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この世は人間の世ではなく神の世であるのだ。このことに気づいた人は神の国に生きることができる。

2020-05-20 14:39:24 | 日記

肉体の奥に、

現象の奥に、

完全なる“神の国”が存在しているのです。

【物質の奥に、

肉体の奥に、

霊妙きわまりなく完全なる存在あり。

これこそ神に造られたる儘の完全なる『汝そのもの』にして、

常住健康永遠不滅なる『生命』なり。

汝ら今こそ物質を超越して

汝自身の『生命』の実相を自覚せよ。】(甘露の法雨)

神想観を実修し、

真理を勉強しているうちに、

この現象の世は実際には存在してなくて、

代わりに「視得ない“神の国”」が

見えないけれども支配しているのだと、

直感できるようになってきます。

“神の子”の自覚というのは、

自分は実際には神なるものであり、

神の国に居るのだとの自覚なのです。

その時、

【生命の実相を知る者は

因縁を超越して生命本来の歪みなき円相的自由を獲得せん。】

という状態になる訳であります。

藤原敏之先生は

「目に見える物は心の影であって本当にあるものではなく、

目に見えないものが本当にあるものだ。」

と仰っています。

さらに「無いもの(現象)をナイと、断じないと、

本当にアルものは現われない。」とも

おっしゃっています。

「現象は本当にないんだ、生命の振動の波動に過ぎない」という、

究極の真理がさとりの急所であります。

 


神は人間は環境を支配できる存在としてお造りになったのである。・・・だから実相独在の真理についても気付く人も始めから在ったのである。

2020-05-20 12:27:00 | 日記

神は人間は環境を支配できる存在としてお造りになった、

ということである。

そのために、

「キリストは自由を得させん為に我らを釈(と)き放ちたまえり。」

ということである。

それは分る、でも釈迦もそうだ。

私たちは時間・空間のスクリーン世界で、

いくつもの生を繰返す神による人間活動の舞台設定については、

深い意味のあることだと受け取る必要がある。

このことは神の立場で考えるべきであり、

人間の立場で考えるべきではない。

人間は本当は神であるからだ。

神のなさることに間違いはない。

釈迦やキリストそして谷口雅春先生が、

この現象世界における正しい生き方「実相独在」を示すものとして

現われたのであったが、

キリストや釈迦以前の時代にも、

人間を救う実相独在の真理は、

示す聖人はいた筈である。

いない筈があろうか。

人間は釈迦・キリスト以前にも存在していたのだから、

神が実相独在の真理を示さない状態に人間を放置したとは、

考えにくい。

この現象の世は

自分の心の展開であって、

その「自分の心の展開」という真理(人間存在の在り方)は、

人類の始めからあったわけで、

「実相と現象の関係」の構図も

始めなき始めからの構図であるから、

そして「真理」自体が人間だから、

“神の子”なるものが

自分の正体に気付くことも

当然である。

実相独在を示した真理伝道者は数多く世に出ていたと考えるのが、

当然のことだと私は考えている。

人間は環境の奴隷なんかじゃない、

環境の支配者である。

そのように世の始めから創造られているのが、

人間存在である。

今後多くの宗教はその神髄を抽出して、

一つのものに帰一する必要があるが、

別に今それを特定なんてできない。

「実相独在」のみ教えという名称で

結構なのである。

(奇蹟の時は今 アディントン著・谷口雅春訳 日本教文社)

【「人間は環境は奴隷として造られたものではないのである。環境こそ人間の被造物であるのである」とベンジャミン・ディスレーリは言ったのである。聖パウロは「キリストは自由を得させん為に我らを釈(と)き放ちたまえり。されば堅く立ちて、再び奴隷の軛(くびき)に繋がるな」(ガラテヤ書第5章1節)といっているのである。ここに言う“自由”とは“霊的自由”であり“神の子としての自由”である。わたし達すべては、今こそ立ち止まりて、脚下照顧し、人間は環境の奴隷としてその絆に縛らるべきものでもなければ、人間関係をも含む色々の条件にも屈従しなければならぬような者ではないことを想起せよ。然り、時には、肉眼には如何にも現実に存在するかのように見える肉体の症状にさえも屈従して奴隷の絆に繋がれる必要はないものなのである。

 人間が自由であるのは、“神の子”であり、至上者の子であるからである。それであるから、己が人生、己が環境を支配する権を与えられているのである。今まで自縄自縛していた自分自身の直ぐ今此処に、“神の子”としての実相の自由があることをわれわれは見ることができるのである。ひとたび、われわれが、自己内在の自由を見出すならば、外界は常に内部の自由に一致したものとなるのである。それを奇蹟と見るならば、それはまことに奇蹟である。まことに奇蹟の時は今であるのである。】

 


自分の心のレベルを“神の子”の心境にまで高め上げた時に、 観法によって「神の子・神の国」は顕われるということである。

2020-05-20 11:32:52 | 日記

神の国はここにありながら手中にできない理由を、

谷口先生はお書きくださっている。

「その遠さは空間的ひろがりの中にある距離の遠さではなく、サイクルの相違または次元の相違からくる遠さなのである。」

どうすれば「神の子・神の国」放送が聞ける状態に、

自分の心をもっていけるのだろうか。

つまり、

自分の心のレベルを“神の子”の心境にまで高め上げた時に、

観法によって「神の子・神の国」は顕われるということである。

魂の浄化及び観法の二つが必要なのだ。

真理の探究(“四部経を読む”を含む)と愛行と神想観によって

魂の浄化につとめ、

“神の子”にふさわしい心境に高まった時に、

「実相を観る」観行で“神の国”は顕われるのである。

もともと在るからである。
でも向こうから自然に来てくれはしない。

行が必要なわけは行動によって信念が固まるからだ。

実相はあっても、

「神が顕われる」ためには自分が“神の子”だと分り、

神と一体になって、

神と親子関係に戻りたいと欲するから

神さまがその要求に応えてくださるのだ。

ここに実相顕現が容易でない(技術じゃないから)理由が

あるのである。

“神の子”に戻ることを切実に望み、

そのことのために全てを捨てた時に、

次元を超えて“神の国”放送をキャッチできるのである。

これは人間そのものの一大変革なのである。
た神様は誠実な人間の純な心の求めには、
絶対に、確実に応えてくれる。
このいい加減な存在じゃないところが「神様である所以」だ。
だからどんな悲惨な病態の人でも神癒させるのである。

(如意自在の生活365章 谷口雅春著 日本教文社)

【“神の国”が「汝の内に在り」であるならば、何故、「神の国に入ること能わず」とか、「神の国に入ることができる」などというのだろうか。それは“神の国”が“今ここ”にありながらその“今ここ”にある“神の国”に触れることもできないし、“神の国”に近づくことができない人もあるからである。それは“神の国”を“神”という放送局から放送される“番組”であると譬えるならばよく理解し得るのである。“神の国”を放送している電波は、“今ここ”にすでに来ているのである。恐らくその電波はわれわれの身体の中にもあるであろう。すなわち“神の国”なるものはすでに「汝の内にある」のである。しかしその「自己の内」にすでにある“神の国”は肉眼に見える状態でないのであるから、肉体としての自分はまだ“神の国”にいないのである。“今ここ”にありながら無限の遠さにその“神の国”はあるということができるのである。その遠さは空間的ひろがりの中にある距離の遠さではなく、サイクルの相違または次元の相違からくる遠さなのである。“今ここ”に“神の国”の電波はありながら、それは無限の遠さであって見ることも触れることもできないのである。】