1945(昭和20)年8月6日(月)8時15分米軍投下の原子爆弾、
爆心地より≒1800mにあった第二総軍司令部の建物の中で経験したお袋だったのです・・・
1995(平成7)年11月1日(水)現在、原子爆弾被害者実態調査を厚生省がした時にお袋が記入した、手記があることがわかったのです。
わたしは情けないことにそのことは最近までまったく知りませんでした。
最近になって、じき上の兄貴(二男)に『お母さんの手記が原爆平和祈念館に収めてある』とはじめて聞いたのです。
お袋が被爆体験記の中で触れていた
『お尻に傷をおい、治るまで三ヶ月ほどかかった』ことをわたしはまったく知りませんでしたが、
わたしの息子(30歳になろうとしている)は、おばあちゃんに聞いたことがあり、
『原爆が落ちた時、空から銀粉のようなのが降って来た』という話も聞いていたそうなのです。
お袋はわたしの年代を越えて次の次の世代に平和を託したのかもしれないとそんなことを考え込んでしまいました・・・・
(お袋の)被爆体験記
裕の広島ぶらり散歩
爆心地より≒1800mにあった第二総軍司令部の建物の中で経験したお袋だったのです・・・
1995(平成7)年11月1日(水)現在、原子爆弾被害者実態調査を厚生省がした時にお袋が記入した、手記があることがわかったのです。
わたしは情けないことにそのことは最近までまったく知りませんでした。
最近になって、じき上の兄貴(二男)に『お母さんの手記が原爆平和祈念館に収めてある』とはじめて聞いたのです。
お袋が被爆体験記の中で触れていた
『お尻に傷をおい、治るまで三ヶ月ほどかかった』ことをわたしはまったく知りませんでしたが、
わたしの息子(30歳になろうとしている)は、おばあちゃんに聞いたことがあり、
『原爆が落ちた時、空から銀粉のようなのが降って来た』という話も聞いていたそうなのです。
お袋はわたしの年代を越えて次の次の世代に平和を託したのかもしれないとそんなことを考え込んでしまいました・・・・
(お袋の)被爆体験記
裕の広島ぶらり散歩
此処以外に他から直接に入る入り口がありますか?
此処は「更新の一枚」だから流れていってしまいませんか?
私、相変わらず探し下手だから、見つからないのかも。
多くの人に読んでもらいたいと思っていますので。
悲惨な戦争体験や被爆体験は、なかなか語られないことが多いように思います。私は長崎ですが、老人達は無口でした。
ただ、原爆記念館を幼い頃に見ていることは、それなりの意味があったように感じます。私も原爆手帳を持っていますが、幼い頃の記憶はナシです。
ただ、焼けただれた鉄骨や半分ちぎれた鳥居がそのままなどは、随分遅くまで残っていました。
なお兄たちは、広島のキノコ雲を見ているようです(お袋の田舎が広島県)。
家族には却って話しにくいのかもしれません。
うちは終戦後、大陸から引き揚げてきましたが、
その記憶があまりにつらかったらしく、祖父母は当時の話を一切しないまま亡くなりました。
何度かたずねても、話すのをとても嫌がった記憶があります。
結びの、「戦争ははじめてはなりません。」
心の奥底からの叫びと感じました。
平和が一番。つくづくそれを感じます。
当初、編集したときは、久しく書いていなかった“我思う故に・・・”に掲載しわかる方だけが読めばいいと思っていましたが、
広島ぶらり散歩の項目に入れました。
http://yutaka901.web.infoseek.co.jp/
幼時のとき被爆されたのですね、
じき上の兄貴が幼時のときで同じような記憶があるのではと思うのです・・・
つらい体験には口は重いものではないのでしょうか??
以前にラジオで五木寛之氏が引揚るまにの話と日本に命からがら引揚してきて博多港に停泊していたときを話しておられましたが、なかなか引揚までの家族に起きた悲惨な出来事は話しつらそうに感じましたが・・・
世界中の国々が軍隊、兵器に投入しているお金を、
軍事以外の目的に使ったら・・・
話は簡単なのですが、現実はそうならない、そうするように人類の英知を集められればいいのですが・・・