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新約聖書「ルカによる福音書」

2018-09-30 16:31:12 | 日記
ルカによる福音書(日本聖書協会)
<第4章> 多くの病人をいやす
39 イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした。
40 日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた。

実相理念世界の完全さへの「信」が地上を天国にする

2018-09-30 10:55:02 | 日記
実相の世界、神の理念世界(神の第一創造世界)が
完全円満であることを“信じ切る”ことによって
現象のすべては心の影であるが故に
現象はすべてよくなると
雅春先生はお説きになっています。
これが生長の家出現の目的であります。
(参考 神癒への道 谷口雅春 日本教文社)
【「肉体」が単なる物理化学的法則に従って変化する以上の働きをもっており、いくら消耗しても、あとからあとからと、一定の「人間模型」とでもいうべき形にまで栄養を補給して自然治癒又は新陳代謝して行く働きは、「精神的模型」(理念)ともいうべきものに、その「物理的変化」が支配され、指導されていることが明らかであります。即ちその「物理化学的変化」は従位であって、「精神的模型」が優位であってその物質的変化を指導するのであります。その指導が誤られると、誤った方向に、肉体の物理化学的変化が導かれて行くために、肉体の病的状態を現わすのであります。】
【何よりもまず大切なのは、実在するものは、神のみであるということであります。従って神より出でたる所のすべての実在は完全であるという事を信ずることが、自分自身を健康にし、自分の住む世界を幸福に楽しく愉快な善き世界たらしむる根本となるのであります。吾々は先ず自分自身の完全さを信じなければならないし、すべての人間を善であると信じなければならない。そしてすべての存在を神より出でたる善なるものとして信じなければならないのであります。その正しき信念が確立して現象の世界に影を写している所の、自分の健康、周囲の人々の状態、環境、運命等が変ってくるのであります。】

現象の人間がたとい病んでいても実在の人間は永遠に変ることなく完全である

2018-09-30 10:19:20 | 日記
現象の人間は本当の人間ではなく
その奥にある完全なる人間が
本当の人間である。
(参考 神癒への道 谷口雅春 日本教文社)
【この世界観(メタフィジカル・ムーブメントの)世界観によれば、現象世界の奥に「実相」又は実在の世界を認めるのであります。病気がよくなったり、経済状態が好転したり、環境が良化したりするのは、現象界の事であって、それは吾々の想念の反映なのであります。その想念の奥に、完全円満なる実相の世界があり、また完全円満なる実相の人間があるのです。「実相の人間」はたとい「現象の人間」が病んでいても、貧乏で苦しんでいても環境の不調和に悩んでいても、そのような病気も、貧乏も、環境の不調和も、「実在としてはない」のであります。実在の人間は完全である。そして実在のみ実在する。されば完全なる人間のみ実在する。実在は永遠に変ることはない。だから完全なる人間は永遠に変ることなく永遠に完全であると云うのであります。】

「キリスト(生命の実相)我にあって生くるなり」の自覚が、体験としてはっきりつかめると、もはや病気はない

2018-09-30 09:52:56 | 日記
“生命の実相”の真理の自覚が大事である。
これを体験的につかむことが必要だ。
あいまいな所が残っていては
はっきりした自覚につながらない。
(参考 神癒への道 谷口雅春 日本教文社)
【肉体を現わして、生活していながら、肉体がここに生きているのでなく、「霊妙な存在」が生きているのである、「実在」が生きているのである。“I am”が生きているのである。神が生きているのであると自覚するのであります。「我の置き換え」であります。この自覚の置き換わりがヨハネ伝三章にあるところの「新たに生れる」であります。「もはや吾生くるにあらず、キリスト吾にあって生くるなり」のパウロの自覚もそれであります。かかる自覚に於いてはキリストは如何なる病気と雖も癒されないものはなかったのであります。そのキリストが自分の中にあって生きているという自覚が、体験としてはっきりつかめますと、もはや病気は“ない”のであります。キリストのふれた所の人間にして癒されないものは一人もありませんでした。キリストは彼に癒されようとして来た所のすべての人を癒したのであります。彼は弟子に教えて、癒されない所の重い病気があるとは決していいませんでした。弟子が病人を治すことに失敗して帰って来た時には、「汝の信仰淡(うす)き故なり」と“のみ”いわれました。もし現代に於いて、人間が「もはや我れ生くるのあらず、キリスト我にあって生くるなり」という自覚が得られるならば、キリストが此処にいるのであるから、キリストの生命に現に触れているのであるから、癒されないという筈はないのであります。キリストは必ずしも医者を排斥したとは聖書に書かれていないのであります。イエスは病人が医者にかかっていても治したし、医者にかかっていなくても治したのであります。】