明治時代、甲州市塩山に「松里」と言う評判の地名があった!
「松里」を有名にしたのは、中世武田信玄以来、徳川時代に至って、
嘗て、江戸城で献上の銘品となった「枯露柿」が、明治時代に「松里
村ができて「松里の枯露柿」が銘品と云われるようになって、
ブランド化して、現在に至っていると聞いている・・・!
「松里(まつさと)の枯露柿」は移住10周年の筆者にとっても、
お気に入りで、今では知りあいの柿農家から、毎年、大きな「甲州
百目柿」を頂いて、「枯露柿製法」で乾柿を作るほどになっている。
今は”あんぽ柿”の方が食べやすなっていますが、筆者の嗜好品でも
あります。「枯露柿」のことは、もし機会があれば、閑話休題に!
首都圏に住む娘夫婦にも大好物になっているので、暮れには家内の
お土産に、必ず、催促される人気ものになっています。
「松里」は、とてもロマンを感じる響きの良い地名での一つであるが、
今は地図にも地名は見えないが、流石に、銘品「松里のころ柿」の
ブランドの中には活きているので、「松里」について拘ってみた。
2020年のブログネタは、昨年まで「安田義定ゆかりの牧ノ荘を辿る」
@シリーーズで、数点の謎解きに時間が掛かったため、昨年末には
終わりにしましたが、一点だけは謎解きが出来ないままにしました。
今号から「甲州・松里を辿る」と仮題にして、YS記自習NOTEの編纂
をします。そのYS記自習NOTEより、自己意見も書くこともあるので、
要所を抜粋して毎月号、シリーズでブログ発信したいと思います。
しかも、史実や歴史家では解けない面白い「松里の昔ばなし」を
基調に、相変わらず、昔ばなし(伝説や伝承)も尊重して・・・、
一片ずつですが、ブログ毎月号で発信したいと思っています。
「松里の昔ばなし」を辿ると、武田信玄の菩提寺「恵林寺」がある
「小屋敷」辺りが中心になったであろうと、明治時代に「松里村」
の名付けの由来になったと云う、中世以降は恵林寺の鎮守となった
と云う「松尾神社」辺りから訪ねて見ることにしました!
春の桜が彩る「松尾神社」の赤い鳥居は、貫禄がある!
「松里(まつさと)」の地名の由来:
編集者、松里公民館、井尻公民館有志49名と編集委員清雲俊元氏他14名により、
参考図書、甲斐国志、東山梨郡誌、甲斐伝説集、甲山峡水、甲州方言、甲斐方言
教本を参考図書に、塩山市教育委員会の協力で、昭和54年3月に発行した
「松里の昔ばなし」によると・・・、
明治8年2月3日、上井尻、三日市場、小屋敷、藤木の各村々が合併して、
「松里村」となった。さらに、明治23年に下柚木村が合併した。
村名は氏神の「松尾神社」からとったものである。戦後・・・、1954年
(昭和29年)3月31日塩山町(現甲州市)に合併したことでその名称は消えた。
ある意味では、「松里」と言う響きの良い地名が消えたのは残念だが・・・、
特に、旧松里村の銘品「枯露柿」生産農家の方は、「松里」産と云うブランド
に拘って、今に活かしている。
この松里村に至るまでの名称の変遷を辿って見ると・・・、
平安時代は和名抄から見ると「於曽鄕」の中に入っている。
この於曽鄕の範囲は、旧塩山町、松里、日下部、玉宮、神金、大藤、奥野田
の諸村で、笛吹川の以東で重川以北の一帯である。
その後、平安末期から、荘園の発達に伴い、この地域は「牧庄」に含まれた。
・・・と記される。
「松里」は、希少な田園地帯にあり、比較的平坦な農地が広がっている。
松尾神社の旧社地は「六所明神」と言って、現甲州市「ふれあいの森総合公園」の中にあった!
松尾神社旧社地は、「ふれあいの森総合公園」の芝生広場の中に、
石祠が建てられている。その解説版によると・・・、
「松尾神社旧社地について・・・、「この金比羅権現の社地は、
甲斐国志並びに神社の由緒書によると「延喜式内社松尾神社の
旧社地と伝える。康平7年(1064)に神社を現在地に移転し、
跡地を九社明神又は明神屋敷と言って金比羅大権現の社殿があった。
現在の石祠は明治12年に建立された。
九社明神とは、松尾神社との関わりのある社のことである。
松尾神社には、六神が合祀されていることから「六所明神」という。
別にこの金毘羅大権現、松尾の松尾大神、新宿の熊野権現を加えて
「九社明神」と言った。
往古にあって松尾神社がいかに大社であったかを物語っている。
平成18年2月 清雲俊元著 ※現高橋山放光寺前住職(現老師)。
2010年1月に初めて訪ねた時には、読めた解説版も今は読めない。
そこで、改めて解説版を本ブログでは復元しておいたものです。
この辺りは、昔、松尾神社が祭られていたところの言い伝えから
「松尾」と言う地名が名付けられたと云われる。
小字名「松尾」は消えているが、地元民には未だ活き続けている。
目の前を通る地元の人々も、何も気づかないで前を素通りされているが!
往古より松尾神社が如何に大きな境内地であったかを示す鳥居が今もJA松里の前にぽつんと立つ。
現在の松尾神社の鳥居は、朱色の鳥居。往古の大社の貫禄を今に伝える!
現在の松尾神社本殿は大社の貫禄だが、日頃は非公開のようだが、本殿の中は新しいようだ!
松尾神社は「六所明神」とも云い、祭神は大山咋命、天照皇大神、
足仲彦尊、誉田別尊、気長足姫尊、大己貴命を合祀したのもで、
旧社地は、甲州市塩山小屋敷小字上松尾に鎮座。
延喜式内の神社で、小屋敷、藤木、三日市場の氏神さんである。
甲斐国志に、二階堂出羽守入道道蘊が神社に高さ一丈六尺金仏を
寄付したとあるが、明治維新の折、拝仏思想(廃仏毀釈)のため
破壊されたと言う。
慶応四年の記録を見ると、境内神社は現存する弁天社を始め16社を
数えたと言う。
恵林寺所蔵の検地帳に、六所宮に、9年に一度の「大つくえのまつり」
と言う行事があり、往古は大祭であったようであるが、絶えてしまい
その内容も伝わらない。
・・・と記され、今は、忘れられそうな時代になったかも知れないが、
現在も松尾神社は、地元の有力者により立派に守られていた。
松尾神社境内にある石碑「褥塚(しとねづか)」には、あの日本武尊伝説が伝わる!
「松尾神社」には、日本武尊の「褥塚と褥桜」伝説がある。
現在、小屋敷地区に郷社松尾神社があり、境内に「褥塚伝説」が
伝わる。
日本武尊が時の天子のご命令で東国平定に向かわれ、雁阪を越えて
酒折に行く途中、この地で一夜お休みになられた所と云われている。
これを「褥塚」、この塚の上の桜を「褥桜」と呼んでいる。
この塚は、元神社の東方にあったが、松里中学校建設の際、運動場
拡張のため、神社の東南方に移し、現在は境内に塚石が建つのみ。
即ち、現在の境内にあるのは、褥塚の石碑であって、元は現在の
松里中学校校庭にあったようです。
流石に広大な境内を持つ大社であったことが良くわかる。
往古、松尾神社は恵林寺の鎮守であったこともあり、神社裏の土手が恵林寺の裏まで続いていた!
今は、現松尾神社境内の裏に、このように土塁が一部残されている。
この土塁は、後に恵林寺の鎮守として、恵林寺の裏まで繋がって
いたという。
今は、近代化で民家になっていて、往古の壮大な松尾神社の境内地はJA松里支所の前にある
鳥居から長い参道で繋がり、現境内の赤鳥居へ至って、ようやく本殿で参拝できたようです。
往時は、現ふれあいの森(松尾)の旧社地から、西は「熊野天神の御箸杉」、現在地の松里
中学校庭にあった「褥塚」を繋ぎ、想像できる範囲だけでも、広大な境内の松尾神社であった
ことは確かである。
特に松尾神社の勧請は景行天皇41年(紀元771年)6月13日であるので、その頃は旧社地であった
と思うが、旧来の境内地は定かではないが、大社であったことを伺える面影は今でも感じられる
ので、概要を紹介してみました。注)但し、ご自身で時代考証しながら、見て下さい。
筆者は、かつて甲州市の神社や寺院の私的な自習NOTE作成のために調査を行ったことがあるが、
一番、判明が難しかったのが、この熊野天神であった。意外に近所の方も知らないので要注意!
現小屋敷郵便局の前にある小さな赤い鳥居が「熊野天神」への参道!(鳥居にも社名はない)
現在小屋敷郵便局の前に「熊野天神」という社があり、そこに日本武尊の御箸杉伝説碑がある!
小屋敷に「日本武尊御箸杉」という大きな杉の木があった。
熊野権現の祠の左り後ろに立っていた。
この場所は「松尾神社」の西端で、往時は境内の一部であった。
昔、日本武尊が東征の際、昼食の箸をお立てになられた。
これから根が出、枝が茂って次第に成長したものであると言い伝えられている。
この日本武尊東征伝説は、山梨県内には東征の帰路ルートが伝わるが、
雁阪の方から酒折に向かったとあるのは、東征に行く前である。
自習した「日本武尊東征伝説」の帰路ルートと逆の往ルートで伝わっているのは珍しい。
伝説と云えども、往ルートなので、日本武尊の東征伝説は甲斐国内は往復とも同じ道を
通って往復したことを考察したことが裏付けになる。
但し、日本武尊が古代甲斐国を訪ねたか否かは不詳のままですが・・・、
往古のやまと王朝にとって、古代甲斐国は倭国の北端にあって要衝であったことは、
YS記自習NOTEで学習している。
同時に、筆者は日本武尊の伝説を雄略天皇に置き換えてみたこともある・・・。
そうすると、かなりの伝説は解けてくるも、証しがないものはやむを得ず推論・考察で
解かざるをえないこともあるので、考察を含めて学んだことをYS記自習NOTEでまとめ、
要点抜粋をシリーズ発信した「古代甲斐国の歴史ロマンは大蔵経寺山山麓に眠る」
で取り上げていますので、機会があればご覧下さい。本ブログでは、ご容赦を・・・!
今はリニア実験線の展望地になっている「武居の一本杉」にある東征帰路の日本武尊
伝説と似ているが・・・、往路伝説だが「松尾神社」の御箸杉伝説も、日本武尊が一休
み後、杉箸を指して、その箸が大杉になったと云う同じような伝説があるので、
とても身近になったが、日本武尊伝説もまた一つ甲斐国内での往復ルートが繋がる。
何故、枯露柿は松里が有名なのか、松里の枯露柿が何故銘品なのか!?
嘗て「夢想国師の乾徳山岩窟禅修行の伝説」を学習したことがある。
~夢想国師が乾徳山修行で”命の糧にした乾柿は”アマンドウ”だった!?
”アマンドウ”と言う小柿とはいったいどんな柿なのか、徹底的に調べて
見ると、何と「アマンドウ」は、山梨県内のみの呼び名であったため、
「アマンドウ」のことは知っている人がいても、標準語は「豆柿」で、
甲斐国志に「信州の小柿は乾して食す」記されているのに、山梨県人
では「アマンドウ」と同じとは、気ずく人が殆ど居なかったようだ。
また気づいていても話せる人が居なかったのではないかと思われる。
その結果、解ったことは、松里地域の殆どの柿農家で「枯露柿」を
栽培するのに、今も「甲州百匁柿」なる柿の木の台木が殆ど、自生
原種「アマンドウ」であったのが、「甲州百目柿」の美味(滋味)
の要素となっていることがわかった。
大きく形の良い渋柿「甲州百目柿」を乾したら益々美味になる優柿!
武田信玄の時代には、多くの記録が残っているが、一番、柿作りと
乾し柿を奨励したのは武田信玄のようです・・・。
往時は岐阜から移入した”蜂谷柿”が主流と記されている・・・、
実はそれ以前から「徳和山吉祥寺略記」に伝わる「夢想国師と毘沙
門天」に伝わる恵林寺を開山の夢想国師が若い頃、乾徳山で岩窟修行
をした際、修行中に出会って初の弟子にした道満が運んだ乾柿伝説が
あったので、その乾柿伝説とルーツを辿ってみると・・・、
筆者は、何と「松里の銘品枯露柿」の滋味は、恵林寺を開山した
夢想国師の導きであったことに辿り着いています!
そのことは、偉い学者の先生が文献に書き残していないために、
筆者の創作と嘲笑される方もいるだろうが、頷ける乾柿伝説でもある!
柿の台木は自分で接いだ人しか品種は分からないが、アマンドウの
台木に接いで甲州百目柿を育てて作った「枯露柿」は流石に美味しい。
筆者が、具に松里の主な柿農家を取材で訪ねて見て、間違いなく
「アマンドウを台木にして甲州百目柿」を栽培、枯露柿生産に取り
組んでいる農家が殆どであったこともその証しになっています。
そのYS記自習NOTEの詳細は、本ブログに文字制限があるために
省略するが・・・、その伝説を辿って深く読みすると「夢想国師が
乾徳山岩窟禅修行で、命の糧にした乾柿は、何と、アマンドウの
乾柿だった!?」ことに、辿り着いたのです。
「~枯露柿伝説検証行脚のあらまし~」は、こんな物語である。
~夢想国師が乾徳山で岩窟修行した時、命の糧とした乾柿はアマン
ドウだった!?~
~この乾柿は、往時里山にあった自生のアマンドウの乾柿で・・・、
甲斐国志に「信州坂城の小柿は皮共に乾して食す」と記されたもの。
~「アマンドウ(信州では小柿)は、標準語では「豆柿」と呼ぶ。
特にビタミンC,Aが豊富で、血管の透過性を高め動脈硬化の予防に
有効で、小さいが現代で云うサプリメント効果が高いものだった。
~後に、恵林寺を開基するため、自らの屋敷を提供した二階堂道蘊
が、高僧夢想国師を開山に迎えるため、夢想国師が若い頃に乾徳山
岩窟修行した偉業を聞いていて、恵林寺開山のため夢想国師を招く
に当たり、一層滋味豊かな乾柿でもてなそうと領民により高品質の
乾柿作りを奨励したのが始まりと考察されることが解っている!?
当初は領民の食菓子対策として、次に保存食としても奨励している。
往時の領主の思想は、武田信玄にも継承されて、特に戦場に行く
兵隊の携行食に用いられたことは、甲斐の古文献等で周知のこと。
従って、夢想国師の恵林寺開山の縁で二階堂道蘊が領主の時代より、
柿樹や乾柿製法の改良が始まり、後に武田信玄に継承されて、本格
的に奨励が進み、美濃の蜂谷柿の移入や甲州丸の改良で、江戸時代
には「甲州百目柿」と言う優れた品種が出来たことに繋がってる。
今も甲州百目柿を接ぐ台木には恵林寺を開山した夢想国師が乾徳山
の岩窟修行で命の糧にしたアマンドウが最も適しているとされ、
今も「アマンドウ」が、殆どの「松里の甲州百目柿」の台木となって、
相承されている!
故に「松里の銘品枯露柿の滋味のルーツは、夢想国師の導きだった!」
と云う話になったと言うNOTEでした。
以上、シリーズ初刊号ですが、松里よもやま話として伝えておきます。
広い「松里」なので、追って”探訪スケジュール”を発信する予定です!