新甲州人が探訪する山梨の魅力再発見!

東京から移住して”新甲州人”になった元観光のプロが探訪する”山梨の魅力再発見!”
旅人目線の特選記事を抜粋して発信!

甲州市・塩山牛奥/西野原は絶景⑫塩山牛奥/西野原を辿る!22-07

2022-07-01 | 山梨の魅力再発見!

甲州市は塩山牛奥と西野原を訪ねると、甲州市塩山

を網羅することになるが、平成8年に隣の勝沼町、

大和村と併して、現在の甲州市の誕生となった。

このブログでは、勝沼町は「ブドウとワイン発祥地」

、大和村は「武田家終焉の地」として有名で・・・、

既に、本ブログでは紹介しているので省略します。

今号は旧塩山市「眺望美環境の地」を紹介します。


美しい風景の甲州市は、癒しの町・・・!

塩山牛奥みはらしの丘(南アルプス一望のビューポイント)

首都圏から車で来た人は、必ず、立ち寄るところ・・・!


甲州市は、長閑な風景に癒される・・・!

塩山牛奥は、長閑な別荘風環境の住宅が、新しい波・・・!


「甲州市塩山牛奥」

大日本地名辞典によると・・・、

牛奥村は塩山市牛奥村(現:甲州市塩山牛奥)、東山梨郡勝沼町中原

、下萩原村の南にあり、東の牛奥山麓から西へ重川中流の左岸に及ぶ。

山沿いの村落。北牛奥、鹿伏戸(かふと=甲戸)、南牛奥、中原の

四集落からなる。地名は、古く牛を牧したところによるとも言い

(甲斐国志)、地内には、牛池、牛ノ鼻木などの小字がある。

永禄3年(1560)、武田信玄印判状(桑原彦次家文書)に、

「漆弐拾盃、牛奥」とみえ、甲斐国内の漆衆に対し、当地など漆の

生産地から五日のうちに計160盃の納入が命じられている。

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嘉永四年(1851)の嵯峨汐湯人足万控帳※塩山市役所(現甲州市役所)蔵等

から、村内中原から東方の杣坂(そまさか)峠を越えた日川上流の嵯峨塩鉱泉

は、この年、当村(※現甲州市塩山大和)により開発されたものと推定される。

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慶長八年(1603)社領三石余寄進の判物を与えられ、・・・・。


「岩堂のセギ分水口」等、歴史的遺産が豊か!?

登録有形文化財「岩堂のセギ分水口」


「岩堂セギ分水口」には、解説版(甲州市所有、花園区管理)があった。

昭和2年に作られた鉄筋コンクリート造りの円筒分水口で、地域の水利に

関する代表的な遺構の一つである。平成29年5月2日付で登録有形文化財

に登録されました。※甲州市広報。

岩堂セギ分水口は、JR中央線の高架付近で鬢櫛川の水を引き、北から西へ

展開する扇状地の「扇の要」に位置する岩堂に設置された分水口により、

三等分に分水されています。・・・中心の小円筒から、沸き上がった水が、

中円筒に均等に開けられた穴で三等分され、外側の大円筒を通じて、三本

の水路に注がれます。注)設計は県庁の技師、コンクリートが使用された

ことも特徴の一つ。


「岩堂の観音堂」

地元では「観音堂」と呼んだらしい・・・!「岩堂観音」を祀る・・・!

何度も麓を通ったが、初めて撮影に訪ねてみた。神社だと思ったら「観音堂」

と呼んだらしい・・・。今は歴史を感じるが、草茫々と無人の廃家であった。

全応院の兼帯であったという。普会山青苔寺が全応院の隠居寺になった時代

と推定できる。


「普会山青苔寺」

「普会山青苔寺」は、ブドウ畑の中に・・・!

甲斐国志3-225を参照すると、除地2段12歩、山林あり。元亀3年

(1572年)開創。開山は昌室善久和尚、曹洞宗全応院末。本山5世昌室善久

の隠居寺。岩堂観音を兼帯。


「大智山文殊院」

「文殊院」は、人生の”厳しい坂登り”を感じる・・・!?


殆どの方が車で登攀している!筆者と配偶者は、自転車で、歩いて

登ったが、高齢記念の登山を思い出した。きつい一日であった!

正直言うと、移住以来、初めて訪れてみた。文殊院は山中にあって

地元の参詣者が、日頃も特に護摩供養では有名で、当日も何台かの

に出会った。皆、ご供養に行かれた人達だと思った。


「大智山文殊院」は、今では展望の良い山間地にあるが、初めて

印象は、寺院風というより、別荘風の近代建築であった。

神仏混合の時代、「文殊院」境内には「お稲荷さん」が祀られた!


「大智山文殊院」の本堂兼庫裏の建物は、モダンなデザインだ!

◇「大智山文殊院」は、塩山牛奥5013の山中にあり、現在の

フルーツラインの途中で「文殊院の看板」を目印に登る。

右側に本堂兼庫裏の様相が垣間見える。甲斐国志3-225を参照すると、

曹洞宗山城鷹峰源光庵ノ末。江戸時代、元禄11年(1698年)

に開創。除地7段2畝14歩。寺は貢地にあり、本堂方5間半。

祈願状草案の地を訪ねた弟子円端即心が寺の境内整備、修行寺とした。

本尊は文殊菩薩。

明和5年(1768年)、栄枯盛衰の世情上、8世蓬山和尚が諸堂

の修復をした。不詳だが開山の墓石には、菊の紋章がある。

開山は卍山道白(妙青院幽山)


「兜岩」は、その里を開いた思い出の碑。

「兜岩」

兜岩は、まさに兜の形をした岩が目印!

立札はこの村を領した郷士を称え、解説されている。


「通大明神」

「通大明神」は荘厳の境内にある厳かな拝殿・・・!

「通大明神の貫禄の拝殿」はご利益がありそう・・・!

山梨県神社庁の資料によると・・・、

祭神は「瓊瓊杵尊、素戔嗚尊」。境内地2836坪。

文治年中地頭樋口次郎座衛門尉勧請と伝えられている。武田家代々の

崇敬を受け、甲斐国志にも牛奥・菱山二村の氏神。社地4,140坪。

霜月中の4日、「通い祭り」として、中夜に一宮浅間大明神への潜幸

あり。・・・・・道筋に腰掛石腰掛塚あり、と記している。

明治以降は祭り廃絶。鳥居は菱山村神戸にある。本殿は寛永6年創建。


全応院別院

全応院は、もともと往古より山中にあったが、今は、トタン屋根で

吹いて、全応院の墓地として提供している。車でお参りする方には

現在は勝沼側から標識もあり、舗装道路でわかりやすい。


「大滝山全応院」は室町時代より塩山牛奥の歴史!

「大滝山全応院」は、開山の往時は山中(現、別院と墓地)に!

甲斐国志3-225 大滝山全應院(現、全応院)。室町時代、

永世3年(1506年)、曹洞宗永昌院末。開山は菊隠瑞潭。

黒印1500坪。除地2段9畝。山林7町5段9畝。開基曽根某の

法名は心泉道院居士。往古は山中にあり、現在は墓地としている。

当初は、山中に赤いトタン屋根で元の全応院が見えるが、今は別院

として墓地として開いている。往古の本堂は参詣者休憩所・・・!?


「安楽山願正寺」

「安楽山願正寺」は塩山~勝沼線に沿って建つ!分かりやすい寺!

現塩山牛奥1788。浄土真宗本願寺派、※万福寺末。

甲斐国志3-225参照によると・・・、

除地7段2畝14歩。寺は貢地にあり。往古は真言宗。別相と称する

ところへ真言宗別相寺を建立。その後、空道が浄土真宗に改宗し、

中興開基となって、当地へ移転。「安楽山願正寺」と改称。

本尊は阿弥陀如来。


曹洞宗「天神山干将寺」は、勝沼ブドウ卿駅から近いが、塩山牛奥に所在!

※改修工事中にて、写真は、イラストイメージです。

甲斐国志仏寺部第3ー225によると・・・、

所在は牛奥村。曹洞宗、全応院末。除地5段6畝7歩。本尊は薬師。

記される。曹洞宗、開山は梅庵嶺黄。江戸時代、寛永元年(1624)

5月8日開創。


「西の原の堡」は、武田家より以前に開けたか!?

西野原の堡

「塩山西野原」は、「西ノ原」とも書し、断崖絶壁に面した要塞で、重川に

張り出す段丘上に建てられたと考えられている。

土地の伝承では「遠藤某氏の城跡」と伝わるが、時代背景は不詳。

碑文には、一族、牧野氏が築いたとも刻まれている。いずれにしても、

甲斐武田氏が興る以前の城ではないかと考えられている。


「田上神社」

田上神社」の祠は、今も無人ながら守られている。

「田上神社」は、山梨県神社庁によると・・・、

明治10年所蔵の神社明細帳に「祠壱宇、拝殿行三間、梁二間」との記載は

あるも、創立年月並由緒は不詳である。と記される。

「西野原」の唯一の鎮守にて、祠ながら地元の有志により今も守られている!


「塩山西野原」は、塩山から見て重川の東の高台にあり、眺望は素晴らしい!

ブログ取材を兼ねて、甲州市を具に歩いてみたが、なんと広いことか・・・!

山梨県全体では、山岳や森林が73%も占める大自然に恵まれた県域であるが、

人口も少なく、居住環境は優れている。今回はコロナ禍であったが、どこへ

行っても”蜜”には遭遇しない。コロナ禍も県庁所在地の甲府周辺に多いよう!

この筆者も方々で、大自然に癒されて”生きている実感”を感じている!


 



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