「現象なし」という真理の急所が
一番難しいところですが、
このことを分ってくると、
現象がないなら何があるのだ、ということで、
“神のいのち”の世界、
つまり神の理念世界(実相世界)が
浮かび出てくるのです。
現象は“本当にあるもの”ではなく
そこにあるのは”目に見えないいのち”の世界、
”神のいのち”のみある世界と
いうことになります。
現象も実相と同じく”神のいのち”の世界です。
お釈迦さんのお悟りの内容を分ろうとしているのだから
簡単でないのは当り前です。
現象世界は
”実相の心”の時間空間世界への反映ですが
一人一人の人間の心を通して反映されるので、
「実相の心」プラス「人の現象の心」なのであって
「目にみえるもの」から
そこに潜む「見えないもの」を感じ取らないと
”神の心”それ自体をキャッチできないです。
(参考 そのまま極楽の道 藤原敏之 日本教文社)
【釈尊の成道もそのお覚りの根本が一切の現象即ちありとしあらゆるものが全部無いと気付かれたのであります。一切は空であり、無であったとお覚りになったところから始まったのであります。それで仏教のことを空の哲学、無の哲学といっているのであります。有難いお経ほど、空とか無とかいう文字が多くつかわれているのもそのためであります。ここが一般常識と全然異なるところでありまして、余程注意しないとつい常識論にまどわされて相対の信となり、相対の救いにとどまり、方便化土の往生といって、本ものの報土である阿弥陀仏の浄土(完全な自由)の世界に生れ変わることが出来ないのであります。
この世の中のありとしあらゆるものは全部が無い、あるのはみんな仏だけであると覚られたのでありますから、常識論からすれば、難しいといえば難しいわけであります。一般人の立場からすれば、信仰とは完全な気狂いか馬鹿になることであります。】