Various Topics 2

海外、日本、10代から90代までの友人・知人との会話から見えてきたもの
※旧Various Topics(OCN)

ドイツに留学中のマリさんと『引き出し』

2013年02月25日 | 友人・知人

1月の半ばかららベルリンに留学したマリさん(20代半ば)にドイツの50代のカイさんと60代のブルクハルトさんを紹介していますが、このうちカイさん(ベルリン在住)からのメールに彼女のことが書かれていました。

「一番重要なニュース:ぼくは先週の土曜日、マリさんを自宅に招いて、ランチやお茶とクッキーでもてなし、ぬかるんだ公園を歩き、そしてたくさんドイツ語の会話をしたんだ。

彼女は本当にチャーミングで楽しい女性だね。僕達夫婦は彼女よりずっと年上だけど、本当にまた会いたいし、彼女の学業が充実するように祈っている。

僕たちは、本の話もたくさんして、(彼女の話に影響されて)三島由紀夫の『宴のあと』を買おうと思っている。」

マリさんは、本当に高校生のようにかわいらしくのんびりした女性。

彼女と初めて対面したときは、「この女性がドイツに1年留学するなんて心配」と思ったものですが、彼女と話し始めてすぐに、外見とは裏腹に、肝が据わったというか、何か安定感があるのを感じました。

『異文化交流』『異世代交流』をうまく活かせるのは、社交性や語学力は助けになりますが、やはりきちんとしたものが『引き出し』に詰まっていないと継続は難しい、または上辺だけの付き合いになってしまうのではないかと思います。

『引き出し』は言ってみれば『話題のもと(それは『知識』に限らず、『単なる興味』でも『疑問』でも良いと思います。)』。

マリさんはきっと既に詰まっている自分の『引き出し』を補充し、そしてまた、彼女の周りのドイツ人の『引き出し』の補充の手助けもしながら、充実したドイツ留学を過ごしていくことでしょう。

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スペイン政府、自国のブランド後押し

2013年02月24日 | 海外ニュース・できごと

スペインのベゴーニャさんは歯科医ですが、ファッションプロジェクトを手がけ、そのほか美術館の評議委員を務めるなど、芸術関係で忙しくしています。

飾らず、気さく、そして体系も小柄で華奢なので、知り合ったときはこれほど活動的な人とは思いませんでした。

その彼女から届いた昨日のメールでは、彼女がお気に入りだというデザイナーブランドの紹介リンクがたくさん。

TCN, David Delfín,Ailanto, Josep Font 等々のもの。

・・・バブル時代にOLだった私としては、若干ブランドに興味があったとしても、ファッションには疎い私、送られたリンクを見はしましたが、正直それをどうこう批評はできません。

しかし、スペインのブランドは、たとえば高級品のロエベから、カジュアルブランドのZARAなど、案外日本でもポピュラーで、日本には受け入れやすそうな気がします。

そういえばちょうど、2013年、2014年は、『日本・スペイン交流400周年』で、両国のブランドのコラボなどの後押しをしたりしているようです。

(もちろん、スペイン政府がブランドの海外進出に力を入れているのは世界的規模。)

スペインほどではないと言っても経済状況はぼろぼろの日本、フランス、イタリア、スペインなどのブランドが強いように、まだまだ日本のブランドも海外では力があるはずなので、この辺はコラボで独自でも日本政府も売り込みにもっともっと協力していってほしいですね。

参考:

Euronews (2013.1.28)

Loeve join forces with Junya Watanabe for Spanish ?Japanese capsule collections

http://www.euronews.com/in-vogue/1797820-loewe-join-forces-with-junya-watanabe-for-spanish-japanese-capsule-collections/

Agence France Presse (2013.2.23)

Spanish fashion looks abroad, away from crisis

http://www.globalpost.com/dispatch/news/afp/130223/spanish-fashion-looks-abroad-away-crisis

ついでに:

『スローファッションと21世紀のアーツアンドクラフツ』

http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/d/20120426

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きょうこさんの国際交流が日本の国のプラスにもなる理由

2013年02月23日 | 友人・知人

先日、私の元同僚男性2名と、きょうこさん、従姉の息子、そして私の息子とベルギービールを堪能してきました。

きょうこさん-もうブログに何度も登場してもらっている彼女は、看護師の仕事をしながら、国際交流に励んでいる20代の女性です。

彼女と私が知り合ったのは、私がイタリア人の友人ルイジさんをペンフレンドとして紹介したことから。

そのルイジさんとのメール交換が楽しかったからでしょうか・・・彼女の英語や国際交流への関心はぐっと高まり、文通相手も増やし、海外に住む日本に興味がある外国人とはメールやスカイプでお話。国内の留学生(国立大)とは実際に会うよき友人になり、彼の友人達(同じく留学生)とも交流。ときに彼らの相談相手にもなったりしているようです。

(私の息子はそんな彼女に留学生との交流の場に連れて行ってもらったりして、(相変わらず自主性にはかけるものの、)彼らとの交流を楽しむようになってきています。

今回の会に誘った従姉の息子は社会人4年目で、仕事に忙殺されながらも、やはり英語や国際交流に大変興味がある子(?)。ということで、きょうこさんの国際交流仲間になりそう。)

さて、このきょうこさん、彼女はあまり意識していないでしょうが、彼女のこうした活動はもしかしたら将来日本に影響を与えることさえあるかもしれません。

どんなに優秀な人達であっても、遠い国からの留学生達は不安や寂しさを感じることもあるはず。そんな時、彼らの言葉に真摯に耳を傾けてくれるこの日本の友人を、彼らは本当にありがたく思ってくれているのではないでしょうか。

(留学生(特にアフリカやアジアの人たち)のなかには、国に帰って将来日本との関係に一役買ってくれそうになる人もでてくるでしょう。)

さて、留学生の話がでたので、ついでに以下のコラムを。

ニューズウィーク (2013222日)

アルジェリア人質事件「真に安全を確保するために」

by 酒井啓子氏

http://www.newsweekjapan.jp/column/sakai/2013/02/post-638.php

2月21日、経済同友会が外務省に提言を提出した。テーマは、アフリカ。これまでNGOやボランティアの活動の場というイメージからすれば、アフリカが財界の提言対象になるのには、意外な感があるだろう。だが、アフリカ諸国の資源、成長する経済がますます重視される一方で、近年中国がアフリカに急速な勢いで進出。提言で指摘しているように、アフリカは「援助先ではなく投資対象」として、日本企業の関心が高まっているわけだ。

 この提言が目を引いたのは、まず先般のアルジェリアでの人質事件を踏まえているということ、そして海外で活動する日本人の安全確保に「人材育成が必要」としていることだ。人材育成のために留学生や研修生をどんどん受け入れたり、日本から専門家を派遣すべき、と述べている。アルジェリア事件を受けて「危険=テロ=自衛隊に任せろ」的議論が蔓延しがちななか、思わず「正論」に拍手した。海外での安全確保は、軍事力よりもまず、相手を知り、自分を知らせることだからである。

 海外進出する日本人が、現地で危険情報を察知し安全を確保するには、まず何が必要か。それは秘密に塗りたくられたスパイ行動でも、武器を頼りの軍事情報ではない。現地社会の発信する日常的な公開情報である。現地の新聞、ニュース、週刊誌や芸能番組まで、今そこで何が起きているかを理解する術は、スパイや軍人じゃなくても普通に入手できる。インターネットを見れば、現地の人々がどのような議論をし、何を不満に思っているか、さまざまに発信されている。

 欧米諸国の情報処理能力がすごいのは、優秀なスパイと優秀な軍人がいるからではない(逆にトホホな人々は、相当多い)。こうした大量の公開情報を収集し、自国語つまり英語に翻訳しているからだ。BBCは、普通にニュースを伝える一方で、こうした現地報道、新聞の翻訳を、世界中にデータベースとして提供している。苦労して大金払って秘密情報を得たところ、BBCの翻訳情報だったりすることは、よくある。

 日本の弱さは、現地で外交官や武官がちゃんと情報を得ていないことではない。東京で、誰でも手に入る現地情報を地道に収集して翻訳し、分析するシステムができていないことだ。

 同友会の言う「人材育成」も、然りである。欧米の強みは、欧米で高等教育を受け、学位を取り、その学歴に誇りを持つエリートが途上国のいたるところに居ることだ。筆者の学生時代、エジプトから博士号を取得するために日本に8年も留学していた友人がいたが、その後カイロ大学の教授職についたものの、エジプトのエリートはアメリカかイギリス、そうでなければフランスの大学出身の学閥で占められていて、出世できないと嘆いていたことがある。理系学生の受け入れは技術者養成には必要だが、文系エリートの育成に日本が関わらなければ、国のエリート層に食い込み、政策決定レベルで知日家を作ることはできない。

 だが、現在の留学生受け入れや学術交流は、お寒い限りである。自前で留学生に奨学金を出す大学は限られているし、民間財団の奨学金も先進国対象が多い。アフリカや中東からの留学生の大半は、文科省の国費奨学金を受けるしかないが、「日本のことを勉強したい」という理由を掲げないと通りにくいと思われている。日本の大学が優れているからテーマに関わりなく日本で勉強したい、という学生が、育ちにくい環境にある。夢溢れて留学しながら、日本に絶望して帰国するという、留学生政策が逆効果になっていることも多い。

 近年は「日本人を国際化するために、大学生に英語で授業をせよ」、といった要請ばかり強まっているが、日本語はできないけど日本の大学で学びたい、といった途上国の学生を教育する準備は、ほとんどできていない。

「中東やアフリカに派遣させるために何も知らない自衛隊を教育しなくっちゃ」ではなく、「日本のことだけではなく全般にわたって中東やアフリカの人々の人材育成をしなくっちゃ」という発想こそが、海外で働く日本人の安全を守る。

コラムには、留学生のことだけでなく、

『情報収集』に重点を置いて書かれているコラムですが、酒井氏は以前から『人材育成の副産物(人脈、相互理解)』の貴重さを実感しているだけあって、実情への批判もしています。

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ミッテラン元大統領-極右から左派、植民地主義者

2013年02月21日 | 人物

フランスの大統領のフランソワ・オランドは、ミッテラン政権での参事官でした。

ミッテラン元大統領(1997年―2008年フランス社会党第一書記)は、彼の奥様のダニエル夫人が人道活動家として活躍しているということもあって、マイナスイメージはあまり強く持っていなかったのですが、ウィキペディア(もちろん万全ではありません。)で改めて彼のことを知り新しい発見続々。

フランソワ・ミッテラン(ウィキペディア)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%AF%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%86%E3%83%A9%E3%83%B3

(抜粋始まり)

生い立ち 

1916年、シャラント県ジャルナックに生まれる。王党派であったミッテランは1934年から極右運動に参加、当時外国人排斥や王制復古を謳っていた右派の政治組織アクション・フランセーズに所属した。

ヴィシー政権

19399月、フランスの第二次世界大戦参戦をうけて、軍隊に召集される。その後負傷しドイツ軍の捕虜となるものの、194112月に逃走に成功しフランスに帰還。1942年からのフィリップ・ペタンが首班を務める親独政府であるヴィシー政権下で働き、1943816日には、戦前の国家主義活動、ヴィシー政権への積極的な傾倒ぶりが認められ、勲章を授与される。

ド・ゴール政権

しかし同年12月には対独レジスタンス運動に参加し、地下運動を始め、ロンドンに逃亡。1944年にはド・ゴールの臨時政府に参加した。19441028日にダニエルと結婚した。

1946年、ニエーヴル県選出の国民議会議員となり、植民地相、国務相、法相などを歴任し、第四共和政期の10年あまりをほぼ閣僚として過ごす。

この間、フランスが植民地の独立運動に直面していた1953年には、「ビゼルトからカサブランカまで、北アフリカにおけるフランスの影響力の維持は私にとってあらゆる政治問題の中でも一番の課題である」と表明し、翌1954年にアルジェリア戦争が勃発した際には、国民議会において「アルジェリアの反徒は戦争という最終形態しか見出せないのだ」と発言、反徒を射殺することを命じ、独立運動の鎮圧を図った。

ジャック・マシュ将軍がアルジェの戦いにおいてアルジェリア民族解放戦線 (FLN) メンバーの尋問の際に拷問を組織的に行ったのは、とりわけミッテランの命令をうけたものだとされている。

1959年、シャトー=シノン市長に就任(1981年まで)。

大統領選挙

1965年には、左派統一候補として大統領選挙に挑み、ド・ゴールと対決、結果的には敗れたが、決選投票において10619735 (44.80%) を獲得した。1971年社会党第一書記に選出される。

その後、ド・ゴールの後を継いだジョルジュ・ポンピドゥ大統領の任期半ばの急死をうけて行われた1974年の大統領選挙でも再び決選投票に持ち込み、12971604 (49.19%) を得たものの、13396203(50,81%)を得たヴァレリー・ジスカール・デスタンに僅差で惜敗する。

大統領就任 

ジスカールデスタンと再び争った次の1981年の大統領選挙では15708262 (51.76%) を得て勝利、第五共和政第4代大統領に就任。ピエール・モーロワ内閣を成立させ、有給休暇の拡大、法定労働時間の削減、ラジオおよびテレビの自由化、大学入試の廃止、死刑制度の公式廃止を行うとともに私企業の国有化や社会保障費の拡大をはじめとする社会主義的政策を取った。

しかし、翌1982年には、インフレの進行、失業者の増加に直面したため、賃金を凍結し、公共支出を削減するなど緊縮財政を取り、さらに首相もローラン・ファビウスに替え、自由主義的政策に転回することになる。西側の国家元首としては唯一金日成と会談している。

(中略)

大統領在任中の19932月には、1887年から1954年まで植民地支配したベトナムと和解した。

なお、1993年から1994年にかけてピエール・ベレゴヴォワ元首相や長年金庫番を務めていたプログスなど複数の側近が「自殺」したことから、不祥事のもみ消しを意図したミッテランの指示による殺人ではないか、という疑いがマスメディアにおいて高まった。

(抜粋終わり)

もともと極右。第二次世界対戦でドイツ軍捕虜になっていながら、なぜか親独のヴィシー政権下で働く。レジスタンス活動。植民地主義で敵に非情・・・・。

(フランスは、南太平洋で核実験を行っていますが、1960年と1961年、アルジェリアでも行っています。)

政治家とは、トップになるほどにクリーンではいられないものだと思いますが、穏健に思えるオランドがマリ侵攻に踏み切ったのは、あまり意外ではなかったのかな、とも思えてきました。

現在、マリがアフガニスタン化するのではないか、と危惧する声もでてきましたが、マリに限らず、西アフリカはどうなっていくことやら。

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ベネディクト16世退位とマラキの予言

2013年02月18日 | 異文化

先週は、カトリック教徒であるイタリアのリアーナさんとスペインのベゴーニャさんから、「ローマ教皇退位」についてのメールをもらいました。

リアーナさんは教皇の年齢と体力を考えると仕方がないと思うものの、イタリアが不況の真っ只中のところの彼の異例の退位は、イタリアの不況に振り回される人達、状況を変えることがないだろうイタリアの選挙のことと重なって、悲観的。

一方ベゴーニャさんは、

For me and most of the catholic people this week has been a strange week because of the resignation of Pope Benedict XVI. The case is that many prophets along the History have announced that the next Pope will be the last one ¡! before a huge change in our world (NOT the end of the world) so...

と、マラキの予言について言及。

ベネディクト16世は第111代のローマ教皇で、次の112代目についてこう言う予言があります。

「ローマ聖教会への極限の迫害の中で着座するだろうローマびとペドロ、彼は様々な苦難の中で羊たちを司牧するだろう。そして、7つの丘の町は崩壊し、恐るべき審判が人々に下る。終わり。」

これに対して、彼女の意見は、

Nobody knows if all this it's true or not, so for me it's only another motivation to try to be a better person and to pray in my usual life, like...Well! Let's go on! Let's work for a better world!

と、「この予言が本当になるかどうかは誰もわからないけど、これは良い人になって、日々の生活に祈るモチベーションになるわ。そして世の中を良くするために働きましょう!」とポジティブに捉えています。

マラキの予言はおいておいても、まあ、日本の多くの人では考えられないほど、ベネディクト16世の退位は彼らに大きな心理的影響をもたらしているのでしょう。

(ベゴーニャさんのように、ポジティブに考えられる人ばかりだったら良いのですが。)

さて、ついでに以下の記事(写真あり):

ギズモードジャパン(2013213日)

世界の新ミステリー? ローマ教皇600年ぶりの退位表明の夜、サン・ピエトロ大聖堂に落雷

http://www.excite.co.jp/News/net_clm/20130213/Gizmodo_201302_600_3.html

信者でなくても、神がかり的で、ちょっと不吉に思ってしまいます。(避雷針みたいな役割をしている屋根の突起-これまでも何度も落雷はあったと思いますが、今回はタイミングがなんとも・・・。)

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4倍に膨れる原発警備費は誰が負担?原発、マシンガン、そして・・・

2013年02月14日 | 原発・核・311

今朝の東京新聞『こちら特報部』に『警視庁の予算案 テロを口実 原発警備に4倍強』

という記事が。

抜粋すると、

「警視庁が新年度予算案に、全国の原発と原子力関連施設の警備体制強化費用として、本年度の4倍以上に当たる175千万円の関連経費を盛り込んだ。理由はイスラム過激派によるテロの脅威や、北朝鮮の挑発行為などがあること。」

「予算の具体的な使い道は、全国計22ヶ所の原発と関連施設に常駐している銃器対策部隊の増強。計約1700万人いる隊員を216人増やすほか、防弾車両やサブマシンガンを一とする銃器類、防弾チョッキの購入費に充てる。」

201110月のブログ、『原発テロを憂う? 実は武装化や武器輸出を目論んでいるのでは・・・』

http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/d/20111003

のなかで、当時、民主党政権の内閣官房参与だった前田匡史氏のインタビュー記事を紹介しました。

「福島第1原発事故は、テロリストが原発を標的にした場合に、堅牢(けんろう)な格納容器に収納されている原子炉自体ではなく、外部電源を襲撃し、その機能を喪失させることで、甚大な被害が発生しうることを明らかにした。かつて日本に不法入国して市民を拉致した北朝鮮が、工作員を潜入させて原発の外部電源設備の破壊工作をする可能性は、想定外とはいえまい。

 日本国内の原発施設の安全管理は、民間企業である各電力会社に委ねられている。電力会社が民間警備会社と共同出資して設立した関連子会社が、原発施設の警備にあたっているのが現実だ。拳銃やマシンガンなどの火器の携帯が許されない民間企業が、武装テロリストに対抗できるとは思えない。国が警察力、場合によっては自衛隊を動員して、対テロを想定した原発施設の安全管理に取り組むべきではないか。」

前田氏はこのとき、「日本国内の原発施設の安全管理は、民間企業である各電力会社に委ねられている。電力会社が民間警備会社と共同出資して設立した関連子会社が、原発施設の警備にあたっているのが現実だ。」と言っていましたが、今回の東京新聞の記事では、「全国計22ヶ所の原発と関連施設に常駐している銃器対策部隊の増強。計約1700万人いる隊員・・・」と書いてあります。

辻褄が合いません。警視庁からの隊員を常駐させるようになったのはいつから?

それにしても、前田氏も、警視庁(および政府)も「マシンガンで原発を守れる」という発想をしているのが同じ。

原発は、それ自体が核兵器であり、いざとなったらマシンガンなどは、「竹槍」くらいの能力しかないのではないでしょうか。(逆に、現場で使えない)

原発を離れて考えてみると、『テロ』を口実に『武装化の道』を歩んでいるような気がしてなりません。

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1914年のクリスマス~「撃て」と命じる者たちは 死にもしないし傷つきもしない

2013年02月13日 | 戦争・紛争

1914年のクリスマス、ドイツ、フランス、イギリスの兵士たちが戦うことをやめました。

このエピソードはいくつかあるようですが、その一つのエピソードをもとに作られたのが、『戦場のアリア』という映画。

http://www.kadokawa-pictures.jp/official/aria/

そしてまた、別のエピソードが『塹壕のクリスマス』という歌で歌われていますが、そのリンクを貼り付けけます。

Christmas In The Trenches

(Song by John McCutcheon) by John Huffman

http://www.youtube.com/watch?v=s9coPzDx6tA

歌詞の訳をブログ『地球上みんなの幸せをめざして』さんからコピペさせていただきました。

http://blogs.yahoo.co.jp/hiroasakawajp/173927.html )

『塹壕のクリスマス』

アラバマ州バーミンガムの舞台裏で、ある老婦人と交わした会話に触発されて作ったこの歌は、真実にもとづいているだけでなく、ヨーロッパでは広く知られた話です。

私の名はフランシス・トリヴァー、リバプールからやって来た

2年前学校を卒業したら戦争が待っていた

ベルギー、フランダース、ドイツへ 

そしてここへ

私は 王と私の愛する国のために闘った

塹壕のクリスマスは 霜に覆われひどい寒さ

凍りついたフランスの大地はとても静かで

誰もクリスマスの歌など歌っていなかった

イギリスにいる僕らの家族たちは その日僕らのために

祖国から遠く離れた、

勇敢で素晴らしい若者たちのために乾杯をしていただろう

糧食仲間と 冷たい岩の地面に横になっていたら

戦闘地帯の反対側からおかしな音が聞こえてきた

「ホラみんな、聞いてごらんよ!」と言ったら 

みんな聞き耳を立てた

ひとりの若いドイツ兵士が はっきりとした声で歌っていた

「とっても上手に歌ってるね!」と仲間が言った

すぐに ドイツ人の声がどんどん唱和し始めて

大砲の音も止み 煙も立ち消えた

クリスマスが 戦争からの休息をもたらしてくれたのだ

彼等が歌い終わると うやうやしい沈黙が流れ

ケント出身の若者たちが 讃美歌『世の人忘るな』を歌い始めた

その次は『スティル・ナクト』、つまり『きよしこの夜』だ

ふたつの言語で歌われるその歌で 空が満たされた

前線の歩哨が「誰かがこっちに来るぞ!」と叫んだ

みんなの目が 近づく人影に釘付けになった

彼が勇敢にも丸腰で 夜の闇に歩き出したとき

彼の掲げた休戦の旗が クリスマスの星のように平原に明るく

輝いた

じきに双方から一人、また一人と中間地帯へと歩み出し

銃も銃剣もなしで 我々は手を取り合った

隠していたブランデーを分け合い 共によかれと祈り

照明弾の明かりの中でやったサッカーでは 彼等を打ち負かし

てやった

家族から遠く離れたこの息子や父親たちは

チョコレートや煙草を交換し 家族の写真を見せ合った

若いサンダースがアコーディオンを弾き 彼等は

ヴァイオリンを持っていた

なんとふしぎで ありそうもないバンドだったことか

やがて夜が明け 再びフランスはフランスに

悲しい別れとともに 僕らはまた戦争へと戻り始めた

しかし その驚くべき一夜を過ごした者たちの心には疑問が

つきまとった

「照準を合わせていたのは 一体誰の家族だったのだろうか」と

塹壕のクリスマスは 霜に覆われひどい寒さ

でも 平和の歌が歌われた間 凍りついたフランスの大地は

暖かかった

戦争という名の元に我々を隔てていた壁は

永遠に崩れ去り なくなっていたのだ

私の名はフランシス・トリヴァー、リバプールに住んでいる

あの第一次大戦のクリスマス以来 ずっと学び続けてきた

「撃て」と命じる者たちは 死にもしないし傷つきもしない

ライフルの両サイドにいるのは 同じ人間なのだということを

c1984 John McCutcheon/Appalsongs (ASCAP)

(翻訳 千早/TUP

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中国大気汚染と猪瀬都知事の提案

2013年02月10日 | 社会(歴史・都市計画含む)

中国の大気汚染、「今急に始まったわけでもなかろうに」と思いますが、ウォールストリートジャーナルから。

ウォール・ストリート・ジャーナル(201329日)

日中の「上空」めぐる新たな火種:スモッグ

http://realtime.wsj.com/japan/2013/02/09/%e6%97%a5%e4%b8%ad%e3%81%ae%e3%80%8c%e4%b8%8a%e7%a9%ba%e3%80%8d%e3%82%81%e3%81%90%e3%82%8b%e6%96%b0%e3%81%9f%e3%81%aa%e7%81%ab%e7%a8%ae%ef%bc%9a%e3%82%b9%e3%83%a2%e3%83%83%e3%82%b0/

日中間ではここ数週間、尖閣諸島上空を両国の戦闘機が飛び交い、ごく最近では中国艦船が海上自衛隊の護衛艦にレーダーを照射したと日本側が主張。中国側はそれを否定するなど、緊張が高まっている。

そして今度新たに日中間の紛争の火種となっているのが大気汚染問題だ。日本政府とメディアは中国の深刻な大気汚染が東シナ海を渡って日本にも押し寄せていると考えている。

日本の環境省は8日、「PM2.5」と呼ばれる大気中の汚染物質の濃度が上昇していることに対し、緊急対策を発表した。日本のテレビ局は、先月中国で観測された濃度の上昇が原因と大々的に報道している。日本政府は、同粒子の濃度上昇の原因とそれが人体にもたらす影響について、観測およびテストの協力を中国政府に申し入れた。

日本の報道に対して中国からは一部強い反発もみられ、ある評論家は「日本は地震後、原発から石炭火力発電に切り替え、日本のゴミも焼却処理していることから、中国の環境への影響が非常に大きい。だから中国だけを非難できない。汚染は削減する必要があるが、気候変動や周辺国の状況も無視できない」としている。

また別の評論家は「日本で基準を上回るPM2.5の数値が出たことと中国北部の深刻な大気汚染との関係を中国は認めるべきだが、多くの日本企業が中国国内で生産活動をして発生した重度の汚染であることも忘れてはならない」と述べている。

日本政府は医師団を北京在住の日本人の健康診断を行うため医師団を派遣する予定だ。また、環境省は粒子の濃度が高い場合に国民に警報を出す指針の作成や、地方自治体との情報交換、健康への影響を分析するための専門家委員会設置などを検討している。

産経ニュースによれば、石原伸晃環境相は「健康被害が出る前に、しっかりとした対策を取っていく」と発言した。

PM2.5は微小粒子状物質とも呼ばれ、直径2.5マイクロメートル以下の大気中の粒子。大気中の粒子としては最小に近い。気管を通過しやすく肺の奥深くまで浸透するために人体への影響が大きいと考えられている。

米環境保護庁(EPA)はPM2.5による汚染の原因として「自動車や発電所、木材燃焼、工業プロセス、バスやトラックなどのディーゼル車」を挙げている。世界保健機関(WHO)はPM2.5のレベルが高いと健康に様々な影響があるとし、「主に気管と心臓血管系が影響を受ける」としている。この粒子の健康上の影響としてEPAが挙げているものには喘息、気管支炎、急性および慢性の呼吸器症状、早死にするリスクなどがある。

日本では大気1立方メートル当たり35マイクログラムをPM2.5 1日の基準値としている。環境庁の後藤隆久氏によれば、8日に発表された緊急対策は昨年、特に西日本で35マイクログラムを超える濃度のPM2.5が時々観測されたことに対応するもの。先週、福岡では最大47マイクログラムの濃度が観測された。

先月中国では大気中におけるPM2.5の濃度が高まり、スモッグが悪化して歩行者はマスクを着用し、政府は外出を控えるよう呼びかける事態が発生、マスコミから大きな注目を浴びた。PM2.5 の濃度は1月に最大で889マイクログラムを観測した。

この記事の題名で、「火種」となっていますが、実のところ、東京都知事の猪瀬氏などは北京に技術提携を申し出をしています。

東京新聞(201327日)

大気汚染対策 都が発信 ネット通じ中国へ施策

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2013020702000136.html

中国の大気汚染問題を受け、東京都がディーゼル車規制など環境施策の実績を海外に発信することに力を入れ始めた。交流サイト「フェイスブック」(FB)の英語版で紹介するほか、動画も近く配信。猪瀬直樹知事は北京市長に、環境問題の解決に向けた交流を文書で呼び掛けた。沖縄・尖閣諸島の領有権問題で険悪な日中関係だが、自治体レベルで友好促進となるか-。 (安藤恭子)

 「東京もかつて深刻な大気汚染に直面し、苦労してきた」。都環境局が一日、FBに掲載した英語の一文だ。

 担当者は「公害に悩んだ都が、国に先んじて環境改善に取り組んだ経緯を、中国などの行政関係者に発信したい」と狙いを話す。六十年にわたる環境施策を紹介する英語の動画配信も近く始める。

 FBには排ガスを噴き出したバスが走る一九六〇年の新宿駅前の写真などを紹介。黒煙対策として五〇年代に始めたばい煙規制や、火力発電所での低硫黄原油使用を定めた六八年の東京電力との協定などを挙げた。

 都は二〇〇三年から排ガス中の粒子状物質(PM)の排出基準を満たさない車の走行を禁じた。国も追随し、都内のPM排出量は一〇年度までの十年間で約三分の一に減った。

 猪瀬知事は一月二十八日、北京市の王安順市長の就任を祝う文書を送付し、地球の環境問題解決に向けた両都市の技術交流の広がりを喜ぶ趣旨を伝えた。その直後、自身の短文投稿サイト「ツイッター」で、大気汚染対策について、「技術ノウハウは都にあります」とのメッセージを込めたことを明かした。

 都は〇九年、環境分野の技術交流合意書を北京と交わしている。

 都環境局によると、中国で問題となっている微小粒子状物質「PM2・5」の都内の平均濃度は一月以降で一立方メートル当たり一四・〇マイクログラムと通常の範囲内。担当者は「今後も影響を注視する」と話す。

この騒ぎがおこったのは、私の勘違いでなければ、在中国の米国大使館の発表があってからだったと思います。その米国でも、約30年くらい前の私の英会話クラスのLA出身の教師が「ロサンジェルス上空にくると、大気汚染がよくわかる」と言っていたくらいのこともありました。(現在は?)

日本の大気汚染についても、工業都市や都会の汚染が深刻だった時代はそんなに前ではないし、日本の場合はそれこそ中国や韓国の上空にたどりついていたでしょう。

(中国は、核実験でその放射能汚染が日本に注ぎ込んでいたということもありますが、福島原発事故では、上空、海洋では日本は多大な迷惑をかけました。)

ともかく、火事が起こっているところで家事の出火の原因となった家族を非難して消火をしないということはないように、日本もですが、各国がこれに協力すべきときではないでしょうか。

(それが日中関係改善に働くことでもあり。もちろんそれは歓迎すべきことですが、政治的意図は今は前面に出さずに。)

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外国人が考える日本人、日本人だと実感させる異文化交流

2013年02月08日 | 異文化

右のブックマークに入っているブログ、Think every dayのブログは、ミュンヘン在住の私の新しい日本人ペンフレンドのものなのですが、2月7日の『私だったらこう言う』がなかなか興味ぶかかったので、リンクと抜粋を貼り付けさせてもらってしまいます。

http://flute925.exblog.jp/19753862/

先日タンデムのTさんと会った時、日本人がこういう場合どう答えるか、という話題になりました。

TさんがYoutubeで見たという場面。

5人が喫茶店で飲み物を注文した時、4人が私はコーヒー、と頼んだという。そして最後の日本人も、コーヒーで、と言ったとのこと。

その番組が言いたかったことは、最後に頼んだ日本人は本当はコーヒーが好きではないのに、他の4人がコーヒーだったから自分もコーヒーを頼んだという、つまり自分の意見をはっきり言わない、相手に合わせるのが日本人だ、ということのようです。ちなみにあとの4人は外国人だったらしい。

本当にそう答える(注文する)のか?と質問されたので、私の答えは、もしその5人が友達同士なら、日本人でもはっきりと自分の欲しいもの注文すると思う。どうでしょう。

こういう場面が取り上げられるということは、外国から見た日本人というのはやはりこういう印象ということなのでしょうか。

はっきり意見を言わない、と言ってしまうとマイナスイメージばかりになってしまいますが、そういうことも含めて日本の歴史、文化なのだと思いますし、マイナスだけではなくプラスもたくさんあるはずですが、どうしてもそういう点に目が向いてしまうようです。

(後略)

私も外国人に同じような質問を受けたら、おそらく彼女と同じように答えると思いますが、それでもTさんが思うように、よほどの紅茶党でもない限り、「紅茶の方がよいけど、同じにしておいた方がよいかな」と思う日本人はある一定量はいそうな気がします。

それは「仲間と同じものを注文したい」というよりも、「注文を受ける方がその方が楽だろう」という気遣いが働く場合や、「自分は紅茶」と言うのが面倒な場合(紅茶の場合、レモンティ、ミルクティ、ストレートのほか、茶葉の種類が豊富で1人だけ注文が長くなるも嫌)のほうがが多いのではないかと。

さて、外国人による日本人勘違いということで、私が体験した話を一つ。

私のドイツ人のペンフレンドの1人(男性、年上)が日本に来たときに、ものすごい量のプレゼントを持ってきてくれて驚きました。

「あなたはサンタクロースのようね」と言ってしまったくらい、私のみならず、私の家族や友人にもプレゼント。

ただし、食事をしたときには、昼も夜も「ご馳走様でした」と日本語で先に言って、支払いはこちら持ちが当然と思っているようでした。(高級店でなかったからだと思います。)

別の日にまた一緒にでかけると、また新たにプレゼントを日本で追加して買い込み、プレゼントをくれます。でもやはり、食事の支払いはこちら持ち。

おそらく、このドイツ人の友人はどこかで、「日本人は、お客(旅行者)に支払いをさせない」「お世話になった(なる)ときは、モノでお礼」という知識を得て、それを実践していたのだと思います。

日本人は、確かに遠方から来た人の食事代を持つことがほとんどでしょうが、それでも相手はご馳走になるのがわかっていても「自分の分くらい払わせて」と言ってみるのが普通ではないかと思います。

そしてプレゼントというか、手土産は、そんなに大袈裟にしない程度を持っていくだけです。

さて、今度は逆パターンで私が悩んだものを。

これは、私の外国人の年長の友人(海外在住)が、訪日したとき、彼の研究仲間や友人を招いて立食パーティを開いたときの話です。

このパーティは私も招待されたのですが、会場は自宅でないし会費もない。ご自宅だったら手土産を持っていけばよいのでしょうが、本人が帰国するときに邪魔になるし、また、他の出席者が何も持参しない場合はちょっと抜け駆けみたいで感じが悪い。別件で食事に誘うにも、日にちが足りない。

これを、外国に住んだことのある元上司2人に相談してみたところ、「そういう場合は、身一つで行くべき。後でお礼のカードを送るくらいでよい。」の返事。

それで、彼らのアドバイスに従ったんですが、それでも日本人の私としてはちょっとひっかかりがありました。

(そのあとも前も、彼が来日する場合に、昼食会にお招きさせてもらっていますが、それであっても)

このパーティの出席者は、外国暮らしや外国の友人がたくさんいる人であったり、本人が外国人だったので、私のように、「どうしよう」と悩んだ人はいなかったのだと思いますが、やはりこういうときに、「私はやはり日本的日本人だ」と改めて感じてしまいます。

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『経済学の限界を知る経済学者』と『経済学の神になったつもりの経済学者』

2013年02月06日 | 経済

JMMの1月29日の質問:

『安倍総理の金融政策ブレーンである、米エール大学名誉教授・浜田宏一氏による、外国特派員協会での記者会見の概要が以下にあります。

http://blogos.com/article/54334/

感想があれば、お聞かせください』http://ryumurakami.jmm.co.jp/dynamic/economy/question_answer757.html

この質問に対する北野一氏(J.P.モルガン証券チーフストラテジスト)の回答の抜粋を貼り付けます。

http://ryumurakami.jmm.co.jp/dynamic/economy/article757_3.html

真壁さんや中島さんが回答で触れておられた120日放映のNHK日曜討論をオンデマンドで見ました。この中で、浜田宏一氏は、「巷間、安倍晋三さんのアドバイザーと言われておりましたが、まず、その点はどうなんですか」という質問に対し、「今回は、私の書いていた本と、安倍先生の11月に発言されて、それが株価、円等に大きな影響を与えた。そういうお考えが、偶々、収束したということで、たいへん私は幸せに思っております」と答えておられました。

私は、このご発言を、一般の国民はどう聞くのかな、ということに興味があります。まず、政府の経済政策によって、「幸せ」を感じなければならないのは、何と言っても国民でしょう。確かに、株高、円安を受けマスメディアは大騒ぎです。

しかし、仮に、アベノミクスについて街頭インタビューがあったとしましょう。その際に、「私は幸せです」と答える日本人は、どの程度いらっしゃるのでしょうか。浜田氏は、前後の文脈から推して、ようやく自分達(リフレ派)の考えが政府に採用されたことで「幸せ」だとおっしゃったのだと思いますが、その言葉を使うタイミングとしては、ずいぶん早いように思いました。

参与とはいえ、政府の一員ですので、経済学の一つのグループの領袖といった立場ではなく、国民の目線で語って頂きたかったという感想を持ちました。できれば、「国民が「幸せ」だと言うのを聞いて、私は幸せだ」と言ってほしいなと思いました。

また、経済学というのは、明日は科学になろう、明日は科学になろうと研鑽を積んでいるあすなろ物語のような学問だと思います。その意味で、一つの政策の効果を、実際の経済活動や市場動向によって確認するなら、もし、その政策がなかった場合にどうなっていたのかも慎重に検討することが求められるでしょう。

マスメディアの報道を参考にするなら、多くの市場関係者も、アベノミクスへの期待円安業績改善株高という経路を当然のごとく受け入れているようですが、私は必ずしもそうではないと思います。昨年末に、政権交代がなくとも、安倍首相が誕生していなくても、株価はやはり上昇していたのではないかと思います。

まず、過去の企業業績(全産業ベースの営業利益の前年度比)と、円相場には何の相関もありません。密接な関係が認められるのは、鉱工業生産です。そして、この鉱工業生産は、世界の景気循環に強い影響を受けます。

具体的には、アメリカの鉱工業生産との相関が強い。その生産の先行指標となるのが、在庫循環です。アメリカでは昨年末に在庫調整の終了が確認される状況でした。一方、その頃、日本のエコノミストの間では、景気はすでに後退しているとの見方が支配的でした。

ここで、市場参加者に、この二つの情報(アメリカの在庫調整の終了、景気後退懸念が支配的)を与えるとしましょう。彼らは、間違いなく株式相場に対して強気になるはずです。株が上昇するという「期待」を持つはずです。

実際、11月以降の株価上昇局面の業種ごとの騰落率を計算して、これと似た局面を探すと、2003年と2009年が似ているということが分かります。この両局面は、今回、同様、アメリカの在庫調整の終了局面です。一方、当時のドル円相場をみると、むしろ円高が続いていたところです。

よく「相場は相場に聞け」と言われますが、「今は、どんな相場なのか?」と相場に聞くと、「景気の底入れを期待している」という答えが返ってきたようなものです。むろん、アベノミクスへの期待が全くなかったとまで言うつもりはありませんが、それ以外の要因についても検討する態度が少なくとも「科学者」には必要でしょう。

(中略)

いずれにせよ、単純な話は「分かりやすく」、溜飲も下がりやすいのですが、もう少し、問題の本質を掘り下げる努力を続けても良いのではないでしょうか。私は、そういう感想を持ちました。

昨年3月のブログの中で、私はK教授(=『先輩の経済学者』)とその若い友人(=『ある若い、有望な経済学者』)との会話を紹介したことがあります。

「ある若い、有望な経済学者が、先輩の経済学者から「最新の経済学の粋を駆使してこういうことを分析、結論を出してくれないか」と頼まれ、「それは無理ですよ、経済学は、あくまで前提をおいた上で、仮説を検証するということしかできませんから」と答えました。

更に「前提をおいて仮説を検証をする必要性も分かるが、第一線の学問的成果がすべてそういうやりかただけでなされ、それだけで評価がなされるということでは、なぜ、何年もかけて経済学を勉強するのか、という基本的疑問に答えられず、結局、経済学は世の中のためには役に立たないという俗説を正当化することになってしまうのでは」と言われた彼の返事は、

「確かにそういう面もあります。しかし、経済学を使って、常識では分からないことを解明できることもありますから」。

このなかの言葉-「経済学は、あくまで前提をおいた上で、仮説を検証することしかできませんから」というようなことを言える、もしくはそれを聞いて心に刻み込める人が、一番信用のできる経済学者に思えます。

まあ、少なくとも、経済学者でもない安倍首相が自分の理論を支持したからといって『先生』呼ばわりする経済学者の言葉には、私は重みを感じません。

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「私は正義を信ずる。しかし正義より前に私の母を守るであろう」と言ったカミュのジレンマ

2013年02月04日 | 人物

カミュの自伝的遺作『最初の人間』が映画化されています。

『最初の人間』公式サイト

http://www.zaziefilms.com/ningen/index.html

この公式ページのなかで、フランス文学者の海老坂武氏が寄稿されているもののリンクと全文を貼り付けます。

『カミュとアルジェリア』 by 海老坂武氏

http://www.zaziefilms.com/ningen/camus.html

アルベール・カミュは1913年11月7日、アルジェリア東部の港町ボーヌ(現アンナバ)に近いモンドヴィ村で生まれた。ワインの輸出業リコム社に勤めていた父親リュシアン=オーギュストがこの農場のぶどう園の管理を委ねられていたからである。

しかし、第一次大戦の勃発(1914年夏)とともにリュシアン=オーギュストは動員され、マルヌの戦いで砲弾を受けて入院、10月11日に死去した。遺体は入院先のサン・ブリユー(ブルターニュ地方)の墓地に埋葬された。映画は、この父親の墓地を息子が訪れるところから始まっている。父親はアルザス出身の移民一代目、とカミュは家族から聞かされ、そう信じきっていたが、近年の研究ではボルドー近辺出身の曾祖父が一代目、カミュの父は三代目ということがわかっている。

夫を失った母親(彼女もまたスペイン系移民の三代目)はそのショックで難聴になる。そして二人の息子、四歳のリュシアンと生後9カ月のアルベールとを連れてアルジェの貧民街にある彼女の母の家に居候となる。冷たく、厳しく、押し付けがましい祖母、愛情を言葉で示す事の出来ない寡黙な母親、そして勉強机も本もない貧窮の中での生活、その貧しい家での母と子との生活は、最初のエッセイ集『裏と表』(1937)との重要な主題となるであろう。

しかし、少年アルベールは少年時代決して不幸ではなかったようだ。なによりも<太陽>と<海>とがあった。「私の少年期を支配していた太陽は、私から一切の怨恨を抜き取った」と彼は後に書いている。そして木曜と日曜とにはボールを蹴ることに夢中になるサッカー少年だった。 

先生にも恵まれた。いち早く少年の才能に目をとめた中学校のジェルマン先生、高校の哲学級で出会い、少年の病(結核)を心配し続けたジャン・グルニエ。カミュはこの『孤島』の作者を生涯敬愛し続け、グルニエもこれに答えた。カミュの死後にグルニエが書いた追悼文は次の美しい句で閉じられている。

「小さな火花のつぎに大きな炎が続く」

大学卒業後もカミュは定職につかず、家庭教師をしたり、巡業役者をしたり、弁士をしたり、新聞原稿を書いたりしながら貧乏生活を続けていた。その間に結婚もしている(一年後に離婚)。最初の定職は1937年から気象学研究所、その次が 38年にアルジェで創刊された左翼系の新聞アルジェ・レピュブリカン紙である。カミュが記者としてアルジェリア北東部のカビリー地方の悲惨な状況についてこの新聞にルポルタージュを書き、植民地体制をいち早く告発したことは忘れられてはならない。 

39年9月第二次大戦の勃発とともに新聞の検閲が激しくなり、アルジェ・レピュブリカン紙の後を継いだソワール・レピュブリカン紙は廃刊に追い込まれる。失職したカミュは友人の紹介でパリ・ソワール紙に勤め口を見つけ40年3月本国に向う。40年6月フランスの敗北とともに各地を転々とし、一時期は二番目の妻の郷里であるオランに帰っているが、42年7月からは結核の療養をかねてまたフランスへ。しかし11月、英米軍がアルジェに上陸したため、アルジェリアはドイツ占領下のフランスと切り離され、カミュは故郷に帰れなくなる。しかし『異邦人』(1942)『シジフォスの神話』(1942)が評価され、彼はガリマール書店に職を得て43年の暮れからはパリに住み始める。

その後のレジスタンスにおける活動、コンバ紙による言論活動、『ペスト』の刊行(1947)によって、カミュは作家としての地位をかため、戦後フランスの知的世界に大きな影響を与えた。この時代、パリに居を構えながらもほとんど毎年のようにアルジェリアを訪れている。あるときは子供たちと一緒に妻の出身地であるオランに、あるときは骨折をした母の手術に立ち会うために、またあるときは彼の知らないサハラ砂漠を旅するために。一時期は、パリの社交的な生活が厭になったのだろう、アルジェリアに引きあげることを考え、友人に家探しを頼んだりしている。 

1954年11月1日、アルジェリア全土で民族解放戦線(FLN)が一斉に蜂起した。フランス政府は戦争と認めなかったが、一般にはアルジェリア戦争と呼ばれるこの抗争は、1962年のアルジェリア独立まで続く事になる。

当初のカミュはオプティミストで、55年2月、アルジェを訪れたときの新聞インタヴューでは、自分のインスピレーションの源泉であるアルジェで一年のうち6ヶ月は過ごしたいとのんびりしたことをしゃべっている。彼の政治的立場も当初は明快であった。55年6月には、週刊誌で、アルジェリア<叛徒>のテロリズムを非難すると同時にフランス軍による武力弾圧を告発し、解決の道として、フランス人とイスラム教徒の真の代表を選ぶ公明な選挙を提唱している。彼の頭の中にアルジェリアの独立という文字はなく、二つの民族の両方に権利を保証するような連邦制の共同体というのが彼の構想であり、立場だった。900万人のアルジェリア人の民族解放が100万人のフランス系住民の追放を必要とするとは考えていなかったのである。 

しかしこうしたオプティミズムは、1956年1月以後次第に打ち崩されていく。この月カミュは、フランス側のリベラル派とイスラム穏健派とで市民休戦委員会を作り、そのアピールを出す目的でアルジェを訪れたのだが、情勢はすでに緊迫化していた。極右植民地主義勢力は軍の一部を巻き込んで、自分たちの権益をまもるためにイスラム教徒に譲歩する気配はなく、カミュの講演会を自分等に対する挑戦と受け止め、当日、講演会の会場周辺の広場には千人をこえる極右のデモ隊が押し寄せた。他方、アルジェリア人も千人を越える数でいざというときに備え 広場の近辺に待機していた。映画にあるカミュの講演会はこうした雰囲気のなかで行われたのである。 

デモ隊の中から発せられた「カミュを銃殺せよ」の声は彼にとって大きな衝撃であったろう。さらにその二週間後、内閣が変わり、アルジェ総督に強硬派のラコストが任命された。これによってカミュは、自分の構想が活かされる場がないことを悟ったのだろう、以後、アルジェで逮捕された友人の釈放運動には関与したが、アルジェリア問題について発言をすることは一切拒否するようになる。 

カミュのこの沈黙はしばしば批判の対象になった。フランス軍による残虐行為、拷問が明るみに出たときに、多くの知識人が抗議の声をあげたが、カミュは発言をしなかった。しかし1957年ノーベル賞を受賞したときにはこの沈黙を破らざるを得なかった。ストックホルムでの多くの質問が此の点に集中したからである。しかし、双方の側の暴力と殺人を拒否するという、それまでに語ってきた以上のことを語りえたわけではない。学生たちの討論会の席上での一つの発言はよく知られている。 

「私は正義を信ずる。しかし正義より前に私の母を守るであろう」。 

彼は正義が解放戦線の側にあると考えていたのだろうか。にもかかわらずFLNの支持に踏み切れなかったのは、無差別テロの危険が母親に及びうるというこの一点だったのか。レジスタンスのときには暴力も殺人もカミュは受け入れたのに、という批判に対してカミュは答えるすべを知らなかった。 

1958年5月、ドゴールが政権の座につく。ドゴール内閣の文化大臣となったアンドレ・マルローは、アルジェリアに常駐する<フランスの良心の大使>になってくれとカミュに求めたが、カミュはこれを固辞し、以後は芝居と『最初の人間』の執筆に専心することになる。

なお、カミュは、この『最初の人間』未完のまま、1960年、自動車事故で亡くなりました。

余談ですが、カミュは、広島への原爆投下直後に断罪したジャーナリストでもありました。

United for Peace of piece country

THE WORLD IS WHAT IT IS . . .

By Albert Camus

http://www.ufppc.org/quotations-mainmenu-39/5036/

オマケ:カミュの弟は、アメリカ人タレント、セイン・カミュのお祖父さんだとのこと。

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フランス生まれの「お昼をご一緒に」サイト

2013年02月01日 | 

日本人の場合、異世代、異業種(、異文化)の集まりは、出席者にある程度共通項がないとうまくいかない場合が海外にくらべてありそうですし、そもそもパーティー文化のない日本には、参加者をコーディネートする人が間にいたほうが良いのではないかと思います。が、面白そうですね。

(大学の新入生向けにこんなサイトがあれば、地方出身の学生さんたちは心強いかもしれません。)

JBpress (2013131日)

フランスで大ブーム、「お昼をご一緒に」サイト

コーランチングに続いて、コーダイニング、コーワイニングも人気

By 鈴木春恵氏

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/37024

コーランチング(COlunching)」という言葉を耳にされたことがあるだろうか?

 「共同」「同時」などを意味する接頭語coと、「昼食を食べる」の現在進行形lunchingをつないだこの造語。パリに暮らすフランス人女性、ソニア・ザナード(Sonia Zannad)さんが生み出したソーシャル・ネットワーキング・サービスの名称で、流布しだしてから2年半ほどになる。

インターネットを媒体に、見知らぬ人とランチを共にする

 ソニアさんがこのネーミングに込めたアイデアは、読んで字のごとく、「一緒にランチをする」というもの。インターネットが告知媒体になって、ある日ある時刻、指定されたレストランに希望者たちが集う。

 レストランそのものに興味があって参加するケースもあれば、新しい人脈を作りたいと思う人もあるだろうし、ただ単に、日常のちょっとした刺激にと、参加する目的はさまざまだ。

 三々五々参加者が訪れ、一緒にテーブルを囲むのだが、たいていはそれぞれが好みのものを食べ、お会計も別々。レストランの費用を払うだけで、参加費のようなものはかからない。

 「学校を卒業してから、メディアに記事を書いたり、イベントのオーガナイズをしたり、フリーで仕事をしていると、どうしても食事がおろそかになりがち。コンピューターの前でサンドイッチをほおばってランチを済ませてしまったりするのが嫌になって・・・」

 そんな、世界中のかなりの数の人が思い当たりそうなささやかな不満。ソニアさんのアイデアもまずそこからスタートした。さらに、美味しいもの好き、好奇心旺盛な都会暮らしとなれば、新しいアドレスもいろいろと開拓してみたいもの。

 そこで一計を案じ、友達を誘ってお昼を食べるレベルからさらに枠を広げて、ネットを使ってランチ仲間を募るという試みを始めたのである。それが20105月のこと。

(中略)

ともあれ、それからさらに2年が経った。「アイデアはむしろ分かち合ったほうがいいものだと思っているから、ランチをオーガナイズするのは私に限らず、サイトに登録した人がだれでも呼びかけていいし、私が知らないところでもコーランチングの機会がどんどん繰り広げられることでしょう」

 ソニアさんが初めから描いていたそんなイメージはどんどん広がりを見せ、今ではサイト画面を開くと、パリだけでなくフランスの地方、さらにはニューヨークやシドニーなど世界の街での今日、明日、さらにひと月先のお知らせまでがたくさん並び、メンバー登録をしている人は約1万人を数えるという。

 また、「コーダイニング(COdining)」、つまり夕食を一緒にするというのも増え、ソニアさんによれば、最近では昼よりも夕食の会のほうが時間に余裕があるせいか人気が高い傾向にある。

1月のパリ。凱旋門から歩いて5分ほどのとあるブティックホテルでコーワイニングがあるというので、わたしも久しぶりに参加することにした。

 「ビジネスエンジェルとスタートアップ(Business AngelsStart-ups)」というテーマが掲げられていて、申込時点で会費を払うというものだから、いつものコーランチングとはちょっと目先が変わっている。

(中略)

とはいえ、今回の参加者のお目当ては人脈作り。ほぼ全員が初対面のようだが、どんなビジネスをしているのか、あるいは企画しようとしているのか、いきなり本題の会話があちらこちらで繰り広げられている。

わたしが名刺交換した参加者には、インターネットの動画サイト、しかもエコロジーに特化した番組を作って配信するプロジェクトを立ち上げつつある女性、キャンピングカーのレンタルシステムを運営している男性、外国からのツーリスト向けにフランスならではの食体験ができるホームステイやアパルトマンの斡旋をしているカップルなどがいた。

 彼らがスタートアップ(start-ups)のほうに類する参加者とすれば、ビジネスエンジェルス(Business Angels)的な存在としては、新しい企画を探して出資者を募る、あるいは出資グループを作ることを生業としている人も複数。

 なるほど、世の中にはいろんな商売があるもの、と、初めから蚊帳の外を決めて参加したものの、結果としてはなかなか興味深い会ではあった。

 ところで、こういった会から何が生まれるのかは、まったく未知数だ。すでにソニアさんやフレデリックさんの知らないところでの開催数の方が圧倒的に多いから、彼らが知る「その後」はごく一部。

とはいえ、コーランチングでの縁が仕事に結びついた例は大小様々あるようだし、結婚したカップルもいるという。あるいは「その後」など期待せずに、ただただ一期一会を楽しめばよいとも言える。

 ちなみに、東京ではごく最近コーランチングがひとつあったらしい。これが彼らが把握している日本での唯一の例だそうである

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