Various Topics 2

海外、日本、10代から90代までの友人・知人との会話から見えてきたもの
※旧Various Topics(OCN)

タデウシュ・ロメルとユゼフ・レティンガー-6(シコルスキポーランド亡命政府首相のジブラルタル飛行機事故)

2023年09月13日 | タデウシュ・ロメル、ポーランド

シルコスキポーランド亡命政府首相が乗った飛行機事故のポーランド版WikipediaGoogle翻訳を貼り付けます。

 

Katastrofa lotnicza w Gibraltarze – Wikipedia, wolna encyklopedia

Google翻訳:

1943 年の春、ポーランド軍の最高司令官ヴワディスワフ シコルスキ将軍は、中東のポーランド軍を視察するために数週間旅行しました。 この目的のため、5月24日から25日にかけて、チェコ人パイロット、エドゥアルド・プラハルが操縦するイギリス空軍第511輸送飛行隊所属、工場番号AL616のリベレーターMk II軍用輸送機でイギリスからカイロへ飛んだ[1]。 この飛行機はシコルスキーに割り当てられたものではなく、特に要人の輸送を目的とした第511飛行隊ではなかったが、イギリスと同盟国のニーズに応えて定期的な通信飛行を行った[1]。 シコースキはパイロットがチェコ人であることを知ったとき、ポーランドとチェコスロバキアの亡命当局間の良好な関係を考慮し、ポーランドのイメージを改善するための友好的なジェスチャーとしてこの事実を政治的に利用することに決めた[1]。 彼は中東連合国空軍総司令官アーサー・テダー元帥に、復路でも飛行機を操縦してくれるよう要請した[1]。 これには乗務員の変更が必要であった。なぜなら、プラハルは「彼の」AL616型機で6月29日にカイロに飛び、7月2日に出発し、その後、シコルスキーとの帰路に予定されていたセント号のAL523型機に最初のパイロットとして交代したからである。アンソニー[2]。 1943年7月3日、彼はシコルスキーと他の10人の乗客、そして大量の郵便物と荷物を乗せて初めてこの飛行機でジブラルタルへ飛び立ち、10時間半の飛行の後、午後2時37分に到着した[ 3]。

(中略)

英国へ出発する前日、シコルスキは知事のお別れパーティーに出席した。 午後、郵便物と荷物が飛行機に積み込まれた[4]。 民間乗客は2名(ロックとピンダー)のみが手荷物検査を通過したが、ポーランド代表団は免除された[4]。 午後10時25分頃、シコルスキと乗客は車で運ばれ、荷物が積み込まれ、午後10時45分までに乗客は飛行機に乗り込み、飛行機は駐車スペースから滑走路の西端まで地上走行を開始した[4]。 離陸の準備中、シコルスキはおそらく飛行服に着替えて荷物の上に横になるため、服を下着まで脱いだ[4]。 事故 23時5分、管制塔からの許可を得て、リベレーターは東に向けて離陸を開始した[4]。 ジブラルタル空港を離陸して16秒後、同機は滑走路端から東約600メートルの海面に着陸した。

(中略)

ウビエンスキはまた、この災害によるシコルスキ将軍の死についてポーランドのロンドンに最初に通知し、適切な報告書を作成した人物でもあった[6]。 1943年の事故を調査した英国委員会の報告書に示された出来事の公式バージョンでは、事故の原因はエレベーターの詰まりであると特定されたが、故障がどのように起こったかについては説明できなかった。

(中略)

 引き上げ後に死亡したシコルスキー、クリメツキ、ホワイトリーの浮遊遺体と、意識を失ったパイロットのプラハルが発見され、海から引き上げられた[8]。 翌日も行動は続いた。 その後数日をかけて、ダイバーの協力を得て飛行機の主要な部品が回収されました。 グラレウスキーとマレッキの遺体は7月8日と9日に海岸に打ち上げられ、最後に発見されたが、乗組員2名と乗客3名は発見されなかった[8]。 シコースキ氏の遺体は海から回収され、ポーランドの駆逐艦ORP「オルカン」で英国に輸送されたが、解剖も行われずにニューアークの墓地に埋葬された。 数年後、シコルスキの遺体が発見された直後に港の岸壁で写真を撮った人物も、写真自体も見つからなかった。

(中略)

2008年9月3日、カトヴィツェのポーランド国家に対する犯罪訴追支部の検察官の決定により、航空輸送の危険を引き起こすことからなる共産主義犯罪[h][i]の捜査が開始された。 1943年7月4日、ジブラルタルで首相とポーランド軍総司令官であるヴワディスワフ・シコルスキ将軍の命を奪う目的でこの惨事が行われ、その結果「リベレーター」Mk II航空機2号機が墜落した。英国空軍第511飛行隊所属のAL 523、その結果、ヴワディスワフ・シコルスキ将軍と同行のポーランド国民が死亡した[47][48]。

これに先立ち、ポーランド共和国レフ・カチンスキ大統領[49]とポーランド共和国ドナルド・トゥスク首相は、ヴワディスワフ・シコルスキ将軍の遺体を発掘するという一部の歴史家の要求を支持した。 他の研究者は、遺体を再調査するという考えを不必要な冒涜であり[50]、1993年以来将軍の遺体が埋葬されている大理石の墓を脅かすものであると批判した[51]。 ヴワディスワフ・シコルスキの遺体の発掘と解剖を繰り返す決定は、カトヴィツェのポーランド国民に対する犯罪訴追支部の検察官が行った捜査に関連した手続き活動の過程でなされた。

(中略)

ヴワディスワフ・シコルスキの死は交通事故や高所からの転落の犠牲者に典型的な多臓器損傷の結果であり、したがって飛行機が着水した時点で最も早い時期に死亡したことが判明した[25]。 死亡の共因として溺死も排除されなかった。 発見された骨折は被害者が生きている間に発生したものでした。 解剖結果により、窒息、銃撃による傷、刺し傷、切り傷、切り傷による死亡の可能性を断固として否定することができました[25]。 毒物学的検査も行われました。 タデウシュ・クリメツキとアンジェイ・マレッキも同様の怪我を負った[25]。 これらの発見に関連して、研究チームの責任者であるトマシュ・コノプカ博士は、彼のチームでは早期死亡の他の方法を検討することは無意味であると考えており、したがって英国のアーカイブが公開されるまではすべての陰謀論は違法とみなされるべきであると述べた。が開示された[53][54]。

(後略)

 

この飛行機にレティンガーが乗っていなかったことも、レティンガーの二重(三重、四重?)スパイ説を引き起こしています。
レティンガーは1941年にはシコルスキーのジブラルタル行に同行していました。

Sikorski in Gibraltar - Katastrofa lotnicza w Gibraltarze – Wikipedia, wolna encyklopedia

 

この飛行機事故で亡くなった一人は、上記の写真にも写っているヴィクター・カザレット。女優エリザベス・テイラーの名付け親です。

ジョセフ・レティンガー~チャーチル~シコルスキー将軍~ポール・アンリ・スパーク - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

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タデウシュ・ロメルとユゼフ・レティンガー-5(ポーランド広報センターの『戦時中のポーランド外交2』)

2023年09月13日 | タデウシュ・ロメル、ポーランド

タデウシュ・ロメルとユゼフ・レティンガー-番外編(戦争と語学) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

で少し脱線しましたが、

タデウシュ・ロメルとユゼフ・レティンガー-3(映画『バトル・オブ・ポーランド』には出てこない諜報部員たち) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

タデウシュ・ロメルとユゼフ・レティンガー-4(レティンガーはポーランド愛国者か?) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

の続きになります。

 

ポーランド広報センターの『戦時中のポーランド外交2(13-24)』
Instytut Polski w Tokio

にユゼフ・レティンガー(ユゼフ・レティンゲル)とタデウシュ・ロメルのことが載ってました。

抜粋1:

14.芸術家、作家、学者が外交任務に就く

第二次世界大戦中に外交任務を果たした人々の中には、1939年以前は外務省の職員ではなかった数多くの人々がいます。錯綜した新状況下において、それらの人々の知識・経験・人脈は、ポーランドの外交政策の観点から、大きな価値をもつものでした。外交職を任せられたのは、例えば、イェジ・ギェドロイツとユゼフ・レティンゲルです。戦前は保守陣営の協力ジャーナリストだったギェドロイツは、1939年にブカレストでロジェ・ラチンスキ大使の秘書になり、ポーランドからの避難民とポーランドを脱出した公務員の救済活動に加わりました。1940年11月にポーランド共和国大使館が閉鎖された後もブカレストに留まり、駐チリ領事館のポーランド事務所を統括しました――同事務所が、ルーマニア在留ポーランド人の権益を代表するようになったからです。1946年に文学研究所を開設し、月刊誌「文化」の刊行を始めました。同研究所は、亡命先におけるポーランド思想の中心的機関になりました。シコルスキ首相の政治顧問であったレティンゲルは、1941年にソ連との外交関係が復活すると、代理大使として、復活した駐モスクワ ポーランド大使館の最初の長になりました。戦後は欧州統合と大西洋を隔てた欧米の協力を訴える、最も影響力のある人物の一人でした。

 

抜粋2:

21.シコルスキ将軍死後の外交

ジブラルタルにおける飛行機事故でヴワディスワフ・シコルスキ首相が落命した後、新たに組閣されたポーランド共和国内閣首班に就任したのは、スタニスワフ・ミコワイチクです。1943年7月14日、その内閣において、タデウシュ・ロメルが、外務大臣の地位に就きました――元駐ポルトガル及び日本公使、元駐モスクワ ポーランド共和国大使(1942年からポーランド・ソ連国交断絶まで)です。彼が外務大臣の地位にあったのは、ポーランドの国際的地位が弱体化していく時期でした。

1943年末のテヘラン会議では、ポーランド代表不在のまま、ポーランド国境の原則的な線引きがなされました。ソ連政府は当時、既成事実を積み上げるという方法を実行していました――赤軍占領下の東部ポーランド地域に自らの行政組織を構築し、ポーランド国民解放委員会という自らに服従する権力機構を作り上げたのです。ポーランド政府の弱体化した地位を表徴していたのは、1944年8月におけるミコワイチクのモスクワ訪問で、首相は戦闘を続けるワルシャワへの援助すら取り付けることができなかったことです。西側同盟諸国は、ポーランド側がソビエト・ロシアに妥協して、ポーランド国家の国境と統合を認知させる要求を諦めるように求めました。

1944年11月、対外政策、ポーランド・ソ連関係、ポーランド国家の将来像をめぐる内部対立に引き裂かれたミコワイチク内閣は、総辞職しました。トマシュ・アルチシェフスキが中心になって組閣された新内閣で、駐ロンドン ポーランド共和国政府の同盟諸国によって認証された、最後の外務大臣に就任したのは、駐ブルガリア ポーランド共和国公使だったアダム・タルノフスキです。政府がポーランド問題で下される諸決定に及ぼす影響力から引き離されてしまったことは、西側諸国の指導者たちがポーランドをソ連圏に譲り渡すことに合意した、1945年2月のヤルタ会議において最も顕著になりました。アルチシェフスキ政権は、決定に激しく異議申し立てを行いましたが、この抗議文は発表すら許されなかったのです。

 

残念ながら、『戦時中のポーランド外交1(1-12)』は削除されていて読めませんが、このウェブサイトが見つかってよかったです。

ホームページはこちらから。

Instytut Polski w Tokio

 

 

ところで、タデウシュ・ロメルが外務大臣になったのは、シコルスキポーランド亡命政府首相/将軍が亡くなってからですが、1943年のシコルスキの事故死前にも、彼と一緒に4人で映る写真があります。(この写真はモスクワで撮ったものしょうか?)

Romer, Sikorski, Anders, Klimecki - Tadeusz Romer – Wikipedia, wolna encyklopedia

一緒に映っていた2人。
Tadeusz Klimecki – Wikipedia, wolna encyklopedia

Władysław Anders – Wikipedia, wolna encyklopedia

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タデウシュ・ロメルとユゼフ・レティンガー-番外編(戦争と語学)

2023年09月08日 | タデウシュ・ロメル、ポーランド

「シャネルって、イギリス人やロシア人、ドイツ人と付き合っていたけど、彼女は母国語のフランス語以外、話すことはできたのかしら?付き合った相手がすべてフランス語ができたから、すべてフランス語だけを使ったということ?
シャネルがドイツのスパイだとかいう話もあるけど、そうなると余計フランス語だけしかできないのにそういう話が出るのは不自然。」

先日、友人にぶつけた疑問です。

欧州の歴史を調べていると、「まるで欧州には共通言語があるような錯覚」が起こります。

上流階級では「フランス語」がフランス以外でも使われていたり、教育や留学により多国語を話すことが可能な人は少なくなかったでしょうが、貧困の出のシャネルなど、どうだったのでしょうか。

ユゼフ・レティンガーがロンドンの亡命ポーランド政府のシコルスキーの顧問になっていたのは、シコルスキーが英語ができなかったため、通訳を兼ねていたといますが、語学に支障あった欧州人の話はあまり聞かないです。

ロンドンと言えば、第二次大戦時の語学教育について、立命館大学の講師を務めていた田山博子氏が書いていらっしゃいます。
この言語は、「日本、中国、トルコ語、ペルシャ語」と、欧州以外の言語ではありますが、本当だったら、欧州内同士の言語も問題はあったのではないでしょうか。

長いオマケとして。

第二次世界大戦中のイギリスにおける日本語教育1)
─敵性語として学ばれた日本語─
田山 博子

08/fic”R/’ÓŠ¹ (ritsumei.ac.jp)

抜粋:

Ⅲ ロンドン日本語学校(ロンドン大学SOAS)での集中コース
1 日本語教育の目的

激しさを増していく前線からの要求に答えるために、戦時下の日本語教育はその目的を限定されていく。それは、できるだけ早く、効率よく学習を終え、戦場でいかに母国のためにその学習を役立てるかということであった。言語教育が「敵国の言葉を学び母国の為に役立てる」という目的に収斂する近代の語学学習の構図であるといえよう23)。

SOASでこのコースがはじまったときのラルフ・ターナー学部長の話は以下のようであった。

「・・・ここでの学習は、18ヶ月間日本語を習った後、東南アジアの戦場で敵の通信を傍受し押収した書類を翻訳し、捕虜を訊問したりして、情報を取り、全軍の作戦に貢献するために行われる。イギリスの旧領土を奪い返し、そこの人民を解放しなければならない。当面の敵は頑強な日本兵でも、ジャングルでもマラリアでもなく、日本語である。これを早くマスターし、本当に弾丸の飛び交う戦線で活躍できるようにしてほしい・・・」と言う挨拶でロンドン大学での特別日本語コースは始められるのである。1942年に始まったこのコースは1947年までに非常に短い期間の訓練生も入れて総計648名の日本語学習者を作り出した。

2 コースの概略

授業は月曜から金曜まで、朝9時から12時、午後は2時から5時までで、このうち4時間は教師の指導の下で、あとの2時間は自習であった。放課後も予習、復習、宿題があり、また、毎週二回日本や極東に関連した題での講演が一時間ずつ行われ、日本語の背景となっている文化やインド、東南アジアの情勢についての知識が得られるようになっていた。

SOASで行われた戦時中の日本語コースは大きく分けて主となるA,B,C,D,Eの5コースと、時に応じて行われた短期間のコースがある。
次にあげるAコースが時期的に一番早く、それより3ヶ月遅れてB,C,Dの3コースが始まっている。そして、それまでの経験と反省を生かしてEコースがスタートするのが、1944年の6月である。

Aコース(State Scholarship(general purpose course)1942.5~1943.12
政府給費生のためのコース、もともとは民間人のためのコースであったため、学生は学校休暇がもらえた。選ばれた30名のうち28名が卒業。幾人かはこのコースの教官となる。このコースでは読み、書き、話すという一般的なトレーニングの他に、適性に応じて翻訳、訊問の2グループに分け、後に軍隊用語も学ぶようになる。

このコースの卒業生の中には、社会学者ロナルド・ドーア(Ronald Dore),日英の産業界に貢献した元国鉄総裁のサー・ピーター・パーカー(Sir Peter Parker),ケンブリッジ大学の教授で荻生徂徠の研究家であるマックエバン(John McEvan)、日本語と能の研究家であるパトリック・オニール(Patrick O’Neill)等がいる。

Bコース(Service Interrogators’ course)1942.7~1945.7
訊問官養成コース、学生は語学の単位をもっている者が軍の中から選び出された。
戦場の日本軍の俘虜および捕虜を取り調べ情報を集める訊問官を養成するため専ら会話の練習を行う。軍からの要求で、短期間に訊問が行える会話力をつけるために、日本文の読み書きはせずに、ローマ字を使い、聞く力をつけることが重点的に行われた。全期間を通じて、海軍からは13名、陸軍からは42名、空軍からは19名の計74名が選抜され、休暇もない特訓の13、16、20ヶ月を送ることになった。しかし全体の18%に近い13名は卒業できなかった。61名の卒業者はインパール、ビルマ戦線へと送られた。

このコースの卒業生の中には、「風は知らない」「スージー・ウオンの世界」などの小説で知られるリチャード・メイスン(Richard Mason)、浄瑠璃の研究家チャールズ・ダン(Charles Dunn)駐日大使となった外交官のサー・ヒュー・コータッツイ(Sir Hugh Cortazzi)等がいる。

(中略)

日本語の主任講師は、駐日英国大使官付き武官として、1928年に来日し、小樽高商、静岡高校で英語を教えたフランク・ダニエルズ、その夫人のおとめやロンドン在住の日本人などを含めて、全期間を通じて計39人のイギリス人、カナダ人2世が教育にあたった。ダニエルズが中心となって主にイギリス人が文法を教え、日本人やカナダ人二世は会話や音声教育、漢字は草書体の練習などにも力が入れられ、おとめ夫人が筆順の指導をしている。イギリス人の教官の中には、軍人であった人が多いが、この中で、ピゴット少将のことに触れたいと思う。

彼の父.F.T.ピゴットは1888年に明治憲法制定のための日本政府法律顧問として来日している。ピゴット一家はそれから3年間滞日するのだが、このピゴット父子の日本との「絆」は日英親善の大きな礎となる。父ピゴットは、ロンドンの日本協会の創立者であったし、息子F.S.Gピゴットは一度断たれた日英の絆を復活させようと、戦後、日本協会を実現させている。

1941年12月に起こった日本の真珠湾攻撃は彼に激しい驚きと悲しみを与えるが、自分が敵国の言語を読み、書き、話すことのできる数少ない英国人であることを自覚し、SOASでの日本語の指導を申し出たのだった。戦争が終わると、彼の旧知の友、『バターン死の行進』の責任をとって裁判にかけられていた本間中将を救うため、又、重光葵への投獄の宣告を軽減しようとできる限りの働きかけをしている。

ピゴット少将のような心情の持ち主が教員の一人であったことによって、日本語コースで学ぶ人々は大きな影響を受けたに相違ない。
コースで学んだ学生は、軍関係者、それも軍入隊以前に学校でフランス語やドイツ語などの語学を学び優秀な成績を修めていたものや、IQの高い、グラマー・スクールの大学入学直前の学生や、既にギリシャ・ラテン語などの外国語でよい成績を修めている優秀な大学生であった。緊急に大量に要請するため、このように日本語要員が選ばれていたのである。

ほとんどの学生は、この急拵えの日本語教育を日本や日本語のことに興味すら持ってすらいないという白紙の状態で始めることとなった。しかし、中にはサー・ヒュー・コータッツイのように、契機となる経験を持ったものもいる。

また、日本語を選んだのが本当に偶然であった場合もある。召集後、語学特別訓練の募集があった時、ロナルド・ドーアは4つの外国語(日本語、中国、トルコ語、ペルシャ語)の中から第一希望をトルコ語(19世紀の歴史を読んでおり、興味があったから)第二希望は中国語を選んだ。ところが、すでに野蛮な国と言うイメージがあった日本語を希望する人はひとりもいなかったので、彼の希望は通らず、日本語のコースへ
まわされてしまったと言う。しかし、電話のインタビューで、彼は「人生であれほど運の良い間違いはなかった」と感慨深げに述懐して言う。語学の才能のあった彼は、コースの助教にも選ばれている。

インタビューや質問票での返答で、日本語コースに入る前は、やはり新聞、ラジオのニュースなどから、日本に対してあまり良いイメージを持っていなかったと答えた人が多い。しかし、実際に、訓練が始まってみると、週ごとのテストがあり、それに失敗すると原隊復帰というプレッシャーがあり、もともと語学には適性のある優秀な学生だったこともあって、それまでに学んだことのある語学とまったく体系の違う言語の習得にのめり込んでいった。


参考:

東洋アフリカ研究学院 - Wikipedia

ロンドン大学SOAS100周年イベントの動画 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

SOAS出身者たちにとって今の日本は - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

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タデウシュ・ロメルとユゼフ・レティンガー-4(レティンガーはポーランド愛国者か?)

2023年09月08日 | タデウシュ・ロメル、ポーランド

ユゼフ・レティンガー及び、彼の師だったザモイスキ―はポーランドの愛国者だったのでしょうか?

 

Józef Retinger - Wikipedia

抜粋Google翻訳:

ユゼフ・ヒエロニム・レティンガー(Józef Hieronim Retinger、1888年4月17日クラクフ – 1960年6月12日、ロンドン、第二次世界大戦時の呼称はサラマンドラ「サラマンダー」、ブルゾザ「白樺の木」)はポーランドの政治家、学者、国際政治活動家であり、 20世紀の有力な権力ブローカーの一人であり、広報担当者であり作家でもある。 すでにパリとロンドンで才能ある学生として、彼は音楽や文学の一流の人々と交流しました。 最も注目すべきは、彼が同胞ジョセフ・コンラッドの友人になったことである[2]。

(中略)

戦争の暗雲が迫る中、コンラッドの小説『ノストロモ』をもとにコンラッドと共同で劇を書くというプロジェクトは、両名が急いでオーストリア・ハンガリーを離れたため断念しなければならなかった。 レティンガーにはガリシアへの召集資格があったはずだが、これについては彼の伝記作家らは何も言及していない。 代わりに、彼は文学的な努力を脇に置き、再びポーランドの政治ロビイストの役割を引き受け、パンフレットを発行し、ロンドンのコンラッドの援助を受けてロンドン、パリ、ニューヨークの間を旅行した。

[4]: 10 戦争の最初の数年間、これは主要国の議題ではありませんでした。 レティンガーは代わりに、他の可能性のある同盟や政治的影響力を模索し、ユダヤ人のディアスポラの国際的な承認と権利を求めていたハイム・ワイツマンウラジミール・ザボチンスキー、ナフム・ソコロフなど、当時の指導的シオニストとの会合につながった。[4]: 11

ザモイスキーによって、そしてパリの古いつながりを持つデヴィッド・ロイド・ジョージとジョルジュ・クレマンソー、シクストゥスとザビエル・ド・ブルボン・パルメ、モンテベロ公爵夫人とボニ・ド・カステラーヌ侯爵、そしてザモイスキーの友人であるポーランドのイエズス会総長ウウォジミエシュ・レドホフスキの承認を得て、ザモイスキーによって執筆されました。

レティンガーはオーストリアとの和平を求めて秘密裏に行われたヨーロッパ王朝交渉の「運び屋」となった[14]。 これはシクストゥス事件として知られるようになったが、ドイツが協力を拒否したためにオーストリアの依存度が高まったため失敗に終わった[15][16]。

1917年に彼は、フランス人とのハーフの好事家でポロ選手、ココ・シャネルの「スポンサー」でもあるアーサー・「ボーイ」・カペルと出会った。 カペルは英仏同盟に基づく世界連邦政府の構想をレティンガーの心に植え付けたと言われている[17]。 オーストリア=ハンガリー帝国と新興ソ連における「政治的介入」による身の安全が懸念されたため、1918年にレティンガーはフランスから追放され、数か月間スペインに保護を求めた。[4]: 12

 

レティンガー(1888年~1960年)にとって重要な友人となったジョセフ・コンラッド(1857年~1924年)。

ジョゼフ・コンラッド - Wikipedia

Joseph Conrad - Wikipedia

抜粋Google翻訳:

1914年、ユゼフ・レティンガーの勧めで妻と息子たちとともにポーランドで休暇を過ごしたが、その時は第一次世界大戦の勃発と重なった。1914年7月28日、オーストリア=ハンガリーとセルビアの間で戦争が勃発した日、コンラッドとレティンジガー一家はポーランドに到着した。 コンラッドが幼少期によく訪れたクラクフ(当時はオーストリア=ハンガリー帝国)。 この都市はロシア国境からわずか数マイルしか離れていないため、戦闘地域で足止めされる危険性があった。

妻のジェシーと次男ジョンが病気になったコンラッドは、山岳リゾートの町ザコパネに避難することにした。 彼らは8月2日にクラクフを出発した。 ザコパネに到着してから数日後、彼らはコンラッドのいとこであるアニエラ・ザグルスカが運営するコンスタンティヌフカ・ペンションに引っ越した。 ここには政治家のユゼフ・ピウスツキやコンラッドの知人である若いコンサートピアニストのアルトゥール・ルービンシュタインなどの著名人が頻繁に訪れていた[92]。

ザグルスカはコンラッドを、同じくザコパネに避難していたポーランドの作家、知識人、芸術家たちに紹介した。その中には小説家のステファン・ジェロムスキや、人類学者ブロニスワフ・マリノフスキの作家友人であるタデウシュ・ナレピンスキも含まれていた。 コンラッドは、有名な作家であり、外国からのエキゾチックな同胞としてポーランド人の関心を呼び起こしました。

彼はポーランド(実際は今のウクライナ生まれ)でイギリスに帰化し、世界的に有名になった小説家です。

実は、このジョセフ・コンラッドはタデウシュ・ロメルの伯父の妻となったゾフィー・ロメル(1885年~1972年)とも恋仲だったブロニスワフ・マリノフスキ(1884年~1944年)の友人でもありました。

ブロニスワフ・マリノフスキ - Wikipedia

タデウシュ・ロメルとユゼフ・レティンガー-2(タデウシュの従兄の妻ゾフィア・ロメル) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

レティンガーが、ジョセフ・コンラッドに最初に会った年がわかりませんが、おそらく、二人はレティンガーの従姉(英文Wikipediaの写真の説明にはCousinと書いてありますが、Geniでそのつながりは確認できません。)のサロンを通じて知り合ったのだと思います。

そこには、バレエ・リュスのメンバ-も集えば、ザモイスキつながりの「ランベール邸のメンバー」も集まったでしょう。

レティンガーは1918年からフランスに入国できなくなりましたが、フランスで作った人脈は彼のイギリスの人脈づくりに役立ったと思います。

ナチスに協力したフランスのGroupe Collaboration-番外編(第二次世界大戦とSynarchism) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

スタヴィスキー事件-6(シャネルと亡命ロシア人とビアリッツ) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

シャネルを中心に眺めれば-1(スタヴイスキー事件より~シャネルとバルサン社) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

シャネルを中心に眺めれば-3(シャネルとミシア・セールとナチス) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

バレエ・リュス人脈-3(レティンガーとシャネルの愛人ボーイカペル、メキシコ) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

バレエ・リュス人脈-4(アレクサンドル・ベノワから俳優で世界連邦運動会長だったピーター・ユスティノフ) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

バレエ・リュス人脈-6(アメリカに渡ったNicolas de Gunzburg) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)


「ランベール邸~ランベール家」のブログ記事一覧-Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

仮置き:

Jacques Benoist-Méchin — Wikipédia (wikipedia.org)

Synarchie — Wikipédia (wikipedia.org)

 

Clarissa Eden - Wikipedia

 

ゼエヴ・ジャボチンスキー - Wikipedia

ハイム・ヴァイツマン - Wikipedia

欧州とユダヤ人-1(ゼエヴ・ジャポチンスキーとムッソリーニ) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

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タデウシュ・ロメルとユゼフ・レティンガー-3(映画『バトル・オブ・ポーランド』には出てこない諜報部員たち)

2023年09月06日 | タデウシュ・ロメル、ポーランド

U-nextで見始めながら、登場人物がわかりづらくて挫折しそうになりながら、少しずつ観ている映画です。これは、ロンドンの亡命ポーランド政府のクーリエ(伝達諜報部員)の活躍を描いた映画。

Kurier (2019) - IMDb

映画『バトル・オブ・ワルシャワ 名もなき英雄』予告【2020年3月4日(水)DVD RELEASE】 - YouTube

この映画の主人公は実在や出演者には実在の人物。

Jan Nowak-Jeziorański – Wikipedia, wolna encyklopedia

抜粋ポーランド語google翻訳:

ヤン・ノワク・ジェジオランスキー、本名 ズジスワフ・アントニ・ジェツィオランスキーのペンネーム。 「ヤネク」、「ヤン・ノワク」、「ヤン・ジヒ」(1914年10月2日にベルリンで生まれ、2005年1月20日にワルシャワで死去) - ポーランドの政治家、政治学者、社会活動家、ジャーナリスト、ポーランド陸軍少尉[1 ]、ロンドンにある国内軍およびポーランド共和国政府の司令部の配達員兼特使であるチホシエムニ、ポーランド自由ラジオ・ヨーロッパの長年のディレクター。 白鷲騎士団の騎士。

履歴書

幼少期と青年期 彼は 1914 年 10 月 2 日から 3 日の夜にベルリンで生まれました [3] (文献には、彼の出生地がワルシャワであるという誤った情報があります [3])。 彼はプシェゾルノシチ保険会社職員のヴァツワフ(1869年 - 1918年)とエルジビエタ旧姓ピオトロフスカ(1880年 - 1975年)の息子であった。 彼の先祖であるブスコ出身のユゼフ・ジェジオランスキとその妻エヴァ・オルウォフスカはユダヤ人のフランキスト(ヤコブ・フランク派の信者)であり、1759年にリヴィウで洗礼を受けた[4]。 ユゼフの息子、イグナシー・イェジオランスキー(1746年 - 1846年)はマリアンナ・ランチョロンスカ(1768年 - 1846年)と結婚し、ヤン・アレクサンダー(1796年 - 1862年、ジョアンナ・アレクサンドラ・テレサ・ヴォウォフスカと結婚)という息子をもうけたが、彼はヤン・ノヴァクの曽祖父である[5]。 ][6] ズジスワフ・ジェツィオランスキーは「ヤン・ノヴァク」として最大の功績と名声を獲得した。 彼は戦時中にこの職業の偽名で宅配便の仕事を行い、後年にはラジオ・フリー・ヨーロッパのマイクの前でもそれを使用した。


が、ロンドンにいるはずのユゼフ・レティンガーは出てきません。

ジョセフ・レティンガーも、映画の主人公のノヴァクと同じように、ポーランド上空からパラシュートでポーランドに行きます。
この時なんと56歳。

Misja Salamandra - YouTube

(この動画で紹介しているもう一人の諜報部員が

Tadeusz Chciuk-Celt - Wikipedia

 

さらに、こちらの動画では、この亡命政府にいた3人の話もしています。

Szare eminencje Naczelnego Wodza - YouTube

1人目は、

Alfred Falter – Wikipedia, wolna encyklopedia

抜粋ポーランド語Google翻訳:

アルフレッド・ファルター (1880年7月25日にロパで生まれ [1] 、1954年7月13日にニューヨークで死去) - ユダヤ系ポーランド人起業家、戦間期の経営者および経済活動家、船主。 履歴書 ユゼフとオノラータ、旧姓ダットナーの息子[1]。 彼はウィーン工科大学を卒業しました。

ゼネラルディレクター、その後カトヴィツェのアッパーシレジア鉱山ロブール協会のリミテッドパートナーの会長、ポルスカロブ協会の会長。 ポルスキー銀行評議会のメンバー (1924 ~ 1939 年)。 リヴァイアサンの理事会のメンバー。 1932年にポーランド産業中央協会の会長に就任[2]。 Bank Handlowy S.A.評議会のメンバー (1932–1939)、1935 年から銀行副頭取。 上シレジア石炭条約、ポーランド石炭条約、国際商工会議所の当局のメンバー。

亡命中のウワディスワフ・シコルスキ政府の財務副大臣(1939年 - 1940年)。 ベルサイユ条約に基づいて設立された国際戦争補償委員会の代表、1922年に上シレジアに関するジュネーブ会議のポーランド代表団の経済専門家。 彼は 1920 年代初頭、上シレジアの境界設定中に初めて大金を稼ぎました。 1922 年から 1932 年にかけて、上シレジア鉱業冶金産業協会の管轄下にありました。 1930 年代、キャリアのピーク時には、資本金約 3 億 5,000 万ズウォティで数十の企業を経営しました。

フォルター氏は主に石炭産業と鉄鋼産業に投資した。 彼はアッパー・シレジア鉱山協会ロブールの主要株主であり会長でもありました。 しかし、彼は投資と資本の増大という新しい分野を探していました。 1927 年 5 月 9 日、ロブールは国庫との協定に署名し、グディニアの広場と埠頭を賃貸し、売上税と所得税を 5 年間免除した。 その見返りとして、同社は総載貨重量が 15,000 GRT 以上の艦隊を 2 年以内に就航させることになっていた。 Polskarob – Polsko-Skdynawskie Towarzystwo Transportowe SA は、石炭の輸出と輸送を扱うために 1927 年 11 月にグディニアに設立されました。 企業の実際の所有者は、エマニュエル・フリードレンダーが所有するベルリンの会社 Effco でした。 アルフレッド・ファルターが最高経営責任者に就任した。

ファルターはエフコの株を購入し、1936年頃にポルスカロブとロブラの両方の実質的な所有者となった。 ファルターの艦隊は、ロバーという名前の連続番号が付いた 7 隻の鉱石採炭船で構成されていました。 ばら積み貨物船はロブルの石炭をグディニアから主にスカンジナビアと英国の港に輸送しました。 

 

2人目がレティンガー。

3人目がこの人-

Stefan Litauer – Wikipedia, wolna encyklopedia

抜粋ポーランド語Google翻訳:

ステファン・リタウアー(Stefan Litauer、1892年5月31日ウッチ生まれ、1959年4月23日ロンドン死去) - ポーランド人ジャーナリスト。 外務省報道官、ポーランド電信庁長官。 ソ連諜報機関の協力者(おそらく)。

履歴書

1932年まで外務省報道参与、外務省報道局次長。 ヴィクトール・ドライマーが外務省人事局長に就任した後、ポーランドの外交政策について外国人ジャーナリストに情報を与えなかったことを正当化して、その職と外務省を解任された[1]。 外務省から追放された後、彼はロンドンのポーランド電信局の特派員を務め、その後1944年4月まで同局の局長を務めた。 偽情報とポーランド国家に不利益をもたらす行為を行ったとしてポーランド亡命政府により解任された。 ロンドン外国記者協会会長。 彼は 1945 年にポーランドに戻り、外務省でさまざまな役職に就きました。 1949 年から彼は次のような仕事に取り組みました。 PISMで博士号を取得し、政治科学アカデミーのジャーナリズムスクールでも講義を行った。 1956 年以降、彼はロンドンのポーランドラジオの特派員を務めました。 彼は「ジシチェ・ワルシャウィ」紙の特派員として働いていたロンドンの下院のエレベーター内で心臓発作により亡くなった。 彼はフランスのグラン・オリエントのメンバーであった[2]。

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タデウシュ・ロメルとユゼフ・レティンガー-2(タデウシュの従兄の妻ゾフィア・ロメル)

2023年09月05日 | タデウシュ・ロメル、ポーランド

タデウシュ・ロメルの父は

Bronislaus Anthony von Römer (1856 - 1899) - Genealogy (geni.com)

タデウシュ・ロメルの伯父

Isador Roman Anthony von Römer (1843 - 1910) - Genealogy (geni.com)

その伯父の子供、すなわちタデウシュ・ロメルの従兄が、

Eugeniusz Römer h. wł. (1871 - 1943) - Genealogy

です。

この従兄と同年に生まれた人物のwikipediaがあったため、

Eugeniusz Romer - Wikipedia

ずっと混乱していましたが、これは別人。

タデウシュ・ロメルの伯父のwikipediaは見つかりませんが、彼の妻のwikipediaはありました。(タデウシュ・ロメルの妻も名前はゾフィア)

Zofia Romer - Wikipedia

Google翻訳:

ゾフィア・ロメル(旧姓デンボウスカ、1885年2月16日 - 1972年8月23日)はポーランドの画家。 彼女は 1885 年にドルパット(現在のエストニアのタルトゥ)で、著名な医師タデウシュ・デンボウスキーとその妻マチルダの間に生まれました。彼女はリトアニアとポーランドで育ち、さまざまな画家のもとで学びました。

教育

リトアニアでは、まずヴィリニュスのイヴァン・トルトネフに師事し、その後ポーランドのクラクフとドイツのミュンヘンでロート・ホロシとシモン・ホロシに師事して絵画を学びました。 1903年と1904年、彼女はパリで有名な肖像画家ジャック=エミール・ブランシュと歴史画家リュック=オリヴィエ・メルソンのもとで勉強を続けた。 彼女はクラクフに戻り、バラニツキ美術館でユゼフ・シェドレッキのもとで正式な芸術教育を修了しました。

結婚とキャリア

若い女性として、彼女はブロニスワフ・マリノフスキスタニスワフ・イグナシー・ヴィトキェヴィチと恋愛関係にあった[1]。 1911年に彼女は、リトアニアの裕福で影響力のあるポーランドの地主であるオイゲニウス・ロメルと結婚した。 彼女はリトアニアの芸術遺産において重要な役割を果たしました。 約 70 年にわたるさまざまなメディアにわたる多作な芸術的キャリアの中で、彼女は約 5,000 点の作品を制作し、そのうち少なくとも 1,200 点がカタログ化されています。

1943 年以降、彼女は肖像画家として生計を立てました。 第二次世界大戦中に故郷を追われた結果、彼女は人生の後半、ロシア、テヘラン、カイロ、米国ロンドン、カナダのモントリオールなど多様な場所で暮らし、創作活動を行い、そこで亡くなった。

1972年に。 彼女にはゾフィア、ロッチ・エドワード、ユージニア、アンジェイ・タデウシュ、ヘラの5人の子供がいました。 彼女の末息子アンジェイは、母親の遺産、芸術的業績を保存し、両親の回想録を出版することに晩年を捧げました。

(後略)

 

ゾフィアが若いころ付き合っていたのは、後にイギリスに帰化する人類学者。

ブロニスワフ・マリノフスキ - Wikipedia

Bronisław Malinowski - Wikipedia

抜粋google翻訳:

若い頃、彼はポーランドの芸術家スタニスワフ・イグナシー・ヴィトキェヴィチの親友でした。 この友情はマリノフスキーの幼少期に大きな影響を与えた[8][71][72][73]。 彼らはゾフィア・ロマー旧姓デンボウスカと三角関係にあった[74]。 彼は生涯を通じて女遊び者(Promiscuity - Wikipedia、乱交)としての評判を獲得した[8]。 学生時代の彼の他の友人には、オックスフォード大学人類学初の女性講師マリア・チャプリッカが含まれていた。

絵の勉強に頼った師も、マルセル・プルーストなどが出入りするようなサロン(レティンガーの従兄の、ミシア・セールのサロンも含む)に行きそうな「ボヘミアン的」なところがある人達でしたが、ゾフィアは、25歳か26歳には、自分より14歳も年上の、タデウシュ・ロメルの従兄のEugeniuszと結婚します。

シャネルを中心に眺めれば-3(シャネルとミシア・セールとナチス) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

バレエ・リュス人脈-3(レティンガーとシャネルの愛人ボーイカペル、メキシコ) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

Eugeniszの職業さえわかりませんが、彼は1943年に亡くなっています。

ゾフィアには、イギリスやフランスには力のある友人も多かったかと思いますが、息子のアンジェイの父親代わりとなっていたのは、タデウシュ・ロメルだったのでしょうか?

タデウシュ・ロメルが、アンジェイ・ロメルをユゼフ・レティンガーに紹介したから、アンジェイはレティンガーの個人秘書になったのでしょうか。

ポーランド亡命政府とタデウシュ・ロメルとアンジェイ・ロメル - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

Pさんが会った駐日ポーランド大使の娘とアンジェイ・ロメル - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

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タデウシュ・ロメルとユゼフ・レティンガー-1(ユゼフ・レティンガーの役割)

2023年09月05日 | タデウシュ・ロメル、ポーランド

ポーランドのタデウシュ・ロメルは、奇妙なことからその名を知ることになりました。

Dyplomaci II RP: Tadeusz Romer - YouTube

ポーランド外交官ダデウシュ・ロメル - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ポーランド外交官ダデウシュ・ロメルと彼が個人秘書をしていたロマン・ドモフスキ - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

タデウシュ・ロメルと妻ゾフィ - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

タデウシュ・ロメルの娘の一人と英国人元ペンフレンド - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

Pさんが会った駐日ポーランド大使の娘とアンジェイ・ロメル - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

タデウシュ・ロメルの心のうちは - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

第二次世界大戦のポーランドと日本の関係 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ウルズラ・フォン・ディア・ライエンが下宿していた家・ポーランド亡命政府とタデウシュ・ロメル - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ポーランド亡命政府とタデウシュ・ロメルとアンジェイ・ロメル - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

初代ポーランド大使タデウシュ・ロメルの特別展 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

彼は、ビルダーバーク会議のおぜん立てをしたユゼフ・レティンガー(今まで、英語読みの「ジョセフ・レティンガー」を使っていましたが、ポーランド語に近い「ユゼフ」を使います。)と同じような「諜報活動者」であったと思います。

諜報つながりだけでなく、ロメルの伯父の妻、ゾフィ・ロメル(タデウシュ・ロメルの妻の名も「ゾフィ」ですのでややこしいです。)との繋がりがあったことにも昨夜気が付きました。

そのことを書く前に、レティンガーの英文wikipediaから抜粋Google翻訳。

Józef Retinger - Wikipedia

抜粋Google翻訳:

第二次世界大戦中、ロンドンにいたレティンガーは、ポーランド軍をフランスからイギリスに移送する手配に携わった。 彼はウィンストン・チャーチルから個人的に、ドイツ侵攻に降伏したばかりのフランスからヴワディスワフ・シコルスキを飛行機でイギリスまで護衛するよう命じられた[4]: 16 彼は現在、ポーランド亡命政府の首席顧問および首相の腹心となった。 [19]: 95 [21]

実際、彼らの政治的関係は1916年に遡り、1922年から23年にかけて新たに独立したポーランドでウワディスワフ・シコルスキが首相として短期間務めていた間に強化され、より大きな実を結んだ。両名は後にロンドンに亡命した[22]。 シコルスキーは英語が堪能ではなかったので、レティンガーへの依存度はさらに大きかった。 この時レティンガーは、戦後の地政学的な状況に備えて、マルセル=アンリ・ジャスパール、ポール・ヴァン・ゼーランド、ポール=アンリ・スパークを含むロンドンの他の亡命政府代表と会談するために派遣された[23]。

彼は続けて2段階からなる「シコルスキー計画」を主張し、第1段階は1942年1月に調印され、ポーランド・チェコ連合の設立を提案した[24]。 この構想は、ポーランドとリトアニア、チェコスロバキアを核とし、その周囲にルーマニア、ハンガリー、ユーゴスラビア、ギリシャがグループ化される中央ヨーロッパ連合に拡張することであった[25]。 この背後にある議題は、ヨーロッパの大国に隣接する小国に共通の政治的青写真を作成することであり、これはポーランドとチェコの取り決めを反映するベルギーとオランダの連合の基礎となった[26]。

レティンガーのこの計画は、ロンドンとモスクワの間で問題を引き起こした。 ソ連の足を踏まないために、イギリスは立場を変え、シコルスキーとヨーロッパの小国8か国との交渉を支持することを拒否した。 1943年3月21日に放送されたウィンストン・チャーチルは欧州評議会での演説の中で、小国がグループを形成する必要性について言及したが、詳細に入るのは時期尚早であると述べた。 レティンガーが達成できた最大の成果は、1941年7月30日に署名されたシコルスキー・マイスキ協定を押し進めることであり、この協定はアンダース軍の編成を規定しており、こうしてスターリンから数十万のポーランド人が提起する差し迫った人間問題を取り除くことができた。

ソ連からの捕虜と移送者は旧ポーランド第二共和国のクレシ地域を占領し、数千マイルにわたる困難な旅の末、最終的には英国の人道問題となることになる[27][28]。 このトレードオフはテヘランとヤルタ会談を驚愕させた[29]。 死と向き合う レティンガーは1943年7月にヴワディスワフ・シコルスキとともにジブラルタルでの死を免れたが、この時彼は首相の近東部隊視察には必要とされず、ロンドンで雇用されたほうがよいと考えられていた。 飛行機の予備の座席は、父親とともに亡くなったシコルスキーの娘のものだった[1]。 レティンガーはこの事態に打ちのめされた。 シコルスキの後継者であるスタニスワフ・ミコワイチクとの関係はさらに曖昧であったが、1944年4月に国有企業の特別任務としてポーランドに行くことに後者の同意を得た[30][31]。

56歳のレティンガー氏は、SOEの概要書を携え、事前の訓練も受けずに、ナチス少尉とともにドイツ占領下のポーランドにパラシュートで降下した。 タデウシュ・シュチュク=ケルト(サラマンダー作戦を参照)は、ポーランドの地下組織の人物と会い、ポーランドの地下組織に資金を届け、そして「祖国の同胞ポーランド人に『この戦争がどうやって負けるのか』を説明する」ためだった[32]。 : 16–22 [2]: 265 [19] 少なくとも一度の暗殺未遂事件を受けて、レッティンガーは不満を次のように表明した。

私がなぜ来たか知っていますか。 [地下]代表も同様に知っています...彼らは、私が将来共産主義者と協力する必要があることを彼らに説得したいだけであることを知っています、なぜならここにはイギリス人は来ておらず、ロシア人だけが来ているからです。 もし私たちが何らかの方法で彼らと仲良くしなければ、それはひどい悲劇になるでしょう、なぜなら私たちはスターリンとNKVD(ソ連内務省)が何であるかをよく知っているからです。 そして、この事実をここにいる人々に理解してもらおうとしているのです。 そして彼らは私を殺そうとしているのです![19]

後者の皮肉は、レティンガーが祖国の利益に貢献していないため「排除」されるべきだと確信していたポーランド地下軍、AKの一部への言及であった。 彼を粛清しようとする明らかな試みの1つは、カジミエシュ・ソスコ​​ウスキー将軍によって認可された「死刑判決」に基づいていたと言われている。

この計画は旧友でAK戦闘機のタデウシュ・ゲベトナーの介入によって阻止された[33]。 ポーランド訪問中、毒物を使って殺害する試みも失敗した。 ロンドンに戻ると、彼はロンドンのパークレーンにあるドーチェスター・ホテルでしばらく過ごし、旅の試練から回復した。この旅のせいで、おそらく毒物による多発性神経炎のせいで片足が不自由なまま生涯を終えることになった。 ドーチェスターへの最初の訪問者は外務大臣アンソニー・イーデン卿であった[11][32]。 

戦後すぐの 1945 年から 1946 年にかけて、レティンガーは首都の住民への緊急援助としてワルシャワを訪れました。 その大部分は、装備品、毛布、野戦用厨房などのイギリス軍とアメリカ軍の大量の余剰品で構成されていた[14]。 かつてサラマンダー作戦の護衛だったタデウシュ・シュチュクとその新妻エワがポーランド共産主義治安当局に破壊者として逮捕されたとき、レティンガーはモスクワのヴャチェスラフ・モロトフに釈放を求めたと伝えられている。 どうやら個人的な介入は成功したようだ。 1948年、シュチュク家はドイツに難民となった[34][35]。

望まない侵入

第二次世界大戦後は暗い日々が続き、西側と東側の元同盟国の間で緊張が高まり、1946年4月には西ロンドンのベイズウォーターにあるレティンジャーのアパートが何者かに侵入され、彼と秘書のファイルが荒らされた。 彼はこの件をスコットランドヤードに報告したが、ロンドン警視庁はあまり気にしなかった。 レティンガー氏は苦情をエスカレートさせ、最終的には英国の治安当局から事情聴取を受けることになった。 彼の見解は、ポーランド人民共和国に新設された共産主義大使館が侵入の責任があるというものであった[36]。

1946年4月にウィンストン・チャーチルがミズーリ州フルトンで「鉄のカーテン」演説を行った瞬間から、レティンガーは数十年にわたって温めてきた修正されたヨーロッパ計画に努力を向けた[37][14]。

ヨーロッパのビジョン

第二次世界大戦後、レティンガーはヨーロッパで再び壊滅的な戦争が起こり、今回は「ロシア」と「アングロサクソン人」の間で起こるのではないかと懸念した[19]。 彼は平和を確保する手段としてのヨーロッパ統一の主要な提唱者となった[38]。 彼はヨーロッパ運動とヨーロッパ評議会の両方の創設に貢献したが、第一次世界大戦後の反ボリシェヴィスト全ヨーロッパ連合運動の創始者である哲学者リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギ伯爵をややがっかりさせた。[12]: 227–228 [ 39]

オランダ、ベルギー、スイス(ドゥニ・ド・ルージュモンの友人だった)に人脈を持ったレッティンガーは、ウィンストン・チャーチルの1947年のチューリッヒ演説からヒントを得て、この考えを支持する13人の英国保守党議員との肥沃な土壌を見つけた。緩やかな欧州諸国連合。 レティンガーは欧州経済協力連盟(当初は独立経済協力連盟と呼ばれていた)創設の原動力となった。

その後、チャーチルの義理の息子で欧州統一運動会長のダンカン・サンディーズに、欧州統一を追求するさまざまな組織間の協力強化について打診した。 彼らは、国際ヌーベル・エクイップス・インターナショナルおよび欧州連邦主義者同盟と、両組織の小規模な会合を開催することに合意した。 この会議は1947年7月20日にパリで開催され、欧州統一のための国際運動調整委員会の設置が合意された。 1947 年 12 月に、この組織は欧州統一運動国際委員会と改名され、サンディーズが執行委員長、レティンガーが名誉書記となった。

彼らは1948年にハーグ会議を組織し、統一ヨーロッパ支持派と連邦ヨーロッパ支持派の2つの陣営を結集させた[40][41][22]。 会議中、レティンガーはバチカン外交官ジョバンニ・モンティーニ、将来教皇パウロ6世を含む代表者の間で熱心にネットワークを築いた。 その後の議論により、最終的に 1951 年に欧州石炭鉄鋼共同体が設立されました [1]。

ビルダーバーグの作者 レティンガーは 1952 年から 1954 年にかけて非公式のビルダーバーグ会議の発起人および立案者であり、1960 年にロンドンで早世するまで会議の常任書記を務めました。 1954 年にその名を冠したオランダのホテルで集まった最初のグループはレティンガーによって集められ、デヴィッド ロックフェラーが含まれていました。デニス・ヒーリーとオランダのベルンハルト王子が会長を務める。 その目的は、冷戦が進展する中、金融家、実業家、政治家、世論形成者を結集させることで、ヨーロッパとアメリカの間の理解を促進することでした。 すべての議論はチャタムハウスルールに厳密に従って行われることになった[42]。 このグループの創設メンバーであり、後に英国労働外務大臣となったヒーリーは、ビルダーバーグの秘密会談はレティンガーの「発案」であると述べた。

パーソナルライフ

レティンガーは二度結婚した。 1912年に彼は長身のオトリア・ズブジツカ(1921年に離婚、1984年に死亡)と結婚し、娘マリナ(後のプチャルスカ)をもうけた。 1926年に彼は、フランス生まれの平和主義者でダンディー国会議員のE.D.の娘、ステラ・モレル(1933年死去)と結婚した。 モレルとメアリー(旧姓リチャードソン)の間には、マリヤ(後のフォルデ)とスターシア(後のフランス人)という二人の娘がいました。 彼の孫の中には、アンドレイ・サプコフスキの『ウィッチャー』サーガの英語翻訳者であるデヴィッド・フレンチやファンタジー小説家のジャスパー・フォードがいる。

第一次世界大戦中およびその後、レティンガーは数人の女性、特にジョセフ・コンラッドの恋人とされるアメリカ人ジャーナリストのジェーン・アンダーソンの魔法にかかったようである[48][49]。 レティンガー自身のアンダーソンとの関係は、レティンガーとオトリアとの結婚生活の破綻をもたらし、彼と友人のコンラッドとの間にくさびを打ち込んだ[48]: 293 しかし、コンラッドの伝記作家ジョン・ステイプは、二人の関係の冷却化について別のバージョンを与えている。 、代わりに、戦後間もなく、側に魅力的な妻がいなかったため、レティンガーの熱意が小説家に共有されなかったため、レティンガーの誇張と無粋な傾向により社会的に受け入れられにくくなったと示唆している[50]。

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ポーランド、ドイツ国境近くのバザール

2023年09月03日 | タデウシュ・ロメル、ポーランド

ARTE.TVの動画をたまたま見ていて、ポーランドのドイツの国境沿いの街のバザールの動画を見つけました。

Polish Border Bazaars | ARTE.tv Documentary - YouTube

解説Google翻訳(「シェクニツァ」→「「ウェンクニッツァ」に変更):

ヨーロッパ全土で、猛烈なインフレにより物価が上昇しています。 ポーランド、ウェンクニッツァの国境バザールでは、これは当てはまらない。地元の屋台や商店は、バーゲン品を求めて国境を越えてくる主なバイヤーであるドイツ人の顧客を怖がらせないように、価格を低く抑える必要がある。 しかし、ヨーロッパの中でもインフレ率が最も高い国の一つであるこの国では、物価の低さが影響を与えないわけではない。 お金を稼ぎ、尊厳を持って生活し、その過程で顧客を失わないようにするにはどうすればよいでしょうか?

 

フランスの東部アルザスやフランシュコンテの住人が「ドイツの安いお店」に買い出しに行く話はたまに聞きましたが、ドイツからポーランドでの買い出しのことは初めて知りました。

このバザールの商品の値段は破格の安さ。美容院の利用料も本国ドイツでは80ユーロ、このバザールの美容院では30ユーロでできたりするようです。(ポーランドの通貨はまだユーロではないですが、このバザールではユーロで買い物ができるらしいです。)

ポーランド側では物価が上がり、ドイツ側では商店がつぶれたりしないのでしょうか。
EUでパスポートチェックも受けずに行き来ができて便利な分、経済格差が大きい隣国同士、問題は山積みでしょうね。

バザールの靴屋の女性が「トルコやブルガリアの商人と違って、私たちは文化的」と言ったり、にこやか、フレンドリー、時間にキッチリの商店の人たち、印象的です。

 

参考:

『旧東ドイツの街を訪ねる旅2017① ムスカウ公園とポーランド国境の都市ウェンクニッツァ』その他の都市(ポーランド)の旅行記・ブログ by アンさん【フォートラベル】 (4travel.jp)

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ポーランド亡命政府とタデウシュ・ロメルとアンジェイ・ロメル

2022年11月20日 | タデウシュ・ロメル、ポーランド

ウルズラ・フォン・ディア・ライエンが下宿していた家・ポーランド亡命政府とタデウシュ・ロメル - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

の書いたタデウシュ・ロメルを私がこれほどまで調べたのは、たまたま10年ほど前に私のイギリス人が話してくれたの友人の話を思い出したことから。彼が若いころに「元ポーランド駐日大使の娘Sさん」に会いましたが、調べていくと、その「駐日ポーランド大使」がほぼ、タデウシュ・ロメルの話だろう、ということになりました。

タデウシュ・ロメルの心のうちは - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

①英国人ペンフレンドPさんが根付職人になったのは、戦前に駐日ポーランド大使をしていた父親の根付コレクションを見せてもらったのがきっかけ。

②Sさんは、戦前日本にいて、戦争中はフランスで救急車の運転(ユダヤ人を運ぶ)のボランティアをしていた。

③Sさんが本当に駐日ポーランド大使の娘であるかどうかは置いておいて、その時の駐日ポーランド大使は、タデウシュ・ロメルであり、杉原千畝とともにユダヤ人にビザの手配をした人。(タデウシュ・ロメルのほうは、非ユダヤのポーランド人の出国も手助け)

④タデウシュ・ロメル氏の親族も含む周りには、諜報活動をするポーランド人が多く、従弟のアンジェイ・ロメルなどは、ビルダーバーグ会議設立を持ち掛けたジョセフ(ヨゼフ)・レティンガーの秘書をしていて、戦後もベルギーに滞在していた模様。

⑤タデウシュ・ロメルは1919年からロシア、イギリス、フランス、イタリア、ポーランド、日本、中国とかかわるが、戦後は外交の場を離れる。ジョセフ(ヨゼフ)・レティンガーと対照的。

 

ただし、Sさんは、タデウシュ・ロメルの娘というより、父の兄の息子の息子の「アンジェイ・ロメル」の姉妹か何かである確率も高く、

Pさんが会った駐日ポーランド大使の娘とアンジェイ・ロメル - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

このアンジェイ・ロメルは、1946年~48年に、ビルダーバーグ会議設立に寄与した、レティンガーの秘書をしていました。

Sさんが戦時中フランスにいたというのは、ポーランド亡命政府が戦時中フランスのアンジェにおかれ、そこにアンジェイが働いていた、と考えればより真実に近くなります。

スイスのポーランド博物館のウェブサイトから-

Romer's Parlour | The Polish Museum in Rapperswil (polenmuseum.ch)

抜粋Google翻訳:

Andrzej Romer
エウゲニウシュ・ロマーとゾフィア・デンボウスカの末息子であるアンドレイ・ロマーは、1921年にサイトウィアニーで生まれました。地下レジスタンス運動に関連して、彼は諜報部隊で働いていました。 1946年から48年にかけて、彼はロンドンのヨゼフ・レッティンガーの個人秘書でした。 1948年にAndrzejRomerはアメリカに移住しました。アナーバーで彼はマスタータイトルを取得し、次の14年間、偉大なコンストラクターであり発明家であるタデウシュゼンジミールと協力しました。

その後、彼のキャリアは彼に日本とフランスで働くように指示しました。しかし、1968年に彼は大学に戻り、国際関係経済学部のすべての博士号試験に合格しました。彼はすぐにTextronの懸念の代表となり、ベルギーに移りました。彼はポルトガル、ドイツ、ハンガリー、ポーランドで大きな契約を交渉しました。 Andrzej Romerは、ブリュッセルに長年住んでいます。彼は、ポーランドとリトアニアの関係に関するフランスの「文化」と「歴史ジャーナル」に多数の記事を発表しました。彼はまた、ポーランドと日本の関係についての談話の著者の一人であり、リトアニア語を流暢に話す最後のローマ人です。博物館への彼の寄付は、パテックの時計と嗅ぎタバコのコレクションでした。図書館には、数多くの本や家族の文書が贈られました。

 

レティンガーは死ぬまでロンドンに住んでいました。

ポーランドのジョセフ・レティンガーがビルダーバーグ会議設立にかかわるようになるまで - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

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ウルズラ・フォン・ディア・ライエンが下宿していた家・ポーランド亡命政府とタデウシュ・ロメル

2022年11月19日 | タデウシュ・ロメル、ポーランド

私は、戦後のポーランド亡命政府は無くなっているものとずーって思っていたのですが、ウルズラ・フォン・ディア・ライエンが若いころに下宿していたポーランド人の家の話から、

ウルズラ・フォン・ディア・ライエンのロンドン時代 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ポーランド亡命政府のウィキペディアを覗いてみて、間違いに気が付きました。

 

ポーランド亡命政府 - Wikipedia

ポーランド亡命政府(ポーランドぼうめいせいふ、ポーランド語: Rząd Rzeczypospolitej Polskiej na uchodźstwie)は、1939年のポーランド侵攻後のナチス・ドイツ及びソビエト連邦による国土の分割占領により、ポーランド第二共和国政府を継承して組織された亡命政府である。

ポーランド亡命政府は、ポーランド地下国家(英語版)と国内軍の組織構造を通し、第二次世界大戦期間に影響力があったとされる。終戦後、ポーランドはソ連の衛星国ポーランド人民共和国の管理下となり、亡命政府は存在したが影も薄く影響力も無かった。共産主義支配の終了後、亡命政府は正式に責務を新政府の第3共和制に移行した。

ポーランド亡命政府は1939年にパリで発足し、1940年にアンジェに移転。その後、1940年から1990年までの間はロンドンを拠点とした。

(後略)

 

第二次大戦中にポーランド亡命政府の外務大臣を務めらタデウシュ・ロメルがユダヤ人を大勢救ったのに話題にされなかったことや、戦後、イギリスでなくカナダに移住したこと、イギリスに住んでいたことがある彼の家族(もしくは親戚が)と思われる人物が偽名を使っていたのかも、亡命政府がらみのことがあってのこと立ったのか-と思えてきます。

Tadeusz Romer – Wikipedia, wolna encyklopedia

抜粋ポーランド語Google翻訳:

ソ連での任務終了後(1943 年 4 月)、彼は中東におけるポーランド政府の全権大使でした。 1943 年 7 月 14 日から 1944 年 11 月 24 日まで、彼はスタニスワフ ミコワイチク政権の外務大臣を務めました。 1945 年から、最初はロンドンに、次にカナダに移住し、そこでマギル大学で働きました。 1963 年から 1978 年まで、ポーランド科学研究所の会長を務めました。

ポーランド外交官ダデウシュ・ロメル - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

タデウシュ・ロメルの娘の一人と英国人元ペンフレンド - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

Pさんが会った駐日ポーランド大使の娘とアンジェイ・ロメル - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

タデウシュ・ロメルの心のうちは - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

第二次世界大戦のポーランドと日本の関係 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

 ウルズラ・フォン・ディア・ライエンが下宿していた70年代終わりには、もう亡くなっていた、家主の夫、Roman Rostowskiのポーランド版ウィキペディアを。

Roman Rostowski – Wikipedia, wolna encyklopedia

ポーランド語Google翻訳:

彼は 1917 年 4 月 5 日にリヴィウでユダヤ系の家族に生まれました[1][2][3]。彼はヤクブ・ロスフェルド・ロストウスキー[1] (1884–1971、神経科医[4]、教授) とフランシスカ・ニー・ラフ (1884–1963、歯科医[5]) の息子であり、第二次世界大戦の勃発と終結後にイギリスに滞在[2][6]。

彼はリヴィウのヤン・カジミェシュ大学の法学部で学びました[6][1][2]。そこでの彼の研究の間、彼はイェジー・レルスキの主導で1937年に設立されたポーランドの社会民主主義青年の理事会に参加しました[7]。 1946 年にイギリスに到着した後、彼はエジンバラ大学 (彼の父が働いていた場所) で博士号を取得しました [2][6][1]。彼はまた、パリの政治学部で学びました[6][1]。

戦後、彼は1947年にポーランド亡命政府の首相になるまで、Tomasz Arciszewskiの通訳を務めた[8][2]。 1950 年 1 月 3 日、彼は英国に帰化した[9][8]。彼は後に英国外務連邦省の役人になった[8]。彼はイギリスの植民地サービス内で役職に就いていました[2]。 1958 年に、彼はケニアの政権の議定書の責任者になり、1963 年に国が独立を宣言した後も滞在しました [8]。

後に彼はモーリシャスで働きました[8]。 1969年、彼はセーシェルの知事として宣誓され、その後数年間働きました[6][8]。 1972年に彼は永久にイギリスに戻った[8]。彼は 1975 年 5 月 23 日にロンドンで亡くなりました[1][3][8]。彼はロンドンのガナーズベリー墓地に埋葬された[3]。

イギリスで、彼は Jadwiga née Orzech と結婚した (1916 年生まれ、1939 年以前にウィーンでオーストリアの建築学教授ハンス・フェッターと結婚し、彼女は一緒にロンドンに行き、その後彼と離婚し、1991 年に死亡した)[8][3 ]。彼らの息子は、Jacek Rostowski (1951 年生まれ、経済学者、ポーランド政府の大臣) [8] です。

参考:

Tomasz Arciszewski - Wikipedia

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初代ポーランド大使タデウシュ・ロメルの特別展

2022年09月10日 | タデウシュ・ロメル、ポーランド

ユダヤ人避難民を支援 埋もれた功績に光 大阪で初代駐日ポーランド大使の特別展(産経新聞) - Yahoo!ニュース

先の大戦中、ナチス・ドイツの迫害から多くのユダヤ人を救った外交官、杉原千畝(ちうね)とともに人道支援に尽くした当時の駐日ポーランド大使にスポットをあてた特別展「タデウシュ・ロメルと極東のユダヤ人戦争避難民」が、ピースおおさか(大阪市中央区)で開かれている。

初代駐日ポーランド大使を務めたタデウシュ・ロメル(1894~1978年)は、日本のシンドラーと呼ばれる杉原がリトアニアで発給した「命のビザ」で欧州を脱出し、シベリア経由で日本にたどり着いたユダヤ人の生活を確保。その後、第三国への脱出に向けた避難民のビザなどの手続きに奔走した。 ロメルは人道支援の一方で、枢軸(すうじく)国側に傾く日本との外交関係維持に努め、ドイツがポーランドに攻め込んだ後も人脈を駆使し、日米開戦の直前まで外交関係を保ち続けたという。

会場では、激動の時代に生きたロメル大使の功績をパネルや映像で紹介。社会見学で訪れた中学生らは「歴史に埋もれた外交官のことを知って驚いた。そのうえでいま、ウクライナのことを考えると本当に戦争は嫌だ」と話した。 11日午後2時から、「ユダヤ人たちの救済に尽力した外交官」をテーマに名城大の稲葉千晴教授、ポーランド・クラクフ教育大のヤン・リーデル教授が講演する。

同施設の駒井詩子専門職員は「ロメル大使の活躍があったからこそユダヤ難民たちは救われた。あまり語られることがなかった大使の功績を知ってもらえれば」と話している。

18日まで、大人250円、高校生150円、中学以下無料。問い合わせは同施設(06・6947・7208)。

 

タデウシュ・ロメルを丁度半年前に調べて始めていました。

タデウシュ・ロメルを私が調べだしたのは、ウクライナのことを調べていたときに、私のイギリス人ペンフレンドが、「在日ポーランド大使の根付のコレクションを観た」と言うのを思い出して調べだしたことからでした。

タデウシュ・ロメルが根付のコレクションを持っていたかどうか、この展覧会でわかりますかね。

ところで、17年前、イタリアに行くことがあって、自宅から駅までタクシーに乗りました。その時、お話好きの運転手さんと世間話などをしていたところ、彼が、「昔、商売(電化製品の個人輸入だったと思う)をしているときに、僕、ユダヤ人を救った元外交官夫妻にかわいがってもらったことがあったんですよ。」と言い出したので、「え!?それって杉原千畝さんじゃないですか!?」と驚いたことがありました。
そう、その運転手さんをかわいがってくれたのは杉原千畝夫妻。
この運転手さんの話をゆっくり聞くこともできず、残念でしたが、「杉原千畝夫妻に直接接していた人」に会えたことに興奮しました。

杉原千畝と直接会ったタクシーの運転手さん、タデウシュ・ロメルと間接的接触があったであろうペンフレンド、奇妙な偶然です。

 

タデウシュ・ロメル関連記事をどうぞ。

ポーランド外交官ダデウシュ・ロメル - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

タデウシュ・ロメルと妻ゾフィ - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

タデウシュ・ロメルの娘の一人と英国人元ペンフレンド - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

Pさんが会った駐日ポーランド大使の娘とアンジェイ・ロメル - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

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タデウシュ・ロメルの心のうちは - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

「河豚計画」に協力した人、潰した人-1 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

「河豚計画」に協力した人、潰した人-2 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

追記:

大阪市:報道発表資料 ピースおおさか 特別企画「ユダヤ人たちの救済に尽力した外交官」を実施します (osaka.lg.jp)

第二次世界大戦中、ナチス・ドイツによる迫害で多くのユダヤ人たちが犠牲になりました。この迫害の中で、杉原千畝氏をはじめ、各国の外交官たちは自分たちの特権を活かして人々を救済しました。
 今回の講演会は特別企画の「ピースおおさか開館の日平和祈念事業」として、ホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)の生還者のインタビュー上映や、危険を冒しながらも手を差し伸べた外交官たちについての講演を行います。

内容
  • エルジュビエタ・フィツォフスカ氏(ホロコースト生還者)のインタビュー上映(日本語字幕)を行います。
  • 講演は次の2名の方が順次登壇し、講演します。
    稲葉千晴氏(名城大学都市情報学部教授)
    ヤン・リーデル氏(ENRS運営委員会メンバーおよびコーディネーター(ポーランド担当)、クラクフ教育大学教授)

Elżbieta Ficowska – Wikipedia, wolna encyklopedia

イェジィ・フィツォフスキ - Wikipedia

The Story of Tadeusz and Zofia Romer | Polscy Sprawiedliwi

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ポーランドのジョセフ・レティンガーがビルダーバーグ会議設立にかかわるようになるまで

2022年04月12日 | タデウシュ・ロメル、ポーランド

第二次世界大戦のポーランドと日本の関係 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

でも、ほとんど英語版wikipediaの抜粋Googだけを張り付けさせてもらいましたが、今度はジョセフ・レティンガーの英語Wikipediaの抜粋Google翻訳を張り付けさせてもらいます。

Józef Retinger - Wikipedia

貼り付け開始(一部原語のまま):

ジョセフ・レティンガーは、5人の子供の末っ子であるポーランドのクラクフ(当時はオーストリア-ハンガリーの一部)で生まれました。父親には、ヘレナ・ジャウォルニカとの最初の結婚から娘のアニエラがいました。[4]彼の母親は、ヤギェウォ大学のギリシャのカトリックレムコ化学教授の娘であるMariaKrystynaCzyrniańskaでした。彼の父、ヨゼフ・スタニスワフ・レティンガーは、個人的な法律顧問であり、フランス生まれのヴワディスワフ・ザモイスキ伯爵の顧問として成功しました。レティンガーの曽祖父であるフィリップ・レッティンガーは、1827年に家族とともにカトリックに改宗したタルヌフ出身のユダヤ人の仕立て屋でした。

[5]弁護士の孫が亡くなったとき、ザモイスキー伯爵は有望な若者のヨゼフを家に連れて行き、クラクフのバルトウォミエ・ノウォドヴォルスキ高校に通うために彼にお金を払った。レティンガーの兄であるエミルはポーランド海軍の指揮官になり、息子のウィトルドレティンガー[pl]は第二次世界大戦中(1943〜45年)にイギリスに駐屯し、当時の第308戦隊のリーダーでした。ポーランド空軍。[6]レティンガーの兄弟であるジュリアスは、シカゴ大学とウィルノ大学で生理学的化学を教えていました。[7]レティンガー自身は当初、神権でのキャリアを考えていましたが、ローマのイエズス会修練院での3か月間、彼は人生に適していないことを確認しました。[1]

1906年にザモイスキ伯爵からさらに資金提供を受けたレティンガーは、パリ政治学院とソルボンヌ大学に同時に入学し、2年後、20歳で博士号を取得した史上最年少の人物になりました。そこからの文献で。[1]フランスの首都にいる間、ザモイスキと彼自身の親戚であるサロンニエールとピアニストのミシア・セールからの紹介で武装し、彼は知的なサークルに移動し、アンドレ・ジッド、フランソワ・モーリアック、ベルナール・グラッセ[fr]、ジャン・ジロドゥ、エリック・サティとモーリス・ラヴェル。彼の初期の文学的な野心は、彼が彼の最初の小説「Les Souffleurs」をアンドレ・ジッドに彼の意見のために提示したとき、彼らのトラックで止められました。ギデは彼に言った:ジョセフ、あなたは決して作家になることはない。[2]:11–13

彼は次にミュンヘンに1年間比較心理学を勉強するために行きました。そこから、ザモイスキーに勇気づけられて、1910年に彼はイギリスに移り、そこで1年間の研究のためにロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに入学し、ポーランドの大義とその人口が3つの病んでいる帝国に散らばってロビー活動を始めました。正式には、彼はポーランド国内委員会のロンドン事務所の所長になりました(1912–1914)。[8] [9]この間、彼はエリート界を移動し続け、パリで出会ったアーノルド・ベネットの紹介のおかげで、レティンガーは彼の古いポーランドの同胞であり、すでに定評のある小説家であるジョセフ・コンラッドと親密な友情を築きました。

レティンガーはコンラッドにポーランドを訪問するよう促し、1914年7月28日、第一次世界大戦が勃発した日、レティンガーとその妻オトリア、コンラッドとその2人の息子が、2人の男性の子供時代の捺印場であるクラクフに到着しました。同じ中学校の卒業生)。ロシアとの国境が近いため(ロシアはイギリスと同盟を結んでいた)、コンラッドはすぐにザコパネのタトラ山脈のリゾート地でより安全を求めた[10]。レティンガーは1943年の著書「コンラッドと彼の同時代人」にコンラッドについて書いていました。歴史家のノーマン・デイビスは、イギリスの諜報機関に「ポリグロットと博学者」のレティンガーを紹介したのはおそらくコンラッドだったと示唆している。その後、レティンガーは、戦時中のSOEの長であるコリン・ガビンズ少将の個人的な友人となり、戦後はMI6の「資産」となった。[12] [13]

戦争の雲が近づき、コンラッドと一緒に劇を書くというプロジェクトは、コンラッドの小説に基づいており、両方の男性が急いでオーストリア゠ハンガリーを離れたため、ノストロモは放棄されなければなりませんでした。レティンガーはガリシアでの軍の召集の資格があっただろうが、これについての彼の伝記作家による言及はない。代わりに、彼は文学的な努力を脇に置き、もう一度ポーランドの政治ロビイストの役割を引き受け、パンフレットを発行し、ロンドンのコンラッドの助けを借りてロンドン、パリ、ニューヨークの間を旅行しました。[4]:10戦争の最初の数年間、これは主要国の議題ではありませんでした。代わりに、レティンガーは、ユダヤ人のディアスポラの国際的な認知と権利を求めていた、当時の主要なシオニストとの会合につながった他の潜在的な同盟と政治的影響力を探しました。

In 1916 guided by Zamoyski and with the approval of H. H. Asquith, David Lloyd George and Georges Clemenceau with his old Parisian connections, Sixtus and Xavier de Bourbon Parme, the Duchess of Montebello and Marquis Boni de Castellane, as well as Zamoyski's friend the Polish General of the Jesuits, Włodzimierz Ledóchowski, Retinger became a "courier" in the secretive European dynastic negotiation suing for peace with Austria.[14] 

 それはシクストゥス事件として知られるようになったが、ドイツが協力を拒否したために失敗し、オーストリアはそれに依存するようになった。[15] [16]

1917年に彼はアーサー「ボーイ」カペル、ハーフフランスのディレタント、ポロプレーヤー、そしてココシャネルの「スポンサー」に会いました。カペルは、英仏同盟に基づく世界連邦政府の考えをレティンガーの心に植え付けたと言われている。[17]オーストリア゠ハンガリー帝国とソビエト連邦での「政治的干渉」による彼の個人的な安全への懸念の後、1918年にレティンガーはフランスから追放され、スペインに数ヶ月間聖域を求めた。[4]:12

(中略)

第二次世界大戦中、ロンドンにいたレティンガーは、ポーランド軍がフランスからイギリスに移送されるよう手配することに関与しました。彼はウィンストン・チャーチルから個人的に、ヴワディスワフ・シコルスキーを飛行機でフランスからイギリスに護衛するように命じられました。フランスは、侵入したドイツ人に捕らえられたばかりでした。 -ロンドンに設立されました。[19]:95 [21]実際、彼らの政治的関係は1916年にさかのぼり、ヴワディスワフシコルスキーが首相を務めた初期の短い任期中に強化され、1922年から23年にかけて新たに独立したポーランドで結実しました。両方の男性は後にロンドンに亡命しました。[22]

シコルスキーのレティンガーへの依存度は、英語をマスターしていなかったため、より大きかった。この時、レティンガーは、戦後の地政学的景観に備えて、マルセル・アンリ・ジャスパー、ポール・ファン・ゼーランド、ポール・アンリ・スパークを含むロンドンの他の亡命政府代表と話をするために派遣された。彼はさらに2つの段階からなる「シコルスキー計画」を提唱し、その最初の段階は1942年1月に署名され、ポーランドとチェコの連合を提案した。アイデアは、それをポーランドとリトアニア、チェコスロバキアを核とする中央ヨーロッパ連合に拡大し、その周りにルーマニア、ハンガリー、ユーゴスラビア、ギリシャをグループ化することでした。[25]この背後にある議題は、より大きなヨーロッパの勢力に隣接するより小さな国のための共通の政治的青写真を作成することであり、ポーランドとチェコの取り決めを反映するベルギーとオランダの連合の基礎となった。

このレティンガーの計画は、ロンドンとモスクワの間で問題を引き起こしました。ソビエトのつま先を踏まないために、イギリスは彼らの立場を変えて、8つのより小さなヨーロッパの州とのシコルスキーの交渉を支持することを拒否しました。欧州評議会での彼の演説で、1943年3月21日に放送されたウィンストンチャーチルBBCラジオは、グループを形成する小国の必要性に言及しましたが、詳細に入るには時期尚早でした。レティンガーが達成できた最も多くのことは、1941年7月30日に署名されたシコルスキ-マイスキー協定を推進することでした。ソビエトからの捕虜と被追放者は、旧第二ポーランド共和国のクレスィ地域を占領しました。彼らは、数千マイルにわたる困難なオデッセイの後、最終的には英国の人間の問題になりました。[27] [28]このトレードオフは、テヘランとヤルタ会談を誇示した。[29]

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タデウシュ・ロメルの心のうちは

2022年04月11日 | タデウシュ・ロメル、ポーランド


①英国人ペンフレンドPさんが根付職人になったのは、戦前に駐日ポーランド大使をしていた父親の根付コレクションを見せてもらったのがきっかけ。

②Sさんは、戦前日本にいて、戦争中はフランスで救急車の運転(ユダヤ人を運ぶ)のボランティアをしていた。

③Sさんが本当に駐日ポーランド大使の娘であるかどうかは置いておいて、その時の駐日ポーランド大使は、タデウシュ・ロメルであり、杉原千畝とともにユダヤ人にビザの手配をした人。(タデウシュ・ロメルのほうは、非ユダヤのポーランド人の出国も手助け)

④タデウシュ・ロメル氏の親族も含む周りには、諜報活動をするポーランド人が多く、従弟のアンジェイ・ロメルなどは、ビルダーバーグ会議設立を持ち掛けたジョセフ(ヨゼフ)・レティンガーの秘書をしていて、戦後もベルギーに滞在していた模様。

⑤タデウシュ・ロメルは1919年からロシア、イギリス、フランス、イタリア、ポーランド、日本、中国とかかわるが、戦後は外交の場を離れる。ジョセフ(ヨゼフ)・レティンガーと対照的。

①と②は、海外の友人たちとの連絡用のメモですが、③~⑤を読んで、この動画を再びどうぞ。

Dyplomaci II RP: Tadeusz Romer - YouTube

彼の娘さんのテレサさんが終わりのほうで父(タデウシュ)が話していたことも伝えてくれています。

戦争は結局、政治家や大富豪のゲームであり、国同士の駆け引きがあることに、タウデシュはうんざりしていたのだと、私は思います。

彼はうんざりすると同時に、たくさんの秘密を吐き出すこと亡くなるしかなかったのです。

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第二次世界大戦のポーランドと日本の関係

2022年04月11日 | タデウシュ・ロメル、ポーランド

タデウシュ・ロメルの娘の一人と英国人元ペンフレンド - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

Pさんが会った駐日ポーランド大使の娘とアンジェイ・ロメル - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

の続きで。

 

第二次世界大戦のキーパーソンが多いのは、実は被害が大きかったポーランド。そのポーランドは(第二次世界大戦では敵国のはずの)日本と手を結んでいました。

タウデシュ・ロメルも出てくる、英語版Wikipediaの抜粋Google翻訳。

Japan–Poland relations - Wikipedia

1904年、著名な日本人作家、新渡戸稲造が著書 『武士道:日本の魂』をポーランド国民に捧げ、「武士道」国家であることを示しました。 文化間の地理的および文化的な距離にもかかわらず、この本は、日本人がポーランド人の英雄と名誉を賞賛したときに書かれました。 この本は他の言語に翻訳され、他の国で出版されています。 すぐに、1904年にはポーランド語版がリヴィウで出版され、新戸部はポーランド語の読者に宛てた特別な序文を書きました。

彼はポーランド人と日本人の類似点を強調しました-彼は両方の国が何よりも名誉と理想への愛着を愛していると書きました、そしてヴィスワ川の読者は武士道が何であるかを簡単に理解するでしょう。 ポーランド語版は、その居住者の検閲によっていくつかの場所で「修正」されましたが、この本は依然としてポーランド人の間で大きな人気を博していました。

ポーランドと日本との接触の中で最も重要な瞬間は、1904年7月にポーランドを訪問した際に行われた、ユゼフ・ピウスツキとタイトゥス・フィリポヴィッチと日本の代表者との会談でした。訪問は日本によって資金提供されました。ピウスツキとフィリポヴィッチは日本側に協定草案を提示した。

(中略)

日本とポーランドは、1918年11月にポーランドが独立を取り戻した数か月後の1919年3月22日に外交関係を樹立しました。[1]両国はソビエト連邦に対して沈黙の同盟を結成し、彼らが得た情報を共有することに合意した。戦間期には、日本の暗号学者がポーランドを訪れ、ポーランドの専門家がロシア語のフレーズの方法を書きました。小野寺は、1939年までロシアを狙った日本の諜報活動の中心はワルシャワにあったと主張した。

日本人は、解読の訓練のために新しいポーランドのシークレットサービスに大きく依存し、第二次世界大戦を開始したドイツのポーランド侵攻後も緊密な軍事協力を続けました。日本はこの理由でポーランドとの戦争を拒否した。日本人はポーランドの広大なスパイのネットワークに依存し、ポーランド人が満洲国の保護領の大使館の中に彼らのエージェントを公然と配置することを許可しました。

彼らの軍事協力は非常に緊密だったので、日本の大使はロンドンに本拠を置くポーランド航空飛行隊のために作られたポーランドの旗の密輸に関与した人々の一人でした。戦前、日本はポーランドが枢軸国に加わることを望んでいました。モロトフ・リッベントロップ協定に署名し、その後ポーランドを攻撃したとき、日本は、これからはアドルフ・ヒトラーを信頼せず、戦争でナチス・ドイツを助けないように、彼を自分の目的にのみ使用すると宣言しました。戦争の終わりにソビエトと。ナチスはポーランドと日本の間の緊密な協力を知っており、ヒトラーはナチスがソ連と戦ったときに最終的に日本からの支援を受けていませんでした。 1943年3月5日のプライベートブリーフィングで、ヒトラーは次のように述べました。

(中略)

第二次世界大戦中、ナチス・ドイツと同盟を結んだにもかかわらず、日本帝国はイタリアとともにナチスのポーランド侵攻を外交的に支持せず、日本人はポーランド亡命政府を積極的に支持しました。この決定は、ソビエト連邦と秘密協定を結んだナチス同盟国に対する日本の不信によって決定された。したがって、日本政府は、ポーランドによる正式な宣戦布告後も、ポーランドのスパイに依存し続けることを決定しました。ポーランドからの宣戦布告は、亡命中のポーランド政府が英国と米国の同盟に準拠して宣戦布告を行うことを余儀なくされたというふりをして、日本の東条秀樹首相によって拒否され、宣戦布告は法的に無効になりました。

これにより、ソビエト連邦と第三帝国の両方に関する情報を収集する際に、2つの諜報機関間の協力が確保されました。第二次世界大戦中のヨーロッパの日本のエージェントは、日本の利益が及ぶ限り、ソビエト連邦と第三帝国軍に対する自由のためのポーランドの闘争を支援し続けました。 1939年と1940年の変わり目に、日本人はポーランドの金準備の一部を密かに避難させるのを手伝いました。その一部はリトアニアの併合されたウィルノで中立のスウェーデンに保持されていました。[3]カウナスの日本副領事である杉原千畝は、この作戦において重要な役割を果たし、ポーランドの諜報機関とも緊密に協力した[3]。

日本のエージェントはまた、最初は東京の帝国政府からの適切な許可なしに行われたが、ドイツ軍とソビエト軍の両方から占領を逃れたポーランド系ユダヤ人難民を保護した。したがって、杉原千畝は、難民が米国への通過国としてのみ日本を旅行し、恒久的に滞在することはないことを当局に証明しなければならず、最終的には日本政府から完全な法的承認と支援を得ることになりました。日本のポーランド大使であるタデウシュ・ロメルは、ポーランド系ユダヤ人難民が日本に到着した後、彼らを助けました。[4]秘密の同盟を通じて、ポーランドのエージェントは西側の同盟国に関する情報を決して開示せず、第三帝国とソビエト連邦にのみ関係する情報を共有しました。[5]

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Pさんが会った駐日ポーランド大使の娘とアンジェイ・ロメル

2022年04月11日 | タデウシュ・ロメル、ポーランド

Pさんが知り合ったのは、Pさんがパイプ職人を目指しているときで、たしかSさんはタバコやパイプを扱う店のオーナーだったと思います。

なので、アンジェイ・ロメルがSさんと近かった可能性があります。

タデウシュ・ロメルとヨゼフ・レティンガーはシコルフスキー将軍と一緒にロンドンで会っているはずです。

 

Romer's Parlour | The Polish Museum in Rapperswil (polenmuseum.ch)

Google翻訳(名前のロマ―、レーマーはロメル):

Romerのコレクション
図書館内のローマの家族の本に捧げられた部屋には、ゾフィア・デンボウスカ–レーマーの絵画だけでなく、記念品や家族のアルバムも展示されています。

ゾフィア・レーマー
ゾフィア・レーマー(1885年2月16日にドルパットで生まれ、1972年8月23日にモントリオールで亡くなりました)–ポーランド出身の画家でした。 Eugeniusz Romer(1871 – 1943)と結婚し、リトアニアのCytowianyにあるヘルスリゾートのオーナーでした。彼女の絵画は、リトアニアの美術館とワルシャワの国立博物館で見つけることができます。カナダで作成された彼女の作品は、多くの個人コレクターに属しています。 1993年に彼女の絵画を展示するアートギャラリーがワルシャワで発表されました。

Andrzej Romer
エウゲニウシュ・ロマーとゾフィア・デンボウスカの末息子であるアンドレイ・ロマーは、1921年にサイトウィアニーで生まれました。地下レジスタンス運動に関連して、彼は諜報部隊で働いていました。 1946年から48年にかけて、彼はロンドンのヨゼフ・レッティンガーの個人秘書でした。 1948年にAndrzejRomerはアメリカに移住しました。アナーバーで彼はマスタータイトルを取得し、次の14年間、偉大なコンストラクターであり発明家であるタデウシュゼンジミールと協力しました。

その後、彼のキャリアは彼に日本とフランスで働くように指示しました。しかし、1968年に彼は大学に戻り、国際関係経済学部のすべての博士号試験に合格しました。彼はすぐにTextronの懸念の代表となり、ベルギーに移りました。彼はポルトガル、ドイツ、ハンガリー、ポーランドで大きな契約を交渉しました。 Andrzej Romerは、ブリュッセルに長年住んでいます。彼は、ポーランドとリトアニアの関係に関するフランスの「文化」と「歴史ジャーナル」に多数の記事を発表しました。彼はまた、ポーランドと日本の関係についての談話の著者の一人であり、リトアニア語を流暢に話す最後のローマ人です。博物館への彼の寄付は、パテックの時計と嗅ぎタバコのコレクションでした。図書館には、数多くの本や家族の文書が贈られました。

 

レティンガー、ポーランド、EU:

ビルダーバーク会議のジョセフ・レティンガーの指導者ヴワディスワフ・ザモイスキ伯爵 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ジョセフ・レティンガー~チャーチル~シコルスキー将軍~ポール・アンリ・スパーク - Various

 

追記:

タウデシュ・ロメルの父親

Bronisław Antoni Römer h. wł. (1856 - 1899) - Genealogy (geni.com)

タデウシュ・ロメルの父親の兄

Isador von Römer (1843 - 1910) - Genealogy (geni.com)

その息子が

Eugeniusz Römer h. wł. (1871 - 1943) - Genealogy

(↑Eugeniusz Romer - Wikipediaでは1954年没ちなっています。)

つまり、アンジェイ・ロメルはタデウシュ・ロメルの従兄の子でした。

Andrzej Tadeusz Romer (1921 - 2018) - Genealogy (geni.com)

 

2022年11月20日追記:

ポーランド亡命政府とタデウシュ・ロメルとアンジェイ・ロメル - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

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