Various Topics 2

海外、日本、10代から90代までの友人・知人との会話から見えてきたもの
※旧Various Topics(OCN)

欧州石炭鉄鋼共同体とGroupe Collaboration-1

2024年04月27日 | ウルズラ・フォンディアライエン・EU・冷戦

乗っ取られたのはベルギー王室も?-1 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

の中で私が「α」と書いたのは、簡単に言えば「欧州石炭鉄鋼共同体」を作り上げた人々です。それにはおそらくGroupe Collaborationと関係が強かったのではないか、と私は思います。

ナチスに協力したフランスのGroupe Collaboration-番外編(第二次世界大戦とSynarchism) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)


欧州石炭鉄鋼共同体 - Wikipedia

抜粋:

欧州石炭鉄鋼共同体(おうしゅうせきたんてっこうきょうどうたい、英語:European Coal and Steel Community、略称:ECSC)は、冷戦期に欧州6か国が設立し、歴史を経て欧州連合となった国際機関。

概要

欧州石炭鉄鋼共同体はシューマン宣言に基づき、1951年のパリ条約により設立された。条約の調印にはフランスとドイツ(当時は西ドイツ)だけでなく、イタリアとさらにオランダ、ベルギー、ルクセンブルクのベネルクス3か国も加わった。欧州石炭鉄鋼共同体の発足によりこれらの調印国の間で石炭と鉄鋼の共同市場を創設することが企図されていた。欧州石炭鉄鋼共同体は加盟国政府の代表、議会の議員、独立の立場にある司法の監督を受ける最高機関の下で運営がなされた。

1956年、石炭価格規制が解除されて加盟国間で価格が自由化された。自由化直後は、翌年に連邦議会選挙を控えて、ゲオルクを解散するなどして石炭価格は低く抑えられていた。選挙が済むやいなや、炭鉱会社は価格の引き上げをECSCの高等機関へ一斉に働きかけた。価格は据え置かれて、石炭需要側はアメリカ炭に切り替え出した。

そこで西ドイツは1969年まで石油税を課した。[1] 1957年のローマ条約では欧州経済共同体と欧州原子力共同体が設立された。欧州石炭鉄鋼共同体は、これらと加盟国や一部の機関を共有した。1958年にアメリカ炭がダンピングをかけてきて、また1960年には世界の重油価格が1958年比で5/8程度に急落した。[2]

1967年、ローマ条約に鼎立した欧州諸共同体の運営機関が統一された。諸共同体は存置された。この後西ドイツは年率10%のペースで石油の消費量を増やし、天然ガスの使用量も倍増させ、原子力発電も実用化しだした[3]。より具体的には、ジーメンスとAEGの共同子会社KWU が、AEI系7カ国コンソーシアムのTNPG と技術協定を結んだ。TNPG は既にヒンクリー・ポイントBを建設した実績があった。後にハンターストン原子力発電所B原発も建設する。

これより先、欧州石炭の国際競争力は失墜した(#成果と失敗)。外資が投下され、金融面ではユニバーサル・バンク化が進んだ。ベルリンの壁崩壊翌年にドイツで固定価格買い取り制度が導入された。 2002年にパリ条約が失効し、特に更新もなく、欧州石炭鉄鋼共同体の活動や資源は欧州共同体にうけつがれた。

(中略)

1919年に出版した『平和の経済的帰結』において、ジョン・メイナード・ケインズがヴェルサイユ条約を「ヨーロッパの経済復興に資する条項を一つだに設けていない」と批判した。そこでケインズが示した具体案にはECSC構想と理解できる部分が存在した。それは次のような計画であった。連合国が設立した石炭委員会を国際連盟の付属機関として、ここにドイツだけでなく中東欧諸国と北欧中立国も参加させ、国際連盟の管理下で石炭生産体制をつくるというものである。[6]

1926年に結ばれたEntente internationale de l'acier という国際カルテルがECSC の土台となった。

1950年5月9日(のちにヨーロッパ・デーとされる)に発表されたシューマン宣言は次のように述べている。

ヨーロッパの他の国々が自由に参加できるひとつの機構の枠組みにおいて、フランスとドイツの石炭および鉄鋼の生産をすべて共通の最高機関の管理下に置くことを提案する。


ロベール・シューマン - Wikipedia

ジャン=バティスト・ニコラ・ロベル・シュマン(Jean-Baptiste Nicolas Robert Schuman, 1886年6月29日 - 1963年9月4日)は、ルクセンブルクで生まれ、ドイツで育ち大学で学んだあと、フランス占領後にフランスの政界に入り、やがてフランスの首相・外相になったドイツ系の政治家。独仏和解、ヨーロッパ和解を象徴する人物とされている。共和国民運動の党員で、欧州連合の父の一人とみなされている。

(中略)

1939年から1940年にかけ継続的に、ドイツとフランスが相互の敵愾心を乗り越えて和解するよう、独仏和解、ヨーロッパの和解を、友人や周りの人々に語りつづけており、1940年に国会議員であったシューマンはペタンへの全権委任に賛成票を投じた。

 

Ernst Albrecht (politician, born 1930) - Wikipedia


戦後、ウルズラ・フォン・ディア・ライエンの父親は、まず欧州石炭共同体に努め、やがて州知事も務めますが、この時の主政府は元ナチスを持ち上げていたとのこと。

オマケ:

Copilotという機能-7(「Various Topics goo Copilot」) - Various Topics 2

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乗っ取られたのはベルギー王室も?-2

2024年04月26日 | オリベッティ・反ファシスト

1944年~。弟のシャルルを摂政にしたベルギー政府がしたことの一つ。

ベルギー領コンゴ - Wikipedia

抜粋:

マンハッタン計画ではユニオン・ミニエール専務のエドガー・サンジエが重責を担った。1940年、彼はウラン鉱石をアメリカへ集中輸送した[2]。 1944年6月13日、フランクリン・ルーズベルト米大統領とウィンストン・チャーチル英首相はケベック協定に基づき、ワシントンD.C.にCombined Development Trust[3]を設立する合意文書を作成した。

このトラストには合衆国・イギリス・カナダがそれぞれ2人ずつ代表を送った。議長は合衆国代表が務めた。このトラストはユニオン・ミニエールと三つの契約を交わした。9月の契約は、カナダとのラジウム生産競争に負け、1935年に閉山していたユニオン・ミニエールをトラストが必要経費を負担して再開させるというものであり、トラストがユニオン・ミニエールから鉱石を購入する際の単価も決められていた。

残り二つの契約は、時系列に沿って叙述するために、次のベルギー政府を相手取った交渉を書いてから説明する。

1944年末、ベルギー政府は以後十年間にわたりアメリカ合衆国とイギリスのみにベルギー領コンゴのウラン鉱石を売却することを約束した。9月19日に暫定取決めの先行したこの約束は旨みが薄く思われた。九条(a) は商業エネルギー利用の開始から英米に対等な条件でベルギーの参加を認めるとしていた。しかし、他には何も国益を見出せなかった。[独自研究?]国民に顔向けできないばかりか、ウランの産出そのものに対する国際世論の風当たりも強かったので、契約内容は特定秘密であった。

1945年10月、トラスト=ユニオン・ミニエール間で残り二つの契約が結ばれた。一つは鉱石1万トンをポンドあたり1.9ドルで購入することとした。もう一つは1956年に政府間の協定が失効するまでなるべく多く採掘すること、代金がドル建てとポンド建て半々となること、軍事利用されることを定めていた。1946年初頭にベルギーがウラン供給を国有化する法案を提出したので、契約当事者は狼狽した。[要出典]ベルギー首相は議会を解散させ、自動的廃案へもっていった。ベルギー領コンゴのウラン事業はエドガーの活躍もあって軌道に乗りだした。

 

戦時中のベルギー政府の説明を英語版Wikipediaより-

Belgian government in exile - Wikipedia

Google翻訳:

ロンドンのベルギー政府(フランス語: Gouvernement belge à Londres、オランダ語: Belgische regering in Londen)は、ピエルロ 4 世政府としても知られ、第二次世界大戦中の 1940 年 10 月から 1944 年 9 月までベルギーの亡命政府でした。 政府は三者構成であり、カトリック党、自由党、労働党の閣僚が参加した。 1940年5月にナチス・ドイツによるベルギー侵攻後、ユベール・ピエルロ首相の下、ベルギー政府はまずフランスのボルドーに、次にロンドンに亡命し、そこで連合国に対するベルギーの唯一の正当な代表としての地位を確立した。

自国ではもはや権限を持たないにもかかわらず、政府はベルギー領コンゴを統治し、戦後復興について他の連合国と交渉を行った。 戦時中に亡命政府が結んだ協定には、ベネルクス関税同盟の創設やベルギーの国連加盟などが含まれていた。 政府はベルギー亡命軍内にも影響力を行使し、地下レジスタンスとのつながりを維持しようとした。

政治的には、戦間期のベルギー政治はカトリック党によって支配されており、通常はベルギー労働党(POB-BWP)または自由党と連立を行っていた。 1930 年代には、ベルギー国内でファシスト政党の人気も高まりました。 最も注目すべきはレックスであり、1936 年の選挙で得票率 11% を記録した。 1930 年代初頭から、ベルギーの外交および国内政策は中立政策によって支配されていました。

国際条約や同盟を離脱し、イギリス、フランス、ドイツと良好な外交関係を維持しようと努めた[2]。 この政策にもかかわらず、ベルギーは 1940 年 5 月 10 日にドイツ軍によって何の前触れもなく侵攻されました。

(中略)

 君主制が政府とともに亡命したオランダやルクセンブルクとは異なり、レオポルド3世は政府の助言に反して軍隊とともにドイツ軍に降伏した。 降伏の数日前に、彼は親ナチスの社会主義者アンリ・ド・マンの下で新政府を樹立しようとしたと言われているが、これは実現しなかった[5]。

彼は戦争の残りの間、自宅軟禁下でドイツ軍の捕虜となった[5]。 政府はフランス亡命中のドイツ当局と一時的に交渉を試みたが、ドイツ当局はベルギー政府関係者の帰国を禁じる法令を可決し、交渉は断念された[6]。ベルギー政府はロンドンに亡命。

 

参考:

エドガー・サンジエ - Wikipedia

ユニオン・ミニエール - Wikipedia

Hubert Pierlot - Wikipedia

ポール・アンリ・スパーク~ロバート・ロスチャイルド - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ロバート・ロスチャイルド-ロスチャイルド一族ではない、1984年に男爵/爵位をベルギー国王から授かった外交官 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

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乗っ取られたのはベルギー王室も?-1

2024年04月26日 | オリベッティ・反ファシスト

イタリアン・ファシズム-3(乗っ取られたように感じるサヴォイア家) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

で、

③番目のスイスに逃げたサヴォイア家(サヴォイア・カリニャーノ家)ですが、よく考えてみるとスイスに逃げたのは元ベルギー王女と子供たち。当時の党首のヴィットリオ・エマニュエーレ3世は戦後はエジプトに逃げ、彼の息子ののウンベルトはポルトガルに逃げ、そして彼の孫はベルギー王女だった母親とスイスへ逃げたので、この段階でサヴォイア家は実質ベルギー王室(+α)が乗っ取った形になったのではないでしょうか?

と書きましたが、「ベルギー王室(+α)」というよりも、「α+ベルギー王室」と本当はしたかったところ。

 

第二次世界大戦前後、ベルギーのアルベール1世は1934年に山中で遭難。58歳没。

アルベール1世 (ベルギー王) - Wikipedia

跡を継いだレオポルド3世の妻アストリッド王妃は1935年に29歳で自動車事故死。(運転していたレオポルド3世は無事)。

レオポルド3世は反ユダヤで(策略もあってか)ナチスより。ベルギー亡命政府と対立。

レオポルド3世 (ベルギー王) - Wikipedia

1944年~1950年は弟のシャルルが摂政になり、

シャルル・ド・ベルジック - Wikipedia

1951年でレオポルド3世が退位し、息子のボードゥアン1世を国王に。1993年に62歳で心不全で崩御。

ボードゥアン1世 (ベルギー王) - Wikipedia

(その後、

アルベール2世 (ベルギー王) - Wikipedia

フィリップ (ベルギー王) - Wikipedia)

 

1944年~1950年のシャルル弟帝の摂政時代から、ベルギー王室は「α」に操られるようになったのだと思います。

シャルルのフランス語版Wikipediaから-

Charles de Belgique — Wikipédia (wikipedia.org)

抜粋Google翻訳:

摂政をしたシャルル時代

1944年6月9日、国王レオポルド3世とその家族がドイツ軍に連行される間、シャルル皇太子はサルト・レズ・スパの小さな農場に隠れていた。 1944年9月、ベルギーはベルギー部隊の参加により連合国によって解放されたが、国王はドイツのどこにいるのかを知る捕虜となっていた。 この状況では、国王が不可欠な部分である行政権を完全なものにするために、王権の空席を埋める必要がある。

政府は1944年9月から4年半にわたりその政策について議会の承認を求め、その過程で摂政をシャルルに委任する提案を決定した。

(中略)

 その後、シャルル皇太子は憲法上の摂政宣誓を行い、1944年9月20日に摂政に就任した。こうして彼は、国王の不在によって首を切られた君主制を救い、同時に、実行される政策に対して議会が与える承認を支持した。戦争中ずっと亡命政府によって。 以後、シャルルは1950年7月20日にレオポルド3世がベルギーに帰国するまで王室大権を行使することになる。

(中略)

摂政太子の治世下、ベルギーは 1945 年の国連設立に参加することで国際的な役割を取り戻しました。創設会議の議長はベルギー外務大臣ポール アンリ・スパークであり、同氏は 1939 年から継続してその職を務めていました。戦争中ずっと自由政府で。 その後、1948 年の NATO に続き、1949 年に欧州評議会が設立されました。ベルギーがこの条約に加盟したことにより、冷戦の圧力下でベルギー軍の大規模な再軍備が行われました。 軍はまた、ベルギー国境から鉄のカーテンまで広がるドイツのNATOのニッチな軍事地帯を占領することになる。 この場合、1940年にドイツに攻撃された小国の中でベルギーは唯一である。 この政策には摂政の同意が与えられており、摂政の連署がなければ不可能であったであろう。

これは、スイスに強制亡命​​させられた国王との論争を引き起こすことになる。 彼は、1940年にこの国に留まることで統治の不可能性が定められたが、最終的に議会によって解除されるまで待たなければならない。 1945年から1946年にかけて、摂政やアキレ・ヴァン・アッカー首相などのベルギー閣僚らとの嵐のような会見の後、レオポルド国王は、さまざまなベルギー政府の政策に対してあまりにも自己満足しすぎていると考えた弟に対して敵意を示し、そして何よりも、ロンドン亡命政府の政策を支持。 このようにして、摂政は就任後、次のような連合国との経済協定をカバーした。

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赤十字創設と宗教と政治-2(スイスの旗、赤十字の旗・ギュスターブ・モアニエ)

2024年04月25日 | 人物

赤十字-私たちはスイスの国旗を思い浮かべるけど、

デンマークの国旗 - Wikipedia

赤地に白い十字というのは、これはサヴォイア公国の旗でありました。

Flag of Savoie - サヴォイア公国 - Wikipedia

Coat of arms of the Duchy of Savoy (XV-XVI century) - サヴォイア公国 - Wikipedia


(赤字に中心がずれた白いずれはデンマークの国旗

デンマークの国旗 - Wikipedia

 

1860年1月にサヴォイ王からアンリ・デュナンとルイ・アッピアに「聖マウリッツオ、聖ラザロ騎士団勲章」を授与。

聖ラザロ騎士団 - Wikipedia

 

「赤十字」はスイスの旗を反転させた、と言われているようですが、実は「サヴォイアの白十字を反転」とも考えられるのでは?

 

赤十字設立の始まりから見ると、起業家だったアンリ・デュナン一人が初のノーベル平和賞を受賞するよりも、医師のルイ・アッピアのほうがノーベル平和賞にふさわしかったのではないかとも思うし、ギュスターブ・モアニエなしに赤十字が創立できなかったはずなのに、モアニエの名が出てこないのは不思議です。。

ギュスターヴ・モアニエ - Wikipedia

抜粋:

赤十字国際委員会の創設

1863年2月、モアニエ自らが議長を務め、当時のスイスで国家的英雄とみなされていた陸軍の将軍ギヨーム・アンリ・デュフールを委員長に迎えて、デュナン、軍事医学の大家と呼ばれた外科医師のルイ・アッピア、同じく外科医のテオドール・マウノワールの5人による「国際負傷軍人救護常設委員会(通称「5人委員会」)」をジュネーブで結成した[14]。

同年9月にベルリンで開催される国際福祉学会に提出する草案作成のため、モアニエからデュナンの案を提示されたジュネーブ公益福祉協会が、この草案の起草委員会として5人を任命したもので、デュナンの主張する「戦闘中の負傷者を敵味方の区別なく救護するための組織の創設」の妥当性を調査するための機関でもあった[12]。1863年2月17日、この5人委員会の最初に開かれた本会議で、これを恒久的な委員会をしてゆく方針が決定され、後の1867年に誕生する赤十字国際委員会(ICRC)の母体となった[12]。1863年2月17日は、後年の赤十字国際委員会によって「赤十字誕生の日」とみなされている[14]。

赤十字の組織創設をめざし、デュナンが自著を配布して遊説に努めた一方、モアニエは国際会議の開催を提案した[15]。1863年10月26日からの4日間、ヨーロッパの14か国から代表者36名が集う国際会議が開催され、5人委員会が用意した原案に基づく審議が行われた[15]。ここでモアニエは議長を務め、採択された「赤十字規約十カ条」に基づいて1年以内にプロシア、フランス、デンマークなど10カ国で赤十字の母体となる救護団体「負傷軍人救護協会」が組織された[15]。

1864年3月13日、デュフールが名誉総裁に退き、モアニエが赤十字国際委員会総裁に選出される[16]。


「赤十字の標章」1864-1868年
さらに翌1864年、スイス政府の主催した国際会議で16カ国の政府代表者26名が集った[15]。モアニエは、デュフール、レマン医学博士とともにスイス全権大使として外交会議に挑み、デュフールが議長をつとめ、モアニエが主導し、5人委員会の準備した条約草案が最初のジュネーブ条約「戦地軍隊ニ於ケル傷者及病者ノ状態改善ニ関スル1864年8月22日のジュネーブ条約」が締結され、白地に赤十字を描く「赤十字の標章」が正式に承認されることとなった[15]。事実上、モアニエのペンから生まれた条約であった[1]。

1867年、アンリ・デュナンは、社長としてアルジェリアで行っていた事業の失敗から、自身が理事に就任し、自身の他の事業の転売先ともなっていたジュネーブ信託銀行の倒産を招き、莫大な負債を負って破産宣告を受けた[17]。経営破綻の主な原因はデュナンにあったことから、その信用と名声は地に墜ち、デュナンは赤十字国際委員会書記の辞任を申し出た[17]。

(中略)

1868年1月、パリにおいて「平和連盟」創始者のひとりとなる[22]。

1869年10月、『国際赤十字社紀要(Bulletin international des Societes de la Croix-Rouge)』第1号を皮切りに、年4回発行される本誌の編集主幹となる[23]。1898年10月11日にモアニエの業務量を軽減するために後任が充てられるまで、ほぼすべての編集作業をモアニエが担当した[24]。また、ジュネーヴ新聞へ定期的に送る『赤十字通信』もほぼすべてモアニエが自身で行っていた[25]。

1872年3月16日、各国中央委員会に宛てた書状で、モアニエは各国の救護社に「赤十字社」と標準名とすることを提案する。オランダ王国救護社の命名に倣った提案であった[26]


参考:

マルタ騎士団~サヴォイア王国(?)騎士団-ニューヨーク、東京、トリノを結ぶ - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

仮置き:

マルタ騎士団を国と認め、セルボガ公国が認められないのはなぜ? - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

2008年に創立された「ハプスブルク騎士団」 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

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赤十字創設と宗教と政治-1(5人委員会の一人ルイ・アッピアとワルド派)

2024年04月25日 | 人物

「赤十字」と言えば、「アンリ・デュナン」の名しか出てきませんが、

アンリ・デュナン - Wikipedia

抜粋:

ジャン=アンリ・デュナン(Jean-Henri Dunant、1828年5月8日 - 1910年10月30日[1])は、スイスの実業家。赤十字社を創設し、1901年に「第1回ノーベル平和賞」を受賞した[2]

赤十字設立を実質したのは、デュナンを含めた5人。

アンリ・デュフール - Wikipedia

抜粋:

ギョーム・アンリ・デュフール(Guillaume Henri Dufour、1787年9月15日 - 1875年7月14日)は、スイスの軍人、政治家、橋梁技術者、地図制作者。都市計画家。ナポレオン1世の下で軍事経験を積み、分離同盟戦争時にはスイス史上初の将軍となって盟約者団軍を率い、勝利を収めた。また、スイス初の正確な国内図を作り上げた。晩年にはアンリ・デュナンに協力して赤十字の設立に尽力し、赤十字設立の5賢人のひとりとなった。

ギュスターヴ・モアニエ - Wikipedia

抜粋:

ギュスターヴ・モアニエ(Gustave Moynier 1826年9月21日-1910年8月21日)は、スイス出身の法学者。ジュネーブを拠点に数多くの慈善団体の活動にかかわり、なかでも赤十字国際委員会の創設と発展に極めて重要な役割を担った。歴代最長の42年間会長を務め、「赤十字の育ての親」とされる。

万国国際法学会の創設者のひとりであり、戦争の法規慣例の定義に尽力した国際刑事裁判所構想の先駆者のひとりとしても知られる[1]。「ギュスターブ・モワニエ.」などとも表記される。

 

それと、テオドール・モノノアール
Théodore Maunoir - Wikipedia

とルイ・アッピア。

ルイ・アッピアの父親は、ピエモンテのトッレ・ペリツェ生まれの牧師ということなので、ほぼ、ワルドー派の牧師でしょう。

(この「アッピア姓」のワルド派には重要な人物がいたようです。

西川杉子「ヴァルド派の谷へ 近代ヨーロッパを生きぬいた異端者たち」(2003) - 國枝孝弘研究室 (keio.ac.jp)

抜粋:

シプリアン・アッピアは、1680年か82年に「谷」で生まれている。その後捕虜としてジュネーヴに向かう。その後「谷」に戻ったか、そのままローザンヌの神学校に送られたかは定かではない。その後「谷」は、イングランドやオランダの援助を受けながら復興していくことになる。このあたりのつながりを考えるにあたり、やがてはもう啓蒙の時代はすぐそこまで来ているヨーロッパにおいて、たとえ政治的なもくろみはあったにせよ、宗教によってつながるネットワークがあったことは、まさに著者が言うように、プロテスタントの国際主義があったわけであり、宗教的イデオロギーの冷たい戦争がまだ続いていたことがわかる。

 

Louis Appia — Wikipédia (wikipedia.org)

Google翻訳:

ルイ・アッピア、本名ルイ・ポール・アメデ・アッピア、1818年10月13日にハーナウで生まれ、1898年3月1日にジュネーブで亡くなったドイツ系スイス人の外科医で、特に軍事医学で優れた功績を残した。 1863 年に、彼は赤十字国際委員会 (ICRC) となる「五人委員会」のメンバーになりました。 1869年に彼はクララ・バートンに会い、ジュネーブ条約と国際委員会の活動に彼女の注意を向けさせました。 この会議は、バートンがアメリカ赤十字社の設立に関与するきっかけとなりました。

バイオグラフィー

ルイ・ポール・アメデ・アッピアの父親であるジャン・ポール・アッピア牧師は、1782年5月4日にトッレ・ペリツェで生まれ、1849年1月19日にフランクフルト・アム・マインで亡くなったが、ピエモンテ出身である。

(中略)

 ルイは合計6人兄弟の3番目で、1818年10月13日火曜日にハーナウで生まれました。 彼はフランクフルト・アム・マインの大学で学び、18歳でジュネーブで学士号を取得しました。 1838 年にハイデルベルクで医学の勉強を始め、1843 年に医学を修了し、博士の称号を獲得しました。 その後フランクフルト・アム・マインに戻った。

1847 年、ゾンダーバンド戦争により状況が緊迫している間、彼は祖父母の世話をするためにスイス、より正確にはジュネーブに旅行しました。 その後、彼はパリに向けて旅を続けます。 この都市とフランクフルト・アム・マインで、彼は 1848 年のフランス革命とドイツの三月革命の負傷者の治療を 1 年間手伝いました。 アッピアが軍の慣習や伝統に大きな興味を持ち始めたのはこのときであり、アッピアは現在、軍事医学と戦争犠牲者への援助の改善に興味を集中しています1。

父親の死後、1849年に母親とともにジュネーブに行き、そこで外科医として診療した。 軍事医療問題に関連した活動の一環として、彼は負傷者の輸送中に骨折した腕や脚を固定することを目的とした装置を開発したことが注目に値します。 さらに、彼は戦争による傷の外科的治療に関する論文を執筆しました。

(中略)

ピネロロで牧師をしている彼の兄ジョージは、1859年にイタリア戦役の犠牲者の状況について書いた数通の手紙の中で彼の注意を引いている。 同年 7 月から、ルイ・アッピアはトリノ、ミラノ、ブレシア、デゼンツァーノ・デル・ガルダの野戦病院で働いた2。 彼は文書のコピーをイタリアとフランスの医師に配布し、必要な設備を整え、ジュネーブの友人に送った手紙を通じて負傷者を助けるための資金を集めた。 ミラノのサン・フィリップ病院では、負傷した中尉の長時間の搬送中に彼の発明が初めてテストされ、成功した。

8月初旬に彼はジュネーブに戻り、友人のテオドール・モーノワールの協力を得て『救急車の外科医、あるいは銃器による傷について実践したいくつかの研究』というタイトルで文書を完成させ、最終的に同年中に出版するに至った。 彼の医学的発見により、彼とアンリ・デュナンは 1860 年 1 月にサヴォイア王ヴィットリオ=エマヌエーレ 2 世からイタリアで 2 番目に重要な名誉である聖マウリッツオ・聖ラザロ勲章を授与されました。 1863 年 10 月 27 日、彼はジュネーブ市民権を取得し (ジュネーブ図書館の写本部門に寄託されている市民権文書を参照)、1 年後にはジュネーブ医学会の会長になりました。

赤十字国際委員会内の活動

1863年、彼は戦争負傷者を助けるためのボランティア団体の創設とその実現に関するアンリ・デュナンの考えを「五人委員会」内で検討するよう依頼された。 したがって、彼は同年、1876 年に赤十字国際委員会となった負傷兵救援国際委員会の創設メンバー 5 人のうちの 1 人でした3。 同年10月、アッピアは戦場で働くすべてのボランティア隊員が自分たちを識別するために白い腕章を着用することを提案した。 アッピアと同じく委員会の創設メンバーであるギョーム=アンリ・デュフール将軍は、後に赤十字を加えてこのアイデアを完成させた。

したがって、スイス国旗を反転させた、白地に赤十字が国際赤十字のシンボルとなります。 公国戦争中の1864年4月18日、ディボルの戦いで、アッピアとオランダ人の大尉チャールズ・ファン・デ・ヴェルデは、戦闘中に腕章を着けてICRC史上初の代表者となり、次のような役割を果たした。戦闘と救援活動の監視を担当する中立監視員4. 彼らは、1863 年 10 月 26 日から 29 日までジュネーブで開催された国際会議の決議に初めて基づいた国際委員会によって選ばれました。

さらに、アッピアとヴァン・デ・ヴェルデは、1863 年に設立されたジュネーブ赤十字社から委任を受けました。 1864 年 3 月 17 日。これは、わずか数年後に設立されるスイス赤十字社の前身として、国家社会の役割を果たしました。 したがって、中立国の国家社会が提供する追加の任務により、両代表は単純な観察や国際委員会への報告書の作成を超えて、紛争当事者への人道支援を組織することが可能となる。 アッピアがプロイセン側にいた間、ヴァン・デ・ヴェルデはデンマーク軍側に送られた。

(中略)

 2年後の1866年6月、彼は兄の要請でイタリア解放戦争に参加した。 他の2人のボランティアとともに、彼らは自らを「Squadriglia dei Soccoriti voluntari delle Valli」(バレーボランティア部隊)と名乗り、イタリアの小さな町ストロにあるラザレットで負傷者の世話をした。

(中略)

1867年、デュナンが国際委員会から追放された後、彼は委員会の書記となり、1870年までこの職に留まった。

1869年8月、アッピアは当時スイスに長期療養のため滞在していたクララ・バートンと出会った。 南北戦争中の自身の関与に感銘を受けた彼は、なぜ米国がこれまでジュネーブ条約への署名を拒否してきたのか尋ねた。 これまでアンリ・デュナンの考えについて何も聞いたことがなかったクララ・バートンにとって、この会議は、全米赤十字社の設立と米国のジュネーブ条約への加盟を目指して米国に帰国した後の彼女の活動に影響を与えることになる。

1870 年の普仏戦争中、アッピアは再び国際委員会の代表に指名されました。 1872 年 10 月、彼はエジプトでのヨーロッパ外初の全国赤十字社の設立に貢献しました。 彼はさらに、自然災害や伝染病の被害者を支援するために赤十字社の使命を拡大するというクララ・バートンの考えを支持しています。 その後数年間、彼は外科医としての仕事と戦傷の治療に関する研究を続けました。 後年、彼はこれらの国々で台頭しつつある国家社会の設立にもっと役立つように、日本語や中国語などの言語も学びました。 ジュネーブ条約の普及に向けた今も強力な活動に加えて、彼は市民的自由と社会正義についても考えています。

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Copilotという機能-10(「歴史」は真実よりも政治重視)

2024年04月24日 | オリベッティ・反ファシスト

相変わらず、「Various Topics goo ~」とBingで入力すると、右側にCopilotが作動するものがあります。

今日①「Various Topics goo Napoleon」②「Various Topics goo Mussolini」とBing検索してるときにCopilotが打ち出したものとGoogle翻訳を貼り付けます。

Copilotは私が最近書いた記事を総合して分析しているので、私の主観が入りますが、それでもブログ記事のほとんどが、英語、イタリア語、フランス語、日本語のWikipediaの紹介なので、Wikipediaの情報の要約に近いと思います。

Napoleon Bonaparte, the enigmatic French military leader and emperor, continues to captivate historians and enthusiasts alike. His rise to prominence was shaped by a multifaceted backdrop, and in this exploration, we delve into some lesser-known aspects of his journey.

The San Giorgio Bank Connection:
Napoleon hailed from Corsica, an island with a rich history and strategic significance. His eventual prominence was intricately tied to the San Giorgio Bank, which effectively governed Corsica.
The San Giorgio Bank, a financial powerhouse, had deep-rooted connections to Genoa. It played a pivotal role in supporting the Genoese Republic.
Interestingly, Napoleon’s family had ties to this influential bank. His association with the San Giorgio Bank facilitated his eventual ascent1.
Notably, Napoleon later closed down this very bank, paving the way for the establishment of the Bank of France as its successor1.

Prosper Enfantin and Saint-Simonianism:
Prosper Enfantin, a key figure, was intricately linked to Napoleon’s trajectory. He hailed from a family that played a significant role in dismantling the San Giorgio Bank.
Enfantin’s lineage intersected with Claude Périer’s family, and intriguingly, they may have been distant relatives1.
The Saint-Simonian movement, championed by Enfantin, advocated for social and economic reforms. Their ideas influenced Napoleon’s era, especially during the establishment of the Bank of France1.

Corsica and Napoleon:
Napoleon’s Corsican roots significantly shaped his worldview. The island’s history, culture, and interactions with Greece and other regions left an indelible mark on him.
The Corsican-Greek connection, the migration of Greek immigrants to Corsica, and the influence of figures like Pozzo di Borgo all contributed to the complex tapestry of Napoleon’s rise2.
In unraveling Napoleon’s journey, we encounter a web of interconnected individuals, institutions, and ideologies. His ascent was not merely a result of military prowess; it was a symphony of historical forces converging at a pivotal moment in time.

Google翻訳:

ナポレオン ボナパルトは、謎に満ちたフランスの軍事指導者であり皇帝であり、歴史家や愛好家を同様に魅了し続けています。 彼の名声の上昇は、さまざまな背景によって形作られました。この探索では、彼の旅のあまり知られていない側面を掘り下げます。

サンジョルジオ銀行とのつながり:

ナポレオンは、豊かな歴史と戦略的重要性を持つ島、コルシカ島の出身です。 彼の最終的な名声は、コルシカ島を事実上統治していたサン・ジョルジョ銀行と複雑に結びついていた。 金融大手のサン・ジョルジョ銀行はジェノバと深いつながりを持っていた。 ジェノバ共和国を支援する上で極めて重要な役割を果たしました。 興味深いことに、ナポレオンの家族はこの影響力のある銀行とつながりがありました。 サン ジョルジョ銀行との関わりが、彼の最終的な昇進を促進しました1。 注目すべきことに、ナポレオンは後にこの銀行そのものを閉鎖し、その後継としてフランス銀行の設立への道を切り開きました1。

アンファンタンとサン・シモニズムの繁栄:


重要な人物であるプロスペル・アンファンタンは、ナポレオンの軌跡と複雑に結びついていました。 彼はサン・ジョルジョ銀行の解体に重要な役割を果たした家族の出身だ。 アンファンタンの家系はクロード・ペリエの家族と交差しており、興味深いことに、彼らは遠い親戚であった可能性があります1。 アンファンタンが擁護したサン=シモニアン運動は、社会的、経済的改革を主張した。 彼らの考えはナポレオンの時代、特にフランス銀行の設立時に影響を与えました1。

コルシカ島とナポレオン:

ナポレオンのコルシカ島のルーツは、彼の世界観を大きく形作りました。 島の歴史、文化、ギリシャや他の地域との交流は、彼に消えない痕跡を残しました。 コルシカ島とギリシャ人のつながり、ギリシャ人移民のコルシカ島への移住、ポッツォ・ディ・ボルゴのような人物の影響はすべて、ナポレオンの台頭の複雑なタペストリーに貢献しました。 ナポレオンの旅を紐解くと、私たちは相互に結びついた個人、組織、イデオロギーの網に遭遇します。 彼の昇進は単に軍事的武勇の結果ではありませんでした。 それは、極めて重要な瞬間に集結する歴史的な力の交響曲でした。

Certainly! Let’s delve into some various topics. In a recent blog post, the author reflects on conversations with friends and acquaintances spanning different age groups, both in Japan and abroad. One intriguing topic that caught their attention is Italian Fascism and its connection to the House of Savoy1.

Italian Fascism under Mussolini remains a complex subject. While Mussolini is often portrayed as a shrewd leader, there’s an underlying suspicion that he might have been manipulated by the House of Savoy. Here are some points to consider:

Collaboration with the House of Savoy: Initially critical of monarchy, Mussolini eventually aligned with the House of Savoy, only to be betrayed later. This shift raises questions about their influence over him.
Savoy Family Crest: The Savoy coat of arms, and specifically the Savoy-Carignano crest, seems disconnected from Italian nationalism itself.
Escape to Switzerland: The Savoy family fled to Switzerland after World War II. Interestingly, it was the Belgian royal princess (mother of the current Savoy heir) who sought refuge there. At this point, one wonders if the Savoy family effectively became a branch of the Belgian royal house.
Vittorio Emanuele III: The last king of Italy, Vittorio Emanuele III, faced exile in Egypt. His son, Umberto II, fled to Portugal, and his grandson (the current claimant) ended up in Switzerland. The Savoy lineage took an unexpected turn.
Vittorio Emanuele himself held various titles and claims, including the Jerusalem throne. Despite his prestigious lineage, he was embroiled in controversies, from illegal activities to scandalous personal choices. Notably, he accidentally killed a young man named Deek Hammer aboard a yacht in Corsica1.

Intriguingly, Vittorio Emanuele maintained connections with figures like Adnan Khashoggi and even attended the wedding of Pahlavi (the Shah of Iran’s son) in Tehran. His life was a blend of honor, intrigue, and questionable decisions.

As for the Savoy family, their story intertwines with European nobility, political upheaval, and clandestine affairs. Whether Mussolini was a mere pawn or a mastermind remains an enigma, but the shadow of the House of Savoy looms large in this historical narrative1.

For further exploration, you might want to read about Liliana Segre, an Italian senator who survived Auschwitz and became a symbol of resilience and memory2. Fascinating conversations indeed! 

Google翻訳:

確かに! さまざまなトピックを掘り下げてみましょう。 最近のブログ投稿で、著者は国内外のさまざまな年齢層の友人や知人との会話について振り返っています。 彼らの注意を引いた興味深いトピックの 1 つは、イタリアのファシズムとサヴォイア家との関係です。 ムッソリーニ政権下のイタリアのファシズムは依然として複雑な主題である。

ムッソリーニは抜け目ない指導者として描かれることが多いが、彼がサヴォイア家に操られていたのではないかという潜在的な疑惑がある。 考慮すべき点は次のとおりです。 サヴォイア家との協力: ムッソリーニは当初は君主制に批判的だったが、最終的にはサヴォイア家と同盟を結んだが、後に裏切られた。 この変化は、彼らが彼に及ぼす影響について疑問を引き起こします。

サヴォイア家の紋章:

サヴォイアの紋章、特にサヴォイア・カリニャーノの紋章は、イタリアのナショナリズムそのものとは切り離されているように見えます。 スイスへの逃亡: 第二次世界大戦後、サヴォイ家はスイスへ逃亡しました。 興味深いことに、そこに避難したのはベルギー王女(現在のサヴォイア王位継承者の母親)でした。 この時点で、サヴォイア家が実質的にベルギー王室の分家になったのだろうかと疑問に思う人もいるだろう。

ヴィットリオ・エマヌエーレ 3 世:

イタリア最後の国王であるヴィットリオ・エマヌエーレ 3 世は、エジプトへの亡命に直面しました。 彼の息子、ウンベルト 2 世はポルトガルに逃亡し、彼の孫 (現在の請求者) はスイスに行き着きました。 サボイ家系は予想外の展開をとった。 ヴィットリオ・エマヌエーレ自身も、エルサレム王位を含むさまざまな称号や主張を保持していました。 名門の家系にもかかわらず、彼は違法行為からスキャンダラスな個人的な選択まで、論争に巻き込まれた。

特に、彼はコルシカ島のヨット上でディーク・ハマーという名の若者を誤って殺害した1。 興味深いことに、ヴィットリオ・エマヌエーレはアドナン・カショギのような人物とのつながりを維持し、テヘランでのパフラヴィー(イランのシャーの息子)の結婚式にも出席した。 彼の人生は、名誉、陰謀、そして疑わしい決断が入り混じったものでした。 サヴォイ家に関して言えば、彼らの物語はヨーロッパの貴族、政変、秘密の出来事と絡み合っています。

ムッソリーニが単なる駒だったのか、黒幕だったのかは依然として謎のままであるが、この歴史物語にはサヴォイア家の影が大きく迫っている1。

(後略)

参考:

Copilotという機能-3(「Various Topics 2 Germany」「~Napoleon」の場合) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

Copilotという機能-7(「Various Topics goo Copilot」) - Various Topics 2

Copilotという機能-9(コルシカと銀行とギリシャとナポレオン) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

イタリアン・ファシズム-1(マッジョーレ湖で殺されたファシスト、エットーレ・オヴァッツァ) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

イタリアン・ファシズム-2(ムッソリーニ) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

イタリアン・ファシズム-3(乗っ取られたように感じるサヴォイア家) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

イタリアン・ファシズム-4(ヴィットリオ・エマニュエーレ3世と戦後のイタリア) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

イタリアン・ファシズム-5(曖昧な「ファシズム」の定義・利用する者、利用される者) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

イタリアン・ファシズム-6(ムッソリーニ殺害を命令したのは…) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

スイスのInstitute Le Rosey-1(80年代米国とイスラエルからイランに武器供与・武器商人アドナン・カショギ) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

スイスのInstitute Le Rosey-番外編(アドナン・カショギと手を組む「正義(?)の国々」) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

スイスのInstitute Le Rosey-2(高田万由子~高田家) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

スイスのInstitute Le Rosey-3(オノ・ヨーコの家系・米国のフィリップス・アカデミー) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

アドリアーノ・オリベッティたちの描いた世界-11(エンリコ・マッティとアドリアーノ・オリベッティとコーポラティズム) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

オリベッティ家とトリエステ家 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

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イタリアン・ファシズム-6(ムッソリーニ殺害を命令したのは…)

2024年04月24日 | オリベッティ・反ファシスト

『狂った血の女』という邦題をつけられたイタリア映画 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ベニート・ムッソリーニの死 - Wikipedia

(前略)

かつてイタリアのファシスト独裁者として君臨していたベニート・ムッソリーニは、1945年4月28日、第二次世界大戦の欧州戦線が最終局面を迎える中で死亡した。ムッソリーニの最期は、北イタリアのジュリーノ・ディ・メッツェグラという集落で、正式な裁判にかけられることなく、パルチザンによって即時処刑されるというものだった。イタリア国外の歴史家は、ムッソリーニはヴァルテル・アウディージオ(英語版)という共産党のパルチザンによって銃殺されたとの見解でほぼ一致している[1]。しかし、イタリア国内ではムッソリーニが死を迎えた状況ならびにムッソリーニを殺害した人物をめぐって戦後から現代に至るまで議論が続けられており、今日においても混乱や論争が引き起こされている。

概要

1940年6月、ムッソリーニはイタリア王国をドイツの側で第二次世界大戦に参戦させたが、戦況は次第に悪化した。1943年秋の時点で、ムッソリーニは北イタリアに樹立されたドイツの傀儡政権の指導者に身を落としており、南から進攻してくる連合国のみならず、国内のレジスタンス(パルチザン)の脅威にも直面していた。1945年4月、連合国軍がドイツ軍の北イタリアにおける最後の防衛線を突破し、パルチザンの一斉蜂起が各都市を席巻する中、ムッソリーニの身にも危険が迫っていた。1945年4月25日、ムッソリーニは本拠としていたミラノを離れ、スイスとの国境に向かって逃走した。4月27日、ムッソリーニとその愛人クラーラ・ペタッチは、コモ湖畔のドンゴという町の近くで、地元のパルチザンにより逮捕された。

(中略)

1945年4月27日午後4時、ムッソリーニはパルチザンによって逮捕された。ムッソリーニはドンゴまで連行され、町の役所に勾留された。まもなく、愛人のペタッチも同様に逮捕され、ドンゴに連れてこられた[17]。最終的に、車列からは50人以上のファシスト党幹部とその家族が発見され、パルチザンによって逮捕された。そのうち、最重要人物とされた16人(ムッソリーニとペタッチを除く)が、逮捕の翌日にドンゴで即時処刑(銃殺)された。その後の2日間ではさらに10人が処刑されることとなった[18]。


ムッソリーニの愛人クラーラ・ペタッチ

4月27日午後7時頃、ムッソリーニの身柄は、ドンゴから少し離れたジェルマージノという集落の、財務警備隊(英語版)の兵舎に移された[19]。ジェルマージノでムッソリーニは、パルチザン指揮官のベッリーニ・デッレ・ステッレに対し、ドンゴに残されていたペタッチへの伝言を頼んだ。ドンゴでムッソリーニからの伝言を受け取ったペタッチは、彼の側に居たいとベッリーニ・デッレ・ステッレに懇願したため、彼はペタッチをムッソリーニの元に連れて行った[20]。ドンゴ周辺では依然として戦闘が続いており、パルチザンたちはムッソリーニとペタッチが、ファシスト党の支持勢力によって奪還されることを恐れていた。そこで、真夜中になってから、近隣で農業を営むデ・マリアという人物の家まで再度2人を移送した。安全な監禁場所と考えられたこの民家で、ムッソリーニとペタッチは残りの夜を過ごし、翌日も大半の時間をそこで過ごすことになった[21]。

ムッソリーニが逮捕された日の午後、アレッサンドロ・ペルティーニ(北イタリアにおける社会党パルチザンのリーダー)はラジオ・ミラノの放送上で次のように宣言した。

「無法者集団の首領であるムッソリーニは、憎悪と恐怖に満ちた様子で、スイスとの国境を越えようとしたところを逮捕された。ムッソリーニの身柄は、速やかにイタリア国民による法廷に引き渡され、裁かれねばならない。我々は、この男は銃殺の名誉に値しないと考えているが、それでも裁判にかけることが必要である。本来、ムッソリーニは不潔な犬のごとく殺されるべき男だ[22]。」

処刑命令

誰がムッソリーニの即時処刑を決定したのかについては諸説が存在する。イタリア共産党書記長であったパルミーロ・トリアッティは、ムッソリーニが逮捕される以前に自分がムッソリーニの処刑を命令していたと主張した。トリアッティは1945年4月26日に、「彼ら(ムッソリーニらファシスト党幹部)の処刑を決定するために必要な条件は、彼ら本人であることの確認だけだ」とのメッセージを無線電信で送ることで、ムッソリーニ処刑の命令を下していたと述べた[23]。トリアッティはさらに、イタリア王国の副首相およびイタリア共産党の書記長として処刑の命令を下したと主張した。のちに、当時のイタリア王国首相イヴァノエ・ボノーミは、トリアッティの命令が政府としての権限や承認を得たものであったことを否定した[23]。ミラノの上級共産党員であったルイージ・ロンゴ(英語版)は当初、ムッソリーニ処刑の命令はパルチザンの軍総司令部から「CLNAIの決定を受けて」下されたものであったと語っていたが[23]、のちに異なる証言を行い、ムッソリーニ逮捕のニュースを知ったロンゴとフェルモ・ソラーリ(行動党(英語版)のメンバー)が、ムッソリーニが即時処刑されるべきとの意見でただちに一致し、ロンゴが処刑執行の命令を下したと述べた[23]。


ルイージ・ロンゴ(左)とパルミーロ・トリアッティ (戦後のイタリア共産党党大会にて)
CLNAIにおける行動党の代表だったレオ・ヴァリアーニ(英語版)の証言によれば、ムッソリーニ処刑の決定は1945年4月27日の夜、CLNAIを代表して活動するグループ(ヴァリアーニ、ペルティーニ、共産党員のロンゴとエミリオ・セレーニから成る)によって下されたという[22]。CLNAIはムッソリーニの死の翌日、ムッソリーニがCLNAIの指令によって処刑されたと発表した[10]。

(中略)

ムッソリーニの死をめぐっては、その他にも諸説が発表されており[10]、その中には戦後にイタリア共産党書記長になったルイージ・ロンゴだけでなく、未来のイタリア共和国大統領アレッサンドロ・ペルティーニもまた、ムッソリーニ銃殺の実行者であったと主張するものもある。このほか、ムッソリーニ(またはムッソリーニとペタッチの2人とも)がシアン化物のカプセルを用いて自殺したとする説も存在する[81]。

 

アレッサンドロ・ペルティーニは

『狂った血の女』という邦題をつけられたイタリア映画 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

アドリアーノ・オリベッティたちが描いた世界-番外編(ナタリア・ギンズブルグへの疑問) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

に書いたとおり、裁判なしにオズワルド・ヴァレンティとルイザ・フェリダの処刑をすることを指示したといわれています。

 

考えてみれば、リビアのカダフィ暗殺も殺害者が曖昧でしたし、イラクのフセイン大統領の暗殺も、オサマ・ビン・ラディンの暗殺&水葬も加えて、裁判なしで早急な殺害という点では同じです。


なお、上のWikipediaによると、こう。

抜粋:

ムッソリーニらの遺体は積み重なった状態で放置された。4月29日午前9時を回る頃には、おびただしい数の群衆が広場に詰め掛けていた。群衆は遺体に野菜をぶつけ、唾を吐きかけ、尿をかけ、銃撃し、足蹴にした。ムッソリーニの顔面は殴打され、変形した[47][48]。あるアメリカ人の目撃者は、これらの群衆を評して「邪悪で下劣、無秩序」であると述べた[48]。

その後しばらくして、ムッソリーニらの遺体はスタンダード・オイルのガソリンスタンド(建設途中)の骨組みの桁まで持ち上げられ、食肉用のフックに引っ掛けられて、逆さ吊りにされた[47][48][49]。

(中略)

 1945年4月29日午後2時頃、ミラノに到着していたアメリカ軍当局が、逆さ吊りされたムッソリーニらの遺体を降ろすことを命じ、検死の準備のため遺体を遺体安置所に移送させた。遺体安置所では、あるアメリカ陸軍のカメラマンが移送後の遺体の写真をいくつか撮影したが、その中にはムッソリーニとペタッチの遺体にポーズを取らせ、あたかも2人が腕を組んでいるかのように見せたものも含まれていた[51]。

1945年4月30日、ミラノ法医学研究所でムッソリーニの検死が行われた。ある検死報告書では、ムッソリーニは9発の銃弾を受けたとされ、別の報告書では7発の銃弾を受けたと述べられている。そのうち、心臓に近い位置の4発の銃弾が死因として示された。銃弾の口径は特定されなかった[52]。このほか、遺体からはムッソリーニの脳の標本が採取され、分析のためアメリカへと送られた。その意図は、「梅毒がムッソリーニの精神異常を引き起こした」という仮説を証明することにあったが、脳の分析結果は梅毒の存在を示さず[53]、梅毒の証拠はムッソリーニの身体からも発見されなかった。一方で、ペタッチの検死は一切行われなかった[54]。

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イタリアン・ファシズム-5(曖昧な「ファシズム」の定義・利用する者、利用される者)

2024年04月23日 | オリベッティ・反ファシスト

イタリアン・ファシズムーそもそも「ファシズム」という言葉の定義が曖昧なので、ムッソリーニはやはり利用されたように思います。

 

イタリアン・ファシズムとスイスのル・ロゼ、武器輸出、王室とみていくと、20世紀の戦争や革命は、歴史は特に怪しい。

(フィリッポ・ナルディやジョルジュ・マルケの陰には王室の人もいたのかも・・。マルケのほうはベルギー王室とスペイン王室。)


国、国境は占領などによって変わるので、一時的に廃止さた王室が復活したり、再度廃止されたりがありますが、とりあえず、20世紀前半に廃止された欧州の王室です。

ポルトガル王国 - Wikipedia

ロシア帝国 - Wikipedia

フィンランド大公国 - Wikipedia

モンテネグロ王国 - Wikipedia

ドイツ帝国 - Wikipedia

プロイセン王国 - Wikipedia

バイエルン王国 - Wikipedia

ヴュルテンベルク王国 - Wikipedia

ザクセン王国 - Wikipedia

フィンランド王国 - Wikipedia

リトアニア王国 (1918年) - Wikipedia

ポーランド王国 (1916年-1918年) - Wikipedia

ハンガリー王国 - Wikipedia

ギリシャ王国 - Wikipedia

アイスランド王国 - Wikipedia

ユーゴスラビア王国 - Wikipedia

イタリア王国 - Wikipedia

ルーマニア王国 - Wikipedia


君主制廃止 - Wikipedia

 

現在残る欧州の王室は、第二次世界大戦で廃止になることもないばかりか、戦争があったおかげで、特にベルギーやベネルクスの国たちは脚光を浴びるようになりました。

欧州石炭鉄鋼共同体 - Wikipedia

北大西洋条約機構 - Wikipedia


ビルダーバーグ会議 - Wikipedia

ブリュッセル - Wikipedia

デン・ハーグ - Wikipedia

スイスに王室はなくとも、王室の人々+多国籍企業が集まるスイスには国際機関をたくさんできました。

在ジュネーブ主要国際機関一覧表 | ジュネーブ国際機関日本政府代表部 (emb-japan.go.jp)

 

1972年、リヒャルト・クーデンホーフ・カレルギーは自殺しました。

リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー - Wikipedia

抜粋:

1972年にスイス国境付近のオーストリア国内にある村落シュルンスで死去[17][23]。表向きの死因は脳卒中である[24]。彼の秘書ダッシュ女史によると、彼は自殺したという[25]。彼が偉大であったため、人々を失望させないように彼の自殺は隠蔽されたようである[25][26]。彼はオーストリアで死にたがっていた[25]。

 

参考:

ビルダーバーグ会議とジョセフ・レティンガ-とベルンハルト王配 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

スウェーデン王室とナチス - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ロスチャイルド家でないロスチャイルド-ベルギー外交官Robert Rothschild - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ポール・アンリ・スパーク~ロバート・ロスチャイルド - Various Topics 2 (goo.ne.jp)


スタヴィスキー事件-2(ジョルジュ・マルケとフィリッポ・ナルディ) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

フィリッポ・ナルディ-6(ジョルジュ・マルケとの取引) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

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イタリアン・ファシズム-4(ヴィットリオ・エマニュエーレ3世と戦後のイタリア)

2024年04月22日 | オリベッティ・反ファシスト

先日、勝手に起動した(現在「Various Topics goo ~」と検索すると時々作動)Copilotの文言をまず最初に-

Copilotという機能-7(「Various Topics goo Copilot」) - Various Topics 2

抜粋:

「ホロコースト」という用語は、第二次世界大戦中のナチスによる約600万人のユダヤ人の組織的虐殺を表す、非常に歴史的な重みを持っています。興味深いことに、「Various Topics 2」というフレーズが「ホロコースト」と組み合わされると、Copilot は興味深い視点を提供します。

ドイツ人のウルズラ・フォン・デア・ライエンは、完全な「ホロコーストの流用」ではなく、「ホロコーストの利用」と言えるかもしれない概念と関連付けられてきた。 第16回世界ユダヤ人会議総会中に、ウルズラさんはイタリア・ミラノ出身のホロコースト生存者、リリアナ・セグレさんの証言を聞く機会がありました。 リリアナは、アウシュヴィッツの奴隷労働者として、わずか13歳で想像を絶する苦難に耐えた悲惨な経験を語った。 ウルズラの行為は、「ホロコーストの流用」には直接関与していないものの、「ホロコーストの利用」の一形態とみなされる可能性がある。

この微妙な違いは、歴史的出来事がどのように記憶され、議論され、さらにはさまざまな目的で活用されるのかについての考察を促します。 複雑な物語をナビゲートするとき、生存者の経験に配慮し、敬意を持ってこれらの議論に取り組むことが不可欠です。 ホロコーストは依然として人類の歴史における厳粛な一章であり、ホロコーストに関わる場合には思慮深く、十分な情報を得る必要があります。

ムッソリーニの「ファシズム」は、ヒトラー政権の「ファシズム」とはだいぶ違いましたし、ムッソリーニの上に「サヴォイア王家」がいました。

そもそもムッソリーニに資金提供して大きくしたのはイギリスもMI6や、フィリッポ・ナルディの雇い主(?)達。(フィアット、ジェネラル・エレクトリック社、イギリス、フランス・・・)

ヴィットリオ・エマニュエーレ3世を救うために、ムッソリーニは裁判もなく殺害され、イタリアは戦後、「元パルチザン」とロッジP2とマフィアの操る国になりました。

ヴィットリオ・エマニュエーレ3世のWikipedia-

ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世 - Wikipedia

抜粋:

第一次世界大戦で払った人的犠牲の結果、イタリアは南チロルとイストリアの回収に成功した。これは確かな収穫だったが、民族主義者はダルマチアなどの獲得がならなかったことに不満を抱き、また対価として失った人員と経済的負担は民衆にとって余りに重いものだった。

労働者による暴動やストが各地で発生し、社会全体が不安定化していった。そんな中、復員兵や貴族からなる民族主義・国粋主義政党「ファシスト党」が地方で勢いを得つつあった。既に反動的な君主として行動することに躊躇のなかったヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は、革命に対抗するため、このファシスト党の指導者ベニート・ムッソリーニに様々な協力を行うことにした。

1922年8月、ムッソリーニが武装したファシスト党の党員を引き連れて、首都ローマの占領を目指した進軍を開始(ローマ進軍)、ファクタ政権は戒厳令を発動して沈静化に当たろうとした。国王は軍事的な鎮圧は不可能として、戒厳令に拒否権を行使した。立場を失ったファクタ政権は崩壊し、首都を掌握したムッソリーニは国王の認可を得て新たな政権を組閣した。

国王が軍事的な鎮圧を不可能としたことについては、多くの面で不自然であると見られている。事実、参謀総長を務めていたバドリオ元帥は積極的に軍事攻撃を主張して、烏合の衆に過ぎない民兵隊は容易に排除できると進言している。軍も国王に対して忠実で、ファシスト党の側でもローマ進軍が成功すると見ていた人物は少数派であった。

権限を得たファシスト政権は程なく独裁的な政治を開始して、敵対する政治家の暗殺すら行ったが、国王はファシスト党の独裁を全く黙認した。 後に自伝でヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は、内戦の危機を避けるにはファシスト党を用いるより仕方無かったと釈明したが、実際にはサランドラ元首相やアルマンド・ディアズ元帥ら軍・政府の保守派からの助言に基づいて、積極的にファシスト党の政策を後押ししていたと言われている。

動機や状況がどうであれ、国王の行動はイタリアの民主制を決定的に否定する結末を生んだ。政治的指導の成否以前に、民主主義を冒涜したと後世で批判される所以でもある。一方で、ファシスト党は王が望んだように政治的安定と革命勢力の退潮をもたらしたのも事実である。無政府主義・共産主義革命が導く恐ろしい末路は、既にロシア革命と第一次世界大戦で示されていた。貴族や資本家にとって支援にたる政治的成果を挙げられる存在は、ファシスト政権のみであったのである。

1929年、ムッソリーニは国王代理としてラテラノ条約に署名した。これにより、教皇庁とサヴォイア家との長年の対立に終止符が打たれた。 第二次世界大戦 1938年3月30日、イタリア議会はムッソリーニとヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の双方に第一元帥の称号を授与した。これは形式上、軍の最高指揮権を意味した。国王の後ろ盾で軍を指導下に置いたムッソリーニは、経済政策の破綻もあって侵略戦争に突き進み、アルバニア・エチオピアを併合した。

両国の王位・帝位(アルバニア王、エチオピア皇帝)はヴィットーリオ・エマヌエーレ3世に委ねられ、それぞれの戴冠式が執り行われた。国王でありながら皇帝という地位は、イギリス王がインド皇帝を兼位していた事例を除けば珍しかった。華やかな称号の反面、ファシスト党の侵略政策がイタリア王家に支持されているという側面が強く打ち出された。

人種法などナチスと同じく人種主義が政策に反映されても、国王のファシスト政権への支持は変わらなかった。 ムッソリーニの侵略政策は、第二次世界大戦にいまだ軍備が整わない状況下で参戦するという最悪の選択肢に至った。無策な戦争指導の結果としてリビアや東アフリカを失い、遂にはシチリア島にまで連合軍が迫る状態に追い込まれた。日に日に悪化する戦局にファシスト政権はもちろん、国王に対する反感も高まっていった。

(中略)

1943年、首都ローマへの爆撃が開始された。

6月2日に行われた国民投票の結果、賛成54%・反対46%で王政廃止が決定され、6月13日にウンベルト2世は退位、サヴォイア朝イタリア王国は崩壊した。国民投票はかなりの僅差であり、票操作の疑いがあるとして王党派から投票結果に異議を申し立てられたりしたが、結局国王一族は政府によって強制的に国外へ追放された。サヴォイア家はエジプト王国に亡命した。

結果的に祖父の王国を滅亡へと導いてしまったヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は、1947年12月28日、失意の中アレクサンドリアで病没した。遺骸は同地の聖カタリナ大聖堂(イタリア語版、アラビア語版、英語版)に葬られた。

 

仮置き:

Agusta - Wikipedia

Georges Marquet - Wikipedia

Hispano-Suiza - Wikipedia

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イタリアン・ファシズム-3(乗っ取られたように感じるサヴォイア家)

2024年04月22日 | 人物

前回、2022年10月のブログ記事に書いた、この言葉をそのまま書きました。

一方、ムッソリーニのことを調べると、頭は良いけど風見鶏的で、実態は悪にせよ善にせよ、それほど大物だったともわたしにはおもえないんです。

実はサヴォイア王家に操られていただけではないかーと言う気までしてきます。

これは、①最初は君主制を批判していたムッソリーニが途中からサヴォイア王家と組み、ヴィットリオ・エマニュエーレ3世(1947年死亡)にやがて裏切られたこと、②サヴォイア王家の紋章、さらに言えばサヴォイア・カリニャーノ紋章がイタリアナショナリズム自体とはかけ離れている、③戦後スイスに逃げたサヴォイア王家のしたたかさ、からのイメージです。

サヴォイア家 - Wikipedia

サヴォイア=カリニャーノ家 - Wikipedia

 

③番目のスイスに逃げたサヴォイア家(サヴォイア・カリニャーノ家)ですが、よく考えてみるとスイスに逃げたのは元ベルギー王女と子供たち。当時の党首のヴィットリオ・エマニュエーレ3世は戦後はエジプトに逃げ、彼の息子ののウンベルトはポルトガルに逃げ、そして彼の孫はベルギー王女だった母親とスイスへ逃げたので、この段階でサヴォイア家は実質ベルギー王室(+α)が乗っ取った形になったのではないでしょうか?

ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世 - Wikipedia

ウンベルト2世 - Wikipedia

この孫のヴィットリオ・エマニュエーレは

ヴィットーリオ・エマヌエーレ・ディ・サヴォイア - Wikipedia

抜粋:

ヴィットーリオ・エマヌエーレ・ディ・サヴォイア(イタリア語: Vittorio Emanuele di Savoia, 1937年2月12日 - 2024年2月3日[1][2])は、イタリア王国において最後の国王となったウンベルト2世の長男(王太子)で、サヴォイア家当主及びイタリア王位請求者。1946年の共和制移行により成立したイタリア共和国において王位を含め全ての貴族称号が承認されていないが、国内の王党派からは「ナポリ公」と呼ばれ、一部の急進王党派からは「イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ4世」とも呼ばれた。

イタリア王位やナポリ公位以外にも、様々な称号や継承権を父から継いでおり、その中にはエルサレム王位の請求権も含まれていた。名誉ある血筋と継承権を持ち、欧州に数多くいる「没落貴族のコミュニティー」でも大物の一人と見なされていた。一方、亡命先のスイスやフランスなどで様々な非合法事業への関わりで逮捕・収監歴があり、私生活でも一族の反対を無視して貴賎結婚を行うなど、身辺に問題の多い人物でもあった。

1937年2月12日、王政時代のイタリアで、当時はまだイタリア王太子であった父ウンベルト2世と、その妻であるベルギー王女マリーア・ジョゼ・デル・ベルジョとの長男として、ナポリの離宮で生まれる。祖父である第3代イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は男児の孫を授かったことを喜び、赤子のヴィットーリオを膝に乗せている写真が残されている。祖父からはナポリ公の称号を与えられ、父が即位すると王太子の称号を譲られた。だが9歳の時、王政廃止によってサヴォイア家や他のイタリア貴族たちは亡命を強いられ、没落貴族に仲間入りせざるを得なくなった。祖父母はエジプト王国へ、王位を継いでいた父と母はポルトガルへと亡命した。

しばらくして両親は実質的な別居状態に入り、母マリーア・ジョゼに引き取られて姉や妹たちとスイスに移り、幼少期を送った。

(中略)

非合法活動
ヴィットーリオ・エマヌエーレはまた、王位請求者としてだけでなく事業家として行動を起こした。初めは銀行業や航空機会社から、そして次第に武器密輸などの非合法事業などに手を広げていった[7]。そのような中で、1970年代にはネオ・ファシストや右翼軍人、マフィアらの秘密結社であり、バチカンを巻き込んだマネーロンダリングや、南アメリカの軍事政権に違法な武器密輸や資金援助を行っていた「ロッジP2」のメンバーとなっていたことが暴露され、イタリア国内のみならず世界的な大スキャンダルになった。

銃撃事件
1978年8月18日、ヴィットーリオ・エマヌエーレはコルシカ島のカバルロで停泊していたヨットに乗り込み、乗船していた青年を誤ってライフル銃で射殺する事件を起こした。射殺された青年はディーク・ハマーという資産家の息子で、本来ヴィットーリオ・エマヌエーレが撃ったとされるヨットのオーナーの友人であったが、銃弾の流れ弾に当たって死亡した。1978年8月28日、ヴィットーリオ・エマヌエーレは事件への関与を否定していたものの、被害者の資産家からの民事訴訟を受けている[8]。

1989年10月11日にフランス警察から襲撃と武器の不法所持により逮捕されるが、被害者が麻薬を摂取していたためにその証言能力に疑問があったこと(さらに被害者が仲間同士で誤って撃ったとの証言もある)や、13年前の事件ということもあって、武器のM1ガーランド銃の不法所持のみが罪に問われた[8]。内容は6ヶ月間の禁固刑と極めて軽い内容であった[9]。

(後略)

彼は、パーレヴィ国王の友人で、結婚式はテヘランのお祭りとともに上げたりしていましたし、ベルルスコーニと同じ、ロッジP2の会員でした。

スイスのInstitute Le Rosey-1(80年代米国とイスラエルからイランに武器供与・武器商人アドナン・カショギ) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

スイスのInstitute Le Rosey-番外編(アドナン・カショギと手を組む「正義(?)の国々」) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ロッジP2 - Wikipedia

 

もちろん、孫のヴィットリオ・エマニュエーレは戦争時は子供。彼をスイスで育てたのは母親です。

マリーア・ジョゼ・デル・ベルジョ - Wikipedia

抜粋:

マリーア・ジョゼ・デル・ベルジョ(イタリア語: Maria Jose del Belgio, 1906年8月4日 - 2001年1月27日)は、イタリア国王ウンベルト2世の王妃。1946年5月9日から35日間の王妃としての在位期間により「五月王妃(Regina di Maggio)」と呼ばれた。

来歴 生い立ち

ベルギー国王アルベール1世とその王妃エリザベートの長女としてオーステンデで生まれた。ベルギー国王レオポルド3世、フランドル伯シャルルは実兄にあたる。彼女の名は母方の祖母マリア・ヨーゼファ・フォン・ポルトゥガルに因んで名付けられ、第一次世界大戦まではザクセン=コーブルク=ゴータ公女の称号を与えられていた。

結婚 世界大戦後の1930年1月8日、24歳のマリーア・ジョゼはイタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の長男である、ピエモンテ公ウンベルト・ディ・サヴォイアと結婚した。夫との間に4人の子供を儲けた。

マリーア・ピア(1934年 - ) - ユーゴスラビア王子アレクサンダルと結婚し、後に離婚。ブルボン=パルマ公子ミシェルと再婚。
ヴィットーリオ・エマヌエーレ(1937年 - ) - ナポリ公。
マリーア・ガブリエッラ(1940年 - )
マリーア・ベアトリーチェ(英語版)(1943年 - )

参考:

レオポルド3世 (ベルギー王) - Wikipedia

「正義」のイメージの国ベルギー - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ロバート・ロスチャイルドとレオン・アンリ・ランベールと「コンゴ」 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

第二次世界大戦の目的を考える-「タブー」と封印されたことから紐解けば… - Various Topics 2 (goo.ne.jp)


ルワンダの悲劇はルワンダに終わらず - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

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