神の国はここにありながら手中にできない理由を、
谷口先生はお書きくださっている。
「その遠さは空間的ひろがりの中にある距離の遠さではなく、サイクルの相違または次元の相違からくる遠さなのである。」
どうすれば「神の子・神の国」放送が聞ける状態に、
自分の心をもっていけるのだろうか。
つまり、
自分の心のレベルを“神の子”の心境にまで高め上げた時に、
観法によって「神の子・神の国」は顕われるということである。
魂の浄化及び観法の二つが必要なのだ。
真理の探究(“四部経を読む”を含む)と愛行と神想観によって
魂の浄化につとめ、
“神の子”にふさわしい心境に高まった時に、
「実相を観る」観行で“神の国”は顕われるのである。
もともと在るからである。
でも向こうから自然に来てくれはしない。
行が必要なわけは行動によって信念が固まるからだ。
実相はあっても、
「神が顕われる」ためには自分が“神の子”だと分り、
神と一体になって、
神と親子関係に戻りたいと欲するから
神さまがその要求に応えてくださるのだ。
ここに実相顕現が容易でない(技術じゃないから)理由が
あるのである。
“神の子”に戻ることを切実に望み、
そのことのために全てを捨てた時に、
次元を超えて“神の国”放送をキャッチできるのである。
これは人間そのものの一大変革なのである。
た神様は誠実な人間の純な心の求めには、
絶対に、確実に応えてくれる。
このいい加減な存在じゃないところが「神様である所以」だ。
だからどんな悲惨な病態の人でも神癒させるのである。
(如意自在の生活365章 谷口雅春著 日本教文社)
【“神の国”が「汝の内に在り」であるならば、何故、「神の国に入ること能わず」とか、「神の国に入ることができる」などというのだろうか。それは“神の国”が“今ここ”にありながらその“今ここ”にある“神の国”に触れることもできないし、“神の国”に近づくことができない人もあるからである。それは“神の国”を“神”という放送局から放送される“番組”であると譬えるならばよく理解し得るのである。“神の国”を放送している電波は、“今ここ”にすでに来ているのである。恐らくその電波はわれわれの身体の中にもあるであろう。すなわち“神の国”なるものはすでに「汝の内にある」のである。しかしその「自己の内」にすでにある“神の国”は肉眼に見える状態でないのであるから、肉体としての自分はまだ“神の国”にいないのである。“今ここ”にありながら無限の遠さにその“神の国”はあるということができるのである。その遠さは空間的ひろがりの中にある距離の遠さではなく、サイクルの相違または次元の相違からくる遠さなのである。“今ここ”に“神の国”の電波はありながら、それは無限の遠さであって見ることも触れることもできないのである。】