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山梨市上岩下⑨山梨市の上岩下には武田時代の古戦場跡があった!23-07

2022-07-01 | 山梨の魅力再発見!

山梨県地名辞典山梨市編によると、昔、上岩下村。

山梨市:山根村の南、笛吹川の支流平等川と西平等

川の合流点に位置する。

信昌公ゆかりの夕狩沢古戦場跡は上岩下にあった!

今号は、上岩下(現山梨市上岩下)を辿ってみる!


現山梨市の上岩下村の今の風景!山梨市ライブカメラ!201307


南は、下岩下村(現春日居)。 甲斐国志によると、下岩下村はもと

一村で、兜山という岩があったというのが、村名の由来という。

中世は、岩下郷に含まれた(春日居町の→下岩下村)。

慶長6年(1601)以降に二村(上、下)に分かれたという(地誌稿)

枝郷に、湯の前、山寺、小田屋、新町がある。(甲斐国志)

慶長6年の岩下之郷検地帳が残る。(県立図書館蔵)

慶長古高帳には、岩下とみえ、715石余(705石余という異本もあり)

領主の変遷は、正徳寺村に同じ。貞享元年(1684)の上岩下村

検地帳(県立図書館蔵)によると、高459石余、反別は田20町

3反余、畑8町6反余、うち屋敷3町余、うち前々改出、新田高投引

51石余。文化(1804)初年の家数86,人数361,馬4

(甲斐国志).用水は、立河梁(差出梁ともいう)を利用(同書など)。

明治8年(1875)、山根村など4ケ村と合併、平等村となる。

走湯神社、臨済宗向嶽寺派常性寺、牧洞寺、曹洞宗湯前(とうぜんじ)

がある。走湯(はしりゆ)神社は、近世は、走湯権現と称し、

1月25日、9月9日、11月17日に祭礼が行われていた(地誌稿)

常性寺は、武田信虎の一族覚英の開山。天正壬生の乱で、一時期衰退

したという。(甲斐国志)慶長8年の黒印地210坪(寺記)


向富山常性寺は、武田信虎の一族覚英大和尚の開山!※小野石材店サイトより

臨済宗向嶽寺派 向富山常性寺は、武田信虎の一族覚英が開山。

一時衰退するも、あの信虎が再建。現在も伝説を語る!

長録元年(1450)3月に創建。現在も伝説?!は語られる!


臨済宗向嶽寺派、牧洞寺(ぼくどうじ)※山梨市文化財課HPより。

塩山向嶽寺は、甲斐国にあって、臨済宗向嶽寺派の大本山である。

その臨済宗向嶽寺派が開山した上岩下に開山した第二の寺院とみる。

本殿を覆い隠すようなもみの木は、約14mに及ぶ、象徴である。

山梨市指定天然記念物 もみの木 根回り9.5m、目通り3.9m。


 

曹洞宗 湯前寺(とうぜんじ)=山梨市上岩下801 ※曹洞禅ナビより

矢坪にある信昌ゆかりの名刹曹洞宗永昌院による力関係の開山と考察。


走湯神社=走湯権現とも云われた。= 山梨県神社庁HPによると・・・,

走湯神社(そうとうじんじゃ=走湯権現とも呼ばれた)

笛吹市春日居町下岩下636 東山梨支部 ご祭神:少彦名命、湯山主命

例祭日:11月3日 宮司:津金八千代 境内地:78坪 氏子:100戸。

創建年は不詳であるが、甲斐国志に「万力村鎮座大宮権現は、成務天皇の

御宇鎮座の神社是なり、その後落合の白山・熊野堂の熊野・岩下の走湯・

別田の箱根を配祀して、五所権現と称す」とある。よって走湯神社はこの頃

創建と思われる。また、古老の言い伝えによると「現在の上下岩下は、

その昔、一箇村であったが、上下に分かれたために氏神である走湯神社の奪い

合いを数度行ったという。古くは上下岩下に鎮座祀られていたが、江戸前期に

上岩下村(現、山梨市上岩下)に鎮座され、また、江戸後期明和三年三月四日

に現在地に社を造営して現在に至る。

なお、上岩下村にあったと言われる跡地は不明。

また、ご祭神は湯の神であり、山梨市上岩下の岩下温泉は、古来より効用の

ある鉱泉として有名である。

走湯神社は、永正年間勧請され後、無格社天神社(慶長6年創立)を合併

移転願届出。

大正十年五月十七日合併移転許可せられ、同時に走湯神社を天神社跡に移転。

今日に至るようだ。


夕狩沢の古戦場跡(※昔筆者は調査したが、山梨市の夕狩沢古戦場の標識が残るのみ)

甲斐守護武田信昌と跡部氏が戦ったとされる古戦場。木綿狩(ゆうかり)

とも書き、御前山と御厩山の間の沢をいう。(甲斐国志)

康正元年(1455)、9歳で家督を相続した信昌は、守護代であった跡部

駿河守明海・上野介景家親子の強盛に永く悩まされたが、この戦いに勝利して

実権を掌握することに成功したと伝える。

信昌は、

長録元年(1457)、小河原合戦、馬場合戦で、一門の岩崎氏一族

を失うなど大敗を喫した(一連寺過去帳)。

寛政5年(1464)、明海の死を契機に反撃に転じ、諏訪信満の援軍を得て

(守矢満実書留)、翌年7月2日、小田野城にて、跡部景家を自害させて

跡部氏を滅ぼした(王代記)。

自害の直前にあったのが、夕狩沢の戦いで、敗れた景家は切差、赤芝、膝立、

生捕(現牧丘町)を経て、小田野城へ逃げ込んだといい、夫々の地域には、

敗走にまつわる秘話が残されているが、何れも伝説の域を出ない。

矢坪の永昌院は、信昌の創建で、正徳寺の聖徳寺には、信昌の嫡子信縄の碑子

があり、下岩下(現笛吹市春日居町)には、孫武田信虎の生誕屋敷の伝承地が

あるなど、夕狩沢周辺には、信昌に関連する遺跡が多く、両者の衝突する要件

は備えていたとみられよう。・・・と記され、中世(戦国時代へ)の実感が

沸く散策路である。


筆者は、たったこの間までは、愛用の自転車に乗って、どんな山道

でも直接、撮影に出かけた。しかし、後期高齢者になって、大敵は

老化であり、自転車で転倒すると、他人にご迷惑をかけるので、

自転車は乗らないことにした。中高年の登山学で学んだ通りになった。

TVでは100歳のお爺さんが老後20年間鍛え続けて、未だ登山を

楽しんでいる。

家内は、80歳の壁を見事に乗り越えて、今やいつでも良いらしい!


 



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