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山梨市を辿る④往古、八幡庄内に”安田郷”があった?!22-11

2022-11-01 | 山梨の魅力再発見!

山梨市を辿る④往古、”安田郷”があった?!22-11

今号は、今まで”安田姓の名で呼ぶ”領地があったと

は、誰も知らなかった・・・?!その「安田郷」に

ついて、山梨市編に記されるままに、紹介します!


八幡庄内の安田郷?!現小原西の交差点(左側の奥辺りに妙音寺跡があったらしい)

本写真は、小原西交差点から小原東方面に向けて、左側の安田義定

の館があったと云われる方面を示す。

※現在は、リノベーション中のところが多い・・・、これからを期待

したい!

旧妙音寺跡は、このあたりか!?安田義定の館跡は、それにしても、

随分と広い屋敷跡であったと考察する!

まるで・・・、砦のような造りであったろう!(※筆者推定)

義定館跡と伝わる妙音寺跡は今は地元でもわかる人は殆どいない。

物知りの方は、現在の双葉幼稚園辺りではないかと言う方もいます。

裏の小さな畑には、最近まで墓石等の欠片があったというが保存中。


山梨市編によると・・・、

「安田郷」山梨郡八幡庄内の郷名。現塩山市竹森の野尻倹之助氏

所蔵の応安2年(1396)5月11日大般若経巻235奥書に

「山梨郡八幡庄安田郷下井尻村延命禅寺」とある。

これまで安田郷の存在は知られていなかったが、平成5年(199

3)、この大般若経によって初めて確認された。

安田義定の本拠とみられる。

義定は源義清の四男で、平家討伐の際に甲斐源氏惣領武田信義と

並んで活躍。遠江守護、遠江守になるなど勢力を誇ったが、建久

5年(1194)、源頼朝によって謀殺された。

義定は、”牧庄”を本拠とし、現小原西にあった妙音寺が安田館跡と

伝える(甲斐国志)が、彼の名字の地が当地で、その勢力が八幡

庄全域に及んでいたとすれば、山梨市以北の笛吹川流域一帯が勢力

圏であった。(※と云える。)延命禅寺跡は現存しないが、同地の

寿仏庵跡に安田義定及び義資、義季の墓と伝える五輪塔が残る。

寿仏庵は延命禅寺と関係るか?!は不詳である。

※筆者は、専門家には敵わないが、以前、安田義定についてブログ

シリーズの取材んだことがあるが、この山梨県では武田信玄を

はじめ、中央で名を成した人や随分活躍した経済人や有名人が多いが、

それらを知る度に、実際に天下に名を成した「安田義定」に評価した

のは珍しいらしく、しかし、これほど温故の基礎概容を学んだつもり

でも、「牧庄」は有名で、具に取材して把握していたが、本ブログで

も、既にシリーズ発信してあるも、嘗て「安田郷」の名があったとは、

知見もなかったので、今回、改めて、学習してみたいと思います。


これまで”安田郷”の存在は知られていなかったが、平成5年(19

93年)の大般若経(奥書)の発見により、初めて確認された。

安田義定の本拠地とみられる。

義定は源義清の四男で、平家討伐の際に甲斐源氏惣領武田信義と並

で活躍。遠江守護、遠江守になるなど勢力を誇ったが、建久5年

(1194)源頼朝に謀殺された。義定は牧庄を本拠とし、現小原西に

った妙音寺が館跡と伝える(甲斐国志)が、彼の名字の地が当卿

で、の勢力が八幡庄全域に及んでいたとすれば、山梨市以北の笛

流域一帯が勢力圏であったとすれば、強力な勢力をもった背景

の一を知ることができる。延命禅寺は現存しないが、同地の寿仏

庵跡に安田義定および子義資、義李の墓と伝える五輪塔が残る。

寿仏庵は延命禅寺と関係するか。・・・と記される!


本ブログ取材は時間的に間に合わず、推測も含めて紹介するしかなく、

本ブログを読まれる方は要注意ですが、注意深く、学習しましょう!

また、もし、シリーズ中に間に合えば・・・、本ブログで必ず紹介し

ますので、悪しからずご容赦下さい。※筆者、生涯学習生YS


※素人の筆者は証がないも、時には勇断して推論を述べてみますが、

どう考えても、八幡庄全域を安田郷と大まかに言ったとは思えない

が、安田義定の往時の勢いを感じることは確かです。

少なくとも、小原西にあったと伝わる安田義定館を中心にして、

”安田郷”と呼ばれたとしか考えにくい。

その範囲が現甲州市塩山の下井尻(上井尻)辺りに及んだか、歴史的

に、沼辺りに及んだかは、専門家にお任せせざるを得ないが・・。

※筆者は、黒川金山(武田信玄の時代が隆盛)を、往古三枝氏滅亡

後を受けて、現山梨市小原西に館を構え、甲斐国の峡東を支配した

と考えており、現雁坂道(現牧丘へ通ず)と現青梅街道(甲州裏街道

江戸時代に東京日本橋より整備)の起点として発展したのも・・・、

安田義定の時代からと・・・、もっともな意見と、頷いている!

”山梨市”は、素晴らしい景観ばかりではなく、歴史的にも、以北の

西沢渓谷に至るまで、地勢に恵まれて、さまざまの魅力を残した街

づくりがされていると考察している。


「小原庄」(=こばらのしょう)

小原西の角地は、空地になっているが、嘗て中心地として栄えた小原

商店街であったらしい!安田義定の館があったことで中心的な立地と

なったことは史実であろう・・・。

冒頭の写真の通り、現小原西の交差点は、今は角地(好立地)ですら、

空地になっている。これは、車社会の台頭によって、人の流れが

変わり、現在、全国的に都市部の共通の悩みになっている点と同じ

様相になっている。

一般人から見ると、今は山梨市役所のある通りに、流れが移って

いると見える。その流れを見極めて進出する全国的なチェーン店

形成を増加させている


「小原庄」は、現小原西・小原東にあったとされる荘園。

※安田義定の館跡と云われるからには、殆ど当家の屋敷うちであっただろうに、

何か納める具物があったのだろうか・・・?!取り越し苦労だが・・・?!

建治元年(1275)10月以前に打された関東評定事書(陽明文庫

本式目追加)に甲斐国小原庄が諸人越訴停止を命令した際の事例と

して掲げられている。小原西の妙音寺は、安田義定の館跡と伝え

(甲斐国志)、安田氏の名字の地と云われる安田郷は八幡庄域内で

あるが(野尻倹之介氏所蔵の大般若経奥書)にあった当庄と八幡庄との関係

は判然としない。・・・と記される。


※筆者が思い切って加筆すると・・・、

何も証がない安田郷の場合、特に、往時(鎌倉時代初期)は、武家

会となり、幕府より、領地が与えられる制度が取り入れられた

時代で、武家の惣領が地域(納税される元)となり、村(郷)

の名前に、その惣領の名が使われていたこと多々あるので・・・、

やむをえない・・・!ともいえる。

また、往時は郵便制度もなく、現在のような地番も形成もされて

いないし・・!本件に関わる証でも発見されたら、大発見となる!

その時は、ぜひ、教えて頂ければ有難く。


次号は「正徳寺村」を、ほんの一歩だけでしょうが、訪ねます。



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