東広島市西条町田口の広島新生学園に建立されている「上栗頼登(かみくり・よりと)先生之像」です。
※胸像の作者は、西平孝史です。
碑文を読めば、
『上栗頼登先生は、1919(大正8)年6月14日広島県高田郡吉田町に出生。
同志社大学文学部厚生学科卒業後、陸軍に召集され広島の司令部に見習士官として配属中、1945(昭和20)年8月6日の原爆で九死に一生をえ、被災者の救援活動に奔走、
1945(昭和20)年10月22日広島新生学園の前身である戦災・孤児収容所を開設、以来五十年間児童の保護育成に心血を注ぎながら社会事業の発展に貢献し、後進の育成にも努める。・・・・』とあります。
(裕編集の)(広島新生学園)上栗頼登先生之像
※胸像の作者は、西平孝史です。
碑文を読めば、
『上栗頼登先生は、1919(大正8)年6月14日広島県高田郡吉田町に出生。
同志社大学文学部厚生学科卒業後、陸軍に召集され広島の司令部に見習士官として配属中、1945(昭和20)年8月6日の原爆で九死に一生をえ、被災者の救援活動に奔走、
1945(昭和20)年10月22日広島新生学園の前身である戦災・孤児収容所を開設、以来五十年間児童の保護育成に心血を注ぎながら社会事業の発展に貢献し、後進の育成にも努める。・・・・』とあります。
(裕編集の)(広島新生学園)上栗頼登先生之像
2月13日(安芸区のわが家付近)天候:夜半から雨現在小雨
(朝一の台所室温)13.0℃、65%
平和な生活が一瞬にして破られ孤児となった子供達を見捨てることが出来なかったのでしょう。
自身も大変な思いをされ誰かがしなければと思い立ったのでしょうが・・
生涯を通して尽力された方だったのですね。
戦災孤児たちを保護し育成しと言葉で簡単に書けますが、穏やかな心持の子どもたちではなく、親を失って多くがすさんだ心持の子どもたちだろうことを思うとそれは大変だったろうと想像はできますがわたしには想像できないことも多かったろうと。
戦災孤児というと野坂昭如さんの短編"火垂るの墓”を思いだします。
いつか来た道、
先手での勝利で最終戦振りゴマで先手を手にした棋士がタイトルを取る。
羽生九段に"と”が三枚以上を願って。
藤井五冠には、棋王戦で六冠になっていただき、
いっときは五冠に下がっても我慢していただき、力をためて全冠制覇に突き進んでいただきましょう。
やはりタイトル獲得100期は夢のまた夢を今回、破っていただけなければ、
まだまだ時間がかかる藤井さんのその時はわたしの寿命では見られないでしょうから。