昨(2013)年12月30日誕生日の時撮影です(101歳時)。
2014年11月24日8時22分永眠、老衰・自然死でした。
32歳の時爆心地から約1,800mの処で被爆しましたが、生きていてくれたことで、わたしはこの世に生を受けました。
(お袋・増田シズヨの略歴)
1912(大正元)年(月)12月30日誕生。
1928(昭和3)年3月山中高等女學校(第四十回)卒業。
1945(昭和20)年8月6日(月)二葉の里にあった第二総軍司令部で被爆。
平成7(1995)年に自身で書いた「被爆体験記」(わかったことなど11月28日更新しました)
(わたしが編集した)第二総軍司令部跡
2006年7月28日(金)東区戸坂の特別養護老人ホームへさか福寿苑に入苑。
2014年11月24日(月)8時22分その福寿苑で(老衰)自然死でした。
お袋が残していた、山中高等女学校の卒業アルバムより、
女学校時のお袋
山中高等女学校の正門付近の学校写真。
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お袋が、川柳を捻っていたことは知っていましたが、その句々はよくわ知らなかったのです。
広島女性川柳会推奨作品というものに
『孫が来てひとり暮らしに花が咲き』という句が紹介してありました。
お袋には遠く及びませんが、2008年2月にわたしは、
「腰痛で病の老母(はは)に心配かけ」と詠んでいました。
2006年3月には
「介護して育ったこと知る母の愛」
いまさらながら、母の愛に答えられないわたしでした。
2014年11月24日8時22分永眠、老衰・自然死でした。
32歳の時爆心地から約1,800mの処で被爆しましたが、生きていてくれたことで、わたしはこの世に生を受けました。
(お袋・増田シズヨの略歴)
1912(大正元)年(月)12月30日誕生。
1928(昭和3)年3月山中高等女學校(第四十回)卒業。
1945(昭和20)年8月6日(月)二葉の里にあった第二総軍司令部で被爆。
平成7(1995)年に自身で書いた「被爆体験記」(わかったことなど11月28日更新しました)
(わたしが編集した)第二総軍司令部跡
2006年7月28日(金)東区戸坂の特別養護老人ホームへさか福寿苑に入苑。
2014年11月24日(月)8時22分その福寿苑で(老衰)自然死でした。
お袋が残していた、山中高等女学校の卒業アルバムより、
山中高等女学校の正門付近の学校写真。
11月26日(安芸区のわが家付近)天候 :はれ→雨
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お袋が、川柳を捻っていたことは知っていましたが、その句々はよくわ知らなかったのです。
広島女性川柳会推奨作品というものに
『孫が来てひとり暮らしに花が咲き』という句が紹介してありました。
お袋には遠く及びませんが、2008年2月にわたしは、
「腰痛で病の老母(はは)に心配かけ」と詠んでいました。
2006年3月には
「介護して育ったこと知る母の愛」
いまさらながら、母の愛に答えられないわたしでした。
(11月28日追記)
そしてお疲れさまでした。
ご冥福を心よりお祈り申し上げます。
御母様ご逝去心よりお悔やみ申します。
広島原爆投下に被爆されながら気丈に今日まで、、、
天寿を全うされたのですね~
ご冥福をお祈りいたします。
2009年7月19日讀賣新聞の“風の座標”というコラムに当時の論説委員・本多氏の「原爆慰霊碑」と題した文章の中にお袋が書いた体験記の一部が引用されています。
本多さん(広島総局長もされた方でした)とはメールで、直接お会いして話をしました。
被爆した方の言葉の重さから引用させてもらったと・・・
最近の日本は、‘積極的平和主義’と声高に云っている政治家を見聞きしますが、
国民を戦争の道にみちびいた戦前の誤った道を歩まないようにするのは、いまを生きるわたしたちの責任ではと思うのですが。
不肖の息子ですが、まだまだ長生きしてくれると思っていましたが・・・
お袋は、100歳まで生きて、広島市からお祝いを云われることを望んでいるようでした。
市からは松井市長からの、国からは、当時の野田首相からのお祝いの賞状をもらい涙していたように見えたのは、この前でしたが・・・