に固めた広い前庭に、シンプルな外観の公邸。写真を撮っている方もたくさんいらっしゃいます。当然、私も写真を撮ろうと、うろうろとあちこち見ながら公邸へ近づいた途端、そこに立っていた屈強なフランス人(?)が一人寄ってきました。「May I look in a bag?」。要は荷物検査です。なかなか厳重で結構ですが、何故か他の方は皆素通り…。そんなに私が怪しく見えるのかと、少々自分に自信を失いかけましたが、別に問題になるモノを持っているわけでもない。もちろん協力して、見事パスしました。気を取り直して公邸内へと入ります。





公邸の一般公開とは言え、実際に開放されている区域はかなり狭く、玄関ロビーと、その続きの二部屋だけです。中は予想以上に賑わっています。重厚でゆったりしたソファーと、意匠を凝らしたいくつかの調度品。大きな窓からは暖かい光も差し込んできました。また、窓の外へ目を転じると、和風の広い庭が静かに佇んでいます。立ち入り禁止ではありますが、テラス席も置かれていました。ここでゆっくりと本でも読めれば…。実に気持ち良さそうでした。





さて、肝心の展示についてですが、公邸の空間と上手く呼応するかのように、8名のアーティストの作品が飾られていました。一人のアーティストにつき、一つの作品でしょうか。量はあまり多くはありません。

ユーグ・レプ「夜の音楽、均衡のとれたシナリオ」(2005)・ペーパークラフト




ジャンヌ・スースプルガス「シリーズ ある解決 #104(上) #88(下)」(2000)・写真


ジャン=フランソワ・ブラン「跳躍の瞬間(見ることの試練)」(2005)・写真


ジャン=シャルル・ブレ「シダ」(2002)・映像


一番惹かれたのは、ジャンヌ・スースプルガスの作品です。あまりじっくりと見ることは出来なかったのですが、写真の味わいに惹かれました。

「フランス現代美術週間」は、以下の都内のギャラリーなどで、フランスの現代アーティストの個展が開催されるイベントです。

ギャラリー小柳 「アネット・メッサージェ」 11/22-12/24
ギャラリー五辻 「ロラン・フレクスナー」 11/22-12/22
ケンジタキギャラリー 「ジャン=シャルル・ブレ」 11/19-12/24
小山登美夫ギャラリー 「フィリップ・ペロ」 11/22-12/17 
ナガイファインアーツ 「ジャン=フランソワ・ブラン」 11/22-12/22

他にも、原美術館のホールにて展示があったり、ナディッフにて、イベントに関連するカタログ等が販売されたりするそうです。私もこの中から、いくつかの展示を見る予定をしております。

一通り見た後は、再び前庭へ出てみました。ここからは公邸の庭が眺められます。



作品の展示というよりも、公邸の公開に重点の置かれたイベントのようでしたが、大使のプライベートな空間を使ってのフランス現代美術の紹介。なかなか面白い試みではないかと思いました。
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「ベトナム近代絵画展」 東京ステーションギャラリー 11/19

東京ステーションギャラリー(千代田区丸の内)
「ベトナム近代絵画展」
11/5~12/11

今、東京ステーションギャラリーで開催中の「ベトナム近代絵画展」です。植民地支配と戦争の惨禍。苦難のベトナム近代史を、絵画の観点から振り返ります。東京ステーションギャラリーならでは企画とでも言えるような、興味深い展覧会です。

展覧会では、まずベトナム近代絵画の原点を、1925年の、フランス占領下における「インドシナ美術学校」の設立に求めます。西洋の油彩画の移入と、その後のベトナム近代絵画の基盤となった絹絵や漆絵。1940年以降、ベトナムへの日本の侵攻伴って、これらベトナムの絵画が、一時的に日本でも紹介されたことがありました。そして戦争の激化。最終的には「インドシナ美術学校」も閉校することを余儀なくされます。ベトナムの近代絵画は、フランスの植民地統治、または日本の侵攻下の中で開始され、翻弄されたわけです。

日本の敗戦に伴い、東南アジアの勢力バランスが崩れた結果、ベトナムは惨いことにも再びフランスの侵略を受けます。抗仏戦争の開始です。その後ベトナムは南北に分裂。苦渋の時代を迎えますが、ベトナム絵画の流れは脈々と受け継がれたようです。共産主義リアリズム絵画と、ヨーロッパ受容のモダニズム絵画の対立。民族主義的絵画の勃興。ベトナムの南北対立は、アメリカや中国、それにソ連の介入によってさらに泥沼化しますが、絵画も同じように、冷戦下の東西対立の大きな渦に巻き込まれてしまいます。

北ベトナムによる「サイゴン解放」以降のベトナム。ようやく統一国家として歩み始めました。そして、この展覧会における「ベトナム近代絵画」とは、この時期までの作品を指します。北ベトナムにおける、反米メッセージを露骨に見せた作品群。「敵」こそ違えども、時間を超えて常に「闘った」ベトナムの近代。絵画も最後まで、戦争と抵抗の歴史を忘れることがありません。

展示作品の中で圧倒的に面白いのは、ベトナムの伝統的な技法を駆使した漆絵というジャンルです。一連のベトナムの絵画の中でも特に優れた作品と言われる、フィン・ヴァン・ガムの「リエン嬢」(1962年)。丹念に漆を塗り重ねた画面は、光り輝く陰影によって美しい味わいをもたらします。作品の下からかがみ込んで見るのがおすすめです。(会場でもそのように案内もされています。)女性の左から差し込む明かりが、金色に、美しく照っているのが分かります。肘をついて椅子に座る彼女の不思議な表情。何かを見つめているというよりも、どこかあらぬ方向をぼんやりと眺めているようにも見えます。不思議な魅力をたたえる絵画です。

もちろん漆絵においても、戦争を主題とした作品が多く残っています。その中では、ファン・ケ・アンの「タイバックの夕べの思い出」(1955年)が一番印象に残りました。広がりのある大空と深い山々の美しい連なり。この作品も、太陽の日差しが、金色の輝きにて表現されています。空に渦巻く雲と山肌に降り注ぐ黄金の光。もしそれだけが描かれているのであれば、大自然の景色を捉えた、雄大な作品ということで終ってしまうのかもしれませんが、前方の尾根には、兵士の姿が、山の大きさと比べるとかなり不自然に、はっきりと大きく描かれています。「戦争は驚くべき静穏な瞬間によって中断された。」解説にはこう述べられていましたが、まさに、戦争の惨さすら包み込むような超然とした自然の美が、あまりにも輝かしく描かれた作品と言えそうです。

グエン・サンの「国家のブロンズの壁」(1967-78年)は、漆絵にて、明快に反米の意味を表現した、鮮烈な印象を与える作品です。銃を構える二人の米兵と、多くの非武装のベトナム人の対峙。ベトナム人らは口を大きく開けながら、拳を上に振り上げて、怒りの表情を見せながら米兵へと向かいます。アメリカへの憎悪と、強い愛国主義の渦。善悪は明快に線引きされて、ベトナム人たちの正義が讃えられます。米兵がベトナム人に対峙するために、こちら側に背を向けて立つ姿が特に心に残ります。彼らには顔がない。その細い長い体つきは、まるでロボットのようです。「悪としての米兵」の意味を強める点において、これほど効果的に表現された姿もありません。

漆絵以外にもいくつかの油彩や絹絵が、またもちろん露骨に戦争を描いた作品以外にも、美しい自然そのものや女性を描いた作品などが並びます。ただ、全体的に「国家」という概念が前面に出てくる、要は、ベトナムの近代史を考える点において、特に重要な観点である「民族の自決」の意味が、執拗に絵画にて示される構成となっています。もちろん、それはベトナム近代絵画史の、あくまで一側面であるだけなのかもしれません。しかしその「ネイションな雰囲気」を、どうしてもぬぐい去ることが出来ない展覧会でもあります。来月11日までの開催です。

*東京ステーションギャラリーは、来年の3月5日以降、東京駅舎大規模改修工事に伴い、約5年間の休館が予定されています。次回の展覧会は、休館前の最後の展覧会となる、前川國男氏の建築展(12/23~3/5)です。いつも他ではあまり取り上げられないような視点に立って、面白い展覧会を企画する東京ステーションギャラリー。その長期休館は、駅舎の大規模改修という事情があるにしろ、とても残念に思います。
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バイエルン放送交響楽団 「ショスタコーヴィチ:交響曲第5番」他 11/23

バイエルン放送交響楽団 2005来日公演/横浜

チャイコフスキー ピアノ協奏曲第1番
ショスタコーヴィチ 交響曲第5番

指揮 マリス・ヤンソンス
ピアノ イェフィム・ブロンフマン
演奏 バイエルン放送交響楽団

2005/11/23 14:00 横浜みなとみらいホール 3階

バイエルン放送響の横浜公演です。もちろん指揮は首席指揮者のヤンソンス。プログラムは、あらゆるピアノ協奏曲の中でも最も有名なチャイコフスキーのそれと、VPOとのCDもリリースされている、ショスタコーヴィチの交響曲第5番の組み合わせ。超重量級のコンサートです。

一曲目のチャイコフスキーのピアノを演奏したのは、昨年のVPO(ゲルギエフ指揮)の来日公演でもソリストを務めたという、イェフィム・ブロンフマンです。大柄の体を、そのまま鍵盤にぶつけたかのような力強いピアニズム。高音のトリルこそ幾分控えめな表現にて、柔らかく美しく響かせますが、低音部と中音域は、もはやホールの響きの飽和量を超えて、思わず耳をつんざいてしまうほどに、限りなく大きく鳴らします。細かいニュアンスには殆ど配慮されず、逆にそのようなものは無意味だと言わんばかりに「鳴らしまくる」ピアノ。もちろん、ヤンソンス率いるバイエルン放送響の逞しい響きにも負けることがありません。オーケストラとピアノの丁々発止。それぞれが、まるで殴り合うかのように交錯します。そのぶつかり合いの迫力の凄まじさ。残念ながら私には、彼のピアノを全く受け入れることが出来なかったのですが、むしろ細部を犠牲にして、さらにはデリカシーも捨て去って、直裁的に、自由奔放に鳴らすピアノというのも、一つの大きな持ち味なのかもしれません。

メインはショスタコーヴィチの第5番です。やはりこの曲は、ショスタコーヴィチの一連の録音を手がけるヤンソンスにとっては、十八番なのでしょうか。彼は暗譜にてオーケストラに向かい、各パートの音を非常に凝縮させた形で一つにまとめあげ、まるでギラギラと光る鋼の塊ように、剛胆に、そして圧倒的に響かせます。雷鳴のように轟くフォルテッシモのもの凄い迫力。金管も木管も打楽器群も弦セクションもその全てが、一つの強固な塊となって、客席へ飛び込んできます。スコアの隅々まで、一つの音符ももらさないで、純然と鳴らすこと。オーケストラが鳴りきった時の凄まじいエネルギー。それを十二分に味わうことの出来る演奏でした。

鮮烈で巨大なアタックの凄みも、ヤンソンスの演奏の大きな特徴の一つです。まるでアタックにて音楽の構造を際立たせるかのように、力強く、思いっきり打ち込む。それによって、シャープにメリハリ感も生まれてきます。アタックにてオーケストラに魂を入れ、そこから怒濤のように音を次々と引き出す。緩急のドライブも鮮やかで、これほどスリリングな演奏もないと思うほどです。重心も低く、低音部の渋い味わいが、パワフルに炸裂し続けます。聴いていて手に汗握るとはこのことでしょうか。まるで、この曲の背景、例えば作曲者の意図について云々など、いわゆるスコアの外にある、情緒的、または思弁的な要素を一切退けているかのようです。あくまでも勇ましく硬質に曲をまとめあげる。表現主義的な演奏と言って良いかもしれません。

ヤンソンスの興味深い点は、そのようなダイナミックな演奏を聴かせながらも、例えば第三楽章などのピアニッシモを、決してお座なりに表現しないことです。グッとテンポを押さえて、弦をサワサワと軽く鳴らせて、ゆっくりとゆっくりと木管をなぞらせる。あまり歌わせることはありませんが、それまでの強烈で圧倒的な響きから一変して、実に繊細な、か弱い音も追求します。そしてそれがバイエルンのしなやかな弦にかかると、若干の温かみも生まれてきます。ここでは、指揮とオーケストラが互いに補完し合って、つかの間の安らぎを与えてくれました。

ただ、全体的に、オーケストラの響きが強く練り上げられ、またまとめられるので、各パートの響きが階層的に聴こえてくることはあまりありません。また、フレーズ間の受け渡しは、幾分どれも足早に過ぎ去ります。もちろん、そのことによって音楽に勢いが生まれてきますが、さらにもう一歩構えるようにして「間」を置けば、音楽に柔らかい厚みが生まれてくるのかとも思いました。ともかく、そう思わせるほどに、オーケストラが一丸となって、一つとして響いてきます。

バイエルン放送響の硬質な響きは、ヤンソンスの指示に的確に応えます。打楽器群には非常に力がある上に、リズム感も抜群。小太鼓にて下支えされる第一楽章の行進曲風のリズムも、あれほど切れ味に鋭い演奏を聴いたのは初めてでした。また、最後までバテることのない金管、木管の厚みのある響き(特にクラリネットの強靭な響き!)、さらには鋭角的な弦のエネルギー。どれも当たり前のことかもしれませんが、極めて高い能力を持っていました。

アンコールは、グリークとストラヴィンスキーから一曲ずつ演奏されました。もちろんこちらも隙のない、前へ前へとどこまでも進み行くような、実に逞しい演奏です。ショスタコーヴィチの第5番の後とは言えども、何ら緩みのない音楽を聴かせてくれました。

抜群の能力を持つオーケストラを、威風堂々と統率し、さらに大きな一つの渦としてまとめあげること。ヤンソンスの隆々とした音楽は、その方向性にケチを付けることが許されないほど、高い完成度を示していたようです。また、実に圧倒される演奏ではありますが、聴き終わった後に、妙な疲労感を与えられることがありません。気持ちよくホールを後にさせてくれます。その辺も含めて、とても聴き応えのあるコンサートだったと思います。
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「松園と美しき女性たち」 山種美術館 11/19

山種美術館(千代田区三番町)
「生誕130年 松園と美しき女性たち」
10/8~11/27

上村松園(1875-1949)の生誕130周年を記念して開催されている展覧会です。山種美術館の所蔵する上村の美人画約18点の他、小倉遊亀や伊東深水などの作品も並びます。心なしか、いつもより観客が多いように思いました。うっとりと美人画に見入る。心安らぐ一時を堪能出来る展覧会でもあります。

上村松園の美人画が素晴らしいのは、女性の何気ない所作の淑やかさが、清楚な静謐感を持ちながら、実に端正にサラッと描かれている点にあるのではないでしょうか。誰しもが持つような、その人が最も美しく見える所作。上村は、女性のそんな仕草を描くのに極めて長けています。「庭の雪」に見る女性のしおらしさ。姿勢を少し前屈みにして、仄かに雪の舞う中を佇み、または歩いている様子。ピンク色の可愛らしいかんざしに調和するかのような、しっとりとした頬紅の艶やかさ。全てが気品を持ちながらも、また優し気な表情をたたえて、穏やかに見せてきます。この味わい。惹かれないはずがありません。

構図はどの作品も実にシンプルですが、それもまた、描かれた女性の淑やかさを際立せることになるようです。女性の周りを包み込むかのように、ゆったりととられた余白。その中でも一際目立っていたのは「牡丹雪」でしょうか。画面上部と右側に、大胆にとられた余白部分。傘を手にした女性が二名、湿り気を帯びながら落ちてくる牡丹雪に打たれています。ポツポツと、半ば無造作にも見える点にて表現される雪は、その余白の広さによって、さらに奥行き感を深めるようです。また、傘に降り積もる雪の白さも絶品です。そしてもちろん、女性の表情とその姿勢も素晴らしい。特に、右側の女性が裾を少し捲っている様には、どこか恥じらいを感じさせるような美しさを見せていました。

透き通るような白い肌を纏う着物も絶品です。着物はどれも落ち着きがあって、決して華美になり過ぎることがありません。淡い藍色や芝色にて、透明感を見せながら、薄く、厚みを持たないで描かれる着物の質感。絵柄も、構図に合わせたかのようにシンプルです。代表作「砧」に見る、薄い水色の着物の見事なこと。まるで肌の白みが着物へと浸透しているかのようです。

淡く美しい絵具の味わいは、例えば「新蛍」における簾の表現にも、その魅力を十二分に感じることができます。簾に透き通って見える女性の視線の先には、可愛らしい一匹の蛍。そして、簾の柔らかい丸みを帯びた表現と、女性の立ち姿の双方に見る曲線美。それらが、この淡い絵具にて絶妙に折り重なるのです。また、もう一点、簾が印象的な「夕べ」では、女性の持つ扇がまさに月のように朧げに照りだします。これにも惹かれました。

上村松園の作品以外では、小倉遊亀の二点、「舞う」(芸者と舞妓)が深く印象に残りました。こちらは、上村とは一転して、絵具がたっぷりと使われ、艶やかで瑞々しい質感を楽しむことが出来ます。見所はやはり、芸者と舞妓の両者が纏う着物の絵柄でしょうか。特に「芸者」の着物は、黒字に鮮やかな竹がダイナミックに配されて、左手を振り上げて舞う芸者の動きと連動します。白い帯びに力強く描かれた太い竹と、足元の水辺の絵柄へ向かって流れるように配された竹林の様子。着物の中で、ある種の美的世界が構築されています。

最後に、上村松園自身が述べた言葉を引用します。

「私は大てい女性の絵ばかりを描いている。しかし、女性は美しければよい、という気持ちで描いたことは一度もない。一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香高い珠玉のような絵こそ、私の念願とするところのものである。」(山種美術館発行「山種美術館の上村松園」より。)

会場にて一枚の写真に目が止まりました。それは、上村が扇をスケッチする様子を捉えたものです。(撮影は、かの木村伊兵衛。)姿勢を正し、険しい表情を見せながら扇を描く上村の様子。その厳しい眼差しには、「もの」を見抜く強い意思が感じられました。今月27日までの開催です。
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「対話するまなざし」 Breakステーションギャラリー 11/19

JR上野駅Breakステーションギャラリー(台東区上野)
「対話するまなざし -取手のアーティストたち- 」
10/29~12/8

上野駅正面玄関口「ガレリア」2階の展示スペースを使った小企画展、「対話するまなざし」です。いつものことながら、とても目立たない場所にあるガラスケースの中に、3名のアーティストによる約10点ほどの作品が展示されています。今、茨城県取手市にて開催中のアート・イベント、「取手アートプロジェクト2005」(TAP)の関連企画として行われている展覧会だそうです。

3名の中で特に気になったのは、正面に向かった左側に並んだ作品、森山優子の「water spirts」です。大きなキャンバスに、細かい鉛筆のドローイング。タイトルの通り、美しい水面の揺らめきなどを思い起こさせる作品ですが、その他にも、まるで絹の布地のような柔らかさや、はたまた雲の靡く秋空の広がりをもイメージさせます。もちろん、目を近づけてみると、非常に細かい鉛筆の線がたくさん積み重なったり、またぼかされたりしていることが分かります。パッと遠目で見ても、多様な美しいイメージを沸き立たせて、また、目を凝らして鑑賞しても、その細かいタッチに見入ることが出来る。どこか心惹かれる作品でした。

「対話するまなざし」というタイトルに、最も近いイメージを抱かせるのは、海老原靖の「The good son」でしょうか。こちらはキャンバスに油彩がたっぷりとのせられて、ズームアップされた人の顔が鮮やかに描かれています。こちらを見つめる眼差しと、赤く美しい絵具が印象的な大きな唇。タッチが横へ横へと流れるようになっているせいか、顔が映像的に、まるでかげろうのように見えてきて、どこかその脆さを感じさせます。実体のない誰かの顔の幻影。駅に交錯する無数の人間の痕跡。一瞬間だけこのガラスケースに映しだされた、見る者自身の顔のようにも思えました。

「取手アートプロジェクト2005」という名は、殆ど偶然に見た今回の展覧会で初めて知りましたが、1999年から取手市にて続けられている、市民参加型の大掛かりなアート・イベントのようです。もちろん、上野駅にてこのようにアピールするのは素晴らしいことかと思いますが、折角なら、常磐線の車両を幾つか使用してイベントを盛り上げたりすれば、さらに面白くなるのではないかと思いました。来月8日までの開催です。
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「喜多村徹雄×宮崎勇次郎」 トーキョーワンダーサイト 11/19

トーキョーワンダーサイト(文京区本郷)
「Emerging Artist Support Program 3 喜多村徹雄×宮崎勇次郎」
11/5~20(会期終了)

若手アーティスト支援を目的とする展覧会シリーズの第三弾。今回は、喜多村徹雄氏と宮崎勇次郎氏の個展でした。

気になったのは、二階にて展示されていた喜多村徹雄氏の「遊具連関Vol.7」です。展示室内に漂う強烈なゴムの臭い。「formative signification」と名付けられた鉄とゴムの三点の作品によって、奇妙なインスタレーションが構成されます。展示室に入ったすぐ左手の壁に留められている「05-07」は、1メートル四方、厚さ5センチ程度の白いゴム板が、緩やかな曲線を見せながら、一本の細い鉄の棒と交錯しています。壁に溶け込むようでもあり、またそこから生えているようでもある。ゴムと鉄の重みと、はたまた、逆の軽さをも感じさせる作品です。

展示室奥にて、ゴムがまるでクモの巣のように張り巡らされていたのは、「05-08」という作品です。床に置かれた大きな白い箱には、何本もの黒いゴムがゴチャゴチャに入っていて、それらが、周囲の壁に付けられた留め具に、ランダムに伸ばされ、また掛けられています。ゴムは、鑑賞者自身が任意に手に取って、留め具に掛けても良いとの事で、私も早速試してみましたが、そのゴムの配置によって、作品の空間構成が大きく変化します。ゴムを留め具へ向けながら、他のゴムと交差させて引っ掛けたり、または、あえて留め具からゴムを外して、別のゴムを取り出して引っ掛けてみる。手にはゴムの臭いがこびり付き、時には、既に張られた「ゴムのクモの巣」にも足をとられます。まさにゴムとの格闘です。ゴムの大きさ、長さもまちまちで、掛け方、組み合わせ方によっては、それまでとは全く違った空間を構成することも可能です。不思議なインスタレーションでした。

一階の展示室では、宮崎勇次郎氏の「楽々園」が展示されていました。入口には暖簾に「ゆ」の文字が、そして展示室中央には、「逆富士」と題された浴槽が置かれています。壁に飾られたいくつもの油彩画は、どこかシュルレアリスム的な雰囲気を漂わせますが、そこに描かれている一つ一つの事物は、まるで横尾忠則の作品のような、良い意味での「俗っぽい」味わいが感じられます。ステレオタイプ的な日本を示す富士山や盆栽(?)、それに和服の女性が、丁寧に、またのっぺりと油彩にて表現されます。もちろん、それらはどこか皮肉を感じさせる、斜めからの視点も持っていて、殆ど揶揄されているかように存在しています。また、UFOや、羽の生えた天使のような女性が描かれていたりと、遊び心も満載です。

次回、このシリーズの第四回目では、11月26日から元木孝美氏の個展が予定されています。ちなみに入場料は無料です。もう少し観客がいれば尚良いのかもしれませんが、こうして発表の場を与えるワンダーサイトの試みには、大いにエールを贈りたいと思います。
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「エトルリアの世界展」 イタリア文化会館 11/19

イタリア文化会館(千代田区三番町)
「エトルリアの世界展」
10/30~12/11

靖国神社の南、千鳥が淵のそば(山種美術館のすぐ近くでもあります。)に新しく建った、奇抜な赤の格子模様が印象的なビル。そこが会場の「イタリア文化会館」です。以前もこの地にあった施設とのことですが、立て替えられ、つい最近全面リニューアルしました。今ここで、そのオープンを記念した「エトルリアの世界展」が開催されています。

エトルリアと言うと、古代ローマの側からすれば、かなり初期の段階に滅亡、もしくは吸収・同化させられたイタリアの諸文明の一つように見えてしまいますが、実際は、古代ローマ誕生の遥か以前に、高度で一際洗練された文明を擁した、非常に力のあった都市国家連合だったようです。時期は、紀元前10世紀から4世紀ごろまで、独自の言語を使い、他地域とも交易して栄えたエトルリア。言語や人種の成立に未解明な部分も多く、ヨーロッパでは「謎に満ちた民族」とも呼ばれているそうです。非常に興味をそそられます。

この展覧会ではそのようなエトルリア文明を、イタリア各地の遺跡から出土した品々にて簡単に概観します。出展作品は約235点。大きな石棺から納骨容器、さらには金細工の首飾りなどの装飾品から陶器までが並びます。一点一点に詳細なキャプションこそ付きませんが、エトルリア文明の時代や内容区分に沿った各セクションには、なかなか充実した解説も用意されています。前提知識がなくとも何ら問題のない展覧会です。

私が最も惹かれたのは、紀元前7世紀頃の、つまりエトルリア史においてもかなり古い時期にあたる装飾品です。細部まで丁寧に模様が付けられた金の首飾り。直径2センチのペンダントが一本に束ねられています。大まかに言って、エトルリアの装飾品は実に無骨なものが多いのですが、金細工にはそこに繊細な意匠が加わります。首飾り以外にもいくつかの金細工が展示されていましたが、そちらもかなり精巧に出来ていました。見応え十分です。

また、同じ時期の骨壺「カーノボ型骨壺」(紀元前7世紀後半)も興味深い品です。全長は約60センチほどで、一番下に台座が配され、中程に二つの取っ手の付いた壷が、そして一番上には蓋のような役割をするのか、顔の形をした奇妙な突端部がかぶさります。壷には紋様がなく、一見無味乾燥ではありますが、一番上の顔の部分は何とも言えない滑稽な表情を見せます。形としてもとても独創的です。あまり他では見たことがありません。

エトルリア史の後半にあたる時期の品には、大きな石棺がいくつも展示されています。もちろん、そちらもそれなりに見所はありますが、不思議とどれも装飾が荒く、造形も甘いように思えます。私としてはこれらの品よりも、先ほど書いたような、もっと古い時期の品に魅力を感じました。

ところで、イタリア文化会館では、今後、イタリアの現代美術家を紹介する活動にも力を入れていくそうです。本来ならこの日も、今回の「エトルリアの世界展」に合わせた「イタリア現代美術展」が開催されているはずだったのですが、何故か「警備上の都合」(?)ということで、閉まっていて見ることが出来ませんでした。そちらに興味のある方は、一度問い合わせてからの方が確実かもしれません。
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「さわひらき展」 オオタファインアーツ 11/12

オオタファインアーツ(港区六本木)
「さわひらき展」
10/28~11/26

さわひらきは、今年1月、赤坂の国際交流基金フォーラムにて開催された「Have We Met?」展を見て以来、とても印象に残っていたアーティストでしたが、今回もまた魅せてくれました。六本木のオオタファインアーツでの個展です。

展示作品はビデオ・アート二点。まずは会場奥に配された、大きな三面スクリーンを使った作品、「Going Places Sitting Down」に目がいきます。舞台は西欧風ながらも日常的な室内。そこに小さな小さな可愛らしい木馬が、極めてスローにゆったりと、半ばミニマル的に、画面の端から端へと動きます。興味深いのは、各スクリーン毎に室内の雰囲気が異なることです。それぞれ、雪原や水面に見立てた場所が突如室内に現れて、そこを木馬や帆船が行き交う。日常的な場へ、あり得ないようなミクロの乗り物を動かすことだけでも、どこか日常と隣り合わせにあって、まだ誰も気がついていないような異世界を連想させるのですが、さらに場へ細工を加えることで、より一層お伽話の国のような、幻想的なイメージを呼び起こします。誰もいない室内でハッと後ろを振り返ってみたら、そこは一面の雪原で、小さな木馬がゆっくりと動いていた。小さい頃、身の回りの場所に自分の知らない世界があって、そこに「小人の国」があったりしたら楽しいなあと空想したことがあるのですが、それをさらひらきはアートで表現してくれました。また、毎度お馴染みの、超ミクロな飛行機も登場します。あの飛行機、見ているとどうしても乗りたくなってきますが、さて空港はどこにあるのでしょうか。

もう一点は、会場入口右手の小さなディスプレイ、「Eight Minutes」です。こちらは、洗面所や浴室内にて、小さなヤギがひたすら走ります。もちろん、ヤギの動きは、これまた時間の進みを遅くしたのかのようにゆっくりとしています。背景には、遊園地風の観覧車などがチラホラ。この何とも言えない時間の流れと、「日常内異世界」とも言える場。今回二度目の拝見となりましたが、見る度に好きになります。

さらひらきは、横浜トリエンナーレでも展示があるとのことで、そちらも楽しみになってきました。26日までの開催です。おすすめします。
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「BankART Life 24時間のホスピタリティー」 BankART 1929

BankART 1929(横浜市中区本町)
「BankART Life 24時間のホスピタリティー」
10/28~12/18

横浜トリエンナーレ2005の連動企画として、横浜市中心部の歴史的な建物を利用して開催されている展覧会です。会場は二カ所。一つ目は、1929年建造で、馬車道駅の近くにある旧横浜銀行本店別館の「BankART 1929」。もう一つは、そこから五分ほど海の方へ歩いた所にある「旧日本郵船倉庫」の「BankART Studio NYK」です。

展覧会のテーマは「ホスピタリティー」。会場時間は何と24時間で、トリエンナーレ関係者及びボランティアは、宿泊も可能とのことです。ちなみに、私のような一般の客は、11時半から19時半(金曜は22時)までの入場となりますが、ともかく会場には、集う、寝る、憩う、と言ったような「くつろぎの場」が現代アートにて展開されています。なかなか面白い企画でした。

「BankART1929」の会場で、最も心地よくくつろげたのは、3階の開発好明の作品です。真白いフカフカのカーペットが敷かれた円形のスペース。もちろん私も靴を脱いであがり、少し寝そべってみました。中央部にはTVがあり、そこでは何らかのインスタレーションの模様が放映されています。また、スペースの周縁部には白い小さな棚が配されていましたが、そこにはカバーを裏返して、表の全てが真白になったマンガや文庫本などがズラリと並んでいます。まさかアートを見に来てマンガを寝転びながら読もうとは…。嬉しい仕掛けでした。

3階のスペースでは、他にも、みかんぐみや岡崎乾二郎らが、巧みな居住空間を作り上げています。特に岡崎の作品は、もはや純和風のリビングとしか言い様のない空間で、これでお茶や和菓子などが出てくればと、思わず余計なことまで考えてしまうほどです。また、2階の「Electronical Fantasista」のコーナーにあった、動くテーブルは、くだらなさ満点で笑えます。さらに、地下一階の「映画の部屋」は、ズバリそのまま映画が延々と流されている部屋なのですが、その暗がりもなかなか心地良い空間に仕上がっています。

海に面した倉庫をそのまま使った、もう一つの会場「BankART Studio NYK」でも、同じテーマに沿った作品が展示されています。こちらは「BankART1929」に比べると、くつろぎの空間というよりも、面白みや非日常の空間を創造しているような作品が目立ちました。

ここでは、何と言っても3階の牛島達治のインスタレーションが圧巻です。丁度、私がこの場に着いた時は、既に日没後だったのですが、これからお出向きの方、暗くなってからのご観覧を是非おすすめします。かなり広くまた古い倉庫の三階。照明は最低限に押さえられて、殆ど暗闇の中に立たされます。老朽化したコンクリートが剥き出しなった壁や柱。この3階だけは、手が殆ど加えられていません。何かが化けて出そうなくらい、気味の悪い、カビ臭さすら漂う場所。そこに、牛島の作品が忽然と現れるのです。

特に存在感があるのは、一番奥の空間にて構成された作品です。床一面に張り巡らされた一本のロープ。それは、幾つかの滑車を経由しながら、床のあちこちへと移動します。そして空間の中央には、そのロープにて吊るされた二つのバケツです。ロープの動きに合わせて上下に小刻みに動きます。ギコギコと不気味な音をたてながら、ひたすら床を這いつくばるロープとバケツの連動。シーンと静まり返った暗闇とコンクリートの匂い。なかなか尋常ならぬ空間が体験出来ます。また、もう一点、手前の部屋にて展示されていた、器械仕掛けにて、延々と床に模様を書き続ける作品も、面白く見ることができました。

ところで、「くつろぎ」と言えば、私はやはりバスルームを思い出してしまうのですが、西田 司+志伯健太郎の作品には、バスルームとベットルームが一体となった空間が作り出されていました。またその部屋には、天井からゆっくりと仄かな光も心地よく差し込みます。まるでゴミの家のような昭和40年会の作品や、いくつか会場に転がる、寝袋を巨大化させたような作品などと合わせて、実にインパクトのある作品です。

古い建物や、もしくは美術館ではない場にアートを持ち込むこと。トリエンナーレや以前見たCET2005も同じかもしれませんが、非日常を何気ない角度で面白く見せてくれます。廃墟の再利用。アート自体の面白さもさることながら、その場の雰囲気をも楽しむことが出来ます。トリエンナーレの混雑に疲れた際にでも、是非おすすめしたい展覧会です。
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森山大道さんの未発表作品?! 雑誌「Pen」の特集より

今まで立ち読みすらしたことがないどころか、その存在も初めて知った雑誌「Pen」(阪急コミュニケーションズ発行)ですが、先日、電車内に掲げられていた「Pen」の吊り広告を見て、少し手に取ってみることにしました。もちろんその理由は、黒地に白抜きの文字にて大きく書いてあった、「社会をクリエイトする、写真家の仕事。」が気になったからです。

この「写真家」特集では、今、世界で活躍する写真家が、約15名ほど紹介されています。もちろん、その中の一人に、我ら(?)の森山大道さんもいらっしゃるわけですが、他にも、丁度、先日から竹橋の近代美術館にて個展を開催しているアウグスト・サンダーや、昨年オペラシティにて大規模な個展を見せたヴォルフガング・ティルマンス(その時の拙い感想もありますが。)、それにいつも興味深い作品を見せてくれる米田知子などが紹介されていて、さほど「読ませる」記事ではないものの、写真も贅沢にいくつか使って、それなりに見応えのある紙面作りとなっています。

ただ、おそらくそれだけの内容であったら、いくらこの雑誌が500円というリーズナブルな価格であるにしろ、手に取ったまま棚へと戻す、要は「立ち読みにして終了。」(書店の方ゴメンナサイ…。)ということになっていたかもしれません。しかしそこで、私にこの雑誌をレジへと持っていくことにさせたのが、この「森山大道さんの未発表作品」です。

「森山大道、渇いたエロティズム」と題された5枚のモノクロ写真。もちろん、雑誌のページに印刷されたものなので、質感十分というわけにはいきませんが、それでも、光と影の交錯する白昼夢のような場所で、不気味に美しく照りだす女性の艶やかな姿が、幾分メタリックな気配で写されています。長くさらけ出した素足にだけを捉えた、まるで石像を写したかのような重厚感を与える作品や、鈍く照るアスファルトの上で、壊れたヒールがポツンと一足転がっている様子を写したものまで、どこか刹那的でもあり、非現実のような幻想性を帯びた写真が並びます。また、光の粒子を巻いたのか、はたまた被写体一つ一つの細胞が光源となっているのか、各々の表面が細かい粒状になってザラッと光り出すような、森山さんのモノクロ写真に独特の味わいも絶品です。そして、三枚目にある見開きサイズにて掲載された、半裸の女性が写された作品は、首筋から背中にかけてのラインが実に美しく、艶と肉を両方で捉えながらも、やはりどこか硬質感も漂わせるという、大変に奥深い写真に仕上がっています。さすがです。

そして最後に、その森山さんを評して述べた、かの荒木経惟さんの一言、「みんな、森山さんの写真の白と黒のコントラストのことばかりを語るけれど、本当は、白と黒の間にある『灰色』にこそ、森山さんの写真の凄さがあるんだ。」も、さり気ない表現ながら本質をついています。納得です。

というわけで、この5枚のために、柄にもあわない雑誌を購入することになりました。森山ファンの方、いらっしゃいましたら是非一度ご覧になってみては如何でしょうか。
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東京都交響楽団 「ショスタコーヴィチ:交響曲第1番」他 11/14

東京都交響楽団第616回定期演奏会Aシリーズ

武満徹 弦楽のためのレクイエム
モーツァルト ヴァイオリンとヴィオラと管弦楽のための協奏交響曲
ショスタコーヴィチ 交響曲第1番

指揮 ジェイムズ・デプリースト
ヴァイオリン 矢部達哉
ヴィオラ 鈴木学
演奏 東京都交響楽団

2005/11/14 19:00 東京文化会館4階

「デプリースト ショスタコーヴィチ・シリーズ」と名付けられたコンサートの第一回目。常任指揮者デプリーストが久々に登場しての、都響の定期演奏会です。

一曲目は、武満徹の「弦楽のためのレクイエム」です。武満の音楽の中でも、比較的頻繁に、在京オーケストラの公演プログラムに登場する曲ではないでしょうか。弦5部による美しい弦楽合奏。リズム感は実にソフトで、両手を大きく広げるデプリーストの指揮から、芳醇なサウンドが生み出されます。「レクイエム=鎮魂曲」のイメージをあまり感じさせないような、自由で大らかな自然讃歌にも聴こえてきます。途中、ハーモニーにやや難があったようにも思えましたが、まずまずの出足と言ったところでしょうか。

続いては、モーツァルトの協奏交響曲です。ヴァイオリンとヴィオラのソロは、共に都響のメンバーである矢部達哉と鈴木学が務めます。また、「都響のメンバーとソリストたちに誇りを持って委ねたい」というデプリーストの意向によって、指揮者なしでの演奏となりました。まるで、都響のメンバーによる室内楽のサロンのような雰囲気です。

当然ながら、アプローチは古楽器演奏的なものではありません。広がりのある都響の弦と管の響きの上に、矢部のヴィブラートを良く効かせたヴァイオリンの調べ。それに対して鈴木のヴィオラの表情はやや硬めです。第一、第二楽章でのカデンツァでは、両者がぶつかり合いながらも時に寄り添って、なかなか美しい調べを奏でいましたが、やはりもう一歩、ヴィオラの響きに強度が増せば、より良かったも思います。オーケストラでは、管、特にオーボエが好調です。タンギングを短めにしながら、小気味良い音を、オーケストラ全体からプカッと浮き上がらせます。これは見事でした。

メインは、ショスタコーヴィチの交響曲第1番でした。この曲は、ショスタコーヴィチ自身が音楽院を卒業する際に書かれたものということで、かなり若い時期の作品に当たりますが、他の一連の交響曲の中に置いても全く見劣りしないどころか、むしろ実に聴き応えのある曲です。どの部分を切り取っても、次から次へと面白いフレーズが飛び出して来る、まるで音の玉手箱のような音楽。デプリーストは、その印象的な各フレーズを、丁寧に陰影を付けてなぞります。第一楽章でのファゴットとトランペットの対話は、どこか抑制的な響きを聴かせますが、行進曲風の主題では、まるでジャズのようなリズムになって、軽快に愉しく音楽を進めます。また、全体でも、時にはハリウッド映画のBGMのごとく大胆に派手に鳴らす一方で、例えば第三楽章などでは情感豊かに掘り下げ、その響きを穏やかに解きほぐします。もちろん、目まぐるしく曲想の入れ替わる第四楽章の処理も見事です。この曲に明暗があるとすれば、その明の部分へスポットを当てた、妙に深刻ぶった表情を付けない優れた演奏だったのではないでしょうか。最後のコーダも実に開放的に響きました。

都響は力強くデプリーストの期待に応えていたようです。一曲目で感じさせたようなモヤモヤ感は殆ど消え去り、各パートの響きに明瞭さが増していきます。コントラバスはゴリゴリと逞しく奏でて、トロンボーンも勇ましい。もちろんティンパニの打ち込みも全体を支えるように強度をもっていました。それぞれがしっかりと最後まで鳴りきる。力のある指揮者が振れば、都響は実に魅力のあるオーケストラだということが良く分かるような演奏でした。

昨年、失礼ながらもあまり期待せずにデプリーストのマーラーを聴き、思いがけないほどに良い演奏で驚いたことがありましたが、今回も、彼のエンターテイメント的とも言えるセンスの良さを見せた、楽しめるショスタコーヴィチを聴かせてくれたと思います。今後もショスタコーヴィチをシリーズ化して取り上げるとのことで、私も是非聴き続けていきたいです。(次回の予定は2006年9月、「芸劇シリーズ」での「第5番」。少し間隔があくようです。)
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「野地美樹子展」 いつき美術画廊 11/12

いつき美術画廊(中央区京橋)
「野地美樹子展」
11/7~16

主に日本画の技法を用いて、椅子や樹木、それに花々などを、淡いタッチで描く野地美樹子さんの個展です。1978年生まれの若い方で、院展入選の経験もおありな、新進気鋭の日本画画家でいらっしゃるようです。「芸力 Recommend & Review」掲載の展覧会でもあります。

まずは、上に画像をアップした「秋の童話」です。窓に差し込む穏やかな薄明かりや、風にほのかに舞う美しく色付いた銀杏の葉、それに木々の淡い影が、日本画の顔料をもって、精緻に、また柔らかい感触で描かれています。下から窓を見上げたような構図感も素敵で、見ていてホッとするような温かさを感じさせます。この作品の白眉は、やはり「秋」の気配を存分に感じさせる部分でしょうか。吹き荒む木枯らしの心地よい冷気や、透き通った空気の気配をも意識させる作品です。

また作品の温かみと言えば、雪景色を描いた作品からもそれが感じられました。木々の立ち並ぶ一面の銀世界に、可愛らしい狐が一匹駆け抜ける様。特に印象的なのは木々から長く手前に伸びている影の描写です。陽の明かりが雪に反射して、画面いっぱいに燦々と降り注ぐ。それが木の影を介して、まるで光のシャワーを浴びているような気持ちにさせます。この個展に出品されていたものの中では、一番惹かれる作品です。

顔料と石膏を組み合わせて、画面に立体感をもたらした作品もいくつか並んでいました。その中では二つの椅子を描いた「Mandarin」が、特に素朴な味わいを感じさせる優れた作品でしょうか。二対の椅子の上には、トランプに果実、それに一輪の花が、静かに置かれています。右下には一匹の黒猫。尾を長く伸ばし、ちょこんと座るその可愛気な様子。石膏にて立体感を生み出した画面は、日本画の作品にもあったような温もりをさらに増す形で感じさせます。全体のややくすんだ色合いも味わい深く、少しいびつに曲がった椅子も、まるでそれが生きて呼吸しているかのように描かれていました。

日本画の題材としては王道的な存在でもある、桜や楓を描いた素朴な作品も展示されています。それぞれから沸き上がる事物の仄かな温かみ。そこにさらにものの重みが加われば、さらにより一層素晴らしくなっていくのではないかと思いました。明日までの開催です。
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エリアフ・インバル、都響に再登場!

昨晩は上野へ出向き、都響の定期を聴いてきたのですが(拙感想はまた近日中にでもアップします。)、会場にて来シーズンの演奏会のラインナップが発表されていました。その中で特に注目したいのは、来年の11月のコンサートです。エリアフ・インバルが、都響のステージに再登場します。

私がインバルに接したのは、ただ一回きり、1999年10月の都響のコンサートでの「ワルキューレ第三幕」(演奏会方式)でした。私はその頃、丁度クラシックのコンサートへ通い始めた時期だったのですが、このコンサートの様子は今も深く印象に残っています。荒れ狂う弦と管の壮絶な咆哮。音楽の力感の凄みに心底驚き、また感銘しました。

当時のベルティーニとインバルは、都響を車の両輪ように支えていました。私はてっきり今後も、二人が都響でまた名演を繰り広げてくれるのかと思っていたのですが、いつの間にか気がつかないうちに、インバルの名が都響のラインナップから消えてしまったのです。(またベルティーニもあのような悲しい形となってしまいました。)もちろん、インバルはその後もフランクフルト放送響などと頻繁に来日しています。私がそれを聴きそびれているだけではありますが、あの日のコンサートは、インバルの名を心に深く留めさせました。彼は、私がクラシックに接した初めの頃に、生のコンサートの素晴らしさを教えてくれた指揮者の一人とも言えるでしょう。そしてその彼が、再び来年ステージへとあがるのです。これは待ちに待った朗報です。

予定では、来年11月19日のプロムナードコンサートと、24日の定期Aシリーズ、さらには25日のBシリーズに登場します。しかしながら、曲目はまだ未定です。同時に発表されていた他のコンサートのラインナップでは、全ての曲目が公表されていたので、少しヤキモキもさせるアナウンスですが、「また都響でインバルが聴ける。」と信じて、来年の11月を楽しみに待ちたいと思いました。
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