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存在の探求は神(仏)の探求

2012-01-11 21:07:48 | 日記
私はさっき
「存在の探求」が
私の終生のテーマとなり、
今それをやっている最中だと
書いたのであるが、
存在を探求したその先は、
どうしても
神(仏)を求めることに
つながって行くのである。
というのは、
万物を存在させているものが、
まさに神(仏)であるからだ。

私が本当にしたいこと

2012-01-11 17:01:56 | 日記
私が
この人生において、
切にしたいことは
何だろう。
多分それは、
この現象世界の本体と、
そしてまた、
私自身の本体の
探求であるだろう。
実は私は
そのことを
まさに今やっているのだと、
確信する。
だが私は
ある時点から、
意識的にそれをし出したというよりも、
気がついたら、
それをしている自分を
見出したということである。
私は宗教的な求めを
青年の頃からやっていて、
30代の後半から坐禅を始め
今は
禅的瞑想法など、
毎日やっている。
高校時代に
文芸班に入り、
生きることの意味、とか、
死や愛の意味は何かとか、
そんなことを書いた随想もある。
一言でいえば「存在の探求」ということが、
青年時代からのテーマであり、
教師をしたり、
日常生活そのものにおいて、
ますますこの「存在の探求」に
深く入り込んでいき、
いつしか、
終生のテーマと
なってしまった。
教育自体は私の二義的な目標となり、
これを通して
「存在」を探求する手段であって、
私の人生テーマは
「存在の探求」であり、
それはつまり、
私が毎日していることである。
ただ教育が二義的であるといったって、
それはいい加減にやっているつもりはさらさらなく、
教育とか、
日常生活とか
そういうもののなかから、
真理を悟ろうとしているのだから、
大事な大事な分野であって、
「二義的」などという言葉を
使わない方が
誤解を生まないかも
知れないが・・・