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大蔵経寺山南麓、古代甲斐国の歴史ロマンを辿る!第9章~行基伝説の廃鎮目寺跡!18-05

2018-05-01 | 山梨、往古の歴史と伝説!

大蔵経寺山南麓に眠る、古代甲斐国の歴史ロマンを辿る!

第9章:名僧行基伝説の~廃・瑠璃山鎮目寺~を紹介します!

第1章~第9章までを辿ると、古代甲斐国の名刹寺院配置は現大蔵経寺山に

現松本山大蔵経寺の旧蹟:彌勒堂~彌勒実相院~青獅子山松本寺と菩提山

長谷寺が伝行基開基として建立されていることが分かる。

伝行基開基の寺院が春日居国府の配置を中心に配置されたと見ると・・・、

甲斐国東山の柏尾山大善寺、鬼門の位置に裂石山雲峰寺が、何れも寺伝だが

伝行基開基で養老~天平年間の建立と伝えられるので改めて論拠が深まる。

畿内に事例もあるようだが、特に山岳寺院の役割は戦略的な立地配置と見る

ことできるので後の天台か真言寺院として戦略的に配置された寺院と考察

して良いと思われるが、その後、中世には転宗・転派している寺院も多い。 


 今号は、行基伝説に所縁のある「廃瑠璃山鎮目寺」を辿る!


廃・瑠璃山鎮目寺跡は「やまなしの歴史文化公園」として遺されている。


春日居鎮目(しずめ)の瑠璃山鎮目寺(ちんもくじ)跡・・・。 

古代甲斐国の構築において、甲斐国の中心拠点となる現大蔵経寺山立地

条件を如何に重視していたかを考察できる。

伝行基開基の寺院は養老6年彌勒堂~彌勒実相院~青獅子山松本寺と、

菩提山長谷寺などだが、何れも甲斐国府の開府計画に基づき戦略的配置

以て建立された名刹であったと云えるのである。

そこに、現大蔵経寺山南麓に沿って「曹洞宗龍沢山保雲寺」が現存するが、

これは室町時代、嘉吉元年(1444)創建にて、テーマとする伝行基時代の

建立ではないので、自習NOTEの記載は省略する

「瑠璃山鎮目寺」は、甲斐国志には「曹洞宗龍沢山本寺末」と記す。

本テーマの鎮目寺の本寺は「曹洞宗龍沢山保雲寺」であるので、ここでは

詳細は省略するが、以下に概要だけを紹介します。 ご容赦下さい!


廃・瑠璃山鎮目寺跡は「やまなしの歴史文化公園」として遺されている。

山梨県春日居町の解説版によると、鎮目寺(ちんもくじ)跡・・・、

曹洞宗で正式名称は「瑠璃山鎮目寺」。明治5年(1874)に廃寺となる。

養老年間(717~724)に僧行基が一本の柏の木から「3躰の薬師如来」像

彫り、そのうち1体を鎮目寺(当地鎮目)に、次の1体を大善寺(勝沼町)に、

次ぎの1体を瑜伽寺(八代町)に納めたと伝えられている。

明治時代まで鎮目寺では「お薬師さん」の祭も行われていた。

鎮目寺に安置れていた仏像等の一部は現在、保雲寺で保管されている。

注)薬師如来像は、保雲寺首座寮に安置されたと記録が残る。本堂は慶長

11年焼失後、その後再建されて、梁間5間、惣門9尺×6尺 、東司一箇所、

黒印寺中150坪。墓石は惟康親王と云われるが、法名年月日は不詳で、

未確認。鎌倉時代に執権北条氏から将軍職を追われた惟康親王が武田家

を頼り、この鎮目寺に暫く滞在したとも伝わる。

また江戸時代に佐渡奉行鎮目惟明(しずめこれあき)はこの地の出身と

云われ、惟明の父、惟真は信玄・勝頼に仕えた武将と云われ、武田家

滅亡で隠居したと云う。その後、惟明は徳川家に仕え、武田遺臣である

大久保長安が務めた佐渡の金山奉行も任されていた。惟明の墓は佐渡に

あるが、父惟真は鎮目寺に葬られたと伝わる。因みに惟真の妻は甘利

虎康の娘と伝わっている。鎮目寺棟札に「虎康」と記されていると云う。


 往古の墓碑であることを伺わせるが、刻字が読めるのは江戸時代の墓石。 


廃・瑠璃山鎮目寺は、本寺の保雲寺に寺伝として伝わるのは、

養老中、行基柏樹一木を以て三尊を刻む。

当寺、大善寺、瑜伽寺に安置とあるので伝行基開基とは云わない

ようだが、伝行基所縁の寺院とするは、間違いではないであろう。

従って本寺保雲寺より古く創建された可能性もあるが解析は不詳。

何故なら、後世になって伝行基開基寺院には薬師如来像や彌勒

菩薩像等を刻んで安置された謂われを以て伝行基開基の名刹を

競った寺院も見えるからである。(YS記)


鎮目寺跡のことを・・・、

甲斐国志」等で調べて見ると・・・、

保雲寺末黒印百五十坪。本尊は薬師如来。伝本州三薬師の一つ。

養老中行基柏樹一木を以て三尊を刻む。柏尾の大善寺、永井の瑜伽寺、

当寺などと云う。勅願あり、今は焼失。武田家の棟札付録に記す。

更に春日居町誌によると・・・、

瑠璃山鎮目寺(明治7年廃寺となる→明治5年太政官布告により無縁無檀

につき廃寺)宗派:曹洞宗、所在(旧域):鎮目小字寺之前、住職:無住、

団信徒:なし、無縁、無檀。

本尊:薬師如来(身丈一尺)、脇立:日光・月光菩薩(御身丈共に7寸)

創建:養老年間(717~723年の間)に創建され、僧行基(後の行基

大菩薩)により、柏の一樹を以て3躰の薬師如来を彫り、1躰を鎮目寺に、

次の1躰を柏尾山大善寺に、次の1躰を永井の瑜伽寺に納めたと伝わる。

注)但し、永井の瑜伽寺寺伝には、行基前になるが、霊亀元年(715)

無音律師創建、本尊は薬師如来、大善寺、長谷寺を三薬師とするとある。

詳しく寺伝を重ねると、各寺院における寺伝と異なるものも見える。

瑜伽寺と長谷寺に薬師如来が納められたと云う点も検証中である。

往古の伝説は寺伝を合わせると一致するものが少ないので難題である。


 養老年間の跡は不詳だが、栄えた江戸時代(文化年間)の墓石は見える!


薬師第一」の刻字年は不詳。      中興貫通和尚の墓石も見える。

 


仏教思想に基づく政治体制の構築を図った聖武天皇御代・・・、

天平年間、僧行基は奈良朝廷に登用され「大僧正」の位を賜る。

奈良時代天平年間、聖武天皇御代、朝廷に登用された僧行基が東大寺大仏

(盧舎那仏)建立に成功したこともあり最高位の「大僧正」を賜り、主要国の

統治体制整備のため、朝廷は日本国の主要国に「国府」を配置し、「国府」

中心として、仏教思想普及のための修験道場等山岳寺院の建立を促し、

国分寺、国分尼寺の建立の詔を発布した天平時代に至る。

朝廷は僧行基の力を利用して朝廷の力とし、特に行基の資金調達ノウハウ

活用して寺院開基を推進したとも云われている。

古代甲斐国にも定かではないが地元豪族などの支援も得て現大蔵経寺山

伝行基開基の養老6年(711)彌勒堂~彌勒実相院~靑獅子山松本寺

(現松本山大蔵経寺)、伝同養老6年開基の菩提山長谷寺などが建立され

のかもしれないが、古文献等の証しが見当たらないので定かではない。

第5章、第6章の大蔵経寺編、第8章菩提山長谷寺編で尋ねてきたが、

何れ春日居に甲斐国府が開かれたこと関連して、伝行基開基の寺院は

戦略的に配置された立地条件にあると考察できるので終章で整理したい。

YS記)往古の国府を警護したと考察する鎮目軍団は山梨岡神社に駐屯した

と伝わるが、筆者は、瑠璃山鎮目寺(注)開基開山は不詳だが、筆者は伝行基

の薬師如来安置が伝わるので、春日居に国府が置かれた頃、行基菩薩の采配

にて菩提山長谷寺の里寺のような戦略的配置で創建された可能性もあり検証

を要す。そして、室町時代、曹洞宗龍沢山保雲寺が創建された時、「鎮目寺」は、

転派して曹洞宗保雲寺末寺となったのではないかと勝手ながら想像している。

この点は、機会を見て再検証する予定だが、もし造詣あらば教えを乞いたい。


「龍沢山保雲寺」は、先に紹介した御室山山麓に位置し、

写真中央の背後には、伝行基開基の菩提山長谷寺がある。

廃鎮目寺も伝行基時代所縁の寺院跡だとすると、もしかしたら、

当初は後の一時代は天台寺院として、山梨岡神社境内に駐屯

したと伝わる鎮目軍団とともに「国府」の補完寺院であったの

かもしれないと想像もしている。古代甲斐国最古の寺院跡と

云われる「寺本廃寺」が「天台寺院」だったと云われる由縁と

同様に解釈をできるものと見ている。

将来は、確かな解明がなされることを期待したい。


「龍沢山保雲寺の参道」往時は如何に広い境内地であったかが想像できる。

この写真で見ると、参道の直線上手前にあたる場所に旧蹟鎮目寺跡の碑がある。


山梨県春日居町の解説版によると・・・、

曹洞宗で正式名称は龍沢山保雲寺。嘉吉元年(1441)に創建されたと云う。

戦国時代、江戸時代に二度の火災にあい、武田家、徳川家より賜った文書類

焼失した。

鎮目寺が廃寺された時に移された木像薬師如来像・木像日光・月光菩薩像等

も安置する。また、墓地内には古墳が一基確認されている。 ・・・と記す。


龍沢山保雲寺の貫録の「山門」。その先に「中門」が見える。 


龍沢山保雲寺の境内は、今も静けさの中に”荘厳な気”が宿る!