新約聖書「ルカによる福音書」
第19章 「ムナ」のたとえ
18 二番目の者が来て、『ご主人様、あなたの一ムナで五ムナ稼ぎました』と言った。
現象世界は
一見無常であります。
しかしこの無常であるところに「常」があるのです。
この「常」をつかみ取ることが
さとりなのかと思われます。
(参考 真理第二巻 第11章 相即相入と云うこと)
<現象界は常に遷り易る>
此の世の中のすべての物は、うつり変るものばかりであります。ひとつとして変化しないものはありません。釈迦牟尼仏が発見せられました真理の一つは、結局、此のすべてのものは遷り易ると云うことでありました。生れたものは死ぬ。有っているものもいつかは放さなければならない。永遠のものと言ってはひとつもない。何という淋しいことであろう。そこに切実に「永遠のもの」「滅びないもの」「不壊のもの」を求めずにはいられない切実なる感情が湧いて来るのであります。花は咲いて萎む。実がみのって地に墜ちる。そこから若葉が出て花が咲く・・・常なく変化である。是を無常と釈尊は仰せられました。無常の深き体感から尊き宗教が生れて来るのです。
何故一見苦痛多きみたいな人生を何度も繰り返すのか、
という問題は、
誰もが一度は考える事と思われる。
東日本大震災とか、
生まれつきの身体不自由な人をみると、
誰だってそう思うだろう。
この問題を解決しないと、
神は愛なりと信じることができにくいので、
今後私の課題にはするが、
でもその問題はちょっと脇へ置いといて
何故“神の子”が自己表現したいのか考えてみる。
以下の文にこんな風に書かれている。
「既に美人であるからこそ、鏡の前に立って自分自身の姿を鑑賞せずにはいられないのである。」と。
誰もが自分の姿を鏡で見たいだろう。
カラオケで歌う時には
自分の声を聞きたいだろう。
自分が文章を書いたら
味わいつつ書くことができないと
つまらない。
表現する行為が楽しいのである。
天才歌手の東亜樹ちゃんだって
歌う行為において「生」の喜びを感じているはずだ。
生きることの喜びとは実相を表現する喜びなのか?
(神真理を告げ給う 谷口雅春著 日本教文社)
【“霊”なる神の中には、すでに全てが存在するのである。全てが存在しなかったら、それには限りがあるのであるから、“無限”だという訳には行かない。神は無限であり、限りがないのであるから、全てが既に内にあるのである。
神は既に無限を内に包蔵したまうから、それを時間空間という“認識の形式”をつくってその形式の上に置き並べて、自己が自己の内にあるものを、自己鑑賞せずにいられないのである。それは美人が鏡の前に立って自分の顔や姿を飽くことなく眺めていたいのにも似ている。鏡に映るところの姿は、既に自己に備わっているところの諸諸の姿である。「既に全てがあるのに何故神は表現せずにはいられないのか」と疑問を投げかけた人が、いつかあったが、既にあるからこそそれを表現したいのである。既に美人であるからこそ、鏡の前に立って自分自身の姿を鑑賞せずにはいられないのと同じことである。】
以下の引用文には
「“内”にあるものは“外”に表現せられるとき、その存在の意義を完成するのである。」とある。
現象世界に現れているものはすべて、
“内”なるものの表現だ。
“内”なるものが“神”であるから
現象界には神が表現される。
人間が“神の子”であるなら、
現象界には“神の子”が表現される。
“表現”ということ自体が
辞典に「内面的・精神的・主体的な思想や感情などを、外面的・客観的な形あるものとして表すこと。」
と書かれている。
現象世界は“神の子”のつまり“神”の
自己表現だ。
“神の子”は被造物ではないからだ。
ヨハネ伝に「言は神なりき。」「言肉となりて我らの内に宿った。」とあるし、
創世記には
「神はまた言われた、『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう』。 」
と書かれている。
人間の本体は神そのものではないが、
神の一部ではあるから“神”である。
顕の世界というものは顕われの世界であるから
「五感で感じられる化」する必要がある。
“実相”という“神の子”であることも
五感の世界に現われることで、
「顕」の目的を達するのである。
“神の子”「幽の世界」を人間「顕の世界」化することが
現象世界創造の目的である。
世の始めからそうなのだ。
“神の子”であることを
「顕」化することが神の目的なのだ。
では何故「幽」の「顕」化が必要なのか。
それは「目に見える化」して
表現の喜びを味わうためである。
だは一体喜びを味わうのは「誰が」である。
それは父である神と
子である神の子の両者である。
現象世界って人間にとって何なのだという存在の探究は、
私としてはやらないわけにはいかないので、
このブログを御覧の方には
面倒な試行錯誤を
ご容赦いただきたいのである。
(神真理を告げ給う 谷口雅春著 日本教文社)
【歌手は何故、歌を唄わずにいられないのか。それは歌手自身の内に既に歌があり、歌の声の“美”があるから、それを表現せずにはいられないのである。画家は何故、絵を描かなければならない衝動にかられるのであるか。それは画家の心の中に、既に表現されるべき“美”のイメージがあるからである。作曲家は何故作曲したくなるのであろうか。彼は自己の内にある音楽的メロディが中から、表現する衝動が湧き起って来るからである。“内”にあるものは“外”に表現せられるとき、その存在の意義を完成するのである。歌手の“内”にある音楽家はそれが歌われて外に表現されたとき、その存在の意義を完成する。“内”にあるものは“外”へと発動するところの陽性の力であり、“外”はその発動を、そのままに受け止めてそれを形象にまで表現するのである。“内外打成一片”であるけれども存在の形式を分析するとそのようになるのである。それは水素の原子に、内部の中核体として“陽子”があり、それを中心に“陰電子”が陽子の周辺を旋回しているのと同じような存在形式である。】