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HP「広島ぶらり散歩」編集&更新の履歴ブログです。
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中区:味の素(樹木)寄贈・碑

2019年12月27日 08時33分31秒 | 各種記念碑等
中区大手町の平和大通り緑地帯(南側)に建立されている「(樹木)味の素株式会社寄贈・碑」だと思います。

※碑面には“味の素株式会社”下段に“昭和二十八年三月寄贈”と刻まれています。
*樹木寄贈という文字はありませんが、建立場所から(わたしは)樹木寄贈碑と考えています。


何度もぶらり散歩している平和大通りですが、2018年10月歩いたときに、はじめて気付いた小さな石碑でした。
企業宣伝になるから編集しなかったわけではなかったのですが、
単に寄贈の文字が刻まれているだけで、味の素と広島の関わり合いが何だろうと思っていたからでもあったのですが.
(裕編集の)味の素(樹木)寄贈・碑

12月27日(安芸区のわが家付近)天候:くもり


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6 コメント

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社史を読んで来ました (makoto)
2019-12-27 13:41:07
今日、駅前へ行ったついでに地元の図書館に行って来ました。
味の素株式会社は、1913(大正2)年9月に川崎工場完成から一貫して川崎市で大量生産をしています。
地元図書館の郷土資料コーナーに社史があったことを思い出しました。
社史は3冊あり、1951(昭和26)年、1990(平成2)年の80年史、2009(平成21)年の100年史、私が行った図書館ではいずれも貸出禁止の閲覧のみです。
1951年版は寄贈碑よりも前のモノなので記載がありません。
80年史、100年史にも私が読んだ限りでは樹木寄贈の記述を見つけられませんでした。
100年史(書名:味の素グループの百年―新価値創造と開拓精神)には年表等がありました。
708p、1931(昭和6)年の項「8.25 広島に駐在員配置」
708p、1932(昭和7)年の項「3.10 広島事業所開設(広島市下中町11)」
641p、「1941.9 広島事業所閉鎖」
708p、1958(昭和28)年の項「10.1 大阪支店:広島事業所再開」
646p、「1960.1.26広島出張所開設」、「1962.12.1支店昇格」、「1984.4.1中国支店」
246p、写真キャプション「広島出張所(1960年頃)」とありました。

80年史(書名:味をたがやす味の素80年史)では、広島事業所再開は悲願だったことが伺えます。
217p、「3.販路の拡大 販売体制の再編」の項より「28年10月に広島に事業所が再開されたことにより、戦前の地方事業所はすべて復活した」

100年史でも書かれています。
245p、「2.自由販売の開始と販売戦略 販売体制の再編成」の項より「1958年10月には、戦時中に閉鎖された広島事業所が復活」

ここで興味深いのは、社史2冊の20年の差で、「戦前」から「戦時中」へと表現が違うことです。

そしてすべてをメモして来られなかったのですが、同社が国内に事業所や支店開設には、だいたい半年~1年くらい前に駐在所(開設準備室)を設置しているようです。
樹木の寄贈は、1953年10月の広島事業所開設に向けて、駐在所が手配したのではないか、と思いました。


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裕さんへ!! (荒野鷹虎)
2019-12-27 13:55:53
左足の脛が痛み謎々ですねー。昨年背中を骨折した後遺症かとも思いますが、神経系かもしれません。
思わぬ事態でいろいろ大変ですねー。泣き)被曝クスノキは力強く生きていますね。同じく人間も頑張りぬくことが必要ですねー。愚息が明日来札する予定ですが孫がインフルにかかりあえないかもしれません。泣き)
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当地には・・・ ()
2019-12-27 18:32:50
こんばんは、makotoさん。

HPを編集しだしたころには足蹴く利用していましたが、
すこしづつわたしの勉強を満足させる郷土資料の少なさの思いをつのらせていき、(広島市の)図書館には持禁の図書が多くある事も知り、資料収集力のなさを知ることになりました。
わが区の図書館に味の素の社史などはないことは以前より知っていますが。
やはり地元ではないというばかりではなく蔵書量の違いもあると思っています。
きょうはわが区の図書館の前にある眼科へ(JR電車に乗って)定期検診のつもり行ったのですが、既に正月休みでした。
JR運賃を使っての空振りでしたが、図書館に寄ってみようとは思わなかったのでした。

コメントをいただき、
戦前の地図で、下中町11を探してみました。
http://masuda901.web.fc2.com/page2p01rbb.html
下中町は戦後の住所(役所の勝手な)整備で亡くなりました。
わたしは、原爆慰霊碑からその位置を考えてみましたが。
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楽しみですね・・・ ()
2019-12-27 18:44:00
こんばんは、荒野鷹虎さん。

息子さん、お孫さんとの正月休みを過ごされるとのこと、楽しみですね。
ニュースでは、子どものインフルエンザの流行を報じていますが、健康にされているといいですね。
そこが痛い、あそこが痛いを忘れさせる存在なのでしょうね。

クスノキは樹命も長く、何世代にもわたって長く被爆の惨禍を伝えてくれる木ではないのでしょうか。
(ヤナギ、マツなどは枯死してきているものもありますので)
来年は被爆75年、久しく更新していない被爆樹木の頁もありますので、更新したいと思ってはいるのですが。
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訂正をお願いします (makoto)
2019-12-27 19:33:17
私の書き込みに間違いがありましたのでお詫び申しあげます。
100年史の、708pと245pの記述2か所で、1958(昭和28)年と書いていますが正しくは「1953(昭和28)年」です。
ご迷惑をおかけして申し訳ありませんが、訂正をお願いします。
そして裕さんのホームページ記事も拝見しました。
私の見落としもあるかと思いますが、社史では「副特約店」「新見久次郎」という記述を見かけませんでした。
100年史の62pには「甘田誠三郎」という人物が明治42年8月に大阪の松下商店を特約店にして、西日本地域に販路拡大を行ったという記述がありました。
この甘田氏は鈴木商店の社員(のち大阪支店長や本社役員)です。

私にとって、いつか味の素のことを調べてみたいと思っていたので、とてもいい機会になりました。
ありがとうございました。

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編集者として失格 ()
2019-12-27 20:24:32
こんばんは、makotoさん。

失礼しました。
わたしが編集する時に訂正すべきことだったのです。
資料で、西暦を和暦の片方だけの表示の時は、なるべく西暦から(和暦)にして編集しているわたしのミスですので。

広島には、味日本という会社があるのです。
戦後10年にもならない時に‘裸婦像’が平和大通りに設置され驚いたとある被爆者(女性)から聞いたことがあったことで、その像の寄贈者が「味日本」だったのです
(同業者だった?)。
http://masuda901.web.fc2.com/page2bx140.html
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