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新約聖書「ルカによる福音書」

2018-09-22 12:06:17 | 日記
ルカによる福音書(日本聖書協会)
<第四章>汚れた霊に取りつかれた男をいやす
31 イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。
32 人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。

「現象は実在にあらず」と観て解脱する

2018-09-22 10:51:28 | 日記
仏教の現象の観方は
“実相”の把握に
役に立ちます。
以下をごらんください。
(正法眼蔵を読む 身心学道の巻 谷口清超著)
<生死去来>
【この「真実人体」なる十方世界には、生死があり、去来がある。しかし、これをアリと見るのは凡夫の見であって、大聖は「現象ナシ」と観る。生死があり、去来があるように見えていても、本当にあるのではない、月が欠けたり満ちたりして見えるような仮の姿である。この実相を観じて解脱する。しかも、凡夫とか聖者とかという相対観も超越するのである。そのためにも、十方世界を本当にある真実体だとするだけではだめだ。そのような世界を超えるのである。
仏教では二種の生死、七種の生死などと色々いうが、それらをよく極めてみると、いずれの生死も現象であって、同じようなものだ。しかもそれらはいずれも無であり、仮の相に他ならないから、何も恐れることはない。】



宗教の目的は「自分が真人間になること」です

2018-09-22 09:57:23 | 日記
実相というものを
肉体と離れた場所にあると思うと、
肉体の不調を達観できるし
実相の円満完全を観ずるのが
楽になってくる。
昔はどうしても実相を肉体と感覚的に切り離せなかったら、
今「いのち」(実相)と肉体とは別だと思えるので、
すごく気持が軽くなってくる。
実相というものは
「信」が形成されないと
「信」が実相を現象に顕現するだけに
「信」の形成は一大事だ。
実相を頭で知っていても「信」がないとだめである。
生命の実相第8巻『無限生命に汲む道』では
外界と内界の相互作用で
実相を観る目が深まると書いてある。
神想観で進歩があるたびに
「信」も少しずつ形成されるのは事実だ。
藤原先生は「信」は実感だから
食べ物の味と同じで
行じないと実感できないので、
「現象なし実相あるのみ」を信じたら
行動すべしと説いている。
行動が「信」を作っていくというのである。
話は変わるが
『甘露の法雨』を一万巻読めば実相が現れるからと
聖経読誦の回数主義みたいな人がいるが、
「実相」への求道なしに
回数よめば実相があらわれるなどということは
錯覚である。
『四部経』を読めば読むほど良いとは私も思うが、
実相探求の副行であって
まずは“神の子”を求め“神の子”にならねばならない。
宗教の目的自体が「人間の完成」(神となること)、
つまり、
自分が真人間となることであって、
心が立派な人になることである。
生長の家人になることなんかじゃない。