京大の臨床心理の発達障害に関するものは、近代と個人と言うものへの考察や、
臨床で未成立な境界を作っていくことや、融合と分離などに関して日常的言語で
書かれているので解り易い反面、理論としての位置づけなどが解りにくいです。
本書においては、ラカン派からの見方で、どのように主体が未成立の状態であるのか、
また、そこに対して、いかなる姿勢で関わるのが治療的になるのかについて考察しています。
脳の特性として思考停止し、心理的援助自体を考察しないならば、
内的世界や主体の生成にもつながりにくいでしょう。
マイケル・バリントは、重症例に関して、アクティングアウト自体を意味のあるコミュニケーションとして
捉えることが治療的としていましたが、それの拡大版と言う感じの一冊でした。
下の目次ははてな匿名ダイアリーからの引用です。
『発達障害の時代とラカン派精神分析――<開かれ>としての自閉をめぐって』
はじめに
第Ⅰ部 歴史を振り返る
第1章 「発達障害」の問題圏――歴史的・精神分析的考察(上尾真道)
第Ⅱ部 発達障害を「聞く」――ラカン派精神分析臨床の視点から
第2章 発達障害における「生」と「死」の問い――発達障害児と母親との間で何が分有されているのか(牧瀬英幹)
第3章 学校×発達障害×精神分析――発達障害と「自我の目覚め」(丸山明)
第Ⅲ部 現代ラカン派の「自閉」論
第4章 ベルギーのラカン派による施設での臨床について(池田真典)
第5章 ラカン派精神分析における自閉症論(松本卓也)
第6章 言語(ランガージュ)に棲まうものと知――デビリテから発達障害へ(河野一紀)
第Ⅳ部 <開かれ>の空間――思想史の視点から
第7章 とぎれとぎれに結びつく――発達障害から関係性を考える(渋谷亮)
第8章 可能的なものの技法――「自閉」のリトルネロに向けて(小倉拓也)
おわりに
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます