新甲州人が探訪する山梨の魅力再発見!

東京から移住して”新甲州人”になった元観光のプロが探訪する”山梨の魅力再発見!”
旅人目線の特選記事を抜粋して発信!

22)芦川鶯宿(おうしゅく)の足利伝説は謎々のように面白い!

2011-08-19 | 山梨、往古の歴史と伝説!

鶯宿(おうしゅく)は、甲斐古道「中道往還」の宿場町として栄えた歴史の里・・・!

この笛吹市芦川(あしがわ)の「鶯宿」に、山梨では珍しい”足利伝説”があったのです・・・!

以前初めて芦川を訪れた時の印象では、御坂山塊の奥深い山間に・・・、この秘境のような地形なら、平家の落人部落ではないかと思わせる雰囲気を感じたが・・・、甲斐国は甲斐源氏一族が累代治めて来たので、まさか”平家の落人”であるはずがない・・・!?

それでは、もしかしたら、武田家滅亡の時、武田軍の落人らが、この秘境に落ちのびて来たかと思いきや、それも違ったのです。織田・徳川連合軍に敗れて、後に徳川家康が甲斐国を支配したことから考えると、しかも駿河の隣国で・・・、それもありえないことで・・・とあれこれ想像をしていたところ・・・、

ある時、鶯宿の資料(笛吹市文化財課)を見つけて読んでみると・・・、何と・・・!?昔、足利幕府の時代、第11代将軍「足利義澄」が追放になった時、義澄の近従がこの地に落ち伸びて隠棲し、足利義澄の菩提を弔ったという伝説があったのです。

山梨に、”足利伝説”があるとは・・・!?興味津々の探訪旅になりそうです!

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ブログ5月号カテゴリー「山梨の魅力山行」の「御坂黒岳と芦川のすずらん群生」で紹介した記事をご覧になりましたか!?

そのブログでは、目的の芦川すずらん群生地が「上芦川」にあるので、新道峠から、御坂黒岳に登った際に、この奥深い「上芦川の里」を少しだけ紹介しました。

今回は、石和温泉駅から鶯宿までバスが運行されていることを知ったので、「芦川鶯宿」の探訪を目的に、路線バスで訪ねて見ることにしました。

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芦川はどんな里山なのか・・・!?

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芦川ガイドマップ

ガイドマップのプリントはPDFよりどうぞ!

「ashigawa_guide_map.pdf」をダウンロード

笛吹市芦川支所地域住民課資料複写PDF

注)以下、芦川のことは、笛吹市文化財課の資料、笛吹市市勢概要、統計やウイキペディア百科事典などを参考

山梨県笛吹市芦川(あしがわ)

・昔は芦川郷・・・、東八代郡芦川村

・1941年8月1日、上芦川村、中芦川村、鶯宿村が合併して、東八代郡芦川村が誕生。笛吹市合併前は山梨県で最も人口の少ない村と言われ、東八代郡に残る唯一の自治体となっていた。

・2006年8月1日笛吹市に編入合併し、笛吹市芦川になった。

・現在の芦川(あしがわ)は、笛吹市役所支所、芦川小中学校がある「中芦川」を中心に、川下に「鶯宿」、川上に「新井原(あらいばら)」、さらに、若彦路の通る「上芦川」の四つの集落で編成されています。芦川の地名は村を流れる芦川の名がそのままついている。

※足利義澄の近従らが都から逃れて、隠棲して義澄の菩提を弔うため”アシカガ”の名を”アシカワ”の地名にしたとか、宝珠寺の開基とされる足利常元も芦澤(アシザワ)と改名したという話も伝わっているようです。

往古は山間高地のため、村人はアワ、ヒエ、ムギ、トウモロコシ、サツマイモ等自給自足の粉食栽培をおこなって、炭焼きなど山の恵みを換金して暮していたようですが、明治から昭和にかけて、養蚕業が栄え、芦川の良質の絹糸は、特に評判の良かった都留郡の絹織物に重用され、ともに発展した歴史もあるようです。

その頃、多くの民家の屋根が兜造りに改築されて、今も約150軒くらいが古民家に暮しています。これほどの古民家群が残るところは全国的にも珍しいようです。中には18世紀に建てられた家の屋根を改造して兜造りにしたものもあり、築200年以上の古民家も14軒ほど残っているようです。里人にお話を伺うと、「家の維持保存が大変だ!」と言われながら・・・、とても馴染んで暮らしておられるように感じました。

・平成23年6月現在、人口は224世帯、470人が暮している。現在は空き家も多くなり、甲府や都会に働きに出ている家も多いと伺う。ちなみに、合併前2006年の人口は549人であったが、その後も年々人口が減少しているようです。・・・残って欲しい、里山の原風景です。

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「~芦川~兜民家と石垣の風景」という芦川ガイドマップ(笛吹市文化財課発行)を見ながら歩いて見ました。

ガイドマップには、寺社や古民家、自然石の石垣原風景などの解説と写真とその位置がマップ上で紹介されています。ダウンロードで一部だけ紹介します。※ガイドマップを笛吹市でもらい、このマップを見ながら歩くと・・・、明解です。ashiawa_oushuku_guide_map.pdf」をダウンロード

鶯宿(おうしゅく)

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鶯宿バス停 (富士急平和観光バス)

石和温泉駅前市営バス乗り場より鶯宿行は1日3便運行

・石和温泉駅前発⇒鶯宿着  片道@1020円

 9:25⇒10:26 14:25⇒15:26 18:00⇒19:01

・鶯宿発⇒石和温泉駅前着

 8:15⇒9:16  12:55⇒13:56 16:55⇒17:56

注)富士山駅ー河口湖駅から芦川農産物直売所(上芦川)間も富士急山梨バスが1日、6~8本運行、@750円

※芦川・鶯宿散策は、石和温泉又は富士山駅・河口湖駅から芦川農産物直売所で乗継プランを組むと広域観光が可能です。

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鶯宿の散策ガイド

Photo_5 ・里山風景がよくイメージできる案内図です!

鶯宿は、東海道から甲斐国へ通じる中央の道「中道」筋にあって、信長が通った道とか、家康が駿河から行き来した道だと思うと感慨深いものがありますが、その恩恵もあって、いち早く往還道が整備拡張され、中道が歩きやすくなって、特に大勢の商人が鶯宿を訪れたということは後述のとおりです。

・しかし、それ以前には、どうしてこんな山里に人々が住みついたか?・・・今回の関心テーマです!

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室町幕府第11代将軍足利義澄(よしずみ)ゆかりの伝説

鶯宿には「足利」伝説があり、武田家支配の前(室町時代)には、足利家が支配していたといわれる説もあります。(ブログ山梨きまぐれ歴史散歩より)

注)室町幕府は、足利尊氏が初代征夷大将軍に任じられ、建武5年(1338年8月※1336年説もある)に成立し、織田信長によって追放された第16代足利義昭の1573年7月まで、235年間続いた幕府で、京都室町通りに御所を置いたことで、足利幕府を室町幕府という。

足利義澄は、室町幕府第11代征夷大将軍で、1481年(文明12年)生れ。在位は1495年(明応3年)~1508年(永正5年)。10代足利義材(よしき)が細川政元によって追放された後、11代将軍に擁立され、1508年、大内義興が上洛の軍を起こしたため、近江国(現、滋賀県近江八幡市牧町)の蒲生郡水茎岡山城(城主九里信隆)へ逃れて、将軍職を廃され、1510年(永正7年)九里軍は幕府軍三千の攻撃を撃破するも、その後、義澄は岡山城で1511年(永正8年)に病死している。

その結果、第12代将軍は10代義材が義植(よしたね)と改名して、復権している。

足利義澄公と芦川鶯宿のかかわり

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梅渓山長徳寺

・笛吹市文化財課資料によると・・・、第11代将軍足利義澄の近従(きんじゅう)、大勝左近将監(おおかつさこんしょうげん)と宮川右近将監の一族が芦川の地に隠棲し、大勝左近将監の子孫、大勝甚兵衛が、梅渓山長徳寺を足利義澄公の牌所(はいじょ)として菩提をとむらったという伝説が残っているところです。

まず、足利伝説を辿るには、芝おこしである大勝家の菩提寺を訪ねて見た。

・長徳寺の開山は全養蠆山(ぜんようたいざん)和尚。

 諏訪頼重の子で、幼名を図之助と称する。

・伏見宮御所祈願所となり、伏見宮家からの寄附状がある。

・開山(不明≒推定室町時代1336~1573)当時は真言宗。1479年(文明11年)か1555年(弘治元年)に臨済宗に改宗したと伝わっているそうだ。

・現在の本堂は1779年(安永8年)の建立(推定)

・旧庫裏は1478年(文明10年)再建、門口は文化3年(1806年)建立と伝わる。

・大勝家の墓があるとういう「長徳寺」を訪ねて見ると、丁度お盆参りで多忙なところを奥さまが親切に墓地へ案内して下さった。最上段に住職の累代の墓があって18代が並んでいる。

この墓地には、往古の歴史を感じるところが残っている。現住職は19代目とのこと。

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Photo_7 長徳寺に「大勝家の墓」はあった・・・!?

・大勝家の累代の古墓石が並ぶが、まさに本寺の歴史とともにあることが、素人でも推測できる。しかし、墓石の刻字名、年代等は素人では殆ど読めないので、残念ながら詳細は確認できない

※いつか専門家に伺ってみたい。

注)大勝家の直系子孫は、芦川に現在は住んでおられないようだが、最近、子孫がお参りに来られたそうで今でも家系は続いているそうです。また、一族と思われる大勝姓の家は現在も芦川に4軒あるそうですが、その一軒の大勝家へ訪ねてみたが、昔のことがわかる人がおられなかったので残念。

・一方、宮川家の姓は、今でも、この村の殆どを占めていて、墓石の刻字名を見ても、宮川姓ばかりが目立つところだ。

現在は長徳寺のどこにも、足利義澄公の位牌はない!五輪塔はどこに!?

長徳寺は、芝おこし「大勝家」の菩提寺なのです。

長徳寺を訪ねたのが丁度お盆で忙しい中でも、運よく寺が開いていて、奥さまに仏壇を見せて頂いたが、義澄公の位牌は現在ここにはないとのことで、所在はわからないとのことでした。しかし、現在は見ることはできないが、「大勝家」が足利義澄公供養のため、長徳寺に、位牌を置いていたことは確かなようです。

故あって、前住職の身内の方でも、どこかに保管しておられるのであろうと推測する以外にすべはない結果でした。※前住の親戚の方に訊ねても良くわからないとのことなので。ちなみに、某寺関係者も電話取材では、20年くらい前には見た覚えがあるような話でした。

注)実物は未確認だが、文献では、足利義澄の戒名は「法住院殿旭山道晃」。

五輪塔は長徳寺にはないことがわかったが、後日、芦川市史で所在が確認できたので、後述で紹介します!

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宿鷺山宝珠寺にも、足利家のゆかりがあった!?

開基は足利常元、開山は天祥和尚。由緒によると、開基は室町幕府第4代将軍足利義持(1386~1428年43歳没、将軍在位1394~1423年)の孫、田沢大炊介の三男、芹沢源大夫常元である。常元は(推定15世紀末頃)、天子ケ岳の山中に庵居し、宝珠庵と称した。常元は、天文5年(1536年)89歳で亡くなり、その後、境川町大黒坂の聖応寺塔頭の僧、天祥和尚が開山となり、江戸時代初期に、現在地に移り宿鷺山宝珠寺となった。

注)何故か?足利一族であっても、”足利”の名跡を名乗っていないのです!?

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この地は、当時、足利幕府の統治下にあったには違いないが・・・!?

足利一族が住みついたことも伝説の域をでないが・・・、確かなようです!

何らかの事情(隠棲、落人など)で、足利名跡を名乗れない事情がある一族が、この山奥に住みついたと”想定”することが、現段階では精一杯ですネ。

特に、駿河を越えて、甲斐へ入るにも、如何に足利一族とはいえ、甲斐源氏、武田家累代が甲斐国内に勢力を強めている時代に、国中へは、簡単には入れないし、

この芦川は、隠棲の地として、いわゆる穴場であったかもしれないと想像をふくらますばかりです。

何れにしても、この珠寺の開山の時代には、この地に足利将軍家ゆかりの人々が住みついた跡があることは、確かなようですネ。

注)足利家の”落人が隠棲した里山”であることは次第に分かってきたが・・・、さらにもっと古い時代に、この地には、縄文・平安時代の遺跡が4ヶ所で発掘されていて、古墳分布を見ると、”中道”には、4世紀中~5世紀前半に曽根丘陵の大型前期古墳勢力があったことが確認されていることから、古代より、既にこの地にも里人が暮していたことが伺えます。この奥深い山間地に・・・!?

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前述の通りだが、”足利義澄公”にかかわる伝説とは・・・!?

足利幕府第11代将軍義澄(よしずみ)は、永正4年(1507年)管領細川政元が”細川家の家督争いの内乱”によって暗殺されたことで、前10代将軍義材(よしき)(後の義稙)を擁立する大内義興軍が上洛する報を知り、近江の六角高頼氏を頼って、朽木谷、さらに蒲生郡水茎岡山城へ逃れ、再び勢力を挽回すべく、細川澄元、三好之長などを京へ侵攻させたが、失敗、7月には将軍職を廃され、永正8年8月14日(1511年9月6日)に岡山城で病死したとなっている。享年32(満30歳没)。

その結果、将軍職は10代義材(よしき)が改名し、第12代義稚(よしたね)(在位は1508年~1521年の13年6カ月)として復権したため、義澄家は終焉。

義澄没後に、近従、大勝左近将監と宮川右近将監の一族は芦川の地に逃れて、義澄公を弔うため鶯宿に隠棲したという。

即ち、近従大勝氏と宮川氏がこの地に逃れて、鶯宿に棲みついたのは、1508年末か、義澄が没した後の1511年末頃と推定されるが、岡山城で最後まで戦に備えていたこともあり、義澄公が病死した後の1511年末以後と推定しておくのが妥当であろうと思われます。

大勝左近将監がこの地に居を構えた後、子孫甚兵衛に、長徳寺住職の幼名図之助を与え、大勝図之助甚兵衛と称して、梅渓山長徳寺を足利義澄公の牌所とし、菩提を弔っていたようです。

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足利義澄公の五輪塔は、鶯宿諏訪神社北東の丘林にあった!

足利伝説の五輪塔を探していたが、笛吹市文化財課と連絡が取れて、「芦川村史」に五輪塔の調査資料が掲載されていることがわかったので、早速調べて見ると、五輪塔の写真、図説、略図(鶯宿見取図)があることがわっかったので、資料をもとに、再度、調査に行ってきました。

しかし、それらしい場所に行ってみると、標識や道しるべがあるわけではなし、近くの民家に訊ねても、知る人もなく、二度も里道を山奥まで歩いてみるも、それらしいところは見当たらないので、一旦あきらめて、空振りで引き返し、次の予定であった「てんころりん村の大森さん」を訪ねました。

大森さんに、五輪塔のことを話すと、知らなかったので、自分も興味があるし、もう一度行ってみないか?ということになって、何と一緒に探してもらうことになったのです。道すがら、詳しそうな長老に、五輪塔のことを訊ねるも、知っている人に当らない。最後に、位置図のすぐ近くに住む大森さんの知り合い立澤さんに訊ねたら、目印になる秋葉社(石祠)をご存知で、そこへ道案内をして頂いた。

地元の皆さんのお蔭で、ようやく、足利伝説の五輪塔を確認することができました! 

何と有り難いことに、その目印の秋葉社(石祠)の処へいったら、そのすぐ下に秘かに石像が立っていたのです。小ぶりで、背面は関心がないと見過うほどの庶民の墓石のような平凡な形ですが、正面に回ると、そこに、確かに五輪塔の浮彫があったのです。これは板碑型五輪塔(後述)といって、山梨では珍しい墓石らしい。

義澄公の墓所として、隠棲の地での供養塔であることが想像できる!?

芦川村史に、鶯宿諏訪神社の北東の位置、里道の赤羽根付近にある板碑型五輪塔を安置して、秘かに参詣供養を続けてきたとあるのは、確かでした。

しかも、小さく目立たない彫刻の五輪塔なので、里人すら知らないのは無理はない。流石に文化財担当のような専門家でなければ気が就くような五輪塔ではなかったが、栄枯盛衰の哀れを滲ませる”感動の五輪塔”でした。

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コメント

21)石和温泉郷伝統の”笛吹川の鵜飼”

2011-08-05 | 山梨、往古の歴史と伝説!

石和の鵜飼は・・・、800年の伝統を今に伝えています!

石和温泉郷伝統の笛吹川の鵜飼は、古式ゆかしい「徒歩鵜(かちう)」です!

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笛吹川 石和の鵜飼「徒歩鵜」と観賞の風景 

徒歩鵜(かちう)とは・・・、

ウイキペディアによると・・・、笛吹市の笛吹川や有田市の有田川で行われる鵜飼は、徒歩鵜(かちう)と呼ばれ、これは小舟を用いず、鵜匠が1羽ないし2羽の鵜を操り、直接浅瀬に入って漁をする古式の鵜飼漁法である。

鵜飼をする人を「鵜使い」または「鵜匠(うしょう、うじょう)」と呼ぶ。

・鵜匠の衣装は、風折烏帽子、漁服、胸あて、腰蓑を身に着ける。

・通常の漁期は、5月半ばから10月半ばまでの、満月の日以外の日に行われる。

注)満月の日は篝火(かがりび)に集まって来るアユが月明かりに惑わされるのを避けるため。

参考:有名な長良川の鵜飼のように、鵜飼船(小舟)を使う鵜飼いが一般的に認知されているが、1人の鵜匠が5羽から12羽程度の鵜を一度に操るので、徒歩鵜より効率は良い。

注)長良川の鵜飼は「御料鵜飼」にも指定され、宮内省(現宮内庁)式部職の鵜匠が計9人いて、累代世襲で受け継がれている。一人の鵜匠が12羽の鵜を操っての漁法は流石に皇室御用の鵜飼です。1300年の歴史を遡る。毎年5月11日~10月15日のアユ漁のうち、宮内庁の御料場で行い献上する漁を「御料鵜飼」という。

明治神宮や伊勢神宮へも奉納されている。

ちなみに、有田市と益田市を除く全国11ケ所の鵜飼に使われる鵜(ウ)の全てが海鵜(ウミウ)で、茨城県日立市(旧十王町)の伊師浜海岸で捕獲されたウミウを使用しているようです。注)カワウは天然記念物だが、愛知、岐阜では大量のカワウによるアユの食害が深刻化しているて、岐阜県では有害鳥獣として駆除が認めらている。

注)島根県益田市の高津川で行われる鵜飼いは、日本で唯一「放し鵜飼」と呼ばれるもので、鵜に手綱をつけずに行う漁法で、あくまで鵜匠の生計のため。漁期は一般の鵜飼が終わる秋頃から翌初春にかけて行うようです。

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山梨県(甲斐国)、特に笛吹市は、「甲斐国1000年の都」として、往古は甲斐国の中心地にあり、さまざまな歴史と史蹟を残すところです。

”石和に伝わる夏祭り恒例の「笛吹川・石和鵜飼」を観賞!

この夏、”鵜飼”ゆかりの史蹟と・・・、イベント”石和鵜飼”を観賞したので紹介します。

2011年8月4日(木)20PM~21PM

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石和の鵜飼は「徒歩鵜(かちう)」という古式ゆかしい技法!

静々と流れる笛吹川の清流を舞台に、”河畔の薪能”を観賞しているような幽玄の舞台の雰囲気がありました!

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鵜飼について、もう少々調べてみました。

【鵜飼漁法が行われていた地域】※参照ウイキペディア

鵜飼・鵜飼い・鵜養(うかい)は、鵜(う)を使って、アユなどを獲る漁法の一つで、中国、日本などで行われている漁法であると紹介されている。ヨーロッパでも16~17世紀にはスポーツとして行われていたようです。

日本では、①山梨県笛吹市(笛吹川)、②岐阜県岐阜市(長良川)、③岐阜県関市(長良川)、④愛知県犬山市(木曽川)、⑤京都府京都市(大堰川)、⑥京都府宇治市(宇治川)、⑦和歌山県有田市(有田川)、⑧広島県三次市(馬洗川)、⑨島根県益田市(高津川)、⑩山口県岩国市(錦川)、⑪愛媛県大洲市(肱川)、⑫大分県日田市(三隈川)、⑬福岡県朝倉市(築後川)注)⑬は17世紀前半まで徒歩鵜(かちう)が行われていた。

以上の11都道府県、13ケ所が伝統的な鵜飼漁地として伝わっています。

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石和市役所PRポスター抜粋  「全国鵜飼マップ」

【鵜飼の歴史】

鵜飼は、奈良時代「日本書記」(720年)神武天皇の条に「梁を作って魚を獲るものあり、天皇これを問う。対えて曰く、臣はこれ苞苴擔の子と、これ即ち阿太の養鵜部の始祖なり」と養鵜部が見え、「古事記」(712年)天皇の歌にも鵜養のことを歌った歌謡が載っているくらい鵜飼の歴史は古いようです。

また、中国の史書「隋書」開皇20年(600年)の条には、日本を訪れた隋使が見た変わった漁法として「小さな輪を鳥に掛け日に100匹は魚を獲る」と記されているそうです。・・・ウイキペディアは、ここまで詳しく調べてあるので勉強になります。

特に、平安時代の延喜年間(901年~923年)になると、当時、長良川河畔に七戸の鵜飼があったのを、国司藤原利仁は、そこから鵜飼アユを献上させ、時の天皇に取り入って、七郷を鵜飼に要する篝松の料として賜り、「鵜飼7郷」と呼ぶ領地を得た話など、鵜飼のアユが天皇への献上魚として有名になったことで、公家や武家の中にも鵜飼が流行っていった歴史があるようです。

安土桃山時代以後は、幕府や各地大名によって鵜飼が保護され、鵜匠と魚場の確保は、大名のメンツにかかわって行われていたようです。

当時のアユ漁としては、鵜飼漁法は、魚に傷がつかず、鵜の食道で一瞬にして気絶させるため、鮮度を保つ効果もあって、特に献上品として珍重されていたようです。

明治23年(1890年)には、長良川の鵜飼アユは明治天皇の大膳職に上納され、宮内庁のアユ漁の御猟場にお編入されたことで、長良川の鵜飼だけは保護が続いていった歴史があります。反面、明治維新で各大名が衰退したため、各地の鵜飼は次第に減少していったようです。

現在の鵜飼は、漁獲効率の良い漁法ではないため、観光客が屋形船や桟敷からそのショー演出を観賞して楽しみ、アユ料理でもてなす観光事業として行われているところがほとんどです。石和でも、観光イベントとして保存しています。

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”能”の「鵜飼」は、ここ石和の鵜飼山遠妙寺が発祥の地!

江戸時代の娯楽と云えば、歌舞伎、浄瑠璃、能、浮世絵などがあり、その題材として人気があったものの中に、「日蓮もの」があったようです!

詳しくはわかりませんが、能の「鵜飼」はその「日蓮もの」で、大評判を呼んだ舞台であったようです。五番目もの、鬼もの、太鼓ものに分類され、禁漁の罪を犯したために殺された漁師の悲劇と、その鵜飼の業の見事さ、そして法華経による救済を描く、旅僧が石和を訪れることから始まる物語。

Photo_8伊達家本「能絵鑑」より、「鵜飼」

ウイキペディア掲載抜粋

鵜飼の業の面白さを見せることに主眼が置かれた素朴で古風な物語(曲)と評されていたそうです。

原作は、榎並(えなみ)左衛門五郎が作り、後に、世阿弥(ぜあみ)元清が改編したもので有名になったようです。

謡曲「鵜飼」のあらすじ・・・、※ウイキペディアによる

安房の国清澄出身の僧(ワキ)が、従僧(ワキヅレ)を伴い、甲斐国石和を訪れる。一行は、所の男(アイ)に教えられて、川辺の御堂で一晩を過ごすことにするが、その夜、松明を持った鵜飼の老人(前シテ)が姿を見せる。話すうちに従僧が、かつてこの地を旅した時、よく似た鵜使いの老人に一宿一般の恩を受けたことを思い出すと、その老人は「その鵜使いは後に、禁漁の石和川で鵜を使って漁をしたため、村人たちの処刑にあい、簀巻きにされて川に沈められて殺されました」と語り、実は自分こそがその死んだ亡霊なのだと名乗る。老人は僧の求めに応じて、懺悔のため、かつての鵜飼の業を披露する。その面白さに、老人は殺生の罪を忘れて酔いしれるが、やがて闇の中に姿を消す。改めて、所の男から事情を聴いた僧たちは、河原の石に一字づつ「法華経」の経文を書き、それを川に沈めて鵜使いの老人を供養する。するとそこに、地獄の鬼(後シテ)が現れ、鵜使いが無事に成仏を遂げたこと、そしてそれを可能にした「法華経」の有り難さを称えて舞う。・・・というあらすじです。

この石和郷に伝わる伝説では、その僧侶が、出身が安房国清澄であること、向かう先が甲斐国石和であることから、身延山久遠寺を開いた日蓮上人をモデルとして作られていると言われています。また、従僧は鵜飼山遠妙寺に伝わる日朗、日向上人、そして鵜飼の老人は、鵜飼山遠妙寺で弔われている鵜飼勘作翁といわれ、まさに、日蓮上人実名の伝説は、謡曲「鵜飼」のあらすじ通りに伝えられているのです。

余談ですが、なぜ、日蓮上人の名が謡曲には出てこないのか?ということについて、「高僧の効力より、広く仏教の功徳を説こうとしたため」という説が有力のよう。

尚、舞台となった石和川は現在は笛吹川と呼ばれ、かつては、鵜飼川の名もあった。現笛吹市石和の「鵜飼山遠妙寺」には、鵜飼漁翁勘作という漁師が日蓮に救われたという能と同様の伝承、また勘作を祀る御堂があって、毎年9月16日に川施餓鬼が行われている。この時期に”薪能”があるらしいので、一度観たいと思っています。

また、【甲斐名勝志=江戸時代萩原元克著】によれば、この地に落ちて来たといわれる平時忠をモデルにした同様の話が伝わっていて、即ち、鵜飼勘助は落人で名を変えた平時忠であったとする話もあるのです。

石和に伝わる平時忠(鵜飼漁翁勘作)伝説・・・笛吹市観光商工課パンフレットによる

鵜飼勘作とは、元の名を平大納言時忠といい、平清盛の北の方ニ位殿の弟。平家が壇ノ浦の戦いで滅亡した時、時忠が三種の神器の一つ「神鏡を朝廷へ奉還したことが認められ、一命を助けられて、能登の国へ流罪された。しかし時忠にとって、この地は安住の地ではなく、能登を脱出、遠く甲斐の国へ逃れて来て、この石和郷に住みついたと伝わる。公家時代の遊びで覚えた「鵜飼」業とするようになって、ある日、南北十八丁三里の間殺生禁止になっていた当時の「法城山観音寺」の寺領を流れる「石和川」で漁をしたのが見つかって、村人に捕えられ、簀巻きにして岩落としの水底に沈められて処刑された。以来、亡霊になって昼夜苦しんでいたところ、巡教行脚の日蓮上人の法力お蔭で成仏得脱できた。・・・という話です。

時忠伝説は、面白く、”謎々の如く”、物語は夢が広がりますネ!

ウイキペディアでは、時忠は文治5年(1189年)能登国の配地で生涯を終え、墓は石川県珠洲市大谷町則貞の国道249号線傍にあると記しています。

そもそも流罪地を脱出することは、即死刑になるので、そこから先は脱出しても記録にあるはずがないし、鎌倉源氏の時代になって、甲斐源氏が治める甲斐の国に落ちる話も面白いが、だからこそ永遠のミステリーで・・・、江戸時代になって世の平穏が保たれると、庶民の娯楽として、能、歌舞伎、浄瑠璃、浮世絵が流行した時代に、「平家の落人や義経伝説など源平合戦物語」などは、特に津々浦々でもてはやされ、そこに人気の「日蓮もの」の題材が重なることで、現代では、内田康夫のミステリードラマになりそうな題材になったものと思われます。ミステリーだからこそ、伝説として歴史に残るものもあり、伝説も大切にしたいものです。

このような伝説は、これ以上追及しない方が面白いですから、この辺で!?

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鵜飼の発祥の地・・・、石和の「鵜飼山遠妙寺」!

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   左:鵜飼山遠妙寺本堂                    右:鵜飼山遠妙寺山門

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鵜飼の亡霊済度の霊跡宗門施餓鬼根本道場鵜飼山遠妙寺・・・、今流で言えば、当時としては、わかりやすい宣伝力に富んだタイトルだと思います。

宗派は日蓮宗。本尊は十界曼荼羅 ※仁王門は市指定文化財。

創建:日蓮上人は川のほとりに塚を作ってこの地を去っているが、その後、本覚坊日養(にちよう)が鵜飼堂を建て、さらに日梵(にちぼん)が明徳元年(1390年)に場所を移して、堂宇を建立した。これが石和山鵜飼寺、現在の鵜飼山遠妙寺となっている。

この鵜飼伝説のお蔭で、遠妙寺は、日蓮宗の中でも、身延山久遠寺と並ぶほど江戸への出開帳が多かったようです。

鵜飼山にある由緒書きでは・・・、

文永11年(1274年)夏(≒約730年前)、宗祖(日蓮上人)が身延へ御入山の後、草庵が完成する迄の間約1ケ月、甲州御巡教の旅に出立された時、「日朗、日向両上人を従えられ石和の里鬼苦ケ島の辻堂に休息し給いしに、はしなくも鵜飼漁翁の亡霊に面接、亡霊の懺悔の物語を愍然(あわれ)に思われ説法教化、これを済度し給ひ、さらには、日朗菩薩は石を集め、日向は墨をすり、宗祖自ら筆をとられて、法華経一部八巻、69380余文字を三日三夜にわたり、一字一石の経石に書写して、これを岩落の水底に沈め、川施餓鬼供養を修して、彼の亡霊をして成仏得脱せしめ給う。即ち宗門施餓鬼根本道場也」と・・・、これが、鵜飼山遠妙寺の略縁起となっている。

寺宝の「七宝の経石」は、現在、本堂に置かれていて、参拝者は観ることができる。これは、川施餓鬼の際、日蓮が字を書いた石といわれ、「南無妙法蓮華経」という七文字がそれぞれに書かれている。

その他に、普段は見せてもらえないが、日蓮が川施餓鬼で供養している様子を描く「鵜飼漁翁済度の図」、「鵜飼山録由」、「鵜石と魚籠(ビク)石」、「鵜飼参考謡本」、などが納められている。

山門をくぐると左手に「石和温泉七福神」の大黒天、後方に鵜飼翁の供養塔、奥に鵜飼勘助の五輪塔がある。仁王門は寛政年間(1789~1800年)の再建だが、実は未だに完成をしていないようです。仁王像(180cm)は見ごたえがある。

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硯(すずり)井戸・・・お硯水

鵜飼山遠妙寺による由緒書によると、この井戸は、日蓮上人が錫杖(しゃくじょう)によって穿(うがつ=掘る)たれた井戸と伝えられている。明治40年の大洪水により埋没したため、その後復旧して、今日に至っている。

注)古事の読み方は辞典ベースでご容赦下さい。正しい読み方がある場合は教えて下さい。

笛吹川畔には、鵜飼伝説にある日蓮休息の御堂(祖師堂)跡が復元されて、川施餓鬼供養の法華経を書くための硯の水を汲んだ井戸があるところです。

当時の元石和川(鵜飼川)は、法城山観音寺領域はもとより石和一帯までも大洪水で流失したため、現在の笛吹川の位置と異なるらしいが、伝説に基づいて復元された御堂(祖師堂)です。ここに湧き出る井戸水は当時の硯の水を汲んだ思いが蘇る所縁の井戸水です。

この硯水は霊水とされて、題目を誦えれば即ちその勢いを増して迸(ほとばし)ると、また醸造に用うれば芳醇四海にあまねく銘酒となるという。

この水を汲み符水(ふすい=神仏の加護を約束する)となすもの多しと伝わっていると解説されています。Photo_4Photo_3

・      旧蹟 御硯水の由緒                           御硯井戸

”岩落”は現在地から、東方百メートルの地(対岸中央園芸社の前とのこと)に、相生の老杉があり、その西側(手前のせせらぎあたりらしい)元鵜飼川の本流に岩石そばだち水が衝(つく)り滝の如くに落ちたので「岩落」と称したとある。

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追記:

【笛吹川・石和鵜飼】

笛吹川「石和鵜飼」は、笛吹市が全面的にバックアップして、観光振興の夏祭りイベントとして取り組んでおり、昭和51年(1976年)に観光イベントとして復活して以来、石和温泉郷に宿泊するお客様の人気イベントになっています。

期間:7月20日(水)~8月19日(金) 毎週水、木、土、日、18回の催し

    鵜飼の観賞は約50分、その後、納涼花火約10分 20PM~21PMのイベントです。

ちなみに期間中、訪れる観光客は約15000人とのこと。

石和温泉郷の旅館宿泊客が夕食を終えた時間に、各旅館からの送迎バスがあります。

お客様に配慮した旅の想い出に残るイベントだと思います。

全て野天の自由席(河川堤防を兼ねて造成された野天観覧席は特等席)で、観覧料は無料

注)無料で行う「伝統イベント」は観光振興と地元民の憩いを願う笛吹市の熱意の結晶ですネ! 

案内は、http://www.city.fuefuki.yamanashi.jp

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付録:石和温泉郷の夏のホスピタリティーイベント=笛吹川の納涼花火

鵜飼開催の期間中18回、8月21日は石和温泉「花火大会」がある。桟敷予約受付中。

Photoアフター「鵜飼」の余興納涼花火!!! Photo_2

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