新約聖書「ルカによる福音書」
第19章 エルサレムに迎えられる
33 ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。
神への信仰が人を癒すのである。
これに尽きる。
(奇蹟の時は今 アディントン著・谷口雅春訳 日本教文社)
【真の霊的治療は“心”を変革することによって起るのである。「悔い改めよ、天国は手近にある」(マタイ伝第3章2節)悔い改めるということは、自己の心を変革して、生活態度を一変するということである。その人の全人格に神癒を受け入れる準備が整うたとき、今ここに天国が現前する事が起るのである。神聖なる正常なる生理的活動の行われている天国は常に今ここにあるのである。“霊”と“心”とが調和の状態にあるとき、その二つと三位一体になっている“体”に於いて、可視的世界に神癒が実現するのである。あらゆる心霊治療に於ける治癒は、それが如何に奇蹟の如く見えようとも科学的法則によって行われるのである。あらゆる治癒作用は先ず心の世界に於いて起り、その結果として肉体に現れるのである。それゆえに、こういうことができるのである―あらゆる治癒作用は、たといそれが医師の指示による看護や処置によって起るにせよ、精神治療家によって起されるにせよ、はたまたルールドに於ける奇蹟のような形によって起るにせよ、いずれも皆共通なのは、、それは先ず癒された本人によって“心”の中に受け容れられてそれが起るということである。このことを私は数千人の人々を治癒させて見て学び知ったのである。多くの人たちは癒されたが、若干の人たちは癒されなかった。それは結局、『マルコ伝』第5章34節にある「汝の信仰、汝を癒せり」に当て嵌まるのである。】
(参考マルコ伝第5章25~34節)
・25さてここに、十二年間も長血をわずらっている女がいた。
・26多くの医者にかかって、さんざん苦しめられ、その持ち物をみな費してしまったが、なんのかいもないばかりか、かえってますます悪くなる一方であった。
・27この女がイエスのことを聞いて、群衆の中にまぎれ込み、うしろから、み衣にさわった。
・28それは、せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと、思っていたからである。
・29すると、血の元がすぐにかわき、女は病気がなおったことを、その身に感じた。
・30イエスはすぐ、自分の内から力が出て行ったことに気づかれて、群衆の中で振り向き、「わたしの着物にさわったのはだれか」と言われた。
・31そこで弟子たちが言った、「ごらんのとおり、群衆があなたに押し迫っていますのに、だれがさわったかと、おっしゃるのですか」。
・32しかし、イエスはさわった者を見つけようとして、見まわしておられた。
・33その女は自分の身に起ったことを知って、恐れおののきながら進み出て、みまえにひれ伏して、すべてありのままを申し上げた。
・34イエスはその女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」。
我々が困難を解決できないとしたら、
「神を信じていない。神に背いている」という、
ただ一つの理由によるのである。
まったく簡単な言葉で言われるが、
これは本当と私は思っている。
この世は神の世であるからだ。
アディントンがこの書で明確に言っていることは、
本当の神を信じることができれば、
言い換えると神の創り給える実相の世界を
本当に信じることができれば、
解決できない問題は何一つない、
ということである。
つまり「神を本気で信じ切れるか?」ということに、
すべてはかかっているのだ。
(奇蹟の時は今 アディントン著・谷口雅春訳 日本教文社)
【神癒の癒す力によって、癒し得ないようなどんな病気もないし、人間に関する問題で、それが人間関係の問題であろうとも、またどんな種類の不快な制約ある環境の桎梏であろうとも神癒の力によって解決できない問題というのはひとつもないのである。あなたはどんな肉体の状態からでも癒され得るし、貧乏に定められているという信仰からも、家庭の不調和からも、仕事場に於ける複雑な混乱や摩擦や相互の反目からも癒され得るのである。神にとって何事もむつかし過ぎるというものはないのである。】