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「形としてあらわれていたが、仏であった」と気がついて拝むこと

2018-09-12 16:40:15 | 日記
今日読んだ藤原先生のご文章で、
私はまだ全然感謝が足りないと気付きました。
気付いたことが進歩です。
(参考 救われ済みの人生 藤原敏之 日本教文社)
【そこから、法然、親鸞、日蓮というような偉大な坊さんが出て来まして、そんなわざわざ苦行をせんでもいいんだ。わざわざ比叡山や高野山から下りて来て、念仏を広めたのが法然、その教えを受けついで広めたのが親鸞、あるいはお題目を唱えれば救われると説いたのが日蓮です。
こういう人たちは出家せいと言わんのよ。よし、妻子をもちながら、商売をしながら、何をしてもよろしいぞ、そのかわりみんな仏様だよ、夫を仏として拝んで仕えねばだめだよ。木で刻んだ仏さんだけ拝んでおったんじゃだめだよ。形はだめだ、心だ、全部仏として拝むのが、在家のままの出家の生活だ。在家のままでよろしいと言う教えを説いたのが、法然、親鸞、日蓮です。
これはどういうことかと言うと、すべてを仏として拝んで仕える生活を実行せいということです。普通に生活しながら、今までは私の夫だと思っていたのを、仏として拝め、ただの女房だと思っていたのを、ああ、そうじゃなかった、形は妻としてあらわれていたが、仏様であった、と気がついて拝めという教えです。子供も、もちろん仕事も家も財産も、全部を仏にお返しして、仏として仕える。この生活が本当の宗教ですよ。これが、宗教の根本です。】

新約聖書「ルカによる福音書」

2018-09-12 11:12:43 | 日記
ルカによる福音書(日本聖書協会)
<第四章>誘惑を受ける
11 また、
「あなたの足が石に打ち当たることのないように、
天使たちは手であなたを支える。』
12 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。
13 悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。

利己心の消去

2018-09-12 11:04:46 | 日記
自己保存の本能、
唯識論でいう「末那識」というものは
取り去ることが不可能なものであるのか、
だとすれば人間は永遠に
“神の子”や“仏”になれないでしょう。
でも人間は
本来“神の子”であり“仏”でありますから
利己心など有っている存在では
ないのであります。
これが本当の真理なのです。
ですから人間は本来の“神の子”であり“仏”に戻ってしまえば、
自分で苦しむ類の利己心は無くなります。
自己保存の本能も浄められますから、
必要なものに限られるはずです。
自分にこんな醜い心があると苦しむ事態は
無くなるはずであります。
こういう心境は
絶対他力の信仰で
自分というものを神様にお返しして
“神の子”(つまり神)の自覚を得ることによって
達成されると
藤原先生のご講話から
読みとれることです。

恐れずに“新たに生まれる”ことを実行しよう

2018-09-12 09:29:00 | 日記
“唯心実相哲学”という哲学が
人類に不幸をもたらす哲学であるなら、
谷口雅春先生が
この世に出現しなかったでしょう。
“現象なし、実相あるのみ”を悟ることこそが
本当の人間の幸福につながるのであって、
現象は存在すると思っていたのでは、
迷いを繰り返し、人生苦を増幅させることになります。
人間はすべての人が“神の独り子”でありますから、
自分が“神の子”(つまり神)になってしまうと、
神の守りのうちに生きることができます。
ではこのみ教えである“神の子”の実現にとって
何が障碍と見られているのでしょうか。
それは“新たに生まれる”ということなのです。
人間は自己保存の本能、つまり利己心をもっています。
これは“物質はある”と思い続けてきたことから
ずっと心の底に根を張っています。
従って「物質あり現象あり」の考え方から
「現象は本当にあるものでなく、人間は本来“神の子”であって、
“神の子”(神)に成るからこそ神に護られるのだ」という真理に
気付くことが必要である。
自分のいのちを神様にお返しすることで
神意に生きることが可能なのですが、
神に自分のいのちを投げ出すということに
人は恐れてしまうのです。
神に自分を任せるということ自体、
人はこのことを恐れてしまってしない人が多いのですが、
実は恐れることではないのです。
ただ真剣に、いのちがけの気持でやらないと
神(仏)に帰命できないだけの話です。
でもやってみると、
別にそれでいのちを落とすこともないし、
死ぬことはありません。
逆に「新たに生まれる」ことが
出来てまいります。