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山梨・牧丘に何故「足利尊氏と二階堂道蘊の宝篋印塔」が並ぶの!?16-12

2016-12-04 | 山梨、往古の歴史と伝説!

 往古、源平合戦で天下の副将軍であった安田義定は甲斐牧ノ荘の領主!

牧ノ荘の領主を後継した二階堂道蘊は、夢窓国師に帰依して恵林寺を開基!

名僧夢窓国師は幼少の頃甲斐国で育ち、牧丘に初めて旧蹟浄古寺を開いた!

往古の山梨市牧丘は、あの夢窓国師のゆかり深い地であったようだ!

山梨市牧丘に「中牧城(浄古寺城)跡」がある!眼下に広がる風景は壮大・・・!


 今号ブログは、あの安田義定の時代(平安末期~鎌倉初期)に開かれた

「牧ノ荘」の要衝であった「現在の牧丘」で気になる『足利尊氏と二階堂道蘊が

並ぶ供養塔二基』のことを少しだけ紹介してみます!

牧丘がとても魅力的な山里であることは2013年7月旧バージョンのバックナンバー『47)にほん

の里100選「牧丘」乙女高原にレンゲツツジが彩る初夏』で紹介した。注)新ブログ引越のため削減画面容赦。

牧丘は杣口(そまぐち)筋を主に紹介したブログは、如何に牧丘が山岳信仰と大自然の奥深い処

であるかを紹介していますが、あの安田義定が領主であった牧ノ荘は戦略的要衝でもあったようだ。

牧丘には、源平合戦で源義経の副将軍として名を馳せた安田義定の詰城跡や開基寺院もある。

あの名僧「夢窓国師」が嘉元3年(1305年)に寺院として初めて開いた浄古寺もあったりして・・・、

足を留めてしまい、時間をかけることにしました。れから随分時間が経ちましたが・・・、ご容赦!

また、安田義定の詰城であったと言われる小田野城跡へ登ることが、なかなか実現できず・・・、

現在まで宿題を残したまなになっています。

現在課題に取り組んでいる「物部神社と大蔵経寺山々麓から辿る古代甲斐国・・・!?」の自習

NOTE編纂を何とか収拾して、安田義定開基と伝わる普門寺境内のルートから登りたいものです。


牧丘の宿題「足利尊氏と二階堂道蘊の宝篋印塔(供養塔)が並んでいる」訳?

牧丘の城古寺と云う処に「足利尊氏と二階堂道蘊の宝篋印塔(供養塔)」が並んでいる。

筆者は、山梨市教育委員会の現地解説版があるのだが、「足利尊氏と二階堂道蘊の供養塔」が

何故、並んで存在しているのか?」という疑問が生じたために、山梨市にも問い合わせしたが、

もし分かったら教えてもらえるようにお願いをしたものの、そのまま回答は得られておりません。

その間に、どなたか詳しくその理由(または文化財調査資料)をご存知の方がおられましたら、

教えを乞いたく・・・、今号のブログへ発信したものです。 よろしくお願いします。

注)お正月明には、夢窓国師ゆかり深い常牧山浄居寺へ伺う予定です。

もし、寺伝などを教えて頂ければ、続編として2月号でお知らせいたします。


今号では筆者の自習中である推論を以て紹介してみます。ご寛容に・・・!


足利尊氏と二階堂道蘊の宝篋印塔は、ひっそりと葡萄畑の中に並ぶ!

足利尊氏と二階堂道蘊の宝篋印塔(供養塔)注)不詳だが左が足利尊氏の供養塔!?


この宝篋印塔の側に山梨市教育委員会の解説版・・・。

山梨市指定有形文化財」城古寺宝篋印塔(じょうこじほうきょういんとう)

管理者:城古寺区 所在地:山梨市牧丘町城古寺319番地 

昭和51年3月30日指定

「この場所の字名(城古寺字石塔)の由来となった二基の宝篋印塔で、

足利尊氏、二階堂道蘊の供養塔と伝えられています。

東塔は相輪の一部と塔身を欠くものの、室町期以前にさかのぼる市内屈指

の大型で均整のとれた宝篋印塔です。

笠は軒上四段、軒下三段で、隅飾突起は輪郭をもち、二孤で描かれ、わずか

に外反しています。基礎は上部三段とし、各面に格狭間が彫られています。

西塔は塔身を欠き、笠は軒上四段、軒下二段で、隅飾突起は輪郭をもち二孤

で描かれ、外反しています。基礎は石質が異なり、上部の段は大きく下部は

極端に短くなっています。笠の軒を反らせ軒下に隅木を入れている点は特異

です。」山梨市教育委員会・・・と、以上の解説があります。


「何故、足利尊氏と二階堂道蘊の宝篋印塔が並んであるのか?」

筆者の宿題となったのは、単純な疑問と興味ですが・・・!

①足利尊氏は鎌倉倒幕で室町幕府を開いた人。宝篋印塔は中央の大きいのが足利尊氏!?

②二階堂道蘊は鎌倉幕府の政所執事を務め、安田義定の領地「牧荘・高橋荘」を後継した

  と云われる人物。二階堂道蘊(出羽守貞藤)は1330年(元徳2年)に鎌倉に居た名僧

 夢窓国師を招いて乾徳山恵林寺を開基した人。注)この時、道蘊は幕府引付頭であった。

●この二人は、鎌倉倒幕で敵味方になった二人ではないのか・・・?並ぶ理由が知りたい!

●牧丘の人々が、何故、鎌倉・室町幕府の立場の異なる二人を並べて供養するのか・・・?

注)牧丘町誌、第2章古代と中世 三、夢窓国師と二階堂氏の項の末尾に次のような記述。

  ・・・尚現在、曹洞宗大泉寺末となっている窪平の浄古寺仏殿に、夢窓国師の宝塔と

  浄居国清寺殿仁山妙義大禅定門と法号を記す足利尊氏の牌子が祀られており、また

  往古の浄古寺旧蹟には足利尊氏並びに二階堂信濃守道蘊と伝えられる石塔がある。

      しかしながら、足利尊氏の法名は「等持院仁山妙義大禅定門」であって「国清寺殿」

  の文献は見当たらない。この点については、既に「甲斐国志」でも「尊氏は京都にて

  等持院、鎌倉にては長寿寺院と号す。豆州名古屋に天長山浄居国清福寿万年禅寺と云う

  寺あり、畠山国清の寺なり。関東五山の下、十刹の上と云う格式なり。「尊氏将軍を

  国清寺とは云うべからず」と指摘している。国志の云う畠山国清(号道誓)とは、

  足利氏の一門で南北朝前期の正平8年(文和2年、1353年)から同16年(康安

  元年、1361年)まで関東執事を務めた武将である。

  いずれ浄古寺の牌子は、後世足利尊氏との混同があったものと思われるが・・・。

  注)常牧山浄居寺では「牌子の法号は当寺で手向けられたものとしていると聞く。

  以下、推論も記されるが、何れにしても牧丘浄古寺址に夢窓国師ゆかりの往時の

      牧荘領主二階堂道蘊の宝篋印塔があるのは納得するも、足利尊氏の宝篋印塔は、

      筆者の推論で記すように夢窓国師に足利尊氏が帰依した縁からか、 理由不詳だが。

  往時の牧丘では(後の教育委員会)では、足利尊氏と二階堂道蘊を選んで宝篋印塔

  が建立されたとするしか、現在のところは・・・考えるしかなさそうである!?

)二階堂道蘊と足利尊氏の縁・・・!?さらに牧丘町誌より推論のネタを探す・・・。

  元弘元年(1331年)元弘の変では、道蘊は公式の和議のために奔走したり、

  北条高時に対し、(後醍醐)天皇と戦うことの不臣を諫めたが受け入れられず、

  結局、戦になり、幕府方だった足利尊氏、新田義貞らが官方側に従ったため、

  鎌倉幕府は敗退、ここに鎌倉幕府は滅亡する。

  この時、道蘊は政所執事に任用されていた。

  道蘊は一時、幕府の元凶として捕らわれの身になるが、その賢才と正中の変の際に、

  後醍醐天皇の身を守ったことで、罪を赦され、建武元年(1334年)には、

  建武親政下において、北陸道を管することになったが、しかし、いきなり道蘊に

  陰謀の科がかぶせられ、京にて一族は誅殺され道蘊68才であった・・・とあるが

  どうやら、足利尊氏と二階堂道蘊が牧丘で2人揃って供養される由縁はなさそう

  なので、やはりあの夢窓国師が取り持つ縁で、牧丘・浄古寺ゆかりの方が夢窓国師

  に帰依した二人を供養したのではないかと推論することにしたものです。


牧丘には、中牧に字名で「城古寺」と云う地域がある。

その要衝に、そこに信玄・家康が築いた「中牧城」があった。

地元の伝承では、往古は牧荘領主の安田義定の居館があったと云う。

その後、鎌倉時代には、領主を継承した二階堂道蘊も中牧を要衝と

したと云う。

その城古寺には、あの夢窓国師が初めて開山した「浄古寺」があった。


山梨市オフィシャルサイト~市指定有形文化財「木造釈迦如来坐像」の項に・・・

「浄古寺は、嘉元3年(1305年)夢窓国師が寺院として開いた初めてのものです。

当初は、現在地より北方の城古寺地区にありましたが、天正年間(1573~1592年)

に内藤氏による浄古寺城築城のために当地(山梨市牧丘町窪平154)に遷り、元和年間

(1615~1624年)に陽山宗広が再興して曹洞宗から臨済宗に改宗しました」とある。

実は、城古寺には、あの夢窓国師が開いた浄古寺の旧蹟があったのです。

往時、安田義定の後、牧荘を領地とした二階堂道蘊は、元徳2年(1330年)、夢窓国師

を招いて乾徳山恵林寺の開基しているし、南北朝時代、足利尊氏・直義らは北朝を擁立して

室町幕府を開き、夢窓国師に帰依して天竜寺船など献策の恩恵も受けている云われるので、

二人は牧丘浄居寺にゆかりがあった夢窓国師との繋がりで宝篋印塔が建立されたものとする

推論にたどり着いた。

注)従って、筆者はかつて「夢窓国師の乾徳山岩窟禅修行と乾柿伝説」とその由縁を調べた

ことがあるので、夢窓国師ゆかりの地域の人々が、往時の二階堂道蘊と足利尊氏を選んで、

供養塔を建立したものと推論するものです。注)浄居寺では二人を開基としていると伺う。

この宝篋印塔は、いつの時代に建立されたものかは不詳だが、往古、旧蹟常牧山浄居寺が

あった頃、開基二人の供養のため、往時の境内地(南端)に建立されたのではないかと推定。

また、少なくとも徳川家康が中牧城を築城した後か、江戸時代になって浄古寺旧蹟が現在の

浄古寺(窪平)の場所に遷された後、夢窓国師の旧蹟のゆかりを偲んで、江戸時代になって

地元にて、供養塔(宝篋印塔)二基が建立されたものではないかと推論することにした。

注)恵林寺開基二階堂道蘊は、今恵林寺開山堂には、木像の姿すら見当たらない・・・!?

注)現在でも、この供養塔は、夢窓国師開山と云われる牧丘の浄居寺が供養している!?


城古寺に伝わる「中牧城跡」別名浄古寺城は今も古城跡の風情が残る!

今は、八幡神社が古城跡に静かに佇んでいる!

中牧・八幡神社 祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)と応神天皇である。

 

中牧城二の丸跡に、諏訪神社(現在は隼)があったと云う。

戦国時代武田信玄の頃、天文17年(1548年)、徳川家康の頃、天正17年

(1589年)の築城の時も、城内鎮座社として祀る。牧丘町教育委員会

・・・と古い掲示板が掲げてある。

注)この境内に、宝篋印塔二基 この南300m先の台地にありと標識。


 秩父裏街道(武田信玄の時代甲斐と武蔵を結ぶ軍用道)の要衝中牧城跡

中牧城跡:主郭付近と天守台跡碑 往古養蚕の里であったので蚕影山の碑も建つ。

浄古寺城 別名:中牧城、城古寺城、東郡城とも云う。※国指定文化財

浄古寺城は、WEB城郭図鑑によると、平安末期~鎌倉初期 安田義定の舘が

置かれた地であるとも記され、弘安年間(1278~1288年)には、二階堂

道蘊が浄古寺城を修築したとも云う。※筆者も伝説ロマンを賛同するので記載。

戦国時代、天文17年(1548年)武田信玄の時、甲府躑躅ケ崎舘から要害城

を経て、俗称秩父裏街道を経て、秩父往還に繋がる甲斐国と武蔵を繋ぐ軍用道と

して甲斐国にとって要衝の城であった。在地豪族の大村氏に修築させたもので、

大村加賀守・伊賀守が城主となるが、武田氏滅亡後、一時、無主状態になって、

天正壬生の乱が起こり、徳川家康は相模北条氏と対峙したが、北条氏は郡内を征し、

秩父往還沿いの浄古寺城を本拠とする大村党が北条方に帰属する事態が生じたため

天正17年(1589年)徳川家康は、家臣の内藤三左衛門が城代として築城大修

復を命じている。それほど戦略的に重視された城であった。※現地解説版と諸資料参照。

遺構は、郭跡、土塁、空堀が見られたが、現在は農地(葡萄畑)になっている。

武田信玄の時代、甲斐国から武蔵国へ通じる秩父往還沿いに置かれた要衝であった。

甲府躑躅ケ崎舘の詰城として要害山城が置かれたが、その要害山城から秩父裏街道

と呼ぶ間道を開き、秩父往還(雁坂道)を結んで武蔵へ通じる軍用道の要衝とした。

牧丘の「中牧城」は甲斐の要衝にあったので徳川家康も重視していたことがわかる。

現在見られる天守台跡などの形跡は、徳川氏になっての築城跡ではないかと云われる。


浄古寺城天守台跡から望む塩山と御坂山塊 北西には倉科の長閑な里が広がる

城の規模は、東西約330m、南北約430mで本丸と天主台跡、二の丸、三の丸、

大手門、搦手門跡、城内鎮守八幡社周囲の塹壕も一部分は昔を偲ぶことはできる。

付近には城にまつわる地名で屋敷、堀之内、替地、請地、田屋(胎屋)掘端などある。

平成16年12月牧丘町教育委員会 現地解説版より。


快晴なら、牧丘から見る富士山は、荘厳に御坂山塊の向こうに聳える!