Various Topics 2

海外、日本、10代から90代までの友人・知人との会話から見えてきたもの
※旧Various Topics(OCN)

ナポレオンが大物になった背景-2(オルレアン公とカリオストロ)

2023年12月08日 | ペリエ家とオルレアニスム

前回に続き,senjutu.netさんの記事から抜粋。

ナポレオンの初恋とオーソンヌでの学び (senjyutu.net)

抜粋1:

ナポレオンは1785年10月にパリの高等士官学校を卒業しました。

卒業後の進路として海軍に入隊することを勧められますが、母レティシアが反対したためヴァランスのラ・フェール砲兵連隊に配属されました。

高等士官学校時代からの友人デ・マジもラ・フェール砲兵連隊に配属されたため、ナポレオンはヴァランスでもデ・マジとともに過ごすことになります。

抜粋2:

コルシカ島に帰郷していたナポレオンでしたが4月に休暇の終わりが近づくと家族の問題の解決と偽って11月まで休暇を引き延ばしました。

そして1787年9月12日にコルシカ島を離れてパリに向かい、11月22日、ナポレオンはパレ・ロワイヤルで売春婦を買い童貞を失いました。

当時のパレ・ロワイヤルでは警察官は立ち入り禁止だったため、市民が政治論議を行ったりする革命家の溜まり場となっており、売春婦や怪しげな物を売る人で溢れていたと言われています。

1787年12月、ナポレオンは理由を付けてさらに翌年6月まで再度休暇を引き延ばしました。

そして1788年1月1日、コルシカ島のアジャクシオに戻りました。

ナポレオンはこの何度も延長された休暇の間、コルシカ島で以前から構想していた「コルシカ史」の執筆をしており、給料もちゃっかりと受け取っていたと言われています。

 

ナポレオンが1785年にヴァランスに赴任することになったのは、間に誰かが入っていることはなかったのでしょうか。

それはどうあれ、1787年にパリへ行き、パレ・ロワイヤルにおそらく入り浸ったであろうナポレオン。

パレ・ロワイヤルは、フリーメイソングランドマスターのオルレアン公の宮殿でした。

18世紀フランスのフリーメイソングランドマスターだったオルレアン公はどのような人物だったか - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

フランス革命に関わったフリーメイソン達・フリーメイソンも「駒」では? - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

ルイ・フィリップ2世 (オルレアン公) - Wikipedia

オルレアン公爵ルイ・フィリップ2世ジョゼフ(仏: Louis Philippe II Joseph, duc de Chartres, puis duc d'Orléans, 1747年4月13日 - 1793年11月6日)は、フランスの王族で、オルレアン派を率いた指導者である。

ブルボン家の分家の一つであるオルレアン家は、フランス王国の5%が領地である有数の富豪であった。公爵はその財力をもって王位を狙う野心家で、高等法院と王権との争いに介入して宮廷と対立し、革命前に最初に国王に逆らったことで自由主義貴族の代表となった。王妃マリー・アントワネットを盛んに中傷し、その政敵であったことでも知られる。

バスティーユ襲撃事件を誘発し、フランス革命が勃発するとこれを支持してフィリップ・エガリテ(Philippe Égalité、平等公フィリップ)を自称した。ルイ16世の死刑にも賛成票を投じたが、同じ年に彼自身も告発され処刑された。 息子はシャルトル公爵およびオルレアン公爵を継承し、七月王政の王となったルイ・フィリップ1世である。

略歴
オルレアン公ルイ・フィリップ1世とコンティ公ルイ・アルマン2世の娘ルイーズ・アンリエット・ド・ブルボン=コンティの間にサン=クルーで生まれる。モンパンシエ公、シャルトル公となり、1769年、ルイ14世の庶系の曾孫娘ルイーズ・マリー・ド・ブルボン=パンティエーヴルと結婚し、1785年に父の死によってオルレアン公となった。私生活は放蕩かつ無節操で、民衆に開放した自分の宮殿パレ・ロワイヤルは歓楽街として使われ、政治的な危険分子はもちろん、娼婦の溜まり場にもなった。

1771年にはフランス・フリーメイソンのグランドマスターとなり、二年後にフランス・グラントリアン(フランス語版)を創設した[1]。

アメリカ独立戦争を支持し、首飾り事件が起こるとそれをマリー・アントワネットを攻撃するのに利用した。

(後略)

 

首飾り事件に関与したという「カリオストロ伯爵」は、シチリアのパルレモ生まれ。

カリオストロ - Wikipedia

彼のフリーメイソンに入会してからの動きはとても怪しいです。(「要出典」がどこにかかっているかは不明。))

Alessandro Cagliostro - Wikipedia

抜粋google翻訳:

1777年4月12日、「ジョセフ・カリオストロ」はロンドンのソーホー市ジェラード・ストリートにあるエスペランス・ロッジ289番のフリーメーソンとして認められた[8]。 1777年12月、カリオストロとセラフィーナはロンドンを出て本土に向かい、その後ドイツの様々な州を旅し、厳守の儀式のロッジを訪れ、カリオストロの「エジプト・フリーメーソン」への改宗者を探した。 1779年2月、カリオストロはミタウ(現在のラトビア)を旅行し、そこで詩人のエリサ・フォン・デア・レッケに会いました。 1780年9月、サンクトペテルブルクでロシア皇帝エカチェリーナ2世の後援を勝ち取ることに失敗した後、カリオストロ一家は当時フランスにあったストラスブールに向かった。 1784 年 10 月、カリオストロ一家はリヨンへ旅行しました。 1784年12月24日、彼らはエジプト・フリーメーソンの儀式のための共同フリーメーソンのマザー・ロッジ、ラ・サジェス・トリオンファンテをリヨンに設立した。 1785年1月、カリオストロとその妻はローハン枢機卿の懇願に応えてパリへ向かった[要出典]。

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ナポレオンが大物になった背景-1(ジャン・ピエール・バシャッソン~クロード・ペリエ)

2023年12月08日 | ペリエ家とオルレアニスム

「戦争と革命、コルシカとカルボナリ」シリーズの途中ですが、焦点を「フランス」に移します。

 

ナポレオンについて、詳しく書いてくださっているウェブサイトを見つけました。

ナポレオン・ボナパルトの生涯 (senjyutu.net)

私はまだ少ししか読んでいませんが、そのなかでも新しい発見があり。

その一つが、リヨンとグノーブルに近いヴァランスの町で、ナポレオンが知り合ったというジャン・ピエール・パシャッソン。

ナポレオン初の実戦と故郷との別れ (senjyutu.net)

抜粋:

1791年1月31日、ナポレオンは約10日かけてオーソンヌに帰りました。

その途中、ヴァランスで数日滞在したと言われています。

3月、ナポレオンはコルシカ国民義勇兵中佐に選出されました。

その後、特に目立った成果を上げることもなく1791年6月1日に中尉に昇進してヴァランスにある第4砲兵連隊に転属となり、6月16日に弟のルイとともにヴァランスに到着し、ボウ女史のアパートの一室を借りました。

ナポレオンはこの時期に将来のヴァランス市長、そして皇帝ナポレオンの内務大臣となるジャン=ピエール・バシャッソン(Jean-Pierre Bachasson)と出会い親交を結びます。

Jean-Pierre, Count of Montalivet - Wikipedia

フランス語google翻訳:

ジャン=ピエール・バシャッソン、国王、初代モンタリヴェ伯爵(ヌン教会、現在はモーゼル県サルグミーヌの一部、1766年7月5日 - ラグランジュ城[1] シェール、1823年1月22日)は、フランスの政治家、フランス貴族。 彼はルイ・フィリップ政権の内務大臣であった第3代モンタリヴェ伯カミーユ・バシャッソンの父親であった。

人生 生い立ちと革命

サルグミーヌに生まれた貴族で、シャルル・ヴィクトル・バシャッソン、モンタリヴェ国王、カンプ元帥、サン・ルイ騎士団騎士、コルシカ首相府国王参事官などを務めたシャルル・ヴィクトル・バシャッソンと、高貴な女性の二番目の妻マルト・ド・サン・ジェルマンの息子。

彼は、1785 年から 1790 年までグルノーブル議会の参事官を務め、ヴァランスにいる間、当時若い士官であったナポレオン・ボナパルトと友人になりました。 1788年、ジュルネ・デ・チュイルとして知られる血なまぐさい暴動の際、彼は反乱の側につき、モンメイランの城に追放された。 フランス革命を支持したが、バシャッソンは恐怖政治から逃れるためにイタリア陸軍に入隊した。

フランスに戻った後、1795年にヴァランス市長に選出され、フランスディレクトリの下でドローム県の長官を務めた。 領事館と帝国 18年のブリュメールクーデターの後、ナポレオンはバシャッソンをマンシュ県、その後は領事館管轄のセーヌ・エ・オワーズ県の長官に任命するよう呼び掛けた。 フランス帝国の発足とともに、バシャソンはコンセイユ・デタに加わり、レジオン・ドヌール勲章の長官となり、1806 年からはポン・ショセ軍団の長となった。 彼は 1809 年に内務大臣に就任しました。この時期は、フランスがヨーロッパの領土拡大の頂点にあった時期でした。 バシャッソンは大臣として、新しい橋や港の建設を認可するなど、帝国内のインフラ整備に貢献した。 彼はまた、パリの大規模な都市工事、凱旋門やブロンニアール宮殿などの記念碑の建設、下水道の拡張や公共の噴水の掘削も監督しました。

 

まず1に、「ジャン・ピエール・パシャッソンの父親がコルシカに政府の仕事※としてついていたこと(息子もコルシカに住んだことがあるかも。)」、第2に、「彼自身がグルノーブル議会にいたこと」、第3に、「彼が内務大臣としてインフラ整備などを担当したが、インフラ事業はイギリスとペリエ家とも間接的なかかわりがあったこと」から、このジャン・ピエール・パショッソンが、ナポレオンをクロード・ペリエに紹介した可能性もあるのではないか、と思うのです。

Conseil supérieur de la Corse — Wikipédia (wikipedia.org)

 

ペリエ家-1(クロード・二コラ・ペリエ) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ペリエ家-2(ジャック&オーギュスト・ペリエとクロード・ペリエの接点) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ペリエ家-4(ペリエ家とフランス革命・ブルジョワジーとオルレアニスト) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

Claude Perier - Wikipedia

抜粋google翻訳:

クロード・ペリエは、ルイ16世の君主制による中央集権化と財政濫用に対するドーフィニー議会によるグルノーブルでの抵抗運動(ヴィジール議会)を支援し、フランス革命の勃発に重要な役割を果たした。

Château de Vizille - Wikipedia

抜粋フランス語google翻訳:

1780年、ヴィルロワ公ガブリエル・ルイ・ド・ヌフヴィルはヴィジル城とその周辺地域をクロード・ペリエに約1025万4000リーヴルで売却した。 約10年後、クロードはシャトーで400人以上の労働者にプリント綿を製造させました。 この建物は、フランス革命の初期において重要な役割を果たすことになります[1]。

1788 年 5 月、国王ルイ 16 世は、グルノーブルのドーフィネ議会の権限の大きさに境界を設けることを決定しました。 議会はこの決定にどれほど不満があるかを公然と表明し、1788年6月7日、彼らは一堂に会することを許可されなかった。 そのお返しとして、グルノーブルの住民は屋根から王の衛兵隊に瓦を投げつけた。 このイベントは、グルノーブルでは「タイルの日」または「タイルの日」として知られています。

7月、クロード・ペリエは周囲の自由主義者の考えに触発され、聖職者、貴族、第三身分の代表者を招待し、グルノーブルでは以前は禁止されていた会議をジュ・ド・ジュ・ドの部屋に集めた。 城のポーム。 その日、クロード・ペリエ主催の晩餐会には500人近くの男たちが集まった。 出席者には、教会員、実業家、医師、公証人、市職員、弁護士、土地貴族を含む多くの「著名人」がいた。 このイベントはヴィジールの集会として知られています。

 

オマケ:

2014年映画『3つの心 あのときもしも』とヴァランス - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

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ペリエ家-番外編(オルレアン公フランソワ2世とサンシモン公ルイ・ド・ルヴロワ)

2023年06月05日 | ペリエ家とオルレアニスム

再び、マントノン侯爵夫人の日本語版ウィキペディアから抜粋:

マントノン侯爵夫人フランソワーズ・ドービニェ - Wikipedia

抜粋:

王との結婚

ルイ14世
毒殺事件(フランス語版)に関わったとしてモンテスパン夫人は急速に評判を落とし、王の最後のお気に入りフォンタンジュ嬢が出産時に急逝した。1683年7月30日に王妃マリー・テレーズ・ドートリッシュが急逝、翌1684年にマントノン夫人は王太子妃の第一女官長となった。

1685年から1686年にかけての冬、パリ大司教フランソワ・ド・アルレー・ド・シャンヴァリョン(フランス語版)が司った私的な挙式において、フランソワーズはルイ14世と結婚した。王の贖罪司祭フランソワ・ド・ラ・シェーズ(フランス語版)、モンシュヴルイユ侯爵、クロード・ド・フォルバン、アレクサンドル・ボンタンも出席したと信じられている。社会的階層の不釣合いのために、彼女は王との結婚を公にし王妃となることはできず、貴賎結婚であった。結婚についての証明書は何も存在しないが、歴史家たちは結婚が確かにあったことを容認している。

ルイ14世とマントノン夫人の結婚当時まだ少年であったサン=シモン公ルイ・ド・ルヴロワ(フランス語版)は、自伝の中でこう書いている:

これは本当に起きた事で真実である。冬のさなか王がフォンテーヌブローから戻った後、 王妃マリー・テレーズが崩御された (これが本当に真実でも、後世の人々はたやすく信じることはできないだろう)。 王の贖罪司祭ラ・シェーズは、 ヴェルサイユ宮殿の王の私室で、王妃の崩御された夜にミサを行ったと言った。 ヴェルサイユ知事で侍従長であるボンタン、 そして4人の最大の腹心たちがこのミサに出席した。 ミサとは、王とマントノン夫人が パリ大司教アルレー、そしてルーヴォワ(2人ともこの結婚を決して公言しないよう王に約束させられていた)、モンシュヴルイユ出席のもと行った結婚式のことである。

「モンテスパン侯爵夫人が、フォンタンジュ嬢を毒殺」という噂が立ったということですが、毒殺するとしてもそれはモンテスパン侯爵夫人ではなく、マントノン侯爵夫人の応援団のほうではないか?と思えてしまいます。

マリー・アンジェリク・ド・フォンタンジュ - Wikipedia

 

上のウィキペディアに出てくるサンシモン公ルイ・ド・ルヴロワは、サンシモン主義のアンリの遠縁になりますが、

アンリ・ド・サン=シモン - Wikipedia

このサンシモン公ルイが、オルレアン公フィリップ2世と一緒になって嫌ったのが、モンテスパン夫人とルイ14世の子のルイ・オーギュスト。

オルレアン公フィリップ2世は、モンテスパン夫人の息子が王位に就くのを阻止して、ルイ14世の孫のルイ15世の摂政になれてホクホクだったでしょう。

ルイ・オーギュスト・ド・ブルボン - Wikipedia

ルイ・オーギュスト・ド・ブルボン(Louis Auguste de Bourbon, duc du Maine, 1670年3月31日 - 1736年5月14日)は、ブルボン朝期フランスの王族。メーヌ公、ウー伯、オマール公。王位継承者の1人に選ばれたが、その後の政争に敗れて失脚した。

生涯
幼少期・青年期
フランス王ルイ14世と、寵姫モンテスパン夫人の長男として生まれた。出生間もなくマントノン侯爵夫人によって養育された。1673年12月に認知され、1674年1月に宮廷にやってきた。同年、ギャルド・スイスの先任将官に任命されている。

ルイ14世お気に入りの息子であるが、宮廷でわがままいっぱいに振るう寵姫モンテスパン侯爵夫人の私生児であることから叔父のオルレアン公フィリップ1世妃エリザベートや作家のアンリ・ド・サン=シモンの遠縁であるサン=シモン公ルイ・ド・ルヴロワからは嫌われていた。

(中略)

1714年7月23日、父王は庶子であるルイ・オーギュストと弟のルイ・アレクサンドルにプランス・デュ・サン(Prince du sang)の身分を授け、二人を正式なフランス王位継承者とした。この頃、ルイ14世の嫡男グラン・ドーファン、孫のブルゴーニュ公、ベリー公兄弟とルイ14世の王位継承者が3人続けて亡くなっていることと、幼い曾孫のアンジュー公(後のルイ15世)にはフランス王位を継がせるのは難しく、オルレアン公フィリップ2世もスペイン王家の血を引くことからアンジュー公かオルレアン公をスペイン王座につかせようと父王は考え、フランス王位には自身の直系である彼の嫡子を王位継承者にすることによって内戦を防ぐことを望み、このような措置がなされた。

しかし、正式なフランス王家の嫡子であるコンデ公ルイ4世(ルイ・オーギュストの妻の甥、ブルボン公)やオルレアン公は、ルイ14世の庶子が共に王座の間に入るのが不満であった。ルイ・オーギュストの敵であるサン=シモン公は翌日に挨拶にやってきている。そしてルイ・オーギュストは父王に共同摂政政治の中からオルレアン公を下ろす内容の遺書を書くよう迫った。同年8月26日に父王はルイ・オーギュストを大統領及び地方検事総長とした。父王はその際、自分の後ろ盾あってのルイ・オーギュストであることを諭すようなことを述べている。1715年8月、ルイ14世の体調が著しく悪化し、同月22日にベルサイユ庭園で行われるフランス騎兵隊のパレードの指揮をルイ・オーギュストに代行させるようを命じたが、結局この行事はオルレアン公の軍隊が指揮を取り行われた。

同年9月1日にルイ14世が死去。父王の遺言はオルレアン公とメーヌ公で若いルイ15世の摂政政治をすることだった。翌日には議会で摂政政治を宣言しなければならなかった。オルレアン公はルイ・オーギュストが私生児であることを盾にパリ高等法院においてルイ14世の共同摂政の遺言を取り消し、オルレアン公フィリップ2世が幼王の摂政となった。そして摂政政治の会議にブルボン公を招くことにしたが、ブルボン公はルイ・オーギュストの命令に従わなかった。この会議でルイ14世の親族はブルボン公に多くの摂政政治権を与えた。1718年8月26日にサン=シモン公はルイ・オーギュストから王族の称号プランス・デュ・サンと近衛隊司令官職を奪い取り、単なるルイ14世の庶子であるとし、ルイ・オーギュストは摂政から追い出される形となった。

(後略)

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ペリエ家-番外編(マントノン侯爵夫人)

2023年06月05日 | ペリエ家とオルレアニスム

クロード・ペリエから始まって、ペリエ家をたどっていくと、どうしても宗教がらみの人脈、特にフランスのルイ14世と15世のあたりから見て行かないとわからなくなります。

まずは、ルイ14世と結婚した、マントノン侯爵夫人-

マントノン侯爵夫人フランソワーズ・ドービニェ - Wikipedia

マントノン侯爵夫人フランソワーズ・ドービニェ(フランス語: Françoise d'Aubigné, Marquise de Maintenon, 1635年11月27日 - 1719年4月15日)は、フランス王ルイ14世の妻。貴賤結婚であったため王妃ではない。

(中略)

幼年時代
1635年11月27日に生まれたが、出生地は憶測の域を出ない。ニオールにあるショーモン邸は、フランソワーズの出生地を示すプラークを掲げている[1]。フランソワーズの敵や批判的な人々は、彼女がニオールの監獄で生を受けたと主張する。

フランソワーズの父親であるコンスタン・ドービニェはユグノーで、1619年に最初の妻を殺害して逮捕された前科があった。その後、イングランドと共謀してリシュリュー枢機卿に対する陰謀に加担して投獄されていた。母ジャンヌ・ド・カルディヤックは看守の娘であった[2]。フランソワーズの父方の祖父アグリッパ・ドービニェはよく知られたユグノー(プロテスタント)の将軍で、アンリ4世の親しき友であり、当代きっての詩人であった。

母ジャンヌは、自らのカトリック信仰に従って律儀に赤子に洗礼を受けさせた。代父母となったのは、ヌイヤン伯爵夫人とロシュフコー公爵(フランソワ・ド・ラ・ロシュフコーの父)であった。

1639年に父コンスタンは釈放され、家族と一緒にマルティニーク島へ向かった。彼は1635年以前に、商人ピエール・ブラン・デスナンビュック(フランス語版)らとマルティニークへ渡った記録がある。一家は島北西部のサン=ピエールで暮らした。12歳まで過ごしたマルティニークの思い出は、彼女に鮮やかな印象を残した。当時のマルティニークは、ドミニカ島のカリブ族からの絶え間ない襲撃に晒され続けていた。

ジャンヌは厳格な母親で子供たちにわずかな自由しか与えず、子供たちにカトリックの洗礼を受けさせながらもユグノーとしての教育を授けた

(中略)

フランソワーズの一家は事実上貧困状態で生き長らえており、一方でバルバドス島のイングランド人たちはすぐに富を得るようになった。この時代にフランソワーズは"ベル・インディエンヌ"(Belle Indienne)とあだ名がつけられていた。マルティニーク島へのサトウキビ栽培導入が失敗に終わる一方で、バルバドス島では1640年代以降非常に利益を挙げるようになり、タバコ栽培農家排除が起こった。

その後1645年、父コンスタンは妻子をマルティニークへ残したまま、知事としての肩書きの認定を求めてフランスへ帰国した。母は子供たちにとっていつまでも両親であろうとし、2年後の1647年にただちに帰国して父と合流したが[3]、帰国してわずか1ヶ月で父が急死し、母も他界、フランソワーズは伯母ヴィレット夫人の元へ預けられた。

ミュルセーにあるヴィレット家は、父が釈放されるまでの短期間に伯父夫婦から世話されたことのあるフランソワーズにとって、幸福な思い出となった。ヴィレット家はフランソワーズの家族よりも裕福で子供たちの面倒を良くみたが、彼らは熱烈なユグノーでその信条に合わせた学校にフランソワーズを通わせた。このことが彼女の代父母らに知られると、フランソワーズは女子修道院で教育を受けさせるべきと命令されることになった[4]。

フランソワーズは聖ウルスラ会(フランス語版)の女子修道院での生活を嫌ったが、修道女の一人セレストに大事に愛されて育ち、彼女の説得で初めて聖体を受けた。フランソワーズの代母ヌイヤン伯爵夫人シュザンヌの母親は彼女をパリへ連れて行き、知識階級の人々に紹介した。彼らが、フランソワーズの必要とする将来との重要なつながりとなった。

(後略)

 

彼女の祖父は有名なユグノーでアンリ4世の友人でした。

アグリッパ・ドービニェ - Wikipedia

孫娘と結婚したルイ14世が「ナントの勅令」を撤回したので、祖父から見ると、マントノン侯爵夫人は「裏切者」になりますが、本当にそうといえるでしょうか?

モンテスパン夫人失脚後、王妃のマリー・ルイーズが1683年7月30日に44歳突然亡くなり、即座にルイ14世と結婚。

この結婚式を取り仕切った司祭は、日本語版ウィキペディアでは、

フランソワ・ド・アルレー・ド・シャンヴァリョン

François Harlay de Champvallon — Wikipédia (wikipedia.org)

となっていますが、実際はフランソワ・ド・ラ・フェーズが「2人を結婚させた」と思います。

François de la Chaise - Wikipedia

Google翻訳:

フランソワ・ド・ラ・シェーズ (1624–1709)
モンテスパン夫人の失脚とマントノン夫人の台頭により、彼の影響力は大幅に増大した。 ルイ14世とマントノン夫人の結婚はヴェルサイユでの彼の立会いの下で祝われたが、その後の彼とマントノン夫人との間の冷淡さは、この問題における彼の秘密主義の主張から生じたと考える理由はない。 ルイ 14 世とインノケンティウス 11 世の間でガリカン教会の一時性をめぐる長い争いの間、ペール・ド・ラ・シェーズはローマでの影響力を利用して教皇当局を懐柔したが、王権を支持した。 彼はナント勅令の取り消しに主な責任を負った[1]。

彼はジャンセニストに対するルイ14世の熱意に穏健な影響を与え、ほとんどの事柄で彼に反対していたサン=シモンは、彼の人道的で名誉ある性格を十分に評価している。 ペール・ド・ラ・シェーズはフェヌロン大司教に対して永続的かつ不変の愛情を抱いており、それは教皇によるマクシム夫妻の非難によっても変わらなかった[1]。

学力の低下にも関わらず、彼はその長い生涯の終わりまでルイ14世の聴罪司祭としての職務を続けた。

(後略)

 

しかしまあ、歴史上「悪名が高い人」よりも、「善」とされている人に注目すると、面白いことに気が付きます。

ルイ14世の籠妃モンテスパン公爵夫人は徹底的に「悪女」。

ランバル公妃マリー・ルイーズとポリニャック伯爵夫人ールイ14世の寵姫、黒ミサで失脚のモンテスパン侯爵夫人との繋がり - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ユグノー(カタリ派)-1(ルイ14世の籠妃モンテスパン侯爵夫人とヴォワザン) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

あまり目立たず、それでも名前が出てくるときは、「善」と書かれるマントノン侯爵夫人。

 

参考:

ナントの勅令 - Wikipedia

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ペリエ家-6(クロード・ペリエとオベルカンフとネッケル夫人)

2023年06月02日 | ペリエ家とオルレアニスム

クロード・ペリエの英語版wikipediaから改めて抜粋:

Claude Perier - Wikipedia

抜粋Google翻訳:

ビジネスキャリア
ジャックのビジネスは、長年にわたり家族経営として発展してきました。 たとえば、彼の娘エリザベートは、リヨンの裕福な商人ピエール・ジョルダンと結婚しました。 グルノーブル近郊のヴォワロンとの通商は、甥にあたるフランソワ・ペリエ・ラグランジュによって加えられた。 1764年、姪のマドレーヌ・ペリエはヴォワロンの有力商人フランソワ・ティヴォリエと結婚した[3]。 クロード・ペリエは、成人に達したとき、有力なヴォワロン商人の娘マリー・シャルロット・パスカル(1749~1821)と結婚して、こうしたつながりを強固なものにしました。 1767年の彼女の持参金は6万リーブルに達した。 その日までに、クロードはすでに家族経営の積極的な一員となっていました。 1764 年、会社は「ジャック ペリエ、父、息子、甥商会」と名付けられました。 クロード・ペリエとペリエ・ラグランジュはマイナーパートナーでした。 1773年にこの協会が更新されたとき、ジャックとその息子クロードの持ち分はそれぞれ344,266リーヴルと72,493リーヴルであった[4]。

リネンの貿易が主力であったが、ペリエ家は地域企業の信用銀行家としても活動し、土地投資を行い、グルノーブルで自己勘定で製造業に乗り出した(モスリン、1777年、ハードウェア、1779年)。 最も重要なことは、クロードと彼の父親が、プリントされた綿布 (トワル ペイント) や壁紙 (パピエ ペイント) に対するフランスでの需要の高まりに応えたことです。 プリント綿は主にインドから輸入され、インディエンヌとして知られていました[6]が、1760年に有名な実業家クリストフ・フィリップ・オベルカンフ(1738年 - 1815年)によってフランスで製造され始めました。 パリ近郊のジュイにある彼の綿プリント工場は、1774 年までに 900 人の労働者を雇用していましたが、1783 年にルイ 16 世によって「王室製造業者」に指名されました。 オベルカンフは 1785 年に壁紙を印刷するための最初の機械を発明しました。[7] ジャック・ペリエとクロード・ペリエは、1775 年から 1777 年にかけて、グルノーブルのすぐ南にある小さな村、ヴィジールでこれらの印刷物の生産を開始しました。

 

オベルカンフについては、

「ブランド」と「芸術品」と「職人技」-10(ゲブヴィレールとシュルンベルジェ家と「トワル・ド・ジュイ」) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

で書き、この記事の下に、2名の夫人のウィキペディアを「仮置き」に入れておきました。

1名は、オベルカンフのビジネスパートナーの妻です。

Marie-Catherine de Maraise - Wikipedia

Google翻訳:

マリー=カトリーヌ・ド・マレーズ旧姓ダルセル(1737年 - 1822年)はフランスの実業家。

彼女は 1767 年にパリの裕福な投資家アレクサンドル・サラサン・ド・マレーズと結婚しました。彼女の配偶者は、フランスの王立プリント綿製造会社の創始者であるパイオニア実業家クリストフ・フィリップ・オベルカンフのビジネスパートナーでした。 彼女の夫はビジネスの詳細についての知識がなかったため、彼女がビジネスにおける夫の利益を代表することを許可し、夫の許可を得て彼女はオベルカンフと協力して会社を経営しました。 これは、法的に未成年の既婚女性が夫の保護下にあるにもかかわらず、夫の援助により許可された画期的な時代であった。 このため、マリー=カトリーヌ・ド・マレーズは、大企業における既婚の実業家という立場において珍しいものとなった。

彼女は鋭いビジネスセンスを持った才能のある女性であると言われています。 彼女は本質的に会社の会計士として活動し、会社の経済を担当し、当局やビジネス上の連絡先との接触を管理し、特にオベルカンフがプロテスタントだったため、特定の社会で姿を現すことが不可能だったため、会社の公の顔として機能した。 公共の場での儀式的な状況。 伝えられるところによると、彼女はその経済的センスにより、同社をフランスで 2 番目に成功させた重要な役割を果たし、社交生活を通じて多くの貴重なビジネス上の人脈を獲得しましたが、その中にはスザンヌ・クルショも含まれていました。

彼女は、フランスがアメリカ独立戦争に参加しようとしていることを事前に人脈を通じて知り、その情報を利用して同社と軍との契約を取り付けようとしたことが注目される。 1789 年、オベルカンフは夫との交際を終了し、これにより自動的に会社への関与も終了しました。

もう一名は、スザンヌ・クルショで、ネッケル夫人。

Suzanne Curchod - Wikipedia

スザンヌ・クルショ(Suzanne Curchod、1737年 - 1794年5月6日)は、フランス系スイス人のサロニスト、作家。 彼女はアンシャン・レジームの最も有名なサロンの一つを主催しました。 彼女はまた、パリの模範的な小規模病院であるオスピス ド シャリテの開発を主導しました。この病院は現在もネッケル アンファン マラデス病院として存在しています。 彼女はフランス財務大臣ジャック・ネッケルの妻であり、歴史文書ではしばしばマダム・ネッケルとして言及されています

初期の人生と教育

クルショは、ローザンヌ近郊のスイスのクラシエ村のプロテスタント牧師ルイ・アントワーヌ・クルショとマグドレーヌ・ダルベール・ド・ナッセの娘として1737年5月に生まれた[2]。 家族は裕福ではなかったが、スザンヌは(主に父親によって)十分な教育を受け、ラテン語に堪能になり、数学と科学にも適性を示した[2]。 彼女の最初のサロンは、クルショを会長とするローザンヌを拠点とする学生サークルで構成されるアカデミー・デ・ゾーと呼ばれる文学グループでした。

1757年、クルショは歴史家エドワード・ギボンと出会った。彼は彼女に恋をし、後の求愛の回想の中で「彼女が衒学的でなく、会話が活発で、感情が純粋で、マナーがエレガントであることがわかった」と書いている[2]。

(中略)

父親の死により収入が減り、クルショと母親は非常に貧しい状況に陥ったが、彼女はレッスンをすることでこの状況に対処した[2]。 母親の死後、彼女は若いフランス人未亡人マダム・ド・ヴェルムヌーの伴侶companionとなり、1763年か1764年頃に彼女をパリに連れて行った。 当時、ヴェルムヌー夫人は野心的なスイスの投資家ジャック・ネッケルから求愛されていたが、そもそも再婚したいかどうかは確信が持てなかった[2]。 しかし、数か月以内にネッケルはクルショに目を向け、1764年に二人は結婚した。 二人には子供が一人いました。その娘はアン・ルイーズ・ジャーメインで、後に作家兼哲学者となり、現在はスタール夫人としてよく知られています。

パリでの生活

1776年、ネッケル夫人の夫はルイ16世のもとでフランス財務省の長である財務局長に就任し、プロテスタントの宗教とスイス出身という二重の不利な条件にもかかわらず、この地位を獲得した[3]。 彼の成功の多くは、パリ社会の著名人が集まって芸術、文学、政治について話し合う妻のサロンのおかげでした。 常連客の中には、ジャン=フランソワ・マルモンテル、ジャン=フランソワ・ド・ラ・アルプ、ブッフォン伯爵、フォン・グリム男爵、ガブリエル・ボノ・ド・マブリー、ジャック=アンリ・ベルナルダン・ド・サン=ピエール、アントワーヌ・レオナール・トーマス、そして『聖書』の編纂者らがいた。 ドゥニ・ディドロとジャン・ル・ロン・ダランベールを含む百科事典。[2][3] マダム・ネッケルのサロンは、マリー・テレーズ・ロデ・ジョフランやデファン侯爵夫人マリー・アンヌ・ド・ヴィシー・シャムロンなどのスイス人駐在員の集いの場でもありました。

(後略)

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ペリエ家-5(パスカル家とペリエ家とアルノー家)

2023年06月01日 | ペリエ家とオルレアニスム

「イエズス会のライバルで、プロテスタントのカルヴァン派に近いカトリックのジャンセン派なるものと関係が深い家系に、アルノー(Alnaudですが、根はAlnautも同じだと思います。)とペリエ家があります。

ペリエ家は、「人間は考える葦である」という言葉を残したパスカルの姉妹との結婚を通して繋がります。

ブレーズ・パスカル - Wikipedia

ブレーズ・パスカル(Blaise Pascal、1623年6月19日 - 1662年8月19日)は、フランスの哲学者、自然哲学者、物理学者、思想家、数学者、キリスト教神学者、発明家、実業家である。

神童として数多くのエピソードを残した早熟の天才で、その才能は多分野に及んだ。ただし、短命であり、三十代で逝去している。死後『パンセ』として出版されることになる遺稿を自身の目標としていた書物にまとめることもかなわなかった。

「人間は考える葦である」などの多数の名文句やパスカルの賭けなどの多数の有名な思弁がある遺稿集『パンセ』は有名である。その他、パスカルの三角形、パスカルの原理、パスカルの定理などの発見で知られる。ポール・ロワヤル学派に属し、ジャンセニスムを代表する著作家の一人でもある。

かつてフランスで発行されていた500フラン紙幣に肖像が使用されていた。

(後略)

Blaise Pascal (1623 - 1662) - Genealogy (geni.com)

Gilberte Pascal (故人) - Genealogy (geni.com)

Florin Périer (故人) - Genealogy (geni.com)

Marguerite Périer - Wikipedia

(こちらは血族かどうかはわかりませんが、偶然にも、クロード・ペリエの妻も「パスカル姓」。

Marie-Charlotte Perier (Pascal) (1749 - 1821) - Genealogy (geni.com) )

 

同じアルノー姓からは、ジャンセニストだけでなく、ワルドー派も出てきています。

Henri Arnaud (pastor) - Wikipedia

シモン・アルノー・ド・ポンポンヌ - Wikipedia

アントワーヌ・アルノー - Wikipedia

Arnauld family - Wikipedia

マイノリティ出身の成功者-ワルド―派&「アルノー」 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

フランス革命にオルレアニストがかかわっていて、彼らがイギリスと協力したこともあったと思いますが、「宗教的マイノリティ」のことものことも、頭に置いていこうと思います。

ジャンセニスム - Wikipedia

 

参考:

ドラマ『ポルダーク』・フランス革命とマダム・タッソー、そしてフリーメイソン - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

18世紀フランスのフリーメイソングランドマスターだったオルレアン公はどのような人物だったか - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

フランス革命に関わったフリーメイソン達・フリーメイソンも「駒」では? - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

フランス革命とトリノ-ピエモンテのワルド派 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

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ペリエ家-4(ペリエ家とフランス革命・ブルジョワジーとオルレアニスト)

2023年05月31日 | ペリエ家とオルレアニスム

クロード・ペリエは間違いなく、オルレアニストで、フランス革命の立役者の一人だったと思います。

ペリエ家-1(クロード・二コラ・ペリエ) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

こちらは、Château de Vizの英語版wikipediaのURLです。(なぜかリンクが生きていない。)

https://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/e/2e88b6176a25c843e65d26c64025cc49

Château de Vizille - Wikipedia

ここから抜粋をGoogle翻訳:

1780年、ヴィルロワ公ガブリエル・ルイ・ド・ヌフヴィルはヴィジル城とその周辺地域をクロード・ペリエに約1025万4000リーヴルで売却した。 約10年後、クロードはシャトーで400人以上の労働者にプリント綿を製造させました。 この建物は、フランス革命の初期において重要な役割を果たすことになります[1]。

1788 年 5 月、国王ルイ 16 世は、グルノーブルのドーフィネ議会の権限の大きさに境界を設けることを決定しました。 議会はこの決定にどれほど不満があるかを公然と表明し、1788年6月7日、彼らは一堂に会することを許可されなかった。 そのお返しとして、グルノーブルの住民は屋根から王の衛兵隊に瓦を投げつけた。 このイベントは、グルノーブルでは「タイルの日」または「タイルの日」として知られています。

7月、クロード・ペリエは周囲の自由主義者の考えに触発され、聖職者、貴族、第三身分の代表者を招待し、グルノーブルでは以前は禁止されていた会議をジュ・ド・ジュ・ドの部屋に集めた。 城のポーム。 その日、クロード・ペリエ主催の晩餐会には500人近くの男たちが集まった。 出席者には、教会員、実業家、医師、公証人、市職員、弁護士、土地貴族を含む多くの「著名人」がいた。 このイベントはヴィジールの集会として知られています。

この会議で要求されたのは、第三身分が二重の代表を持ち、投票が命令ではなく頭で行われる、パリでの身分総監の召集である。 この会議はフランス革命の最初の部分を示しました。 また、このおかげで、クロード ペリエと彼の家族のほとんどは、フランス革命の困難な時期を危害なく過ごすことができました[2]。

 

オルレアニススムについては日本語版ウィキペディアより。

(フランス革命以降は革命や戦争、必要以上の「社会主義者=悪」と言う刷り込みも、オルレアニストがずっと権力を握っているからではないか、と思えてきます。リンクから全文ご覧ください。)

オルレアニスム - Wikipedia

オルレアニスムまたはオルレアン王朝主義(フランス語:Orléanisme)は、フランス革命期に起源を持つ、フランスの右翼ないし中道右派の派閥による政治運動。オルレアニスムの名称は、派閥の指導者であるブルボン王家の分枝オルレアン家に由来する。オルレアニスムは1789年に起きた革命の指導者たちが追求した「人間の権利」と、君主制の原則とのつり合いのとれた立憲君主主義を政治目標とし、この政治的妥協を進める人々の擁護者となったオルレアン家の公爵たちをフランス王として支持した。オルレアニスム運動は1870年の第三共和政成立後しばらくすると、分裂する形で消滅した。この派閥に属する者はオルレアニスト(Orléaniste)と呼ばれた。フランスの歴史家ルネ・レーモンの分析によれば、オルレアニストはレジティミスト、ボナパルティストとともに、フランス右翼の3つの派閥の一つである。

フランス革命期から第一帝政期(1789年 - 1814年)
ルイ14世の甥として生まれ、フランス王国の摂政を務めたオルレアン公フィリップ2世は、サン=シモン公爵(フランス語版)によれば、(少なくとも気を許した者たちとの集まりや談義の中で)自分がイギリスの自由や立憲君主制に惹きつけられている、と常日頃から発言していたとされる。フランス革命の初期、その曾孫で国王ルイ16世とその妃を毛嫌いしていたオルレアン公ルイ・フィリップ・ジョゼフは、自然とリベラル王党派の代弁者を引き受けることになった。

(中略)

オルレアニストの第1世代は、大革命の混乱に圧倒されることになった。ルイ・フィリップ・ジョゼフは、第一共和政の下で「フィリップ・エガリテ」(Philippe Égalité、「平等な」フィリップ)と名乗り、ルイ16世の処刑に賛成票を投じたが、自身も1793年にはギロチンにかけられた。しかし歴史家アルベール・ソレルによれば、オルレアニストはこの痛手を乗り越えて第一帝政期を生き延び、ルイ18世とシャルル10世の下で復活した正統王朝を倒した自由主義の復権の中で、歴史の表舞台に戻ることになるのである。

ブルボン復古王政期(1814年 - 1830年)

ブルボン王家による統治が1814年に復活すると、自由主義者たちはオルレアニスト陣営に入り、新体制の熱烈な支持者であるレジティミスト、そしてボナパルティストと対立した。彼らから見れば、ボナパルティスムも「民主主義を掲げる独裁主義」に過ぎず、一人の専制君主による支配に他ならなかったのである。当時、革命時代のフランス人が政治的自由よりもずっと大事だと考えていた、法の下での平等と社会生活上の平等は確保されたとされ、人々は次に獲得すべきは政治的自由だと信じていた。オルレアニストたちの考えでは、オルレアン公が理想的な政府の下で自分たちに政治的自由を保障してくれると思われた。

オルレアニスト陣営に加わった自由主義者たちの指導層には、文筆業や実業の世界で著名な人物たちが多かった。フランソワ・ギゾー、アドルフ・ティエール、ド・ブロイ公アシール・シャルル・レオン・ヴィクトルとその息子ジャック・ヴィクトル・アルベール、銀行家ジャック・ラフィットなどである。

1830年の7月革命でブルボン家の嫡系が王位を失うと、オルレアニストたちはそこにつけ込み、まんまとオルレアン公ルイ・フィリップ3世を国王に推戴した。

(中略)

7月王政期(1830年 - 1848年)

オルレアニストたちは「神意」に基づく王権という考えを嫌う反面、民主主義をも恐れていた。独裁主義への反転やボナパルティスムへの回帰を引き起こすと確信していたのである。オルレアニストは中産階級の代表者が拠る議会を基盤とした立憲君主政体を採用するイギリスの自由主義政府を理想と考えていた。彼らは絶対君主主義と民主主義の「中庸」(juste-milieu、ジュスト・ミリュー)を追求していた。オルレアニスト政府はフランスにおけるイギリスの中産層選挙民に相当する「法定人口」(pays legal)は25万人程度と決め(実際の有権者は17万人程度)、この枠内から漏れた圧倒的大多数の人々は「事実上は国家を代表している」とした。ギゾーはこの原則を断固たる厳密さをもって解釈し、国政に適用した。

オルレアニストによる7月王政は完全に中産階級のためだけの政治を展開したため、「法定人口」から漏れた大多数の国民は、政府を特権階級の集まりと判断した。政治から排除された国民たちは政府を攻撃しようとはしなかったが、オルレアニスト政府に魅力を感じることはなくなり、貴族政治や昔の王政と変わらないと考えていた。

第二共和政期から第二帝政期(1848年 - 1870年)

1848年革命が起きたのは、それぞれに個性の強すぎる王子や政治家たちによる政権運営が行きづまったことも一部にはあったが、主には18年もの間オルレアン派によって権力から遠ざけられていた、「法定人口」から外れた人々の不満が原因であった。オルレアニストは第二共和政(1848年 - 1852年)と第二帝政(1852年 - 1870年)の間、自派閥に属する人々の富と才能のおかげで、きわだった社会的、文学的威信を保つことが出来た。彼らはアカデミー・フランセーズで影響力をふるい、『両世界評論』誌や『ジュルナル・デ・デバ』紙といった報道の世界で才能を発揮した。

第二共和政に引き続いて成立した第二帝政の時代、オルレアニストは無尽蔵ともいえる巧妙さと機転とを使って政府に対する慎重な反対活動を行った。彼らは政府に対する冷たい沈黙や無視を続け、そして帝国は外国や旧体制の人々から非難を受けていると断じる歴史研究を発表したりして、ナポレオン3世を苦しめ続けた。しかし、オルレアニストたちはパリの文芸サークルの外、殊に地方ではほとんど支持を受けていなかった。

 

ここに出てくる、「サン・シモン公爵」は、サンシモン主義を掲げたアンリの親戚です。

アンリ・ド・サン=シモン - Wikipedia

「サンシモン主義者(信者)・銀行家」のブログ記事一覧-Various Topics 2 (goo.ne.jp)

そして、フランソワ・ギゾーは、シュルンベルジェ兄弟の先祖。

フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー - Wikipedia

「ブランド」と「芸術品」と「職人技」-8(シュルンベルジェ兄弟の母の曽祖父フランソワ・ギゾー) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

参考:

18世紀フランスのフリーメイソングランドマスターだったオルレアン公はどのような人物だったか - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

屋根瓦の日 - Wikipedia

ブルジョワジー - Wikipedia

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ペリエ家-2(ジャック&オーギュスト・ペリエとクロード・ペリエの接点)

2023年05月29日 | ペリエ家とオルレアニスム

パリの水道会社を作ったのは、ジャック・コンスタンタンとオーギュスト・シャルルのペリエ兄弟でした。

Compagnie des mines d'Anzin - Wikipedia

Jacques-Constantin Périer - Wikipedia

ジャック=コンスタンタン・ペリエ (パリ、1742 年 11 月 2 日 – 1818 年) は、独学のフランス人技術者兼実業家で、ルイ 16 世治下の大規模な株式市場投機の時代に兄とともにパリ会社を設立しました。 彼は、1779 年にジェームズ ワットの蒸気エンジンをフランスに紹介し、ワットのアルビオン工場訪問中にアグスティン デ ベタンクールのとりなしのおかげでワットのわずか 6 年後の 1789 年に最初の複動エンジンを製造したことで知られています。 [2]

若いころ
ペリエの父ジョセフ・コンスタンタン・ペリエは、アランソン地区の領地と森の長官でした。 彼の最初の発明は遠心ポンプであり、シャルトル公爵とオルレアン公爵によって特許が認められました[3][4]。

パリの水道
同じく実業家である弟のオーギュスト・シャルルとともに、ペリエは、ロンドンで行われていたように、セーヌ川から水を汲み上げ、顧客に配水するためのパイプ網を設置するための蒸気エンジンを組み立てる特許を王室許可状から取得した[1]。 彼は1777年2月7日に利権を取得し、1778年8月27日に「カンパニー・デ・ゾー・パリ」を設立した[5][6]。

1779 年、ジェームス ワットは自分の発明した機械の権利を彼らに与え、計画を提供しました。 戦時中の貿易統制と輸送不足の増大を考慮すると、フランスへの貨物輸送の注文に障害があったにもかかわらず、ワットとそのパートナー、鉄パイプの供給業者、ウィリアム・ウィルキンソンとジョン・ウィルキンソン兄弟によるペリエに対する不信感が高まっていたにも関わらず、シャイヨーポンプは「 コンスタンティン号とオーガスティン号は 1781 年 8 月 8 日から運航され、ブリガンティン メアリー号で出荷されたボールトン & ワット社から供給された部品が含まれていました。 アルマ広場近くのポンプは水を上流に送り、シャイヨーの丘近くのパッシーの 4 つの貯水池に貯め、そこからペリエ会社の個人契約者に水が流れ、さらに 7 つの新しい公共の噴水にも流れました。 この施設は 1900 年まで稼働しました。

ワットは 1778 年にフランスで自分の機械を販売する権利を持っていたが、同じく機械を販売したペリエには無視された [7] 。 このため、1786年にワットは51,600リーブルの補償金を受け取った[8]。 その後、ペリエは自分を弁護するために、1810 年に次のように書いています。 しかし、私はフランスにおけるこの産業分野の創設者です。」[9]

会社を解雇されたペリエ兄弟は、300株の返還を求めて訴訟を起こし、120万リーブルの金銭補償を獲得した。 フランス革命によりこの判決の執行に困難が生じ、彼らは国民議会に請願を提出し、1790年11月24日の公会議で読み上げられ、委員会に差し戻された[9]。

ジャック・コンスタンタン・ペリエもニコラ・ベッティンジェと関係があり、彼と一緒にナント下流のインドレ銃鋳造工場に投資しました。

ペリエは、1807 年に帝国政府の公募に応じ、セーヌ川沿いのブージヴァルで、標高 1 キロメートルまで汲み上げられたベルサイユ宮殿に水を運ぶために使用されていたポンプを交換しました。蒸気ポンプに関する彼の提案は、多くの賞を受賞して受け入れられました。 クロード・ニエプスの提案により、その後 1809 年に建設されました [10]。

リトリーワインディングエンジン

リトリー巻取機
1802 年、ペリエ兄弟は蒸気巻上げエンジンを製造し、リトリー炭鉱のいくつかの坑での巻上げと排水用の 20 台の機械をアンザン会社に供給しました。 そのうちの 1 つはモレー リトリー鉱山博物館に保管されており、フランスで保存されている最古の蒸気機関です。

遺産
フレール ペリエ通りは、シャイヨー (現在は 16 区) にあるペリエのオリジナルのポンプの跡地にあります。 [11]

 

彼らを、「クロード・ペリエとは血縁がない」と書いているものもありましたが、クロード(および子供たち)もジャック&オーギュスト兄弟も、共にアンザン炭鉱所の大株主になります。

Compagnie des mines d'Anzin - Wikipedia

抜粋フランス語Google翻訳:

フランス革命により、会社の地位が疑問視されました。 同社は、1791年にミラボー伯爵オノレ・ガブリエル・リケティを自社の利益を守るために雇用し、その後ジャン・ジャック・レジス・ド・カンバセレスを法律顧問として雇用した[9]。 1792 年から 1794 年にかけて、フランス革命軍と君主主義連合軍との間の戦闘で鉱山はひどい被害を受けた [10]。 移民貴族の資産は1795年6月にスタニスラウス・デザンドルアンに売却された。1か月後、彼は大株をフランス東インド会社の資本家グループに転売した[9]。 ピットは修復され、1796 年初めに新しい立坑が沈められ、生産量が再び拡大しました。1799 年には生産量が 248,000 トンに増加し、1800 年までに会社はほぼ完全に回復しました [11]。

クロード・ペリエ(1742年 - 1802年)は、この財政再建中にアンザン鉱業会社の27.5デニールを取得した[12]。 デサンドルアンに加えて、新しい所有者には、ピエール・デプレ、ジャン=バルテルミー・ル・クトゥルクス・ド・カンテルウ、オーギュスタン=ジャック・ペリエ、ギヨーム・サバティエ、取締役ピエール・ベルニエとプーラの未亡人、ティエフリーズ(パートナー)を含む東インド会社の主要メンバーが含まれていた。 ペリエの株式)と、同社の法律顧問であるベリエ氏とカンバセレ氏の 2 名が保有する小規模株式です。 サバティエの資金援助により、ペリエ家は徐々にアンザン鉱山を支配下に置いた[9]。 クロード・ペリエが 1801 年に亡くなると、彼の株式は 8 人の息子と 2 人の娘に分割されました。 1805年にシピオン・ペリエが鉱山会社の取締役となり、カシミール・ピエール・ペリエが取締役補佐となった[12]。 ペリエ家は同社の大量の株式を保有しており、彼らの銀行は投資、株式保有の変更、株主への融資などの会社の財務を管理していました。 シャイヨーにあるジャック=コンスタンタン・ペリエの機械工場は、1818 年から鉱山用の蒸気エンジンと設備を供給していました。

結果、クロードの子供たちが、フランス首相や大臣になることができたのも、この炭鉱、そしてジャック&オーギュストの力添えがあってのことではなかったのでしょうか。

Casimir Pierre Périer - Wikipedia

Joseph Périer - Wikipedia

 

ところで、ジャック&オーギュストのペリエ兄弟は、ワットの著作権を無視していたということでしょうか。

いずれにしても、ルナー・ソサエティの面々から得た知識はたくさんありましたかね。

ユニテリアンと科学と政治-2(エラスマス・ダーウィンとマシュー・ボールトンとLunar Society) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

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ペリエ家-1(クロード・二コラ・ペリエ)

2023年05月29日 | ペリエ家とオルレアニスム

ペリエ家-序(パリの上下水とカロン・ド・ボーマルシェ) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

より:

 

ペリエ兄弟-ネットで調べても、「1778年パリに水道会社をペリエ兄弟が作った」とまでは検索できるのですが、兄弟のファーストネームさえが見つかりません。(追記:一人見つかりました。次に書きます。Jacques-Constantin Perier )

しかし、クロード・ペリエの関係者だろうと思うので、彼の英語版wikipediaを紹介します。

Claude Perier - Wikipedia

Google翻訳:

クロード・ニコラ・ペリエ (1742 年 5 月 28 日 – 1801 年 2 月 6 日) は、グルノーブル近郊にあるヴィジール城を、ドーフィネ県の領主の有名な会議 (1788 年 7 月 21 日) に公開し、来るべき到来を告げたとき、フランスの歴史において重要な位置を確保されました。 フランス革命のこと。 彼は、19 世紀にフランスで経済的、政治的影響力と名声を高めた、注目に値するペリエ家の「ブルジョワ王朝」の創設者としても知られています。 クロードの子孫は、パリの有力な銀行家、フランス銀行の摂政、そしてフランス北部県の大手石炭採掘会社アンザンのオーナー取締役になった。

(中略)

フランス南東部ドーフィニー県の州都グルノーブルは、ペリエ家が頭角を現し始めた場所です。 クロードの父、ジャック ペリエ (1702–1782) は、グルノーブルから 50 km ほど南にある小さな町メンズの近くにあるペリエ村から 1720 年頃に移住しました。 彼はリネンとキャンバス生地の商人を志しており、当時のグルノーブルは、アルル、アヴィニョン、リヨン、マルセイユの重要な市場やボーケールで毎年開催される大市とのつながりを持つ主要な商業の中心地になりつつありました。 彼はグルノーブルで繁栄し、1741 年に商人の娘でかつて市の領事も務めたマリー・デュピュイと結婚しました。 クロード・ペリエは 1742 年に生まれ、彼らの 7 人の子供のうちの最初の子でした。 1749 年、ジャックは家族のためにグランド リュにある印象的な高層住宅を購入しました。

ビジネスキャリア
ジャックのビジネスは、長年にわたり家族経営として発展してきました。 たとえば、彼の娘エリザベートは、リヨンの裕福な商人ピエール・ジョルダンと結婚しました。 グルノーブル近郊のヴォワロンとの通商は、甥にあたるフランソワ・ペリエ・ラグランジュによって加えられた。 1764年、姪のマドレーヌ・ペリエはヴォワロンの有力商人フランソワ・ティヴォリエと結婚した[3]。 クロード・ペリエは、成人に達したとき、有力なヴォワロン商人の娘マリー・シャルロット・パスカル(1749~1821)と結婚して、こうしたつながりを強固なものにしました。 1767年の彼女の持参金は6万リーブルに達した。 その日までに、クロードはすでに家族経営の積極的な一員となっていました。 1764 年、会社は「ジャック ペリエ、父、息子、甥商会」と名付けられました。 クロード・ペリエとペリエ・ラグランジュはマイナーパートナーでした。 1773年にこの協会が更新されたとき、ジャックとその息子クロードの持ち分はそれぞれ344,266リーヴルと72,493リーヴルであった[4]。

リネンの貿易が主力であったが、ペリエ家は地域企業の信用銀行家としても活動し、土地投資を行い、グルノーブルで自己勘定で製造業に乗り出した(モスリン、1777年、ハードウェア、1779年)。 最も重要なことは、クロードと彼の父親が、プリントされた綿布 (トワル ペイント) や壁紙 (パピエ ペイント) に対するフランスでの需要の高まりに応えたことです。 プリント綿は主にインドから輸入され、インディエンヌとして知られていました[6]が、1760年に有名な実業家クリストフ・フィリップ・オベルカンフ(1738年 - 1815年)によってフランスで製造され始めました。 パリ近郊のジュイにある彼の綿プリント工場は、1774 年までに 900 人の労働者を雇用していましたが、1783 年にルイ 16 世によって「王室製造業者」に指名されました。 オベルカンフは 1785 年に壁紙を印刷するための最初の機械を発明しました。[7] ジャック・ペリエとクロード・ペリエは、1775 年から 1777 年にかけて、グルノーブルのすぐ南にある小さな村、ヴィジールでこれらの印刷物の生産を開始しました。

(中略)

フランス革命への関与

クロード・ペリエは、ルイ16世の君主制による中央集権化と財政濫用に対するドーフィニー議会によるグルノーブルでの抵抗運動(ヴィジール議会)を支援し、フランス革命の勃発に重要な役割を果たした。 彼の長男であるオーガスティンは後にこう書いている、「イギリスへの旅行で彼は自由政府の利点について適切な考えを得ることができた。当時のあらゆる意見やあらゆる希望をすぐに理解して、彼は急いで必要な準備をすべて整えた」 これほどの大規模な集会と、危険を伴う彼の熱心さは、国民の感謝の印に値するものだった。」[14] ほぼ 500 人がヴィジール城に集まり(1788 年 7 月 21 日)、そこでクロードは大宴会を用意した。 州の議員たち。 民衆の支持もありましたが、主に教会員、地主貴族、弁護士、公証人、市職員、実業家、医師といった裕福な「名士」の集まりでした。 彼らの有名な要求は、第三身分が二重代表を持ち、投票が命令ではなく頭で行われるというパリでの身分総会議の招集であった[15]。 このようにして、誰もが予想していたよりも包括的で複雑かつ破壊的な革命運動がフランスに引き起こされました。

クロード・ペリエは、1789 年から 1799 年のフランス革命の 10 年間にエスカレートする政治姿勢に日和見的に対処しました。 彼はグルノーブルの新しい市議会(イゼール県)の貴重な議員となったが、政治的リーダーシップや名声を熱望しなかった。 彼は心は変わらず、基本的には商業銀行家であり、熱心な「資金管理者」(マニユール・ダルジャン)として行動した[16]。

彼は投資や事業に関する機会を逃しませんでした。 愛国的であると考えられていた初期(1789年から1790年)、彼は国有化された教会の財産を購入し、パリの国民議会が発行する紙幣であるアサイナトで支払い、貴族を移住させた。 1790 年に、彼はモンタルジ近郊のアニリーにある機械化された綿紡績工場を買収しました。 1791年、マルセイユの製糖会社「セレン・アンド・カンパニー」に多額の投資を行った[17]。

(後略)

Claude Périer, II (1742 - 1801) - Genealogy (geni.com)

 

偶然にも、ペリエ家は、数日前に調べたばかりのオベルカンフの協力者だったようです。

「ブランド」と「芸術品」と「職人技」-10(ゲブヴィレールとシュルンベルジェ家と「トワル・ド・ジュイ」) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

仮置き:

Day of the Tiles - Wikipedia

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ペリエ家-序(パリの上下水とカロン・ド・ボーマルシェ)

2023年05月29日 | ペリエ家とオルレアニスム

以前

スーツさんのシベリア鉄道シリーズ - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

で紹介したyoutuberのスーツさんの今年のパリ旅行の動画。

男ひとりフランス・パリ旅行 - YouTube

この動画には、パリの下水道の話が出てきます。

 

たまたま、(コティ~ファッションデザイン関係でたびたび出てくる)フィガロ紙の歴史を調べ始めたところで、「フィガロ」という名が、カロン・ド・ボーマルシェか書き、モーツアルトの歌曲を作った、「フィガロの結婚」から来ているらしいことを知りました。

フィガロ (新聞) - Wikipedia

 

このボーマルシェの日本語Wikipediaには、以下のような記述がありました。
下水でなく、上水の会社らしいですが、どうも、彼も関わっていたらしいです。

ペリエ兄弟とは・・。

カロン・ド・ボーマルシェ - Wikipedia

抜粋:

18世紀のパリが、とにかく不潔で非衛生的な都市であったことはよく知られているが、それは人間が生きる上で欠かせない水においても例外ではなかった。井戸水は排泄物やその他無数の汚物の混入によって汚染され、それを用いてパンやビールを作るものだから、健康にも悪影響を与えていた。当時の人々がどのように清潔な水を手に入れていたかといえば、街を練り歩く「水売り」からのみであった。このような状況を解決しようと、1777年に発明家のペリエ兄弟はパリ水道会社を設立した。シャイヨの丘に揚水ポンプを設置してセーヌ川の水を汲み上げ、パイプを通してその水をパリ市民に提供するのが目的であり、この当時としてはまさに画期的な試みであった。1780年代になって、ペリエ兄弟の要請を受けて、ボーマルシェも経営に参加するようになった。

 

ボーマルシェは、ルイ15世によってつくられたスパイ組織のエージェントだったようです。

スクレ・ドゥ・ロワ - Wikipedia

スクレ・ドゥ・ロワ(フランス語:Secret du Roi)とは、ブルボン朝フランス国王ルイ15世の治世下に活動した秘密機関。「スクレ・ドゥ・ロワ」とはフランス語で「王の秘密機関」の意[1]。 

概要
ルイ15世によって創設され、秘密外交や情報収集を行う機関であった。シャルル・フランソワ・ド・ブロイ侯(en:Charles-François de Broglie, marquis de Ruffec)、続いてジャン・ピエール・テルシエ(Jean-Pierre Tercier)によって率いられ、配下のエージェントには後に哲学者として活躍するヴォルテール、『フィガロの結婚』などを執筆したカロン・ド・ボーマルシェ女装の剣士として知られたシュヴァリエ・デオン、アメリカ独立戦争の際に外務大臣を務めたベルジェンヌ(en:Charles Gravier, comte de Vergennes)のほかブトレイユ[1]、シャルル・テヴノー・モランド(en:Charles Théveneau de Morande)、ルイ・ド・ノアイユ(en:Louis de Noailles)[2] などがおり、献身的な活躍をみせた[1]。スクレ・ドゥ・ロワは欧州に広くネットワークを張り巡らせて情報収集にあたった。

(中略)

1774年にルイ15世が死去すると、ルイ16世はスクレ・ドゥ・ロワを解体した[8]が、情報員はルイ16世にも受け継がれ、彼らはのちにアメリカ独立戦争を巡る工作で活躍することになる[1]。

 

オマケ:

今は調べませんが、「ヴェルサイユのばら」のオスカル役のモデルは、

ピエール・ユラン - Wikipedia

と言われているようですが、池田理代子氏は、トランスジェンダーであったこちらも意識していたということはないのでしょうか。

シュヴァリエ・デオン - Wikipedia

Charles d'Éon de Beaumont — Wikipédia (wikipedia.org)

フランス語Google翻訳:

シャルル・デオン・ド・ボーモンは、フランスの外交官、スパイ、士官、文人として知られるシュヴァリエ・デオンとして知られ、1728 年 10 月 5 日にオテル・デュゼ・ド・トネールで生まれ、1810 年 5 月 21 日に亡くなりました。ロンドン。

彼は顕著な異性装趣味で有名であり、それが同時代人たちに彼の本当の性別を推測させ、古代の作家たちにとっては歴史の謎となった。 実際、医師大学は、生前に行われた、服を脱がなかった別の検査では反対の結論が出たにもかかわらず、彼が通常の男性としての性質を備えていたことを解剖で発見した。

彼は公式外交、特にルイ15世の平行外交において重要な役割を果たした。 彼は七年戦争の開始時にロシアをフランス陣営に密告するのに貢献した。 その後、イギリスの大使館で、とりわけ海からイギリスに侵攻する計画を立てた。

彼は 18 世紀で最も輝かしく矛盾した人物の 1 人です。49 年間は男性として、32 年間は女性として暮らしました。

シャルル=ジュヌヴィエーヴ・デオン注 4 は 1728 年 10 月 5 日 25,22 にオテル・デュゼ・ド・トネールで生まれ 27、その 2 日後の 725 年にノートルダム・ド・トネール教会で洗礼を受けた。 彼は自伝『Les Loisirs du Chevalier d'Éon de Beaumont』の中で、自分は「帽子を被って」28、つまり胎膜で覆われ、頭と性別が隠されて生まれ、母親を出産した医師はそれを行うことができなかったと語っている。彼らの性別を決定します。 (エオンのこの最後の発言は、実際には彼の性別の真実をさらに曖昧にするための単なる策略であるようです。)彼はパリ議会の弁護士ルイ・デオン(またはデオン)・ド・ボーモンの息子です29,30,22。 、国王の顧問、ブルゴーニュの小さな町トネールの選出市長、パリ管理局の副代表、国王の邸宅の巡回検査官または管理者31、そして国王のワイン農園のディレクターでもあった[ref. 必要] ; 彼はワイン貿易で裕福になった [ref. 必要]。 彼の母親、フランソワーズ・ド・シャヴァンソン32は、スペインとイタリアの陸軍総司令官の娘でした。

彼はトネール大学で勉強を始め、その後 1743 年に叔父のミシェル・デオン・ド・ジェルミニー 33,34 とともにパリに移り、名門マザラン大学で勉強を続けました35。 非常に優秀な学生だった彼は、1749 年に民法と教会法の学位を取得しました。 その時彼は21歳でした。 家族の伝統により、彼は 1748 年 8 月 22 日に 35 歳の免除付きでパリ議会の弁護士になりました。 彼は注文を受けるかどうか少し考えた。 彼は乗馬だけでなくフェンシングでも才能を発揮し、その腕前はすぐにフランス最初の剣士の一人として認められるほどである[35]。 同時に彼は多くの著作を執筆し、1753 年に『歴史と政治の考察』を出版し始めました。 彼の作品が注目されている。

さらに、この若い騎士は社交界で優秀で、人脈を築くのに苦労せず、その中にはルイ 15 世のいとこで血統の王子であるコンティ公が検閲官に任​​命されたことがすぐにわかります。 -Lettres36。 王室検閲の責任者として、これら 2 つの分野に関する著作物は出版前に検閲を受けなければなりません。 デオンは特に王子の詩やマドリガルを修正したり、場合によっては作成したりすることで王子の好意を得る方法を知っていた[35]。

キャリア
シャルル=ジュヌヴィエーヴ・デオンが「シークレット・デュ・ロワ」に採用される。 ルイ 15 世によって創設されたこの闇の内閣は、フランスで初めて真に組織化され、長期にわたって存続した秘密機関組織であると考えられています。 それは公式外交と並行して、時には後者とは大きく異なる外交政策を追求します。 「外交問題」を含め、他の王立評議会はその存在を知りません。 外国も同様です。 したがって、シュヴァリエ・デオンは最初のフランスのスパイの一人であると考えられています。 これらのエージェントは、たとえ違法であっても、自分が選択したあらゆる手段で目的を達成することができます。 内閣はコンティ大公、次にブロイ伯爵が率いました。 その中には、特にマーシャル・ド・ノアイユ、ヴェルジェンヌ、ブルトゥイユ、ボーマルシェが含まれます。

サンクトペテルブルク
いくつかの情報源によると、デオンは女装した仮装舞踏会で出会った国王自身によって秘密諜報機関にスカウトされたという。 君主はこの美しい人に誘惑されます。 それが男であることに気づいた後、彼はこのように変装すれば、彼女の疑惑を招くことなくエリザベート1世に近づくことができると考えました。 1756 年 6 月、七年戦争が始まります。 彼女の使命は、フランスと同盟を結ぶよう国王を説得することだ。 彼はリア・ド・ボーモンの名前で彼女に近づき、彼女の読者となり、公式大使よりも効果的にロシアの法廷でフランスの大義を訴えることに成功する。

実際、彼はコンティ王子にスカウトされ、大使館書記官としてロシア宮廷に送られた可能性が高い。 サンクトペテルブルクでは、皇后は役割が逆転した仮装舞踏会を開きます。男性は女性の服を着なければならず、その逆も同様です。 デオンは間違いなく女装することに喜びを感じており、彼の中性的な外見(細い体格、ひげの欠如38,39)により、誰もが困惑することができました40。 デオンはすぐに皇后に近い多くの人々の友人になった。 このようにして、公式代表団として到着したフランス外交官たちは何か月もの間不信感と拒絶の対象となっていた一方で、彼は徐々に英国人顧問らをフランスの大義に結集させた。

彼は1758年から1760年まで大使館書記官として再びサンクトペテルブルクに滞在した。別の同盟条約が調印され、騎士は皇后が急使を派遣する2日前に直ちにベルサイユの国王にそれを報告した。 王は彼に褒美として竜騎兵隊長の証明書を与えます。 シャルル=ジュヌヴィエーヴは七年戦争の最後の作戦に参加した。 彼はそこで怪我をしている。 彼は 1762 年に軍隊を去り、再び秘密諜報員になりました。

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