Various Topics 2

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※旧Various Topics(OCN)

ナポレオンが大物になった背景-9(「理性の祭典」~皇帝)

2023年12月15日 | フランス革命・サヴォイア・ユグノー・バチカン

ナポレオン(1世)は大物ではなく、初期は彼はヴァランスのサン=ルフ修道会(アヴィニョン)の力を借りて、ピウルス6世を引きずり下ろし(彼はヴァランスで死亡)、権力にすり寄る人々に利用され、利用しながら大物になっていった・・・そんなところではないかと思えてきました。

ジョセフィーヌが来ているエンパイアドレス(ギリシャ、ローマ神話風ハイウエスト、コルセットなしのドレス)が流行るようになったのは、ナポレオンの皇帝戴冠式(1804年)からかと思っていましたが、このドレスが注目を浴びたのは、1793年からのことのようです。

フランス革命期における非キリスト教化運動 - Wikipedia

抜粋:

ジョゼフ・フーシェによって1793年10月に発せられた墓地令では、共同墓地から十字架さえ撤去されて、死者を見守るのはただ「死は永遠の眠りである」と記された墓碑銘だけとなった[37]。死生観さえも世俗化され、以後、死と葬送は私事の領域へと移っていくこととなる[37]。共同墓地や教会から刈りだされた十字架は火刑の薪となった[37]。告解の場もまた焼却されるか、哨舎に転用された[37]。

非キリスト教化運動と並行して愛国的な市民祭典がさかんに催されるようになった[注釈 5]。そのなかで有名なのが、「理性の祭典」と「最高存在の祭典」であった。

「理性の祭典」は、1793年11月以降、パリのノートルダム大聖堂を中心にフランス全土で開催された祭典であり、ジャコバン派独裁のなか、同派のなかでジャック・ルネ・エベールを中心とするグループ(エベール派)の主導でおこなわれた[35]。国家規模で営まれた公式な祭典はエベールとアントワーヌ=フランソワ・モモロ(英語版)が監修し、企画や運営はピエール・ガスパール・ショーメット(英語版)があたった。

11月10日、ノートルダム大聖堂の内陣中央に人工の山が設けられ、その頂上にギリシャ風の神殿が建てられ、その四隅にはヴォルテール、ジャン=ジャック・ルソー、シャルル・ド・モンテスキューといった啓蒙思想家たちの胸像が設置され、神殿のなかからは「自由と理性の女神」に扮したオペラ座の女優が現れるという趣向で「理性の祭典」が始まった[35][13][42]。祝祭の少女たちは白いローマ風のドレスとトリコロール(3色)の帯を身にまとい、「自由と理性の女神」のまわりを動き回った[43]。

赤いボンネットをかぶった女神は、白いドレスと青いマントを身につけて、手には黒檀の槍を持ちつつ緑色に彩色された玉座に着座する[42]。そこにアジテーターが「狂信はいまや正義と審理に決定的に席を譲った。今後司祭は存在せず、自然が人類に教えた神以外に神は存在しないであろう」というアナウンスで盛り上げると、革命賛歌の歌声が聖堂全体に響きわたった[42]。やがて、群衆が狂喜乱舞する祝宴が繰り広げられるという、きわめて無神論的、ないし無政府主義的な性格の強いものであった[42]。

マクシミリアン・ロベスピエールと公安委員会は、非キリスト教化した者たちこそむしろ革命の外敵であると弾劾し、独自の新しい宗教「最高存在の崇拝」を確立した。霊魂の不滅を信じる清廉潔白なロベスピエールからすれば、革命の祭典はこのような無神論的でアナーキーなものであってはならず、カーニヴァルのような前近代的民俗の再生ではなく、「新しい人間」すなわち共和主義的な公民を創生するための公教育の一環でなくてはならなかった[42]。「単一にして不可分」の共和国の基盤は道徳性を備えた民衆のなかにこそあるというのがロベスピエールの主張であった[42]。その道徳性なるものは信仰心なくして生まれないと考えるロベスピエールは、「もし神が存在しないなら、それを発明する必要がある」と語ったといわれており、キリスト教の「神」に代わるもの、それが「最高存在」なのであった[42]。

こうして、1794年5月7日の法令に基づいて6月8日にテュイルリー宮殿やシャン・ド・マルス公園を中心に「最高存在の祭典」が挙行された[35][13][42]。これはロベスピエール派による理神論的性格の強い市民宗教であった[44][42]。すなわち、「理性の崇拝」を批判しながらも、カトリシズムの「迷信」を排除しようというのがロベスピエールの立場であった[45]。

(中略)

1799年の後半には、司祭は依然として刑罰のため投獄されていたり、植民地に追放されていたりした。迫害は、ルイ=アレクサンドル・ベルティエ将軍率いるフランス軍が1798年の初めにローマを占領し、ローマ共和国の建国を宣言し、1799年8月、フランス軍によって捕らえられた教皇ピウス6世がフランスのヴァランスにて死去したのち、いったん悪化した。フランス優位のもとで、執政官ナポレオン・ボナパルトは政府関係者と新ローマ教皇ピウス7世とのあいだで1年にわたって交渉させ、1801年のコンコルダ(政教協約)によって公式に非キリスト教化運動を終結させ、ローマ教会とフランス国家との関係にかかわる諸規則を確定させた[32]。

「恐怖政治」の犠牲者は2万人から4万人におよぶとされている。ある推計によれば、革命裁判所によって断罪された人の内訳は貴族が約8パーセント、聖職者6%、中産階級14パーセント、労働者・農民は約70パーセントであり、かれらは徴兵拒否、脱走、反乱、その他の罪で処罰された[47]。これらの社会的集団のうち、比率の上で最大の損害をこうむったのはローマカトリック教会の聖職者であった[47]。

 

なお、「理性の祭典」を企画したエベール派に加担したバブーフと一緒に「パンテオン・クラブ」を結成したのが、フィリッポ・ブォナロッティ。資金援助、ジョセフィーヌの元愛人バラス。

フランソワ・ノエル・バブーフ - Wikipedia

革命と戦争、コルシカとカルボナリ-4 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ポール・バラス - Wikipedia

 

参考:

ピウス6世 (ローマ教皇) - Wikipedia

ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠 - Wikipedia

 

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ナポレオンが大物になった背景-8(ヴァレンス、サン=ルフ修道会/騎士団)

2023年12月14日 | フランス革命・サヴォイア・ユグノー・バチカン

ナポレオンが大物になった背景-4(ヴァランスとマルブフ親子) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

で、ナポレオンがサン=ルフ修道会の(元)院長のタルディヴォンと会ってからのことが来てあるものを発見。

そもそも、ナポレオンは、コルシカ島より、ヴァレンスが故郷のようなものになっていることは確かなよう。

 

Bonaparte et Valence (bonaparte-a-valence.fr)

抜粋フランス語google翻訳:

愛と人間関係

常に寡黙だったブオナパルテはすぐに回復し、マルブーフ司教の勧めで、サン=ルフ正規教会の最後の管長ジャック・ド・タルディヴォンと定期的に面会するようになった。 実際、「規範の緩和」に直面して、1764年に下された国務院の決定は、サン=ルフ騎士団をサン=ラザール騎士団に結び付けるものであった。 数回の上訴と裁判の後、ジャック・ド・タルディヴォンは、10,000ポンドの終身年金とクロシエと留め金具を身に着けた修道院長としての特権の維持と引き換えに、この差し押さえを受け入れた。 彼は修道院の建物 (1944 年 8 月 15 日に破壊) に住んでおり、ローヌ川を見下ろすラウンジや庭園でヴァランスからの VIP を迎えています。

ブオナパルテ中尉は民間世界について学びます。 彼はブーゲンビルでの旅の物語を語る探検家ド・サンジェルマン氏の話を聞きます。 彼はフリードリヒ 2 世の図書館司書であるド・パルネティ氏とプロイセンについて話し合います。 修道院長の義理の弟で、元市会議員でアルトワ歩兵連隊の中佐であるド・ジョスラン氏と軍隊の一員。 百科事典のアベ・レイナルとともにコルシカ島について語る。 これらのつながりのおかげで、彼はグルノーブル議会議長のド・ブレサック氏と連絡を取ることができました。 1795年にヴァランス市長、1801年に知事、1809年に内務大臣に就任したジャン=ピエール・バシャソン・ド・モンタリヴェに、ブオナパルトはある日こう言った。 …私は人間ではありません、歴史上の人物です。 » 彼はダンスやチェスを学び、周囲の城に招待され、しばしば魅力的な仲間に加わりました。

エトワール近郊のバソーで、リヨン出身の精神的で教養のある55歳のコロンビエ夫人(本名アンヌ・カルメニャック)が、彼を田舎の家に招待し、あまり禁欲的ではない生活を送るようアドバイスした。

(中略)

 ヴィルプラでブオナパルトを魅了したのは、「美しいブルネット」ルイーズ・アデライド・ド・サンジェルマンだった。 彼女は農民将軍ジョゼフ・ド・サンジェルマンの娘です。 実際、彼の母親は「愛する人の優しさを感情を持って歓迎し」、若いナポレオーネが恋に落ちた娘が生まれました。 彼はド・サンジェルマン氏に彼女の手を求めたが、サンジェルマン氏はこの若い砲兵中尉には未来がないと考えて拒否した。

(中略)

1789 年 7 月が到来、ナポリオーネ「鼻の上の藁」は 20 歳になりました。 規律正しい兵士である彼は無政府状態を非難しますが、それでも自由の進歩を歓迎します。 コルシカ島でのイベントに参加したいと考えた彼は、二学期の休暇をコルシカ島で過ごすために出発します。 9月12日、彼はヴァランスを通り、ターディヴォンの修道院長を含む旧友に会いに行き、(彼は)こう告げた。 もしあなたが王になったら、ムッシュ・ド・ブオナパルト、キリスト教の宗教に適応して、あなたは裕福になるでしょう。

 彼はコルシカ島に 15 か月間滞在し、パオリの側につき、それでも彼を教育した王党派に対する反対を常に煽動しました。 1791 年 1 月末、ナポレオーネは脱走兵か移民に認定される恐れがあったため、大陸に加わりました。 彼は2月8日にヴァランスを渡り、弟のルイとともにオーソンヌに戻った。 彼は成長し、彼を歓迎するメイジーたちは、彼がより社交的になったのを見て喜んでいます。

(中略)

1791年7月6日、バレンシア。 ブオナパルテ、第 4 砲兵連隊の士官。

ブオナパルテはもはや革命の大義を公然と受け入れることをためらわない。 6月16日からヴァランス憲法友の会の会員となった彼は、後を継いでイタリア軍司令官となるジャン=エティエンヌ・シャンピオンネ、後に帝国元帥兼ベルーヌ公爵となるクロード=ヴィクトール・ペランと出会った。

(中略)

 彼は今でも同じように本を読み、ノートに目を通し、再び書き始めます。 彼はリヨンのアカデミーが主催する文芸コンクールに参加するが、内容が許容範囲であれば、形式が大げさすぎる。 彼の原稿は陪審によって「平凡以下」と判定された。

 

 

なお、「探検家のサンジェルマン」は、アデライド・サンジェルマンの叔父のもう一人、ルイ・アントワーヌ・スタロ・ド・サンジェルマン・ド・ロベリ( Louis-Antoine Starot de Saint-Germain de Loberi)だと思います。

しかし、wikipediaでは、パリ、1761年生まれのサンジェルマンしか見つかりません。

Antoine-Louis Decrest de Saint-Germain - Wikipedia

ナポレオンが大物になった背景-5(サンジェルマン家) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

仮置き:

Jean-Étienne Championnet — Wikipédia (wikipedia.org)

Temple protestant Saint-Ruf — Wikipédia (wikipedia.org)

Ruf d'Avignon — Wikipédia (wikipedia.org)

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ナポレオンが大物になった背景-6(サンジェルマン伯爵とナポレオン)

2023年12月12日 | フランス革命・サヴォイア・ユグノー・バチカン

前回の「サンジェルマン伯爵」、不老不死とか、不思議な薬を研究、ダイヤの傷を消す、というのであれば、魔女狩りにあってもよさそうなのに、対象になりませんでした。

魔女裁判が衰退した背景-錬金術とフリーメイソン - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

後にナポレオン3世が、「サンジェルマン伯爵」に興味を持って資料を集めさせ、その資料が火事で焼失したというのが本当ならば、サンジェルマン伯爵の存在自体も後世に作られたものではなかったか(実際に存在した人の寄せ集め)寄せ集めで…とも思ったりします。


「サンジェルマン伯爵」のモデルに近いのは、このサンジェルマンですか。

クロード=ルイ (サン=ジェルマン伯爵) - Wikipedia

サン=ジェルマン伯爵クロード=ルイ(フランス語: Claude-Louis, comte de Saint-Germain、1707年4月15日 - 1778年1月15日)は、フランス王国の将軍。1775年、フランス元帥に叙された。 生涯 クロード=ルイは1707年4月15日、ヴェルタンボー(英語版)のシャトーで生まれた。彼はイエズス会の学校で教育を受け、聖職者としての道を歩むつもりであったが、その直前にフランス王ルイ15世により少尉に任命された。その後、彼はフランスを離れたが、当時の風説では決闘が原因とされた。

フランスを離れたクロード=ルイはまずプファルツ選帝侯カール3世フィリップの下で働き、オーストリア・ロシア・トルコ戦争においてハンガリー軍に従軍してオスマン帝国と戦った。1740年にオーストリア継承戦争が勃発するとバイエルン選帝侯カール・アルブレヒト(後の神聖ローマ皇帝カール7世)の軍に従軍、その勇猛さで陸軍元帥中将(英語版)に昇進した[1]。 カール7世が亡くなるとバイエルンを離れ、プロイセン王フリードリヒ2世の下で短期間働いた後ネーデルラントでサックス元帥と合流、少将に昇進した。その後、ローフェルトの戦い、ロクールの戦い、マーストリヒト包囲戦で活躍した。1756年に七年戦争が勃発すると中将に任命され、コルバッハの戦い[2]などの戦闘において同時期の将官より上の才能を示し、兵士たちにも敬愛されたものの、宮廷の陰謀や嫉妬と敵意に満ちた批判に晒され、1760年に辞任した。続いてデンマーク王フレデリク5世からの招聘を受け、元帥の職についたが、1762年にデンマーク軍の改革で解雇された[1]。

(中略)

クロード=ルイはすぐにフランスに戻り、アルザス地方のラウテルバー川(フランス語版)の近く(ミュルーズの近く)で別荘を購入し[4]、時間を宗教と農業に費やした。しかし、フランスの財政危機でデンマーク軍従軍中に貯金した財産を全て失い、フランス戦争省からの年金に依存せざるをえなかった。1775年10月25日、改革者のテュルゴーとマルゼルブ(英語版)の引き立てにより宮廷に入り、ルイ16世により戦争相に任命された。クロード=ルイは戦争相として士官の数を減らし、軍紀を厳正にしようとし、プロイセン風の規律をフランス軍に導入しようとしたが、大反対に遭って1777年9月に辞任した。彼はルイ16世から4万リーブルの年金を受け取り、1778年1月15日にパリの軍需工場近くにある自宅で亡くなった[1]。

こちらのサンジェルマン家からの人々や、

ナポレオンが大物になった背景-5(サンジェルマン家) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

案外、「サンジェルマンを観た」と言っていたジャン・ジャック・ルソーあたりもモデルになりそうです。

ジャン=ジャック・ルソー - Wikipedia

 

まあ、ナポレオン3世にとって、「サンジェルマン伯爵」は意味があったのでしょう。

ヘブライの館さんが興味深いことを書いていらっしゃいました。

サン・ジェルマン伯爵の謎〈後編〉 (client.jp)

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ナポレオンが大物になった背景-番外編(サンジェルマン伯爵とは)

2023年12月11日 | フランス革命・サヴォイア・ユグノー・バチカン

前回の記事

ナポレオンが大物になった背景-5(サンジェルマン家) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

で「サンジェルマン伯爵」について触れましたが、彼のことを知らない人に見てほしい動画です。

【不老不死】サン・ジェルマン伯爵の伝説とは? (youtube.com)

 

この動画には、ヴォルテールのことも少しだけ出てきますが、ヴォルテールがそうであったように、サンジェルマン伯爵も、スクレ・ドゥ・ロワだったのではないか?と私は思っています。

ペリエ家-序(パリの上下水とカロン・ド・ボーマルシェ) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

不老不死だとか、タイムトラベラー、錬金術師との話は、ヴォルテールとも縁があった人たちもいた、ルナーソサエティの会員たちの知恵を借りればなんとかなりそうな。(口裏合わせ)

ユニテリアンと科学と政治-2(エラスマス・ダーウィンとマシュー・ボールトンとLunar Society) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

スクレ・ドゥ・ロワ - Wikipedia

抜粋:

スクレ・ドゥ・ロワ(フランス語:Secret du Roi)とは、ブルボン朝フランス国王ルイ15世の治世下に活動した秘密機関。「スクレ・ドゥ・ロワ」とはフランス語で「王の秘密機関」の意[1]。 

概要
ルイ15世によって創設され、秘密外交や情報収集を行う機関であった。シャルル・フランソワ・ド・ブロイ侯(en:Charles-François de Broglie, marquis de Ruffec)、続いてジャン・ピエール・テルシエ(Jean-Pierre Tercier)によって率いられ、配下のエージェントには後に哲学者として活躍するヴォルテール、『フィガロの結婚』などを執筆したカロン・ド・ボーマルシェ、女装の剣士として知られたシュヴァリエ・デオン、アメリカ独立戦争の際に外務大臣を務めたベルジェンヌ(en:Charles Gravier, comte de Vergennes)のほかブトレイユ[1]、シャルル・テヴノー・モランド(en:Charles Théveneau de Morande)、ルイ・ド・ノアイユ(en:Louis de Noailles)[2] などがおり、献身的な活躍をみせた[1]。スクレ・ドゥ・ロワは欧州に広くネットワークを張り巡らせて情報収集にあたった。

 

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ナポレオンが大物になった背景-5(サンジェルマン家)

2023年12月11日 | フランス革命・サヴォイア・ユグノー・バチカン

ナポレオンがヴァランスにいるとき、恋に落ちた女性は、アデライド・サンジェルマン。

 

Adélaïde de Saint-Germain — Wikipédia (wikipedia.org)

抜粋フランス語google翻訳:

モンタリヴェ伯爵夫人ルイーズ・アデライド・スタロ・ド・サンジェルマンは、1769 年 2 月 13 日にヴェルサイユで生まれ 1、1850 年 3 月 10 日にトーヴネ城で亡くなった2 人で、ルイ 15 世の私生児とされています。 起源 彼女は国王の愛人の一人であるカトリーヌ・エレオノール・ベナールの娘であり、(公式には)農民将軍ジョセフ・スタロー・ド・サンジェルマンの娘です。 しかし実際には、彼女は嫡出の両親の結婚から数カ月後のルイ15世の娘であり、ルイ15世の娘ではなかった。

バイオグラフィー

彼女は若い将軍ナポレオン・ボナパルトと出会い、彼女に恋をし、結婚するつもりさえあったが、アデレードの父親の拒否に直面して撤退しなければならなかった10.3。 1797 年 7 月 31 日にヴァランスで、彼女は将来ボナパルト大臣となる従妹のジャン・ピエール・ド・モンタリヴェ 2,11 と結婚した。 彼女には彼との間に3人の子供がいる:フランス貴族シモン・ド・モンタリヴェ、公使カミーユ・ド・モンタリヴェ、そしてタッシャー子爵夫人ジョゼフィーヌである。 彼女は 1804 年から 1810 年までジョゼフィーヌ皇后の宮廷女官となり、その後 1810 年から 1814 年までマリー=ルイーズ皇后の宮廷女官となりました。

(中略)

 彼女はフランス共和国大統領ヴァレリー・ジスカール・デスタン(1926-2020)の母方の先祖にあたります。

(後略)

 

彼女が結婚したのは、

ナポレオンが大物になった背景-1(ジャン・ピエール・バシャッソン~クロード・ペリエ) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

に書いたジャン・ピエール・バシャッソンです。

ジャン・ピエール・バシャッソンの母親もサンジェルマン家出身で、つまりアデライドの父親と兄弟です。


”サンジェルマン”と聞くと、どうしても思い出す「サンジェルマン伯爵」。

サンジェルマン伯爵 - Wikipedia

「アデライドの実の父親がルイ15世」というのが真実かどうかははっきりしていないようですが、むしろサンジェルマン家が、サンジェルマン伯爵(ルイ15世と懇意)と関係があったと考えてもよいのではないかと思うのです。

Joseph Starot de Saint-Germain — Wikipédia (wikipedia.org)

フランス語google翻訳:

ジョゼフ・クロード・スタロー・ド・サンジェルマンは、ヴィルプラ、モンヴァンドル、モンメイランの領主で、1729年3月14日にヴァランスで生まれ、第2フロレアル年22日(1794年5月11日)にパリでギロチンにかけられた、フランスの農民将軍である。

バイオグラフィー :

彼の祖父は、ジャン=バティスト・スタロー・ド・サン=ジェルマン(1672~1730)という名前で、スイス衛兵とスイスとドイツの皮なめし業者の息子で、著名な作家、数学者、家庭教師、当時はヴァランスのローマ人のブルジョワでした。 ジョゼフ・スタロー・ド・サンジェルマンの父親は、ヴィルプラ城主、国王の顧問、ヴァランス選挙の税金受領者であるルイ・スタロー・ド・サンジェルマン(1701-1793)であり、母親はイザボー・フォリエル(アベル・フォリエルの娘)である。イザボー・デュラン)。

彼の兄弟の一人、エメ・スタロ・ド・サンジェルマンは、サン・サトゥルナン・ド・ノジャン教会の司祭となる予定である。 もう一人、ルイ・アントワーヌ・スタロ・ド・サンジェルマン・ド・ロベリー1は、ブーゲンビル2とともに探検家としてブードゥーズに乗り出しました。 彼の姉妹の1人はシャルル・ヴィクトール・ド・バシャソン・ド・モンタリヴェ将軍と結婚し、もう1人はフランソワ・サンデクール・ラ・クロワ・サン・ピエール(アルベール・ラクロワ・サン・ピエールの曽祖父母)と結婚した。

急上昇

優秀な彼は、ドーフィネ議会の弁護士となり、ヴァランス大学の医師および学長になりました3。 その後、彼は 1764 年にヴァランス税の受領官というささやかな役職に就きました。 彼の結婚式は 1768 年 3 月 11 日にノジャン・シュル・マルヌで行われました。彼はルイ 15 世の愛人カトリーヌ・エレオノール・ベナールと結婚しました。 彼らの娘、将来のモンタリヴェ伯爵夫人アデライド・ド・サンジェルマンは、ルイ15世の実の娘であると考えられています。 彼女はボナパルトの幼少期の恋人だったが、ジョセフ・スタロ・ド・サンジェルマンはこの結婚に反対した。

彼のキャリアは、ルイ15世の愛人であった妻のおかげで急速に軌道に乗りました。 結婚から 2 年後の 1770 年に、彼はポストの監察官に就任しました。 1780年、彼はモンメイランの土地と男爵領を総額107,000ポンドで購入した。 

(後略)

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ナポレオンが大物になった背景-4(ヴァランスとマルブフ伯父、甥)

2023年12月10日 | フランス革命・サヴォイア・ユグノー・バチカン

ナポレオンが大物になった背景-2(オルレアン公とカリオストロ) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

に、「ナポレオンが1785年にヴァランスに赴任することになったのは、間に誰かが入っていることはなかったのでしょうか。」と書きましたが、ヴァランスの滞在時に、ナポレオンの人脈づくりを手伝った人物として、イヴ=アレクサンドル・ド・マルブフがいました。

Napoléon Bonaparte à Valence - Napoleon & Empire (napoleon-empire.net)

抜粋フランス語google翻訳:

若きナポリオンヌ・ド・ブオナパルト少尉がヴァランスに到着したのは、1785 年 11 月 3 日 (6 日だという著者もいる) でした (彼は 1778 年 12 月末に、弟のジョセフと、彼らを連れて行ってくれた父親とともにヴァランスを通過しました)オータン大学)、エコール・ミリテール・ド・パリ出身で、クラスメートのアレクサンドル・デ・マジスとともに。

そこで彼は、国王軍准将の階級を持つ砲兵大佐である騎士ルイ・セザール・ド・ランスが指揮するラ・フェール砲兵連隊と、当時陸軍元帥ブシャール氏が指揮していたヴァランス砲兵学校に加わった。

ボナパルトはジャック・フィリップ・フランソワ・ド・マソン・ドートゥム大尉の爆撃機中隊に配属された(彼は1803年に移民から帰国すると、第一領事によって砲兵工科大学図書館の学芸員に任命された)メッツ)。 彼の給料は年間1120ポンド(800ポンドは国庫から、120ポンドは州から支払われ、200ポンドは士官学校の士官でまだ大尉の階級に達していないため学校の資金から支払われる)である。

彼は自分自身を住まわせ、自分自身を養い、すべての必要を満たします。 このために彼は、グラン・リュ 48 番地、クロワッサン通り [現在の中尉ボナパルト通り] の角でカフェ・サークルを経営する 50 歳の独身女性、マドモアゼル・マリー・クロディーヌ・ブーと一緒に引っ越しました。上の階の部屋。 グラン・リュに面した窓のある部屋は月に8リーブルと8ソルかかり、メゾン・デ・テットのほぼ向かい側にある。華やかなゴシック様式とイタリア・ルネッサンス様式が入り混じったファサードはしかめ面の彫刻や彫像で覆われている。

オータン司教で元コルシカ島総督の甥であるイヴ・アレクサンドル・ド・マルブフ首長の署名入りの推薦状を携えた若い中尉の最初の訪問の一つは、修道会の修道院長ジャック・ド・タルディヴォン氏を訪問することである。サン=ルフの。 後者は自分の修道院(現在は門だけが残っている)で彼を非常に丁重に迎え入れ、その後熱心に夕方と夕食に彼を招待し、こうして彼を世界に紹介した。

このようにして、彼はヴァランス社交界の良家に受け入れられ、そこに所属する若い女性たちの魅力に鈍感になることはありません。 ブーゲンビルの元探検家で、一般農民になり、コート・デ・コルドリエに私邸を所有するジョセフ・スタロ・ド・サンジェルマンの家で、彼は娘のルイーズ・フランソワーズ・アデレードに恋に落ち、自信を持って尋ねるまでになった。

 

Yves-Alexandre de Marbeuf - Wikipedia

イヴ=アレクサンドル・ド・マルブフ(Yves-Alexandre de Marbeuf、レンヌ、1734年 - リューベック、1799年)は、フランスのオータン司教、リヨン大司教、政治家。 彼はヨーロッパの啓蒙思想[1]とジャンセニズムの反対者でした[2]。 彼はフランス革命後に亡命しました。

バイオグラフィー

若い頃のナポレオン・ボナパルトの保護者であるマルブフ伯爵の甥である彼は、1767 年 4 月 19 日にオータン司教に任命され、1788 年までその職を務めました。 彼の後継者は有名なシャルル・モーリス・ド・タレーラン・ペリゴールです。 その後、彼は高収入のリヨン大司教領(年間年金5万ポンド)にアクセスする。 彼は 1782 年にベック修道院も受領し、最後の修道院長となりました。 旧体制下では、彼はフランスにおける教会の地位の配分を管理するシート利益大臣を務めた。 革命初期からマルブーフは保守派として浮上した。 彼は一般国民法には反対していないが、聖職者憲法には強く反対していた[3]。 彼は移住を決意し、リヨン司教の後任として陪審員のアントワーヌ=アドリアン・ラムレット司教が就任したが、カトリック教会の目から見ると、マルブフ司教は1799年に亡くなるまでリヨンの正統な司教であった[4]。

コルシカに滞在していた伯父(叔父かも)。

Charles Louis de Marbeuf - Wikipedia

ルイ・シャルル・ルネ(ルイ・シャルル・ルネ、マルブフ伯爵、1712年11月4日、レンヌ、バスティア、1786年9月20日)は、フランスの将軍。人生 ブルトン領主の息子である彼は、アンシャン・レジーム軍に勤務し、ドラゴンズ・ド・コンデの大佐となり、最初はショーヴランとヴォー伯爵の間の暫定軍司令官としてコルシカ島の平定に参加した(1768年12月~4月) 1769年)、その後ポンテ・ノヴの戦いまでヴォー指揮下の軍団司令官を務めた。 1774 年、彼はアジャシオに住んでいたギリシャ人入植者のグループのためにカルジェーズ村を建設しました。 1783年9月29日、彼はパリでカトリーヌ・アントワネット・サリンゲラ・ド・ガヤドン・ド・フェノイルと結婚した。 彼はルイ15世に代わってコルシカ島政府のカルジェーズ侯爵に任命された。 コルシカ島滞在中、彼はボナパルト家と友人になり、ナポレオン・ボナパルトの保護者として行動し、セントヘレナ記念碑で回想されているように、彼のためにブリエンヌの陸軍大学に入学する場所を獲得した。(後略)

おそらく、伯父のマルブフはコルシカでバシャッソンの父と繋がりがあったのではないでしょうか?

ナポレオンが大物になった背景-1(ジャン・ピエール・バシャッソン~クロード・ペリエ) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

Charles-Victor de Bachasson — Wikipédia (wikipedia.org)

 

仮置き:

Joseph Starot de Saint-Germain — Wikipédia (wikipedia.org)

 

参考:

ボナパルト兄弟、その初期 | せりももPlus (fc2.com)

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「ソーシャライト」とユグノー

2020年12月08日 | フランス革命・サヴォイア・ユグノー・バチカン

昨日の記事でブルック・シールズのウィキペディアを紹介しましたがもう一度。

ブルック・シールズ - Wikipedia

彼女の母親のことは

母親はソーシャライトで女優・映画プロデューサー・モデルでもあるテレジア・アンナ・リリアン・マリア・“テリー”・シュモン (Theresia Anna Lilian Maria "Teri" Schmon)。ふたりは1964年に結婚し、母親はテリー。シールズを名乗るようになった

ソーシャライト - Wikipedia

上流階級や富裕層に属するエンターテインメント性に富み、チャリティー活動(あるいはフィランソロピー、慈善事業)に携わったり、社会団体に属している人物やその家族を指す

とあります。(ウィキペディアは誰でも書き込めるものです。)

おもしろいことに、フランスにおいてのソーシャライトについて、ウィキペディアにはこう書かれています。

フランス

チャリティに携わったり、ジェット機を乗り回し、スキャンダルに見舞われる、社交界の人物や上流階級(はいソサエティ)、上層ブルジョワジー(資本家)といったその種の人物を指すアメリカ英語の言葉とする。関連する言葉として、フランス語版では、上層ブルジョワジーや、フランスの上層ブルジョワ層("19家族"と括られたりする)に浸透したユグノーを挙げている。あるいは英米のWASP、ヤッピー、ハンプトンズ等の言葉を挙げている。

フランス革命や7月革命を経て、第三共和政の成立を受けて貴族制度は公式上無くなったが、それら子孫や富裕層の一族などを中心に謂わば「ソーシャライト」が形成されている。

 

フランスでなくとも、アメリカの富豪の”慈善活動家”達に、ユグノーの流れをくむものが多いことは、今年1月から、

「フランス革命・サヴォイア・ユグノー・バチカン」のブログ記事一覧-Various Topics 2 (goo.ne.jp)

「The Good Club」のブログ記事一覧-Various Topics 2

に書きました。

何本かリンクを貼り付けます。

フランス革命とユグノー&18世紀のアカデミックな業界人たち - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

世界の発展に寄与したユグノーと現在の国連や社会活動家たち-1 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

世界の発展に寄与したユグノーと現在の国連や社会活動家たちー2 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

サラエボ事件~マルタジャーナリスト殺害事件 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

Mareen Duval-ウォレン・バフェットとオバマ前大統領の先祖?・オバマ氏の母親の経歴 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

なお、ブルックシールズの母親がソーシャルライトと言っても、王族とも血がつながる家系に生まれている夫がいたからこそなれたことで、彼女は掃除婦業の母と化学者の父との間にうまれたドイツ、イギリス、アイルランド(たぶんプロテスタント)の女性でした。

Teri Shields - Wikipedia

※次回へ続く。

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バチカンのピエトロ・パオリン司祭枢機卿、そしてヨハネ・パウロ1世

2020年11月22日 | フランス革命・サヴォイア・ユグノー・バチカン

前回の記事で、バチカン内部のリベラル系と保守系の分裂があることについて書きました。

(昔のリベラル系のイメージには「拝金主義者と距離を置いている」というイメージがありましたが、20世紀終わりごろからはむしろ、「拝金主義者に近い人達」が自らを「リベラル」という様になってしまいました。それはバチカンでも同じかと思って書いています。)

ある面ではリベラル系といえる現教皇フランチェスコのことを調べると、なぜかよく出てくるバチカンの国務長官ピエトロ・パオリン枢機卿。

パオリン枢機卿は2018年のビルダーバーグ会議に出席、その後すぐの2018年6月28日には、フランチェスコ教皇に枢機卿の中でも位の高いCardinal Bishop(司教枢機卿)に任命されました。

Top cardinal joins politicians and industry leaders as the VATICAN attends Bilderberg's secretive annual meeting for the first time to discuss populism in Europe, fake news and Russia
https://www.dailymail.co.uk/news/article-5815011/Secretive-group-global-elite-gather-Turin-latest-Bilderberg-Group-meeting.html

The Vatican will for the first time ever be represented at a secret gathering of the global elite.

Cardinal Pietro Parolin, Vatican Secretary of State, will meet with 130 carefully selected individuals at the Bilderberg Group's latest secret meeting in Turin,Italy.

It is the first time a high-ranking Vatican official has taken part in the Bilderberg Conferences.

 

2020年2月 フランチェスコ教皇はバチカンにヨハネ・パウロ1世基金を設立し、ピエトロ・パオリン枢機卿を責任者に任命しています。

1978年に教皇になってわずか33日目に不審死を遂げた教皇は、アフリカ人を「黒い人」、アジア人を「頬骨が高い人」とスピーチでのべていたことがあったようです。

ヨハネ・パウロ1世 (ローマ教皇) - Wikipedia

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「世界連邦主義」とカトリックの分断-ユグノー勢力とカトリック

2020年11月21日 | フランス革命・サヴォイア・ユグノー・バチカン

2017年10月頃、Wedge Infinityに掲載された村中璃子氏を知り、子宮頸癌ワクチンの副作用を訴える少女たちや研究者を潰そうとするネットワークが世界にあることに気が付きました。

富豪、自称リベラル(世界連邦主義者)、宗教系とくるわけですが、宗教系で特にカトリック教徒の意見がわれることが気になっていました。

そのネットワークと対照的な主張をしているのにQアノンという陰謀論(?)者たちがいますが、実はそれに似た主張をする人達にはカトリックの一派もいるようです。

その一人が、トランプ米大統領に書簡を送っていたといたというヴィガノ大司教。

トランプ大統領へのビガノ大司教の手紙
https://twitter.com/i/events/1269623122845511685

彼はヴァチカンの腐敗を追及したひとです。

ウィキペディア
カルロ・マリア・ビガノhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%93%E3%82%AC%E3%83%8E

私は「悪魔教」云々についてはよくわかりませんが、

ウィキペディア
Qアノン
https://ja.wikipedia.org/wiki/Q%E3%82%A2%E3%83%8E%E3%83%B3

元々の告発はは妥当だと思ういます。

ヴァチカンが今向かっている方向に疑問を持つ人は多いなか、イタリア、スペインは欧州で1,2のコロナのダメージ。ヴァチカンは追及されるまでもなく、気が付けば宗教改革を成し遂げるのでしょうか。

47news(2020年3月8日)
フランシスコ教皇を待ち受ける試練 カトリック教会、分裂の瀬戸際か
https://news.yahoo.co.jp/articles/f33d3d97b53c392c31642ac97a6ed10aab5c5abd

今年2月14日に書いたブログ記事後半も参考まで。

社外取締役峯野達弘とクリスチャントゥデイ、そして世界教会協議会(WCC)
https://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/e/3aaaedc065acfb59b5d19c1d6a7e5f4a

前略)

ウィキペディア
世界教会協議会
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E6%95%99%E4%BC%9A%E5%8D%94%E8%AD%B0%E4%BC%9A

世界教会協議会(せかいきょうかいきょうぎかい、英語:The World Council of Churches 、略:WCC)は、世界的なエキュメニカル組織である。スイスのジュネーヴを本拠地に、120か国以上からの340を超える教会と教派の会員が所属している。

世界教会協議会は、1970年代テロ活動を行っていたグループに資金援助をしていたため、論争をまき起こした。世界教会協議会自身は、「1948年のイスラエル建国以来、聖地の平和のために努力してきた」と主張している。

(中略)

WCCの会員には、多数のプロテスタント、ほとんどの正教会、東方諸教会、アングリカン・コミュニオン(聖公会)、いくつかのバプテスト教会、ルター派世界連盟に加盟するルター派教会(保守的なルター派教会はWCC非加盟)、メソジスト、改革派教会、カリスマ運動、復古カトリック教会が含まれる。

最も大きなキリスト教の教派の一つであるローマ・カトリック教会はWCCの正式なメンバーではないが、30年以上密接な関係にあり、すべての会議にオブザーバーを派遣してきた。キリスト教会組織の一致を促進するバチカンは、12人を委員会の正式の委員に任命している。

うーん、テロに資金援助ですか。
ONE(世界連邦運動の組織)とWCCは繋がりがありますかね。

まあそれはさておき、現在のローマ法王はこのWCCを訪問しています。

Swissinfo (2018年5月16日)
ローマ法王
6月にスイスへ、世界教会協議会を訪問
https://www.swissinfo.ch/jpn/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99_%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%B3%95%E7%8E%8B%E3%81%8C%EF%BC%96%E6%9C%88%E3%81%AB%E3%82%B9%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%81%B8-%E4%B8%96%E7%95%8C%E6%95%99%E4%BC%9A%E5%8D%94%E8%AD%B0%E4%BC%9A%E3%82%92%E8%A8%AA%E5%95%8F/44122068

 

(後略)

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魔女裁判が衰退した背景-錬金術とフリーメイソン

2020年02月18日 | フランス革命・サヴォイア・ユグノー・バチカン

前々回の記事

リリアス・アディと魔女裁判・「魔女」がもてはやされる日本、今も「魔女狩り」があるサウジアラビア
https://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/e/abbdd727052b6840f614773719022892

で紹介した、ウィキペディア「魔女狩り」には、魔女狩りのピークと衰退時期について書かれています。

ウィキペディア
魔女狩り
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%94%E5%A5%B3%E7%8B%A9%E3%82%8A

抜粋:

魔女狩りはかつて「長期にわたって全ヨーロッパで見られた現象」と考えられていたが、現代では時期と地域によって魔女狩りへの熱意に大きな幅があったことがわかっている。

(中略)

時期を見ると16世紀後半から17世紀、さらに限定すると中央ヨーロッパでは1590年代、1630年頃、1660年代などが魔女狩りのピークであり、それ以外の時期にはそれほどひどい魔女狩りは見られなかった。

地域別に見るとフランスは同じ国内でも地域によって差があった。ドイツでは領邦ごとの君主の考え如何で魔女狩りの様相に違いがあった。イタリア、ヴェネツィアでは裁判は多かったが、鞭打ちで釈放され処刑はほとんどなかった。スウェーデンでは強力な王権のもとで裁判手続が厳守されており、三十年戦争期には占領したドイツ領邦で魔女狩りを抑止していたが、17世紀中頃より大規模な魔女狩りが発生している。

スペイン(バスク地方を除く)では異端審問が行われていたが、これが魔女狩りに発展することはなかった。オランダでは1610年を最後に魔女が裁判にかけられていない。ポーランド、少し遅れて18世紀のハンガリーでは激しい魔女狩りが起こった。イングランドでは1590年代がピークであったがすぐに衰退した。対照的に、イングランドに隣接し1717年以降同君連合を形成していたスコットランドでは1590年代〜1660年代と長きにわたっており、一方アイルランドではほとんど見られなかった。

北アメリカの植民地ではあまり見られなかったが、1692年にニューイングランドのセイラムで起こった大規模な魔女騒動(セイラム魔女裁判)が例外的な事件であった。それゆえに人々に衝撃を与えアメリカの歴史に暗い影を落とした。同時に
魔女狩りの当事者による公的な謝罪が行われた唯一の事件でもあった。

(中略)

しかし近年行われている一次史料からの推計に基づいた1428年から1782年までの魔女裁判による全ヨーロッパの処刑者数は、ヴォルフガング・ベーリンガー、ロビン・ブリッグス (Robin Briggs)、ロナルド・ハットンといった研究者らが各々提示している推定値を共約すると最大4万人となる。なお、地域共同体内での私刑にあった者の数を知ることはまったく不可能なため、この犠牲者の数には含まれない。

1782年にスイスで行われた裁判と処刑が、ヨーロッパにおける最後の魔女裁判であるとされる。

欧州の魔女狩りのきっかけは異教徒弾圧かと思いますが、魔女狩り衰退したのは、「『魔女狩り(女性だけではなく男性も魔女狩りのターゲットとされた)』が、錬金術を発展させることに都合が悪くなった」と同時に「フリーメイソン(特にこのなかの薔薇十字団)も自分達がターゲットになるのを恐れた」ということも関係していたのではないか、と思います。

もう一世紀前に生まれていたのなら、ニュートン(1642年生まれ)、サンジェルマン伯爵(1691年?)、カリオストロ(1743年生まれ)など-皆フリーメイソンで錬金術の研究者-は「魔女」とされ、密告者があれば早々に魔女裁判に駆けれられていてもおかしくなかったのではないでしょうか。
(※カリオストロは宗教裁判に駆けれらて獄中死していますが、それは「魔女狩り」ではなく、エジプトメイソンリーのロッジをローマで作ろうとしたことからです。)

もっとも、「魔女裁判」被害者は貧しい人達がメインであったので、資金力もコネもあった彼らが1世紀前に生まれていたとしても、大丈夫であったかもしれませんが。

ウィキペディア
アイザック・ニュートン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B3

ウィキぺディア
アイザック・ニュートンのオカルト研究
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B3%E3%81%AE%E3%82%AA%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88%E7%A0%94%E7%A9%B6

ウィキペディア
サンジェルマン伯爵
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3%E4%BC%AF%E7%88%B5

ウィキペディア
カリオストロ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AD

ウィキペディア
錬金術
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8C%AC%E9%87%91%E8%A1%93

錬金術はのちのち科学や医学の発展につながっていくわけですが、フリーメイソンとも錬金術にも縁がなかったと思われる「近代科学の父」アントワーヌ・ラヴォアジエなどは、「魔女狩り」にはあわなかったものの、フランス革命にて処刑されました。

彼の名前を知っている人が今どれだけいるのか。

ウィキペディア
アントワーヌ・ラヴォアジエ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%8C%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A8

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不二家の社外取締役峯野達弘氏とクリスチャントゥデイ、そして世界教会協議会(WCC)

2020年02月14日 | フランス革命・サヴォイア・ユグノー・バチカン

あることを調べているとき、その内容とは全く関連がない別の関心事に関係する事実を偶然発見することがあります。

前回、「製造日から4日後のケーキも普通に販売するT社」の話を書きましたが、このあと気になってT社のケーキよりより庶民的な不二家が古いケーキを売っていたことでニュースになったことを思い出してそのニュースを探そうとネット検索しているときに、たまたまたどり着いた「知恵袋」の回答で、不二家の社外取締役をしているという峯野龍弘氏のことを知ることができました。

(この回答者は嫌韓の方のようで、「不二家が韓国とも繋がりがある宗教家を社外取締役に就任させている、けしからん」という趣旨で書き込みをしていましたが、私は嫌韓ではないのでこの知恵袋のリンクも回答者の書き込みも貼り付けません。
なお、不二家は2007年に山崎製パンの傘下に入っていたり、スイスに本社を置く多国籍企業ネスレとの繋がりもあるので、峯野氏の社外取締役就任は不二家側が望んだことかどうかは、はっきりしないと思います。)

キリスト教と欧米の歴史、宗教と政治や実業界との繋がりに興味を持っている私としては、この書き込みはありがたい情報となりました。

この峯野氏は、クリスチャントゥデイの会長とのこと。

ウィキペディア
峯野龍弘
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%AF%E9%87%8E%E9%BE%8D%E5%BC%98

峯野 龍弘(みねの たつひろ、1939年8月10日 - )は、日本のホーリネス系福音派の牧師。日本福音同盟理事長を務めた。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国韓国トーチ・トリニティー神学大学)。現在ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会主管牧師。前クリスチャントゥデイ代表取締役会長。

(中略) 

1994年ビリー・グラハム国際大会実行委員長、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁、ウェスレアン・ホーリネス教団理事長兼委員長、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟理事長、日本福音連盟理事長、日本プロテスタント宣教150周年記念実行委員会実行委員長等を歴任。 クリスチャントゥデイ会長

(中略)

  • 特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン名誉会長
  • 財団法人国際開発救援財団副理事長
  • 社会福祉法人こころの家族理事
  • 社会福祉法人キングス・ガーデン東京理事
  • ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会主管牧師
  • 日本ケズィック・コンベンション中央委員長
  • 日本CGNTV番組編制・推進審議会会長
  • アガペー・ファミリー・ケア・センター代表
  • 駒ヶ根パノラマ愛の家園長
  • 光林国際ミッション・センター館長
  • アパ・ルーム日本委員会会長
  • 日本クリストファー・サン国際大会会長
  • クリスチャントゥデイ会長
  • 在日韓国人の故郷の家を後援する集いの発起人懇談会 発起人
  • 株式会社不二家社外取締役

(後略)

クリスチャントゥデイは時々記事をブログでも紹介することがありますが、カトリック系の記事も多いので、カトリック系のウェブニュースかとずっと思ってきていましたが、勘違していたことにも気が付かされ。

ウィキペディア
クリスチャントゥデイ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%87%E3%82%A4

プロテスタント、特に福音派系だというこのサイト、世界教会協議会の記事も良く扱っているようです。

ウィキペディア
世界教会協議会
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E6%95%99%E4%BC%9A%E5%8D%94%E8%AD%B0%E4%BC%9A

世界教会協議会(せかいきょうかいきょうぎかい、英語:The World Council of Churches 、略:WCC)は、世界的なエキュメニカル組織である。スイスのジュネーヴを本拠地に、120か国以上からの340を超える教会と教派の会員が所属している。

世界教会協議会は、1970年代テロ活動を行っていたグループに資金援助をしていたため、論争をまき起こした。世界教会協議会自身は、「1948年のイスラエル建国以来、聖地の平和のために努力してきた」と主張している。

(中略)

WCCの会員には、多数のプロテスタント、ほとんどの正教会、東方諸教会、アングリカン・コミュニオン(聖公会)、いくつかのバプテスト教会、ルター派世界連盟に加盟するルター派教会(保守的なルター派教会はWCC非加盟)、メソジスト、改革派教会、カリスマ運動、復古カトリック教会が含まれる。

最も大きなキリスト教の教派の一つであるローマ・カトリック教会はWCCの正式なメンバーではないが、30年以上密接な関係にあり、すべての会議にオブザーバーを派遣してきた。キリスト教会組織の一致を促進するバチカンは、12人を委員会の正式の委員に任命している。

うーん、テロに資金援助ですか。
ONE(世界連邦運動の組織)とWCCは繋がりがありますかね。

まあそれはさておき、現在のローマ法王はこのWCCを訪問しています。

Swissinfo (2018年5月16日)
ローマ法王が6月にスイスへ、世界教会協議会を訪問
https://www.swissinfo.ch/jpn/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99_%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%B3%95%E7%8E%8B%E3%81%8C%EF%BC%96%E6%9C%88%E3%81%AB%E3%82%B9%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%81%B8-%E4%B8%96%E7%95%8C%E6%95%99%E4%BC%9A%E5%8D%94%E8%AD%B0%E4%BC%9A%E3%82%92%E8%A8%AA%E5%95%8F/44122068

現在のフランシスコ法王は、「最後の法王」という予言されている代の法王ですが、実はカトリックとプロテスタントは一体化しつつあるのかもしれませんね。

(フランシスコ法王はビルダーバーク会議にバチカンから司祭を派遣したりもしていたと思います。前法王ベネディクト16世が生前退位しているのも気になります。)

TOCANA(2019年11月25日)
来日中のローマ教皇、最後の教皇になることが900年前に予言されていた!聖マラキの予言…
https://tocana.jp/2019/11/post_122434_entry.html

このブログは「人物」のカテゴリーにしたいところなんですが、ユグノーと関連するので、カテゴリーは「フランス革命、サヴォイア、ユグノー」にします。

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スイスのチョコレートの発展とトリノ

2020年01月28日 | フランス革命・サヴォイア・ユグノー・バチカン

トリノのチョコレート産業とワルド派の人々・チョコレート広告のピラミッド
https://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/e/c0336143a781b1ae917acf0f42d1f378

を前に書きましたが、この時「スイスのチョコレート産業とトリノのチョコレート産業はどういう関係になっているのだろうか」と気になっていました。
ちょうどスイスインフォにこんな記事がありました。

Swiss Info
スイスに「チョコレート革命」を起こしたパイオニアたち
https://www.swissinfo.ch/jpn/%E3%83%81%E3%83%A7%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88%E7%8E%8B%E5%9B%BD_%E3%82%B9%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%81%AB-%E3%83%81%E3%83%A7%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88%E9%9D%A9%E5%91%BD-%E3%82%92%E8%B5%B7%E3%81%93%E3%81%97%E3%81%9F%E3%83%91%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%8B%E3%82%A2%E3%81%9F%E3%81%A1/43746010

(前略)

スイスは世界でも有数のチョコレート生産国だ。カカオも育たない国がどうやってその地位を築いたのか。スイスチョコレート発展の歴史は、数々の技術革新や移民の活躍、そして偶然や人の縁の上に成り立っている。

ヨーロッパでチョコレートが飲まれるようになったのは17世紀に入ってから。今のような固形のチョコレートができたのは19世紀のことで、主に一握りのスイス人菓子職人や企業家の努力のおかげだ。彼らの名前のいくつかは、今も世界で知られている。これら「チョコレート革命」の主役たちと彼らの主な功績を紹介しよう。

 英ヴィクトリア女王が生まれ、ジェームズ・モンローが米大統領だった1819年、スイスではフランソワ・ルイ・カイエ( François-Louis Cailler、1796〜1852)が作った世界初のチョコレート工場が操業を開始した。現存するスイス最古のチョコレートブランド「カイエ」の誕生だ。工場はヴォー州ヴヴェイ近郊のレマン湖を望む場所にある元粉ひき場を改造して作られた。

カイエはイタリアのトリノで4年間にわたり製菓修行を積んでいたが、スイスに帰国している間にチョコレートを固形状にすることに成功した(不運なイタリア人は彼を泥棒呼ばわりしている)。また、機械化のおかげで庶民にも買いやすい値段になった。

 スイスチョコレート史上、カイエの娘ファニーの結婚(1863年)も重要な意味を持つ。夫となったダニエル・ペーター(Daniel Peter、1836〜1919)は地元でろうそく製造業を営んでいたが、オイルランプの普及で売り上げが落ち込んだため転職を決意。67年、妻の実家でチョコレート作りを学び始める。その後まもなく独立するものの事業は苦戦、ペーターはユニークな商品の開発を求め模索する。そんな折、彼の親しくしている隣人でドイツ人移民のアンリが粉ミルク製品を開発した。ペーターはそれをチョコレートに混ぜ込むことを思いつく。カビの発生という問題が起こるが、彼は諦めなかった。粉ミルクの代わりにアンリに作ってもらったコンデンスミルクを使うことで、75年、とうとうミルクチョコレートの製品化に成功する。それはヨーロッパ中でたちまちヒットした。

主な功績:ミルクチョコレートの発明

 この隣人アンリが他でもないアンリ・ネスレ(Henri Nestlé、1814〜1890)だった。ドイツ、フランクフルトにハインリヒ・ネストレとして生まれた彼は、39年、ヴヴェイに移住した。ネスレ自身にチョコレート作りの経験はなかったが、ペーターやカイエの会社、あるいは1929年のシャルル・アメデー・コーラーとの合併などを通じ、ネスレを世界最大の食品会社に育て上げた。

(後略)

※記事の抜粋はここまでとしますが、全文リンクからどうぞ。
記事に出てくる人には「ユグノー」とされている人がいますが、たぶんカルヴァン派。

 

冒頭のブログ記事で紹介したDallas Foodの記事には、機械のミルを使って作る固形チョコレートは、1819年にジョパンニ・マルティーノ・ビアンチー二というイタリアとスイス国境のテッツイーノからトリノにやってきた人物によってつくられた、となっています。

Dallas Food
Part 4
http://dallasfood.org/2011/01/gianduia-gianduja-nutella-part-4/

抜粋:

The first early-industrial chocolate-making machine to appear in Piedmont was built in 1819 by Giovanni Martino Bianchini (an immigrant from Canton Ticino in Italian Switzerland), powered by a mill owned by Maddalena Watzenborn (12).  That was already seven years after the collapse of the Continental System and four years after the Hundred Days and Napoleon’s final exile to St. Helena.

Though it might be possible to produce a crude form of gianduia by separately hand-grinding and mixing cacao nibs, hazelnut butter, and sugar, it seems improbable that the novelty and labor intensiveness of such a process would leave no historical trail, had it become at all common.  A post-Napoleonic invention better fits what is known about the technological development of Turin’s chocolate industry through the nineteenth century.

The most obvious argument against the early nineteenth century invention of gianduia arises from the material state of the confection.  The earliest extant records of gianduia are in the context of gianduiotti—small, individually wrapped candies in the shape of an inverted canoe (13).  They were solid.  Yet through the first half of the nineteenth century, chocolate was still consumed almost exclusively as a beverage—as a liquid (14).  The appearance of gianduia during the Continental System would have made it among the earliest forms of solid chocolate suitable for eating out of hand (15).  The absence of any contemporary remark about such a revolutionary advance in chocolate strains credibility.

フランソワ・ルイ・カイエは、このビアンチー二の技術を盗んだ(or 「盗んだ」と言われた)のでしょうか。

いずれにしても、トリノのチョコレート産業はスイスのチョコレート産業ネスレの様に大衆化に向かわず、そうかといって、ベルギーチョコレート(有名なゴディバは、今はトルコのウルケルという食品会社の子会社)のように、おしゃれでもなく、そこまで高級でもありません。

ヌテラは別枠にせよ(ヌテラのフェレロ社は多国籍企業)、トリノは品質を守りながらも、庶民でも買えるチョコレートを作り続けていますが、これはワルド―派がトリノのチョコレート産業の中枢にいるからでしょうかね。

トリノの街は、白魔術、黒魔術のミステリアスな都市と言われる一方、その地の住民や土地も、かつてのイタリア王国の首都であったと思えないくらい地味です。

(この地味さは、むしろこの都市の長所だと私は思います。
トリノから感じる「ものがなしさ」「現代でありながら現代ではない感覚」「神秘的な雰囲気」は、この地味さがあってのことで、それは人を引き付けます。)

トリノのチョコレート工場での映像もありますので、こちらをご覧あれ。

Italy Unpacked - Turin
https://www.youtube.com/watch?v=uOjq0ZJIWPk

こちらもどうぞ。

ブーツの国の街角で
トリノ:ミステリースポット 探訪
http://tabilista.com/5-%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%8E%EF%BC%9A%E3%83%9F%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%83%E3%83%88%E6%8E%A2%E8%A8%AA/

ダビデのコラム
トリノ&ミステリー1
http://italia-daisuki.com/column/13-other/566-scuola-ciao-italy41.html

トリノ&ミステリー2
http://italia-daisuki.com/column/13-other/571-scuola-ciao-italy42.html

(白魔術、黒魔術の話は、カタリ派と関連していると私は思います。
カタリ派はトリノやミラノに多く逃げ込んでいます。)

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ユグノー(カタリ派)-2(トゥールーズ公とランバル公妃マリー・ルイーズとフランス革命)

2020年01月27日 | フランス革命・サヴォイア・ユグノー・バチカン

カタリ関連で南仏の歴史について大変わかりやすいウェブサイトを見つけました。リンクと、抜粋をはりつけさせてもらいます。

Zarac歴史サイト-南仏の暴風 アルビジョワ十字軍(1)-カタリ派http://reasonable.sakura.ne.jp/history/bl/Albigeois.html

抜粋:

カタリ(清浄)派という名前はかなり古く3-4世紀から存在するのだが、中世のカタリ派との直接の関係は明らかではなく、むしろワルド派と同様に、12世紀頃に起こった、より聖書に忠実に清貧な暮らしを勧める運動が、ブルガリアのボゴミル派の影響を受け、南ドイツから南仏、北イタリアに広まったものらしい。彼らには統一の指導者や組織はなく、地方ごとに色々な呼称があり、南仏ではアルビ派と呼ばれたものである。

(中略)

カタリ派の教義は全て破壊されて残っておらず、カトリック側から書かれた物、および同系統と見なされているボゴミル派の教義から推測されるだけだが、二元論的なグノーシス主義とマニ教の影響を受けており、マニ教はユダヤ教やキリスト教に加えて拝火(ゾロアスター)教や仏教の影響も受けているため*4、様々な宗教的要素を持っている。

(中略)

「悪魔学入門」でも触れたが、聖書を読むと、旧約と新約で唯一神の性格が随分変わっていることに驚くが、カタリ派では素直に旧約の神は悪神で新約の神を善神としており、神は清浄な魂として人間(天使)を創ったのだが、悪神(サタン)が人間を騙して、自らが創った地上(現生=地獄)に連れてきて(楽園追放)、肉体の檻に閉じ込めたと考えている。

このため、肉体を魂を捕えている枷と見なし、魂が肉体から解放され神の元にたどり着くことを願うが、生前の行いが悪ければ、再び生まれ変わって肉体に捕われるという思想は、まさに釈迦の教え仏教と似ているのである*5。仏教はバラモン教の輪廻思想により、魂は輪廻して、そのたびに肉体を持って病気、老いの苦痛を永遠に繰り返すが、悟りを開くことで成仏し永遠の存在になれるというもので、違いは神や天国の存在だけだが、浄土宗では阿弥陀仏と極楽浄土がその役割を果たしており、また厭離穢土という思想も似ている。

(中略)

現生と肉体を悪神の産物として嫌い、肉食、殺生、生殖、婚姻、所有など、いっさいの世俗生活を否定し、しばしば断食して苛烈な苦行を実行したと書かれると危険なカルトに見えるが、これは他宗教の聖職者や修行僧に値する人々のことで、どの宗教でも聖職者にはそのような制限が課されているものである。

カタリ派では完徳者と言って、聖職者階級とは違うのだが指導的な階層で、一般信者もいずれ完徳者になるのだが、それまでは普通の生活を営み、多くの一般信者は死を悟った時に唯一の秘蹟であるコンソラメントウム(救慰礼)を受けて完徳者として死去するため、肉体の枷から解き放たれるのである。

まあ、二元論や魂の輪廻などの教えを見れば、カトリックから異端扱いされるのは仕方がないと思えるが、実際に教義を理解しているのは聖職者階層だけで、一般信者は単にイエス=キリストを信じ、(新約)聖書に従えば天国に行けると理解しているだけで、豪奢な生活をして隠し妻などを持っているカトリックの聖職者より、より聖書に忠実で清貧なカタリ派の聖職者の方が尊敬に値すると考えて従っていたのである。

クリスチャン、カトリック、プロテスタント、というのもそれぞれが一括りで説明できないのと同じで、「カタリ派」についてもそれは同じこと-上記サイトの管理人さんの説明のようなことが、本来のカタリ派のスタンダードであった、とするほうが、現実的に思いますが、その中から、やはり悪魔教のようなものも出てきてはいた、とも思います。

そしてそれはカトリック側により、「カタリ教」=「悪魔教」⇒正義の元に改宗させるか、絶滅させなければならない」ということになったのだろうと。
(純粋な社会主義者の中から、過激派が出て、それが「社会主義」=「悪」というイメージを植え付けたのと同じように。)

13世紀始めに、このカタリ派を絶滅させるためにやってきた『アルビジョア十字軍』。
アルビジョア十字軍からカタリの人々を守ろうとした勢力の中心が、トゥールーズ伯レーモン6世でした。

ウィキペディア
レーモン6世
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%A2%E3%83%B36%E4%B8%96_(%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%BA%E4%BC%AF)

Croissade Albigeoise
『アルビジョア十字軍叙事詩』要約プロジェクト
http://www.medieviste.org/archive/versio/Croissade_Alb.html

ウィキペディア
トゥールーズ伯
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%BA%E4%BC%AF

トゥールーズの領土は、1285年にフランス横領に組み込まれ、1681年、ランバル公妃マリー・ルイーズのお舅ルイ・ジャン・マリーの父親であるルイ・アレクサンドル(モンテスパン公爵夫人の息子)の領土に、それがルイ・ジャン・マリーに受け継がれました。

(ルイ・ジャン・マリーの死後、オルレアン公に嫁いだ娘に。しかし、フランス革命で彼女の渡った財産は領土ともども没収されました。)。

こう考えると、ルイ・ジャン・マリーが、カタリ派(ユグノー)と繋がっていた、と考えてもおかしくないーユグノー(カルヴァン派)とユグノー(カタリ派、ワルド―派)、ユダヤ人が集結し、「フリーメイソン」ができた-つまりよく言われるような、「フリーメイソンはユダヤの陰謀」というより、「ユグノーとサヴォイア」がまとめ上げたものではないか、とも思えてきました。

なお、

マリー・アントワネットと女官長マリー・ルイーズの真実-美化されていたマリー・ルイーズ
https://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/e/dc66eb1dc2ef1ef487f049c89e543247

にも書きましたが、マリー・ルイーズも、義理の妹(義父ルイ・ジャン・マリーの娘)も、フリーメイソン婦人部(養子縁組)です。

以下は上の記事で紹介した、英文ウィキペディアからの抜粋です。

De Lamballe as well as her sister-in-law became inducted in the Freemasonic women's Adoption Lodge of St. Jean de la Candeur in 1777, and was made Grand Mistress of the Scottish Lodge, the head of all the Lodges of Adoption, in January 1781:

この文章のあとは、こう続きますが、もしマリー・アントワネットがマリー・ルイーズの誘いに乗って、フリーメイソン婦人部のメンバーになっていたのであれば、歴史は違っていましたかね?

though Marie Antoinette did not become a formal member, she was interested in Freemasonry and often asked Lamballe of the Adoption Lodge.

(この文章はこうも続きます。マリールイーズは、やはりマリー・アントワネットを陥れた側だったのではないでしょうか?
首飾り事件の容疑者を訪ねています。

During the famous Affair of the Diamond Necklace, Lamballe was seen in an unsuccessful attempt to visit the imprisoned Jeanne de la Motte at La Salpetriere; the purpose of this visit is unknown, but it created widespread rumors at the time.)

(続く)

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ユグノー(カタリ派)-1(ルイ14世の籠妃モンテスパン侯爵夫人とヴォワザン)

2020年01月26日 | フランス革命・サヴォイア・ユグノー・バチカン

ルイ14世の籠妃であったモンテスパン侯爵夫人の孫の1人がマリー・ルイーズの義父。(※前回、前々回のブログ参照)

そしてモンテスパン公爵夫人の黒ミサに関わったのが、ポリニャック夫人の先祖の1人。

この黒ミサを行ったのが、ヴォワザンと呼ばれた女性。

ウィキペディア
ラ・ヴォワザン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%AF%E3%82%B6%E3%83%B3

抜粋:

ラ・ヴォワザン(フランス語: La Voisin、1640年4月11日- 1680年2月20日)は、17世紀のフランスの黒魔術師、毒薬製造・販売者。本名はカトリーヌ・モンヴォワザン(Catherine Montvoisin)、旧姓はカトリーヌ・デエー(Catherine Deshayes)。当時のフランスで流行していた数々の毒殺事件の主犯ともいえる女性である。

(中略)

ヴォワザンの死後に彼女の娘が、フランス王ルイ14世の寵姫であるモンテスパン侯爵夫人フランソワーズ・アテナイスまでもがヴォワザンに加担していたと供述した。

モンテスパン夫人は1678年頃からヴォワザンのもとへ通い始め、ルイ14世の寵愛を受けるために媚薬を入手したり、先の寵姫であるルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールを呪い殺す黒ミサを実行していたというのである。ルイ14世の寵愛を失った後、ヴォワザンからルイ14世暗殺の方法を伝授されたとの説や、ルイ14世と彼の愛妾のマリー・アンジェリク・ド・フォンタンジュを2人とも暗殺することで国の実権を握ろうと画策していたとの説もある。

これらの件での醜聞を恐れたルイ14世は、一連の毒殺事件の捜査の中断を命じ、さらに火刑裁判所を閉鎖させ、裁判調書などあらゆる証拠書類も焼却させた。これにより、一連の毒殺事件の真相や顧客たちの秘密は隠蔽されるに至った。

私の想像でしかありませんので、頓珍漢なことを言っているかもしれませんが、このヴォワザンは、カタリ派(ユグノー)だったのではないでしょうか?

ウィキペディア
カタリ派
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%83%AA%E6%B4%BE

カタリ派は、14世紀前半には消えてしまったといわれていますが、それは表に出てこれなくなった、というだけでしょう。

2011年に書いた

Cagotと部落、フランスと日本
https://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/e/64e6a509b847e4f3943e6addfe0e76e0

に、フランス人の男性(ナンシー近郊生まれ、ミディ・ピレネー在住の警察官)で、メールに「カタリ」の話ばかりしてくる人の話を書きました。

彼の「カタリ派」に対する思いは、「研究家」の域を超えているようでしたが、21世紀でもそういう人がいるくらいなのだから、当然17世紀頃からずっとカタリ派の人々がいてもおかしくないと思います。

「カタリ派」のウィキペディアに書かれていることは、おそらく悪く書かれ過ぎているようにも思います。実際、本当に黒ミサを行っていたのか、毒薬を作っていたのか(毒薬というと、アンリ2世の妻でもあったカトリーヌ・ド・メディチのイメージがあります。)はわかりませんが、カタリ派、カタリの生き残りが、ナント勅令を廃棄して、ユグノーをカトリックに改宗させようとしたり、国外追放にしたルイ14世はユグノーにとって目障りな存在。

ヴォワザンの周りに集まった人々-モンテスパン夫人やポリニャック夫人の先祖の1人は単純にヴォワザンの毒薬に魅せられていただけなのか…という疑問と、

ルイ14世は、ヴォワザンは処刑したものの、モンテスパン侯爵夫人等、ヴォワザンに関わった貴族たちを厳しく罰することがなかったのはなんでなのだろう・・・と、これまた疑問があります。

歴史本~ウィキペディアまで、書かれていることをそのまま読むと辻褄の合わないことが多いです。

追記:

2015年に作られた動画に、「ユグノーの子孫がカタリとユダヤ人」という説を唱える動画がありました。

Huguenots and Jews of the Languedoc
https://www.youtube.com/watch?v=xQPpAr8-oR0

この説の妥当性はともかく、作者(紹介している本の著者?)はカタリ派を称賛していますね。

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ランバル公妃マリー・ルイーズとポリニャック伯爵夫人ールイ14世の寵姫、黒ミサで失脚のモンテスパン侯爵夫人との繋がり

2020年01月25日 | フランス革命・サヴォイア・ユグノー・バチカン

ところで、マリー・アントワネットの友情を争いあったランバル公妃マリー・ルイーズ・ポリニャック伯爵夫人。

共に生年月日と、結婚した年が同じですが、それ以外に二人に共通していることは、「祖先とモンテスパン公爵夫人が繋がっている」ということ。              

ウィキペディア
ポリニャック公爵夫人ヨランド・ド・ポラストロン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%83%8B%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E5%85%AC%E7%88%B5%E5%A4%AB%E4%BA%BA%E3%83%A8%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%B3

抜粋:

ヨランド・マルティーヌ・ガブリエル・ド・ポラストロン(仏: Yolande Martine Gabrielle de Polastron, comtesse puis duchesse de Polignac, marquise de Mancini, 1749年9月8日-1793年12月9日)は、フランス王ルイ16世の王妃マリー・アントワネットの取り巻きの一人である。

寵臣としてさまざまな恩恵を王家から引き出したことで悪名高い、とされている。奇しくもランバル公妃マリー・ルイーズとは婚姻年及び生年月日が同じである。

(中略)

1767年、16歳の時に婚約した許婚であるポリニャック伯爵ジュール (en) と結婚した。嫁ぎ先のポリニャック家は代々ブルボン王家に仕えた家柄で、特にメルキオール枢機卿 (en) はルイ14世とルイ15世の代表的な外交官として重用された。しかし、ルイ14世の寵姫のモンテスパン侯爵夫人が1678年に起こした黒ミサ事件に関与者を出し、またメルキオール自身もメーヌ公爵夫人の幼君ルイ15世摂政の地位に関わるクーデター計画事件に関与して失脚したため、家運は衰退していた。

モンテスパン侯爵夫人とルイ14世の間に生まれたルイ・アレクサンドルの孫が、ランバル公妃マリー・ルイーズの舅(ルイ・ジャン・マリー:トゥールーズ公)、でした。

ウィキペディア
モンテスパン侯爵夫人フランソワーズ・アテナイス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%B9%E3%83%91%E3%83%B3%E4%BE%AF%E7%88%B5%E5%A4%AB%E4%BA%BA%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%86%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%82%B9

Wikipedia
Françoise-Athénaïs de Rochechouart, Marquise de Montespan
https://en.wikipedia.org/wiki/Fran%C3%A7oise-Ath%C3%A9na%C3%AFs_de_Rochechouart,_Marquise_de_Montespan

なお、

モナコのレーニエ三世大公の父親は、ポリニャック家の血筋です。
先代のピエール大公のウィキペディアを。

https://en.wikipedia.org/wiki/Prince_Pierre,_Duke_of_Valentinois

Prince Pierre of Monaco, Duke of Valentinois (Count Pierre Marie Xavier Raphaël Antoine Melchior de Polignac; 24 October 1895 – 10 November 1964) was the father of Rainier III of Monaco.  He was a promoter of art, music, and literature in Monaco and served as the head of the country's delegation to the United Nations Educational, Scientific, and Cultural Organization (UNESCO) and to the International Olympic Committee.

(ミシンのシンガー、ファッションブランドのLANVIN(ランヴァン)に子孫がかかわっているらしいです。

Maison de Bourbon
ポリニャック家の血筋
https://ameblo.jp/ma-japan/entry-10858361501.html

※次回に続く

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