この新大洲橋は、現代では広島県164号広島海田線の中、府中大川に架かる橋ですが、
先の太平洋戦争時は軍都・広島と軍港・呉を結ぶ重要な道路であったのではないのかとわたしは思いますが。
わたしがぶらり散歩する時に使用している地図‘街の達人’には、町名と同じ“新大州橋”と記していました。しかし、わたしは親柱に取り付けられている橋名板「新大洲橋」を編集の頁では採用しています。
(府中大川の)新大洲橋
広島ぶらり散歩「橋梁など」編
先の太平洋戦争時は軍都・広島と軍港・呉を結ぶ重要な道路であったのではないのかとわたしは思いますが。
わたしがぶらり散歩する時に使用している地図‘街の達人’には、町名と同じ“新大州橋”と記していました。しかし、わたしは親柱に取り付けられている橋名板「新大洲橋」を編集の頁では採用しています。
(府中大川の)新大洲橋
広島ぶらり散歩「橋梁など」編
2月17日(安芸区のわが家付近)天候 :晴れ(溜水に氷はる)
古代山陽道は山の中を通っていたそうで、
江戸時代に広島領内の山陽道(西国街道とも云われていたようですが)山の中から段々と歩きやすい処に変わってきたようです。
しかし、西国街道は、この橋の処を通っていたわけではないのくもう少し内陸側だったのです。
日清戦争以来軍都廣島となってき、呉の呉鎮守府とを結ぶ道路が必要となり、(先代の)大洲橋が架けられたのではと思っていますが、まだ詳しく勉強していませんので・・・
古くからあるのですね。帝国海軍の一大拠点。
呉と廣島の町を結ぶというのであれば、重要
性は大きいものです。そんな歴史は今となって
は感じられませんが、さかのぼってこの地のこ
とを考えた時に自然とその価値が出てくるもの
なのでしょう。