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現象世界に現れる「眼に見えない」実相理念

2020-05-02 12:44:48 | 日記

現象世界は
よく観察すると
全体が目に見えない実相の展開であることが
ぱっと分るものばかりだ、
見えない「理念世界」が
次ぎ次ぎに現れているからだ。
植物が日々新たな姿を現わすことなどは
とても分かり易い実相の現われである。
(正法眼蔵を読む 恁麼の巻 谷口清超)
<永失即為>
「智なきものは疑怪(ぎけ)して、即ちこれ永く失わん」と『法華経』の薬草喩品にある。智慧は必ずしも有とも無ともいえない。それは現象を超えているからである。しかしそれはある時には春の松となって現れ、ある時は秋の菊となって消えて行く。このとき無の奥に智があるのだが、それを「無智」という。この観点に立てば、仏道も「疑怪」であり、現象界ことごとく「疑怪」である。これ即ち「永失即為」永遠に失われたように見えるところのすべての現象ことごとくが疑わしくなる。つまり現象は永久に失われてしまう様相である。「そのまま」である。聞くべき道も、証すべき法も、「疑怪」であって、あまりパッとしない。あたり前があたり前に推移するだけだ。どこにも「われ」なるものがはっきりと出てこない。「我独り」はどこにもない。 しかし、あらゆる所に、露堂々として智慧があらわれる。誰に現れるというのではなく、どこまでも一様に、すべてにおいて現れる。こうして実相があらわれて松の枝の芽がのびてくる。それは、全てことごとくが仏土であり、そこには唯一乗の法あるのみだからである。又たとい菊の葉が落ちて枯れるとしても、その奥には実相があり、ただ現象はそのまま現象の法則に従って現れてくるだけである。即ち「この法、法位に住して、世間の法は常住なり」であって、いかに現象が枯れたように見えていても、その奥に永遠なるものがある。それが実相(恁麼事)であるから、有智といっても、無智といっても、大差はない。いわば日面と月面との違いのようなもので、どちらも智慧の光に輝いているのである。
 
 
 


苦しみや不幸克服のために神は法則を作ってくれたのだった。

2020-05-02 11:39:21 | 日記

現象世界に苦痛があるので、

どうして神はこうした病気とか不幸が起こり得るような

時間・空間の舞台設定をなさったのか、

に関してさっきブログ投稿したのですが、

早速神様から答えがはいりました。

「法則がちゃんとあるじゃないか」と。

 

(参考 真理第二巻 第10章 智慧と法則としての宇宙の本体)
<法則が神であり、法則が万事を成し給う>
 神が一定不変の法則であると云う事その事が、大いなる愛であるのであります。若し神が誠に愛憎や憤怒や同情によって時々或る人には酸素と水素とを合して水にしたり、他の人には鉄にしたり、一定にきまっていないとしたならば、吾々はどんか計画も設計も施すことが出来ないことになるのであります。神が一定不変の法則であればこそ、毎年春夏秋冬があり、朝夕が毎日あり、時間割を定めて勉強や仕事をすることも出来るのであります。かくの如くして下さったのが神の愛でなくて何でありましょう。病気が治るのもまた法則によって治るのですから、ラジオのスイッチを捻ると、法則が吾々に放送の番組をきかせてくれるのと同じであります。何事も法則がやってくれるのです。


“神”はその人物の中に“神”の地上天国建設の念願を鋳込んであるのだから、試行錯誤を繰返し善悪を差別する智的修行をしながら地上天国を建設するのである。

2020-05-02 10:56:51 | 日記

「“ああでもない”“こうでもない”と試行錯誤を繰返す。そこに善悪を差別する智的修行があるのである。」
と書かれているように、
地上における人間の失敗や挫折そして苦しみというものは、
実相を顕わすために必要なものなのだ。
多く苦しんでそれを克服した人ほど、
内なる神性が現れるのである。
谷口雅春先生は
苦しみを超越して
“神の子”の生き方に戻ることによって、
常楽の世界に生きることが可能となる、
と説いているのである。
人間の真実は
不幸や災難そして人間の悲惨の体験を
無視したところには存在しないのである。
何故“神の子”である人間に苦しみが存在するのか、
という質問をする人は多いが、
「試行錯誤を繰返すところに善悪を差別する智的修行がある」からである。
つまり苦痛には意味があるからである。
これは本当に大事な問題であるのだが、
谷口雅春先生は以下のようにお書きになっている。
はじめに要点をまとめてみた。
1“物質人間”は“神”が創造した“神の肖像”(イメージ)そのままの人物ではない。
2“神”はその人物の中に“神”の地上天国建設の念願を鋳込んであり、試行錯誤を繰返すところに善悪を差別する智的修行があるのである。
(参考 神真理を告げ給う 谷口雅春著 日本教文社)
<“物質人間”は“神”が創造した“神の肖像”(イメージ)そのままの人物ではない>
【“物質人間”は“本当の人間”ではなく、時間・空間の立体カンバス上に描かれたる“作品人間”なのである。それはテレビの画面上にあらわれた人物の如く動くのであるけれども、それは人間の心が創作した人物であって、“わたし”が創造した“神の肖像”(イメージ)そのままの人物ではないのである。】
<“神”はその人物の中に“神”の地上天国建設の念願を鋳込んであり、試行錯誤を繰返すところに善悪を差別する智的修行があるのである>
【しかし“わたし”はその人物の中に“わたし”の地上天国建設の念願を鋳込んである。それゆえに、彼は善悪の差別を考える理智を備えていて、兎も角も、自分の“善”と考える方向に行動しようとする欲望を備えているのである。物質の世界に、物質人間としてあらわされたる人間が、地上天国を描き出すのは、はじめて絵筆をもってカンバスに向った初歩の画家のように、充分完全なる絵を画くことが出来ないで、いろいろ試行錯誤を繰り返すのである。そして中々、天国的な状態をあらわすことが出来ないで、“ああでもない”“こうでもない”と試行錯誤を繰返す。そこに善悪を差別する智的修行があるのである。この事を『創世記』第3章にはアダムとイヴとが“善悪を知る樹の果”を食したという風に書いているのである。】
(参考『創世記』第3章)
1 さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。 
2 女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、 
3 ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。 
4 へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。 
5 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。 
6 女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。 
7 すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。 
8 彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。 
9 主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。 
10 彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。 
11 神は言われた、「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。 
12 人は答えた、「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」。 
13 そこで主なる神は女に言われた、「あなたは、なんということをしたのです」。女は答えた、「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」。 
14 主なる神はへびに言われた、「おまえは、この事を、したので、すべての家畜、野のすべての獣のうち、最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、一生、ちりを食べるであろう。 
15 わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」。 
16 つぎに女に言われた、「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」。 
17 更に人に言われた、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。 
18 地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。 
19 あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。 
20 さて、人はその妻の名をエバと名づけた。彼女がすべて生きた者の母だからである。 
21 主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。 
22 主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」。 
23 そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。 
24 神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。 


重複創造~コトバによって創造された霊的存在と“物質”にて創造られたるものと夢みている“物質人間”とが同時にそこに出現している。

2020-05-02 09:59:05 | 日記

人間世界という「霊界の一種の在り方」の存在の場所で
人間が実相顕現の修行を行うということの深い意味は
私にはまだ分っていないが、
(それは創造の喜びを味わうためと、
ホルムスや雅春先生は書いているので、
多分それだと思われるが、
私にはまだ分っていない)、
今後自分でその答えを探っていくこととなろう。
時間及び空間というものの設定は
何故どんな理由で行われたのか、
これは神の創造の意図に関わる問題であり、
とても大事なことである。
谷口雅春先生も『神を審判く』という本をお書きになっているので、
人間創造の理由について
探究されたのだと思う。
宗教的出発点にあったと思われるのは、
「人間の苦しみは何故存在するのか?」
「人間の存在の意味は何か?」
ということであったと
私は推察する。
(参考 神真理を告げ給う 谷口雅春著 日本教文社)
<地上に天国を建設するということは神の芸術であり、時間及び空間は“わたし”の創造である。>
【時間及び空間というものは本来ない。実相世界は超時空的存在の世界であるからである。時間の観念、空間の観念は物質的存在を心に描くための謂わば“画布”(カンバス)として必要なので“わたし”が人間に与えたところの架空的観念である。それは光の波を固定して映画の光景として見せるスクリーンの役目をなさしめるために“人間の心”に対して“わたし”が与えたところの概念である。このスクリーン上に生命の波動(心の波)が放射されると、生命の波動(心の波)が固定化されて物質化して感じられるのである。この物質化して感じられる基盤がなければ、地上に天国を建設するという“わたし”の芸術を成就することが出来ないので、“わたし”は人間に時間空間の観念を与えたのである。時間及び空間は“わたし”の創造である。】
<地上を具象的存在だと感ずることは地上天国建設の第一歩の成就>
【空間の観念を与えられた人間は、恰もスクリーンを与えられた人間が映写機から放射される光の波を、単に“光の波”として感受せずに物質界に起った具体的事象として感ずると同じ原理で、生命の波動(心の波)を単に波動として感受せずに、それを地上世界の物質的事象として感じ、その物質を具体的確固な存在として感ずるのである。地上が具体的存在だと感ずる精神的地盤が成立しなかったら、地上に天国を実現することは不可能なのだから、生命の霊的波動を物質化して感じ、地上を具象的存在だと感ずることは地上天国建設の第一歩の成就なのである。】
<“迷い”は地上に天国を描き出すために画布(カンバス)として、“神”が投げかけた影>
【しかしながら、また別の観点からするならば、生命的波動を、空間面上の“物質”と翻訳して誤認することは“迷い”の発生ということにもなるのである。そして、それが、その“迷い”の発生は何処から生じたかという常に投げかけられる原因になるのである。“光”がなければ影を投ずることもないように、“迷い”は地上に天国を描き出すために画布(カンバス)として、“わたし”が投げかけた影である。】
<一切の事物と人間とは“神”から出たアイディアの霊的波動の顕現であるから霊的実在>
【“わたし”は“わたし”の生命の霊的波動即ち“コトバ”によって先ず「光あれ」と想念して“光”を生み出し、次ぎ次ぎと万物を生み出して最後に“わたし”の最高完全のイメージの顕現としての人間を創造した。それら一切の事物と人間とは“わたし”から出たアイディアの霊的波動の顕現であるから霊的実在なのである。】
<“神”は人間の霊的自覚を眠らせて、人間が時間・空間のスクリーン上の「肉体」であるという夢を見せた>
【それなのに“わたし”は人間の霊的自覚を眠らせて、人間が時間・空間のスクリーン上に顕われている物質的存在なる「肉体」であるという夢を見せたのである。このことを『創世記』では「土の塵をもって人を創造り」という風に『物質人間』の重複創造として記述しているのである。それは本当に“重複創造”である。】
<コトバによって創造された霊的存在と“物質”にて創造られたるものと夢みている“物質人間”とが同時にそこに出現している。>
【それが“重複創造”であるというのは、“わたし”の生命の波動即ちコトバによって創造された霊的存在であるところの“実相人間”と、その実相の自覚が眠りに入って“自己”を“土の塵”即ち“物質”にて創造られたるものと夢みている“物質人間”とが同時にそこに出現しているからである。】