新甲州人が探訪する山梨の魅力再発見!

東京から移住して”新甲州人”になった元観光のプロが探訪する”山梨の魅力再発見!”
旅人目線の特選記事を抜粋して発信!

安田義定ゆかりの甲斐国「牧ノ荘」を辿る!②その要は「中牧郷」だった!18-10

2018-10-01 | 山梨、往古の歴史と伝説!

平安末期~鎌倉時代初期、甲斐国「牧ノ荘」は、あの安田義定

より開かれた!山梨市「牧丘町」には往古の歴史ロマンが眠る!

注)上図は、牧丘町誌(図1)による「牧丘町の全体図」と

右上添付図は、ウイキペディアによる「山梨県牧丘町の位置図」参照

山梨市全体を紹介したいが、今回は広範囲にあたるので省略し、

主に安田義定ゆかりの「牧ノ荘」の要としてあった、今もその名を

引き継ぐ、山梨市の旧「牧丘町」に焦点を置いて紹介します。 


「牧丘町」は、総面積のおよそ80%を山地で占め、古くから人の住める平地

及び丘陵地は、町の西北部の山地に源を発する東西のタナ沢、フシマタノ沢、

白張沢、下ノ差沢、藤原ノ沢、ブナヨコテ沢などを集めた鼓川と赤芝川とが合流

した鼓川の本流の沿岸部と、井戸川が鼓川に合流する僅かな扇状地、それに

北部山地に源を発する塩水沢、余沢、大川沢などを集めて南東に流れる琴川の

沿岸部に点在する部分に限られている(図1)・・・と牧丘町誌は記している。


往古、あの勇将安田義定が領したと云われる「牧ノ荘」は・・・、

甲府盆地東部に位置し、荘域は山梨市牧丘町から、山梨市北部の

三富、甲州市塩山北西部付近(推:上於曽、三日市場、小屋敷、

藤木辺りも含む)に比定され、笛吹川上流部にあたる。

この頃は、高橋荘と同一の荘と認識をされており、高橋荘には塩山

竹森も含まれる。また甲斐市吉沢の羅漢寺の木造阿弥陀如来坐像

の応永30年(1423)銘文には牧ノ荘を指す可能性もあると云われ、

大変広域にわたると思われる。

特に、後の黒川金山を含む現甲州市塩山一ノ瀬高橋辺りも含まれる

と云い、安田義定の一番の財源になったのは「牧」で生産する名馬

のみならず、奥秩父山塊域で採れた「砂金」ではないかと考察する。 


あまりに広範囲なので、今回先ずはその要にあった現牧丘町・・・、

特に往古の「中牧郷」から辿ってみるのが良いであろうと考えている。

山梨市牧丘町は上図のように山梨県の北部にあたり、その「中牧郷」

には、安田義定ゆかりの小田野城跡、普門寺、御所区、馬場区など

が読めると思うが、往古城下を称す地名が今も残されていると云う。

上図は、昭和4年発行の「中牧村郷土史」に中牧村全図として掲載されたもの。

ここではYS記自習NOTEの学習のために記録参考に再複写させて頂いたもの

ですがご容赦。注)さらなる複写は遠慮して下さい。 


往古、大地の恵みと鼓川の清流に惹かれて「牧」が形成された!

「鼓川」沿いに開けた中牧村(現在の牧丘西保中、西保下)は、主流「笛吹川」

に注ぐ鼓川、琴川、大沢の三支流を主にして集落が形成されている。

その中で、鼓川(往古は堤川)には最も清い水が流れていたことが分かる。

)牧丘町誌に昭和53年4月琴川の水質検査検査結果表(解析データ)記載。

その堤川(現鼓川)の沿岸に、往古、あの安田義定は西御所を構え、乾の方位

にある小田野山に要害城を構え、その城口には普門寺を開基して、「牧ノ荘」

の要地を治めた。


 「牧丘町(まきおかちょう)」は・・・、~以下ウイキペディア参照~

往古、甲斐国(山梨県)東山梨郡に存在した町!

平成17年(2005)3月22日、隣接山梨市、三富村と新設合併をし、

新制市による山梨市となった。旧町域は現在、山梨市牧丘町になっている。

注)昭和29年(1954)5月17日、諏訪町、西保町、中牧村が合併して牧丘町が発足。


「牧丘」には、旧石器時代より、里人が暮らせる環境があった!

町域の井戸川遺跡からは、旧石器時代末期の石核が出土している他、縄文時代

早期の堀之内遺跡が分布し、弥生時代には須川道上遺跡で弥生中期の土器が出土

している他、古墳時代の遺物も確認されている。


古代、律令制下では、山梨郡に属す。

「中世」には、甲斐源氏の一族「安田義定が牧ノ荘へ進出」し、琴川

右岸の丘陵地にあたる「中牧郷」はその中核地域に位置した。


上記の地図と記述を頼りに、旧「中牧郷」を辿ることにしました。

徒歩なので晴耕雨読の日程ですが、”長期戦”を覚悟で自習したい

と思います。そのためシリーズ9月号①~10月号②は「まえおき」

として発信しました。