新甲州人が探訪する山梨の魅力再発見!

東京から移住して”新甲州人”になった元観光のプロが探訪する”山梨の魅力再発見!”
旅人目線の特選記事を抜粋して発信!

61)甲斐大和「笹子峠」を越えると本陣「駒飼宿」があった!

2014-09-01 | 山梨、魅力の里山歩き!

旧甲州街道は江戸城~甲府城への甲州表街道であった!?

旧甲州街道最大の難所”笹子峠”(1096m)を越えると

・・・、甲斐大和に、本陣「駒飼宿」があった!

今回は”甲斐大和”に残る旧甲州街道の「駒飼宿」跡を訪ねます! 

旧甲州街道「駒飼宿」図              現在も残る旧甲州街道の古民家PhotoPhoto_3

 

 

 

 

 

※2011年9月筆者撮影

★写真はクリックで拡大可

「駒飼宿」図は甲州市大和教育委員会案内図

「甲州道中」は江戸幕府により整備された五街道の一筋!

「甲州道中」は、江戸日本橋を起点に5番目に整備された街道!

しかし、単なる五街道の一筋ではなかった!

それは江戸城と甲府城を結ぶ軍用戦略道であった!?

江戸(日本橋)~内藤新宿~八王子~小仏峠~笹子峠~甲府を経て

信濃国の下諏訪宿で中仙道に合流する53里24町の街道。

38の宿場が置かれた。

注)53里24町≒210km 宿村大概帳による。経路は後記。

「笹子峠」は「甲州道中」を利用して江戸~甲府へ入る道筋で

最大の難所と云われた険しい峠であった。

一方大阪(上方)に備えた防御の要衝となった甲州道中「笹子峠越」。

実は、笹子峠は江戸城を拠点にした戦略上の重要な峠道として位置

づけられていたとも云われる。

注)東海道には天下の険と呼ばれる「箱根十国峠」と「箱根の関」

があり、青梅街道には「大菩薩越」萩原口を通る甲州裏街道として

江戸城の秘策があった!

江戸城の外郭として東京湾と北関東以外は陸路での西への備えは天然

の要塞のようであったが戊辰戦争ではその笹子峠も越されてしまった!

「甲州海道笹子峠」越で最初の宿「甲斐大和日影の駒飼宿!

笹子峠越最初の宿場「駒飼宿」に、本陣・脇本陣が置かれた。

慶長2年(秀吉死去の1年前)、家康の戦略配置と思われる

「国宝山養真寺」が創建されていた!※笹子の砦になる位置。

駒飼宿(こまかいじゅく)

駒飼宿は、馬に水と飼い葉をやり休息できる宿場であった!

駒飼宿は、険しい笹子峠越の馬を馬蹄石で休息し水場と飼葉を提供

する宿場であったことが名称の起源らしい!?

Photo_23

 

 

 

 


 

笹子峠山中から湧く流水は「笹子沢川」となって清々と流れている!

笹子峠下り笹子沢天狗橋に至ると「駒飼石」があった。

ここに「津島大明神」が祀られて、笹子沢を見守る!

笹子峠を越え、甲斐大和へ下ると守り神「津島大明神」と笹子沢川!Photo_2 Photo

 

 

 

 

 

 駒飼宿入口には何故か芭蕉句碑     駒飼宿跡は現日影上バス停が起点Photo_32

 

 

 

 

 


 

松尾芭蕉の句碑は、駒飼宿の往古のイメージを詠う!

「秣(まぐさ)負う 人を栞(しおり)の 夏野哉(なつのかな)」

注)秣(まぐさ)は牛馬の飼い葉のこと。

栞(しおり)は奥山で通った道の目印に木の枝などを折っておくと云う意味。

駒(馬)飼いの飼い葉(枯れ草の餌)を背負う人が目印となる夏の野中で

ある情景を詠っているものと想像される。

往時の駒飼宿の情景に相応しい句碑が掲げられているものと思われる。

※那須にも同句碑があると云う。

ネット検索情報の「句碑・歌碑」によると、地元の歴史研究家の小冊子に、

天和2年の江戸の大火で深川の芭蕉庵を焼け出された際に、落ち着き先の

甲州で詠んだものとしているが、地元大和村誌では「駒飼宿の話」の中で、

那須高原にもこの句碑があり・・・、

ここで芭蕉が詠んだものかどうか分からないと述べている。

家康は慶長の役には、既に甲斐国の実質支配を固めていた。

甲州海道の要衝となる位置に寺院配置も進めていたと云われる!?

脇本陣 国宝山養真寺参道甲州海道を下る駒飼宿に家康が戦略寺院を建立!?Photo_44

 

 

 

 

 


 

江戸の徳川家康が万一の時、甲州海道で甲府城へ避難する際、

防御砦となる要衝寺院として海道沿いに建立された一つと推察。 

既に、家康は甲斐統治の備えを始めていたことから・・・、

慶長2年に、国宝山が建立されているのか!?

注)慶長3年豊臣秀吉死去・・・、慶長5年関ヶ原の戦い・・・、

慶長8年征夷大将軍に任ぜられ江戸幕府開府の時代である。

脇本陣跡は、現在は敷地のみ残るが、時代の変遷跡を偲ばせる。

古絵図によると、駒飼宿脇本陣は「冨屋」と号していた。

脇本陣とは、江戸時代の宿場に設けられた本陣の予備的施設で、

大きな藩で本陣だけでは泊まり切れない場合や、他藩と鉢合わせに

なった場合などに格式の低い藩(大名)の宿として利用されるなど

本陣の予備施設として利用されたが・・・、

それ以外の時は一般旅客も宿泊利用した。

規模は本陣より小さいが、諸式は全て本陣に順じ上段の間などもあり、

本陣と同じく宿場の有力者が務めた。

※ウイキペディアによる

甲斐大和日影の「国宝山養真寺」は・・・、

慶長年間、甲斐国支配を固めていた家康が配置した戦略寺院!

浄土宗園福寺末(山梨市下石原)。本尊は阿弥陀如来。

由緒:東山梨郡誌に、「本尊は阿弥陀如来仏。境内除地2反余り。

慶長2丁酉年(1597年)4月創立。

開山は臺譽(台譽=たいよ)浄本上人。享保9年8月洪水にて流失。

同12丁末年現地に移せり」とある。

甲斐国志には・・・、

浄土宗石森園福寺末境内除地貳反14歩、本尊子安地蔵」とある。

鎮守:日月神神社(除地4畝歩)、子の聖権現小社(除地14歩)

この旧甲州海道沿いで笹子峠越に、慶長2年に建立されたのは、

江戸城を拠点にした徳川家康の甲斐国支配と甲府城の詰め城戦略による

後の旧甲州海道沿いの寺院建立の一つである。

※解説は後述 あれこれMEMO

国宝山の山号扁額                         国宝山本堂 右は庫裏4_2 5

 

 

 

  

 


 駒飼宿本陣は、参勤交代で信濃高遠藩、高島藩、飯田藩

が利用した他は、甲府藩、徳川家御用役人、甲府勤番の

利用が盛んな宿場であったようだ!

それ以外の藩は、中仙道を利用して、江戸は板橋に入った。

後述するが、江戸幕府(徳川家康)は甲州海道を戦略上の軍用道

として、あまり推奨しなかったと思われる節があるようだ。

駒飼本陣跡        明治天皇山梨御巡幸御小休所跡碑(明治13年)7            Img_7102

 

 

 

 

 

笹子峠の頂上には・・・、「明治天皇御野立所跡」の碑がある。

本陣とは

江戸時代以降の宿場で大名、旗本、幕府役人、勅使、宮家、門跡等

が使用した宿舎の名称で、一般客は利用出来なかった格式の高い宿。

本陣には、宿泊者から謝礼が支払われたが、それは対価ではなく・・・、

あくまでも謝礼であったので、十分なものとは言えなかったようだ。

そのため本陣の主人には、名字帯刀、門や玄関、上段の間を設ける等特権が

認められた。

寛永11年(1634年)三代将軍家光が上洛の際、宿泊予定の邸宅の主人

を本陣役、本陣職に任命したのが起源とされ、翌年の参勤交代の制度化と

ともに街道の要衝に配置された。


甲斐大和駒飼宿跡は、今も・・・峠の里の風情が残る!

駒飼宿中心「日影バス停付近」 駒飼宿の甲州切妻式古民家!Photo_6 Photo_7

 

 

 

 

 

甲斐大和日影には、築270年の古民家を再生した、

癒やしの「大黒屋・サンガムCAFE]がある!

東京でレストランを経営されていたご夫婦が、勝沼などのイベント

参加活動を通じて知り合った人々の縁で、甲斐大和に移住したと云う

人生の浪漫が聞ける気さくで安らぐCafeです!

詳しくは古民家「大黒屋・サンガム Cafe」お店のミカタをご覧下さい。

http://daikokuya-sangam.on.omisenomikata.jp