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人間が「神の肖像」即ち“創造の神の肉化”であるとは どういう意味か

2021-06-28 14:36:14 | 日記
人間が「神の肖像」即ち“創造の神の肉化”であるとは
どういう意味か

「なになに、人間は“創造の神の肉化”だと。
“創造の神の肉化”って何なんだよ。」
という疑問の声に対する解答はこれであります。
つまり「神の肖像」(にすがた)
の説明であります。
神の「人間設計図」のことです。
(参考 創世記第1章)
 26神は言われた。
「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
  27神は御自分にかたどって人を創造された。
  神にかたどって創造された。
  男と女に創造された。
 
  「神の肖像」とは「海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配する存在」であります。
  つまり
  現象世界全体の支配者であります。
 

2021年6月勉強会資料第2集

2021-06-28 10:28:54 | 日記
生死の世界に流転する人間も、本来は真実の仏そのものである
2021/6/27
現象人間は“神の子(神)”であり“仏”である。
自分が肉体の人間だと思っていることが、
間違いなのだ。
本当は神(仏)である。
“神の子”が時間・空間舞台において
或いは教師を
或いは土方を
あるいは女性を、
或いは野球選手を
演じているのだ。
(正法眼蔵を読む 諸悪莫作の巻  谷口清超)
<三歳の獅子吠>
 三歳の幼児が仏法を知らないと思ったり、あるいは又三歳の幼児のいうことは分り切ったことだと思うのは極めて愚かな考えである。その理由は、生を明らめ死を明らめるのが仏教に志すものの一大事であり、その生なるものが三歳の孩児であり、その生命の実相は、仏そのものだからである。
 古徳もこう言っておられる。「汝がはじめてこの世に生れた時、もう既に真理を獅子吠するすばらしい仏性を持っている。獅子吠の分がある。つまり如来の真理を伝える功徳があり、転法輪の力がある」と古仏圜悟禅師はこう言っておられる。「生死の世界に流転する人間も、本来は真実の仏そのものである」と。
 
人様を祈る時は「その人を表現している“見えない神”」を言葉で観じます。
2021/6/28
人様の実相を祈って差し上げるやり方を
進化させました。
例えば神想観でAさんの円満完全を観じる際は、
内なる神の許に往き
Aさんを瞼に描き、
「Aさんは神の子です。円満完全。有難うございます」と
観じるのですが、
現象のAさんの姿を観じないで、
透明人間みたいな「Aさんを演じている神」を
観じるのです。
現象のAさんは存在せず、
そこには「Aさんを現わしている見えない神の子」が
実際にはいるわけなので、
“それ”を観じるのです。
このやり方はいままでの神想観より
格段のレベルアップであり、
効果も大きいです。
神想観の方法は
自分が真理を知るにつれ、
それに呼応して
向上するのであり、
実相が現れる度合いも
真理把握、観法の向上に呼応して
増えてくるものです。
 
自分が“神の子”なる「信」形成の度合いに応じて現象に神が顕われてくる。
2021/6/24
1この現象の世が「神の国」である。
理由=人間は神により神の肖像(にすがた)として創造されたから。その“神の子”の現象顕現であるから、神が宇宙の王であるが如く、人間は現象世界の王である。つまり現象全体の支配者である。この現象世界は自分の国であり庭である。
2 根拠 神の宇宙創造の真理
創世記【神は自分のかたちに人を創造された。】
神創造の真理は『ヨハネ伝』に記述されている。
【初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。】【言は肉となってわれらの内に宿った。】【言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。】
聖経『甘露の法雨』は実際にはこの真理を説いている。
これはヨハネ伝が説くキリスト教の根本真理。「三位一体説」(神と人と霊とは三者一体)カントもヘーゲルもこの「三位一体説」に基づいて哲学を作った。
3 ヘーゲルの人間観
「神がこのように受肉して、本質的かつ直接的に自己意識をもつ人間の形をとる、ということが、絶対宗教の単純な内容である。」「受肉したとき、神は精神だと知られ、自分が精神であることを意識する。」「神の本性と人間の本性とは同じものであり、この統一こそが見て取れるのである。」
4 「神の国」はの現象(時間・空間世界)の否定したときにその存在がわかる。神が「現象」の裏に実在していると悟ることから、「神の国」は現われて来る。
5 実相を現象化する方法
神想観をして内なる神の許に行き、「自分が神と共に在る“神の子”である」と述べる。自分が“神の子”たることを信じ「神の子円満完全」と念じて神に任せ切る。神(父)との親子関係を取り戻したとき現象に神が顕われる。現象に神が顕われる度合いは自分が“神の子”である「信」形成の度合いによる。
 
 
神想観の空回り
2021/6/8
神想観しても
実相に的あてできず、
実相を観じることに空振りを感じる時だってある。
そのような時は
「父なる神を意識して神想観していない」ときである。
基本的神想観には
「われ今五感の世界を去って実相の世界に入る」
ことを行うが、
これが神の許に往くことである。
でもここで神を意識する人はあまりいないだろう。
まして神想観が終るまで神を相手に祈る人は多くはない。
イエスは祈る時は
「父なる神の許に往く」ことを教えた。
つまり吾らが神想観する時は、
父なる神と共に居る“神の子”を観じるのである。
神想観は「神に対して」「父なる神を意識して」祈るのである。
この「神に対座する」意識が抜けると、
神想観は空回りする。
逆に「神に対座して観を行う」時には、
誰もが、実相を観じることができるようになる。
「空」の或いは「無」の奥のいのちを観じるなんて
軽業みたいに難しそうだが、
「神を意識して“神の子”を観じることなら
誰だってできる。
 
そのままの心を大切にすべし
2021/6/26
実相世界からの放送(神の意志)は
間断なく、
寝ている間も
起きている時も
途絶えることなく続いている。
これは内的な啓示であることもあれば、
現象自体が神の意志を表現してくる場合もある。
これを谷口雅春先生は
「そのままの心」とお説きになるが、
「実相そのままの心」ということであり、
「神の心」の意味である。
この「神の心」に従順であることが
「道」なのである。
【神こそ道なり実在なり】である。
「そのままの心」放送をきくかどうかは個人の自由であって、
我の心で、
聴こえていても無視することもできれば、
神の意志を受け入れてその声に従い、
現象世界で問題の無い
幸福生活への道へ進むことも可能である。
「そのままの心」放送局は
人間の「内」にあるのである。
“神の子”がそれである。
“神の子”はいつも神の許にいるから、
創造の神と人間と霊が
一体であるという「三位一体」説が
「そのままの心」存在の根拠である。
それゆえ「そのままの心」放送を聴くためには
父である「創造の神」が“言”で現象創造したという真理を
知る必要があるのである。
さらに神の意志に従順である必要がある。
 
 
自分を導く内なる“神”の存在あり・・・ただし「我の慢心」を除かないと神の声は聴こえない。
2021/6/27
はっきりした自分の考えがない人は
何をやっても
うまく行かないと思います。
自分の考えが個性となり、生き方となり、
人生を引っ張っていきます。
でも自分の考えを導く「内にある大いなる存在」を信じていない人は、
我の考えに執着して、
良い方向を示すものが多くあっても
それらを受け入れることをしません。
素直であること、
内からのそして外からの啓示に(声に)
耳を傾けることができるかどうかが、
進歩できるか、できないかの鍵であります。
ですから
自分の内に
自分を導く「超」的存在があると
気がつかないといけないのです。
自分の「内」に神がいて
自分をいつも導こうとしているという真実に、
気がつくべきです。
人間の本体は神であるから
「内から」そして「外から」
導いてくれる啓示が
絶えずあります。
それに気がつかないといけません。
「我の慢心を除くこと」が仏教の根本的重要事だと
道元は書いています。
 
 
「罪も病も死もナイ」のは人間は神であるからです。
2021/6/25
「何故人間に苦しみが存在するのか?」
という疑問は
私が高校一年のとき、母が病気で他界してから
生じてきた疑問であります。
人生とは何か、愛とは、死とは何か、
苦しみは何故人生に存在するのか、
といった「存在の探求」が
私の人生のテーマとなってしまうとは、
当時は思ってもみなかったです。
人生にはあらゆる種類の人生苦が
いつ起こるか分らない。
これは現象世界に生きている人間にとって
本当のことです。
このテーマに触れることは
タブーみたいに思っていました。
でも人間が実は創造の神の肉化、
乃ち創造の神の肖像(にすがた)として造られた、
神の現象顕現なのだという大真理が分った時点で、
そっか、人間は神様なんだから病気も災難も死も実際は存在してないんだと分るので、
「苦しみなんて実際には無いんだ」ということで、
現象に苦しみ存在せず、
ということになります。
現象世界は実際には存在していないからです。
でもその裏というか奥の奥に
本当にある世界が存在していて、
そこは「神の国」であるから
罪も病も死も存在していないのです。
谷口雅春先生が
「罪と病と死はないんですよ」
と仰ったのは、
「人間は神様なんですよ」
ということなのです。
自分を見て「肉体人間がいる」と思わずに、
「見えない神がここにいる」と
思ってください。
 
神様との交流は祈ることによってです
2021/6/20
神様って見えないし、
触われないし、
五感で
存在確認をできないです。
神様は父なる存在だけど
親子の対話は現象的には無理です。
でも神様と親子の交流は可能です。
その唯一の方法は
祈りであります。
これしか方法はない。
私の場合は
神想観で「実相を観じる」やり方です。
でも神様からのお返事は
祈りの最中には来ないです。
でも祈りのあと、
それ以降に自分において感じること分ること
直感すること起こること、
そして啓示されることは
皆神様からのお答えと
感じます。
「実相を観じる」ことが
神様に自分がお話をしているのだと
感じます。
 
イエスの十字架は「時間空間は非実在と分かれ」という啓示そのものではないのか!
2021/6/28
「物質は無い」というのは、
ヨハネ伝が説く真理である。
この真理が多くの人は判らないから
この門関をくぐれないのである。
「物質は無い」からこそ
「では何があるの? 何も無いの?」ということになり、
「実相がある」ことに気付くわけである。
どうして「物質は無い」なんて言えるのかというと、
「時間・空間の現象世界そのものが、非実在である」からであり、
「イエスが十字架にかけられた」ということが
「時間と空間の否定の象徴」なのであり、
イエスはこの大真理を自ら実践して、
人々の「時間空間アリ、現象世界アリ」の錯誤観念を
破砕する苦しみを引き受けたのであった。
この真理をヨハネ伝は啓示したのであり、
カントもヘーゲルもそのことをさとって哲学した。
ニュー・ソートの宗教家たちは、
そのキリスト教の説く本当の真理を、
神に導かれて明らかにした。
谷口雅春先生もその中の一人である。
ただ「時間・空間非実在」を越えられぬ(理解できない)宗教家は山ほどいて、
結局「神」「仏」という心棒抜きの軽い見解にとどまってしまう。
それであるから
「時間空間本来なし」を理屈でなしに体感しないと、
結局、
実相独在の真理に行きつくことはできないのである。
現象世界が実在すると信じていたら、
神の存在を分かりっこないのである。
物質存在の代わりに「見えない神」存在しているのだから。
この真理は
知的に判り得ることではなく、
イエスの言う通り
「霊から生れる」ことで分ることである。
どうすれば「霊から生れる」ことができるのかといえば、
創造の神の天地創造の真理の把握と、
人間が現象世界に出現した訳そして目的をを
きちんと把握することである。
それだけでも駄目で、
どうしても多くの人生体験が必要であり、
一番必要なのは「存在を探求する」求道心である。
命懸けの求道の果てに
神が啓示してくれるのである。
私の体験からくる真実である。
 
 
 
 
 
 

イエスの十字架は「時間空間は非実在と分かれ」という啓示そのものではないのか!

2021-06-28 09:59:53 | 日記
「物質は無い」というのは、
ヨハネ伝が説く真理である。
この真理が多くの人は判らないから
この門関をくぐれないのである。
「物質は無い」からこそ
「では何があるの? 何も無いの?」ということになり、
「実相がある」ことに気付くわけである。
どうして「物質は無い」なんて言えるのかというと、
「時間・空間の現象世界そのものが、非実在である」からであり、
「イエスが十字架にかけられた」ということが
「時間と空間の否定の象徴」なのであり、
イエスはこの大真理を自ら実践して、
人々の「時間空間アリ、現象世界アリ」の錯誤観念を
破砕する苦しみを引き受けたのであった。
この真理をヨハネ伝は啓示したのであり、
カントもヘーゲルもそのことをさとって哲学した。
ニュー・ソートの宗教家たちは、
そのキリスト教の説く本命の真理を、
神に導かれて明らかにした。
谷口雅春先生もその中の一人である。
ただ「時間・空間非実在」を越えられぬ(理解できない)宗教家は山ほどいて、
結局「神」「仏」という心棒抜きの軽い見解にとどまってしまう。
それであるから
「時間空間本来なし」を理屈でなしに体感しないと、
結局、
実相独在の真理に行きつくことはできないのである。
現象世界が実在すると信じていたら、
神の存在を分かりっこないのである。
物質存在の代わりに「見えない神」が存在しているのだから。
この真理は
知的に判り得ることではなく、
イエスの言う通り
「霊から生まれる」ことで分ることである。
どうすれば「霊から生まれる」ことができるのかといえば、
創造の神の天地創造の真理の把握と、
人間が現象世界に出現した訳そして目的を
きちんと把握することである。
それだけでも駄目で、
どうしても多くの人生体験が必要であり、
一番必要なのは「存在を探求する」求道心である。
命懸けの求道の果てに
神が啓示してくれるのである。
私の体験からくる真実である。