<自分の周囲が自然に光明化してくる。>
自分の実相が顕われ始めると
自分の環境が全体として光明化してくる。
特別自分が個々の現象に働きかけなくても、
自然に善が現われてくる。
楽しいものである。
(正法眼蔵を読む如し 諸悪莫作の巻 谷口清超
自分の実相が顕われ始めると
自分の環境が全体として光明化してくる。
特別自分が個々の現象に働きかけなくても、
自然に善が現われてくる。
楽しいものである。
(正法眼蔵を読む如し 諸悪莫作の巻 谷口清超
<活眼晴の測度>
そもそも「衆善」なるものは、因縁で生じたり滅したりするのではない。衆善は普通現象だと思われているが、現象はそのまま衆善ではない。因縁と生滅と衆善とは、いずれも現象の展開であるから、始めもあれば、終りもある。この衆善を奉行するのであるが、それは実は自分がやったとか、他人がやったというようなものではなく、自分が知った、他人が知ったというものでもない。よく自他の知覚を問題にするとき、自分が知る、他人が知るというが、実は知覚の中に自があり他が出てくる。見方によって、自と他とが現れる。それ故、実相の活眼晴は、、太陽にも月にもある。そしてそこに本来の「衆善奉行」があるのだ。この実相の「衆善奉行」の真理が現成して、いろいろの善が行われるが、そこで初めて真理が始まるのではない。又真理が現象に固着していて、それが永久不変というわけでもない。それ故これを奉行するというのも、少し変なものである。