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新約聖書「ルカによる福音書」

2018-09-15 18:59:58 | 日記
ルカによる福音書(日本聖書協会)
<第一章> ナザレで受け入れられない
17 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
18 主の霊がわたしの上におられる。
貧しい人に福音を告げ知らせるために、
主がわたしに油を注がれたからである。

自性円満の自覚で神のスイッチが入る

2018-09-15 18:54:37 | 日記
自分の“生命の実相”は神のいのちだから
そのままで円満完全なものなのだと、
腹の底から納得したときに、
神癒となると言われます。
簡単なようですが、
これが真理の自覚なのです。
(参考 あなたは必ず救われる 藤原敏之 日本教文社)
【生長の家の救いの根元となるところが、この第3頁に明らかにされているのであります。総説「七つの光明宣言」の解説に、次のようにお示し頂いております。
「生命の実相の自性円満を自覚すれば、大生命の癒力が働いてメタフィジカル・ヒーリング(神癒)となります」】
何故「生命の実相の自性円満の自覚」で神癒が起るのでしょうか。このことにつき、藤原先生は、次のようにお書きになっています。
【つまり、わが内に無限なる神の生命があり、それが本当の私であると自覚することは30ワットか60ワットの電球をつけて、暗い暗いと思っていたのが、電力は無限にあるとわかり、何百ワットかの電球に取りかえると、そのとたんに明るくなるのと同じであります。自分の中に、完全な生命を自覚することが宇宙さえも創造し、かくあらしめているところの大生命につながることなのであります。大生命の働きは無限であり、絶対力でありますから、そこから無限の力が与えられるから、どんな質(たち)のわるい病気でも癒されないということはないのであります。このことを神癒が現れるというのであります。】

藤原敏之先生に救われた

2018-09-15 12:19:06 | 日記
たしか私が藤原敏之先生のご著書を
必死で学び始めたのは、
7月の始めからである。
また藤原先生のただ一つのユーチューブ講話を
毎日聞くようになったのは
7月中頃からである。
それ以来、
藤原先生の5冊のご著書と、録画の講話以外に
生命の実相の勉強として
使う資料はない。
もっとも
聖経『四部経』の一日10回読みと神想観は
私の修行の柱なので
これらを欠かすことはない。
藤原先生のご本を読み、
藤原先生のおっしゃることを実行することによって
私は救われてゆくという感触をもっている。
実相への絶対他力の「信」によって
自分は“救われずみ”という安心感が出来てきたのは
8月の始めからである。
神想観をしてもしなくても
常に神は見守り給うている。
そのことに気がつきさえすればよい、
と思うようになった。
そして現象を拝むのではなく
現象の奥にひそむ“いのち”(実相)を
拝むのであるとも思い始めた。
今では一日3回の神想観で
大丈夫となった。
一時は
一日に7回も8回もしないと
安心できない日々もあった。
藤原先生という雅春先生の真理の指導者を得たことが、
私をこのようにしてくれた。
藤原先生に感謝です。

縦の真理と横の真理の両方を使う

2018-09-15 11:45:35 | 日記
人が心に抱いた
迷いの心(実相でない心)は
勿論良い心づかいもそうだが
阿頼耶識という貯蔵庫のような所に蓄積されていて
縁があれば
現象化するという。
人間のすべての病気は
その人の過去の心の現われであり
万が一にも例外はないそうだ。
現象はすべて過去の現象の心の表現だ。
今私が駅の喫茶店に行く道を歩いているとすれば、
私の行動を司っているのは私の“いのち”だが、
道を選んだり、商店の様子を見ているのは
私の“現象心”である。
だから現象は「実相の心+現象の心」である。
神想観や各種の行で
潜在意識(阿頼耶識とイコールではないがほぼ同じ意味)が
浄化されるのは勿論だが、
谷口先生も藤原先生も
神癒指導には
“生命の実相”の円満完全の自覚(縦の真理)と
まちがった心が病気の症状となって現われていることから、
当人の過去の心づかいに当人が気づき、
神に懺悔して罪(間違いの心づかいの集積)を
取り除くべきという“横の真理”も
併用されている。
横の真理なしの縦の真理だけで
神癒がなされるかというと、
大聖師御講義『続々甘露の法雨』には
そのような例もないことはないが、
藤原先生の沢山の神癒の例では
ほとんどの場合、
縦の真理と横の真理を両方使って
指導されているのは定石である。
つまり“人間神の子”の自覚には
過去において多くの人を心ならずも傷つけてしまったという自覚が
必要なのであって、
これがあって始めて
明るい気持にもなれ、
目に見えない世界が「円満完全」であるという真理が
「信」と成るのだと感じる。