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外の境が現れたらそれが自己であると見破れ

2020-05-05 19:57:26 | 日記

「現象はすべて自己なり。」
たとえば父親は父親として現れた私なる自己であり、
家内は家内として現れた私なる自己です。
隣のうちの子どもは
隣のうちの子として現れた私なる自己です。
環境世界は自分のいのちの展開であるから
全部自己です。
ただ環境を見るときには、
見えるものを見ず(見えるものは心の影だから)、
見えない“神のいのち”と
観るわけです。
(自他一体の)自分のいのちが今ここに私の環境として
現象展開しているのです。
だから人間は朝から晩まで晩から朝まで
自己一枚なのです。
外の境があらわれたら、
それが自己であると見破れと
臨済は言います。
正法眼蔵に「現成公案の巻」という巻がありますが、
「現成公案」とは公案(幕府の文書)の現成することであり、
つまり「実相円満完全世界」の現象展開、
という意味であります。
(参考 臨済録 朝比奈宗源 タチバナ教養文庫)
【修行者よ、お前たちがもし正しい修行の成就を願うならば、大丈夫の気概がなくてはならぬ。もし意志が弱く常に外物に振りまわされているような者はとても見込みがない。ひびの入った陶器には醍醐を貯えておけないと同じだ。大器の人であれば、なによりも自己の尊さを信じて、他に惑わされないことが大切だ。随所に主となることができればその場その場がみな真実である。外のものについて廻ってはいけない。お前たちの心に一念の疑いが浮かべばそれが魔である。菩薩ですら疑いを起せば、生死の魔につけ込まれる。先ずなによりも計らいを止め、外に向って求めてはならない。外の境が現れたならば、すぐに自己にたちかえり、それが自己であると見破れ。ただただお前たちの今そこにはたらいているものを信ぜよ。それが出来れば、面倒なことは一つも無い。お前たちの一念心が三界を作り出し、さらに縁に応じて自己が外境に転ぜられて六塵となるのだ。
お前たち、今ここにはたらいているものにいったい何が欠けているというのだ。そいつは一刹那の間に、浄土にも入り、三眼国土にも入り、いたる処に遊びまわるが、それらの境界のすべては、ただ空名があるだけだ。】


無依の真人(神の子)が環境を用いて出てくるのだ。

2020-05-05 17:18:33 | 日記

“神の子”が環境を用いて時々刻々現象に顕われ出ることを
絶妙な表現で臨済は説明している。
“神の子”が現象に現われたとしても
現象化の基となっている“見えないいのち”(実相)を
つかまねばならない。
(参考 臨済録 朝比奈宗源 タチバナ教養文庫)
<環境の変化はすべて無依の道人の働き>
【わしのところでは修行者が出家であると在家であるとは問題でない。どんな修行者が現れても、一目でその胸中を見抜いてしまう。たとえ彼がどんな境界から出て来ても、そんなものは名相や概念であって無幻にすぎない。ところがその境を用いている人こそ三世諸仏の玄旨~無依の道人である。仏の境界が自らわしが仏の境界だなどとは言い得ない。この無依の道人が境を用いて出てくるのだ。もし、誰かがわし(すなわち無依の道人)に仏を求めたならば、わしは清浄の境となって現れる。もし菩薩を問うたならば、わしは清浄微妙の境として現れる。もし涅槃を問うたならば、わしは寂静の境として現れる。その境は千差万別であるが、無依の道人はただ一人だ。それだから、相手に応じて形を現わすその様子は、ちょうど天上の月がすべての水に映るように自由なものだ。】


われらの心がこうして実相世界へ入るときは、妙な言い方でありますが、肉体とともにまた実相の世界に入るのであります。なぜなら肉体は心に従う影であるからです。

2020-05-05 10:44:24 | 日記

心が実相世界へ入るときは、
肉体も一緒に実相の世界へ入る、ということは、
有難いことであり、
この文章を思い出したので
転載いたします。
(生命の実相第8巻 無限生命に汲む道)
<われらの意識が完全に実相の世界に集中するようになれば、実相の完全さのみが意識にのぼるようになる>
【なお、繰り返して申せば、神想観をするということは、意識をひたすら実相にあつめるということであります。われらの意識が完全に実相の世界に集中するようになれば、われらの心は完全に実在の本然の相にのみ吸収せられ、実相の完全さのみが意識にのぼり、実相以外の何物をも意識しなくなるのであります。われらの心が実相の世界に停住するとき、われらが現象世界のいかなる不完全なる状態をも意識しなくなることは明らかなことであります。だからわれらの意識には病気、苦痛、虚弱等のごときものは一つとして感じられることはできなくなるのであります。かくのごとくしていっさいの悪は心の門外に放逐せられるのであります。】
<われらの心がこうして実相世界へ入るときは、妙な言い方でありますが、肉体とともにまた実相の世界に入るのであります。なぜなら肉体は心に従う影であるからです。>
【われらの心がこうして実相世界へ入るときは、妙な言い方でありますが、肉体とともにまた実相の世界に入るのであります。なぜなら肉体は心に従う影であるからです。われらはぜんぜん異なる反対の二つの世界に同時に住むことはできないのでありますが、われらが実相の世界に入ってしまいますれば、肉体も実相世界に入り、不完全なニセ物の状態は全然意識の圏外に追い出されてしまい、ついに絶対至上の健康の意識に到達するのであります。】


人間の世界に法則が存在しているのは、“神”自身を、人間が利用し得るためである。

2020-05-05 10:10:16 | 日記

人間の世界に法則が存在しているのは、

“神”自身を人間が自分の願うものを実現するために

利用し得るためである。

(神真理を告げ給う 谷口雅春著 日本教文社)
【“わたし”は“法則”である。“神”とは“法則”である。“法則”であるから全能者であるのである。“法則”を何人も毀(やぶ)ることは出来できない。“法則”をやぶろうとするならば“法則”によって罰せられる。“法則”の中に、“わたし”の無限の愛が秘められているのである。“わたし”は一定不変の“法則”の姿をもってあなた達の前にあらわれているから、あなた達は“わたし”を自由に利用することができるのである。“わたし”の本性は“法則”のような固定したものではなく、神通無礙自在であり、あなたたちの眼で見れば端倪(たんげい)すべからざるものであるから、そのままでは、肉体人間の境地に於いては近づきがたきものである。しかも“わたし”自身“法則”として“わたし”があなたの前にあらわれているのは、“わたし”自身を、あなた達人間が利用し得るように、“俎(まないた)の上の鯉”のように、投げ出した無我“愛”の姿であるのだ。愛はみずからの自由を制限して愛する人のために自分の好悪を棄てるのである。】
けれども“心の法則”は
人間が自分の本体である
“神の理念”を自分自身で実現することを念願しつつ
神が設定した法則である。
人間は“神の子”であり“神の国”に生きているのであるから、
“神の子”の生を生きるべきなのであり、
しかもそれを現象の自由な心で
自ら真理をさとって実現すべきであるのだ。


人間は、霊的存在であり、“心”を道具とし、その“心”が信ずるところの者になるようにつくられている。それは“心の法則”によって実現するのである。

2020-05-05 09:38:54 | 日記

人間は全能者の世嗣として、“心”を道具とし、こうありたいと信ずるところの者になるようにつくられている。
それは“法則”によって信じたらその通りに与えられるのである。“法則”が神なのである。
“心の法則”は実相を実現するための手段である。
(神真理を告げ給う 谷口雅春著 日本教文社)
<人間は、霊的存在であり、“心”を道具とし、その“心”が信ずるところの者になるようにつくられている。それは“法則”によって実現するのである。>
【あなた達は、霊的存在であり、“心”を道具とし、その“心”が自分自身を“こうである。こういう者である”と信ずるところの者になるようにつくられているのである。それゆえにこそ、あなた達は“神の子”であり、思う通りにあらわれ、思うものは自分に得られる全能者の世嗣たる訳である。
 それゆえに、あなたは決して自分自身の欲しないものを“心”に思ってはならないのである。“かくありたい”と思うものを、心に描いて、“すでにそれは、ここに在り、それを既に心の世界で受け取ってしまったのだ”と信ずるがよいのである。信じたらその通りに与えられるのである。それは“法則”によって実現するのである。“法則”が“わたし”であり、“わたし”が法則である。恐れることはない。】