新甲州人が探訪する山梨の魅力再発見!

東京から移住して”新甲州人”になった元観光のプロが探訪する”山梨の魅力再発見!”
旅人目線の特選記事を抜粋して発信!

山梨市を辿る⑥山梨市正徳寺を歩く!23-02

2023-02-01 | 山梨、里山の美しい四季!

山梨市正徳寺は、・・・?!

少し古くなったが、2012年の山梨日日新聞に

「養鰻場に温泉が出た!」と掲載され、大人気に

なっことを思い出す。その”正徳寺温泉”初花”は

現存する「温泉で育った鰻」は食欲をそそった!

筆者も妻と一度、試食したことがある。

現在、首都圏からの客で行列ができるお店「山下

フルーツ農園」の獲り立ての桃を食べられるお店

は、現代にマッチ(SNSをフルに利用)している。

頭が冴えている、新しい人が多い街だと思う!

今号は山梨市「正徳寺村」の良い処を紹介します。


正徳寺温泉「初花」、最近の観光資源!地元で人気の日帰り温泉!


「養鰻場に温泉が出た!」、「難しい、えずけ作業、出荷までに、

半年から1年!」地元もマスコミも、ヒト騒ぎあったことを思い出す!

地元もマスコミもヒト騒ぎあって、地元で、鰻の美味しい”初花”と

して有名な山梨市の観光施設になったことは、確かである!?

筆者も家内と試食に行った。美味しい鰻であったことは異存ないが、

表のサービスの体制が出来ていないで、幻滅したことを思い出す!

パートさん(だけで・・・)体制を組み立てるのは難しいのか!?

当時の新聞抜粋を見ると、「和風”樽風呂”に人気」直径約1間

(1.8m)の木製(一度に4~5人は入浴できる)、他に、

大野天風呂、うち風呂、寝湯、サウナ、超音波風呂などを完備。

一日ごとに、男湯、女湯の入れ替えなど、日帰り温泉ブームとは云

え、造ればお客が来ると云うわけにはいかない。

家内のように大浴場が好きでない女性もいることを忘れてはならない。

昔、ある温泉地に、アメリカ人夫婦を招待し、喜ぶと思って大浴場に

案内したら、激怒されたことを思い出した。その訳と同じであった。


泉質は,低張牲アルカリ泉で、源泉は40.2℃程度。神経痛、

関節痛、疲労回復などに効用がある。※山梨県内の温泉の泉質は

殆ど同じだが、やはり料理、施設、サービスが三拍子そろわないと、

長いブームを続けるのは難しいようだ!?


武田家累代党首の中で、信玄が崇めた高祖は信成と信縄公であった!

「長興院殿」は、何と武田信玄の高祖、武田信縄公の戒名であった!

そのお墓(五輪塔)が現山梨市正徳寺の「聖徳寺」にあったのだ!

実は、数年前、ある方に資料を見せられて、あの「乾徳山恵林寺の

寺伝「恵林寺50年史」を自習した時に、知ったことでるが、殆ど

山梨県人が、今も尊敬する武田信玄の菩提寺乾徳山恵林寺に菩提

寺を定めた時、招聘した快川国師に直願した恵林寺の塔頭「長興院」

「継統院」の2棟であった。「長興院」は・・・、あの武田信玄が

選んだ”武田家累代の高祖として、累代の中で武田信縄と武田信成

公の二人のみ選んで高祖と崇めたのかと考察したが、素人的には

生涯において、たった一度すら、戦に負けたことがない二人だと云

ことが分かったが、その二人の高祖を選んで、快川国師に嘆願し

てまで、塔頭を建てたのかと筆者は考察したが、「ここで記して

おきたいが武田信成公は、確かに、信玄が選んだ二人の高祖のうち

の一人だとして、信縄公は?と考えるも、武田家終焉の将として

位置づけされる武田勝頼公の代になって、「高祖二人の中に、

長興院殿がいて、尊父の信虎公が崇められていないのはおかしい」

と云い「長興院殿を聖徳寺に戻した」という話を思い出す。

「信玄が追い出した信虎ではないか?!」思うこともあるが・・・。


※確かに、その時の歴史の記録を学ぶだけでは分からないことが

多い!筆者も、後でわかってきたことであるが、現在の恵林寺の

境内に勝頼時代に、長興院が戻されたことが記された石碑が残され

いた。


日本地名大辞典~山梨市編では・・・、

笛吹川中流右岸に位置し、北は上万力村、西は落合村。村内を南北に

青梅往還が通る。天正10年(1582)9月2日の徳川家印判状

写(【巨摩郡古文書】若尾資料)に「甲州万力内常徳寺分十八貫文」

とみえ、土橋左衛門尉は、当地を含め計25實文を本領である事を

含め駿河国厚原(現静岡県富士市)の替地として宛がわれている。

・・・・・、「甲斐国志」によると、もとは、落合・山根・正徳寺

の三村で1村を構成し、慶長6年(1601)以降分村したと云う。

慶長古高帳では、落合村の高一千二五一石余りのうちで幕府領。

元禄卿帳では、落合村枝郷とあり、甲府家領。・・・・・・、

文化(1804~18)初年、家数98.人数348、※甲斐国志

現在山梨市正徳寺では、・・・

用水は笛吹川の立川堰(差出堰ともいう)を当村他、17ケ村で

利用(※甲斐国志、地誌稿)。、他に、当村で水を引き入れ、当村、

桑戸、小松(現春日居町)の三ケ村で利用した三箇村堰があった。

(※甲斐国志)、若宮社、臨済宗聖徳寺(現臨済宗向嶽寺派)があり

、・・・、明治8年(1875)上岩下、山根、矢坪、落合の四ケ村

が合併、平等(ひらしな)村となる。

など、各自治体により変遷があるが、高齢化社会によって、大都会と

違い生い立ち村の歴史を尊重する人が多く、変遷に基調を守っている。

それでいて、新しい息吹を感じられる。山梨市の今を感じる・・・!


 

 

 


甲州市塩山「下萩原」を辿る⑦下萩原の往古は大自然の中・・・!22-02

2022-02-01 | 山梨、里山の美しい四季!

山梨県甲州市塩山「下萩原」は、大自然に恵まれ、

”人が住みたい立地環境”にある。

2月・今号は、甲州市の東山山麓の扇状地に形成される

下萩原」の昔と今の様子を紹介します。

2021年8月号で紹介しているが、この時は、塩山の中心地

のつもりであったので、少しだけ視点を変えて辿ってみる。

東山の源治郎岳と恩若峰の山麓の扇状地に形成される

集落が「下萩原」であったこと。同時に、往古、豪族三枝氏が

平城(館=現在も字名だが、「御殿」と云う地名が残る)こと。

後柏原天皇と「柏原堰」の伝説と柏原神社。

微笑仏の木食百道の出身地であることなどを紹介している。

もし、興味があれば、本部ブログのバックナンバー2021年

8月号をご覧下さい。


「下萩原」の各住居の窓からは、現塩山市街地を一望できる!

「下萩原」の各住宅から望める素晴らしい遠望・・・!

右端の山は、塩山のシンボル”塩の山”、雲に霞む背景の山並みは石和の

大蔵経寺山~要害山(甲府武田館の守護山城)への山脈。その左奥に

聳えるのが、南アルプスの鳳凰三山と白根三山と櫛形山などが晴れた日

は、何時も望めるので、筆者のお気に入りです。


「下萩原村」、甲州市塩山下萩原は赤尾から重川を隔て

東にある。北は塩山中萩原、南は塩山牛奥。

東の大窪山(山梨市牧丘)から西は南流する重川との間

展開する村である。往古から「しもはぎわら」と呼んだ。

   ~大日本地名辞典、塩山市下萩原の項238P~


用水は「小田原橋近くの下小田原村地内で重川水を引き

入れた「柏原堰」によったと言う。

※もちろん、今は甲州市の上下水道が引かれている。

しかし、下萩原村は流末にあったため、中萩原農民の

畑田成や上萩原村の不法を訴えた訴訟が屡々起こり、

結果は、元の形へのし直しとなっている。

歴史的に、農村は至る所で”用水問題が起こっている”


臨済宗向嶽寺派 法谷山東林寺は、今も本尊を継ぐ・・・!

21年8月号で紹介している法谷山東林寺は、本堂の写真を省略します。

特に、庫裏は若い住職夫婦の今流の現代建築(一般住宅)にて・・・


甲斐国志 巻之75 仏寺部第3によると・・・、

法谷山東林寺は、下萩原村 臨済宗塩山向嶽寺の末、黒印で庶民的!

寺内320坪 除地3段6畝、本尊 十一面観音(行基作と云う)、享禄3年3月

再興、開山天林義壽(永正6年10月28日寂ス)・・・甲斐国志に記される名門。


桂山長昌院・・・廃寺。※推定明治時代だが、大火にあった恵林寺の再建

のため、広大な寺地は売却されたと推定される。

甲斐国志記:臨済宗小屋敷村恵林寺の末、2町4段6畝12歩、本尊は

十一面観音・・・、と記される広大な敷地のお寺は本山の再建で売却か?


下萩原には、「童夢」という特異なサクランボ作りで成功

している葡萄園がある。

童夢のサクランボは熱い!※以下の写真は12年6月5日頃撮影。

「童夢」の経営者「菊嶋氏」に取材。移住後、ブログを始めた往時撮影。

とても感心したのは、訪れる客層のことを考え、身障者が車椅子でも

サクランボ狩りができるように、サクランボの木樹をY字に作る等の工夫

を手間をかけてされていることを情熱的に語られたのをよく覚えています。

とても情熱をもっておられた経営者には、暫くお目にかかっていないが、

お元気のこととは思います・・・した「下萩原」は

「塩山で有名な”雨敬橋”をわたると・・・」

2021年6月号にて紹介した「塩山下萩原」は・・・、

”サクランボの郷”として有名になりつつあると紹介した。

今号は、坂の上には冨士講の有志によって祀られた

「浅間塚公園」の浅間大神と山神大神の石祠が建つ。

その下段の道沿いには「馬頭観音」が祀られている。

里人が、農作業の合間に、ベンチで景色を眺めながら

休めるようにしてある。流石に景色を売り物にする郷だ!

但し、日本国中の課題だが、日本の風景は、電線と電柱

が風景を損ねているので、”もったいない”ことだ。

インフラ整備の費用と技術の手前、やむを得ないのか?

欧州と風景の差(違い)は、この辺りにありそうです。

今、盛んに新幹線の風景から、電柱と電線をなくしようと

しているも、なかなか上手くいかないようです。「下萩原」

この景色と坂と電線を何とか工夫できれば、人口の

増加政策の一策になるのではないかと思われる。


山梨県の人口密度はこの上なく少い。それは扇状地の勾配による坂の

上り下りの多さだと云う。所謂、住みたいところの立地条件に外れている。

そして扇状地の土壌の問題か果物栽培農家が多いことで、一般産業が、

えないと言う人すらいるくらいだ


「下萩原」は、江戸時代、享保9年(1724)の世帯数は70軒・人口243人。

平成28年の国勢調査では、世帯数174軒、人口492人と増加している。


※)これは、現在の甲州市塩山の雨敬橋を渡って、左折して坂を上ると、

甲斐国の東端から、南アルプスの山並みを背景にして、甲府盆地を一望

できる立地条件にあるからだと、筆者は考察している。

筆者も一軒家ならばと調べたことがあるが、急坂が多いのと西陽が入るの

が嫌いな人を除くと、人が住みたい郷の立地条件として、中心地(商店街)

や市役所通りから直線で、車で数分の近距離にあり、更にJR塩山駅に近く、

見晴らしは良く、人々が憧れる立地条件にあると考察できる。

2021年8月号の「下萩原」の今はサクランボと桃栽培で盛ん!と紹介した。

俗に言う”東山”の恩若峯”と源氏ケ岳を背景にして展開されている集落群。

何故に”東山”と云うか!?ここでは省略するが、大菩薩連嶺を併せて一帯

を”萩原山”と云う人々の気持ちや考え方は様々である。

地元民の伝承によると、地名「萩原」の由来となっているように、西暦748年

奈良時代の行基が甲斐国を行脚した時(※筆者の調べでは甲斐国入りの

足跡は見当たらない)雲が立ちこめ、激しい光と共に、十一面観観音菩薩

が現れ、15Mほどの大岩がオノで割ったように裂けて、その間から萩の木

が生じ、行基は萩の木を伐採して、3体の十一面観音菩薩像を彫って、

一体は上萩原の「雲峰寺」に、他の2体は、根古橋の観音堂、長昌院(廃寺)

へ安置したと伝わり、このため一帯を「萩原郷」と呼び、安置された地域が

「上萩原、中萩原、下萩原」の地名の起源になっていると云われるので、

ここでも甲州市塩山下萩原を語るには、甲州市塩山の中でも、特に広域な

「萩原郷」少しだけでも、触れておきたい。


大日本地名辞典によると・・・、

「萩原郷」とは、現上萩原、中萩原、下萩原に比定されている。地名は

「はぎわら」と呼ばれる。

至徳4年(1387)成立の「塩山抜対和尚語録」に「甲州路萩原」の法音

禅尼の名がみえ、同尼の七周忌が修されている。

文安2年(1445)11月15日の武田信重寺領目録写には、萩原郷のうち

小山年貢二貫文とあり、板垣殿寄進と記される。

天文8年(1539)2月20日武田信虎の将両角虎城が灯明銭として向嶽寺

に再寄進され、永禄12年(1569)11月19日には武田信玄により同寺領

を安堵している。※「武田信玄判物写」同文書。

武田氏滅亡後の天正10年(1582)12月6日、萩原のうち500文などが

本給として、徳川氏から萩原市之尉に安堵された。※「徳川家印判状写」武藤文書。

※この萩原家以外にも、首都圏からすれば随分大きな家に居住する方

が多い。そんな中で、地域の住民はこれらの守護神を大事にする性か、

首都圏では、隙間もないくらいの家が犇めいているが、こちらでは、多くの

空き地もある。「道祖神」と呼ぶらしいが、果たしてどちらが倖せなのか!?

高齢者が多く、頑固が多くて、今の山梨県はなかなか成長しないのか!?

あるいは、農地等開墾で所有している高齢者が守っているからか?

よそ者には良く解らない問題のようです。もし何方か、興味があれば、

研究して、もし機会あらば、ご教授頂ければ幸いです。


「下萩原」の往古は、畑で木綿、煙草を栽培し、男は、入会山における薪、

秣(まぐさ)、刈敷(カリシキ=山梨ではカッチキと言い草木を地中に埋めて

堆肥にしたもの)などの採集。女は木綿織と蚕糸を営んだようです。

特に萩原煙草は有名で良く売れたと言う。

首都圏では、概ね知れ渡っていたようです。


拙いブログ「・・・山梨の魅力再発見・・・」も、伝えて行く内に

「若い頃、山が好きで、山梨へ日帰り、山小屋泊まりで屡々来て

良く知っていること。また、風景が気に入っていたことなどが、

大きな理由になると思うが、移住13年目になる今になって、未だ

自らのハンドネイムを”新甲州人”としています。

元々の首都圏(東京)人の老夫婦は「郷に入れば郷に従え」と”甲州人”

になろうと務めたが、いろんな意味で”新甲州人”で良いと思い始めて

いる。次号は、往古から栄えた「中萩原」を尋ねたいと思っています。

「最近は・・・、つれずれなるまま」の日記風になってきましたが、

懲りずに・・・、宜しくネ!


 


甲州・塩山・千野を辿る③往古、千野郷の高台は、現東京の成城学園の台地(地形)と似ていた!?21-09

2021-09-01 | 山梨、里山の美しい四季!

塩山・千野・・・、懐かしく、シックな古道と町並み・・・!

今号は、移住して以来、学習した自習NOTEにより、

「美しい千野」の"今"を紹介します!

この学習NOTEは山梨県図書館、塩山市史、千野郷

研究家が残された文献等、多くの方々のえと、

協力を得てNOTEしたものを一部抜粋して紹介します。


「千野」は、”高台地に映える美しい風景”・・・!

息吹く「スモモ」の花の向こう高台に、自然豊かな千野の里!

「千野」は、東京で云えば成城学園のような地形にある閑静な住宅地。


「千野」には”台地にある長閑な住宅風景”がある・・・!

写真西(右)に塩ノ山、東(左)に東山連峰、南に勝沼ぶどうの丘、南に

御坂山塊、その向こうに富士山を臨む!


「千野」・・・、青梅街道や陣屋街道が通った!

「千野村」は「千野千石」とも称して、江戸時代は地域最大の村であった。

中世、甲斐守護第11代武田信成~第12代武田信春が千野に館を遷した。

信虎・信玄時代に「甲斐九筋」として整備され、甲府(酒折)を起点に荻原

として軍事用の関所が置かれ、江戸時代、江戸城を起点して甲州裏

街道として「青梅街道」が整備されたことは周知の通りです。

「陣屋街道」は、筆者の考察によると「千野館」が構えられた時代より・・・、

武田家中興のため、「三日市場」より「千野館」を結ぶ兵糧と財政を賄う

軍用路であったのではないかと考察しています。

注)甲斐国志、塩山市史には、武田・江戸時代「十組屋敷」のあった三日市場を起点に、千野、玉宮

方面へ通じる道を「陣屋街道」と呼んでいたとされるが・・・、甲斐源氏研究家の平山優氏も「千野館」

との関係を述べているが、筆者も同感の至りです。


 「千野村」は、上於曽の北にあり、塩ノ山の北、恵林寺の南東に当たる。

重川の右岸に沿う。青梅往還が上於曽から当村の東部を北進して、

重川に架かる千野橋を渡ると対岸は、上粟生野(かみあおの)村・・・。

地名は”茅野に因む”と云う(甲斐国志)。注)大日本地名辞典による。

江戸時代文化元年(1804)、家数203、人数683人(甲斐国志)であったが、

現在(令和2年11月1日調査統計)、甲州市行政区(千野上、千野下)の合計は、

世帯数549、人口1268と約2倍になっている。注)外国人計6名含む。


甲斐守護第11代武田信成は、「塩山向嶽寺」開基で有名だが・・・、

嫡子武田信春と共に武田氏の本拠地を「千野館」へ遷した功績は大きい。

要約すると「第11代武田信成は一度も敗戦がなく、現笛吹市内の赤甲城

を本拠とするも、甲斐国内平定のため、諏訪に出陣中、赤甲城が落城、

”館”を焼失した後、中興の地は峡東の金鉱(後の黒川金山)開発を考慮

して「武田館」を「千野郷」へ遷した。

現在、地元では「信春館」跡として紹介。それが伝承である。

武田信成公は「千野館」で嫡子信春の元で逝去したが、千野館の北西に

「継統院」殿として祀られていたが・・・、あの”信玄”が「乾徳山恵林寺」を

菩提寺に定める時、信玄が「高祖」として崇めた二人、もう一人は信縄公

であったことが分かった。千野から恵林寺塔頭「継統院」へ遷したのだ!

往古”信玄”は名僧快川国師を恵林寺へ三顧の礼で迎える時、「継統院」

「長興院」の塔頭二軒を兼務させてまで崇めた信成公の「継統院」跡、

そして聖徳寺から位牌「長興院」殿浮山建邦と共に恵林寺塔頭に遷すと

あるが・・・、今はない。(恵林寺略史及び聖徳寺解説)

但し、信玄の死後、勝頼公は「長興院」を(元の現山梨市聖徳寺)に戻し、

信虎公を祀る塔頭「長光院」としたと云う。(恵林寺解説)

注)現在、恵林寺境内には「長光院」跡の石碑のみ”建つ”。

恵林寺も幾度か再建の歴史があり、明治の再興で不動産が売却された

ため・・・、今は跡形もなく(畑地)、地元では忘れられてしまっている。

武田氏代々でも「武田信成」のことが何故忘れられているのか!?

しかも信成公は「大蔵経寺」、「塩山向嶽寺」の開基として名が残るのに!

筆者は、実質的な甲斐国中興の祖と考察しているのだが・・・。

注)安芸国から甲斐国には一度も帰国していない武田氏第10代信武公が武田家「中興の祖」と!?


注)「千野」の「飛大神社」と臨済宗向嶽寺派の慈徳院他、昌寿院、応量寺、新省寺、

廃能智院、廃永念寺、廃常光院等があるが、本ブログ文字制限の関係で省略します。


往古、信成公と信春公が構えた「千野館」が信春公死後遺命で「慈徳院」となる!


信春公の遺命で「慈徳庵」を臨済宗向嶽寺の末寺として「慈徳院」を創建!

 


千野「慈徳院」は武田信春の館跡。応永20年(1413)に没した信春の遺命

により寺を建立し、「慈徳院」としたことに始まると云う。

信春公を埋葬したという石塔があった。(甲斐国志)

往古の「千野郷」は、現千野(塩山千野)付近に比定されている。


塩山千野の中心地、「武田信春館跡」は遺命で臨済宗向嶽寺派「慈徳院」。

千野字八桑田(はちかだ)に甲斐国第12代守護武田信春の館跡がある。

脇に国道(旧青梅街道)が走る。現在、武田信春の館跡は臨済宗向嶽寺

派「慈徳院」として現存する。

「信春公」は父「信成公」と共に現笛吹市赤甲城跡から千野に武田氏の

本拠を遷し、応永元年(1394)に没した父信成(法号は継統院)から甲斐

守護を継承して、同20年2月の乱によって千野館が陥落。萩原山柳沢に

築いたが、同年10月23日死去した(甲斐国志)。

「慈徳院」の境内主郭部は東西100m、南北約147mの長方形を呈し、

周囲に水路を巡らせている。注)北側の「荒井割」跡は今は綺麗な李の花

が咲く畑に変わるも、千野の有志により石標が残されている。

千矢の堀、内堀、鹿子屋敷、女中屋敷、千貫堀、馬場、橋立、馬渡り等、

平城跡を示す石標は有り難い。

遺構の残存状態は良くないが、北東隅には土塁の痕跡が残ると記される。

「千野」台地は、太古から人々が住みやすい台地として見られていたと

思われ、「獅子之前遺跡」と称して、重川右岸の河岸段丘(現国道411号

(青梅街道))に、縄文時代と平安時代の集落跡が発掘され、塩山市内

では、縄文遺跡は初めてと云われた。

現代の不動産立地で云うと「千野」は往古から見定められていて、優良な

住宅地として「東京の現成城学園の地形に似ている」と評価できる。


具に紹介すると、本ブログ制限には無理なので、千野の中心「千野館跡」

周辺と、「千野」の概要のみを主に紹介しました。


 


甲州市の北端:塩山「平沢」の郷を辿る!21-02

2021-02-01 | 山梨、里山の美しい四季!

初めて、甲州市塩山「平沢」を訪ねた!

昨一年間、ブログ発信した~旧「松里」を辿る~シリーズで、

「滑沢」を訪ねた時、そこで「坂脇峠」1190mが在あることを

知り、そのを越える「平沢」村に繋がることを知った!

その時は「滑沢」の取材だけにし、「平沢」歩きは延期した

昨年秋に取材し・・・、塩山「平沢」は、気になっていた!

「滑沢」集落は江戸時代に”鈴庫山等の鉱脈を探していた

山稼の人達が築いたのではないかと考察されたが・・・、

この「平沢」集落も、古くは同じように築かれたのでは!?

と・・・、一度、探訪して見ることにした

家内も同行すると言うので、運動を兼ねて自転車で往復!

もちろん、上りはキツい坂を歩いて、下りは楽々だった!

今号は甲州市に移住して以来、今も尚続く山梨の探訪!

”新甲州人”が初めて探訪した「塩山・平沢」を紹介します!


塩山玉宮の「平沢村」も甲州市域!自然のままの長閑な里であった!

甲州市(264.11k㎡)塩山玉宮平沢の長閑な里は、今も自然豊かな里!

この山の先に竹森山(=別名水晶山)がある。現塩山竹森1425番地に

現在、雨宮慎一氏所有の通称「水晶山」は、葡萄畑の中に「立入り禁止」

の標識と竹森水晶産地の概要を記す看板が表示されていると云う。

ここでは、歴史記録や伝承が残っている話だけを学ぶことにした。

標識には「特に明治5年(1872)、藤村紫郎知事の就任により開発が

進み、先代故雨宮大吉氏の代に盛んになり、「滑沢」と同じく・・・、

江戸時代には先陣の山稼が集まって、集落を形成したと考察できる!

特に明治5年以降、水晶山の開発許可が出て以来、平沢集落は盛ん

なったようだ!

何度も尋ねた福生里の北奥に位置~玉宮の「ザゼンソウ公園」の直ぐ、

上だったのに、今回、初めて尋ねることになった里山です!


この地に小倉山(954.8m)があり、山麓に「ザゼンソウ公園」がある。

園内の解説によると、名前の由来は「毎年2月頃、ザゼンソウは咲き、

その名の通り、仏炎包という大きな覆いの中小さな花が密集して咲く

姿が”僧が座禅をしているように見える”ことからです。また幸福を呼ぶ

縁起の良い花とも云われている。開花する時、発熱し自ら周囲の積雪

解かすため、早春にいち早く見ることができる。」※甲州市解説版記。

花好きの家内と運動を兼ねて何度も自転車(上り約3時間、下り1時間)

を漕いだことがある。JR塩山駅から路線バス「玉宮」行が運行されてる。

バス停から歩いて5分くらいなので、一度はバスで行ったこともあるが、

登山スタイルで行った時は、小倉山々頂の展望台に登ったこともある!

小倉山とザゼンソウと小倉山の大展望は、古いバックナンバーだが・・・、

「43)春一番、割って開花する甲州・玉宮のザゼン草!」2013年3月号、

同号「15)小倉山と玉宮ザゼン草群生地の里山ハイク」でも紹介している。

冠雪の南アルプスと富士山が一望の素晴らしい展望台を紹介しています!

写真もバチバチ撮った!自転車でも数回行った!往路は上り坂で約3時間、

帰路は殆ど下り坂!車も少ない・・・、自転車も1時間の快適サイクリング!


元気な家内と竹森へ!今、竹森は、”蛍の再生”を目指している!

背景にある「玉諸神社の旧鳥居」は、塩山竹森の中心地に至る目印です!

竹森の「玉諸神社」は、現「玉宮小学校」、「JA」等、玉宮の中心地にある。

朝、往路、その玉宮小学校の元気な登校途上の子供達にも出会いました!


地名「玉宮」の語源と云う現在の「玉諸神社」本殿・・・!

この「玉諸神社」は、古代より石器として用いられた水晶(六角柱状結晶)

を祭神とする神社で、上竹森と下竹森の境近くにあり、玉宮村の象徴で

もあった。江戸時代末期までは「玉宮神明神」と呼ばれ、神体が水晶の

玉石であることで知られている。室町時代中期の第14代甲斐守護武田

信重が「神垣にかかやく玉の光をそ身の行くすえにかけて頼まん」「跡垂

れし神の恵みも世にしるく玉の光の数そそひゆく」と、社記に伝えている。

当社、奥宮のご神体も水晶の結晶であった。勧請の寺記は不詳だが、

新羅三郎義光によって社殿が造営され、文安年間(1444~49)に、

第14代甲斐守護武田信重によって再建されたと云う。※伝社記。

江戸時代は、竹森、福生里(ふくおり)二村の鎮守。社中は1200坪。

東の竹森山(水晶山)の中腹に奥宮があった※記甲斐国志

※奥宮は、現在、雨宮氏により私有されているので、立入り禁止域。

考察すると、社記にある新羅三郎創建となれば、平安時代後期には

創建されていた由緒ある「玉宮明神」、現在の「玉諸神社」である!


玉宮の「高森院」、塩山「向嶽寺」の伝開山抜隊禅師が庵を開いた?

この「高森院」は、”抜隊禅師”が結んだ”庵”とは異なるが・・・、以下の項に

往時の庵跡は、現在は地名「寺平」のみで、平らな雑木林が残ると解説。

臨済宗向嶽寺派開祖とされる”抜隊得勝”は、俗世は「藤原氏とされる。

天平13年(1358)、出雲・雲樹寺の弧峯覚明(三光国師)に印可を受る。

塩山竹森に庵(向嶽庵)高森の草庵には不便もあり、弟子の周旋で・・・、

第11代甲斐守護武田信成の寄進を得て、旧蹟庵から移転し、康暦2年

1380)「塩山向嶽寺」を開き、臨済宗向嶽寺派の祖と位置づけられる。


塩山平沢の長閑な里の風景!中央に見える赤い屋根が「法泉禅寺」!

「平沢」は、この写真のように・・・、長閑な風景の郷である!

写真中央部に見える赤い屋根の建が、臨済宗向嶽寺派「法泉寺」

注)塩山向嶽寺の開祖と崇める抜隊得勝(ばっすいとくしょう)

禅師は、平沢地区域の現ざぜん草公園に至る道の途中手前に、

「①乞食岩、②休息石、③達磨石、④富士見石、⑤寺平「旧蹟

”庵”の跡は、平らな雑木林。現在の所有者は広瀬博氏」と・・・、

昭和52年4月玉宮の高森院檀徒一同の調査記録が掲示されている。


平沢集落民の菩提寺とされた臨済宗「法泉禅寺」の現在の様子・・・!

現在は無住のようで、建物の一部が児童図書館に使用されていた。

塩山平沢655は、「玉宮」終点のバス停から82m、徒歩1分

の位置に有り、「平沢」の中心拠点に相応しいと思った。


船宮神社の鳥居と本殿の全景!

甲州市塩山平沢113にある。随分、寂しいところに祀られていた。

御祭神は、瀬織津姫命。境内地816坪。氏子34戸。

明治12年の神社明細帳によると「勧請不詳、正徳卯年松平甲斐守検地

の時、免畑八畝二六歩寄附、享保元申年社宇再建。明治3年社領上地、

同7戌年3月、村社に定められる。また神社名は船宮神社」と記載される。

今は、あまり里人も訪ねないようだ・・・!?


船宮神社の本殿!

甲州市塩山平沢113の「船宮神社」は、以前「玉宮ざぜん公園」に行った時、

平沢地区の散策図に見たので、初めての山道を散策する感じで歩いて見

たが、わかり憎く、寂しい処にあった感じが印象に残っている。

この境内地に、「山梨県天然記念物指定の大ヒノキ」がある。


現在は殆ど使われることがないと言う、平沢村「公民館」・・・!

近所の方に伺うと「今は平沢公民館は使うことがない」と云う話であった。

有効利用できそうな建物に見えたが・・・!?どうやら、明治時代以降、

平沢地区が栄えて、塩山市に合併された頃、備えられ、昭和時代にも

立て替えられたようだが、今は時代を経て、集会は殆どなくなったよう!


「平沢」集落には、道祖神が3箇所ある。①「湯原」の二段縁石丸石3個

棒状石1個、②「板屋・上手組」二段縁石内丸石1個、③「清水」切妻唐

破風付石祠内丸石1個が、現在も年初に祀られ、里人に守られている。


「塩山・玉宮」は、古くから、石英の産出地で、「和名抄」でも「玉井郷」と

記載が見える処。石英、水晶等の職人がいち早く住み着いた処で

ないかと言われる。「玉諸神社」は「玉宮明神」と言い、ご神体に高さ

7尺、周り6尺8寸程の巨大水晶を祀ったことから名を「玉宮明神」、

後に「玉諸神社」としたと云う。奥宮は竹森山(水晶山)の中腹に鎮座。

今は、その山麓は、私有の葡萄畑になっていて立ち入り禁止地域だ!


大日本地名辞典では、「平沢村」は塩山市平沢、現甲州市塩山平沢。

福生里(ふくうり)の北、重川の支流、竹森川の上流域に位置し、市域

北端にあたる。元禄六年(1693)には「竹森村之内平沢」※枝郷

として年貢が割り付けられていて、同16年には「平沢村」と記される

ので、元禄11年幕府領になってから、一村として独立したと推定され

ている。

宝永2年(1705)甲府藩領、享保9年以降、幕府領になって家数33軒、

寺1,宝暦10年(1760)には、家数37軒、人数(人口)141人とされ、

山稼は、平沢、福生里、竹森、千野の四ヶ村入会の鈴庫山により、

用水は沢の水に依存したとある。山稼の他、煙草と養蚕があった。

文化年間(1804~1838)には、家数:41軒あり、江戸時代末期には

慶応4年(1868)、家数38軒と減少している。明治8年福生里と合併、

玉宮村となり、その後、変遷を経て、現在は甲州市塩山平沢になる。


※平沢の古老に伺うと、恐らく明治~大正期に大量の水晶を算出した

竹森水晶山の南麓で竹森川東岸の丘陵地にある縄文時代中期の集落

跡「乙木田遺跡」があるように、竹森山(水晶山)とも近く、大量の算出を

した時期もあるので、先祖の時代にはこの地に住み着いたのは山稼が

目当てだったのではないかと伺った。縄文時代中期の水晶加工として

石器工房の跡のようなものが見つかっているので、古代から里人が住

始めたのかも知れない。人類が住み始めた歴史のロマンは奥深い!

その謎は、永久に続くのだろう・・・!


 


甲州・旧「松里」を辿る⑪総集編(里山歩きを振り返る)20-12

2020-12-01 | 山梨、里山の美しい四季!

甲州・旧「松里」をつぶさに歩いて良かった・・・!!

不詳が故に謎も残って、生涯学習の宿題になったもの!

移住11周年で初めて訪ねた処や学んだものもあった!

何よりも・・・、新たに真摯な里人との出会いがあった!

2020年は甲州・「松里」をつぶさに歩いてみたことで・・・、

まさに「”人”が暮らす郷里の生活」の”心境”を学んだ!

今号は甲州・旧「松里」を歩いて見た総集編を紹介します。

代表的なものは、やはり「松里」の名を唯一伝える「松里

枯露柿」だとも痛感した!

旧「松里」の中心は、現地名も伝える「塩山三日市場」、

「塩山小屋敷」、「塩山藤木」辺りだと思われた・・・!

筆者に、不詳のため生涯学習課題として残されたもの、

特に、感じたものなどを要約・抜粋して紹介します。


「小屋敷」から”長閑な里”と尖鋭の「乾徳山」を臨む!

この尖鋭の「乾徳山」こそ、名刹「乾徳山恵林寺」の山号となっている!


この「乾徳山」は、名僧夢想国師が若い頃、岩窟修行をしたと伝わる!

「小屋敷」は、写真の右に見える恵林寺山から尾根続きに現在も「滑沢」

まで「塩山小屋敷字滑沢」と広範囲に小屋敷であることに驚いた・・・!


お茶処「一休庵」は”京都大好き”の筆者にとっての憩いのお茶所!

一休庵の創業者は、関西で修行て、”良い味”を楽しませてくれた・・・!

お茶(コーヒー)も美味しい!お茶一杯でも・・・、もてなしてくれる!

山梨県内で唯一・・・!あの京都の寺巡りで味わえる唯一の”お茶処”です!

経営者の八木さん夫婦と星河さんには、とにかくコロナ渦を乗り越えて、

頑張り続けて!・・・と、恵林寺(仏)の御利益を祈るのみ・・・!


長閑な「松里」から臨む「冠雪の富士」は癒やしの風景である・・・!

富士山は、国民の祈りの山、癒やしの山・・・、崇高な山・・・!

筆者は若い頃から登山が好きで、この風景を何度眺めたことか・・・!?

この風景が気に入っていたせいか、今は、朝ベッドで目覚めると・・・、

部屋から、真正面に、富士山を眺めている処に暮らしている!

それだけではない、恐らく、日本で唯一、部屋から「日本百名山が七坐」

も望める処に移住して11周年・・・!ヒッソリ(黙々)と暮らしています!


現甲州市には、「松里」と云う地名は・・・、今は”ない”。

注)本ブログでは、甲州・旧「松里」と称している。

「松里」・・・、地名の起点は「明治時代に『松里村』があったこと」による。

※塩山市史によると、平安時代「和名抄」の「於曽鄕」にもあったようだ。

この於曽鄕の範囲は、旧塩山町、松里、日下部、玉宮、神金、大藤、奥野田

の諸村で、笛吹川以東で重川以北の一帯であると記される。

その後、平安末期から、荘園の発達に伴い、この地域は「牧荘」に含まれた。

・・・と記されるも・・・、随分、昔から「松里」の名は馴染みがあったようだ!

明治8年2月3日、現塩山・上井尻、三日市場、小屋敷、藤木の各村が合併

して「松里村」が誕生。明治23年に下藤木村が合併した。

そして明治41年、旧柚木村の一部であった「滑沢」が加わった。

この時の「松里村」が、今は地名がないものの現在に引き継がれているよう!

村名は、氏神の「松尾神社」からとったもので、残念ながら、昭和29年(1954)、

塩山町(塩山市⇒後に現甲州市)合併したことで、消滅したと言う。

今は、往時の地元農家が、銘品「松里の枯露柿」として、唯一「松里」の名を

継承している。銘品「松里の枯露柿」は、今もブランド品として継がれている。

何故、響きの良い「松里」という地名が消え去ったのか・・・!?忍ぶしかない。


2020年の柿畑(甲州百目柿)は、豊作ではないようだが・・・!

嘗て、「夢想国師の乾徳山岩窟修行の伝説」を学習したことがあるが・・・、

~夢想国師が乾徳山修行で”命の糧”にした乾し柿は”アマンドウ”だった!

”アマンドウ”と云う小柿はいったいどんな柿か?徹底的に調べて見ると、

山梨地方の”方言”であった。標準語は「豆柿」。山梨の歴史書「甲斐国志」

に「信州の小柿は干して食す」と記されているのに、山梨県の地元では

見逃したのであろうと考察している。現在まで気づかないできたようだ。

その結果、解ったことは、松里の殆どの柿農家で「枯露柿」を栽培するのに、

今も「甲州百匁柿」なる柿の木の台木が殆ど自生原種の”アマンドウ”で、

あったので、何故、松里の枯露柿が銘品(美味、滋味)なのか解ってきた。

※山梨県(往時は甲斐国)の殆どが武田信玄推奨の蜂屋柿を移入して改良

されたと云われるが、筆者は「徳和山吉祥寺略記」の「夢想国師と毘沙門天」

に伝わる恵林寺を開山した夢想国師が若い頃(19歳頃)、乾徳山で岩窟修行

した。修行中に出会って、初の弟子にした「道満」が運んだ滋味「乾し柿伝説」

があったので、その乾し柿を辿って見ると、筆者は「松里の銘品枯露柿」の

滋味は恵林寺を開山した夢想国師の導きであったと考察したのだ。

従って、松里の民に奨励したのは、恵林寺開基の二階堂道蘊となり、1330年

以前となると考察している。


この「甲州百匁柿」は、とにかく大きく、「枯露柿」にすると超ウマい・・・!

枯露柿の作り方は、移住して直ぐ、地元の方に教えて頂き、今でも、

我が家の好物になっている!最近は首都圏に住んでい娘家族の処でも

吊るし干しして作っている。家内が教えて作っているが、娘夫婦とも気に

入ってくれているようで、もう数年間、暮れの定番好物になっている。

干してから約40日間を要するが、面白いのは、吊している時のもみほぐし

と、平置きにして、形を整えながら、「コロコロ」と裏返すことだ。

この「コロコロ」から『枯露柿』と言う名前になったと言う話もあるようだ。


銘品「松里の枯露柿」になる収穫の柿の山・・・!小屋敷の町田家にて!

この「甲州百匁柿」は、近年になって品種改良されたようだが、渋柿でも

形は良く、大きい。豊臣時代、甲府藩主であった浅野公が、現在の広島

(安芸藩)へ転封(転勤)される時、この柿を気に入って広島へ移入して、

現在は「西条柿」として、重宝されていると云う。


本場「松里の枯露柿」の生産中のあんぽ柿・・・!

吊るし初めて、約20日間くらい経つと「あんぽ柿」状態になる。

この「あんぽ柿」も、とても柔らかく甘くて美味しい。少量だとすぐなくなる。

農家の方は、食べるのを我慢して、「平干しにして、コロコロと形を整え、

『枯露柿』にして、約40日後に出荷する。」大変な仕事だが・・・。美味しい!

もし、首都圏に住む方で興味がわけば、コロナ渦が治まるまで待って、

JR塩山駅の北口前にある甲州市重要文化財「甘草屋敷」にて、11月頃、

「枯露柿」の作り方を教えて貰えるので、参加して見たら如何ですか?

※参加費は以前は500円程度(干し柿4個付)でしたが、希望の方は、

甲州市役所のネット情報を直接、確かめて下さい。


「甲州百匁柿」で「松里の枯露柿」生産で有名な柿農家「岩波農園」!

この枯露柿農家「岩波農園」は、今は甲州市の観光には欠かせないコース

なっています。

□恵林寺拝観後、最寄りにあり、そして花の放光寺を巡るのお薦めです。


具体的には、旧「松里を辿る」バックナンバーを読んで頂くしかないが・・・、

①恵林寺には、嘗て塔頭が13軒もあったらしいが、今は、廃寺の処が

多い。特に甲斐国で尊敬に値する「武田信成」※あの信玄が高祖と崇敬

し、恵林寺を菩提寺にした時、信成公と信縄公を供養する特別の塔頭を

建立したのに・・・、今はすっかり忘れられていて旧蹟の場所さえ知られない。

特に「信成公を祀る『継統院』が史蹟も残されていない」など、気になる処

もあったが残念と云うのみ・・・!注)「塩山向嶽寺」も武田信成公の開基

と言うに・・・!往古、「継統院」は、千野郷より武田信玄が恵林寺に遷し、

快川国師に兼帯させたのに・・・と思うと忍びないが・・・。

②恵林寺の塔頭は、往時、寺領地であった現塩山三日市場にも二箇所

「精神庵」、「獅子吼庵」があったが、何れも廃寺になっている・・・。

残念ながら、今は・・・、庵跡を訪ねる事も叶わない。

特に「三日市場」には、甲斐国志に「廃桂林寺」があったと記されるも・・・、

地元の物知りに伺っても「名前すら、わからない」とのことで、古文献等を

博学にて学ぶ筆者には、生涯学習の課題になるものと考えている。

③甲州市に移住して11周年を過ぎたが、初めて「滑沢」を訪ねて見た。

 甲州市の最北端でありながら、今は里人は住まず、まるで山間地の別荘

 地帯の様相。とても不便な山間地にあるが、何故、甲州市に含まれたか

 が関心あって調べて見ると、何と「住居表示」も「甲州市塩山小屋敷滑沢」

 であることは、時代考証再検討の余地があり、小屋敷に含まれたのは、

 中世、武田時代、武田信実に治領地として守護させた名残ではないかと

 見ている。その先(現川浦溫泉周辺)は、武田二四将の一人「山県昌景」

 を配置して、統治させている。以上から、武田時代の名残とみている。

④「松里」の地名であるが、塩山市史(※編纂は昭和時代)によると・・・、

  平安時代、「和名抄」で既に「於曽鄕」の中に入っていると記される。

  旧塩山町、松里、日下部、玉宮、神金、大藤、奥野田の諸村で、笛吹川

  以東の重川一帯である。・・・と記されるも時代考証は一考を要する。

  注)必ずしも、明治8年の諸村合併による「松里村」が起点か・・・?

  再考察を要する。何故なら、枯露柿は必ずしも武田信玄の時代が起源

  ではなく、恵林寺開山の夢想国師を迎えるために、二階堂道蘊が奨励

  した可能性もあるからだ・・・!

⑤「下井尻」だが、古文献によると、「下の諏訪」と呼ばれた「鈴木明神」は、

  現在、地元で訪ねるも、誰も知らないと云われた。現在はないらしいが、

  せめて、跡地やら、伝説くらいは探せると良いので、課題として残す!

  等々、書き切れないので、この程度にしておく。・・・生涯学習は続きます。


清々しい旅、楽しい旅・・・、散策とは、”ひたすらに尋ね歩く”ことなり・・・!

歩いたからこそ・・・、初めて出会う人、初めて巡り会えるものもあり・・・!

筆者は、予め、文献で調べて歩くが、誰に尋ねても解らないものもあるが

・・・、それは、里人に長い年月が経って忘れられたもの! もったいない

もあるが、里人に感心が薄れた結果であろうと思うことにしている!


「松里を辿る」シリーズバックナンバーは:

①明治時代、現甲州市には「松里」と名付けられた豊かな郷があった!

  2020年2月号:新シリーズは、松里の語源、「松尾神社」を紹介。

②3月号:「小屋敷」の「乾徳山恵林寺」

③4月号:「〃」「桜の恵林寺」とお茶と食事処「一休庵」

④5月号:「藤木」の里と花の「放光寺」

⑤6月号:北西端の里「下柚木」

⑥7月号:北西端の山里「滑沢」

⑦8月号:「三日市場」

⑧9月号:「三日市場②」

⑨10月号:「三日市場③武士原」を歩く。

⑩11月号:「下井尻」

⑪12月号:「総集編」⇒最終章。次は2022年新年号。初詣に行けそうです。

・・・紹介していますので、恐縮ですが、詳しくはバックナンバーでご覧下さい。

~Blog  goo~「新甲州人が探訪する山梨の魅力再発見」の検索は・・・、

アドレス:http://blog.goo.ne.jp/yssoho

検索は・・・、「新甲州人」または「山梨の魅力再発見」でも見つかると思います。

バックナンバーは、ブログ右枠欄の下段に⑪、⑩、⑨・・・と並び、

更に>>もっと見るクリックして頂くと、松里シリーズの最上段に①が、

ご覧頂けます。