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私たちは存在を見るのに真妄を選別し、光と煙とを選り別けてただ光のみを観るようにしなければならないのである。

2020-05-11 10:30:51 | 日記

『神真理を告げ給う』の最後の頁が
以下のご文章である。
その中のまとめになるのが、
「光を見れば光があらわれるのであり、実相のみを観るようにすれば、実相の円満完全な相があらわれ、地上に、世界に、社会に、家庭に天国浄土が展かれるのである。」
という部分である。
実在界の完全円満なる真象を観るには
“実相覚”とも言うべき正覚の眼をひらかなければならない。
このことで
現象の奥に実在する実相世界を
把握できるのである。
谷口雅春先生は、
“実相を観る”ことが人類を救う根本原理であると、
仰っているのである。
このことは真理を自覚した人にしか
実際には不可能であるから、
私たちが為すべきことは
自分自身が実相を求め
実相を顕わすことをすべきであるのである。
それだけすればよいのである。
宇宙は自己なのであるから。
(神真理を告げ給う 谷口雅春著 日本教文社)
【実在界の完全円満なる真象は、絶対者のコトバの展開として出現したものであるから、これは無常の存在ではなく、常恒不変不滅の実在なのである。しかし、それを如実に観るためには、五官の目を閉じて、“実相覚”とも言うべき正覚の眼をひらかなければならないのである。肉眼等の感覚にて見得るものは、実相の霊的実在ではなく、それが物質として翻訳される過程に於いて、誤訳を交えて真妄こもごもの世界を象徴的に観ているに過ぎないのである。その“妄”の部分は「コトバは神なりき」であった後の、コトバは“神よりの言”と人間の“妄心よりの言”との混合によって晦まされたる部分である。私たちは存在を見るのに真妄を選別し、光と煙とを選り別けてただ光のみを観るようにしなければならないのである。光を見れば光があらわれるのであり、実相のみを観るようにすれば、実相の円満完全な相があらわれ、地上に、世界に、社会に、家庭に天国浄土が展かれるのである。】


生長の家が大声疾呼する真理とは「神・霊・人」が一体であるという真理である。

2020-05-11 10:02:35 | 日記

法華経の「久遠本仏―釈尊―一切衆生の一体」の真理は
キリスト教の「天の父―イエス―汝ら」の一体の真理と
同じことである。
この共通の真理であるのは、
「神と霊と人とが三者一体」であるということであって、
これは大事な根本真理である。
私たちは“神の子”実相を観じる神想観をするのであって、
その“神の子”の示現がキリストであり釈迦である。
“真理キリストを観じる”ことが実相を祈るポイントであり、
法華経ではこの“真理”ということが
“釈尊”になっているのである。
投稿者が今まで使った言葉では、
“実相人間”という言葉がこれに相当するが、
人間の本体は
理念である静なる動的実在であり、
生き者(神の子)である。
現象世界に今も生きて働きつつある。
これが実相であり現象の実在である。
「実相独在の真理」であり、
これ以外のものは何一つ存在しない。
我らはこの真理を混ざり物なしで
後世に伝えていく必要が、
あるのである。
(神真理を告げ給う 谷口雅春著 日本教文社)
【この父と子と人間との一体を表現した一節が『法華経』の中にもあるのである。それは『法華経』の“方便品”の中にある釈尊の言葉~
「未だ曾て汝等、当に仏道を成ずることを得べしと説かず、未だ曽て説かざりし所以は、説時いまだ至らざる故なり。今正しく是れ其時なり、決定(けつじょう)して大乗を説く。舎利弗、当(まさ)に知るべし。我本、誓願を立てて、一切の衆をして、我が如く等しくして異なること無からしめんと欲せり、我が昔願う所の如き、今巳(すで)に満足せり」
 大乗とはすべての大衆をして一網打尽的に如来地に救いあげる乗物となる教えのことである。『法華経』に至って釈尊は、「久遠本仏―釈尊―一切衆生の一体」の真理をお説きになったのである。これは全くキリストが、「天の父―イエス―汝ら」の一体の真理を、『ヨハネ伝』福音書に於いてお説きになったのと同じことである。生長の家はこの真理を現代語でわかり易く大声疾呼しつつあるのである。】