Various Topics 2

海外、日本、10代から90代までの友人・知人との会話から見えてきたもの
※旧Various Topics(OCN)

スウェーデンとオランダはどちらが『高度な民主主義国家』か?

2013年07月29日 | 社会(歴史・都市計画含む)

前のエントリーで『奴隷』の話を書きましたが、現在も『奴隷』は存在しています。

発展途上国を中心に、ある部族が別部族の子どもを誘拐して兵士にするケース、過酷な状況で働かされる子ども、そして、先進国では、だまされたり誘拐された女性たちが人身売買され売春を強要されるケース、などなど・・・。

これは、スペインのベゴーニャさんにも

「歴史学は限界があるにしても、歴史を学ぶ意義は『同じ間違いを犯さない』ということにあるはず。なのに、現代も先進国で『人身売買』が横行しているんですよね。」

と嘆きました。

さて、この先進国でのケースについてですが、ちょうど今日のJBpress に以下の記事がありました。

JBpress の記事はある一定期間をすると、会員以外は1ページ目しか読めなくなってしまうので、記事を大分貼り付けさせてもらいました。

が、早めに全文をリンクからどうぞ。)

JBpress (2013729日)

世界初のスウェーデン「買春禁止法」は有効か?

By みゆき・ボアチャ氏

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/38312

(前略)

 19985月、性的サービスに従事する人々の保護を目的とし、セックスを売ることではなく買うことを禁じた「セックス・ショップ法」、すなわち「買春禁止法」がスウェーデン議会を通過した。当時、保守派陣営の間では大反対が巻き起こったが、2006年の調査では国民の8割が支持するという結果が出て、以降現在に至るまでほぼ国民的コンセンサスを得ている。

 ノルウェー、アイスランドなど他の欧州国も、スウェーデンにならって同じような法制度を導入している。イングランド、ウェールズ、フィンランド、フランスなど多くの欧州国も性サービスの購入に制限を課したり、議会に法案を提出するなどの動きが継続的に見られる。

 この20135月で、スウェーデンの買春禁止法成立から15年が経った。 

(中略)

また、この法の策定に大きく寄与した司法委員会委員長モルガン・ヨハンソン氏は、「セックス購入法の目的は、多くの人を刑務所に送ることではなく、セックスの売買を阻止することであり、これが十分に成功したことに意味がある」と言う。

 同氏によると、この法の目的は個々のセックスの買い手だけでなく、組織化された人身売買を取り締まることだ。この法律がなければ組織的売春がより広範囲になる。「近隣のデンマークやドイツなど他の国々と比較しても、スウェーデンでの売春と人身売買は少ない。需要が減退したことは、法律の効果があったということだ」とヨハンソン氏は述べている。

 また同氏は、買春を取り締まる一方、同時に売春から抜け出したい人への社会サービスと支援をよりいっそう充実させる必要があり、その責任は今日のように国ではなく、自治体にあるべきだと話している。

(中略)

オランダは、売春合法、ドラッグ合法、安楽死合法、同性の結婚も世界に先駆けて合法化した。根底に「個々の人間の自決権」に重きを置いているからだ。

 これについて、アムステルダムから来ていた留学生の子と話したことがある。

 彼女によると、「こういった犯罪は、一定程度まで合法化して透明化した方が社会全体が健全になると政府は考えている。法規制を強めても、犯罪行為がさらに地下に潜ってアンダーグラウンドではびこり、黒い暴力組織の資金源になるだけだからだ」と言っていた。

 そして、多くの国民はこの国のあり方を「民主主義の高度な形態」「自由な社会」として、誇りに思っている。

 それに比べるとスウェーデンは、例えばアルコールは依然として専売制、ドラッグに関しても厳しい法律で取り締まっており、現在はドラッグユーザー数は西側世界で1番低い国の1つになっている。海外でセックスを買った国民を罰する法も、近々成立しそうだ。などなど、「あれもダメ」「これもダメ」と規制だらけの社会だ。

(中略)

 売春が合法化されているドイツ、オランダ、デンマークなどの「成熟した大人社会」「民主主義の発展した国家」で今起きていることは何か。

 20131月号の「ワールド・デベロップメント」誌に掲載された論文「売春の合法化は人身売買を増大させたのか」によると、送り込まれる人身売買の犠牲者数が「非常に多い」とされた国は、米国、ドイツ、オランダ、日本、ベルギー、ギリシャ、イスラエル、イタリア、タイ、トルコとなっており、売春が合法化されている国、あるいは非合法ではあるが法が機能していない国である。また、ほぼ欧州国に偏っている。

 売春が合法化されていても、「現代の奴隷制」である人身売買はほぼ全世界で違法だ。性的人身売買については前回触れたが、主に女性、多くは未成年者を暴力や脅迫によって強制的に売春させ、多くの利益を吸い上げるビジネスである。そして売春を合法化した国が、この人身売買という違法行為、つまり犯罪の温床となっている。

(中略)

 女性権利団体Terre des Femmesのアンナ・ヘルマン氏は、女性の多くはロシアやウクライナ、東欧、そしてアフリカからで、ドイツの都市でのホテルやレストランの仕事という宣伝文句で募集されて来る。大抵は不法滞在なので、警察に見つかって国外退去させられることを恐れており、そのために逃げることができない。同氏は、ドイツが売春を合法とした後、犯罪組織が同法を違法行為の抜け道として利用するため、犯罪の摘発を困難にしていると言う。

 スウェーデンが買春を違法とした同じ1999年に、デンマークは売春を合法化した。以降デンマークは、スカンジナビア最大の買春天国となっている。デンマーク反人身売買センターによると、国内に4000人から5000人の売春婦がいると推計され、その半数は東欧とアフリカから来ており、多くは人身売買の犠牲者と考えられている*9

(中略)

 女性の性を利用してビジネスをする側の連中にとって、ドイツやオランダモデルは大歓迎だ。「売春合法化」の背景には、恐らく大量の賄賂が流れているのではないのか。欧州の中でも、一国の警察機構よりも、犯罪組織の方がカネと権力を持っているように見える国もある。政府機構そのものが、収賄をかき集める犯罪集団となっているように見える国も、ないでもない。

(中略)

売春をしたくてやっている人は、少数ではあるだろうが存在するだろう。彼らの権利もないがしろにされるべきではない。しかし社会的・経済的不平等のために売春を強いられている多くの女性たちがいる限り、この不平等を克服していくことを基本にするべきであると思うし、この理念に立脚して政治政策が作られる社会は、より健全で解放された社会であると思っている。

日本でも「奴隷はけしからん」という人が大半でしょうが、実はそう言っている一般の人たちに、『現代の奴隷制度存続』に協力したり、支持している人たちがいるのも事実でしょう。

「送り込まれる人身売買の犠牲者数が「非常に多い」とされた国は、米国、ドイツ、オランダ、日本、ベルギー、ギリシャ、イスラエル、イタリア、タイ、トルコとなっており・・・」

と、こんな不名誉な結果を見ると情けなくなります。(一部の国と違って『臓器』のための人身売買はしていないと思いますから、性的な仕事用の『現代の奴隷』がほとんどでしょう。

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ピクミンの『愛の歌』と16世紀の歴史のなかの『残酷』

2013年07月29日 | 異文化

スペインの友人ベゴーニャさんは、現在16,17世紀に自国を訪れた日本人の使節団、天正使節団、慶長使節団について学んでいます。

もともと歴史大好きな彼女ですが、彼女がこれらに興味を持つのは、カトリック教徒として、そして『日本の漆器』に興味があってのことです。

そんな彼女に、「この使節団について、日本人は学校で学びますか?そして、日本ではよく知られています?」

と 期待をこめて書いてきた彼女に、

「学校の歴史で学びはするけど、あまり深く教わるわけでもなく、一部の学生以外はほとんど学校を卒業するくらいには忘れてしまうと思います。」

と返事をしました。

なお、慶長使節団も、天正使節団も、ともにイタリアを訪問していますが、イタリアのエリーさんによると、イタリアの学校でこれを学んだことはないと言います。

さらに彼女は、

「イタリアで日本の歴史や芸術についてはあまり学ばず、歴史については第二次世界大戦のときに少しでてくるくらい。イタリア人の多くが日本で思いおこすのは、やはり『アニメ、漫画』」

と。

先週はこの歴史の話をする前に、「ピクミンのゲームや歌」についてスペイン、イタリア、アメリカの友人達に質問していました。

ピクミンの『愛の歌』(英語の字幕付)

http://www.youtube.com/watch?v=SL2ePovKMtg )

その話から、まずスペインのベゴーニャさんが、

「スペインではこんな残酷な歌やゲームに違和感を覚える人は多いと思う。音楽は子守唄のようでも、歌詞は・・・。皆どう思うのかしら??」

「いや、私もこの歌詞やゲームの残酷性は好きではなくて、この歌詞のピクミンの扱いは、まるで『徴兵された兵士』を想像してしまう。

もともと日本の童謡では悲しくて怖いものもあるけど、これはちょっと・・。

歌や童話の残酷さは、マザーグース、グリムやペロー童話に重なるわね。」

と私。

「スペインでは、子どもに残酷なものを与えるのは、あまり好まれないわ。」

と再びベゴーニャさん。

(イタリア人2人は、ピクミンの歌もゲームに否定的ではありませんでした。)

このあと、『残酷』という部分に触れた部分もあったこともあるのと、エリーさんが(昔話題にした)『人種差別』にも言及したこともあり、話が、16世紀の『日本人奴隷』の話に流れていきました。

以下がそのときに送った記事等のリンクです。

Japan Times (2013.5.26)

The rarely, if ever, told story of Japanese sold as slaves by Portuguese traders 

http://www.japantimes.co.jp/culture/2013/05/26/books/the-rarely-if-ever-told-story-of-japanese-sold-as-slaves-by-portuguese-traders/

Japanese Daily Press (2013.5.14)

Records show Japanese slaves crossed the Pacific to Mexico in 16th century

http://japandailypress.com/records-show-japanese-slaves-crossed-the-pacific-to-mexico-in-16th-century-1428777/

MRI Fourum 68

Commercila Networks and Slavery in 16th Century Macao

http://www.riccimac.org/eng/mriforum/68.htm

ポルトガルから銃の変わりに売られて言った日本人奴隷。

ほとんどが、アフリカの奴隷や(北アフリカの海賊に捕らえられた)ヨーロッパ人の奴隷と違って、誘拐ではなく、貧困のため親に売られた人たちであったのだと思います(誘拐された人、戦の捕虜もいたでしょう。)。

そして、「宣教師達が日本人奴隷を連れ帰った」「キリシタン弾圧や鎖国は、日本人奴隷を守る為」などという意見を言う日本人もいたりして(私としてはこの解釈は無理があると思います)、日本にとっても、他国にとってもあまりプラスにならない歴史です。

しかし、そうであっても、本来こうした、『残酷』『暗黒』な部分も、解明されてないとしても、歴史教育では言及すべきことではないのか、と思います。

(この話、敬虔なカトリック教徒のベゴーニャさんには特にハッピーな話ではないですが、彼女は知っていました。)

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岸田外相がイスラエルでホロコースト記念館訪問、大戦中の日本とユダヤ人

2013年07月25日 | Nationalism

岸田外相が、イスラエルでホロコースト記念館を訪問したそうです。

JAPAN Today

A look at history (2013.7.25)

http://www.japantoday.com/category/picture-of-the-day/view/a-look-at-history

これを読んだとき、

「ホロコーストの犠牲者を慎むことはすべきだと思うけど、イスラエルとパレスチナ和平の為の外遊中だという外相が公にするメリットはあるのだろうか?」

「岸田外相は。韓国や中国のこうした施設を訪問しているのだろうか?」

という点で、違和感を持ちました。

そして、記事の下にはこんなコメントが:

Obviously some people are unaware that in the years prior to and during WWII Japan's policy towards European Jews was counter to their later ally Nazi Germany. There were Jews living safely in Japan during WWII. The IJA Kenpeitai worked against the Nazi SS agents in the Chinese cities to get Jews out. The Japanese government believed that the Jews controlled the finances of the west, including their enemies the United States and Britain. This was a view developed from the actual assistance given to Japan by Jewish financiers during the Russo-Japanese War of 1904/05. Ignorance is truly bliss.

第二次世界大戦中、日本がナチスドイツの同盟国だったにもかかわらず、日本で安全に暮らしていたユダヤ人たちがおり、日本は中国本土においてもあえてユダヤ人を捕まえることはしませんでした。これは日本が、ユダヤ人が英米等西側の金融を支配しているという認識を持っていたことによるようです。この認識は、日露戦争のときにユダヤ人から日本が資金援助を受けたことに端を発するものでした。

なんとも複雑です。

さて、ところで今日、朝日新聞で、オランダ系ユダヤ人女性が、インドネシアで日本軍がユダヤ人を収監していたというような証言記事を見つけました。

朝日新聞 (2013724日)

「ユダヤ人として抑留された」 日本軍占領下のジャワ島

http://www.asahi.com/shimen/articles/SEB201307230065.html

出張先で知り合ったオランダ人女性からメールが届いた。「インドネシアにいた子どもの頃、ユダヤ人ばかりの抑留所に入れられていた」。第2次世界大戦時、日本軍による占領下のインドネシアにオランダ人らの民間人抑留所があったことは知られている。だがユダヤ人ばかりの抑留所があったとは初めて聞いた。取材を始めた…

朝日新聞の記事は、会員登録をしていないと続きを読むことができないのですが、これについてもついでに調べてみました。

リンクは載せませんが、“Jewish Community of Indonesia”と検索すると、“Jewish Community of Indonesia”と検索すると、ユダヤ団体のレポートがでてきます。

これはDr. Ayala Klemperer-Markman という学者さんが書いたレポートで、それによると、1930年代、1940年代にオランダや他の欧州諸国、中東(レポートはBagdadiになっていますが、現在Ashkenaziに対応する中東出身のユダヤ人は普通Sephardi)からインドネシアに逃げてきたユダヤ人は、1942年の日本軍占領前までは約3000人。

そして、日本の占領後は、日本軍は同盟国国籍以外の欧州人を収容しましたが、そのほとんどがユダヤ人。

中東出身のユダヤ人と欧州の同盟国のユダヤ人は収容されませんでした。

そして、1943年には、それまで収容されなかった欧州の同盟国と中東出身のユダヤ人も収容されます。

これは同盟国ドイツの日本政府に対する圧力のみならず、現地日本占領軍の軍属と、そして現地の人の反ユダヤ感情があってのことのようでした。

つまり、最初はインドネシアのユダヤ人を日本軍が収容したというわけではなく、収容した欧州人にユダヤ人が多かったということ。だけど、1943年からは、「ユダヤ人」ということが収容の理由になったのだから、「日本軍がユダヤ人を収容」したのは本当ではあったのでしょう。

(レポート抜粋:

During the 1930s and early 1940s the Jewish community continued to expand, mainly as a result of arrival of refugees from Nazi Europe, who settled in various districts of the Dutch colony. On the eve of the Japanese occupation (early 1942) the Dutch colony had approximately 3,000 Jewish residents, most of whom were Dutch citizens or citizens of other European countries; some were "Baghdadi Jews".

Shortly after consummation of the Japanese occupation (March 1942), most of the European citizens in Indonesia were sent to internment camps ? first military personnel, followed by young men (aged 17-60), and finally most of the European population. At this stage, the Japanese considered the Ashkenazi Jewish population as Europeans for all purpose and the negative relationship was similar to that suffered by the other Europeans. Accordingly, the Bagdadi Jews of Middle Eastern origin and Jews who were citizens of European countries allied with Japan, were not imprisoned.

However, in August 1943 the Bagdadi Jews were also imprisoned, together with German and Italian Jews. Kowner argues that the change in the relationship was derived from several elements, including heavy German pressure on the Japanese government to impair the Jewish population, anti-Semitic tendencies among the local population and anti-Semitic tendencies among certain Japanese groups that served as part of the occupying forces in Indonesia. Nevertheless, it should be noted that, as opposed to events in Germany, this change did not constitute part of Japanese ideology or planned policy

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Encounters with Japan 3

2013年07月24日 | 異文化

16日に、『Encounters with Japan 2 - IS JAPAN COOL?

http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/d/20130716)を書いて、このなかで、日本のサブカルチャーファンの51歳のドイツ人男性のことを書きました。

この男性が9月に来日する際に会うことになっていたのは取りやめになりました。

(これは、彼を私に紹介したマミさんが彼と文通をやめることになったからでしたが、正直やはり私も積極的にお手伝いする気にはなれなかったので、彼には申し訳ないですが、ほっとしています。)

さて、しかし、もう今では日本に興味を持つ外国人の多くのきっかけが日本のサブカルチャー。

面白い記事があったので、リンクと記事抜粋を貼り付けます。

JBpress (2013724)

訪れた多くのドイツ人を魅了してやまない日本

しかし、官製クールジャパンの評判は最悪

By 川口マーン恵美氏

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/38256

先日、「クールジャパンは日本の成長力か?」というテーマの座談会に出席した。

 まずもって私は、クールジャパンが何かを知らなかった。ドイツでは聞かない。そこで事前に調べたところ、日本の創造的な産業やサービスが海外で高く評価されている現象のことだという。

 そして、その現象をさらに宣伝し、推進し、ビジネスにしましょうというのが、日本政府のクールジャパン戦略だそうだ。日本政府は20106月に経済産業省内にクールジャパン室を設置した。

世界の若者に日本語を学ばせる「アニメ、マンガ、ニンテンドー」

 では、具体的に何がクールジャパンかというと、アニメや漫画、コンピューターゲーム、芸能などのエンターテインメント、ファッションやキャラクター商品、食文化、伝統工芸などで、それにさらに宅配便、旅館など、日本独特のサービス文化が加わる。早い話、何でもよいようだ。

確かに、アニメ、マンガ、ニンテンドーが、海外の若者にとってクールであるというのは、ドイツにいるとよく分かる。これら3つの言葉が、ドイツで検索される日本関連の言葉の最初の3つなのである。

 ドイツの大学では、専攻学科に関わらず、誰もが登録して受講できる語学講座があり、日本語学科が設置されているところでは、それが結構な人気だ。

 ところが、その日本語の受講者の動機のほとんどが、“アニメを原語で見たい”、あるいは、“漫画を原語で読みたい”というものだと聞いて、ビックリしてしまった。私のドイツの従妹の息子もそうだったというので、なぜ、わざわざ日本語で読まなければいけないのかと訊くと、彼はこう答えた。

 「日本の漫画は、基本的に大人向きであり、内容は高度で、緻密な心理描写なども多い。ところが、ドイツで漫画を許可する官庁は、漫画といえば子供の物だと思い込んでいるため、子供向けに修正を施す」

 「例を挙げれば、ある主人公はくわえ煙草がトレードマークであったが、ドイツではタバコは社会から追放されつつあり、特に子供向けの物には使えないということで、その主人公は、いつも棒付きキャンデーを嘗めている。マンガファンとしては遺憾の極みである。この調子では、他にもどれだけの改竄が行われているか分からないではないか」

 そこで漫画オタクは、「原語で読まなければ!」と奮起し、日本語の勉強という無謀な行動に突進するのだが、始めてみるとそれは意外と難しく、ひらがなも制覇できないまま、1カ月ほどで受講者の脱落が始まるそうだ。

しかし、中にはこれをかなりものにする学生も出てくる。その私の親戚もその一人で、彼は数年かけて、日本語検定の2級まで取った。そのあいだに日本を何度か旅行もした。

 そして今では、残念ながら漫画はまだすらすらとは読めないものの、ある日本の有名な自然科学の研究所で、物理の研究者として働いている。日本語学を勉強した長女の話では、日本を旅している外国の若者の大半が、アニメファンだという。

(中略)

一つ確かなことは、現在、世界の若者が日本に関心を持っているとしたら、それは、日本の伝統とはまるで繋がっていないということだ。彼らの関心は、活花でも茶の湯でも禅でもなく、アキハバラであり、アニメであり、ニンジャであり、コスプレであり、和太鼓だ。

 それを残念だと思う向きもあろうが、そもそも、日本人が日本文化をすでに知らないのだから、それを外国に広めようとすること自体が無理な相談だ。

 つまり、クールジャパンが成功するなら、それはおそらく、ジャパンという名の無国籍文化の発信となるに違いない。文化の無国籍化は、日本だけでなく、世界的風潮でもある。

 ただ、伝統文化の方も、やはり国がちゃんと税金を注ぎ込んで保存してほしい。そして、伝統文化とその他の新文化が、雑多に、多様に共存できれば、「枯れ木も山のにぎわい」ではないが、それはとても日本らしくて、一番良い状態であると、私は思っている。

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『そこに僕らは居合わせた』 by グードルン・パウゼヴァング

2013年07月23日 | 芸術・本・映画・TV・音楽

前回、プリーモ・レーヴィとドイツ人女性、ヘティ・シュミットのことを書きました。

このヘティは、1918年生まれでドイツのヘッセン州ヴィースバーデンに住んでいました。

このヴィースバーデンで教職を学んだり、後にヘッセン州に住んだ女流作家に、グードルン・パウゼヴァング(Gudrun Pausewang)がいます。

彼女は1928年生まれでヘティより10歳年下で、反ナチスのヘティと違って、戦前から戦中にかけて親ナチスの少女でした。

この彼女が2004年に書いた本、『そこに僕らは居合わせた』(原題:Ich war dabei. Geschichten gegen das Vergessen)という本が、昨年の夏にみすず書房から出版されています。

みすず書房

そこに僕らは居合わせた (訳:高田ゆみ子)

http://www.msz.co.jp/book/detail/07700.html

この本には、ナチス政権下のドイツで、ごく普通のドイツ人たちがしてきたこと、それをなかったことのようにしてきた人たちのことを、(ほとんどが子どもの目を通して)書かれています。

(ノンフィクションではなく、フィクション。しかし、ノンフィクションを脚色したものであるので、登場人物は架空のものとなっていても、内容は見聞きした事実を書いたものでしょう。善行を貫いた人のことも書いてあります。)

さて、このなかの一編に『潔白証明書』という話があります。

『潔白証明書』とは、言ってしまえば、ナチスに協力した人たちが、「実は自分たちがナチスに協力したのは不本意だった。ユダヤ人はじめ、彼らに同情的だった。」という証明書のようなものでしょうか。

これがないと、仕事に復帰することもままなりませんでした。

このお話に出てくるのは、家族ぐるみで仲良くしていた、娘が親友同士のドイツ人一家とユダヤ人一家。

ヒトラーに心酔したドイツ人の両親は親ナチスで、母親は国家社会主義女性同盟の地区団長となり、この友人であるユダヤ人一家を密告する等こそしなかったものの、この一家に対して差別的態度を取るようになります。

しかし、娘は相変わらずユダヤ人の女の子と親友同士。

そして、ついにこのユダヤ人一家がアメリカに亡命をすることになりますが、これを聞きつけた母親はほっとした顔をします。

そして「今後何が起こるかわからないから」と言いながら、ユダヤ人家族の引越しのお手伝いにいきます。

手伝いに来たドイツ人の母親に戸惑うユダヤ人一家とドイツ人の娘。

そして戦後-ドイツ人一家の父親も、アメリカに渡ったユダヤ人一家の父親も、戦死をします。

元ナチス協力者として職につけないドイツ人の母親は、アメリカから娘に届いたユダヤ人の女の子の手紙の住所を盗み見て、ユダヤ人の母親に手紙を送り、「私はあなた方に親切だったわよね」と、『潔白証明書』の協力を頼みます。

家に帰って、自分の母親がユダヤ人の母親に宛てた手紙の控えを見つけた娘は、母親の元を去ります。

ドイツ人の母親は、アメリカのユダヤ人の母親から『潔白証明』をしてもらうことができましたが、出て行った娘を追いかけることもしませんでした。

・・・とこんなところです。

さて、ユダヤ人の母親は、このドイツ人女性になぜ『潔白証明書』を出したのでしょうか。

ドイツ人の母親の手紙はあつかましくて、読み手が納得できるものではありませんでした。

しかしユダヤ人の母親は、戦争で夫をなくしたもの同士としての同情、そして、「このドイツ人女性が職を得ないと、その娘のほうも困る」と思ったかもしれないし、「あのドイツの嫌な思い出から開放されたい」と思ったのかもしれません。

ただ、私は一番の理由は、このユダヤ人の女性にとっては、このドイツ人女性が書いていることを信じている方が楽だったから『潔白証明』をしたのではないか、と思えます。

実際、ドイツ人の母親は、ユダヤ人一家が「アメリカに亡命」というのを聞いて「ほっとした顔をした」ということは、「ユダヤ人一家がいなくなってくれれば、娘がユダヤ娘と仲良くする不名誉なことはなくなる」と考えると同時に、「一応仲良くしていた一家が、アメリカに亡命すれば、死ぬことがなかっただろう」と思った可能性はあります。

(「保険の為に」も本音であったでしょうが。)

この可能性があったからこそ、娘は戦後も一緒の母親と住んでいたということもあったのではないでしょうか。

しかし、この可能性は、母親が自分に来た手紙を盗み見て、そしてユダヤ人の母親に『潔白証明書』を要求した手紙を書いたとわかったときに、崩壊してしまったのでしょう。

この短編集、元ナチス信望者の作者が書くには大変辛かったものだと思います。

そして、ドイツでこうした本が出版されたということは、うらやましいことでもあります。

イタリア人のエリーさん(30歳)に、プリーモ・レーヴィとヘティの記事を送ったところ、「イタリアではプリーモ・レーヴィのことはよく習う。彼の情報は興味深いわ。」と言いながら、話の中心を『人種差別』に移していきました。

が、(人格障害ともいえる)人種差別者より、実は本当に恐ろしいのは、こうした普通の人々だったのではないか、と私は思います。

ヒトラーやナチスによるユダヤ人等への迫害は、国民内にも人種差別者がいたからこそ受け入れられていったことではありますが、個人的に親しかった人やご近所さんに、手のひらを返して蛮行を働くようになってしまうような“普通の人々”がいなければ起こらなかったかもしれません。(洗脳?洗脳に掛からなかった人も多くいます。)

-捕まったユダヤ人の近所の家から子どもをつれて一緒に略奪をし、彼らが捕まる前にしようと思った食事を一家揃ってするドイツ人の母親-彼女は、「○○さんも、××さんも、△△さん(ユダヤ人)も、まだ捕らえられない。忘れられているんじゃないかしら?」と言ったりもしました。

親切なユダヤ人店主のお店では、ドイツ人の買い物客たちは“返済する気のないツケ”で買い物をするようになり、現金で買い物をしようとする人を、「何でツケにしないのだ?」と不審がったり。

そして戦後、「自分の村ではユダヤ人は1人もいなかったし、蛮行も行われなかった」と言い張って、真実を語ろうとしなかった人々。

ドイツ人だからではない、そして戦争に限らず、こうした人たちは世界中に、今もたくさんいます。

追記:ちなみに、作者のグードルン・パウゼヴァングは、原発事故を描いた『みえない雲』の作者です。

『みえない雲』というドイツの小説と映画

http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/d/20110528

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プリーモ・レーヴィのSoul mateだったドイツ人女性とアルベルト・シュペーア

2013年07月21日 | 人物

今日は参議院選挙です。

「日本を取り戻す」とキャッチフレーズを無表情のコアラのような安倍さんが言っていしたが、彼は本当は「大日本帝国を取り戻せ」と言いたかったことでしょう。

さて、先々週、欧米と日本の友人達に送った記事があります。

Guardian (2007.4.7)

The good German

By Ian Thomson

http://www.guardian.co.uk/books/2007/apr/07/history.primolevi

ここには、アウシュビッツの生き残りであるイタリア人作家のプリーモ・レーヴィのソウルメイトとなった、ドイツ人女性へティさんのことが書いてあります。

プリーモ・レーヴィは、アウシュビッツの生き残りとして数々の体験本を書き上げてきましたが、その批判はナチスというより、戦争当時にユダヤ人の迫害を見て見ぬふりをしてきた一般ドイツ人に重点を置いていました。

これは、

「ナチスの高官やユダヤ人迫害に関わった人たちは犯罪人となっても、消極的ユダヤ人迫害に加担したドイツ国民は罪を問われず『第三者』となっている。これと向き合わなければまた同じことが起るだろう」

とレーヴィが考えていたからであると思います。

もちろん、アウシュビッツの生き残りであり、多くの大切な人を亡くしたレーヴィにとっては、彼らに個人的に恨みがあったのは当然です。が、レーヴィが戦後、イスラエル、シオニスト達がパレスチナの人々から土地を奪い迫害してきたことに対しても批判(結果、シオニスト達から嫌われました。)をしてきたことからもわかるように、彼は単なる怨念だけで本を書き、後援をしてきたわけではありませんでした。

ただ、アウシュビッツ時代彼らに親切にしたドイツ人に対して、彼はその「善」を頑なに認めようとしなかったこと、これはフェアではないし、レーヴィ自身にとっても不幸であったと思います。

こんなレーヴィの頑なさを変化させたのが、このへティこと、Hety Schmitt-Maas

彼女はカトリック教徒、戦前から反ナチ精神を持ち、そして彼女の元夫は、レーヴィがアウシュビッツで働かされた化学会社に勤めていました。

彼女は、196610月から1983年、65歳で突然亡くなるまでの17年間にレーヴィと文通-彼女は57通、レーヴィは49通 -するだけでなく、もとナチスドイツのアルベルト・シュペーア(ヒトラー政権の軍需大臣、ヒトラーと親しかった人物)とも手紙を交わし、彼の家を訪問してレーヴィの本を読むように働きかけたりしています。

(彼女は、レーヴィ、シュペーア以外にも何人かとも手紙を交わしています。)

私のドイツ人の友人の1人は「岸信介は日本のアルベルト・シュペーア」と書いてきたことがありましたが、戦後、一般の女性が(一応ヘティは1959年から文化省に勤めだしましたが。)、戦争に関わった元高官に反省を促し、そしてその高官がその女性と手紙を交わすようになるということ、日本ではまず考えられなかったことです。

昔、もしヘティのような女性が日本にいてくれたとしたら、岸信介の孫である安倍首相の発言や行動も今とは違っていたかもしれません。

以下、は上のリンクからの抜粋です。興味がある方はどうぞ。

(前略)

Hety Schmitt-Maas - the real-life "Mrs Hety S" - was a Catholic divorcee, born in 1918 to an exemplary anti-Nazi family: when Hitler came to power, her liberal-minded father lost his teaching post. Following his stern example, Hety refused to join the Nazi BDM (Association of German Girls) and was expelled from school. Her family's Jewish doctor had committed suicide in despair at the Goebbels persecution. When, in 1959, she settled in Wiesbaden to work for the local ministry of culture, she began to investigate what she called the entire "Komplex" of Nazism.

She corresponded with Levi for almost 20 years, writing 57 letters to his 49 to her. She was vitally important to him as a writer and sections of Levi's books could not have been written without her; she put him in touch with writer friends and other contacts in Germany, creating an ever-expanding network of correspondence among them. In this way she hoped to counteract Himmler's cynical pledge that the destruction of European Jewry would be an "unwritten page of glory". Hety's great ambition, she told Levi, was to "understand" the Nazi past.

(中略)

Hety sent her first letter to Levi on October 18 1966: "You will never really be able to understand the Germans, we Germans do not understand ourselves." Hety had written to Levi care of his publishers in Turin; If This Is a Man, she told him, was "Pflichtlektüre" - "compulsory reading" - and she was determined to have it read in German schools.

Levi understood at once that his unseen correspondent was a decent, ordinary German with moral struggles of her own. Many Germans, in an excessive self-flagellation, had turned national guilt into a virtue. But Hety was not like that. Over the coming months she was able to provide Levi with an epistolary lifeline out of the marital and parental tensions of his difficult home life, and became his soul mate. So her opening letter marked a new epoch for Levi - the start of an extraordinary 17-year correspondence - though he little suspected it when he replied a month later on November 5 1966: "Yes, even today I find it hard to understand the Germans. If This Is a Man did have the response in Germany I had hoped for, but I do believe it came from the very Germans who least needed to read the book. The innocent, not the guilty, repent: it's absurd - it's so human."

Levi's attitude to postwar Germany, until now mistrustful, changed as he learned of Hety's extraordinary background. Hety's second letter to Levi began: "Sehr geehrter [Most Honoured - a very formal greeting] Herr Dr Levi", and she seemed to want to unburden herself of guilt. "The only consolation for those of us who were on the other side of the barbed-wire fence is to know that people like you were able to start new lives after all." Hety's restless mission to understand Germany had been provoked, she said, by her husband's tacit compliance with IG Farben and the Hitler government; in his impotent silence Hety thought she could detect many of postwar Germany's problems.

With Hety's help, Levi was now able to track down his former IG Farben overseer at Auschwitz, Dr Ferdinand Meyer, an inadequate rather than infamous man who had issued Levi with leather shoes and shown him other kindnesses in the camp. Levi could hardly see Meyer as representative of the Auschwitz butchers; yet in his memoir The Periodic Table (1975) he portrayed Meyer as the slyly mendacious former Nazi "Dr Lothar Müller", who apparently felt no shame for his past.

Hety, shocked by the "unkind" transformation of Meyer, suspected literary untruthfulness in Levi. As the years passed, Hety's letters to Levi became five, six, sometimes 10 pages long, and contained personal disclosures about family and private life. Furious rows had erupted between Hety and her daughter, who did not want to listen to her talk of Nazism. Undeterred, Hety sent Levi German books and newspaper clippings on the subject; as the material began to pile up unread at his end, Levi resolved to make his letters more skimpy ("Don't be cross"); but still this did not abate Hety's postal onslaught. It was time they met.

I n September 1968, while touring Germany, Levi called on Hety at her home in Wiesbaden. They had not exchanged photographs during their correspondence, and Levi had expected Hety to look rather intense. Instead, he found an unprepossessing, pale-faced woman in glasses; the real surprise was Primo Levi. From his author photograph on the German edition of If This Is a Man, Hety was sure he would look "tormented" or "worn down"; in reality she found him "relaxed" and even "blooming". More, he seemed to emanate "Strahlkraft" - a kind of charisma.

Three years later, however, when they met again, Hety thought him quite transformed. The Levi she encountered in Turin in 1971 was a fear-ridden and nervous man, whose German revealingly dried up as soon as his wife Lucia came into the room. Levi's "Sprachprobleme" ("speech-problems"), as Hety referred to them in her diary, may have been connected to the guilt he felt at betraying his marital problems to her in the correspondence. Not for the first time, Levi was depressed - and his depressive inarticulacy was striking. Afterwards Hety watched in embarrassment as Levi's wife "shrunk" from view across the restaurant table until she was "quite absent": Lucia spoke no German, and Levi soon gave up on his attempts to include her in the conversation.

On November 12 1975, hoping to fathom a darker side of post-Hitler Germany, Hety visited the apparently repentant Albert Speer in his home at Heidelberg. Though she was under no illusions about this Faustian figure, she wanted to commend Levi's books to him. Later she wrote excitedly to Levi that she had left a copy of If This Is a Man with the former Nazi. "I said he absolutely must read it!" Levi was bewildered: as Hitler's arms minister, Speer had been the principal Nazi exploiter of slave and Jewish labour. To Hety he wrote: "It looks to me like an odd dream that this book of mine, born in the mud of Auschwitz, is going to sail upstream - to one of the very Almighties of that time!" But he was unsettled by Hety's cosy audience with the enemy. "Explain to me: what moved you to interview Speer? Curiosity? Sense of duty? Mission?"

Did Speer read If This Is a Man? On New Year's Day 1976 Speer wrote to Hety that he had "skimmed" part of the book. Two weeks later, on January 16, he added that he did not wish to "disturb" Levi by reading his Auschwitz testimony. To this puzzling utterance Hety replied a full six months later: "I find it a great pity that you have not yet read If This Is a Man; if you did, the insanity and diabolicism of the Nazi system would finally be made clear to you." Speer never replied: Hety's last letter to him, dated May 5 1981, went unanswered. Four months later, Speer died of a cerebral haemorrhage in a London hospital. "I would have had some problems with writing to this ambiguous fellow," Levi told me when I interviewed him in 1986.

In 1983, suddenly and unexpectedly, Hety Schmitt-Maas died. She was 65. Her admiration for Levi (not always reciprocated) had been extraordinary, and Levi was always fond of her; she had helped to fill a void in Levi's life and gave him access to the intellectual ferment of postwar Germany. Her death precipitated another depressive episode for Levi. Part of his moral support had gone: everything about the friends' mutual solicitude, affection and trust stemmed from their shared hatred of Nazism and their need to understand Hitler's war against the Jews. For as long as he was in contact with Germans like Hety Schmitt-Maas, Primo Levi could believe that a Fourth Reich would be impossible; she had become his idea of the good German.

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ガラパゴス人間でいる権利、そしてSuicaの利用履歴記録販売に思う

2013年07月20日 | 

私は、SuicaPasmoも使ったことがありません。

これを言うと、私のことを『奇人変人』扱いする人がいますが、

1.通勤するわけではないので、電車もバスもそんなに頻繁に使わない。

2.昔から、出かける前に、交通費分の小銭をいつも別のお財布に用意しているし、帰りの切符も目的地に到着したときに買ってしまうので、あまり駅でもたつくことはない。

3.お財布にカード類を入れておくのが嫌。

(このおかげで、今は廃止となったバスのプリペイドカードも使い残してしまった。ポイントカードもあまり作らないけど、作ってももって行くのを忘れる。)

4.現金主義で、クレジットカードさえもネット決済(これも滅多に使わない)以外は使わない。

5.特にSuicaは、お得な切符の廃止の良い口実になっているので使いたくない。

6.このままSuica利用者が増えれば、切符の自販機も減らされる。

(携帯電話が普及して、公衆電話が廃止されていき、仕方なしに携帯電話を持つようになった人たちがいますね。)

7.無記名のSuicaであっても、何かしら行動を監視、それを利用されているようで、抵抗感がある。(インターネットの検索キーワード等もインターネット運営会社に利用されていますが、自覚していない人も多い。)

とずらずら出てきます。

そして、このうちの7番。犯罪者にならない限り、その行動を監視されることはないでしょうが、ただ、やはり利用はされていましたね。

誠 (2013719日)

Suica利用履歴販売,JRは「個人情報にあたらない」との見解

http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1307/19/news141.html

JR東日本が71日より、IC乗車券「Suica」の利用履歴を販売していることが、新聞やテレビに取り上げられ、ネットでも話題になっている。

データを販売した相手は日立製作所。いわゆるビッグデータとして、同社ではSuicaのデータを駅エリアのマーケティングに活用していく狙いだ。

(以降はリンクからどうぞ。)

しかも、それを第三者に売って、儲けてしまうというJRには驚きです。

(民営化されていなければ、一私企業の日立製作所に情報を売るなんてできなかったですね。)

さて、オマケに以下のものの。

これは2012年のものですが、私と同じような人は、思うほど少なくないようです。

Nifty マネー相談

なぜ利用しないの?女性があえて電子マネーを使わない理由

http://woman-money.nifty.com/basic/survey/detail/120626000101_1.htm

それにしても、プリペイド型電子マネーとお財布携帯はどうして日本でこんなに信者がいるのか。お財布携帯は日本独自でしょうが、プリペイド型電子マネーなど他国では日本のようにありがたがられるものとも思えません。(クレジットカードを使う人が多いためということももちろんあります。)

「小銭を持っていなくても良い」という人がいるようですが、チップの習慣がある欧州のコインの重さを考えれば、日本の小銭をもつくらいたいしたことではない気がするし、お財布にたくさんあるカードを選んでいるより小銭をお財布から取り出す手間の方が小さい場合もあると思うのですが・・・・所詮、ガラパゴス人間の私には理解できないことばかりです。

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Encounters with Japan 2 - IS JAPAN COOL?

2013年07月16日 | 異文化

秋に日本人の友人マミさんのドイツ人のペンフレンドMさんが来日する予定です。

私は彼が来日したときのお手伝いをすることになって、彼とメールを交わしたのですが、それでわかったのは、この50代初めの男性が日本のサブカルチャーファンであるということです。

彼がメールで書いてきた好きなアイドルや歌手、アニメ、正直に言うと私はちんぷんかんぷん(アニメは大体わかりました。)

これはマミさんとて同じ。

しかし私の夫や友人Tなどは案外詳しいので、彼ら2人にこの羅列した名前を見せたところ、2人共ほとんどを知っているようでした。

友人Tにいたっては、海外に赴任している人が日本に一時帰国したときに、AKB48のDVDをお土産に渡したりしています。

Tは

「それは、日本を離れていて、『浦島太郎』にならないように、ということもあって・・・」「話題として」

などと嘯きますが、彼自身AKB48の人気投票もチェックしていたり。

そういえば、アメリカ人のティムさん(40代)なども日本のサブカルチャーは私より詳しく、アニメは日本語の勉強もかねて楽しんでいるようですし、イタリア人のファビオさん(40代)も日本のアニメ、ドラマ、J-pop、私の夫だけでなく、息子より詳しいです。

「男性は、女性に比べて子どもの心を残した人が多いのね」なんて口では言って見るものの、アニメやドラマ、J-popまでは理解できはするけれど、アイドルがなぜ日本のみならず外国の中高年の心をつかむのか、私には正直に理解ができません・・・・。

しかし、何はともあれ、アイドルの方たちが日本のみならず、海外で熱狂的ファンを持っているということはすばらしいことですし、こうして日本に興味を持ってくれた人たちが日本を好きになってくれるのは確か。

Mさんは昨年も東京に1人滞在したのですが、彼は滞在中、存分に東京の熱気に新鮮さを感じ(彼はドイツの小さな村に住んでいます。)、日本人の優しさに触れ、感激したと言います。

「東京の観光スポットもほとんど制覇したから、今度は観光スポットではないようなところに行きたいんです。」

こうメールに書いてきていたMさん、どこに案内しようかな・・・と思案中です。

さて、ところでANAのこのサイトが海外の日本好きに人気だそうです。

Is JAPAN COOL?

https://www.ana-cooljapan.com/

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外国人の友人と名前の発音についてあれこれ

2013年07月09日 | 異文化

Aline, Anthony, Begorna,  Birgit, Burkhard, Elisa, Emanwel, Fabio, Juha, Julie, Julian, Jocelyn, Kai, Liana, Luigi,   Massimo, Maria, Sophie, Peter, Timothy, Thomas,  Reinhold,  Roberta, Ronald, Vanessa,  Venetka, Vincenzo・・・

以上、アルファベットを使う国の友人達の名前です。

こうした名前は、たとえばPeterという同じスペルであっても、ピーター、ペーター、ペテロと読み方が変わるので、メールを取り交わすだけでは、どう発音するのかがわかりません。

この中の名前、Juhaはフィンランドの友人の名前なのですが、フィンランド語を知らない私は、彼の名前を、「ジューハさん?」と訝っていましたが、実のところこれは「ユーハさん」となります。

フランス人の友人のAlineさんは、日本語を独学していて、ときどき日本語で自分の名前を「アリーネ」と書いてきていたので、「あれ?フランス語読みだったら、アリーヌさんにならないのかしら?」と思いながらも、「フランスであっても、名前やその他固有名詞の読み方は、必ずしもフランス風でなくても構わないのか・・・」と思い、何も言いませんでした。

(最近彼女は、「アリーヌ」と書くようになったので、先の「アリーネ」は単なる間違いだったのでしょう。彼女、もしかしたら「ネ(ne)」を「ヌ」と発音していたかな・・・・。)

さて、私の名前のYukariですが、「この名前のイントネーションや、rの発音はともかく、外国人に読み間違えられることはないだろう」と思ってきたのですが、昨年秋にイタリアにいったとき、リアーナさんと彼女のパートナーのファビオさん、ルイジさん(正しくは「ルイージ」)が私のことを、

「ユガーリ」と呼んでいることに気が付きました。

(2008年にリアーナさんとファビオさんに会ったときは、「ユカーリ」と読んでいたはずなんですが・・・。)

「私の名前は「ユカリ」という発音。「ガ」ではなく「カ」なの。

日本では痩せている人を「ガリ」と言うことはあるし、確かに私は痩せてはいるんだけど・・。」

と苦笑しながら訂正。

このとき一緒にいたマッシモさんこと日本語堪能のスマレ先生が、私にイタリア語読みの濁点がローマ字読みどおり(逆?)でない場合があることを説明してくれました。

これはイタリアだけでなく、たとえばスペインのZaraは日本では「ザラ」だけど、本国では「サラ」と読みますね。

ドイツ語でもSophieはソフィーではなく、ゾフィーになったり。

名前の発音ではなく意味ですが、ドイツ人のカイさんから、

Kaiという発音は、日本語ではどういう意味があるか?」

と聞かれたことがありました。

私は彼に、

「日本語は漢字等によって、同じ発音であっても意味が違うのですが、「カイ」という発音には、貝、海、櫂と、海に関するものが揃っていますね。」

と返答。

この話をしたあと、カイさんは、

「確か、ハワイの言葉でも、Kaiは海関係の意味があったと思うけど・・・面白いね。」

と。

実箱の話をドイツ語のわかる日本人の友人Tにしたところ、

「確かドイツ語でKaiは『波止場』という意味があったような・・・」

と教えてくれました。(当然、カイさんもこれは知っていたのでしょう。)

さて、名前の意味ですが、自分の名前について、今までも外国人から聞かれることが数回ありました。

私はそのたびに、

「日本語は、漢字によって意味が違うのだけど、私の名前はひらがなだけで漢字がありません。でも、「ゆかり」には、relationship の意味があるんですよ。大好きな名前です。」

と答えています。

それにしても名前の意味というのは外国人にとって興味があるのか、自己紹介と同時に自分の名前や苗字の意味を説明してくれた外国人がわりと多いのは、漢字がないだけに彼らは説明しやすいのか。

日本人では、どの漢字を使うかの説明をしても、あまり意味について話題にすることはないように思えます。

さて、最後にオマケを:

日本人の女性の名前について、意味を紹介する外国のサイトがありましたので、興味がある方はどうぞ。

http://www.names-meanings.net/names/female-japanese

「いつの時代の名前を書いているんだろう?」「これは男性名では?」という勘違いもありますが、楽しいです。(漢字と意味があっていないものもありますが、これもご愛嬌。)

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エジプト暫定政権首相にエルバラダイというシナリオ、そして原発ビジネス

2013年07月06日 | 国際協力・プロジェクト

エジプトの軍事クーデター-暫定政権首相にエルバラダイか・・・なんて声もあるようですね。

20112月にエルバラダイ前IAEA事務局長のことを書きました。

『エジプト-原発ビジネスと核開発』

http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/d/20110212

ブログ内で紹介した、記事のリンクと本文をもう一度貼り付けます。

彼が首相になってうれしい人たちはエジプト国外に多いでしょう。

NYR Blogs (2011.2.11)

ElBaradei and Egypt’s Nuclear Future

http://www.nybooks.com/blogs/nyrblog/2011/feb/02/elbaradei-and-egypts-nuclear-future/

The current turmoil in Egypt and the prospect of the collapse of Hosni Mubarak’s regime apart from everything else raise questions about the country’s nuclear program and where it might be headed. This is particularly interesting since a leading candidate to head the new opposition appears to be Mohammed ElBaradei, the former head of the International Atomic Energy Agency (IAEA), who has been critical of the Egyptian program in the past.

In March of 2005, ElBaradei issued an IAEA report saying that there were “matters of concern” involving the Egyptian nuclear program: the IAEA had found evidence that Egypt had failed to declare experiments it had been conducting involving, in “small amounts,” the separation of plutonium and uranium enrichment which can be done without a large enrichment facility. This was in violation of an IAEA safeguards agreement Egypt had signed in 1981. (Egypt’s two reactors and other nuclear facilities are run by the Egyptian Atomic Energy Authority under the supervision of the International Atomic Energy Authority.)

Although Egypt is not counted among countries with the bomb, its nuclear weapons program began under Gamal Abdel Nasser in 1954. At the time, Egypt was aligned with the Soviet Union, and the Russians sold it a small power reactor, which was located in Imchass in the Nile Delta some sixty kilometers east of Cairo. At about the same time, the Egyptians also tried to buy a heavy water reactor that would have been suitable for making plutonium. They also made unsuccessful attempts to buy either bombs or bomb materials from the Soviet Union and China, and Egypt began to develop a ballistic missile system that might have assisted future efforts to produce nuclear weapons. After Israel announced it was building a reactor at Dimona in 1960, Egypt is believed to have accelerated its pursuit of nuclear technology. Still, Nasser’s interest in getting a bomb seems to have been sporadic; he apparently never authorized a separate budget for nuclear weapons.

Under Nasser’s successor, Anwar Sadat, Egypt appeared to downplay talk about weapons, though it continued to pursue nuclear power; in 1981, Egypt ratified the Nuclear Nonproliferation Treaty and came under the IAEA safeguards regime. Nevertheless, the government of President Hosni Mubarak has had dealings with other nuclear source countries about nuclear technology. In 1992, Egypt signed a contract with the Argentines to build a second and substantially larger reactor?it would have eleven times the power output of the 1954 Russian reactor. Both of these reactors are much too small to produce any significant amount of power for civilian use or plutonium; they are designed for training purposes and for the manufacture of medical isotopes. In this, they resemble the Tehran Research Reactor in Iran’s capital, and like it, they use partially enriched uranium as fuel. The new Egyptian reactor went critical in February of 1998. According to some recently disclosed Wikileaks memos, Mubarak was also offered nuclear assistance, including “nuclear scientists, materials, and even weapons,” from some former Russian republics in the 1990s, but declined.

Along with the plutonium experiments, the IAEA’s critical report in 2005 related to the discovery of some traces of highly enriched uranium, which raised more questions: Egypt has some natural uranium but there is no evidence that it has an enrichment facility. In late 1964, when Nasser was stepping up his efforts to gain nuclear technology, it appears that the Egyptian government made contact with Gernot Zippe the Austrian engineer, who was one of the creators of the modern centrifuge and was a consutant to the European centrifuge industry. But Zippe also received visits from the Mossad and decided not to take up the Egyptian offer. I had some conversations with Zippe before his death and asked him about it, but he would not tell me anything. The Egyptians did manufacture a small amount of uranium hexafluoride, which is what one would use in a gas centrifuge. What troubled El Baradei in 2005, however, was not Egypt’s nuclear activity, which was legitimate, but the fact that the Egyptians were trying to do it covertly.

In 2007, Hosni Mubarak announced that the government planned to construct larger power reactors, but until very recently nothing was said about a weapons program. The prospect of Iran’s getting close to being able to produce nuclear weapons, however, changed everything. Last year, Mubarak said that Egypt would have to get nuclear weapons to defend itself. The Mubarak government claimed that since the Israelis have the bomb, Egypt too has the right to complete the nuclear fuel cycle, although no concrete steps seem to have been taken in that direction.

But now the Egyptian people are in the streets along with ElBaradei. If he is part of a new government that emerges, one hopes that his attitude towards nuclear proliferation will not change, though the Muslim Brotherhood?which is known to be hostile to Israel and which has in recent years called for Egypt to acquire a nuclear deterrent?could put new pressure on the government to pursue a bomb. No one knows how this will turn out but of one thing we can be grateful: unlike in Pakistan, which faces instability of its own and has apparently doubled the number of its nuclear weapons to about a hundred, there aren’t any nuclear weapons in Egypt that might fall into the wrong hands.

February 2, 2011, 12:05 a.m.

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「このスクリプトの実行を中止しますか?」トラブル

2013年07月06日 | 

ここしばらくパソコンに問題が-①1~2ヶ月くらい前からOCNブログのユーザーページで開くことの承認確認小ウィンドウがでてしまう。②数日前からはYahooで検索をすると、設定変更していないのに、なぜか別ウィンドウで開くようになった。③②と同じくらいのタイミングで楽天のブログや、japan guide comのユーザーページ(※本日夜解決)、少し重そうなサイトを開こうとすると、「このスクリプトを中止しますか?このページのスクリプトがInternet Explorerの実行速度を遅くしています」というような内容の小ウィンドウが開いてしまい・・・「ウィルス感染したか?」「パソコンの調子がおかしいか?」と頭を捻っていました。

ウィルスチェックしても問題はないので、パソコンの買い替え時期なのかと漠然と思っていましたが、ネットで検索してみると、私と同じような症状に悩む人が多くいるようです。(IE8以下)

③の解決法ですが、iromizu.comさんという方が、一時的解決策を書いてくださっています。

http://ameblo.jp/iromizu-com/entry-11567132657.html

この方法は、このブログ主さんが書いていらっしゃるように、ブログ等を書くときには「アクティブスクリプト」の設定を「有効」に戻す必要がありますが(設定を変更する場合再起動が必要で面倒。しかしダイアログ設定にしたら、今度は固まってしまいました。お勧めしません。)、ただ閲覧するだけならとりあえずこれで解決します。

(「アクティブスクリプト」を無効にした場合、③のみならず、①も解決。)

iromizu.comさん感謝。

②については、検索設定が強制的に変わっていまっていたようなので、これを修正して直りました。これは理由がわからないけど、時々起きる現象のようです。

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プーチン大統領に負けたオバマ大統領、そして盗聴について

2013年07月02日 | 海外ニュース・できごと

スノーデン氏による暴露で同盟国の盗聴までだまされ、窮地に立たされているオバマ大統領。

「盗聴はどこの国でもやっている」という発言。

橋下大阪市長の従軍慰安婦発言と同じレベルです。

これに対して、ロシアのプーチン大統領は1日の記者会見で、

「(容疑者が)ロシアに残りたいのなら条件がひとつある。われわれのパートナーの米国に損害を与えるような活動をやめなければならない」

こう述べました。

http://sankei.jp.msn.com/world/news/130702/erp13070201170000-n1.htm

もし今回のスピーチに勝ち負けがあるとしたら、これはプーチン大統領の圧勝ですね。

ところで、今回自国の大使館なども盗聴されていたと、日本もですが、同盟国のドイツやフランスまでもが米政府に文句を言っていますが、程度の差はあっても大抵の大国も盗聴を含んだ情報収集しているのは、おそらく本当でしょう。

そして、スノーデンに暴露されるまでもなく、『盗聴合戦』のことは知っていて知らぬふりをしてきていたはずです。

だから、今回の事件があったところで、米国もどの国もほとぼりが過ぎればまた元に戻るのでは、と思いますが、自らも盗聴しておきながら、正義漢ぶって、「○○国が盗聴している」「××が情報収集している」というダブルスタンダードはとりづらくはなります。

これが今後どう転んでいくのか・・・。

さてさて、盗聴は、国家間もしくは、その国の政府から国民監視だけに留まらなかったのも知っている人は知っているでしょうが、前に書いたとおり、私のブログも、イリノイ大学のブラックリストに載ってしまったことがあります。

『監視下に置かれたような気分』

http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/d/20110501

イリノイ大学が米国政府に通報していないとしても、何でこんな監視のようなことをしていたのでしょう?不自然です。

ま、今では『白』となったのか、中身は消えているようですが、今でもGoogleで検索すると、リンクされていたのがわかります。(201372日現在)

試しに、Google で、The Carbon Capture Reportafternoon-tea-club.blog.ocn.ne.jpと検索窓に入れて検索してみてください。(※リンクは開かないでください。開いても責任は持ちません。)

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夢追いキリギリスたちへの処方箋

2013年07月02日 | 教育

「国際的な人、国際人になりたい」「国際舞台での仕事がしたい」と言う若い人と話すことがたまにあります。

「国際人に・・・」(『国際人』って定義はないと思いますが・・・)-こういうことを言う人には、「国際人とは、語学が堪能であることや、外国人の友人達がたくさんいること」なんて、勘違いをしている人も少なくなくありません。

とはいえ、やはり国際人を目指すなら、語学習得も必要。

(参考:『内向き志向の若者』

http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/d/20100619

だけど、上記のような人達は語学の勉強を基礎から見直すのではなく、「外国人と知り合えば語学も出来る」と外国人の友人作りから始めようとしがち。が、よほどの相手(「この人のことをもっと知りたい」と双方が思うようになれる相手)にめぐり合わない限り、それは無理というもの。

こうして、彼らは「なぜ自分には外国人の友人ができないの?」「どうすればよい?」というところから悩みだしはしますが、相変わらず「国際的な人間になりたい」というだけで空回り。

これは、「国際人云々」だけに限らず、将来像にわたって、『夢だけ追って、大変なことは避けている人』共通ですが、なぜ彼らは、苦労してまで夢をつかもうとしないのか、できないのか-

ちょうど、こんなものがありました。

Business Journal (201371)

自己啓発ビジネスの餌食になる人々…能力や資格より大切なこととは?

By 鈴木領一氏

http://newsbiz.yahoo.co.jp/detail?a=20130701-00010001-biz_bj-nb&ref=rank

「私の夢はホテルのオーナーになることです。どうすれば夢が実現するでしょうか?」

 コーチングをしていると、かなりの頻度で、このような相談を受けることがあります。こういった相談をされる方の多くが、なんらかの自己啓発書やセミナーに影響されているようです。私はこのような相談を受けると、究極の質問を1つします。それは、

「では、今日、何をしましたか?」

です。

 この究極の質問をして具体的な答えが出てくる人は、間違いなくその夢に向かって進める人です。しかし、9割の人が、「え?」という反応をします。「何をすればいいかわからないから、相談しているのです」と。あなたは、この反応のおかしさがわかりますか?

(中略)

私はコーチングの経験から、夢を語る人を3つのタイプに分類しています。その中で、現実に夢を実現するのは1つのタイプしかありません。では、その3タイプを順番に説明していきましょう。

1)逃避タイプ

 このタイプは現状から逃げるために「夢」を口実にしようとするタイプです。「サラリーマンが嫌だから独立したい」と言う人に多いです。現状から逃れるために消極的な選択をしているだけで、積極的に「夢」に向かう姿勢はありません。「なんのビジネスで独立するのですか?」と質問しても、「まだ探しています」としか答えられません。

 起業塾のような勉強会やビジネススクールに参加している人にこのタイプが多く、ずっと起業の勉強をし続けても会社を辞めることはありません。口から出てくる言葉は常に現状の不満であり、そこから逃避したいという願望のみです。しかし「夢」に向かって一歩踏み出す勇気もなく、結局、不満を持つ現状に戻っていきます。

 現状の不満だけに頭が満たされた人が夢を実現した例を、私は一度も見たことはありません。

2)錯覚タイプ

 先ほどの「ホテルのオーナーになりたい」というタイプです。漠然とした夢を抱き続けているのですが、毎日ほとんど何も行動していません。

 最近はこのタイプが非常に急増しているのですが、これは自己啓発セミナーの急増とリンクしているように思います。夢を大きく持ちましょう、絶対に実現しますよ、とモチベーションをあおられ、その場の雰囲気で夢を設定してしまった人が、このタイプに陥りやすいです。

 この夢を実現できればカッコイイ、この夢が実現できたら素敵、という雰囲気だけで設定しているにもかかわらず、「夢をイメージすれば魔法のように実現できる」と錯覚しているのです。このタイプは自己啓発ビジネスの良いお客さんです。

3)恋愛タイプ

 夢を実現するのはこのタイプです。1つのことで頭がいっぱいで、24時間頭から離れることなく、それに向かって毎日行動せずにはいられない状態の人です。まるで熱烈な恋愛をしているように「夢」に夢中になって、どんな苦労や逆境も乗り越えていきます。

 このタイプに、「今日、何をしましたか?」と聞けば、とめどもなく“やったこと”が出てきます。些細なことでも。

 それはなぜか。好きだからです。好きならば周囲がとめたとしても、その夢に向かって行動するものです。これは恋愛と同じですよね? あなたには経験がありませんか?

 夢を語りながら何もしない人は、結局、それが好きでないことを証明しているにすぎません。

 好きでもないのに、「カッコイイから」「成功者っぽいから」という理由だけで、好きでもない夢を設定している人が実に多いのです。それは単なる見栄以外の何ものでもありません。

(後略)

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